このページは、

契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(トップページ)

契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(本文解説ページ)

のサイト内附属ページである。検索等でこのページに直接こられた方は、↑のページをまずご覧頂きたい。


37章の謎その4・40章の謎その3: 40章宮廷の移転直前の情景~皇子、姫君、そして姫君の移動~40章謎の情景の探究
─37章・40章論点整理 ④[完結](暫定版)

★ブラウザのキャッシュ機能のため古いページが読みこまれてしまいがちです。
再読み込み(f5など)をかけるか、それでもだめな場合は設定からキャッシュをクリアして 見てください。(特に注釈のページなど。)

※本ページは「37章の謎その1」「37章の謎その2・40章の謎その1」「37章の謎その3・40章の謎その2」の続きです。必ず前3稿をお読みの上でこちらをお読み下さい。
※第1稿に比べて今回と前回と前々回は相当な長文です。お時間のある時にゆっくりお読みください。
※執筆時間の制約などからページの分量のバランスが調整できていません。読み辛いかもしれないことを おことわりしておきます。
ただし当サイトのコンテンツ内における重要度としては本来極めて高いものとなります。
それゆえ改変しての紹介その他、本稿の趣旨をゆがめるような解釈をしないようお願いします。慎重に御読みください。

(イントロダクション)
前稿では、初期の大和朝廷の系譜が、本録分・再録分に分かれることを示した。
一見かわった説明とお考えかもしれないが、『ほつまつたゑ』の孝安天皇の記述にも適合的であり、 さらに、『古事記』の謎の「十七世」系図が理解できる点で優れていると考える。 そして「本宗家移転」が必要になった事情、それにかかわる「40章の姫君」と 関係する人物等についても改めて論じた。
半島の話題が絡むと、既存のイメージに引きずられがちな昨今であるが、前稿でも 論じたように「移住」と「渡来」を区別することが大事ではなかろうか。
また、『古事記』の謎の「十七世」系図を読み解く上で『日本書紀』の初期皇統の 「但し書き」情報は重要と思われ、本稿でも検討される。
また、『ほつまつたゑ』は特定氏族礼讃がやや目につくが「本宗家移転」事情にまつわるさまざまな人間模様を伝えているため貴重であり、本稿でも検討していく。
本稿では本宗家移転事態にまつわる宮廷関係者について上記資料をも使い、 推察を図り、40章の文言解釈の未確定部分にも挑む。
正直「どこで何があったのか」については半島のありさまが一変している現今では 想像もつかないほど資料が乏しい。これについては『日本書紀』の任那関連記述や半島の系譜資料の中からも手がかりを探っていくこととしたい。
「本宗家移転」で様々なご負担をされた方々に憚りあるとおそれつつも、 当時の「態勢立て直し」が日本の大きな礎となったことに思いをはせつつ、仮の形ではあるが本稿で一応の区切りをつけ、補論は(もし機会があれば)時機を見ての追加と致したい。


目 次
○本宗家移転事態における孝霊天皇側に残された皇族について
○示唆的な「皇子情報」と天孫降臨前の神
○天孫降臨前の神(続き)
○「天国玉」と「姫君」
○雲に乗る姫の謎
○40章解釈~「辰之墟」の場所
○40章解釈~ 娜彼逸豫臺米 について
○40章解釈~ 娜彼逸豫臺米與民率爲末合 の解釈について(自説)
○40章解釈~ 秦城・東藩関係
○結び


(以下本文)

○本宗家移転事態における孝霊天皇側に残された皇族について

前々稿で自分は次のように書いている。

①そもそもイヨトメは初期天皇のどなたかの皇女であるはずで、系譜上のどこかに 皇女として採録されているはずである。
②その皇女の父をXとした場合、X帝と(もしいらしたら)その皇子が亡くなった時点で その皇女が残されることになり、その情景が40章で懐古されていることになる。

また次のようにも書いている。

いずれにせよ、孝霊帝も皇子も神去られたという 状況があったとすれば、その状況打開として孝霊帝の皇后または皇妃がご命令を出されるということは充分考えられよう。そして、開化天皇にあたる方も充分にゆかり深い方で、 「態勢立て直し」にふさわしい方として選ばれたものと信じたい。


このように、(第7代)孝霊帝には皇子がおられたはずで、例の | ハタレの乱の関係で 薨去されたと考えると、非常に物悲しく、何とも申し上げようのない事態がおきたことが想定されうる。
そして、(薨去の時期によって影響されるかもしれないけれども、)前稿末尾で記したような 古事記「十七世」の数名の「不足」分と関係するかもしれないということが想到されるのである。

この点、前稿でご紹介した通り、『ほつまつたゑ』において、蜂起した六ハタレ魔軍を 臣下総動員で降伏させた(8アヤ参照)後、元凶であるシラヒト・コクミらを討伐する役として イブキヌシがその命を受けて現地へ向けて出発し、途中で失意のスサノオ命を誘って共に元凶を懲らしめた(9アヤ参照)というストーリーが存在している。
ほつま上は、この乱を鎮圧できている扱いではあるが、大変な犠牲が払われたものと 推察される。(そもそも7世紀には斉明女帝も白村江戦の際、筑紫にまで軍事支援のため行幸された例もあり、昔は帝自ら出陣されて当然という時代もあったと考えられる。) 前稿でも述べた通り、この軍功により名誉回復を成し遂げたとされる スサノオ命は、実際には世を去られたのであろう。
また、その甥とされるイブキヌシもその後存命している設定ではあるが、額面通り受け取れない 何かがあるようである。
超英雄として描かれているわけではないにせよ、イブキヌシは六ハタレの第五 「ハルナハハミチ」討伐には白駒に乗って出陣し(※1)、また六ハタレの第六「アヱミチ」討伐には 帝しか本来乗れない「輦」に乗って敵地へ赴いて(※2)いる(解釈上は、帝の使者だから許されたと解されたりするようだ)。(伊吹戸主は、神道上は 御祓い関係の神なので、 実際には類似した別名をお持ちの方ということになろうか。)

※1:8アヤ 「イブキヌシ・・・マテにあり~」の部分の漢訳(「伊吹戸主命 馭白駒輦左側」)参照。
※2:8アヤ(上記とは別の箇所) 「君 イフキドに鎮めしむ イフキヌシはみゆき輿 ハタレが問わく 神頭 | かんかみか」参照。

このように、イブキヌシはどこか不思議なキャラクターであるが、
さらに『ほつまつたゑ』では、時を経て、神武天皇即位前の時期において、謎な形で名前が登場する。
それは天君ウガヤ(神武天皇の父)の筑紫巡狩が一段落し、宮崎で休息されている際、 昇天の時が近づいたため子のタケヒト(後の神武天皇)が九州へ向かわれた後のこと。
九州で神武天皇は践祚し、ウガヤは崩御される。神武天皇は宮崎でそのまま統治していた が、その間に京では難題が持ち上がっていた。
ちょうどその年に、500年に一度帝が植え継ぐべき真榊が枯れ、苗木が見つからず (神武天皇が即位前のため)植え継ぎの指示も得られないという異常事態になったという。
そこでアマノコヤネ(春日神)が諸国を巡回し真榊を探したが見つからなかった。
そして大物主櫛甕玉命がアマノコヤネに、春日神が植えればと勧めたところ、
アマノコヤネは自分は臣下であるとして消極姿勢を示す。
大物主が、左の臣の職務を放棄するのですか、 と畳みかけると、春日神は、そうではないが、植え継ぎを恐れているだけだ、と 返答する。それを受けて大物主櫛甕玉命が言ったセリフが謎めいている。
「イブキ神ですか?」
この後イブキヌシの妻が登場し、夫の父は月読神であり、アマテル神の弟ではあっても 臣下であること、その子のイブキヌシも同様に臣下であること、植え継ぐ権利は神武天皇が 保有する筋合いであること、そのことへの配慮がないのでは(世の陰りが解消されて帝が晴れ晴れと即位されたとしても)苗が生えてくるだろうか、等と説く場面が付されている。
結局植え継ぎが出来ないため、天鈴暦という新しい暦を作成することになるのだが、 なぜイブキヌシの名が出るのか、ほつま研究家の間でも謎とされている一節である。
イブキヌシの父は月読神であって、アマテル神・ソサノヲ命の兄弟という系図になっている。
ほつまではアマテル神は君主であるが月読神やソサノヲは当然臣下ということであるから、
イブキヌシに植え継ぎ権がないのは当然で、それゆえ研究家が首をひねっているわけである。
神武天皇の即位直前期は、ムハタレの乱から相当の年数が経過しているため、ほつま 研究者の立場でもすでにイブキヌシは他界していると捉える考え方もある。

ここで、スサノオ命と月読命は同一神と捉えられることがある点に注意されたい ( 大宜津比賣の神話で、古事記の場合スサノオ命が主人公だが、日本書紀では月読命が主人公)
イブキヌシのムハタレの乱での活躍ぶりは、イブキヌシが皇太子的存在であったことを 暗示しているように見える。しかも、最後にソサノヲ命と共に戦っているということは、 孝霊天皇の単なる甥というよりはむしろ子であることを示すのではないか。
おそらく実際には子で、せいぜい兄弟の所に預けられたことがあるという程度ではないかと思える。(アマテル神の「輦」に乗っていることからすると、孝安帝側からも親王宣下的な ものを受けていた可能性もあろう。)
アマノコヤネ(春日神)としては、なぜかその皇子の権利を気にしているということになるが、 前稿でも述べたように、(かつて、乱の結果)孝霊天皇が崩御し、さらに皇子も薨去したためその継承問題が大きな争いをもたらしたと推定される。そうであれば、孝元天皇側としてもその皇子の 幻影に畏れを抱くこともあったかもしれないため、ほつまの記載も納得できるものとなる。

このような状況からすると、ほつまでイブキヌシと呼ばれる皇子は前稿最後の方で述べた ②③⑤のいずれかの方にやはり該当するように思われる(ただしその特定については稿を改めたい)。

もっとも、『ほつまつたゑ』上イブキヌシはその後も存命しており、四国の所領に居て最後は 高野山の神になったともいう。ただしその動静は殆ど不明ともされる。
自説としては、ムハタレの元凶であるシラヒトコクミ討伐の頃に実際にはその方は 亡くなられたのではないかと解する。
そもそも四国には(ほつまとは関係なく)百襲姫に関する伝説(神社を含む)が非常に多いのだが、これはおそらく姫や関係者を慕う人達が地名遷移的に設定したものではないかと捉えることができよう(四国の方には申し訳ないが。ただそのような方々が多く移住したということは考えられよう)。
孝霊天皇や百襲姫には種々の伝説が存するようで、それだけに実態把握が困難になりがちになる という不都合は否めないのである。

そして、イブキヌシにあたる皇子についても『ほつまつたゑ』がある意味注意深く記録している 存在であるにもかかわらずその実態はどうしても謎めいてくる。
ただし『ほつまつたゑ』の記載からすると本来重要人物であったことの片鱗だけは残っているように見える。
手がかりが乏しいため寂しい感じがするが、次の項目で探っていくことにしたい。

○示唆的な「皇子情報」と天孫降臨前の神

実は、前々稿の「天皇系譜と示唆的な記述について」の項目で次のように記載しておいたのを 覚えておられるだろうか。

たとえば日本書紀の第4代懿徳天皇の項目には皇子として本文には第5代孝昭天皇お一人が記されるが、但し書きで、
一説によると[孝昭]天皇の母弟 武石彦 | たけしひこ | あやし友背 | ともせという、
というような形でもう一人皇子が追加されている。
(中略)
このような但し書きの皇子情報は、日本書紀の第8代孝元天皇の項目にも見られ、何事かを示唆していると解される。・・・

上記記載の中の「孝元天皇の項目」については内容を記さなかったのであるが、日本書紀においては 第8代孝元天皇の皇后(鬱色謎命)は二皇子と一皇女を生んだとされており、
第一が大彦命、第二が開化天皇、第三が倭迹迹姫命となっている。
そしてその直後に実は
「一説によると、[開化]天皇の母弟  | すくな | ひこ | | ごころの | みことという」
という形でもう一人皇子が追加されているのである。

第4代懿徳天皇の項目に記される 「一説によると 天皇の母弟 武石彦 | たけしひこ | あやし友背 | ともせ命という」 は本録の最後の方にあたり、「十七世」の最後「遠津 | とおつ山岬 | やまさき多良斯 | たらし神」に該当することは 前稿で推察致したところである。

これと同様に考えると、第8代孝元天皇の項目の「 | すくな | ひこ | | ごころの | みこと」は開化天皇の兄弟にあたることになり、しかも 「十七世」に載ってもおかしくないほどの重要な方ということになるはずではないかと思える。
もっとも、「十七世」にはそれらしい御名前の方が一見存在しないため、心を悩ませる箇所となってしまう。
ただ、開化天皇は名目上は第8代孝元天皇の皇子だが、実際には 第7代孝霊天皇の崩御後の後継者というような位置におられたはずである(前々稿参照。)
少彦男心命はその開化天皇と肩を並べて記される方と捉えた時、実はイブキヌシに相当する 孝霊帝皇子である可能性は出てくる。
少なくとも、②③⑤のいずれかの方に該当する可能性は高そうである。
(もちろん、孝元天皇の皇子の可能性も検討されるべきだが、 孝元天皇の子孫はそれなりに存在しているので、このように特殊な形で皇子を記載する必要性が乏しいようにも解される。)

第8代孝元天皇は前項において「大国主A」にあたると記したこととの関係でお気づきになった方もおられるだろうが、日本神話において、 | おお | 貴命 | むちのみこと(大国主の別名とされる)は | すくな | ひこ | なの | みことと力を合わせ、心を一つにして天下を 経営されたともされている。この神話上の | すくな | ひこ | なの | みこと開化天皇"兄弟"の | すくな | ひこ | | ごころの | みこと は名が似ているため どうしても気になってしまうことは否めない。
この | すくな | ひこ | なの | みこと | おお | 貴命 | むちのみことが国を平定されたときにヤマカガミの皮で舟をつくりやってきた 小男(ヲグナ)の姿として『日本書紀』神代上第八段の第6の一書には描かれている。
そして、国づくりの途中で、少彦名命は常世郷 | とこよのくにに去られ、その後大己貴命はひとりで国づくりをしたともされる。
神話上の存在として知られる | すくな | ひこ | なの | みこと ではあり、記紀の記述もそれなりに神話風になっていることは確かだ。
もっとも、少彦名命は風土記にも登場[こちらの注を参照]する存在で (播磨国風土記では大汝命(大己貴命)と小比古尼命(少彦名命)とが争ったともされる)あり、過去実在した人物としての側面はあると考えたい。ただその人格神としての存在はベールに包まれているといえる。
ただし、その「神話的な位置付け」も「実際の人物像」のヒントにはなるのでないかと考えられる。 絵姿としては様々に描かれることがあるとしても、有力な考えかたとして 少彦名命の神格は穀霊であるという説がある。
実際「オグナ」の語が使用されている(日本書紀) ことからすると、「穀童」として御子神の性格があるということにならないだろうか (くわしくは、こちらの注を参照)。


このように「少彦名命(スクナビコナ神)」が子神としての性格を有していることに鑑みると、 同じく『日本書紀』神代巻や『古事記』のに登場する別の人物のことがその立ち位置とも絡んで 気になってくるのである。
それは「 | あめの稚彦 | わかひこ (天若日子)」という人物である。

○天孫降臨前の神(続き)天稚彦の謎
そもそも古代における用法に関し、 吉井巌氏は、「天若日子の伝承について」という論文において、 『万葉集』210番歌・213番歌・3962番歌などを参照された上で、
古代の「若き人」は、いわゆる若者よりはずっと幼い人を指して 多く使われていることを指摘することができる。
とされ、さらに紫式部日記において若宮の泣き声を「若し」と形容した表現について 「新鮮な生命力のひびきへの感嘆」と捉えた上で、天若日子について、
完全を指向する未熟と同時に新鮮な初々しさを あわせもつ名であることを考慮しなければならない。
(中略)・・天若日子は・・成人以前の初々しい若者であったと思われるのである。 (吉井巌 「天若日子の伝承について」(吉井巌『天皇の神話と系譜 二』 塙書房 1976年所収)p.50~p.57参照)
とされた。
日本神話において、天国玉の子・天稚彦は顕国玉 | うつしくにたまの娘 下照姫と結婚したとされる。
天稚彦は高天原から命を受けて地上を平定しに赴いたものの、 現地の下照姫と結婚し復命しなかったという。

ここで顕国玉の娘として登場する下照姫であるが、顕国玉とは大国主の別名とされている。
したがって一般的な仕分けとしては国津神となるが、異説もある(この後で触れることになる)。

ところで、天稚彦は幼い神としての名義をもちつつも姫との結婚をしたという伝承がある点、 には特に注意がひかれる。
もっとも、天稚彦は形式的には「出雲に日和った神」であり通常の意味での高天原側 から見れば裏切り者として処罰された形になっている。
しかし、その裏切り者としての側面(返し矢の話等)は後に付加されたものに過ぎないとの 分析こちらの注を参照も存しているのである。


実際、天稚彦は罪人にしては品の良いお名前であり、そのあたりに昔の謎が封じこめられているようにも思えるのである。

また、『ほつまつたゑ』においては中臣氏の祖神的人物であるアマノコヤネが 相当偉大な人物と扱われていることは前稿で記した。
『ほつまつたゑ』には洒落た風流な本のような味があって、神々がしばしば 平安時代の人名(○○ヒト)のような4音からなる | いみなを持っている設定となっている。
アマノコヤネの諱は「ワカヒコ」であり天稚彦の「稚彦」と同音である。
これは暗にアマノコヤネが「稚彦」の権威を継承し、その代役になるとの趣旨(主張)が含まれている のではなかろうか。(なお、「アマテル神」の諱は「ワカヒト」である。)
『ほつまつたゑ』が「イブキヌシ」について格別の注意を払っていることを考え合わせると、 イブキヌシ=天稚彦の可能性もある。
もちろん、ほつま上イブキヌシとアメワカヒコは別々のキャラクターであるが、現実の事象とし ては複数のキャラクターが同一人に帰属することはありうると考える。

このように『ほつまつたゑ』のアマノコヤネの権利設定を見ても、 もともと、ある高貴な女性と皇子が本来結婚ないし婚約しており、その皇子の亡き後に 「だれがその皇子の代わりに姫と結ばれる権利があるか」ということが問題になったのではないか(ほつまにおけるイカシコメ(イキシコメ)[ | 香色 | かがしこ | 命のこと]に関する記述参照)と推察できないだろうか。
そうだとすれば、その亡くなった皇子が | あめの稚彦 | わかひこ でもあったということになるかもしれない。
そして、おそらく | すくな | ひこ | | ごころの | みこと でもあったのではなかろうか。

そもそも、天稚彦については記紀上も父親の存在が「天国玉 | あまつくにたま」という曖昧な名称として 記されていることは知られている。しかしそれは天稚彦が任務違背者とされた関係で父の名を明示できなかったからであり、実際にはかなり高貴な人物であった可能性があるのではないか。

『ほつまつたゑ』において、アメワカヒコは、カナヤマヒコの子アマクニタマ(天国玉)の子とされている。 カナヤマヒコというのは金属をつかさどる神であるから単なる国津神のようで あるが、アマクニタマの父とされていることはカナヤマヒコに天津神の性格があることを示しているように思える。
カナヤマヒコには、単なる「金属の山」を越えた何らかの意味があるようにも 思われるのである。金山彦といえば、美濃国の一宮の「南宮大社」(岐阜県不破郡)の祭神として知られる。 祭神は金山彦神であり、彦火火出見命他が配祀されている。境内社も、 天孫降臨期前後の神々が多いのは気になるところである。「南宮」の名も、国府の南にあるからともされるが、 他の由来も考えられるのかもしれない。

広島県府中市栗柄町には南宮神社という古社があり、一説にはかつては備後の一宮であったとされる(神社内の掲示にもあり)。
この南宮神社は主祭神が孝霊天皇、伊奘諾・伊奘冉神、金山彦とされており、
これらの神々の間に何らかの深い関係があるようにも思えるのである。

○「天国玉」と「姫君」
こう考えてくると「天国玉」は「孝霊天皇」と関係する可能性もあろう。
ところで、その天国玉の子「天稚彦」の妻は「出雲」側の「下照姫 | したてるひめ」であると 記紀には記されている。この姫が例の姫君であるとすると、それは「孝霊天皇皇女」とはいえないのではないかという疑問が出てくる。
ただし、往時の宮廷の状況はβエリアにおける両家の複雑な関係から、相互の親王宣下 (内親王宣下)的なこともあり得、簡単には決められないようにも思われる。

実際、『ほつまつたゑ』ではシタテル姫は「出雲(オホナムチ)側」ではなく、 「アメワカヒコ」の「妹」という位置付けになっており、父は「アマクニタマ」とされているのである。(ただしアメワカヒコの妻は別途設定されており複雑な話となっている。)

さらに、『ほつまつたゑ』といえば、アマテル神が「男神」として登場する独特な書物として知られ、岩室に隠れるのも男神アマテルであるが、記紀に準拠するための限界からなのか、 スサノオ尊による身の潔白の主張を天照大神が聴く場面においては、なぜか「昼子姫」 (アマテルの姉神。イザナギの子。)がアマテル神の代わりに登場している。
この昼子姫は、「皇太子オシホミミを守り育てる神」ともいわれ(6アヤ参照)、「ワカヒメ」 という別名でも呼ばれている。
6アヤ:アメヤスカワの昼子姫 御子オシヒト(オシホミミ尊のこと)を  | ひたします
つまりいわゆる女神としての天照大神に近い性格をもった神といえる。

そして、ほつまにおいてこの昼子姫は「シタテル姫」の別名をも有し、 その「シタテル姫」の名をアメワカヒコの妹に譲ったという。
つまり譲られた方の女神は「2代目シタテル姫」ということになる。
ほつまの建前としての理由は別途あるとしても、イザナギ尊の姫がその称号を 一般神の娘に譲るのは不自然であろう。とすると2代目シタテル姫の父「アマクニタマ」が 相当高位の人物でもおかしくないことになる。
実際、昼子姫(1代目シタテル姫)は和歌の心得を記した雲櫛文 | くもくしふみ を2代目シタテル姫(オグラ姫)に伝授し、同時にシタテル姫の名を襲名させている(9アヤ参照)。
和歌は『ほつまつたゑ』で重要視されている要素であるため、この扱いも尋常ならざる何かを 感じさせる。ほつまの表現ではないが、いわば「大雲櫛ヒメ」が「若雲櫛ヒメ」に何かを 託したかのような感じを催させ、何とも不思議な感じがする。


奈良県御所市に大倉姫神社(式内社の「大倉比売神社」)があり、延喜式神名帳(国史大系本)には 一名を雲櫛社というとされている (卜部兼永『延喜式神名帳秘釈』には「大倉比咩 一名 雲櫛命」とある)。
『ほつまつたゑ』の記載はこれに関係するものと思われる。
ただそもそも、『先代旧事本紀』において下照姫は大己貴神(大国主の別名)の御子 とされ、葛上 | かづらきのかみ雲櫛社 | くもくしのやしろに祀ると注記されている。
下照姫は記紀上も出雲側の神(大国主の子)とされているから先代旧事本紀の記述に 特に不思議さはないが、天国玉の子とする『ほつまつたゑ』の記述も無視できないと考える。
その詳細については、直ちに明らかにすることは困難であろうと思われるので、 当サイトとしては、とりあえず、『ほつまつたゑ』を考慮に入れ、
万幡豊秋津 | あきつ姫 =オグラ姫(大倉姫) =栲幡千千姫万幡姫 =シタテル姫 = 万幡豊 | あき 津師 | づし比賣 =雲櫛 | くもくし(延喜式神名帳秘釈) =孝霊帝皇女 倭迹迹日百襲姫もしくは倭迹迹稚屋姫=イカガシコメ命=40章の姫君
と考えておきたい。
(その他別構成の可能性等については、後ほど補論で扱いたいと考えている。)


このように、孝霊天皇が崩御されたあと、残った皇子も薨去したことで、 姫宮の立場が複雑なものとなったというのが当時の事情の概略的なものということになるかと思われる。 そしてそれが40章で回顧されている状況でもあろうかと考えられる。

このような状況下では、多くの部族がその皇子を悼み、慕う気持ちが募ったであろうことは 想像に難くない。開化天皇と孝元天皇のように、実際に姫を娶ったであろう方以外にも、 その余の婚姻希望者や、あるいは姫との婚姻がなくても「皇子の生まれ変わり」を主張するもの、 さらには皇子の相続権者と称するもの、などが続出してもおかしくない状況であったろう。

というのも孝霊天皇は相当広汎な権利を束ねておいでであったとも解されるので、 従属する部族間で異論が百出するなどのことも十分相到されるのである。
(争いをなくすためには、反乱のシンボルとして利用されがちな方の生前のプロフィールの曖昧化も 必要になったかもしれない。)

このような困難の中、本宗家の地位は開化天皇、崇神天皇へと受け継がれていったものと 解釈できるように思われる。
当時、さまざまな困難の中、争いもあったこととは察せられるが、そのような 時を乗り越えて現在の日本の立場へと紡がれていったことは決しておろそかにできないことなのではないかと拝される。


○雲に乗る姫の謎

上記で述べたように、40章の姫は、孝霊天皇皇子との婚約関係も あったはずであり、京が荒廃する前から孝霊天皇の帝都にはおられた状況はあったはずと考えられる。
ただし、その後困難な状況の中、まず孝元天皇と婚姻し、さらには開化天皇の皇后となられたはずである。 日本列島へ向けての脱出の具体的状況は不明とするしかない状態であるが、 まずは孝元天皇と暮らされた時期があるはずで、場合によっては脱出後一旦 御二人で暮らされたということも考えられる。(開化天皇が来られるのはその後となるだろうか。) また、脱出も多段階を経てなされた可能性もある。
それゆえ姫もいろいろと移動されたこととは拝される。

ところで、孝元天皇や狗奴系の事について以前自分は次のように書いた。

金官加耶国の前身は弁辰狗邪国 (魏志倭人伝の[「倭の北岸」の]狗邪韓国)である。
ということは、(「大加耶国」同様に、)その 「前身たる存在」に接ぎ木する形で 「金官加耶国」の王の系譜が作成されており、 前身たる国の初代こそが首露王に相当する人物であると考えられるのである(何らかの和名があるはずだが抹消されていると思われる。
以下、当サイトでは首露王に相当する人物を便宜的に 「弁辰狗邪初代」と表現する場合がある)。
そして、前身たる存在とは本来「狗奴国」の王系であると考えれば「狗邪」と「狗奴」 の音が極めて近似していることも含めて辻褄があってくるのである。すなわち、この系統は初代王から (断絶問題が一応生じない形で)続いている家柄(景行天皇の家)のはずである。
そして、そちらもやや格式の問題はあるが帝たりえた、と考えられる。
ということは、「金官加耶国」の王の系譜についても、途中までは帝であるが、途中からは 帝に接ぎ木したものということになり、接ぎ木の部分以降は、諸侯の系譜に過ぎないということになる。諸状況から推して、諸侯の系統も複数ありうるのではなかろうか。
(「金官加耶国」の王は一代あたりの年数が長すぎるので、抹消された王(諸侯)が含まれているように思われる。)
「金官加耶国」という国の正体は、そのようなものに過ぎないということになる。

「弁辰狗邪初代」と「第6代孝安天皇」との関係が問題となるが、世代を考慮すると親子の関係ぐらいが穏当であろう。

○(弁辰狗邪初代)──第6代孝安天皇──第8代孝元天皇─(○?)─第12代景行天皇(以下略)

また大略次のようにも書いた。

中臣氏の系図には、一般に思われている以上に重要な面があり、しかも物部氏の系図よりは
複雑化を免れているため、詳細に検討する価値があるとは思われる。
ただし当方としても多忙であり、簡単に系図を掲載する程度にとどめたい。

初期の中臣氏の系図を再掲すると次のようである。
[津速魂命]
─────
|   | いち | | むすび |   | こご | | むす | 命(居々登 | こごと | むすび命) |   天児屋根命 |   (以下略)
(参考)孝安帝] (参考)孝元帝]

これに関して、いわば「接ぎ木」されたはずの系図である「金官加耶」の初代王からの数代は 次のようになる。

首露王(悩窒青裔)─────居登王──────麻品王───(以下略)

このことに対して詳しい検討は避けたいが、ただ「接ぎ木」に関しては次のことを 考慮すべきだろう。
というのも、狗奴系は本拠を日本列島内に移し、景行天皇などを輩出したと考えられる
(それより前の崇神朝にも影響を及ぼしたとは思われる)。
それゆえその場合、半島の所領はどうなったのかという問題が存するのである。
なぜならこの系統は、崇神天皇系と異なって、一族の数は多かったと思われるからである。
思うに、『ほつまつたゑ』的にいえば、その半島の所領は「シラヒト・コクミ」的なものに一旦 不法占拠されたはずであるが、所有権としては日本列島内の当主に属したはずであり、 ただ当初は観念的な支配に留まった時期があると考えられる。
ただし日本側も当該地域を回復しようと何らかの手は随時打ったと考えられるから、もう少しあとの時期であれば実行支配を回復した時もあるとは思われる。
(なお、崇神・垂仁天皇系の天皇在位時は、当主支配の土地全体がさらに上位の本宗家の主たる天皇に属する筋合いとなるか、 もしくは本宗家直轄となった可能性もある)。
そのようなわけから、先方の、例の「族譜」で言えば、陵が「無伝」となっている部分については、 支配者が日本列島にいた可能性もあろう(そのような系図が借用されたという意味)。
もちろん、実効支配回復期の一部は「分家」ないし「部下の諸侯」支配もありえたであろう。
ただ、最後の方についてはどの程度に日本の血筋であったかはもはや不分明である。 (最後の王[仇衝王]の王子は新羅系王女との間に数人の男子を生み、その男子のうちの一人と新羅王族の女性との間に生まれたのが金庾信である)

上でも言及した、「例の『族譜』」すなわち「金海金氏族譜」には種々のバージョンがあるが、 王統のはじめの方に不思議な記載が付されているものも中にはある。 耳慣れない話題で申し訳ないが、「接ぎ木」の際に生じた「伝説の残存」として 検討の価値がなくはない(若干族譜の話題が続いてしまうことになる)。
次に引用する資料を利用することにしよう。

『金海金氏世譜 巻一』に含まれる「駕洛国璿源世系」より:
(その他の世譜中に含まれる「編年駕洛國記」等も似た内容)
道王 諱居登 太王長子 漢桓帝延熹五年・・壬寅承命代理越三十八年
漢献帝建安四年己卯三月二十三日即位 新羅佔解王七年癸酉薨
代理三十八年真在位五十五年凡九十二年
古譜 同庚辰即位 以世孫冊封太子
己卯王子仙 見塵世衰弊 與神女 乗雲離去(以下略)


(現代語訳)
道王、諱は居登、太王(首露王)の長子である。
後漢の桓帝の延熹五年(中略)壬寅の年(162年) に父王の代理を命じられ38年間を経過したのち、後漢の献帝の建安四年己卯の年(199年)に即位し、 新羅佔解王の七年癸酉の年(253年)に薨じた。{(注・259年とする説もある)}
代理の地位にあったのが三十八年、真の在位が五十五年、合計九十二年である。
古い族譜によれば、庚辰の年(200年)に即位し、世孫(後継者たる孫)を太子に冊封したという。
また、己卯の年(259年か)に、王子・仙が、汚れた世が衰えくたびれたのを見て、 神女とともに雲に乗りそこから離れ去った。(以下略)
この族譜には、二点の変わった点がある。「古譜によれば」として異説を記しているのであるが、
①居登王の王太子は子でなく孫(世孫)であるという主張
②居登王の王子の一人である「仙」が「神女」と共にその地を去った という主張である。
②が気になるところであるが、まずその前提として①を検討しよう。
そこでこの部分を系図化してみる。『三国遺事』のものと当該族譜のものと二種類掲げてみる。
[三国遺事]
首露王(太祖) 居登王(道王) 麻品王(成王)
    后・慕貞───
[族譜](※族譜には種々のバージョンあり)
首露王(太祖) 居登王(道王) 王子「仙」
      王子(仙と同一人?) 麻品王(成王)

ここで王子「仙」はどのくらいの重要人物だったのかという問題がある。
族譜上は、「仙」は国を去った人物であり、麻品王は王太孫であるから おじ・甥の関係でもよさそうである。
しかし、王子「仙」がいなくなったから、かわりに王孫に後を継がせる、という発想が 普通ではないだろうか。
そうだとすると、王子「仙」は本来王太子だったのではないか。
さらにいえば、初めから孫を後継者にするというのは、後付けの話のようにも思えるのである。
その上で、さらに問題が秘められている。
本当に「王孫」が後を継いだのだろうか。
本稿をお読みの方は、この王家の初期の「陵」が「無伝」となっていることを覚えておいでかも知れない。
そうすると、本当の後継者は、その場所から
離れ去った王子「仙」本人ということはないだろうか。そして、その王子「仙」本人こそが麻品王(成王)であるとすると、「陵」が半島にないのは当然なのである。
この点を考慮して更に系図を作製してみる。
A案
首露王
(太祖)
居登王(道王)
麻品王(王子「仙」と同一人)
(成王)

居叱弥王
    后・慕貞─── 神女─────────
B案
首露王
(太祖)
居登王(道王)
麻品王(王子「仙」と同一人)
(成王)

居叱弥王
    后・慕貞───     神女────────

のどちらかではないかとも思われる。
王子(仮にYとする)がいなくなって、移動先で即位する場合、
もとの場所においてYが即位したと書くことはできないので、Yと別人のY´を設定し (例えばYの子とする)、
Yは即位できないがY´という別人が即位したとしてしまうことはありうる。
麻品王が居登王の孫(世孫)という族譜の記載はそのような事情からくるものではないか。
居登王の子であるのに孫という別人にしてしまうという手法である。
 [三国遺事] には孫という記載はないのである。
そうすると、A案の方がよさそうと思われる。

麻品王は、実際には難をさけ、姫君(神女)と共に離れた所へ移動して 権威を保ったのではないか。
この点についてさらに深く考察するためには麻品王の項目の「一に云く」を検討する必要があるが、 長くなるため詳しくはこちらを参照。上記の結論は維持されている。


神女と共に王子が乗雲離去したことが何を指すかはもはやあきらかであろう。
(上記の注を読むと、さらに詳しく理解できると思う。)
姫君と孝元天皇とのこととなると、おろそかにはできない話である。

神女の乗雲離去の話はあまり日本で見かけないものだ。
しかし、実は朝鮮側から朝鮮起源説の一種 として持ち出されることがある。これを信用してはいけないと思われる。
この話を持ち出す例として、史学者の千寛宇氏の例があるが、これは注の方で触れてある
もう一つ例を挙げると、
高濬煥 | コ ジュンファン『「伽耶」を知れば日本の古代がわかる』(双葉社 1999年)などによっても
一部の人に知られているかもしれない。
  
同書中に引用されているのが李鐘琦という在野史学者(卑弥呼渡来の謎などの著書あり) の説らしいのだが、
族譜の「乗雲離去」の話を利用し、
①王子の名は(仙でなく)仙見 | ソンギョン
②神女も王子も金官加羅初代首露王の子で居登王の兄弟である。
③二人は九州の八代 | やつしろに来て邪馬台国をひらいた。
④卑弥呼は神女、男弟は仙見王子である。
⑤卑弥呼=妙見宮祭神「天御中主神」である。
⑥神女卑弥呼は183年頃倭女王に擁立されて八代で統治した。
⑦駕洛国王室の権力構造の変化に伴い彼女は同国から男弟や従者を連れてきて古代国家を形成した。
⑧卑弥呼は神功皇后でもある。
(同書 p.30,p.37,p.38,p.40,p.45,p.55,p.57,p.63参照。)
と説いた。

当然ながら、以下の理由により間違いであるといえよう。
①について、「王子仙」が「塵世衰弊」「を」「見」るという漢文の基本構造 をあえて無視すれば採り得るかもしれないが妙な解釈である。
(族譜の中には「~を見る」の「を」をハングルで補っているらしいものもあり、 そちらの方が自然な読みをしていると思われる。)
②について、居登王がいなくなった王子に呼びかけるという逸話も載るため、 王子は居登王の子とするのが自然である。
また首露王の十人の王子のうちi)居登王となるべき太子ii)「出家」した七人の王子 iii)居漆君という王子、を除くと一人となるのでそれが仙見王子 だというのだが(p.55参照)、許姓を与えられた王子が二人いることが看過されている。 居漆君はその二人のうちの一人にあてるか、もしくは第十一王子とするかである。
したがって不足している王子はない。
また、「神女」は首露王の2人の王女のうち、一人が「新羅の太子(昔氏)の妃」 で残りの一人の行方が分からないからその人物こそが「神女」なのだという(p.56参照)。
しかし、多くの族譜において2人の王女は
「新羅の太子(昔氏)の妃」と
「永安公主(名を玉環といい、裵氏に嫁いだ)」の二人とあるので、上の説には疑問が大きい。
③について:邪馬台国九州説としても八代はマイナーである。
④⑥について:倭国大乱の初期から卑弥呼がいるという前提に立っており、 自説では否定に解している(三国史記に登場する「卑彌乎」の年代は要修正と解される)。
⑤について:妙見宮は北辰信仰の祭神である妙見菩薩を「天御中主神」で表すという一般的方法をとっているに過ぎない。 新唐書に載せられた神代の(異説バージョンの)冒頭神と性質が異なるはずである。
⑦について:権力構造の変化はあったとは思うが、 実際に発生した事象とはズレすぎているように思う。
⑧について:記紀の年代修正論が日本には存するが、三国史記の年代修正論がかの地では 弱いのであろうか。40章の姫、卑弥呼女王、神功皇后はそれぞれ別人・別時期✽である。
(記紀の時系列を融通無碍に動かせば日本でも✽と異なる説は可能なのかもしれないが、 いずれにしても当サイトとしては論外と考えてきており、この点は40章の解説でも有る程度 触れてきており一貫していたことを念のため付記しておきたい。ただ国内の状況についてもう 少し読書の余裕が取れれば種々の民間の歴史家の方の言外の思いについてより考慮した上で論評できていたかもしれず、 そうであればよかったのにとは思う。)

ちなみにp.39には「韓国国旗が見える霊符祠」として八代神社(妙見宮)の霊符祠の扁額の写真が 載せられているが、これは妙見信仰につきものの道教系の霊符をまつったもので、 いわゆる八卦(あたるも八卦、あたらぬも八卦の「八卦」)という陰陽五行説的なマークがあしらわれたものである。 しかし良く見ると中心部や上部には妙見信仰的な 「北斗七星」や「北極星」のデザインが見えるので、韓国国旗にはまるで程遠い。
韓国国旗には儒教にとりこまれた道教的シンボルとして太極旗があるため、 やはり「八卦」が周辺にあしらわれてはいるが、八つの卦が均等に円形に 並んでいる妙見のものとは全く異なるものである。
仮に引用としても、この文化の無理解はなんとしたことであろうか。
大学教授でも八卦を御存じないのだろうか。



google翻訳なども併用してネットの検索もしてみたが、 単なる本の受け売りをしてるサイトが多いらしく、時折「神女=卑弥呼=首露王と許王妃の娘」 説がプッシュされている場合がある。あまりにも情けなく、全くの誤りと考えられる。


本稿で繰り返してきたように、卑弥呼は40章の姫君よりは後の存在であるはずである。


○40章解釈~「辰之墟」の場所

前々稿で自分は次のように書いた。

以上を踏まえつつ、契丹古伝40章で懐かしまれている 逸予臺米 | いよとめが 洲鮮国(βまたはγエリア内。 (溯源p.649(詳解p.363)12~13行目も参照)) に所在したのは上の1)~8)のどの時点なのかについて検討したい。
(注・洲鮮国も魏志の国名リストに載る表現である。
何となく朝鮮に近い語の印象を受けるが 朝鮮という語にしても現在の朝鮮人とは別概念である(→檀君問題のページ参照)。)

1)~8)のどの時点なのかについての検討は既に見た通りである。
ここで、あらためて、契丹古伝40章『洲鮮記』で回顧されている「辰之墟」は どこなのかを考えてみたい。
本文解説にある通り、『○○記』の○○が地名の場合、その場所の訪問記という 意味になるのが通常である。したがって、40章は『洲鮮国訪問記』ということになる。
従って、「辰之墟」は洲鮮国という国の国内に所在することになる。
ただ、洲鮮国は(半島南部の)αエリア・βエリア・γエリアが百済・任那・新羅となって以降は 史書に登場しない国名である。
洲鮮国の名称は、それ以前の魏志の時代における馬韓・弁辰・辰韓時代(三韓時代)の国名であり、その後は それ以外には登場しない謎の国といえる。
以前にも論じた通り、その三韓時代のさらに前は「韓」というよりは「牟須氏」の時代があり、 アメ辰沄氏・賁弥辰沄氏(本宗家)・辰沄謨率氏が占めていた。この時代に洲鮮がどう呼ばれていたかも不明な状態ではある。
そして自説の今まで述べてきた内容としては、賁弥辰沄氏は日馬辰沄氏と干霊辰沄氏から成り、 後者は(現在の)金海(にあたる場所)を拠点とし、前者は(現在の)高霊(にあたる場所)の近辺のどこか、というものであり、
ただし全体として一つの本宗家となるというものであった。
干霊辰沄氏は孝安天皇父・孝安天皇・孝元天皇などの狗奴国系、 そして日馬辰沄氏は孝昭天皇・孝霊天皇の系列となる。
孝霊天皇の時に荒廃したのが40章の京であるはずだから、 40章の場所「洲鮮国」は金海ではなく、(現在の)高霊(にあたる場所)の近辺ということになる。

魏志の州鮮国については、音の類似性から後の時代の「卓淳国」と同一とする説があるが、 絶対的に確定したものではない。しかしこのあたりから場所について検討してみたい。
(なお、州鮮国は、弁辰州鮮国とはなっていないことからγエリア内と見られがちであるが、 本来的に任那の領域の内部と見られる。このことについては後述する。)

・州鮮国=卓淳国と考えた場合
この場合、卓淳国の位置を検討すればよいことになるが、争いがあり、京の位置を確定する 上で障害となっている(大邱・昌原などの説あり)。詳しくは こちら に論じた。
・州鮮国=卓淳国以外と考えた場合
この可能性が(㖨などとの関係で)がないわけではないが、本稿との関係では場所の制約があるため成立可能性は 限定される。詳しくは こちら に論じた。

結局、洲鮮国の位置としては、(現在の)高霊(にあたる場所)の近辺という大雑把な見当づけの中で、 その東方の大邱が有力候補ではあるということになる。
このように、40章の地の候補として大邱はそれなりに魅力的であるが、 新羅に近接しているため、6世紀の任那滅亡後、いやそれ以前から 新羅系住民の流入も激しかったはずで、その後全く新羅化してしまった場所であることに 注意されたい。
そもそも、伝統的な任那諸国の地域には大邱よりさらに東のエリアもそれなりに含まれている  (参考:東潮『倭と加耶』朝日新聞出版 2022年 p.20-p.21ページ)。
ここまでくると新羅の都(慶州)にあまりにも接近してくるので、もとからそちらの エリアだったかと思いたくなるほどである(そちらを㖨とする説もあり、類似地名には警戒を要する。)。 任那地域というイメージが持ちにくい微妙な 区域といえるのだが、浜名も述べているように、γエリアにさえ当初は神子神孫系が いたはずである。
浜名氏はそれを「六村天降説を奉じ | きたった古からの新羅」と表現 している(当サイト本文解説18章の注(1-2)参照)。
そのあたりには、微妙な区域を含めかつては(例えば)秦氏なども若干まじっていたとも考えられる。ただしその後排除されたであろう。
このような関係で、孝昭・孝霊天皇の都が馬渕氏の高天原イメージより東に位置していたことはありうると考えられる。 その都より東部のほうにまで直轄地がおよんでいたとすれば十分ありうる話となってくるのである。(もっとも大邱も広域なので、高霊との中間的な場所とか さまざまな可能性はあると思う。)
その意味で、40章で「大いなる彼の丘」を見つめた場所はどこだったのか、嘆息の中模索することにはなろう。


なお、魏志の段階において、州鮮国は弁辰の語を冠しないので、γエリアの一国のようにも思えるが、 魏志掲載の国名リストの該当部分を、 直後の記述を含め「州鮮国(馬延国)」のように捉えることで別解釈が可能と考える。
馬延国の名は「弁辰安耶国(馬延国)」 のようにもう一度登場するが、契丹古伝の4章のタームにも似た東大古族語の一種で 帝都を意味するようにも思えるのである。
そして、州鮮国が(βエリアに属したが)一旦荒廃したとすると、 次のように考えられるかもしれない。
すなわち、日本列島内で朝廷が一定程度安定した後(卑弥呼女王のころ)半島の実効支配性の 回復を図ったことも考えられ、その際(勅使が)近隣に号令するため仮の御用邸(的なもの)を設定することもありえたろう。 その際、荒廃した場所やシラヒトコクミ臭の強い場所から距離を取って 設定する必要もあったとすると、それが弁辰安耶国(のちの安羅国)の国内だったかもしれない。(安羅はのちの任那日本府の所在地でもある。)
「弁辰安耶国(馬延国)」の表記はそのことに由来するのではないだろうか。
この場合、州鮮国は弁辰の言葉をつける意義が乏しいため弁辰の語が省略されたということもありうるだろう。



○40章解釈~娜彼逸豫臺米 について

40章の本文解説ページで自分はおおよそ次のように解説した。

(3-2)「娜彼逸豫臺米」について。
そもそも、「娜」には「なよやかな」という意味があり、 「美しい」などの訳語もあるが「婀娜」のニュアンスが拭えない。 また娜たる彼の 逸 豫 臺 米などというのは この当時の漢文の語順としてはいかがなものであろうか。 高貴な姫に対する表現としても何か不適切な感じがする。
そこで、当初は娜を中国語の「那(あれ、あの)」のように捉え、娜彼全体で、 「かの(人)」というような意味に解してみたが、指示語としての「那」は近世の俗語らしいから、 この文献の成立時期自体が怪しくなりかねない。
そのことから、娜彼は「娜たる彼の」でもなく 「かの」でもないように思われる。

一応、「なよやかな、かのイヨトメ」でもダメとはいえないかもしれないが、ここでは 別解を提示しておきたい。
そもそも高貴な方の名前にはある程度パターンのようなものがあることが何となく察せられる。 それは十七世の中にも似た名前の方が登場する場合があるのもその一例である。 そうすると、その古語である意味内容(内実)はあくまでもよくわからない 謎ではあるが、前後の世代で似た立ち位置にある御方は似た美称でよばれる可能性があるということは十分推察できよう。

そして、卑弥呼女王の御名前について前々稿で

卑弥呼が日本書紀上のどなたにあたられるかという点について簡単にふれておきたい。

今まで、第12代垂仁天皇の皇女・倭姫とする説や、第10代崇神天皇の大叔母・倭迹迹日百襲姫とする 説が著名であるが、 どちらと解しても上記自説とは不適合である。
むしろ、垂仁天皇の姉妹のどなたか(*崇神天皇紀参照)、もしくは、垂仁天皇の妃のどなたか等、 (垂仁天皇紀参照)の中に、 卑弥呼にあたる女性は(こっそり)記されていると思われるのであるが、 ここではそれ以上の検討は控えたい。 (異論はあろうが、皇族の場合兄妹婚ということも形式上に せよ当時はむしろ行われた可能性があるから、垂仁妃、崇神妃は候補に含まれうる)

と記した。

上の見解は本稿でも維持されているが、本稿では上記引用部分に該当しない女性を例にあげさせていただきたい。
それは景行天皇皇后「播磨稲日大郎女 | はりまのいなびのおおいらつめ」である。 この方の系図には不思議な点があり、古事記では櫛角別王・大碓命・ 小碓命(ヤマトタケル命)・倭根子命・神櫛王の母であるが、日本書紀には櫛角別王の名は見当たらず、 また神櫛王は妃の一人である五十河媛の子(神櫛皇子)となっている。 ちなみに皇太子である稚足彦は記紀共に妃である八坂入媛の所生である (八坂入媛は播磨稲日大郎女の薨去後に皇后に昇格)。
播磨稲日大郎女は一般には播磨の姫というイメージで、播磨国風土記(印南郡)にも稲日を 「印南」という地名に変えた形で登場するものの、これは後世のイメージからつくられた伝説と考える。 播磨は宛て字であると当サイトではみることになる。
景行天皇は、卑弥呼女王・垂仁天皇の権威を引き継いだと思われるので、 その際年老いた卑弥呼を名目上の妻にした可能性がある。おそらく 播磨稲日大郎女の子とされる皇子は儀礼的に皇后の子とされたものであろう。 (系譜上播磨稲日大郎女は孝霊天皇皇子の娘にあたり、この皇子は[この系譜の局面においては] 実質開化天皇を指すのではないかと思われる。)

播磨稲日大郎女は稲日稚郎女ともいい、稲日と郎女の部分に核心があるととらえると
イナビ イラツメ
 ナビ イヨトメ

の対比が可能なように思える。
つまり、娜彼逸豫臺米は稲日(稚)郎女に類似した美称であると捉えたい。
(勿論、世代が異なる別人であることに注意されたし。)

ちなみに古事記によると、
仁徳天皇皇女に波多毘能若郎女がおられ
ハタビ (ワキ)イラツメ と同種の構造が拝される。

さてここから卑弥呼女王でなく40章の姫君の話に戻るが、 本稿で以前から論じたように、イヨトメの皇女としての御名前の一つである
倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ)は夜麻登登母母曽毘賣(ヤマトトモモソビメ)とも申し上げ、どこで区切りをいれたらよいか わかりにくい御名前であり、
ヤマト トトビ モモソヒメ
もしくはヤマト トト ヒモモソヒメのいずれかとは思われる。

細かいことは無理であるが、トトビの部分は「イナビ」「ハタビ」関連表現とも思えるので 「モモソヒメ」の部分は「イラツメ」に対応するのではないだろうか。
この点に参考になりそうな件としては、日本書紀において長い御名前の女性として  「~目妙姫」というように、末尾が目妙姫となっている女性が複数名登場する。
この目妙姫は
マ グワ シ ヒメ
モ  モ ソ ヒメ
のような対応関係があるのではないか。

すると

イ  ヨ ト  メ
イ  ラ ツ  メ
もしくは
大 イラ ツ  メ)
マ グワ シ ヒメ
モ  モ ソ ヒメ

のような対応関係が存在しそうである。

以上より、娜彼逸豫臺米はナビイヨトメ≒トビ大イラツメ≒迹迹日モモソヒメ
のように対応すると捉えたい。

○40章解釈~娜彼逸豫臺米與民率爲末合 の解釈について(自説)

さて、40章の謎の一文「娜彼逸豫臺米與民率爲末合」は
浜名氏によって「娜たる彼のイヨトメ、民と率いて『末合(まっかつ)』となる」 と読まれ、定説となっていた。
ただし合を鹿島曻は合と読みなおし、未合が「ミマナ(任那)」を意味するとした。
佐治氏もミマナ説の成立する可能性について指摘している。
しかし、民を率いるのであれば 與(助詞の「と」や英語のwithにあたる機能を持つ語)は不要で、 娜彼逸豫臺米 率民爲末合とすれば済むことである。「民と率いる」は妙である。
従って浜名氏の解釈も鹿島氏の解釈も誤りと考える。

そもそも、契丹古伝著者の立場からすれば王朝のいわば「終焉」の情景の回顧となるのであるから、 ここで姫が登場する場合としては
①一定の場所への移動 ②薨去  ③婚姻による一般人化
のいずれかぐらいでないと情景描写にふさわしくないだろう。
漢文としてどうひねった読みをしても②とは読めないし、①はいかにもありそうだが 上記のように難がある。
そこで、残った③が有力な線といえないだろうか。
(もちろん当サイトの立場は繰り返し表明しているように、婚姻による断絶ではなく 王統継続である。)

ここで文末の漢字「合」には「結婚する、交わる」という意味もあり基本義の一つといえる ことが想起される。
「~~が・・・と結婚する」という場合「~~與・・・ 合」 でも良いし「~~合與・・・」でもよいと思われる(前者は「~~と・・・とが 結婚する」とも訳せる)

清代の小説『聊斎志異』錦瑟篇には
原文:
陝中賈某、(中略)遂就主第與婦合。
読み下し:
陝中の賈 | なにがし、(中略)遂に主の第に就いて婦と | ごうす。
現代語訳:{(王氏が帰宅しない間に)}
陝西 | せんせい地方の | あきんど某が、(中略)ついには王氏の館に乗りこんできて、婦人と一緒になった。

遂就主第=しまいには王氏の館に行って、の意味
とある。
この部分を簡略化すると

賈某 與 婦 合
(商人某は、婦人 と 一緒になった)

となり、「~~與・・・ 合」の構造であることがわかる。

「娜彼逸豫臺米與民率爲末合」もこの構造であるとすれば
娜彼逸豫臺米 與 民率爲末 合
「娜彼逸豫臺米」は 「民率爲末」と 一緒になってしまった

と訳すことができよう。
イヨトメは当初は「孝霊天皇皇子」と婚約ないし結婚をしていた可能性があるが、 ここで述べられているのはそのことではなく、皇子もなきあと、
この姫の去就に注目が集まった時以降のことであろう。
したがって「民率爲末」とは その皇子の代わりともいえる御方にあたる、孝元天皇もしくは開化天皇であろう。
姫が当初、孝元天皇と共に京から急速に離れ去っていると思われることからすると、 孝元天皇を指す可能性が高いのではなかろうか。
おそらく「民率爲末」は皇子や貴人を一般的に指す用語ではないかと思われるのだが、 これに関連して、古事記の孝霊天皇の項目に次の記載がある(現代語訳)
{孝霊天皇が}また、その{オホヤマトクニ}阿禮比賣の妹、ハエイロドをめとって お生みになった御子は、日子 | ひこ | さめ | 命。次に若日子建吉備津日子命。
ここで、

日子  | さめ  |
民  率爲末 | さゐま

のように対照できそうである。
ここで日子寤間命というのは亡くなられた方なのか孝元帝か開化帝かはわからないので、 日子寤間命と民率爲末が完全に同一人ということまではいえないが、 御立場として、同一ないし類似した人格のようなものを有する面があるとはいえよう。

そこで、「娜彼逸豫臺米與民率爲末合」
(=「娜彼逸豫臺米」は 「民率爲末」と一緒になってしまった)は和風に言いかえれば次のようになろう。
「迹迹日百襲姫は彦寤間命と一緒になられてしまった。」

ところで、「民率爲末」が孝元天皇とすれば、その人物は「大国主A」ともいえる方ということになる。
ここで、一般的にいえば、「大国主神」=「大物主神」であることに留意される。
そこで仮に「彦寤間命」を「大物主神」に置き換えると次の一文が得られる。

「迹迹日百襲姫は大物主神と一緒になられてしまった。」

この点、日本書紀の崇神天皇紀には、箸墓伝説の主、倭迹迹日百襲姫について 次の一文がある。
原文:
是後、倭迹迹日百襲姫、為大物主神之妻。
現代語訳:
この後、倭迹迹日百襲姫は、大物主神の妻になった。※注S
これは神話学的に一夜婚伝説の一つの例とされるが、なぜ崇神天皇紀に神話が挿入されているのかについて明確な説明ができないともいわれている。
これは、何かを暗示するため書紀の編者が極力「既存神話のモチーフ」に載せて何かを伝えようとしたのであろう。
当該神話で倭迹迹日百襲姫はすぐに亡くなられてしまうが、実際にはしばらくご存命であったと解される。
おそらく書紀編纂のころまでは、「イヨトメ」にあたる姫が国を背負われて 言葉にできないほどご尽力なされたことが伝説となって残っていたのではないだろうか。
その伝説の実態を詳細に、書紀編纂者は書くわけにもいかないので神話の「貼り付け」扱いにした、ということではないだろうか。
その実態は、40章で回顧されている事態についての、権利継承にもかかわるご婚儀ということになる。

一方また、『洲鮮記』の著者も、この話が「娜彼逸豫臺米與民率爲末合」のような形で 伝わっていたものを知り得たと考える。この著者がどこから「跡地見物」に来訪したかはわからないが、
一定の範囲でこの事件が伝説として伝わっていたことは十分考えられると解されるのである。
結局両者は立場は異なるものの同じ事件を別表現で伝えたもの、ということになるのではなかろうか。

※注S:ちなみに、一部の系図類において天児屋根命には、「天見通命」の別名もあるとされている。 通説的にはむしろ天児屋根命のだいぶ後の子孫の一人を指すとされるが、本録・再録などの影響も考えられるかもしれない。


○40章解釈~秦城・東藩関係
最後に、40章の解釈問題として残る部分の解釈を検討しておきたい。

読み下し:
| して | ここ | の東藩を | る。 | おほいなり、 | の丘。知らず、 | これ | たれなるを。 | みちに弔人無く、 | しん | じゃう | じゃくとして存す。

現代語訳:
(または馬など)を走らせて | の(=辰の)東藩を | る。 | おおいなるかな、 | の墳丘。 | これが誰(の墓である)かを知らない。 | みち | とむらう人も無く、 | しん(の) | じょう(域)が | じゃくとして存している。

前にも記したように、40章の都の東部はもはやγエリアにさしかかりかけた場所にあたる。 ここでγエリア=辰韓が秦韓とも呼ばれた点に注意されたい。
γエリアはシウムス氏のエリアで後にそれが辰韓と呼ばれるようになったのだが(既述)、 中国の史書上、その辰韓を秦韓と記す例がある。
そこで俗に辰=秦ではないかと指摘されることがあるのだが、 その指摘については否定に解すべきである。
というのも秦韓という表記は①発音が辰と秦とで似通っている②後漢書で、南下してきた 秦の遺民がγエリアに置かれた旨がしるされている、ことから、 辰と秦が混同されたことによるものだろう。
要するに、もともとは辰韓(さらに古くはシウムス氏)だったが、あとからのその地に到った秦系の人がその地に一定程度住みついたので、 秦韓という表記も用いられるようになったに過ぎない ということである。ただし、ハタレの影も忍び寄ってきたことであろう。

契丹古伝40章の場合、ここでいう辰の墟とは孝霊天皇の都であり、都があった当時は その東部も含めβエリアに属していたと解されるが、廃墟と化した後はなし崩し的に実質 γエリアに入ったことであろう。 都の東方はそのようにもともとγエリア的な要素を帯びていたと思うが、秦城とあるように、秦氏が居住していたのであれば、それなりに都のまもりと して機能していたかもしれない。秦氏は神子神孫に属するからである。
そして、その場合、京の中心が崩壊ないし移転により寂れてしまった後も秦氏の領域は残った可能性があろう。
よって『洲鮮記』著者はその(比較的痕跡の顕著な)東部の秦系領域の名残を観察している可能性はある。
ただ、そのような状況下では、本来の辰沄氏の宮処との区別も不分明になるから、
なんとなく見物対象を「秦城」と一括してしまう可能性もなくはない。
したがって、「大いなる彼の丘」とは、宮処の東に隣接する秦系諸侯のものかもしれないが、場合によっては王宮関係のものかもしれないということにはなろう。

(ちなみに、秦姓は韓国では非常に稀とされるので、秦系の民も結局、時間をかけつつも殆ど列島へ移動したのではないかと解される。)



○結び

40章の姫に関する一連の事象は、日本の権利にかかわる重大事件ではあったはずと 思われる。
ではこの事象がなぜ曖昧化されてしまっているかということになるが、
①新羅による任那奪取(6世紀)
②その後の任那奪還策の失敗
③倭の軍事支援も奏功せず、百済が新羅により奪取され、高句麗も新羅が奪取(7世紀)
があったことに加え、
④③の軍事行動の事後処理として、唐による何らかの圧力があった可能性 (当初唐は新羅と連合軍をなしていた。ただし唐は半島直轄領化を目指しており思惑が異なっていたと思われる。 中国は明朝の頃にも半島の権利関係について李朝に質すようなことを 行っているため(『応製詩』参照)、センシティブな事情が唐代にも存した可能性もあろう。) (なおこちらの注も参照。)
⑤朝鮮半島の新羅化に伴い、日本との異質性が増してしまったこと
などが影響しているのではなかろうか。
(なお、新羅の半島独占に伴い唐と新羅が決裂したことから、唐への配慮の一環としての 対新羅宥和策の必要性は消滅している。)
もちろん、
⑥朝廷の移転に伴い生じた各種の事象や権利主張について、波風を立てないことによる 国家運営の安定化
⑦ ⑥とも絡み、当時大変なご負担をされた方々への憚り・労りの気持ち
といった観点も大きかったのではないか。

『日本書紀』は720年に完成しているが、当時は任那を喪失してそれほど 長い期間が経過したという訳でもなく、滅亡後の任那奪還策の実施、また、新羅や百済に対する 任那の調の要求(656年[斉明天皇二年](百済によるもの)まで貢納あり (仁藤敦史『加耶/任那』(中公新書)中央公論新社 2025年 p.206最終行の1つ前の行~p.207 1行目参照。[仁藤氏は「日本書紀の記述によれば」としている。]))等から、任那への思いも残っていたと考えられる。
それゆえ『日本書紀』の神代の叙述として、「態勢立て直し」に伴う「崇神天皇の即位」 に至る様子を「高天原からの天孫降臨」として描写することは十分ありえたろう。
これは、「態勢立て直し」のために、現実の方々を 「天照大神」や「皇孫」という極めて神話的なキャラクター、神話の再現として設定したことによる。
それゆえ高天原といっても、孝昭天皇~孝霊天皇等のおられた宮廷ということになる。
浜名氏も
元来高天原は、宗教想念の天国に其の原義を有して居たものであらうが、 史学の範囲に存在する高天原は皇居のおわします国都の | いい なれば、 今では東京が高天原である。 (溯源p.528, 詳解p.242)
と述べているように、高天原=皇都の意味とすれば、高天原は順次移動しうるものに過ぎない ということになる。任那はある時期皇都だった場所、ということになるはずである。
まだまだ論じ足りないことは多いが、補論は後ほど追加作成を検討することとし、本稿を閉じさせて頂きたい。 ご愛読頂いた方には感謝申し上げる。また、急いで原稿を作成したために、誤字その他、ぶっきら棒な言い回しなど、不愉快に感じた方も おられたかもしれない。誠に恥じ入る次第である。
本サイトをよくお読み頂き、適宜歴史認識に 活用して頂ければと願う次第である。









(補論につづく)

2025.04.12初稿
2025.05.09加筆・微調整

(c)東族古伝研究会