トップページはこちら
☆当サイトは令和2(2020)年3月にsitemixより現URLへ移転しています。旧URL(sitemix)からも自動でこちらには 飛びますが旧サーバーはダウンしている場合もありますのでブックマークの付け替えをお願いします☆ なおこの本文掲載ページは長いので読みこみが遅くなり、ページ不存在と勘違いしてしまうこともありえます。 ですのでトップページをブックマークすることもお勧めします。 更新情報 令和4(2022)年は諸事情により本来予定していた更新を行うことができず、 やや残念な一年ではあったが年末まで作業するなどして今後のベースになる論考(やや特殊な内容を含む)は出せたと考えている。 令和5(2023)年は通常の更新ができればという希望は持っているので、引き続き御愛読頂ければ幸いである。 ◆令和5.09.30~5.10.06 更新:主な更新内容:ページ新設 37章の謎その1「『古国』の辰」の 範囲・日本との関係とは ページ新設 契丹古伝関連文献(戦前版) /本文解説ページ(5章・18章・30章・40章など)・関連文献(従来版)等にも若干の加筆 ◆令和5.05.19 更新:本文解説(7章・38章)や関連文献ページ等に若干の加筆 ☆☆令和5.02.14更新 主な更新内容:ページ新設 「天照大神の五男神」と 「契丹古伝11~15章『汗美須銍』各章の 神子」との関係について(暫定版) (契丹古伝11~15章に関する新解釈) ☆☆令和4.12.27更新 主な更新内容:ページ新設 檀君問題~日本の帝の本宗国の権利を侵す半島人の不当な主張について ☆☆☆令和4.11.15更新(重要更新2つ) 主な更新内容:①ページ新設 弥生時代の開始と殷朝の敗北との関連~はたして弥生人は列島発祥なのか[他ページと関連性が大きいため重要] ②ページ新設 東大神族の本宗家の権利は 結局日本の帝が保有 ☆令和4.07.28更新 主な更新内容:ページ新設 契丹古伝の東族語「辰沄」は 日本・沖縄共通古語「シナ(シノ)」と同じで「太陽」もしくは「光」を意味する その他、「契丹古伝関連文献(解釈書等)」に加筆(月刊ムー関連) ◆令和4.01.28更新 主な更新内容:ページ新設 コラム「解釈」なのか「原文修正」なのか その他 ☆令和4.01.02更新 主な更新内容:「契丹古伝関連文献(解釈書等)」に加筆(含む附属ページ増設) その他、「契丹古伝おもしろ話」ページ新設・本文解説に若干の加筆(25・30章など)・「契丹古伝に関するデマ」に若干の加筆 ☆令和3.12.01更新:1章・2章について若干細かい説明を掲載、その他若干の加筆(19章など) ☆令和3.11.12更新 主な更新内容:ページ2枚新設 「中国語と日本語の関係について(言語論)」・「契丹古伝に関するデマ」 ☆☆令和3.11.11更新(大更新) 主な更新内容:ページ約10枚新設 「契丹古伝の始祖神話と日本神話(神話論)」←アクセスはこちらから ☆☆令和3.04.09更新(大更新) 主な更新内容:ページ新設「 その他、督坑賁國密矩篇 内 小ページ2枚新設(28章原文精読/大陸残留東族 ☆令和3.03.28更新(小更新) 主な更新内容:「契丹古伝関連文献(解釈書等)」に加筆・ページ新設「4章詳説(東族共通用語論)」 令和2.12.15更新(大更新) ページ増設及び本文改訂 (久々の更新・ページ追加&本文説明ページ改訂) 主な更新内容:別ページ追加(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈))←アクセスはこちらから ★ページ増設ができた一方で、諸事情により従前のページの更新についてはなかなか思うように進められない点、ご容赦頂きたい。 |
契丹古伝とは? 契丹(きったん)といえば、10世紀に今のモンゴル一帯に勢力を張った存在で、宋を圧迫した北方民族というイメージをもつ人が多そうだ(モンゴル帝国(元)より前の話である。) ただ、そのルーツはもう少し東寄りであって、かつては匈奴(きょうど)の東方に位置していた。 それだけに、契丹は東アジアの諸民族との関係が深い民族といえる。 ただし注意を要する点がある。実は当サイトで扱っている『契丹古伝』は、契丹の単純な古伝ではない。 契丹古伝は、もともと題名を欠く秘本であり、便宜的名称である「契丹古伝」の名がしばしば誤解を招いている。契丹民族固有の神話は別に存在しており、それとは異なる始祖伝説がここでは語られているのだ。 この書物は、契丹王家の遠い祖先にあたる人たちの悠久の昔の物語として、資料を発掘して編纂したという形式をとる。 というのも契丹王家がある日、意味不明で解読不能な神秘的な詩を発見した際に、それが民族の遠い根源と何らかの関連性を有するのではないかとの予想を抱きながらも 学者にさえその知識がないため、せめてもの措置として、関連しそうな史料を王家の関係者が採録してみた(その内容は古い東夷の物語)という 体裁をとる書物なのである。 そのため、その史料のほとんどが東アジア(日本を含む)について述べたものであり、それゆえ、 紀元前の日本の姿をも垣間見ることができる。 (従って、契丹ローカルな部分はむしろ少なく、「東族古伝」という別名(これも浜名の命名)の方がふさわしい面がある。) また本書には、神話部分を含め、多くの古語が散りばめられているが、それらが不思議にも日本神話の人名を彷彿とさせたり、 日本語の古語を思わせる単語であったりするのも興味深い点である。 契丹古伝発見の経緯の詳細についてはこちらを参照。 契丹古伝関連文献(解釈書等)についてはこちらを参照(ただし暫定版)。 契丹古伝は、歴史愛好者からはいわゆる古史古伝といわれる非正規の歴史書類に分類されて扱われている。 その場合、古史古伝の中でも特にマイナーな海外系史書とされるため、『歴史読本』などの古史古伝 特集などにおいても簡略な扱いをされてきた。が、東族の古語・神名等の資料としての価値だけでも、実は一般に思われている よりは大きなものがあるように思われる。 また契丹古伝は、浜名寛祐氏が日露戦争の軍務遂行中に満州の奉天所在の某寺で写し取ったという「某陵の秘物」とされるが、 その点に疑いがかけられ、かつての日本の大陸進出という時代背景で成立したものと見られがちな存在ではある。 しかし、その内容は示唆に富み、現代においてもその内容は色あせるどころか、一層説得力を増している。 これは、日本古代史の解明の大きな鍵となるばかりでなく、現代の日本や世界にも不思議な光を投げかける ものといえる。 もし、これが明治期に軍部等により作出されたものであるとすれば、相当な秘伝・古伝に通じたものが 大変な知力を駆使して作ったものといわざるをえない。それほど貴重な情報が一見目立たない形で含まれているものなの である。 しかし、その内容が理解困難であることから、自分の史観や文献解釈の単なる補強材料として用いられたり、 あるいは理解困難な部分を「どうとでも解釈できる」ことにしてしまいそれをトンデモ本的な想像力 で補ってしまう解釈が横行し、本古伝の真意を真正面から解釈しようとするものはほとんどない。 しかし、当古伝は、「作り話を延々と講じる」タイプの文献とは明らかに異なり、簡潔な中にも 深遠な内容を有しており、他の文献に引きづられることのない正攻法の解釈が必要である。 このサイトは、その一端をご覧にいれるように努めるものである。 ※当サイトは工事中です 読み辛い点は御諒解願います。 凡例 原文の旧字体は、読み下し文では原則として新字体に改めたが、一部元のままにしてあるものもある。 「読み下し文の口語直訳(の様なもの)」は、読み下しの文語調に馴染みがない方のために、 読み下しの雰囲気を感じ取って頂くため、やや舌足らずの日本語になるのを承知の上で掲載したものである。 これは、(一般に見られる)饒舌な口語訳は、訳というより主観的解釈の披露の場となってしまい 、原文のニュアンスが覆い隠されてしまうことになるので、当古伝の正確な解釈をする上で妨げとなる ことがあるからである。 読み下し文では旧仮名遣いを使用し、口語訳では現代仮名遣いを使用している。 当サイトは契丹古伝全文とその読み下し文、その口語直訳を掲載し、一部に解説を付したものであり、そのうち読み下しは、浜名氏のものに従った部分が多いが、句読点など細部は多く改めた。 また、独自に読み下した部分もある。 それゆえ、口語訳を含め、無断引用・転載・出版等を禁じます。(契丹古伝ではないが、以前筆者に よる漢文読み下し・現代語訳を無断で出版した方がいた。このようなことは固くお断りします。) |
第1章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
(略意)伝にはこうある。神は、光輝く体をお持ちの、いわく言い難いものであり、これを形容できる言い方がない*。しかし鏡はこれをよく
かたどることができる。そこで鏡を称して日神体(日神の御姿という意味の言葉)で呼ぶが、その
読みは *この部分はより正確なニュアンスを出すよう改めた。詳しくは こちら(令和3.12.01掲載)。 鏡があったにしても、神がいわく言い難いもので形容できない点は全く不変である。 外形的な姿という「かたどり」の面で鏡は近似しているために、鏡を日の神の形をしているものとして「かかみ」 と呼ぶという趣旨なので、あくまでこの呼称は「かたどり(象形)」についてのものである点、注意されたい。 (解説1)ここでは、神の姿を鏡がよく現すということと、鏡を「日神体」を意味する「 1、神は、日神(太陽神)の性格をもっている。 2、本古伝のいう「東族(第21章参照)」の古語では鏡を「 (注) まず、(1)「戞珂旻」という漢字をあてた際に 「戞珂旻という漢字自体の読み」としてどのような発音がそこで使われていたか ということ、及び、 (2)そもそも、「鏡を意味する東族古語の発音」と「(1)の発音」とが近似するがゆえに「戞珂旻という文字」があてら れた訳だが、では、その東族古語の正確な発音は何か、の2点である。 と、問題提起してはみたものの、(1)(2)を正確に特定することは実は困難である。 なぜなら、当古伝編纂の元資料は契丹のものとは限らず、その成立時期も不明であるからである。 それでも、戞珂旻は、「かかみ」に近い音を表したということは否定できないであろう。 本古伝ではこのように、東族古語が日本語に近いものではないかという考えから、一つの漢字に一つのカナを振り仮名として付けるのが 浜名氏以来の通例となっている(無論例外はある)。これは当古伝独特の便宜的措置として、理解戴きたい。 (解説2)ところで、後出のように東族古語で「 この点に関して、 「日」には、日本語でも「 「神」は、日本語で「かみ」であるが、宇佐神宮の神官の 「体」を意味する語としては、日本語の身(「み」、古語で「む」)がある。一方旻の読みは正確には 特定できない(「み」か「む」か、あるいは中間的な音かもしれない)が、いずれにしても日本語の 「身(み・む)」に近似した音であろう。 そうすると、東族古語はまさに日本語に極めて近い語彙をもつ言葉ではないかという推理ができるわけ である。 (また、「かがみ」の語源が通常いわれるような「影見」ではなく「日の神の身体」という意味 ではないかという、興味深い考察をすることができる。) (本サイトにおいて、契丹古伝発見・解説者の浜名寛祐氏の著書は 原則として次のように略号表記する。 浜名寛祐 詳解(または浜名詳解または詳解):浜名寛祐『契丹古伝詳解』東大古族学会 1934年 浜名寛祐 遡源(または浜名遡源または遡源):浜名寛祐『日韓正宗遡源』喜文堂書店 1926年 もしくはその復刻版である『神頌 契丹古伝』八幡書店 2001年) ※契丹古伝の章立ては浜名氏が付加したものだが、便宜上、本稿でも章の分け方・数字は氏のものを使用する。ただし章題は採用しない。原文は本ページ に掲載した(浜名氏の上記本に準拠)。読み下しや、東族固有語の読みには本稿筆者独自の部分もある。 |
第2章 | ||||||
|
||||||
この第2章では、日祖が日孫を出産する様子が語られている。そのポイントは以下の(解説1)・(解説2)の通りである。 (注)「澡する」とは、 (注)「 (解説1) ここでは、まず、この この名の内「 (2)また、「 このようなことから、浜名氏はこの「日祖」即ち天照大神と同一神と断定している。この点は別途神話論で考察する。 次に、この女神の名が9音節という多音節であり、中国・韓国の人名・神名と大きく異なる特徴をもつ点が注目に値する。 このような多音節の名称は古事記や日本書紀の神名を髣髴とさせることは確かである。 (解説2) ところで、沐浴する女神が日の御子的存在を生むというストーリーは、田中勝也氏が指摘するようにいわゆる羲和伝説と類似のものである(詳細は機会を改めたい。殷の「10個の太陽」の観念とも関係してくる話であろう)。 恐らくこれはかなり古い時期に成立した神話の型であって、広い範囲に流布していたものが断片的に残されているのであろう。 日本の天照大神も女神であるため契丹古伝の始祖神と類似している点が注目に値する(浜名氏は当然のように同一神としている。神話論参照)。 ところが、日本の場合天照大神男神論(ヒルメは男性太陽神の妻にすぎないとするもの) もあり、それなりに有力となっている(松前健氏、大和岩雄氏などの日光感精説)。 契丹古伝はいわばそれに対する強力な反対意見を提供しているといえる。 というのも、日祖がただの太陽神の妻に過ぎないとすれば、 日祖という名を持っていることと矛盾することになるからである。 もちろん屁理屈を建てれば矛盾しないと無理やりいえるかもしれないけれども、 契丹古伝の日祖が始祖女神の性格を有することは浜名寛祐氏以来の通説で、田中勝也氏 の神話論もこれを前提としていることはもちろんである。 自分も当然ながらこれに賛成であり、この点については大きな自信をもっているので、まず 安心して信じて頂いて結構かと思う。 ここでボタンのかけ違いのようなことが起きると、契丹古伝を読むメリットのかなりの部分が 損なわれることになると考えている。 詳しくは神話論を参照されたい。 また、「日祖」が沐浴する地「 |
第3章 | |||||||||
|
|||||||||
ここでは、日祖という女神から生まれた御子(なぜ「孫」なのかは別途考察する)
が鶏に乗って降臨するさまが語られている。(どこからどこに降臨したかは論点となる。) 「鳥にのって神が降臨する」というのは東アジアの非漢民族にはよく見られる観念であり、 鳥越憲三郎氏は「倭族」の特徴としているほどである。 次に、 次に、日孫を「 高天使鶏については別途考察するが、鶏を意味する古語「かけ」との関係が考えられる。 辰沄繾翅報については、(詳しくは後述)他の章から推察すると「翅報」は「皇」、「繾」は「国」を意味し、 そして「辰」が「東」、「沄」が「大」を意味することになる。 ただこれには問題があって、「辰沄」はひとかたまりの語として頻繁に使われる(例「辰沄固朗」)だけでなく、 ○○辰沄氏、のように氏の名称にも使われる(しかも左のように末尾に置いて使われている)。 これは、 単に辰沄が「東の大きな」という形容詞ではないことを示唆する。そしてこれは おそらく「東の大いなるもの」ということで「(東天に昇る)太陽」を意味するものではないかと筆者は考えている。 なぜなら、和語にはかつて「太陽」を意味する(失われた)古語「しの」「しな」があったと解され(ただし定説とまではなっていない)、辰沄は左記古語と関係すると考えられるからである。 (「しののめ(東雲)」・枕詞「しなてるや」等に関する村山七郎説参照。また、沖縄古語「てるしの」(=照る太陽・照る光の意)に残存していたと考えられる。)(詳細については機会を改めたい。⇒こちらに掲載した(令和4.7.28) 。) なお、スサナミコには檀の字が含まれるが、スサナミコと檀君はキャラクターとしても直接対応しない。 また、スサナミコは朝鮮民族固有神などではない。 そもそも檀君と朝鮮民族との関係についても実は時代により変遷があるという罠がある。 契丹古伝の神子と檀君との関係につき、15章解説、さらにサカタキ≠檀君論を、また総合的には檀君問題のページ(令和4.12.27新設)を参照されたい。 ところで、日孫が天から降りてくると解した場合、前章の記載からすると日孫はどこかの海または河で生まれたようにも思えるから、矛盾が生じないかが問題となる。 この点は、日本神話の高天原も、河があり田があったりはするものの、その場所は天上にあると解されるのと同様に、前章の日孫の生誕地が天上にあるとしても神話としてはおかしくないと考えられる (本古伝は、第20章までは神話的色彩が濃い)。もちろん、東方の海上と解せないことはないが、その場合も観念的な聖地としての概念と見るのが妥当であろう。 ただ、本古伝の解釈者の中には、生誕地は東方の実在の場所(日本の海岸もしくは島)であると解するものもいる(この場合は、神祖は高天使鶏という船で降臨したということになろう)。 |
第4章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
本章では、神祖の子孫の拡散とそれに伴い東族が使用した種々の呼称が示されている。これらはいずれも民族にとって重要な語彙なのであろう。
ただ、実は東族のどの範囲で使用する呼称であるかにつき、一応争いがあるが、 その問題については東族共通用語論のページ(2021.03.28新設)で論じた。神子神孫(神祖の子孫)の国すべての国において共通ということになる。 いずれにしてもやはり日本語との対比が問題となる。 浜名氏は そうすると、むしろこれは第20章の「これを廟して・・」とも併せて検討すべきであり、和語「 また ただし、 辰沄繾は、「東の大いなるもの」の国の意味、(前章参照)辰沄固朗は「東の大いなるもの」の民族の意味(注・から=和語「はらから(同胞)」の「から」と同じで、一族、血族の意味であろう)。 韃珂洛は、和語「おおみたから(天皇の民)」と関係があろう。(これらについて、詳細は別述。) |
第5章 | |||||||||
|
|||||||||
(解説)ここでは、神祖の名の別伝を記し、神祖の降臨と移動について簡潔にしるして、辰沄氏に二大 東大神族の系統の分岐に関する重要な章である。 二大宗家についても大論点が存する(後述)が、阿辰沄須氏についてもその成り立ちが 謎めいている。阿辰沄須氏の系統として少なくとも東表(30・37章参照)と辰国(37・40章参照)と 大陸のニギ氏(25・26章)の系統があり、東表とニギ氏は他の書物に一見それとわかる形の記載がなく、その所在についても論争となる中、浜名氏・鹿島氏は 日本列島と東表との関連を指摘しているためこちらも重要である。辰国はその終焉に際し「イヨトメ 」という女性が治めていた国と契丹古伝40章において解釈されている。辰国は中国の史書の 記載からすると半島内のなんらかの勢力であるということはいえるが、その系統はやはり論点となっている。 図己曳乃訶斗を、浜名氏はとこよみかど と読み、常世の帝と解したり月読尊(天照大神の弟神)に宛てたりする。 この内、常世帝はともかくとして、月読尊については日本書紀の一書で素尊と同神とも思える記述があることから無視できない観点である。 ただ、これではまだ不十分であり、他の神名との比較検討が重要である(別述)。 次に、神祖の降臨地としてあげられた この点浜名氏は毉巫=医巫閭山とするが、15章の巫軻牟を白頭山に比定しそちらを正しい降臨地とする。 佐治氏は毉巫=医父呂山だが主体は契丹建国伝説の始祖としての神祖とする。 田中勝也氏は医巫閭山を含む中部満州以南に展開したとしている。榎本出雲氏も医巫閭山とする。 鹿島氏は毉巫=ユーフラテス河とする。 浜田秀雄氏は毉巫=平戸とする(主体は東越系)。 安部裕治氏は毉巫=山東半島の梁父[山]とする。 「毉父」の位置比定について、安部氏は「・・第2章第8節第2項で述べるように、・・中国山東省にある梁父[山]・・・と 考えます。」とされる。(安部裕治『辰国残映』(初版) ブックウェイ 2015年, p.65) そこで指示された箇所を参照するとそこには 中国山東省を領域とした太古の辰国・・を「神祖」降臨以来の辰国・・であるとするならば・・・「医父[婁山]」を 山東省内の山[岳]に限定できます。と記されている(同書p.359)。 この点そもそも、仮に神祖降臨が山東省以外であった場合、ある時期山東省を領域とする「太古の辰国」があったとしてもそれは「『神祖』降臨以来の辰国」 とはいえない道理となる。とすればp.359の当該文章は「神祖降臨の地(医父婁山)が山東省内であるとするならば・・ (神祖降臨の地)医父[婁山]を山東省内に限定できる」といいかえることができよう。 となると当該文章は「根拠」というより「その仮説の通りであれば魅力的という主張」と読むべきなのかもしれない。 なお、降臨地と昇天地の関係について、本ページの19章解説参照。 上記浜名説のように、第15章に別の降臨地( しばしば第15章の降臨地こそ本来の降臨地であるとする 解釈がなされることがある(本章(第5章)の降臨地の方は編者の作為による等とする)。浜名説以外では、原田実氏も、契丹古伝の紹介をする際に 神祖の降臨地として第15章を採用し、第5章を無視したような紹介の仕方をされている。 しかし、私はこのような考え方には強い疑問を抱くものである。 「作為」ということであれば、実は、私の研究によれば、第15章と第11章にも作為が含まれているという ことが判明しており(詳細は別に述べる)、本章の価値を低く見る考えには賛同できない。 次に、神祖がその後に移動した先らしい「鞅綏」という場所の解釈についても、実は問題があり、上記浜名氏の考えなども、この解釈に影響されて いるとすれば、結局第11章の作為に引きずられているということにもなるのだが、詳細は別に述べたい。 ・・・と言いながら長らく放置してきたが、 別ページ(11章解説参照)にある程度掲載した(2023.2.14)。 ※詳細については別ページ(11章参照)で述べるとして、今お読みの当ページにおいては各京の所在地の問題等に 関する部分について、自説を補足説明しておきたい。 というのも東大神族の本宗家論(太公望篇の中でも扱った)と若干関係するからである。 11章については説明を要するので保留するとして、12章から15章の京については 浜名のいうような場所、つまり半島とか鹿児島(13章参照)とか黒竜江省(15章参照)に置かれたのではなく、遼寧の 医無閭山からほど遠くない場所におかれたのではないかと考える。 そしてそこから[海路を使わずに]16章の西征を開始し、途中で初めて海(ニレワタ)を渡り、17章で中国本土にて幹浸遏に五原を設置した。 この幹浸遏の五原こそが「鞅綏」と考えている。よって、鞅綏系辰沄氏とは<中国大陸系辰沄氏>ということになる。 一方12章から15章の京については叙図耶など他伝承と関連しそうなものもあるが(15章解説参照)、 これらはむしろ毉父(医無閭山)系辰沄氏に附属する城郭都市であると考えている。 以上の自説とは対照的に、浜名説では毉父(医無閭山)系 こそが<中国大陸系辰沄氏>としており、両説にどのような差があるか、ということになるが、 (最近本宗家について気になる人もいるとは思うので) こちらに本宗家の位置について基礎的な検討を新規掲載した (2022.12.06)。 二大宗家と この後者(「東冥」にあらわれた阿辰沄須氏)は、後の章にも「東表の阿斯牟須氏」等として登場する 重要な存在であるが、上にも述べたように、この東表は、日本列島内に存した可能性もある。 浜名氏も当然そのように考えている(「冥」は「溟」と同じで海の意である等とする)し、 下記◆部分に述べたことや30章の内容から、東表は二大宗家からかなり離れた場所にあるということ、その他37章の位置関係からして も十分可能性がある。少なくとも東表系勢力があったとは言えないか、検討すべきだろう。 ただし東表を山東半島に比定する佃氏の説(太公望篇参照)もあり、東表の範囲や移動については まだ未解決の部分が多い。 東表=日本としても、日本そのものとする浜名説や、大分県に比定する鹿島説など、その位置や、 いかなる氏族であるかということについては争いがある(詳しくは別に述べたい)。 ◆ここでは東冥・東表を考える手がかりとして、「別神統」の語に注目しておきたい。 浜名氏は初めから日本が特別の本宗家として(東表)にあったとしている。 そして東表からスサナミコが船で出発して満洲に降臨したとしている(水平移動型降臨)。 この場合東表の系統と他の二宗家との関係について5章の関係での悩みは少ない。 (出発地として日本でなく中央アジアをとるような場合(佐治説)も同じ状況)。 しかし、それ以外の説で、降臨した神祖の子孫が神子神孫の全てという場合(例 田中勝也説、自説その他) において、東冥の阿辰沄須氏は 5章は「別に神統をうけ」としており「神祖が東冥にも現れた」とは書いていないから、東冥には神祖よりも後の時代に 神祖の子孫が入って開拓したことになる。 ではその開拓者は毉巫または鞅綏の辰沄氏の子孫なのかということは、5章からは明確化不能である (神祖が別派の子孫を残していてその別派が移住した可能性も理論的にはあろう)。 ただ東冥は①毉巫とも鞅綏とも異なるエリアを持っているはず かつ ②37章の東表と同じ場所 であるはずだ。このとき「東冥(東表)」の中に「毉巫や鞅綏」が含まれている場合 がありうるだろうか。つまり、その際、毉巫や鞅綏にさえ該当しないのなら 両者を包含するようなエリアを別神統出現地として問題ないのかという問題もある。 そもそも東冥というのも神秘的な雰囲気の語だが、冥はくらいという意味があり、 都が置かれ神祖の輝かしい神子神孫がすでに栄えている毉巫や鞅綏の近辺が東冥というのは不自然といえよう。 つまり毉巫や鞅綏よりは若干あさっての方面で、かつ東方の神秘的な雰囲気を持っている場所 が東冥ということになると思われる。 よって東冥(東表)は毉巫や鞅綏と近接していてはいけないことになろう。(◆以降の部分につき2023.10.6加筆) (当たり前の話と思うのだが、念のためと思い付記しておくことにした)。 |
第6章 | |||||||||
|
|||||||||
ここでは、東族の諸部族の名にしばしば類似した名称が使われていることに着目して、具体例を挙げつつ、その名称の根源が同一であることを説いている。
(注)「瓜瓞」~「綿緒」は、『詩経』の『大雅』にある表現「 に由来し、子孫に繋がっている (解説)ここであげられている靺鞨・渤海・粛慎・朱真等は東北アジアの民族名であるが、それらの名称は東族における佳名に由来するという趣旨であろう。 いいかえればこれらの民族もかつては神祖の恩恵を受け、神祖を祖と仰いだに違いないという考えを述べたものである。 ただ、これらの名称がそれ自体何を意味するかが明かされておらず、不親切な感は否めないが、粛慎・朱真等については 、辰沄繾翅報(「東の大いなるもの」の国の皇)を縮約した形とみるのが妥当なようである。(詳しくは別述。) |
第7章 | |||||||||
|
|||||||||
本書は次の2つの理由から、渤海国使として訪日経験のある烏須弗が日本について記した書と思われる。
①耶馬駘記の耶馬駘はヤマトと読め、日本について記した書と理解することが可能である。 ②その著者とされる塢須弗とは、恐らくは奈良時代末期に日本を訪れた渤海国使の烏須弗(う すほつ又はう すふつ)と同一人ではないか。 (渤海については東大神族の本宗家の権利は結局~も参照) 大使としての初来日の際は外交文書上の不備で入京を許されなかったことが続日本紀にみえ、以後その名は登場しないが、 その後まもなく日本と渤海とは極めて親密な国交を結び渤海からの訪問団も頻繁に到来することになるので、烏須弗が再来日を果たした可能性も考えられる。 ここでは、日本の国が持続する理由はいにしえのことを重んじるからであるといった趣旨のことを述べた上で、 日本の別名を「あきしま」(秋津島のことか)であるとし、その由来を なお、本章における言葉遣いに関係して、偽書説の根拠ともされる件があるが、この点は別途検討しよう(古事記が「流布」した時期と渤海使が頻繁に来日した時期との一致などの点を考慮していくことになる)結論的には心配無用ということになる。→こちらに掲載した。 |
第8章 | ||||||
|
||||||
ここでは、第6章と同様な発想で、類似する名と族名を並べ、それが秦率旦阿棋毗という概念にちなむものである
とし、それらがみな東族に属するということを説いている。 阿棋毗は、第20章に見える神聖語である阿祺毗・暘霊毗・寧祺毗・太祺毗のうちの一つ(同章参照)。 浜名氏はこれを日本の「 また、秦率旦は神祖の名「 ただし鹿島曻氏の著書の古い訳では、 阿棋毗の「アキ」=「王倹(檀君神話の檀君の名)」と捉える(秦率旦阿棋毗=壇君王倹の霊とする) がこれは誤りであろう(ちなみに鹿島新説ではアキ=シュメールの神アン・キ)。(これらの点については、機会を改めて検討したい)。 阿藝について浜名氏は古の日本であるとする。上の第7章で渤海の塢須弗が日本の別称「秋(津)洲」を 阿其毗由来にしているからである。 潢弭については23章で「殷周革命」時に周を避けて大陸から海に浮かんだとされている。 浜名氏はその大部分または一部は我が国へ渡ったと想定されるとしている。(遡源p.499, 詳解p.213参照。) 潘耶は扶余のことであると考えられる。 20・23・35・37章にもその名が見える。 伯弭と淮委はこの後にも登場する(24章に付した解説が重要)。 伯は第20・23~26・29・38章、 淮は第20・23・24・35・38章などに登場する。 氐質都札は書名であるがその意味は不明とされる。 |
第9章 | ||||||
|
||||||
浥婁は、中国の史書に出るいわゆる挹婁で、日本では通常ゆうろうと読むが、東北アジアのオロチョン族のことであることは一般に認められており、その名が本書の羊鄂羅墜と似ていることは興味深い。
浥婁が本来東大古族(シウカラ)には属しなかったが、神祖により組み入れされ教育されたことが記されている。
なお、ヤオロチの名が何となくヤマタノオロチと似ていることから、本章の征伐と素戔嗚尊のヤマタノオロチ退治との関係が指摘されるが、意外と問題がある。 |
第10章 | ||||||
|
||||||
(注)河洛とは、第4章の、辰沄固朗・韃珂洛の「から」と同じで、東族の一族ということであろう。 澡は、第章の澡と同じで、沐浴の意。 本章は、前章と併せて、本来は東族に属しない浥婁を神祖が征伐したあと東族の一員に加えたことを述べる。 その際に神祖が「閼覆禄」という名を与えたことが それに従えば、もともと閼覆禄という何らかの東族古語があり、それが浥婁の名の期限にもなったということであるが、 その古語に関して、それは禊誓を意味する語であるという説が本章の最後で示されている。(詳細は別に述べる) なお、閼覆禄大水とは鴨緑江のこととされる。浥婁はこの河の北方にいたと考えられる。浥婁に禊誓を行わせたのがこの河ということかもしれない。 |
第11章 | ||||||
|
||||||
汗美須銍は書名である。本章から第15章まではこの書の引用からなっており、神祖が複数個設置した都について、
その名称や各京の統治担当者名などが語られる。 ○○耶の「耶」は「 なお、これらの章(特に本章と第15章)には若干の問題があるが、この点について詳しくは別に述べる。 ・・・といいながら長らく放置してきたが、こちら(天照大神の五男神と 契丹古伝11~15章の神子との関係) にある程度掲載した(2023.2.14)。 ※浜名氏は本章の「 ①11章のアシタは、本宗家の都のはずであるが、 15章の解説その2でも述べたように、現在の平壌と解する必要はない。 本宗家は二つあるので、いずれの都もアシタと呼ばれうるが、17章のアシアのように五原・五京の総称と 見るのが本来の形かもしれない。それゆえ5章でも解説したように12章以下の京を遼寧付近とみる自説において、 11章もそれらと本来的に一体の伝承であると文字通り読むのであれば、漠然と遼寧付近一帯を 指すと捉えておく。あるいは本来アシアの概念を表したもので、12~15章の京に後で追加されたもの かもしれない(2022.11.15付記)(詳細は後に譲る)。 ②辰王の都の月支国は、辰王が馬韓の辰王などと呼ばれ、後に北方から到来した別の族の影響を受けた経緯などから して、平壌と解するのはあまりに北寄りすぎて不自然である。 ①②の理由により、「鞅綏韃」と「月支国」は別物と解するべきと思われる。 (2022.01.26付記) ※浜名氏はヒシヤの音は平壌の古音「ヒグシャグ」と対応関係があるとしている(遡源p.381, 詳解p.95.)が、 佐治氏も指摘しているように、その関係は成り立たないであろう(佐治芳彦『謎の契丹古伝』徳間書店 p.96参照)。 平壌は、ヒシヤとは別の何らかの東夷語があり、それを漢訳した表現ではなかろうか。(2023.09.30付記) |
第12章 | ||||||
|
||||||
耑礫濆兮阿解の読みは浜名説によれば 京の位置については、上述のように、12章から15章の京については 遼寧の医無閭山からほど遠くない場所におかれたのではないかと考える。 浜名は12章の京を迎日湾(半島東南部、慶尚北道の日本海沿いの湾)に置くが、この説は採らない。 |
第13章 | ||||||
|
||||||
本章の京の名が このことから、第11~15章における「これが○京である」というのはその直前に記された「○○耶」という言葉の意味をとって意訳したものである ことが推定される。 なお、浜名氏は曷旦鸛済扈枚をアタカシツヒメ(ニニギの尊の后)と同一人物としてこの海京が鹿児島あたりにあったとするが、 誤りであろう。ただ、この人名を含め、日本神話的な響きがすることは注目される。 |
第14章 | ||||||
|
||||||
「 なぜなら、そう解すると濆洌耶は「 こういった対応関係は、本章や前章では比較的明快だが、第11章・12章ではやや不分明である。(浜名氏は11章の なお浜名氏は、ムコハキを武庫河の海口に位置する山口県の「萩」に関連づけたり、ウサハミコメのウサを 大分県の宇佐や、日本海の鬱陵島(もと于山島)や対岸の蔚山、あるいはイナバのシロウサギと関連づけたりしているが、 この説は採らない。なお、ウサハミコメ(イサハミコメ)を卑弥呼とするのは鹿島曻説だが全くの誤りである。 |
第15章 | |||||||||
|
|||||||||
『汗美須銍』の引用は本章で終わっている。
※「鬼[鬼+居]」について。 2文字目の「[鬼+居]」は、「䰨(魅の異体字)」の誤写か。とすると、鬼[鬼+居]⇒鬼䰨=鬼魅(鬼とばけもの、妖怪変化)。 (解説その1)ここでは、 この また、11章から15章の中で、大半の人物には単に「居らせた」という表現が使われているのに 対し、 この また、一つ目の京である (スサナミコの2番目の音「サ」は、「シ」と発音されることも多いらしいと考えられるので、それを考慮すればスサ≒ソシといえる。) (ただし、スサモリ・ソシモリは縁起のよい地名として多用されたことも考えられる。それゆえ その地名のある場所に現在住む人々・民族の独占物と短絡的に考えるのは慎むべき。) また、 (解説その2)檀君伝承との関連について この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)については、しばしば檀君伝承との関連性が指摘される。 まず、11章の さらに、15章の これについては、前にも少し触れた11章から15章における作為について説明した方が理解しやすいが、その点は 長くなるので別に述べることにし、どちらにせよ妥当性を有すると思われる内容につきここでは述べておきたい。 サカタキ≠檀君論(30章参照) でも述べたように、もともと檀君伝承より当古伝の内容の方が 古い形であり、本筋なのであって、檀君伝承は単なる残滓に過ぎないと考えることができる※。 基本的に、檀君信仰の体系は男神優位主義であり、契丹古伝の始祖神話より後世のものに すぎないはずである(神話論を参考にされたい)。 時代が下って各民族が独自の伝説を作り上げた際に、内容がアレンジされて、 アシタ、フカムなどについて各民族独自の比定地が設定されたというように考えたほうがよいということになる。 だから、アシタ、フカムなどの位置を檀君伝承のそれと同様に考える必然性はないことになる。 この点、浜名氏、原田氏は地名の比定については檀君伝承のそれとほぼ同様に考えるようである。 浜名氏は本章のフカムは白頭山とし、ネクタは寧古塔(今の黒竜江省寧安市)であるとするが、この説は採らない。 (また浜名氏は一方で、檀君王倹自体は本章の登場人物ではなく次章の登場人物(サカアケ)に該当するものの 、本章の内容の片鱗が檀君伝承に入りこんだとする(浜名遡源p.408の12行目参照)が、自説では檀君はサカアケには該当しないと解する。) ※もし檀君伝承に整合させて当古伝を作ったのなら、アシタの京で神祖本人が治めるのはおかしいはずである。神祖は降臨した存在であるが、檀君王倹はそうではない。 半島との関係があることから、契丹古伝と桓檀古記(檀君信仰系の偽書)を両方使って歴史を再構成するという試みが ときどき見られるようだが、鴨緑江より北のいわゆる古朝鮮のより古い形態として檀君朝鮮を想定し、そこから 広域に及ぶ支配がかつて長期にわたり(箕子の時以降にまで)なされていたという世界観は、基本的に契丹古伝と相いれない体系である。従って本サイトは そのように両書物を「接合」させて桓檀古記に合わせるなどという態度からはほど遠い立場にある(東族共通用語論及び檀君問題のページ参照)。そのことは明確にしておきたい。 (解説その3)キリコエアケと牛頭天王 15章のキリコエアケは、蘇民将来信仰の神・祇園(八坂神社)の神である牛頭天王 との類似性がよく指摘されるところである。 キリコエアケにも角があるとされていることにも留意しておきたい。 ただ一般には、牛頭天王についてスサノオ尊と同一神とされることが多いが、 これには問題がある。 そもそも、スサノオの命が日本書紀の一部の異伝では追放された後、島根の土地に降り立つ以前に 一旦朝鮮に降り立ったとされ、ソシモリという場所にいたとされる。 このソシモリはスサモリと関連する語であり、この「スサ」は契丹古伝的にはスサナミコのスサと解かれることは上記(解説その1)でも述べた。 スサは究極的には聖なる場所を示す一表現と思われる。 ただ一般に、語源俗解によりソシモリは牛の頭の意味と解されることが多く、牛頭山という 地名に後世なっているものはかつてソシモリだったなどと言われている。 少し紛らわしいが、ここでスサナミコ→15章前半のスサモリ・ソシモリ=牛頭 とすると、スサナミコ=牛頭天王という発想に繋がりやすい。 しかし牛頭山はソシモリとは語源俗解における関係がある一方で、牛頭天王信仰は牛頭山とは本質的には 無関係なようだ✽。したがって、牛頭天王はソシモリや15章前半のスサモリひいてはスサナミコと対応せず、先述のように契丹古伝15章でいう キリコエアケと関係すると考えられる。(キリコエアケは15章前半のスサモリの京も管轄するが、 こちらは本質的なものではないと考える。) ✽牛頭天王を純粋インド由来の神として、仏教的な聖山であるマラヤ山(牛頭山)に関連づける説があるが 疑問で、牛頭天王とマラヤ山の関連づけは実は本来的なものでない可能性が高い。 なお、日韓併合期によく主張されたことだが、 スサノオの尊と檀君を習合させて同一神とする見解がある。上述のようにスサノオの尊は半島におりた という伝承もあるからだ。 この見解を類推し、契丹古伝のスサナミコと檀君を同一神とする見解が成りたたないか問題となる。 この点については、①スサナミコ~ソシモリ~牛頭山~檀君のつながりがあるという考えが妥当か、 ②そもそも契丹古伝の始祖神話と檀君神話との関連性があるか、が問題となる。 ①については、以下に述べる理由により成り立たないと考える。 (②については、サカタキ≠檀君論や檀君問題のページを参照。) さて①について、[②の説明の中で別の観点から答えが出てはいるものの、あえてそれとは別に 検討すれば]、上記牛頭天王についての説明にもあるように、 スサナミコ~スサモリ・ソシモリ~牛頭山は表現的に関連する。牛頭山というのは、一種の宛て字の可能性がある。 ただ、仏教的な聖山であるマラヤ山というのがあり、これが牛頭山の意味とされている。 マラヤ山には栴檀樹が生えるとされることから、仮に檀君伝説の檀木が仏教の影響下、 仏教的聖山の栴檀樹に由来する呼称であると捉えた場合には、檀君と牛頭山 が結びつきうることになる(牛頭山ちがいの感もあるが)。 檀君の名称問題についてここで論じている余裕はないが、 檀君は一応仏教系の語ではないと考えられ、東夷語に起源を有するとすれば、結局檀君と牛頭山は 結びつかないと解される。 よってスサナミコ~ソシモリ~牛頭山~檀君の繋がりは導けない。 檀君はスサナミコよりむしろキリコエアケ等の神子に近いと考えられる点につき、 サカタキ≠檀君論や檀君問題のページも併せて参照されたい。) |
第16章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
これは、神祖が西方への征服を行う様子を描写したものである。 征服後、その地に都を置いたということになるが、これが次章の幹浸遏のことであり、今の中国の中原と解するのが自然である。 すると、その直前で渡る 浜名氏の解釈では、介盟奈敦が旅順方面、晏泗奈敦が営口、葛齊汭沫が河北省の秦皇島としている。 ただ、1)これは征服のための築城であること、2)医無閭山発祥の辰沄氏は、既にその拠点を医無閭からほど遠くない場所に置いているはず(5章解説の※参照)で、それを 営口周辺と考える、とすれば、本章の3城は遼東半島を中心として設置されたようにも思える。 斐伊岣倭の説明として、西陸塞日之処であるとあるが、浜名氏は「塞」の字を「賽」(「お賽銭」の「賽」の字)に読み換える荒技で 賽日=日を報賽すること のように解して賽日之処=太陽を報賽する場所と解している。 しかし「塞日」のままで解釈できるのではないか。そもそも塞日とは辺境の要塞に斜陽が掛かっている 状態をいい(杜甫の詩に、水静かにして楼陰直く、山昏くして塞日斜めなり とある)、 そうだとすれば西陸塞日之処とは西の要塞の向こう、斜陽が日没直前に照らしているところと解する ことができよう。要するに、「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に~」の「日の没する処(=中国)」と同様な発想と考えられる。 なお田多井四郎治氏は西陸塞日之処を「西陸 |
第17章 | ||||||
|
||||||
神祖が中国本土を征服し終わった後、そこを五つのエリアに分けて統治した様子が記されている。
各エリアの統治担当者名は、極めて日本神話的な響きがする。 「是において」以降の一文は、難解とされ、浜名氏も解釈を放棄しているが、神祖が皇宮に坐して統治する様子を 東族語を用いてしるしたものと私は考えている。(詳細は別記。) |
第18章 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
神祖が中国大陸の五原を開拓する以前からそこに棲んでいた先住民族について述べている。 浜名氏は、本章の言葉遣いが前章と異なる等の理由で、本章は悪意有る者による捏造の可能性があるとするが、一方で綿密な解読を試みてもいる。 本章の箔箘籍(「南原」の非東大神族出身)が新羅三姓の朴・金・昔を連想させるため解釈上しばしば取りざたされる箇所である(檀君問題のページも参照)。 なお、この点についての鹿島曻説の問題点については関連文献欄に記した。 浜名氏は、日韓同祖を広く謳っている建前をとっていたはずだが、実は(檀君問題のページの末尾の補足Eにも記した通り)、18章を解釈した箇所において 新羅王家三姓を異族として処理している。細部において悩ましいこの論点について、浜名氏なりの処理 をされているので、一応紹介しておきたい。(新羅が7世紀に百済・高句麗を滅ぼし半島を統一したことから現在の半島人が形成されているため重要な点となる。) 新羅王家の初代、朴氏の まず、初代王・赫居世の影が瓠公であり別人ではないとした(遡源p.441,詳解p155 10行目参照)上で、 そもそも「極めて上代」に辰韓に六神が天降して「ホクセ」という霊神君主を立てたという事象が 発生したとし、瓠公も これに伴った「古い伝説の者」で日本より渡来したという伝説もあったものだろう、とする。 ところがその後侵入した異族が過去の古伝を現在に引き直し、異族の一つ「箔」の酋長が「ホクセ」と自称(こちらの方が新羅初代王)する事態となり、 瓠公も箔族に属する印象を与えるよう組み合わされ、古伝がほとんど滅ぼされたのだという (浜名 遡源p.448(詳解p.162)9~13行目参照)。 異民族がその正体を「隠蔽し、韓民族なるを仮装して、永く天下後世を欺」いたという捉え方である (遡源p.441(詳解p.155) 7~8行目参照)。 異民族の楛盟舒(箔 箘 籍)が侵入する以前の「新羅は、 籍族も同じく異族とする浜名氏は、倭人との関係が取りざたされる昔氏について、 『三国史記』等において また新羅王統の大部分を占める(慶州)金氏についても異種族の箘とし、渡来した箘酋の子孫が族祖が外来種族であることを 隠蔽し、倭韓民族の間にあって「 このように新羅の王統は「真の韓人種」でなく「鳥人楛盟舒族」であ ったため神話古伝が失われるという惨禍が生じたのだとしている。(遡源p.453詳解p.167 10~13行目参照)。 ここでの浜名氏の韓民族・韓人種という用語の使い方の現代における通常の用法との差異には 充分留意されたい。 なお当会の解釈としても、本章を安易に捏造として切り捨てるべきではなく充分検討すべき箇所であり、おそらく なお、鳥人楛盟舒の「楛盟舒」を浜名氏は「クマソ」と読み、日本古代史上登場する 「熊襲」と同一視するが、同一視しない見解(田中勝也説など)も含め総合的に検討していくべきだろう。 (解釈の詳細については後日を期したい。)(2023.09.30加筆・修正) ※18章後半の「疏」(注釈書)について佐治氏はこれを16章の『西征頌疏』という書物の こととしているが、同書は西征のありさまに関する書物で、18章の内容の注釈となりうる内容を 含む可能性は低い。18章本文を含む形の別の知られざる注釈書の類と考えるべきだろう。(2023.09.30追加) |
第19章 | ||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
本章は、神祖が日祖の処へ帰還する様子を述べ、最後に、その子孫である璫兢伊尼赫琿について述べている。
珍芳漾匾墜球淄蓋麰の峰というのは、どこかニニギの尊の降臨地である日向の 日祖の処というのは、第2章にいう日祖の居場所である (2章・3章解説参照。) ところで、浜名氏はこの章の説明として「日孫高天原に帰る」という章名をつけているが、この点についての誤解が時折見られる気がするので言及しておきたい。 日本の天孫降臨神話において、天孫ニニギ尊は天照大神の高天原を出発し、九州の高千穂峰に降臨している。 つまり高天原とは天照大神のいる天上である。 ただ、俗に、降臨した地上の場所のことを俗に高天原と呼ぶことがある(例えば高千穂)。 浜名氏も25章解説ではこの俗な意味で高天原を用い、さらに皇居のある場所まで高天原といえるとし、 今はそれは東京であるとしている。 しかし、本19章で浜名氏がいう「高天原」は、本来の意味、すなわち太陽女神の住む場所であることに 注意されたい。本章の珍芳漾匾墜球淄蓋麰の峰というのは、高千穂の峰を連想させるとしても、 それは高天原なのではない。地上の五原の領域内もしくは周辺のどこかの山ということになる。 (ちなみに浜名氏は山東省の泰山と解しているがそう解する必然性までは存しない。) その山でスサナミコは祝詞を唱えた後、日祖(女神)のいる場所へ帰還されたということで、 この帰還先である日祖の地(浜名説では日本)のことを浜名氏は高天原と表現されているのである。 本章の「日祖の処」は、決して日孫(スサナミコ)が降臨した場所ではなく、かつて降臨するために出発した場所で、そこへ帰還する意味である。 「遂に日祖の処・・」というのは、山に登ったことを指すのではなく、山に登った後の話であることに注意されたい。 多くの人が気づいていないが、このスサナミコの山上から日祖の地への帰還というのは、これは神話学的に(御子神の昇天として)捉えるべき であろう(他の日本の古史古伝にも類似の描写[『ホツマツタヱ』の高千穂についての記載参照]がある[神話論に未掲載]。) 浜名氏は、 ただし 神祖が祝して唱えた文言は、意味不明であるが、本章末尾の説明から、「稲華神洲」を讃えたものであることが想像できる。要するに神祖の統治する国土を讃えたものであろう。 ちなみに、 (なお、寿司などで使われる「シャリ」も関連している可能性がある。) 河洛は、4章・10章参照。ここでは東族全体を指すか。 神祖の子孫である璫兢伊尼赫琿については難解であるが、第17~19章は『秘府録』の引用であり、17・18章は五原の支配について述べていることからすれば璫兢伊尼赫琿も五原に君臨した存在ということになろう。 ところで璫兢伊尼赫琿を浜名氏は「タケイチハク」と読み、「 『史記』において 「唐堯こと伊耆放勲」みたいな解釈であるが、自分は疑問に思っている。 璫兢伊尼赫琿は契丹古伝に頻出する六音の神子号の一種とみた方がよいであろう。その観点から 「タケイネワカ」と当面読むことにした。 ただ、21章から逆算すると、それは「堯」と同一人物であってもかまわないとは考えられる (理屈上、もう少し前の 神子である可能性も残る)(この段落は2023.01.01補記)。 なお、当然ながら神祖は五原の地を治める後継者を残した上で日祖の地に帰還したのであり、 この点は浜名氏含めほとんどの説において当然の前提となっていると解される。 ただ、佐治芳彦氏は例外で、気候の変動(寒冷化)のため五原の統治を断念して神祖「ら」が五原から撤退して 高天原に帰ったとし、その高天原が雲南だとされる。 そして、璫兢伊尼赫琿は神祖の子孫で雲南にいた者の一人で、異常気象の鎮静化により五原に戻り 統治を再開した、という趣旨のことを述べられているが、残念ながら誤りである。 (注) ※「十有六連(十六連)」の「連」は「運」の誤記と浜名氏は解釈している。そして運=干支一運=六十年と解すると、十六運=九百六十年となる。 |
第20章 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
ここでは東族の各部族が 最初に登場する「 ただ、族名の中には何を指すのか分かり難いものも多いので、詳細は別に検討する。 ここでは、最後のほうに出てくる「夷」「伊尼」について触れておきたい。 まず、本章の部族は「夷」と総称されることが述べられているが、常識ではこれは中国人が東方の異民族を蔑んでいう語であるとされる。 ただ、本章からすれば、「夷」という言葉は、漢民族である西族(次章参照)が発明した言葉ではなく、もともと東族が自ら用いていた言葉であるが、 それを西族は蔑称として用いたということになる。 また、東族は中国の広い範囲に分布していたから、いわゆる「東夷」以外にも「夷」は存在するということになる。 さらに、「夷」の語源が「伊尼」という東族語であると述べており、その意味は明示されていないが、神聖な言葉であることは窺える。 伊尼は、「いに」「いち」等と読める(浜名氏は「いち」と読んでいる)。 「夷」は、もともと「鉄」に近い音だったともされるから、昔は「ち」とか「に」のような音だったのかもしれず、それが伊尼の尼の音を表していたのかもしれない。 さらに、本章に「諸委」という言葉があるが、これは「諸夷」と同義であろうから、「夷」のことを「委」とも書いたことが窺えるが、詳細はここでは略す。 ところで、伊尼を浜名氏は「 次に、これら民族名の由来となっている○○毗とは、何か神聖な概念ではあろうが、何を意味するかが問題となる。 第8章では、 なお、鹿島曻説ではこの章がノアからセム族・ハム族・ヤペテ族が分かれたといった感じの 旧約聖書の文書の原型であるともされているが、前後の脈絡を無視した無理な解釈の一例といえよう。 |
第21章 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
(注)「 (解説) 本15章から39章までが、『費弥国氏洲鑑の賛』という文献資料からの引用となり、 契丹古伝上重要な位置を占めている。 費弥国氏とは何かは問題であり検討を要する論点である。 まず本章では、天変地異の発生を語る短い神話風の記述の後に、「西族(漢民族)」が東族の住む地に到来する様子が記されている。 まず、冒頭の天変地異の部分について、浜名氏は「海漠象変」とは海が砂漠に転じることとするが納得しがたい。 ここでもし「漠」は「広々とした海原」が本義であるとする異説(石井勲説)を採れば、 「海原の形が変わった」となって意味が通りやすいのではあるが、そこまでせずとも、 (通説通りに)漠を会意文字(「水がないところ」)と解した時には、ここでの漠は「海以外の部分=陸地」を指すと解せるから、 「海漠象変=海と陸の形の変化」となり、いずれにしても海洋の異変に伴う海岸線等の変化をいうものと解釈できる。 そうすると、大地が「西に縮ま」ったというのは、海岸線が西に移動したこと、つまり 大陸の東部沿岸が海没したことであり、「 次に、西族の進入についてであるが、ここでは、漢民族は西からやってきて東族のいる地に入りこんだということを述べている。これが本書の特色の一つである。 ここで西族が漢民族を指すことは、 そして最後の方にでてくる「東族」とは、神祖の子孫である各族(しうから)を指すことも明白であろう。 西族の進入時期であるが、最後の方の記述から夏王朝の禹王以前であることは明白だが、具体的には示されていない。(漸入とあるので、時間をかけて少しずつ移住してきたのかもしれない。) 夏王朝のときに「 「牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者」の、「鬼とする」について、「特別な存在として崇拝する」と解するか、悪い鬼の意味に解するかも問題である。 浜名氏は、「鬼として祀る」等と書いているので、前者と解しているようである。ただ、鬼という字は、確かに良い意味で使うこともあるが、それは祖先等を指す場合であって、 漢字自体の起源論としてはともかく、ここでは、通常の漢文の文体で書かれている文章の読解をしているのだから、第15章の「鬼䰨」と同様に悪い意味に解するべきであろう。 というのも、大物主神の神話にもあるように、東族には蛇神も普通に存在するのであり、それとの対比を示す趣旨と解されるからである。 書名について。「費弥国氏洲鑑の賛」とは、「『費弥国氏』の『洲(領域)』について記した『鑑(歴史書)』」に収録されている「史賛」 という意味かと思われる。すると、費弥国氏洲鑑という書物は別にあり、その中のある独特の箇所の抜粋ということになる。((史)賛について下記※参照) ただ、費弥国氏洲鑑とは、少し妙な感じの書名ではある。当古伝の残り大半が費弥国氏洲鑑の引用からなるので、書名について少し検討してみたい。 浜名氏は、「洲」とは東族語を漢字で宛て字した物であろうという。自分も、○○氏洲というような全体の言い回しにも東族語の類似表現が意識されている可能性を 考えるが、いずれにしても「洲」は「領域」的な何らかの意味を含むのであろう。 「費弥国氏」については、費弥国という国の王家という意味に採りたくなるが、「国」も「 ※史賛とは、史書の巻末で、史実を引用して史上の人物を讃えたり論評するものをいう。当古伝引用の賛は相当長文であるから、各巻巻末の賛から引用しているということになろう。 ただし論評部分でなく、史実の要約部分を中心に引用したものか、もしくは、総論的な形で一巻の書としてまとめたものがあって本古伝の著者はそこから引用しているのかもしれない。 費弥については、37章のヒミシウ氏との関係が研究者によってしばしば指摘されている。 37章のヒミシウ氏とも関係するヒミ氏の事績を記録する目的で費弥国氏洲鑑が編纂されたという可能性は高いと自分も考えている (ヒミ氏とは何か、何を包含するかは別途論点となる)。 |
第22章 | ||||||
|
||||||
本22章と23章は、いわゆる殷周革命についての記述であり、24章はその直後の事件
についての記述である。24章以降殷の残存勢力についての記載が第34章まで続き、
さらに関連勢力についての記載が続いていくことになる。
従って、契丹古伝において殷朝は重要な存在とされている。 まず本章では、周の文王とその子(武王)が殷朝打倒を目指し活動を始める様子が描かれている。 殷朝を滅ぼした周とは、実は西族の王朝であり、殷は東族の王朝である。 伝統的な中国古典の世界では、殷の末期は堕落した王朝で周の文王や武王は聖人とされるが、 本文献では価値観がそれとは逆である点に注意されたい。 殷から周へこの王朝交代が、大きな文化的変動をもたらしたこと、周が西方に起源を有すること自体は、中国でも認められつつある。 漢民族国家としての中国は、周から始まったものと見てよいだろう。 羗蛮とは、チベット系の羌族で、周の勝利に大いに貢献した部族である。 隣国のサイトで、夏を殷朝でなくその前の夏朝と解し、昌・発を夏朝の王と修正した上で、 「臣下の夏朝」が「君主(本宗家の王?)」に反逆すると解する向きがあるようだが、間違いである(前章末尾で夏朝に一定の評価を与えていることにもそぐわない)。 というのも、「臣を以って君を弑する(臣下が君主を弑する)」は、『史記』伯夷列伝から採られた表現 で、周の武王が殷の紂王を倒そうと出陣するのを伯夷らが思いとどまらせようとする場面の言葉 (「臣を以って君を弑す、仁と謂ふべけんや」(臣下でありながら君主を殺すのは、仁といえましょうか)) から来ている。 それゆえ、ここでいう夏が殷朝を指すことは動かない。 夏(殷朝)は、反逆したのでなく反逆されたのである。隣国のサイトについては、契丹古伝の旧字体を引用符で囲った "契丹古傳" で検索すれば出てくることが多い。(Bing検索の場合 検索結果右上の"Switch to Bing in English"をクリックして英語表示にするか、設定ボタン≡で言語を「英語」、国/地域を「米国」にするとよい。) なお、咋人の刑の対象が誰かという点については督坑賁國密矩論で触れている (田多井氏の解釈と結論において同じ)。 |
第23章 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
本章では、東族の各部族が、殷朝を助けようと奮闘するが願いかなわず、史上有名な ここで名の挙げられた部族が具体的にどの民族に該当するかは興味あるところだが、詳細は別に譲る。 ただ、族名が列挙される中で、易族と姜族(後者は、前章にも登場したチベット系の羌族)が敵となったとされている点に注意を要する。これらは、 本来東族に属する部族であるのに、裏切ったということになる。 末尾近く、「 「 浜名氏は、 ☆どうおかしいかについて、今まで説明を省略していたが、 新設ページ(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈)(令和2.12.15新設)) の附属ページ(本宗家論)の中で論じておいたので、興味あるかたは参照されたい。 殷が本宗家であるからこそ、多くの部族が救援に奔走したのであり、この後の章でもいくつかの部族は殷朝の王族のために活動することになる。 これは、殷朝が(混血族)ではなく東族の王朝であることを意味する。 これについては、その言語などを理由とする批判も予想されるが、詳細は別に譲る。・・・としたまま何年も放置してきたが、言語論のページに掲載した(令和3.11.12)。 |
第24章 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
本章では、殷の紂王の死亡後も、伯族と淮族が抵抗活動を続け、彼らに奉じられた殷叔の国「 (注) 邵燕:いわゆる燕のことで、周建国に功績のあった召公(の親族)が建てた国。 韓:周の武王が親族を封じた国。いわゆる韓侯国。 翳父婁:5章の毉父と同じ。遼西地方の (解説)ここで、伯族と淮族に奉じられた 子は殷王家の姓、叔は紂王の叔父の意。 (紂王の実の叔父とする説の他、傍系の人物、母方の叔父とする説などがある。) 伯族と淮族は、第8章に この淮・伯は、いわゆる朝鮮民族を構成するとされる 濊族は、朝鮮半島の東部(日本海側)からその北方にかけて分布する民族で、今の朝鮮民族の主流であるとも見られるが、北方系の文化をもつ。 しかし本伝の淮族は、中国の太平洋に面した(倭人のルーツの1つともされる)江南地方の淮徐と呼ばれた地域とも繋がりがある種族らしく、31章には別の一族がこの地方から遼寧省に到来している。 一方、本伝の伯は、狛とほぼ同じであると一応考えられる。ただ、高句麗王家・百済王家は狛族とされるが、王家と一般民は言葉が異なると記録されていたり、また、これらの王家は後の新羅による半島統一によって没落したことなどから、狛族は現在の朝鮮民族の主流から外れていることに注意すべきである。 何よりもまず、伯族と淮族が熱心に奉じた殷が、かなり南方系の要素をもつ王朝であったことに留意すべきで、例えば白川静氏は殷は南方系沿海民族であり、日本の古代文化とも共通点が多いとする。 と述べている。 ところで、殷は夷を意味し、周朝の側からの蔑んだ呼び方ともされるが、夷自体が、東族語に由来する(20章の解説参照)のと同様、殷も単なる蔑称ではないといえるから、「辰沄殷」という国名も不自然ではない。 なお、浜名氏の見解では、殷王家は伯族で、辰沄殷が智淮氏燕と呼ばれたのは外観上は淮族が燕の領域内に樹立した国だからという。ただ、浜名氏の説明によればその近辺は伯族が強い勢力を保持している領域であるから、「武伯氏燕」が出来てしかるべきではないか、と考えるとやや納得できない面もある。 もしかすると、淮族の領域内に辰沄殷が樹立されたのは殷王家には淮族の血も流れていたためで、それゆえに智淮氏燕とも呼ばれたのではなかろうか。(31章で徐族が設立した国(徐珂殷)に「殷」の字が登場するのも、そのことを示唆していないだろうか。) |
第25章 | |||||||||
|
|||||||||
ここでは、武伯の軍が周の勢力を阻むため南進しようとするときに、寧羲氏の有力人物「寧羲騅」の勢力が渤海に到着したこと、及び、勢いづいた高令の一族が
(注) (解説) 武伯軍の行動は前章同様 そこに新たに現れた 従って、そのルーツは東表にあるのではあるが、当時五原のどこかに勢力を有していたと考えられる(5章でいう「五原諸族の間で著名」とは、寧羲氏も五原諸族の一員ということを前提とする)。 ただ、浜名氏はそう解していない。寧羲騅とは日本神話の天孫・ そもそもニニギとニギシが同一人というのは(当時の国益などの観点からなされた)浜名氏のこじ付け解釈であるので注意されたい。寧羲騅のニギは寧羲氏という氏(5章参照)の名称なので、ニニギ命とは関係ない。 (寧羲騅は5章の別神統の「(東表の)阿辰沄須氏」の後裔の寧羲氏に属する一人であるので、天照大神(浜名説では日祖と同一神※) の孫のニニギ命が寧羲騅と同一人とすると浜名説の内部で矛盾が生じることになる。 (強いていえば阿辰沄須氏がニニギ命の父(天押穂耳尊)とでもいうのだろうか。まず無理であろう。そもそも、37章からすればアシムス氏は神祖の子孫のはずなので、上の強いていえば・・というのも実は初めから成り立たない。) これで混乱された方は、※の部分につき本サイトの神話論や、それ以外の点について太公望篇などをお読み頂きたい。 ニギシはニニギ命でないとする説を採るのは、関連文献欄でいえば、・佐治氏(ニニギ命説について「懐疑的」)・鹿島氏・高橋氏(多分)・榎本氏・佃氏(多分)・安部氏である(岡崎氏については氏の著書の項目を参照)。 ニギシは大陸の有名人物であるにもかかわらず 「消された人物」であるというのが自説である。 この点詳しくは太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈)を参照(そこでは寧羲氏が中国の記録上のどの氏にあたるかも検討してある)。 高令というのは、高夷と呼ばれた部族のことで、当時は渝浜付近に居たと考えられる(浜名氏の説と若干異なるが、大筋では同じである)。 東族の集結に喜び勇んで、 壓娜喃旺嗚孟の六文字について浜名は「読めず」とするが、日本語の単語・文章のように読むことができない という趣旨であろう(残りの部分は無理やり日本語の単語に似せて邇邇藝命の遠征シーンに仕立てている。) 特殊な古い神聖語であろうから、自分達の知る日本語の単語の連続として読めるとは限らない。読めない方が むしろ自然であろう。 他の解釈者は独自の訓をつけており、浜田秀雄は「アナナオエモ」と訓ずる(浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』 新国民社 1977年 p.209)。 ここは例えば「アナナオアモ」等と読むことができるが、それほど変わらないので浜田氏の読みに準じておいた。 この進軍は次の章の「夏莫且」という謎の重要人物(東族の裏切り者である人物)を誅滅するために行われており、 歌まで付されていることは、東大古族として立派な、特筆すべき事件であることを示すものと考えられる。 |
第26章 | ||||||
|
||||||
夏莫且という人物が武伯に捕獲され、寧羲騅によって斬られた様子が描かれている。
夏莫且は東族語による人物名表記であると考えられるから、東族出身だが裏切った者ということになる。その正体については解釈上問題となる。 浜名氏は粛慎族の長のことであろうとする(そしてこの人物が宗家の ただ、諸族の喜びようからして相当な重要人物であったのであろうと思われる。 その重要人物の正体が、太公望呂尚であると考えられる点については 新論考(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈))を参照。 その人物が斬られた時期が、浜名説と異なり「克殷」から数年後である点についても、 上記新論考内の附属ページ(誅滅時期論)で論じてある。 |
第27章 | ||||||
|
||||||
ここでは親殷勢力による周側への抵抗活動が続き、燕・韓・斉・周が彼らの巻き返しに会う様子が示されている。 (ただ、韓を除いては、滅ぼすまでに至った訳ではなく、相応の戦績を収めた場合もあったということであろう。) この章で描かれている事件について、浜名氏はその発生を「克殷」の数百年後とするが、当サイトでは「克殷」後10年以内程度と考える。以下理由を略記する。 まずここで、韓は24章の韓と同じ(武王の子が封じられたとされている国(漢民族扱い)で、春秋戦国の韓(漢民族)とも異なる。韓国の韓とも別)。 浜名氏はこの韓の滅亡を今本竹書紀年によりBC756年頃とし、今本竹書紀年では晋によって滅ぼされたとある のを実は親殷勢力によるものだったと解釈して27章の滅韓にあてる。 しかし、「 また28章の冒頭ではまだ殷叔(箕子)が存命であることとの整合性も重要である。 思うに、この韓という国は初期は微弱であったために一旦滅亡もしくは移転したとみることが可能なので(注)、 そのことを「滅ぼした」と表現したと解することができる。 すると「滅ぼした」時期は浜名説より大幅にさかのぼり、東族の抵抗が旺盛だった周の成王(武王の子)の在位した時期と見ることで 27章を無理なく理解することができる。筆者の独自の説ではあるが、今まで見落とされていた重要な点であり かつ正しい解釈であると考えている。 注 詳しくは、新論考(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈)) 内の附属ページ(誅滅時期論) 及びそのページの附属ページである(滅韓時期論) を参照。なお高橋空山説について、27章補足を参照。 |
第28章 | ||||||
|
||||||
本章では、辰沄殷王の死とその後継者の即位について述べられている。
ここでは、一章だけ『辰殷大記』からの引用が挿入された形になっている。 殷叔は辰沄殷の王、子叔釐賖(いわゆる箕子)のこと。その死去は素直に考えて27章に引き続いて生じたものだが、 少なくとも27章の反乱が開始された時よりは後であろうと解釈できる。詳しくは新論考(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈))を参照。 尉越が難解の語であるが、これは、聖座というような美称と解釈することができる(30章の解説参照)ので、 尉越が東に旋るというのは、東に動座するという意味となる。 24章の翳父婁へ向かって移動していくニュアンスであるが、24章の遷都との関係について詳しくは 新論考(太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈))を参照。 この点、浜名氏は尉越は有力貴族に与えられる称号であり、ここでは 殷叔が養子とした督抗賁国密矩について、浜名氏は督抗を意味不明とし、督抗賁という国の密矩とも読めるとする。 しかし、督抗賁国密矩は本古伝に頻出する六音の人名の一種と捉えることができる。 (浜名氏の解釈によると、督抗賁国密矩は尉越である このように督抗賁国密矩の正体について、浜名氏の例のように非殷系人物とする説が今まで流布されてきたが、 解釈を洗いなおした結果、本当の正体は殷の最後の王「 なお、東族語と思われる 「 |
第29章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
本章では大いに時間が経過する中で、伯族が離散する様子がまず描かれ、後半では、さらに年数が経過した後に、辰沄殷が燕に圧迫されて領地を失う経緯が描かれている。
前言を継ぐというのは、27章の内容に続けて、という意味。 「嘯」は訓読みでは「うそぶく」と読む動詞であるが、「ほえる」という意味もある字で、例えば「 この「跳嘯」期間が終わるときは浜名氏によれば「斉の桓公が諸侯(注)を糾合して東族に打撃を加えたとき」 (浜名氏のいう糾合とは斉が諸侯との会盟により覇者となったBC681年前後を指す。同年斉は遂国を滅ぼしている) またはそれ以前に起きた「貊族の分裂まで」とされている。 そのころから伯族の力が弱まっていった。 注 この諸侯達を九合諸侯というが、九合とは糾合の意味。 弁というのは後ほど登場する弁那と同じで、匈奴のことである(一風変わった表記であるが、弁那についての記述上匈奴を指すことは明らか)。 38章からも伯族の一部が西方の弁那(匈奴)に移動していったことが読み取れる。 また秦というのはまだ西方にいるころの諸侯の秦であり、伯族はそこにも移動させられたようだ。 かつて山東半島の民が西方の秦に移されたことが想いだされよう。 孛涘勃は東族語による河川名。曼灌幹は魏略の満潘汗のことと解されるが、その位置には争いがあり、また辰沄殷の今後の移転先との関係でもその位置特定には難しい問題が生じる。 浜名氏は孛涘勃は大淩河のこと、曼灌幹はその西岸とする。なお、この時割譲した土地は一説に千里というが、32章の(辰沄)殷の故地千里と同じものを指すか。 |
第30章 | ||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
本章では、辰沄殷が復興し周辺国から贈り物を受ける様子が誇らしげに記されている。紀元前の日本にあったと思われる「東表」の王についての言及がある点でも興味深い章である。
本章でいう辰沄殷の都の所在地である 大辰は、辰沄殷と紛らわしいが、36章・37章の「辰」国と同じであって、その領域については、36章の解説で触れる。 「大辰之親」の「親(しん)」は、親戚という意味である。この点について詳しくはこちらに記した。(2021.01.02更新) (辰沄)殷から見て親戚である辰国を頼りにするということである。 ここで、(辰沄)殷と辰国の関係について一言触れておきたい。 この点、費弥国氏洲鑑がヒミ氏の事績を記録する目的で書かれた可能性については21章解説末尾 で触れたところであるが、この点37章ヒミシウ氏が辰国の王朝であることから、 殷と別系統かつ当初から本宗家である辰国の資料を使って費弥国氏洲鑑が記されたという発想が 生まれることはありそうである(辰国について様々な誤解があるため)。 しかし、もしそうなら、なぜ本宗家たる辰国の栄光(例えば宗廟など)が殷朝の味諏君徳の繁栄に負けないよう際立つような筆致で叙述されないのか理解に苦しむ (引用の際省略されていると見ると、37章の内容との前後関係で不自然ではないか)。 辰国を主要な話題とするのは36章以降であることも考える(39章最後の言葉から この『洲鑑の賛』の構成は『洲鑑』原文と同じ形態と推測できる) と、辰国は本来的には本宗家でなかったのではなかろうか。 『洲鑑』において34章までは殷朝が重視されており、本章でも辰沄殷が宝物を贈られる様子が語られていることに注意したい。 蠙剣について、浜名氏は、真珠で飾った剣の意味としているが、あるいは真珠光沢のある貝殻で装飾した剣のことかもしれない。 ところで、 鹿島氏は、古い製鉄遺跡のある大分県であろうという。 浜名氏は、そもそも東表=日本であり、その王 少なくとも、 ところで、神廟に祀った 「 このことから逆に考えると、 この点詳しくは、サカタキとサカアケは同一神ではなく、かつ檀君王倹とも別である 附・ |
第31章 | ||||||
|
||||||
ここでは、徐珂殷の建国が語られる。この国のことは他書には見えないが、当古伝においては後の章にも登場する存在である。
このような勢力が、遠征により辰沄殷近辺に国を建てたというのは他に見えない事件である。 |
第32章 | ||||||
|
||||||
本章では、辰沄殷と前章で誕生した 孛涘渤は東族語による河川名(29章参照)。渝は25章の渝浜参照。孤竹はその西方にあった国とされる。 秦が燕を滅ぼしたのはBC222年。 せっかく辰沄殷が旧地を回復したのにそれを秦に与えた(合意の上で)のは、秦が東族であること(後の章参照)から、防御を委ねる等の都合もあってのことか。 |
第33章 | ||||||
|
||||||
秦が中国を統一して間もなく滅びたことと、辰沄殷に逃れてきた始皇帝の孫に対する処遇について述べる。
夫胥は秦始皇帝の長男扶蘇のことらしい。その子とされる有秩のことは他の書に見えない。 |
第34章 | ||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
本章では、燕瞞が前漢の兵力を用いて辰沄殷を滅ぼしたこと、辰沄殷の王が南方へ移動したこと、燕瞞が辰沄殷のことを朝鮮と呼んだこと等が記されている。 燕瞞はいわゆる衛満のことである。その姓は不明で、衛氏というのは便宜的呼称とされる。 辰沄殷の王が移動した先である辰については36章以下参照。前章で辰沄殷を頼って来ていた秦の皇族も共に移動したと述べられている。 最後に、辰沄殷が燕瞞によって朝鮮と呼ばれたことを記している。朝鮮という呼称はこの時が初出で、それ以前の時点について史書が「朝鮮」の語を用いている場合があるが、遡及的に記されたものに過ぎないと浜名氏は考えている。 これによって、辰沄殷が一般には箕子朝鮮と呼ばれることになった。ただ、この朝鮮と、現在の朝鮮とは名前は同じでも、その実体に大きな差があると思われる点に注意しなければならない(24章の解説参照)。 なお、もしかすると本古伝は、智淮氏燕を省略した言い方が朝鮮である、いいかえれば朝鮮の語源が智淮氏燕であると主張しているようにも思え、私も、もしそうならそれはでたらめであろうとかねてから考えていた。 特に、氏燕が鮮となる点が嘘めいているが、最近になってそうともいいきれないと思うようになった。なぜなら21章の「 武王の志が達成されたというのは辰沄殷が滅びたことをいう(浜名説は別の解釈を採る が納得し難い点については督抗賁国密矩論参照)。本伝では辰沄殷のことを単に殷と記すことが多い(ただし本サイトの現代語訳等では便宜的に辰沄殷と表示した場合も多い)からすると、辰沄殷は殷朝の継続という側面があると強調したいのかもしれない。 そう解するならば確かにこのときになってようやく武王の意図した殷朝打倒が達成されたことになるわけである。 なお、これに関連していえば、殷の王族の子孫は他にもいるとされており、また、王族を担いで 周の王族が起こしたとされる反乱等もあるが、本古伝では触れられていないということに浜名氏以来の 伝統的解釈ではなっている。 このうち、後者の反乱(いわゆる「三監の乱」)については、契丹古伝との関わりがある (27章に含まれる)点につき、督抗賁國密矩論を参照。 前者についていえば、周の諸侯国「宋」は殷の子孫とされ、周が祭祀を継承させたことで知られる が、子孫であっても王位を主張していない以上、正統の本宗家ではないということに なると思われる(子孫を冒称している場合もあろう)。これも督抗賁國密矩論参照。 |
第35章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
本章では、燕瞞が漢との約束に反し辰沄殷の跡地を自らの王国として漢を怒らせたこと、それを利用して徐珂殷の王が燕瞞への復讐を図ったこと、燕瞞勢力滅亡後の漢による郡設置、徐珂殷の王の自殺、その子による徐珂殷の扶余への移動・合併が
語られている。 洛(楽浪郡)・兎(玄菟郡)が出現したというのは、燕瞞(衛満)の建てた国が滅びたこと(BC108年)を前提にしている(滅びた都の跡地に漢が楽浪郡を設置した)。 すると、本章の経緯からすれば滅ぼしたのは淮骨令南閭峙ということになりそうだが、そうは明記されていない。 おそらく、南閭峙は辰沄殷の旧都から燕瞞勢力を追い払うことには成功したが、燕瞞勢力が平壌方面に逃れて抵抗を続けたため、その地を前漢が 時間をかけて攻略して燕瞞勢力を滅ぼしたということになろうか。淮骨令蔚祥峙が、楽浪太守でなく 遼東太守を斬っているのは、淮骨令蔚祥峙のいた場所が楽浪郡の中心からは遠いことを意味しているのかもしれない。 本書の淮骨令南閭峙は、史記等に濊君南閭寺、穢君南閭等などとして登場する人物と同一人らしい。この人物はBC128年に漢に投降したとされ ているが本書によれば講和ということになろう。史記でも、投降後設置されたという郡が程なくして廃止されており、これが本古伝の「漢郡とせざる」ということらしい。 徐珂殷の王である淮骨令南閭峙は、淮骨令という姓のような称号のような名を冠しているが、これは王が淮徐地域から到来したことと関係あり、淮族の王侯であることを 示す尊称なのであろう。ただ、淮族全体の王でないことは明らかである。なぜなら現に智淮氏燕(辰沄殷)が存在しているからである。 だから、前漢が濊君と呼んでいるのも、淮族の王侯という意味をもっていると解される。ここで濊という字を用いたため、朝鮮東部~満州方面の濊族と紛らわしいことになった。 さらに、淮骨令南閭峙の子蔚祥峙が国ごと扶余の地へ移動して扶余と合併したというのは、他に見えない記事である。 そうすると、扶余について史書は「濊王之印」とか「濊城」とか記しているのは、従来、扶余=濊であることの証拠であるとされてきたところであるが、 むしろこれは徐珂殷が扶余の地に入ったことの痕跡で、濊王之印というのは蔚祥峙の父が漢から得た本章の「王印」ではないかとも思える。 そうだとすれば扶余=濊というのは、淮の一派と濊とを混同したことによる誤解で、その誤解がさらに扶余と淮と濊との混同を生むことになるわけである。 |
第36章 | ||||||
|
||||||
本章では、辰沄殷の隣国であった辰が、辰沄殷滅亡後にとった防御策について述べる。
この辰という国は本章と次章でクローズアップされている重要な存在で、40章には辰朝の「イヨトメ」という 女性がその終焉に関わるという重要な記載がある。 この辰は第30章の大辰と同じで、いわゆる伝説的な辰国のこと(古代、朝鮮半島の新羅・任那・百済の地にかつては辰韓諸国・弁辰諸国・馬韓諸国が存在したことは周知であるが、それらの地はみな またイヨトメと辰国の関係は40章から明らかであるから、辰国は日本とも関係しうる。 辰国・「韓」・イヨトメの関係が問題となる。これは日鮮同祖論から説明されれば 単純な話となり一見理解し易いわけで、浜名氏の説もそのように読まれることが多い。 しかし自説の立場はそのようなものではないわけで、どう解するべきかという点であるが、 本項目では省略としたい。ただし18章の項目で紹介している浜名説の解釈には浜名氏 の本音が垣間見えており、これが大きなヒントとなろう(「真の韓人種」の表現などを参照)。 浜名氏の見解では辰国の中心はむしろ朝鮮北部であり、馬韓も当然朝鮮北部まで及んでいたとする。 これは極端な見解であり、馬韓は朝鮮南部を中心に考えるべきではあろうが、ただ、魏志の韓伝によると馬韓諸国の中には靺鞨のような異文化をもつ国があることが示されており、それは馬韓が異文化の部族をも包摂する存在であったことを意味するようにも思われるから、馬韓が半島北部に及んだという浜名氏を完全には無視できないようにも思われる。 そうだとしても漢の楽浪郡が平壌辺りにあったとすれば、完全に漢の勢力を排除はできなかったことにはなるが、 臨屯郡・真番郡の排除には成功したということになろうか。(実際、両郡は漢によって廃止されている[一部は楽浪郡に合併]。) 蓋馬大山は、朝鮮半島北東部の摩天嶺山脈である。 |
第37章 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
本章では、辰国における諸勢力の動向と漢に対する防御の様子が語られている。
本章は、前章にも登場した辰朝についての貴重な情報を提供するもので、特に、その王家が東表の王家の子孫であるという記述が注目される。 40章のイヨトメという女王もしくは王女は、本章後半の「賁弥辰沄氏」朝の人物と捉えるのが通説である。 ところで、古代の辰国については魏志・後漢書に掲載される情報が乏しいため、本書にあらわれる五つの○○氏は貴重な資料である。 この五つの辰沄氏の解釈について、一つの方法としては、辰国の領域が後に辰韓諸国・弁辰諸国・馬韓諸国となったことと絡めて、それを本書の○○氏と対応させようという試みがしばしばなされるが、なかなか成功しないとされる。 浜名氏は別のアプローチをとり、五つの辰沄氏はいずれもいわゆる馬韓の辰王であり、辰王国内部で五つの王朝が順番に交替したと解している。 いずれにしても、本書にあらわれる五つの○○氏を単純並立的に捉えているのだが、これは誤りであると考えられる。 本章をよく読むと、最初の方の「神祖の後に~」から「干来 そこで本来、費弥国氏洲鑑にはこの「伝」とコメントの部分はなく、あとから注釈として(小さい字で)付加されていたものが写本の際に本文と一体化してしまったものと考える。 なぜなら、その部分を除外してよむと意味がよく通じるし、もし、もともと本章全体がまとめて記述されたのなら、 そうすると、まず、辰の最大勢力は そして、 この馬韓というのはとりわけ倭国(日本)と関係が深いらしく、実は百済成立後も一部地域に馬韓勢力が残存し、倭国と親密な関係であったことがわかっている。 だから、 また、費弥国氏洲鑑の費弥というのは、東族の宗家か何か特に尊い存在を指すとすればその内容とよく符合するところ、 (このように書くと、ではなぜ費弥国氏洲鑑は辰沄殷が衛満朝鮮に倒された時点で「殷滅ぶ」としたのかとの疑問を 投げかける方もおられよう。洲鑑の著者の意図を知ることはもちろん不可能ではあるが、「辰朝」がこの後、漢朝等の勢力に押され、 時期によっては従属的な立場になったことも想定されうることと関係するのではないか。本宗家としてそのような立場に甘んじることは 本来許されないという筋論を押し通したいような立場であれば、 西族に従属したことのない辰沄殷と賁彌辰沄氏辰とを分けて考え、後者は分裂した本家の名残ぐらいの扱いにしておけば、 そのような筋論は一応貫き通せるからである。) なお、繰り返しになるが浜名氏の解釈では賁弥辰沄氏はあくまでも馬韓の辰王国の五番目の王家に過ぎず、辰沄殷とは関係ないということになるが、第40章の解釈との関係でも問題がある。 (注)逆にいえば浜名氏は「伝に曰く」の射程範囲を自説のように取っていないことになる。 しかし、自説の分析の方が正しいと考えている(珍しいことに、鹿島訳でもそのように正しく訳されている。おそらく翻訳協力者の手腕によるものか。) なお、伝の部分を含めた詳細は別途検討する。 安冕辰沄の安冕は、日本の上古の神の名「 ただ、自分の考えでは、こういった昔の族称も東族語による一種の佳名・美称であり何らかの神聖語から きていると思う。そして、このような美称は、同じ美称でも長いバージョン・短いバージョンがあったり、 さまざまな変化形があったりして、その変化のつけ方が現代人には普通にはわからなくなっている場合がある(注)と 考える。 そして、アメにしても、それは佳称であるから、複数の異なる部族に共用されるということも あることは日本の古代姓氏などに鑑みれば容易に想到できよう。 ヒミが何か変だと思っても、長くすればまた別かもしれないなど、色々な可能性を検討することが必要で、それを せずに安易な推理をすることはやはり冒険ということになるのではなかろうか。 (注 例えば神代六代の「アヤカシコネの尊」が別名では「イムカシキの尊」となる例など。) |
第38章 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||
本章は、弁那(匈奴)における2つの部族について述べ、繆突(冒頓)の血統と匈奴帝国建設についての真相を述べるとともに、
繆突(冒頓)を支持した伯族の動静に絡めつつ、高令の一族が移動したことを示す。
弁那とは匈奴(きょうど、ふんぬ)のことである(29章の「弁」と同じ)。二 また、 この前者 弁那(匈奴)の中には、淮伯諸族のうち弁那(匈奴)に合流した者(その経緯は29章参照)が混じっており、かれらはこの ただし、合流したといっても匈奴の傘下に入ったという程度で大して混血していないという筋立てである。 このことは本章の終わりの方で匈奴内の伯が匈奴から離れ漠辺(=砂漠の辺境)に潜んだことからも窺えよう。 さらに、この辰沄殷の地を引く そして、その養育されていた一人が繆突すなわちかの有名な匈奴の冒頓だという。 そして史書では冒頓の父・頭曼とされているのが本書の「 その後、刀漫が繆突を嫌い、鞅氏(月氏)に人質に出しておいた上で鞅氏を襲い、鞅氏に人質たる繆突を殺させようと企てたのはおおよそ史記と同じである。 しかしその後が異なる。脱出した繆突はすぐに匈奴に帰ったのではなく辰沄殷に保護を求めたという。血筋からすれば自然な選択ではあろう。 辰沄殷は弁那(匈奴)内の伯族と連絡を取り合い、それにより繆突は(刀漫を打倒して)匈奴に帰国し、かつ ただその後、繆突は前漢からの賄賂で野心を失い死に体となったという。 そのため弁那内の伯族は不利な立場に追い込まれたものか、放浪して砂漠の辺境に潜むことになったという。 そこで(注・この時点では辰沄殷は既に滅びている)、辰朝(前章等参照)がいくらかの土地を提供して彼らを招いた。これは漢に対する 防御に有用と見たものであろうか。そこで招きに応じて高令の一族がやってきたというのであるが、 ここにいくつか問題がある。 浜名氏は、やってきた高令は辺境に潜んでいた伯族ではなく前章の牟須氏系の高令で、最後の部分は「ところが高令が やってきた」と解するようである。ただ、「すなわち したがってこの高令は、25章の高令(=高夷。25章解説末尾参照)のことと解するが、この高夷はおそらく淮族と伯族の混血で、29章の時に匈奴に 合流したものと考えられる。そして匈奴から分離した後、辰朝の招きに応じてやってきたのではないか。 (高橋空山『契丹神話(全)』p64も、匈奴から分離した氏族が招きに応じて到来したと解する。 ただし繆突単于の縉耘伊逗氏の系統と、それに失望した匈奴内伯族とを混同しているように見える点は 正確さを欠く。) さらに問題は残る。それは辰朝が提供したという ○「殷乃為康」の解釈について 殷乃為康を浜名氏は「殷乃為に康し」と読み下しているが、この読みは誤りである可能性が非常に高く、 そうであればこの部分の本文も浜名氏が偽作したものではないことになる。→詳細はこちらに掲載した(2023.5.19 )。 結局その部分は自説のように、「殷はそれゆえ安康となった」と解するのが妥当と思われる (浜田秀雄氏の読みとその点はほぼ同じ)。 読み下しとしては、「殷すなはち康となる」でよいのではなかろうか。 ちなみに鹿島曻説の場合「殷はすなわち康(こう)となった」のような解釈となるが、 鹿島氏は「康」を名詞と捉えて「康」=「高」=「高句麗」と解釈するので、 「辰沄殷は衛満により滅ぼされ、その遺民が高句麗の民となった」といった感じの解釈 になっている。しかし、文脈にも合致しないので、鹿島氏の都合に合わせた勝手な解釈としかいえない。 |
第39章 | ||||||||||||
|
||||||||||||
ここでは辰朝が東表(と思われる国)に使いを出したり、様々な方策を講じて、外敵の来寇に対処したことが記されている。
冒頭、伊鎩河畔というのをもし「伊鎩という河の河畔」とすると、「~河畔に使いを出した」となって意味が不明瞭となる。 よって、伊鎩河畔は地名であり、ただ河畔という字を使用することで、河の近くにある場所であることを示したものと考えられる。 次に、載龍髯は第30章の「東表 の ・崛霊[言+冉]載龍髯は ・載龍髯は天皇を意味し、崛霊[言+冉]、伊鎩河畔は天皇の宮の所在地を意味するとして、崛霊[言+冉]載龍髯は孝霊天皇、本章の載龍髯(伊鎩河畔載龍髯)は開化天皇とする説(浜名説) などがあるが、「 その場合、本章の載龍髯も(時代は違うが)崛霊[言+冉]載龍髯ということになるし、また、伊鎩河畔は、東表の首都(またはそれに準ずる京)ということになりそうである。 浜名氏の考えは、載龍髯が天皇を意味するという点と、本章の載龍髯を伊鎩河畔載龍髯と解する点では私と異なるが、本章の載龍髯も第30章の載龍髯も東表を代表する王と解する点では共通している。 東表から提供した「遠鎩河及頌卑離」については、不明。「遠鎩河及び頌卑離」と読む解釈者もある。 「 なお、費弥国氏洲鑑からの引用は本章で終了する。 |
第40章 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
本章は、辰の廃墟の様子を描いて一連の歴史の叙述に区切りをつけるとともに、天命を受けた真人の出現を期待して、次章以降で語られる契丹王家の故事につなげるものである。
しかし、本章は難解な点が多い。 まず、辰の廃墟というのは何の廃墟なのかという点について、 それが辰王たる また、本章で引用されている『洲鮮記』は、辰韓(前々章参照)諸国の一つである「洲鮮国」について記した訪問記と解するのが自然である。 すると洲鮮国に辰の廃墟があることになる。 ただ、浜名氏は辰沄殷の後継と馬韓の賁弥辰沄氏は別という立場(37章解説参照)から、少し異様な解釈をしているのでやや細かくなるが紹介しておきたい。 浜名説では、本章でいう辰の廃墟があるのは「洲鮮国」ではなく、賁弥辰沄氏の辰王がいる「月支国」であり、月支国から東方を見たはるか先にある洲鮮国が「東藩」で、その洲鮮国こそ辰沄殷の残党なのだという。 『○○記』の○○が地名・地域を指す場合、『○○訪問記』『○○旅行記』の意味になるのが自然(第7章の『耶馬駘記』もその例といえる)であり、本章でも「訪う」とか車に乗るなどその雰囲気がよく出ているのに、訪問したのは洲鮮国でなく月支国で、洲鮮国は遠景を少し見ただけということになる。これでは不自然過ぎると考えざるを得ない。 (いずれにしても浜名氏の解釈だと月支国も洲鮮国も朝鮮北部にあるということになるらしい。) 私は、通説通り洲鮮国は半島南部にあり、魏志の卓淳国と同じと考える、もっともその位置には2説あるが、詳しくは別に検討する。そしてその地が辰沄殷の最後の拠点と考える。 次に、「娜彼逸豫臺米与民率為末合」については、浜名氏は「 これに対し、鹿島氏は、末合は未合の誤りで、未合とは そもそも、「娜」には「なよやかな」という意味があり、「美しい」などの訳語もあるが「 思うに、娜彼は「 また、浜名氏によれば、逸予台米の逸予とは邪馬台国の卑弥呼の宗女壱予(台予)のことであり、彼女が朝鮮北部から末合(満州方面)へ移動したことになるという。 (このように浜名説では卑弥呼も壱予も半島内の人物となるが、実際にはこの二人は日本列島内の人物と考えられる。) また、逸予台米は壱予とも卑弥呼とも別人であり、また彼女が最後に満州へ移動[浜名説]や任那へ移動[鹿島説]したというのも誤りと自説では考える。 そもそも逸予台米が平壌にいたという浜名説を前提とする限りは、何となく北方への移動もありそうとなるが、逸予台米はもっと南方にいたはずなので、満州への移動は不自然である。 詳細は別の機会に述べたい。 なお、逸予台米が最後に いずれにしても、直後の物寂しい情景描写からすると、ここにあった 次に、「 この描写と、「大いなる これは、「 ・全体として、辰の廃墟の描写であるという考えに立つと、この訪問は星の出る夕刻か何かに行われたことになるようにも思える。 ・浜名氏は、「 その詳細は後日を期したい。 「ああ、 辰沄氏殷」以降は、ああという感嘆詞がいみじくも示すように、洲鮮記の著者が特別な感慨を表している 箇所として注目すべき記述である。 この部分を細かく分けると ①ああ、辰沄氏殷はどこにいってしまったのか・・と辰沄氏殷に想いを致す部分 ②茫茫たる・・之感、と感慨にふける部分 ③またそぞろに・・と真人出現を待望する微妙な心境をのべる部分とに分かれる。 ②「茫茫たる」は、「広大な」と「覆われてよく見えない」の2つの意味がある。また、 「訶綫」の意味は未詳とされるが、浜田秀雄氏は訶を詞の誤りと解し訶綫を「シセン」と訓じている。 (浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』新国民社 1977年 p.228) 確かにそのように解すれば、詞は嗣(子孫)と同義の字で、綫は糸であることから、詞綫とは子孫に連なる糸すなわち 家系、王統といった意味と考えられる。 そこで、ここは「茫茫」を「覆われてよく見えない」の意味に解すれば、「悠久を誇る(辰沄殷の)系統がいまや埋もれて どこにいるかわからなくなってしまった。」と解釈できる。 ここで契丹の立場は(辰沄)殷朝が絶えたという立場であり、それは下の③の解釈とも符合する。 契丹と異なる立場においては、絶えていないという考えもありうるが、その場合にどういう子孫が どういう経緯で継承したのかというのが(契丹古伝本文から少し離れたコンテクストで) 問題となりうる。これは一つの論点とはなろうが、その検討の際少なくともここに記しておいた点については留意しておくべきであろう(この段落は2023.09.30追加)。 ③の真人の興るをまつとは、聖なる偉人が天命をうけて東族を統括し 威光を輝かせる日が再び到来するのを待つという趣旨であろう。それと同時に、もはや現状はそのような存在が おらず、将来に期待するしかないという悲しみの気持ちも充分読み取ることができる。 この真人とは、老荘思想における道の極地に達した人とか、真理を悟った人とされている存在で、「三国志」で著者陳寿が魏の初代皇帝曹操を真人になぞらえる記述を していることは有名である。浜名も当然そのような常識的な意味で解釈していることは、特別の説明を付していない ことから明らかであるし正しい解釈である。そして、契丹古伝の編者(耶律羽之)の編集意図は、契丹(遼)の 2代皇帝太宗こそその「真人」なのだと示唆することにあるという点も、浜名氏の述べる通りであろう (遡源p.644, 詳解p.358参照)。 さて上記①②③の関係についてみると、いずれも極めて心情・感情の溢れる表現であって、これらの感情が 相互に無関係とはまず考え難いが、異説もあるので自説を少し丁寧に述べて置きたい。 23章末尾の嘻、朱申の宗、賄に毒せられ、兵を倒にして、東委尽く頽る・・が ②の原文、「訶綫」がそのままでは残念ながら意味不明とされるが「~ ③真人に関して浜名氏は「余韻に弔古の幽愁を響かして眞人の興るを促し」 (浜名 遡源p.685 詳解p399[「神頌叙伝後序」の中]。太字強調は引用者) と記しているがこの弔古とは 「辰の墟を訪ひ其の東藩に覧て辰沄殷を弔せるは、古を懐ふ もの誰も皆しかあるべき」(浜名 遡源p.682, 詳解p396)との浜名氏の言にあるように、辰沄殷を 殷を本宗家から外した浜名氏ではあるが、契丹古伝がその物語を辰沄殷についての記述で締めくくっていることは 氏でさえ否定できなかったのである(浜名氏なりのつじつまのあわせ方としては 新論考「太公望の意外な最期(夏莫且の正体)」 内の附属ページ本宗家論の注2-6参照)。 それはまさに古を懐う心ある者であるならば、自ずとそう読めるしそう読むべきものとしかいえまい。 補足 この契丹古伝を契丹の伝承でなく本来渤海のものと浜名氏は解しており、 渤海のものとする理由として浜名氏は根拠を5つ挙げている(遡源p.681-p682,詳解p.395-p.396参照)。 これには部分的には問題がある点につき、関連文献欄にも述べたことがある。 40章のイヨトメ靺鞨移動論につき自説は否定説であることは上でも述べた。 ただ浜名説を信じる方もおられるとは思うので、その方々の便宜のために、浜名説を採った場合の、氏がここでいう靺鞨が、8世紀の渤海の頃の靺鞨とは ニュアンスが異なることを指摘して、読者が混乱されないよう注意喚起しておきたい。 イヨトメが3世紀に入ったと浜名氏が主張する「靺鞨」は、渤海の頃の靺鞨や 渤海建国(7世紀の末)の前段階の靺鞨7部よりも、もっと昔の、より広い概念であり、高句麗の領域をも含む 広大な東大神族領域の意味で使われている。これは契丹古伝6章の美称の一種である「マカ」とも関連する。 浜名氏は「正銘の靺鞨は高勾麗に蔽われた馬韓の名のよみがへりである」(遡源p.336.詳解p.50)としている。 (この広い靺鞨概念と似た考えかたとしては、日野開三郎氏が高句麗は独立した勢力となったため 靺鞨には含まれなかったという趣旨を述べておられるのがやや近い。) では具体的にはイヨトメたちはどこへ入ったと浜名氏は見ているかということになるが、 浜名氏は決して彼らが満州奥地・沿海州方面へ入ったとは考えていないことに留意されたい。 なぜなら、 馬韓{(辰朝のことをしばしば浜名氏はこう呼び換える)}は最後の女傑 卑弥呼を以って終と為し{(浜名説ではその宗女がイヨトメ)}、高勾麗の名にとあるように、イヨトメの民を、高句麗の主力となるような勢力で、渤海建国者の基盤となったもの と浜名氏は捉えている。したがって彼らが入ったと浜名氏が考える領域は高句麗近辺であり、せいぜい高句麗に隣接する もちろん実際には、上にも書いたように、イヨトメの満州行きは無理な話と思われる。 |
第41章 | |||||||||
|
|||||||||
本章からは、契丹王家による 後の章にあるように、この 天顕元年は西暦926年である。この年の元日に契丹(遼)の皇帝(太祖、耶律阿保機)が太陽を拝んだ際に、神鳥らしき丹鶏が皇帝の頭上を旋回したところから、 記述が始まっている。このように契丹王家には太陽信仰があった。その神鳥の行方を追ったが分からなかったという。 しかし次代の皇帝(太宗、耶律堯骨)の時(会同元年=西暦938年)に再び神鳥が現れ、追跡すると毉巫閭山に降り立ったという。毉巫閭山は第5章の毉父、第24章の翳父婁と同じで神祖の降臨地である。 さながら第3章で神祖が するとその降り立った場所(注)に不思議な石があり、赤紫の細いすじが入って自然に文字の形をなしていた。これが もちろんこれは皇帝を讃えるために美化された物語ではあろうが、 注 原文では「所止」(とどまる所)。赤い鶏の「とどまる所」とは、単純に言えば「居る所」である(「止まる」の語は24章にも出る)。 (『大学』で孔子が人の居るべき境地を解く際に、鳥のとどまる場所の話をたとえに出していることを見ても もっともな解釈ではある。)ただ、止まるは飛ぶに対する概念でもある。だから、この章で飛翔していた丹鶏が止 まる場所とは飛翔をやめて地上のいずれかの場所に落ち着いたその場所ということであろう。 2回目の丹鶏出現に「因って」毉巫閭山で聖石を得たというのも、丹鶏が飛ぶのをやめ降り立つ場所を今度も探した らそこに丹鶏が聖石を残していたのを発見したという意味に解釈できる。浜名氏も「会同元年・・・また丹鶏の 祥があったのでその行先を突きとめやうとして、 このことは一見些細なことに過ぎないことに見えるが、次章の解釈と実はかかわってくるのでそれなりに大切な 箇所である。ただしその次章の詳細についての掲載は仮にできたとしてもまだ先になると思われる。 |
第42章 | |||||||||
|
|||||||||
契丹(遼)の太宗(第2代皇帝耶律堯骨)が前章(後半)の奇跡に喜び、自らの祖先神について述べるとともに、自らの決意を明らかにして新たに建立した神廟に今回発見された この つまり、皇帝は自らも神祖の子孫である旨を述べ、前章後半の奇跡を見ることができたのは、その自分こそが(神祖がかつて開いた)五原の地を回復できることの証であると述べている訳である。 そこで、皇帝は新設した神廟に前章(後半)で発見された なお、神廟は「明殿」の敷地内に立てられたが、「明殿」とは先代皇帝を偲ぶ為の建物で、あたかも先帝が生きて暮らしているかのような体裁を整えたものという。 ちなみに、『遼史』に、「君基太一神がしばしばあらわれた」という記述があり、本書の神と同じ神と思われる。ただし契丹王家の先祖とは書かれていない。 これに関し、君基太一神は道教の福の神であることを理由として本古伝をでたらめと非難する見解もないわけではないようだが、それは早計であろう。 道教は、儒教文化に比べ基層に存在する文化で、それは西族文化によって覆い隠された東族の文化の名残を伝えている可能性が高いという点を十分考慮すべきと考える。 何以能見哉。朕當輙善也の解釈について、私の解釈は従来の説と少し異なるので疑問を 持つ方もおられるとは思うが、結論的には自説が正しく、浜名氏も同じ読みをしつつも矛盾回避のため少し解釈を 誤魔化したということになる。その説明はまた別の機会に譲る。 |
第43章 | ||||||
|
||||||
|
第44章 | ||||||
|
||||||
第45章 | ||||||
|
||||||
次章にもあるように、これらの詩文の意味は相当古い言葉で記されていて当時も意味不明であったとされる。
ただ、前々章、前章、本章の各神頌の冒頭にある「辰沄繾翅報」はあきらかに本書のいう東大国皇すなわち「『東の偉大なるもの』の国の皇」 を意味するから、東族古語で記されていると考えうる。 しかし、浜名氏は全てを和語で解釈しようとして例えば43章(第1神頌)の「 残念ながら説得力に欠ける所があるといわざるを得ない。 したがって、その意味は、鋭意研究するとして、単純な決め付けは控えねばならないだろう。 本章の第3神頌については浜名氏も指摘するように、『魏志』に類似の語句が称号として登場している。 それを参考にするという方法もあるが、これには色々問題があって、例えば、学者の多くは その称号を"所領名と君主号(肩書)のペア"の複数個列挙と分析するのであるが、そうではないということに留意すべきである。 もし、学者のいうような辰王国ローカルな内容であるとすればそれは(殷の権威を 丹鶏の奇跡により受け継いだと称する契丹に)適用できるわけがない。 実際には、本古伝の語るように「頌」つまり一種の詩であるから、より普遍的な美的言語として契丹を飾ることもできる のだと解する方が適当ではないかと思われる。 同じく第3神頌につき、「 浜名氏についていえばこの部分を「 そもそも、片方にだけ弁(べ)音が含まれるのであるが、 このような音が付いたり付かなかったりというのはよく見られる現象であり、補充的な音としてとりあえず 考えておけば足りる。そこで、「秦支廉」の形の方に注目すると、実はこれは スサナミコの名前「スサナ」の一ヴァリエーションであると考えることができる。 15章で、「 このように、スサナのサはシにもなりうるから「支」と表記されることはありえよう。 また、「廉」(ラ)はタナラ音転を考慮すれば「ナ」に近似した音である。 したがって、秦支廉(スシラ)≒スサナということができる。 よって、秦(弁)支廉というのは、スサナミコの御名前を意味すると考えるのが妥当である。 とすれば、第3神頌というのは、スサナミコのフルネーム的なものと考えることができる (辰沄繾翅報・順瑳檀彌固の長い言い方)。 この長い御名前が、魏志で称号として登場するが、その称号の意味するところは日孫スサナミコの後継者で あることを示すという点にあろう。 第3神頌が、スサナミコのフルネーム的なものであるからこそ、そのまま称号として使用することが できるということではないかと考えられる。(機会があれば詳しくは別に述べたい。日本の神名でも同一神につき長短各種の御名前で 呼ばれることがあることを参照。) (契丹古伝解釈者の中には、昔から、秦(弁)支廉の秦を秦韓の意に解するなど、 具体的な地名にあてる解釈をした上で、第3神頌的称号をもつ辰王国の最後の王女イヨトメがマッカツ・渤海方面へ 移動したことにより契丹古伝にそのような神頌が収録されえたという構成を採る方がおられたと思う。 しかし、契丹は殷の継承を主張しているのであり、辰王国の継承を主張しているのではないから、その解釈は疑問である。この文書から読み取れる契丹のとる立場・建前が何か、を考えてみたとき、そこにおいて神頌は本宗家となった(と主張する)契丹を讃えるのに相応しいものとして位置付けられているといえる。契丹がそのような意図・立場をとる前提として、この神頌という詩がそれに見合った内実をもちうる一定の美的表現であるという共通の認識があったのではないだろうか。 神頌の「秦」の部分にしても「頌」という詩的な言語の表記方法として万葉仮名風に表記 されたのに過ぎないと考えれば、それは秦韓のような地域名ではないのであるから、契丹をも飾るものとして 使って差し支えないということなのではなかろうか。 もし秦が秦韓を意味するなら、第3神頌は秦韓を保有する半島南部の辰王国の独自の (仮に、秦を秦韓のような地域名とした場合、イヨトメという本宗家の姫が、(自説とは異なるが) マッカツ方面へ逃げたとすれば、本宗家が逃げたことになるから一見問題が解決されそうに思える。が、そんなことは ない。本宗家なのに、第3神頌にそのような秦韓など辰王国固有のローカルな地名を交えるのは妙である。) (厳密には、妙というだけでは問題があるかもしれないが、フルネーム論ほか、種々の考慮により 上記の結論は維持されると考える。) これらの詩文は、「辰沄繾翅報」で始まっていることからも察せられるように、契丹王家に固有なものではなく、 [工事中ここから]まさに東族○○○○○○○神聖な詩であり、そう考えた時に、それは当然○○○○○○○○○○ はずであるし、さらに、本伝の○○の類型を考えると、さらに○○の○○○○にも○○しうる○○○ である可能性があり、○○の○○○に深く○○している可能性がある。 [ここまで工事中] |
第46章 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
本章では、皇帝の母である応天皇后(述律氏)が亡き夫である先代皇帝の言を思い出し、契丹王家に伝わる古語と関係ありそうなこの古頌の意味を知ろうとするが 果たせず、自ら琴の伴奏で朗唱して詩の意味に近づこうとする様子が描かれている。 そして、この出来事が本書編纂の動機となったという事情が編者により明かされて筆がおかれている。 応天皇后が思いだした夫の言葉というのは、 ちなみに浜名氏は、 神宝の最上位にある物というのは、その意味が日神体であるとされるから、本古伝第1章の内容の内容に照らせば、鏡ということになる。ということは結局、可汗という有名な称号が、東族古語に由来することになるわけである。 (再言すると、浜名氏他の解釈では、この部分の記載には①葛烏菟の名が「かぶと」に対応すること、及び②可汗の称号が日神体(= 皇后はこのような日神体とも由緒が深そうな今回発見された古頌の意味を知ろうとするが、学士の言う通りそれははるかに昔の時代の言葉で記されておりわからないという。 これは、古頌の文が相当古い時期に成立したことを示している。 そのあと皇后がこれを朗唱し、荘厳な響きがしたことは上記の通りである。 最後に、本古伝の編者(羽之)が、この神韻たる古頌を記録し、古頌に関連する事項を集めた本古伝を叙述したことを明らかにしている(これゆえ本古伝は神頌叙伝とも呼ばれることがある)。 編者の羽之というのは、一般には耶律羽之(東丹国[契丹が渤海を滅ぼした後に建てた国]の左次相)とされる。(契丹には同名の人物が多いので、厳密には 別人の可能性もある。) 最後に、会同五年六月日(会同五年[西暦942年]六月某日)という日付が書かれている。 思うに、本古伝は貴重な内容を含む一篇でありながら、その表題を欠くとともに、第23章の「朱申の宗」といった重要概念についての 説明を欠くなど、不審なところもある。したがって、本古伝は未定稿(未完成)なのではなかろうか。 それゆえ、会同五年六月某日というのは完成目標年月を示したものであって、実際にはそれ以前に何らかの事情により執筆中断のやむなきに いたったのではないかとも思われる。 |