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「解釈」なのか「原文修正+独自説提唱」なのか
 ~両者を区別する必要性~

ここで論じる内容は、契丹古伝解釈のポリシーについての一般論のようなもので、 例によって多くの読者の興味をひかない内容であると思う。
ただ、契丹古伝についてもさまざまな本が出版されるなか、「どうしてここまで解釈が分かれるか」 という疑問を持つ方も多くなってきている。
そのような疑問で頭が一杯になった時などに、頭を整理するためには、 「そもそもこれは解釈なのか?」という視点も有用だ。
深い読解をするためにはそのような視点も必要になる場合も出てくる。
そのようなわけで、以下の文章は確かに超理屈っぽい話ともいえるが、あとあとの事を考え、掲載に踏み切らせて頂いたものである。


これから書くことは、それほど複雑なことでも実はない。 ただ、やや理屈が はいる話ではあるので、肩が凝らないよう、"関連はするが少し異なる話題"から入っていこうと思う。

「契丹古伝関連文献」のページに自分は次のように書いた。

  本の中に「契丹古伝に~と書いてある」と断定されていても実は「ただの特殊な解釈」 に過ぎない場合があるので要注意である。


実際、具体例を挙げるとすれば、、契丹古伝11~15章の地名を 南米などの地名に置き換えたものを、 「契丹古伝によれば、・・・という。」と表現している例がそれにあたる。

こういうたぐいのものは、本来、
「契丹古伝に~と書いてある」
ではなく、
「契丹古伝に~と書かれているが 私はそれを・・・・と解釈する」
と明確にすべきだろう。
(もちろん、解釈に争いの少ない場合など、一々書かなくても文脈上わかる場合もあるだろうとは思う。)

契丹古伝の場合、解釈で補充したものを「契丹古伝に~と書いてある」という例が多すぎるようだ。

だからこそUyopedia氏が
『契丹古伝』は、解釈された内容・語られている歴史・原書をとりまく諸研究、 等までをも包括的にいう傾向がある
(太字強調は引用者)
と『契丹古伝』の定義を拡張することまで余儀なくされておられる、そんな事態を生じさせているのではないか。 そのように思えてならない。

本来、拡張する必要はないのであるから、できれば誤解を生む表現はしないよう解釈者は心がける べきと思う。Uyopedia氏の言われる「傾向」が消えていくよう我々は努力すべきであろう。
(例えば、契丹古伝に「殷もと倭なり」と書いてある、などは論外というべきだろう。)

さてさて、今これから書くことは上記の話とは別の話である。
原文は原文、補充解釈は補充解釈と、きちんと分けた上での話となる。

契丹古伝を解釈する際に、どうしても生じうるのが、「原文の一部切り捨て(または修正)」の問題だろう。
これは、契丹古伝を他の本などと組み合わせて解釈される方の場合は当然起こり得る事態である。
なぜなら、いわば契丹古伝の「つまみ食い」的な内容になるため、利用されなかった部分との 整合性がとれない解釈が当たり前に生じるからである(利用されなかった部分の中に、"原文切り捨て"的なことが発生していることになる)

では、契丹古伝に正面から取り組む場合はどうだろう。
①この場合にも、「原文の一部切り捨て」的なことがやむをえず起きる場合もある。
例えば、契丹古伝の内容の中に相互に矛盾する内容があるとすれば、どちらを採るかという話になり、 採られなかった方は結果的に「切り捨て」られることになる。
この場合は、一般的には、やむをえない処理なので、ルール違反とはいえない。
(もちろん、矛盾するかどうかの判断は主観的なものであるから、微妙な場合もあろう)

②では、それ以外には「切り捨て」は生じないのか。
原文を解釈するうえで、自分の信ずる歴史体系とまったく会わない場合など、原文を一部 無視したいという欲求が生じることは、当然ありうる。
ただ、都合の悪い部分をどんどん無視していけば、契丹古伝の解釈としてどのような歴史でも 簡単につくれてしまうことになるから、ある意味「ずるい」方法であることは確かだ。
そのため、そのようなことをしてしまった場合であれば、
「ここは原文を無視した」と明示するのが最低限のマナーではないかと思う。

③実際には、①と②の中間もありうるので、読者も原文からの逸脱の程度がどれほどのものなのか 判断に苦しむ場合もありうる。
ただ、このような視点をもっておかないと、「なぜこの本はこんな解釈ができるのか、 さっぱりわからない」という状態が生じやすいのではないかと思う。

以上のように、原文の一部否定の場合は、それを明示してもらうと、読者としてはありがたいだろう。
その一例を挙げると、 浜田秀雄氏の本は、他の古史古伝をも使用した本なので、もともと厳密な処理は期待できない 本ではあるが、38章の解説では「・・この文にある如く辰が(中略)高句麗を招くことは絶対に 不可能でせいぜい・・・」
と「原文の一部["辰 招くに"部分]不採用+独自説提唱」を明示されている。これは歓迎すべき説明形態といえるだろう。


①と②の中間的な場合がありうるという話をしたが、この領域が意外と重要である。
契丹古伝の全体的ななりたちを考えた場合に、この部分はあとから付加されたというような推理を することはありうるし、その理由次第ではマナー違反ということにならないことはありうる。
例えば、第18章(『秘府録』の一部)の言葉づかいが、同一の字が繰り返し出現することを回避した 言い回しになっていることなどを理由に、「弄筆」であり「本頌叙の体でない」と浜名氏が している(溯源p.428-p.430, 詳解p.142-p.144)のはマナー違反にならない例と思われる。
①のような「どうしてもやむを得ない」場合ではないが、許される処理ではあると考えられるのである。
(ただし浜名氏は、18章が掲げられている以上、浜名氏の意見を一旦懐にしまって、一応 注釈をするという趣旨のことは述べている。)


逆に、この中間領域において、浜名氏の記述で、マナー違反になるかもしれない例をあげよう。
この例は少しわかりにくいかもしれないが、要するに
「契丹古伝(または原資料)の著者は少し勘違いをしている」と浜名氏が扱ってしまっている例があるのだ。
この「勘違い」が「事件発生時期」に関するものなので、一見ややこしく見える話となってしまう ことをあらかじめお断りしておきたい。
要するに、上の第18章の『秘府録』の例のように、契丹古伝の記載を「だれかがあとから付加した 文だ」するような話ではなく、むしろ、もとから間違いなく契丹古伝(または原資料)に記載された 言葉だと捉えるのではあるが、それをその部分の著者の勘違いか何かとして処理してしまうという 方法である。


短く書くとおそらく理解しづらいと思うので、やむなく長い文章になってしまうがお許し頂きたい。

契丹古伝26章で、武伯と寧羲騅の連合軍が、夏莫且を誅滅する様子が描かれている。
この時期がいつなのかという問題について、浜名氏は殷が倒れてから三十数年経過した時のこととし、 一方自説では殷が倒れてから数年以内の時のこととしている。
(太公望篇内の「誅滅時期論」を参照)
そして、27章で | ここに於いて(この26章の事態を受けて)」「燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破」っ たと記されている。
さらに28章に「尉越 | うえが東に旋る」という記載が含まれており、これを浜名氏は「ニニギ命 の日本への移動(帰還)と捉えている(自説では、辰沄殷が東へ動座することと解する)。
この28章における「移動」の時期は、浜名説では殷が倒れてから六十数年経過した時のこととしている
(自説では殷が倒れてから約七年後)。

ところが、浜名氏は27章の時期についてそれらのイベントが発生したのが、28章の 「殷が倒れてから六十数年経過後」よりもはるかに後であるとしている (たとえば27章の"燕を降し"は殷が倒れてから百二十年経過後、"韓を滅し"・"周を破る"のは 殷が倒れてから二百五十年以上の経過後)。
その部分の浜名氏の言い方に、実は微妙な点が隠されている。
此等 | これら {燕を降すや韓を滅すという[27章の]}史実が | ●●●天孫{(=ニニギの命)}出征中の | ●●●● {つまり浜名説でいう寧羲騅帰郷[28章]以前の}事に | ●●あらざるは勿論 なれども、 燕といひ韓といひ それ | の国が東族の攻囲をうけたるは、 以前からのことで 天孫出征中{(=28章のニニギの命帰郷以前)}にある。     (浜名 溯源p.545-p.546, 詳解p.259-p.260) 茶色の字・傍点・太字強調は引用者による
ここで、浜名氏は、27章のイベントが現実に発生したのは28章より前でなく逆にはるか後のことである ことを認定しながらも、この認定が契丹古伝の読み方としては苦しいことをフォローするために、
燕や韓の国が東族の攻勢を受けていたぐらいのことは、もっと前の時期つまり、26章と28章の あいだの時期にあったとしているのである。

ここで、一見浜名氏は、27章の「解釈」として、同章内の各種イベントの時期を 論じているように見える。そのイベントの発生時期が以外なほど遅く、異常な捉え方であることは 太公望篇で既に論じた。

ところが、正確にいえば、これはどうも27章の「解釈」としてのイベント時期認定ではないよう なのだ。
ここが皆様に分かりにくいところかもしれないので、慎重に書いているが、
もし、27章の「解釈」として浜名が書いているならば、 「契丹古伝(原資料)の著者自身がそのような遅い時期に27章のイベントが発生したと思っている」と 浜名氏は捉えていることになる。
しかし、これは考えてみれば妙な話で、夏莫且誅滅を26章で記載した直後に 「是に於いて(この事態を受けて)」燕を破る等の行為をしたというふうに27章の原文にあることと、 どうしても矛盾することに浜名氏が気づかないはずがない。
「是に於いて」と27章冒頭にある以上、26章と27章との間で百年も二百年も一挙に経過するはずはないからである。

とすると、以下が頭を使う点であるが、
「契丹古伝(原資料)の著者自身が27章でそのような矛盾を書いた」と仮にするなら、
契丹古伝(原資料)の著者は平気で「是に於いて」というウソの表現を使ったことになる。
そして28章(尉越の東旋)より後にくるべき「燕を降し云々」の文を平気で27章に書いたことになってしまう。

実は、後述の理由により、そうではないのである。
契丹古伝(原資料)の著者は「是に於いて」という表現を本気で使っていると考えられる。
これは自説では当然そうだが、浜名氏も、(原資料の)著者は本気で使っていると考えているのである。

その証拠は29章の浜名解釈の中にある。
29章で「前言を継いで」というのは、27章の内容に続けて、という意味だから、
27章の例のイベントの終了の時から、29章の「(東族の)跳嘯(抵抗活動)」期間が始まり、そこから カウントして「三百余年」で跳嘯期間が終わることになる。そしてこの跳嘯期間が終わるのは浜名解釈ではBC681年前後 もしくはより早く、それ以前に起きた「貊族の分裂まで」となる。
(29章解説参照)。

とすると、27章のイベントで、たとえば韓が滅ぶのが浜名説では紀元前757年だから、そこから 三百余年をカウントしたのでは上記の紀元前681年よりはるかに後になってしまいおかしいことになる。
おわかりだろうか。浜名氏は大変な自己矛盾を起こしたことになりかねないが、実はそうではない。
要するにこれは、契丹古伝(原資料)の著者は、そこからカウントしたのではないと浜名氏が 判断したことを意味しているのだ。
つまり、「契丹古伝(原資料)の著者の脳内では、これらのイベントが28章の時点(浜名説では 殷が倒れてから六十六年後)よりも前に発生したことになっている」と、浜名氏は捉えているのだ。
そこから「三百余年」が経過し、「貊族の分裂」さらに後に「斉が覇者となる(BC681年前後)イベント」が おきる、という計算であり、これが契丹古伝(原資料)の著者の脳内の計算という考えである。
とすると、これらのイベントが実際にははるかに遅い点については浜名氏は 「契丹古伝(原資料)の著者は、よくわからない理由(過失?)でイベントの発生時期を繰り上げ 記載した」と思っていることになる。
つまり、27章のイベントの解釈、つまり契丹古伝(原資料)の著者の意図浜名氏による解釈としては、 あくまでも28章より前に発生するイベントなのであるが、しかし、 その27章の記載に対して浜名氏が現実のあてはめをする際に、「その期間には実際には そのイベントがおこらず、強いていえばずっと後にかくかくしかじかのことが起こりは しますなあ」というように「時期をずらしたあてはめ」をしたということなのである。

この微妙な点が先に引用した浜名の文章の、
{27章の事件の発生が}天孫{(=ニニギの命)}出征中の | ●●●● {つまり浜名説でいう寧羲騅帰郷[28章]以前の}事に | ●●あらざるは勿論 なれども、 燕といひ韓といひ それ | {27章記載}の国が東族の攻囲をうけたるは、 以前からのことで 天孫出征中{(=28章のニニギの命帰郷以前)}にある。     (浜名 溯源p.545-p.546, 詳解p.259-p.260) 茶色の字・傍点・太字強調は引用者による
という部分にあらわれている。

つまり、浜名は、契丹古伝(原資料)の著者は27章のイベントが28章の前に起こると考えている ことを認めつつ、それはおかしいなあ、ただ前提となる「攻囲」ぐらいはあるといえるかなあ、 とぼやいているわけである。

このように、浜名氏は27章のイベントが実際にはその期間に起こらないと考えているのであるから、 実質的にはその意味で27章の原文を否定していることになる。
このように厳密にいえば浜名氏は27章について原文切り捨てもしくは形骸化のようなことをおこなっている。

自分としては、これは浜名氏の苦し紛れの処理もしくはミスであり、自説(太公望篇)のように 考えればそのような「(実質的)原文切り捨て」は起こらないと考えている(※)。 よってこの切り捨てについては、ルール違反の疑いがないとはいえないように思う。

最後の例が長くなってしまったが、以上のように、解釈の範囲内なのか、それとも原文からの逸脱・原文否定 なのか、原文逸脱であればそれはルール違反なのか許容範囲内なのか、ということを考えながら読むことは、 浜名氏の説を分析する際にも有用な方法であるので、たまにはこのようなことも考えてみて頂きたいと希望する次第である。


※太公望篇に掲載した「時系列のチャート」にも、厳密にいえば 「浜名氏の考える原資料著者の脳内における年表」と、「浜名による修正年表」、を併記したほうがいいのかもしれない。
しかし、浜名氏によるその修正解釈が、結局は原文の形骸化という無理を生じさせていることを 考えると、いずれにせよ浜名氏の考えが不自然をもたらし妥当性を欠く点、何ら異ならないのだから、 あえてチャートを複雑に修正することは、控えてある。


以上

追記

本文では触れなかったが、表面的には解釈の範囲内の処理に見えつつ、実質的には原文からの逸脱・原文一部否定 という②の類型にあたる場合もありうる。
これは、文脈上ありえないような独自の事情を付加して、その上で原文を解釈する場合などに見られ、 本来、解釈上ありえないような突飛な解釈が、「独自の事情」が巧妙に設定されたためにまかり通るということに なる。これは、表面的には原文を全くいじっていないので、純粋な解釈論の話に見えるが、実は原文の趣旨をゆが めていることになるので、「隠れた原文否定」といえる。ただこれにも程度の大小はあろう。


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2022.01.28初稿
(c)東族古伝研究会