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37章の謎その7・40章の謎その6・7 :初期天皇 在位年数の謎~込められたメッセージとその抹消の悲劇
─37章・40章論点整理[補論(3)]通算No⑦(暫定版)

※本ページは「37章の謎その1」「37章の謎その2・40章の謎その1」「37章の謎その3・40章の謎その2」 「37章の謎その4・40章の謎その3」 「37章の謎その5・40章の謎その4」 「37章の謎その6・40章の謎その5」 の続きです。必ず前6稿をお読みの上でこちらをお読み下さい。

※執筆時間の制約などからページの分量のバランスが調整できていません。読み辛いかもしれないことを おことわりしておきます。
ただし当サイトのコンテンツ内における重要度としては本来極めて高いものとなります。
それゆえ改変しての紹介その他、本稿の趣旨をゆがめるような解釈をしないようお願いします。慎重に御読みください。

(イントロダクション)

本宗家(天皇家)の「仕切り直し」後の「態勢立て直し」による本拠地移転について、「37章の謎その4」 までの論稿で移転の情景(契丹古伝40章で回顧される情景)も含めて説明を試みた。
またその情景に関し補論1・補論2で補足を試みた。
これらは日本書紀・古事記で初期の天皇として記載されている方々にかかわるものであるが、 架空の天皇とする学説を信じきっている方も多い。
本稿では、それらの天皇の項目の記載が全くの無意味な作文であるかという点について、 強く疑問を提起していきたいと考える。

目 次
前編 初期天皇在位年数の謎[37章の謎その7・40章の謎その6]
○冬至と朔日
○数「30」と「34」
○孝安帝の在位年数について
後編 初期天皇架空化の悲劇[40章の謎その7]
○古代天皇「架空」論=「欠史八代論」についての当サイトの見解
欠史八代論と津田史学
 ●津田説のポイント
 ●海外記事に関する津田説の不審
付録


(以下本文)

前編 初期天皇在位年数の謎

○冬至と朔日

地球の自転軸が太陽に対して最も傾く瞬間を「至」といい、一年で二回到来するがそのうち日が最も短くなる日が「冬至」である。
地球は太陽の周りを一年かけて回る(公転)が、 その公転軸が自転軸に比べ傾いていることから生じる現象である。
天動説の時代は太陽の方が地球の周りを回るように捉えられていたが、いずれにしても 冬至という現象は観察・計算され、暦のうえで節目の時とされていた。
これは太陽暦上の節目となる。

一方、月の周回によってカレンダーを作成したものが太陰暦であり、約29.5日に一度、(現代的な意味での月齢ゼロの)新月(= | さく)となる。
この | さくの瞬間を含む日(朔日 | さくじつ)をついたち(一日 | ついたち朔日 | ついたち)とするのが太陰暦である。
| さくは太陰暦上の節目である。

現在私たちは太陽暦によって暮らしているが、明治五(1872)年までは旧暦を使用していた。
旧暦というのは太陰暦に太陽暦を加味した「太陽太陰暦」であった。

「太陽太陰暦」も時代により細かい改訂がなされたが、 古代のシンプルな「太陽太陰暦」の基本的発想としては、 「冬至」と「朔(新月)」が同時に重なる日(章首)を重視した。
その日の翌年は当然ながら重なりはない。次の重なりは前回の章首の時から数えて19年後に生じる。
これは章首の新月を0回目としたとき235回目の新月に相当する。
19x12=228月であるため19年の間に7回「閏月」を追加して調整することになる。
このように昔の太陽太陰暦では「19年の周期」が重視された。(これは古代ギリシャ暦のメトン周期と同じである。)

かつてはこの19年の周期が厳密に成りたつ暦法(章法)が採用されていたが、 暦の改訂のため近似的なもの(破章法)へと変わっていった。
それでも「冬至」と「朔」が同時に重なる日(「朔旦冬至 | さくたんとうじ 」)はおめでたい日とされ、延暦三(784)年からは 「朔旦冬至」を祝う祝賀が19年ごとに開かれている。[明治三(1870)年には廃止
(参考:暦wiki(c)国立天文台「朔旦冬至」
ちなみに後漢の「四分暦」では19年を「一章」とし、4章=「一 | ぼう」=76年、 20 | ぼう=「一紀」=1520年 などのサイクルが重視された。


日本書紀において初代の神武天皇については比較的長い記事が載せられるが、
2代綏靖天皇・3代安寧天皇・4代懿徳天皇・
5代孝昭天皇・6代孝安天皇・7代孝霊天皇・8代孝元天皇・9代開化天皇
については系譜記事が中心となり、出来事の記載が乏しいことはよく知られており
「欠史八代」と呼ばれている。
在位年数も70年を超える場合が多く、崩御の際の年齢も非常に高齢であることから、 作為的なものとされることが多い。
初代の神武天皇の即位年については「讖緯 | しんい 説(陰陽五行説と儒学が融合した予言的な学説)に基づいて設定された という有力な説「辛酉革命説」があり有名だが、その計算に使われる数字は「19年周期」系のものではない (60年周期)。

それとは全く独立別個に、「19年周期」系の太陽太陰暦のカレンダー自体が日本書紀の「欠史八代」の各治世の記述に 使用されていることは既に学者によって指摘されている。(かつて小川清彦氏は、儀鳳暦[というやや新し目の暦]により[事後的に] 計算されていることを示した。)

問題はその「在位が○○年」などの記載に如何なる意味があるかということである。
神武天皇の即位年を古く(紀元前660年)設定した関係で、「欠史八代」(や、その後数代の天皇)には 非常な長寿や長い在位年数が設定されており、常識で信じられないものが多い。

既に論じたように、5代孝昭・6代孝安・7代孝霊・8代孝元・9代開化
の各天皇は「ベールの彼方」の方々であり、「本録」においては「高天原」の存在とされるような方々である。
憚りの多い時代でもあり、美化して記述する必要性が高いことは容易に相到される。

また、1代神武・2代綏靖・3代安寧・4代懿徳
の各天皇は、「本録」に含まれ、時期的には12代景行天皇の次に来るべき方で(論証済み)あるが、 「再録」との関係で憚りがあると思われ、美化して記述する必要性は一定程度存すると解される。

もちろん、初代の神武天皇においては初代なだけに特に必要性は高い。

ここで神武天皇は 即位七十六年目の春二月に崩御されたと日本書紀に記されていることに留意される。

これは実際の在位年数というより、76(=19x4)という立派な数字でその神聖性を強調する趣旨のものであろう。
「19年周期」系の暦は、単に暦として使われる他、(「朔日冬至」を祝う祝賀のように) ひとつの節目を示す数字のように 活用されてきたからである(もともと暦はそのようなものと結び付けられてきたともいえる)。
19年の倍数は「易学 | えきがく」上も重視され、上述の19年(一章)の4倍である「76年」については
易緯乾鑿度 | えきいけんさくど 』に
七十六為一紀
周髀算経 | しゅうひさんけい 』に
日月之法、十九歳為一章、・・四章為一蔀、七十六歳
などとある。
この他、19年の2倍「三十八歳」を「一元」と呼ぶ言い方もあるとされる。

このような易学上の事を考慮して橋本増吉氏は
「天一」は即ち後の「太歳」で、歳星の神霊を意味し、天皇の聖運と密接なる関聯 | かんれん を有するのであるから、 木星の運行と関聯して一章・一元・一紀{(=一蔀)}・ 大終{(=二十蔀一千五百二十歳)}の法が行はれたことは疑ひないのである。
| しかも、その一紀七十六歳は即ち神武天皇の聖運七十六歳に一致するのを見ると、 その両者の間に離すべからざる関係を有することは、何人も疑ふべからざるところであらう。 (橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1』大岡山書店 1932 p.434 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1176118/1/233 { }内及び茶色ルビは引用者による付加)
とされた。

一蔀=四章=七十六年は上述のように大きな節目であり注目に値する年数である。
(一章は太陽暦上の19年なのでこれを日数で計算すると365.25x19=6939.75日となり 四分暦で「朔旦冬至」が再現する19年目において新月となる時刻が前回とずれることになる。
時刻がもとの時刻と同じになるためには6939.75を4倍することで27759.0日とすれば[古いシンプルな太陽太陰暦では]端数がなくなる。
このことから七十六年は伝統的に大きな節目とされる。)


ここで初期天皇の在位年数を表にして一覧してみる。
(前稿までの検討に従い、時系列は調節して配列)
天皇名 在位年数 天皇名 在位年数
第5代孝昭天皇 83年    
第6代孝安天皇 102年    
第7代孝霊天皇 76年    
第8代孝元天皇 57年    
第9代開化天皇 60年    
第10代崇神天皇 68年    
第11代垂仁天皇 99年    
第12代景行天皇 60年    
第1代神武天皇 76年    
第2代綏靖天皇 33年 第13代成務天皇 60年
第3代安寧天皇 38年 第14代仲哀天皇 9年
第4代懿徳天皇 34年 神功皇后(摂政) 69年
第15代応神天皇 41年    
第16代仁徳天皇 87年    

神武天皇と第7代孝霊天皇とが同じ76年とされていることは、 孝霊天皇が格別な方として位置づけられていることを示すものと拝される。
一見偶然の一致とも思えるが、このことは今まで検討してきたことからすれば、 偶然とはいえないのではなかろうか。


橋本増吉氏は次のように指摘している。
安寧天皇の聖運が七十六年の半 で、所謂 | いわゆる一元の数三十八年であることと、(中略)
孝霊天皇の御世が七十六年 で、所謂一期{(=一蔀)}の数に当るという事実は、 さらに一層{日本書紀の}編者の意図を曝露するもののやうに認められるのである。
(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1』大岡山書店 1932 p.438 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1176118/1/235 { }内及び茶色ルビは引用者による付加)
第3代安寧天皇も19年の倍数たる38年の在位とされていることは、 上記御二方に準ずる何か際立った御事績がおありになったことを示すものかもしれないが 把握不可能であるのは残念なことといえるかもしれない。

日本書紀の初期天皇の記載については、在位年数の他にもさまざまな工夫が凝らされていそうではあるが、 全てを知ることは不可能であろう。
ただ、在位年数の表を折角作成したので、もう少しだけ検討させて頂きたい。

○数「30」と「34」と「六十四卦」

暦と易学は密接に関連していることは、既に言及した通りである。
易といえば「当たるも八卦 | はっけ、当たらぬも八卦」の八卦が有名であるが 卦とは | こうと呼ばれる(横長の)符号を縦に三つ組み合わせたもので、爻に陰と陽の二種があるため2x2x2=8種類の卦ができる。
「二つの『卦』」を一組として使用した場合8x8=64種類の卦ができるが、これを「六十四卦 | ろくじゅうしけ」といい 、『易経』にはこの六十四卦が説かれている。
易経の六十四卦は、上経と呼ばれる三十の卦と、下経と呼ばれる三十四の卦とに分かれている。
伝統的注釈書(序卦伝など)によれば、
上経の三十卦は、 天と地を巨視的に見ての普遍的な原則を扱い、
下経の三十四卦は、上経の原理を具体的に人間界に適用した応用編とされる。
上経は自然界で下経は人間界ともいうが少し乱暴な見方であり、
上経(三十卦)は、例えば「人が集まれば親しみが生ず」「物資が存するところ争いもおこる」「乱極まれば治を生じる」「事変があってこそ国は発展する」 といった一般論を含む。
下経(三十四卦)は具体的な人の世における相互関係(例:君臣の道、夫婦の道など)を説いている。 こちらも良い事件、そうでない事件の両面を含む。

ここで、上経(三十卦)の30と、下経(三十四卦)の34という数字に注意がひかれる。

第9代開化天皇の在位年数は60年であり、第10代崇神天皇の在位年数は68年である。
前にも論じたように、倭国大乱の中、「ハツクニシラススメラミコト」として統治した崇神天皇は 本録(神話)でいえば「ニニギ尊」にも相当し、父君に代わり人間界に降臨した存在として描かれている。 とすれば、崇神天皇の在位年数68年は「下経」の34を二倍して得られたものではないか
(尊さを強調するには34年では不足なため二倍したと解される)。
その父である開化天皇は、崇神天皇の統治に道を開かれたかたとして「上経」の30を二倍した 60年が在位年数とされているのではないだろうか(二倍の点は上記同様)。

同様に考えると、第12代景行天皇の治世(60年)は一種の変革期・移行期としての側面があったとすれば 「上経」の30を二倍した60年が在位年数ということかもしれない。
また、第13代成務天皇の治世(60年)にも同様の側面があった可能性があろう。

今見て来た30・34やその倍数という数字であるが、神武帝・孝霊帝の76年(19の倍数系)という 天文的な数字よりはやや地に足のついた扱い(しかし立派な数字)のように思われるのだが、いかがであろうか。
ちなみに第4代懿徳天皇の在位も34年となっており、下経(三十四卦)の34に一致する。


○孝安帝の在位年数について

他の帝の在位年数も何らかの配慮がなされているのであろうが、残念ながら容易に解き得るものではないし、
こじつけは失礼にあたるように思われる。
ただし上記の表の中で最長の在位年数とされている第6代孝安天皇については、恐縮ながら若干の検討を試みたい。
孝安帝の在位102年とは、下経(三十四卦)の34の三倍にあたる(34x3=102)。
「三倍」とされている点不思議な感があるが、この(在位102年で崩御されたとされる)孝安帝の在位中には、 なぜか「19の倍数系の年におけるイベント発生」が付随している。
一見奇妙だがかえって何かのヒントとなっているようにも思われるのだ。

日本書紀(孝安天皇紀)から引用してみる。
三十八年の秋八月(中略)に観松彦香殖稲天皇{(=孝昭天皇)}を(中略)葬り申しあげた。
七十六年の春正月(中略)に大日本根子彦太瓊尊{(=のちの孝霊天皇)}を皇太子に立てられた。
(井上光貞監訳『日本書紀(上)』中央公論新社2020年)p.253[川副武胤氏訳出部分] { }内は引用者による補足)
まず、孝安帝が在位七十六年目に、後の孝霊天皇を太子として立てたとされる点について申し上げれば、
ここで76(=一蔀にあたる数。19の4倍)という数字が使用されているのは、権利確証行為としての美点に加え、 太子に立たれたとされたかたの立派さをも示唆するのではないか。

また、その前に、孝安帝が在位三十八年に、孝昭天皇を陵に葬られたという点について申し上げれば、
⑴ここで38(=一元にあたる数。19の2倍)という数字が使用されている点についても、埋葬された方の立派さを 示唆するのではないか、という点に加え、
⑵そもそも前帝の亡骸を三十数年後に埋葬するという記述自体がどこか謎である、
という点に注意される。
五年程度であれば他にも例があるが、三十年を超過するのはあまりに解し難い話である。
一つの解釈案として申し上げれば、仮に、

①即位元年~三十八年秋八月の少し前 孝安帝の治世ともいえるようなそうでもないような「ツワモノヌシ」的おかた⋆の在位
(⋆この点につき 「37章の謎その3・40章の謎その2」のこちらや  こちら を参照)
② ①についての埋葬的事象(一瞬で終了とみなす)
③孝昭天皇の在位(孝安帝の治世としては、一瞬で過ぎ去ったとみなす)
④即位三十八年の秋八月 孝昭天皇の陵墓への埋葬
⑤この間 孝安帝の在位
⑥即位七十六年 のちの孝霊天皇を太子とする
⑦即位百二年 孝安帝崩御

のように読み替えた時には、何かを「放置」するような状況がないことになるので麗しいようにも思われるのだが・・・。
また、そのように解するとなぜ「34の三倍」の102年が在位年数となっているのかも比較的納得できるようにも 思われる。
それは「34+68」のような計算ではなかろうか。
日本書紀には書かれていないが、 人間界におけるさまざまな事象が生じたこととは察せられる。
(もしこれが正しいとすれば、上記①の「三十八年秋八月の少し前」は「三十四年」に訂正し、②③で孝安帝の治世としては年が経過すると訂正すれば よいことになる。)
もちろん上記の年数の類は暦学・易学的な象徴数として記されている(と解釈している)点につきくれぐれも留意されたい。

このように、欠史とされる御世についても、日本書紀は示唆的に何かを伝えようとしているのであり、 決してこれらの天皇を架空の存在とみることはできないものと解される。




後編 初期天皇架空化の悲劇

○古代天皇「架空」論=「欠史八代論」についての当サイトの見解

上記の前編で見たように、第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇やその他の天皇も実在の人物であられた と考えられる。

しかし、周知のように、現在の学者のほとんどが第2代綏靖天皇~第9代開化天皇の八天皇を「欠史八代」として その存在を否定している。
「欠史」の意味だが、系譜(皇妃・皇子女等)の記載が中心で史実の記載の内容が乏しいことを指す。
戦前は「八代は欠史ではあるが天皇として実在した」とする説が有力であった。
しかし現在は「八代は欠史であり、それゆえこれらの天皇は架空である」というのが通説的見解となっている。

ところが、当論考において、上記で言及した孝昭帝・孝安帝・孝霊帝は第5・6・7代天皇であるから 当然いわゆる「欠史八代」の天皇のリストに含まれる方である。
しかし本稿では実在の方と主張していることになる。
再言すれば、当論考のシリーズでは、上記の他、「欠史八代」とされる全ての天皇を実在として扱っている。
(ただし本録・再録の関係で時期的に第1~第4代の天皇の御世は後の時期(景行天皇の次ぐらいの時期)となる。)

従って、仮に「欠史八代架空」説(仮にA説と呼ぶ)を信じるなら、当サイトの説も成り立たないことになる。
ただし、一部の学者・あるいはそれに準じる方々・民間歴史家の間ではそれらの天皇の実在性について肯定する見解(B説)がある。
ただし、それらの天皇は概してあまりに長寿と記録上されており、また系図も作為的である。
そのような記紀の記述を無修正で認める(B1説)立場もあるが、かなりの少数説といえる。
B説の主流は、天皇自体は実在の人物とするが、その属性等の一部修正・読み替えはやむを得ないする立場(B2説)であり、 自説もこの立場のうちの一つである。 (その他の説につき、こちらを参照。)

このような事情から、「欠史八代架空」説(A説)に対する反論はネットを含め民間研究家(B2説の立場)から 出される傾向にある。
当サイトとしても、既存の意見(B2説側)を各自参照頂きたいとして済ませることも考えたが、
本論稿の内容に即した反論をA説に対して加えておく必要性も感じたので、以下多少論じてみたいと考える。

「欠史八代架空」説(A説)が現在の圧倒的通説となったのには、戦前からの一連の経緯がある。
本稿においては、その経緯について若干の論評を行い、A説は「その使命を終えた」ことを主張していきたい。

○欠史八代論と津田史学

歴史学者・思想史家の津田左右吉 | つだ そうきち氏(早稲田大学教授、1961年死去)は、
戦前、実証史学の立場から古事記、日本書紀の記載の内容の再検討を行い、 その記載内容のかなりの部分につき信憑性が薄いと主張した。
大正年間に発表された著作 『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』において、 津田氏は、実証史学の立場から、 記紀における神代や神武天皇~仲哀天皇・神功皇后までの記載については 作り事が多く資料的価値に乏しいという趣旨の論旨を展開した。

つまり津田氏によれば、欠史八代の天皇だけでなく、その後の数代の天皇(崇神天皇以降)の事蹟についても 疑問符が付けられることになる。

津田氏の説は昭和十年代には学者以外にも知られるところとなり、不敬であるとの批判が高まった。
その中、政府は昭和15(1940)年に上記二冊を含む4著作について発禁処分とし、さらに出版法違反として 津田氏と岩波書店社主が起訴される事態に至った(最終的に免訴)。

戦後、津田氏の説は一転して歓迎される風潮となった。実は、
津田氏は欠史八代の天皇の実在性の有無についてまでは明確に言及していなかったのだが、 戦前の裁判の起訴理由にもあるように、存在自体を否定するものと受けとめられることが多かった。

このような戦後の風潮の中、欠史八代については「欠史」というわかりやすい理由もあいまって、
他の学者から「欠史八代架空説」が提唱されるようになり通説化していった。
例えば水野祐氏は欠史八代を含む十五代の天皇について架空と主張した。
また井上光貞氏は、謚号が後世的なことなどから欠史八代については
王名表である帝紀のなかに、架空につくりあげた天皇群ではなかったろうか (『日本の歴史 1』 中央公論社 1965年 p.272)
と説いた。
その後も同旨の学説が続き、「欠史八代架空説」は現在も通説となっている。
第1代神武天皇も架空とされる場合が多い。
それのみならず、第10代崇神天皇~第15代応神天皇も架空としてみたり、稲荷山鉄剣などの 発掘物に記された文字資料と中国の文献以外は考慮しないなど、記紀を空洞化させる風潮が激化している。

当サイトとしては、当然反対する立場となるが、そもそも一般的には
この「欠史八代架空説」的な流れは戦前の津田氏の説から始まったとされる。
津田氏の学説の影響力は戦後今日に至るまで多大であることは確かだろう。

ただ、その流れの原点といえる津田説自体の受け取り方について、 実は若干の誤解があるのではないか?ということをここでは指摘しておきたい。
津田説が実は一人歩きしている面があるということである。
これは、津田説の実態が案外知られていないということが関係しているのではないか。

●津田説のポイント

終戦直後、天皇制廃止論が取り沙汰されるなか、津田氏は意外とも思える内容を雑誌に投稿し (翌年には一部修正加筆の上書籍に収録し)た。
それは皇室に対する強い敬愛の念を表明するものであった。
皇室は国民の生活とその進展の妨げとなるような行動を取られたことが、むかしから今まで一たびも、 無かった
とし、
皇室は美しい存在として時代時代のすべての教養あるものの心に宿って来た (「建国の事情と万世一系の思想」『世界』1946年3月、内容を一部修正して 「日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由来」(『日本上代史の研究』岩波書店 1947年所収)と改題、 同書p.472参照。)
とした。

氏は、天皇は古来本質的に神を「祀る」側の祭祀者であり、かつ基本的に親政を行わない存在であるとし、 そのため天皇を現人神として神格化するのは妥当でなく、権力を以って国民に臨む存在とするのも 誤った捉え方であると主張した。

そしてこれらのことは「過去の歴史の真相を学問的に究明」することにより良く理解できるのだという (前掲書p.472参照)
その学問的究明の際には
「神代の物語や、儒教的シナ的政治思想」「神道者国学者の妄想」 などの取りはらわれることが必要とされるという趣旨のことを述べている。

そのうえで
国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。
(前掲書p.473参照)
等と述べている。


実はこれを意外というのは少し語弊がある。当時の数年前、戦前に氏の著書が攻撃された際の氏の発言から 既に皇室に対する敬愛の念が感じられたとの指摘もあるからだ。

ただし雑誌側にとっては意外だったらしく、津田氏側に加筆を求めたり、 編集者の意見を同時掲載するなどの挙に出たという。

上記津田氏の意見についてみるに、
「記紀の記載のうち、天皇が古代から強大な権利行使や統治行為を行ったというような記載については 積極的に排除する」という氏のスタンスと適合的な意見となっている。

過度な神格化への嫌悪についていえば、
古来エジプト・メソポタミアでも行われていたような神格化自体が日本の古代において絶無だったかどうかは疑問と思われる。
津田氏のイメージは等身大のやさしい存在としての天皇であり、それはそれとして一つの側面として確かに存するものであるが、 それだけで済むかどうかについては大いに疑問が持たれる。
当サイトの内容に即して言えば、神子神孫文化の担い手・推進者としてふさわしい形容や称号がなかったか という点を検討すべきであろう。

神話について津田氏がいわんとしていることは、
政治目的で皇室の由来を説く神話を作成したのは支那からの学問の導入に伴うものに過ぎず、
もともと存在した自然の精霊に対する信仰を転用して、(人と異なった形態も無い)「祖先たる人」を 祖先神としたため、それは空想上の祖先神であるといったものである。
(「神代史の新しい研究」『津田左右吉全集 別巻第一』所収p.147参照。)

実際には人である存在が高天原の神として描かれているに過ぎないという指摘については、 やや捻じれた問題が内包されていると思われる。
高天原の神話を神話として架空とするような趣旨で論じられているように見えるが、 当サイトでも高天原の神話の一部については[仕切り直しや態勢立て直しのため]古代の重要人物の 活躍の描写であることについては既に指摘している (こちらを参照)。

ただし「精霊神信仰の転用」といっても、そのような神聖王権がとっくに確立していたのであれば、神聖呼称の使用習慣はすでにあったかもしれず、 その場合神話著述者が「かってに転用」したというのは不適切となる。

このように、神話のすべてが中国的発想で創作されたという氏の指摘についても疑うべきではなかろうかと考える。
神話としては架空的描写の側面があっても、何らかの現実を反映しているということはありうるのではないか。

津田氏は出雲の国譲りは実際には神武天皇の東征時の討伐を遡らせて書いたものであろうなどとして 否定する。
このような調子で、神話の物語もほとんどが切り捨てられていくのだ。

結局のところ、津田氏は
①皇室の起源は古く近畿のヤマトに発祥した(九州発祥ではない)
②しかしその伝承が失われた(忘れられた)
と主張している。
要するに②からすれば記紀の伝承は殆ど後世の述作ということになる。

氏は次のように書いている。
帝紀の系譜の記載をどう見るにしても、ヤマトの朝廷の起源が、応神天皇のころから考へて、遠い昔にあったこと、 皇室がそのころまでに既に長い歴史を経過して来られたことは、明らかに推知せられる。

ヤマトの朝廷の勢力は漸次各地方にひろげられてきたに相違なく、・・・ ・・・それほどにその歴史的事実が忘れられてゐたといふことは、皇室の成立とその勢力の発展とが、 決して新しいことではなかったからである。
(『日本古典の研究 上』岩波書店 1948年 p.307-p.308 太字強調は引用者による)
このように朝廷の歴史自体は長いと主張する点では、典型的な欠史八代架空説と異なってはいる。

●海外記事に関する津田説の不審

津田左右吉氏は、古代の日本列島と半島との交渉についても極端に消極的な解釈をしている。
{三世紀に}新羅の名は或いはツクシ人が聞き知っていたかもしれぬが、特別の関係が生ずべき状態では無かった。 (「古事記及び日本書紀の新研究」『津田左右吉全集 別巻第一』岩波書店 1966年所収p.211参照、{ }内は引用者による補足)
要するに、ヒボコの物語には一つも事実として考へらるべきことが無い。 (「古事記及び日本書紀の新研究」『津田左右吉全集 別巻第一』岩波書店 1966年所収p.287参照)

任那 | みまな(加耶)」の領域問題についても津田説は独特である。
そもそも日本の学者の主張する「任那」の領域には様々な説があるが、
津田氏の主張する領域はその中でも最狭の部類に属する。
任那は本稿のシリーズでいうβエリアであるが、例外として、
もともと一部αエリア内に「任那四県」というものが存在していた[継体天皇の時に百済へ割譲]とする説
(X説)があり、通説であった。(井上光貞監訳・笹山春生訳『日本書紀(下)』中央公論新社2020年) p.16-p.17(含・地図)及びp.37注(13)参照。) (また、坂本太郎他校注(岩波文庫)『日本書紀(三)』岩波書店1994年 p.176、及びp.177の注四・五・六・七・八参照。) (また、岩波文庫『日本書紀(五)』岩波書店1995年 p.506-p.507の地図参照。)

だが、これに対し

Y説:通説同様「任那四県」にあたるもののエリア自体はα内に広くとる[全羅南道のかなりの部分]が、 その四県はもともと倭国の支配下のものではなく「任那四県」は日本書紀の捏造した概念であるとする説
(倭人の移住などの事実は認める場合もある)[東 潮説、他]

Z1説:「任那四県」はβエリアの範囲(加耶)と別に存するのではなく、 βエリアの一部を指すに過ぎないとする説
Z2説:Z1説に近いが、βエリアに近接したやや狭い領域(αの一部)に「任那四県」がまたがる(はみ出す)ことを 認める説(もしくはβエリア自体を少し広めにとる説)[全栄来説、他]

などの説が今日強力に主張されている(仁藤篤史説は基本Z1だが、牟婁についてのみ「はみ出し」的に処理)

上記の内、任那の領域が一番狭くなってしまうのは「Z1説」である。
当サイトの意見としては、αエリアについても帝の管轄下にあった箇所 (アメシウ氏の管轄との競合するなかでの実効支配地域他)はありうるため「X説」で問題ないと考える。

しかし、津田氏はZ1説を取る。
しかも、Z1説の中でも、βエリアの任那の領域の範囲を驚くほど狭く解釈しており、任那の最北端が 現在の昌寧となっている。
そして現在の多数説が任那(加耶)の領域に含める 密陽や陜川(以上慶尚南道内)や高霊(慶尚北道内)も含めない(注参照。地名の具体的場所についてもそちらを参照)。もちろん大邱も含めない説となっている。
また、継体天皇紀七年十一月条に任那諸国の一つとして登場する「伴跛」を(通説と異なって)慶尚南道智異山脈付近に比定し、 しかもそこは任那に含まれないとする奇異な見解をも採っている。




津田説は、安羅にあった任那日本府自体は認める説であるが、その管轄領域は非常に狭いものとなっている。
ちなみに戦前は日本のどの学者も任那日本府肯定説であったわけだが、なぜか現在の韓国・朝鮮の一般世論においては 「津田左右吉は日本帝国主義の権化」とされており珍事態がみられる

戦後韓国の史学界をリードした李丙燾 | り へいとう (イビョンド)が戦前日本で津田の弟子であったことからくる主張らしいが、 津田説の実態についての無知に起因するものだろう。

一応、津田氏は、日本上代天皇の事蹟のほとんどを希薄化するのと同時に、朝鮮の『三国史記』に記載の 初期新羅王統譜に対しても架空論を展開したようなので、それも怒りの原因となっているらしい。
しかし、新羅の成立時期を含めて、額面通りに受け取るのは国際的にも受け入れられない考えであることは あきらかであろう(中国の文献との矛盾などが存する)。

少し脱線したが、任那に関する氏の特異な説もまた津田氏のポリシーの一環として生じたものなのだろうか?
この点については若干の疑問なしとしない。

ここで、津田氏は欠史八代の天皇の実在性の有無についてまでは直接言及していなかった点に留意される
(崇神天皇以降につき、人物としての実在を認めた箇所があり、それ以前の部分については仮定形で両論併記 のようになっている)。
(「日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由来」 『日本上代史の研究』岩波書店 1947年所収、p.448参照。)

それゆえ第14代仲哀天皇・神功皇后以前については「存在は認めるが、その事跡を極端に希薄化したい」 という意図があるようにも思われるのである。
そのことと、「古代における日本列島と朝鮮半島との関係・交渉について極端に控え目に解釈する 前述のような態度」は何か妙な組み合わせである。
半島との交渉については、一応、学術的な文献解釈として、ぎりぎりおかしくないものと強弁すれば、 「格段妙な組み合わせではない」といえるのかもしれないが、不自然ではないだろうか。

そもそも津田氏が希薄化を図ったのは、本サイトでいう本録や再録の時期に該当する。
欠史八代のうち第5~9代といえば、ベールの彼方 (37章の謎その4・40章の謎その3 など参照。また 37章の謎その6・40章の謎その5 も参照。) の事件が起こる時期(やその前後の時期)に該当する。
もしかすると、津田氏はそのような微妙な日本の成り立ちについて、どこかで知る(または気づく)機会があったのではないだろうか。

そういった、ベールの向こう側のことは、本来はある意味重要なことではあるが、 明確化はされていない形になっており、戦前の時代の要請からすればなおさらそうであったともいえる。
そして、現代的合理的記述にもなじまないのであれば、いっそ、より当たり障りのない形にしてしまおう という意図があってもおかしくない。
つまり津田氏による上代史の希薄化は、そのような経緯の「不可視化」が目的であったとすれば、 その強引な論調も理解できるのである。
一見もっともなのだが、上述のように、日本書紀の編者も何かを語っているように思われる。
そのように微かに残された痕跡まで消してしまおうとしたのであれば問題なのではなかろうか。

当サイトとしてはその可能性を指摘しておきたい。
これは津田氏が「やさしい天皇像」「天皇の永久性」を戦後主張したことと矛盾しない。
あるいはむしろ適合的かもしれない。
つまり津田氏の脳裏には昔の天皇像についての一定の、あるいは複雑な、しかし強固なイメージがあった。
しかし同時にその成り立ちの詳細を希薄化する必要性を感じていた、とも解されるのである
(過去の経緯に関する何らかの持論が[良かれ悪しかれ]あったのかもしれないが当然ながら不明である)。
その意図を実現するための方法論として適切だったかどうかは、検討を要するように思われる。

いずれにしても、津田氏の意見は戦後の憲法が採用した象徴天皇制に非常に適合的なものとなっている。
そもそも終戦直後は、連合軍による日本4分割論や天皇廃止論など、「日本が凶暴な性質を保有し 世界支配を企む」という偏見に基づく種々の措置の実現可能性があった。

かつて滝川政次郎氏は、日本書紀は唐が読むことを想定して 渉外関係の史実が かなり婉曲的に記述されているという趣旨を主張された。 (こちらの④の末尾の注(リンク)参照
これを類推すれば、
津田左右吉氏の説は、ある意味「連合国向け『新・記紀』の作出」として 機能したかもしれない。
ただ、連合国側(米英仏ソ中)がそこまで気にしていたかどうかは不明であるが。

もはや占領期が終わってから年月も経過し、日本に対する偏見も弱まってきた今、 津田説はその効能を消失したといえるのではなかろうか。
津田説には、天皇の権威を低く捉えるという欠点もある。
「実証史学」という割には恣意的な議論の目立つ「上代天皇史希薄化論」は、見直すべき時期に来ているのではないだろうか。


付録
初期天皇の在位年数表(上掲)につき、在位年数の検討をした部分を分かりやすくしたものを再掲しておきたい(数字を色つきとした)。
天皇名 在位年数 天皇名 在位年数
第5代孝昭天皇 83年    
第6代孝安天皇 102年    
第7代孝霊天皇 76年    
第8代孝元天皇 57年    
第9代開化天皇 60年    
第10代崇神天皇 68年    
第11代垂仁天皇 99年    
第12代景行天皇 60年    
第1代神武天皇 76年    
第2代綏靖天皇 33年 第13代成務天皇 60年
第3代安寧天皇 38年 第14代仲哀天皇 9年
第4代懿徳天皇 34年 神功皇后(摂政) 69年
第15代応神天皇 41年    
第16代仁徳天皇 87年    



2025.06.11初稿
2025.06.22微調整


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