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37章の謎その1:「『古国』の辰」の範囲、日本との関係とは
─37章・40章論点整理①(暫定版)
(おことわり)
契丹古伝37章は、一見そうは見えないが、日本とも関係する重要な章である。
「37章・40章論点整理」シリーズにおいては、次稿以降で、浜名氏の見解について適宜現代的な修正を加えつつ、
日本上古の歴史の解明をめざすことになる。
浜名氏の見解のうち、①本章に登場する王朝の位置付けについては大幅に修正を加えていくことになる。
その前提として、②「辰」の定義問題も論じる必要がある。
また、③半島にどのような種族がかつて存在したか、については、浜名氏の18章論をそれなりに尊重しつつ
単一民族説に惑わされない処理をしていく(これについては本稿以外のページでも実行中である)。
さらに、④半島の倭という浜名氏の概念については、ほとんどの既存の説とは異なっているが、
浜名氏の概念を使用しない場合イヨトメについての解釈はどうなるのか、という問題が生じる。
本稿は、次稿以降展開する当サイトの説の準備作業として、
上記①②③④について既存の学説状況をあきらかにすることを目的としている。
学説状況の紹介を含むため、やや雑然としたページになることをご容赦頂きたい
(②の分量が多くなっている。本ページ末尾の資料は①の既存の説を中心とする。
④については40章の理解が必要となるため本ページでは論じ切れない。①~③と関係する程度で済ませたい)。
このページ自体が一種のイントロダクションともいえることになり、従前の議論の整理を含むため、
初めてご覧になる方にとっては目が疲れてしまうことになるかもしれないが、ご容赦賜りたい。
(イントロダクション)
37章の「辰」は、40章の「辰」と同じ国で、辰沄氏の一分岐であり、40章の「イヨトメ」という高貴な女性に
ゆかりのある国である。
謎の多い国であり、日本との関連も研究の必要性が高い。
しかし、37章が難解であるため、37章の「辰」国をより広義の意味(辰沄氏)にとる
解釈も昔から多く見られ混乱が生じている。
この問題について、若干は、既に他のページで扱っている。
しかし、37章の解釈問題は、解釈次第では契丹古伝全体の問題に影響する。
また、そこまで影響するものでなかったとしても、日本列島内の古代の勢力の在り方に密接に関係する可能性が大いにある。
そのためこの点を整理しておくことは非常に有益である。
より具体的には以下の点に留意される。
・解釈によっては、東大神族全体や、本宗家・分家の問題と絡んでくるという重大さがある
(しかも絡み方も前提となる解釈によって差異が出てくる)。これは日本の立ち位置とも関わる問題
となる。
・辰=牟須氏の国とした場合、(本サイトでいうところの)弥生時代の開始時期論との関係で、日本列島の
諸勢力との関係が大である
・37章の中に、容易に答えを出せない論点が複数存在しており、
既存の諸解釈を見ても説が多岐に分かれている箇所となっている。そのため
これがネックとなってなかなか詳細に中身を論じにくいという状態があるが、これを解きほぐして先に進む必要性がある。
・37章の安冕辰沄氏は、佃收氏の説、
安部裕治氏の説においても極めて重要な存在として扱われている(関連文献のページ参照)。これらの説も契丹古伝37章の記載に一定の解釈を与えることによりその根幹部分が生みだされているという
関係にある。その意味で、37章は契丹古伝解釈の分水嶺ともいえよう。
(本文)
□辰とはいかなる国か
契丹古伝37章は、次のように始まる。
辰は古国、上代
悠遠なり。
辰は古い国で、太古はるか昔にまで遡る存在であるという意味である。
ところが、この辰国は謎が多い国であり、中国の書物である後漢書や三国志(魏志)から微かにその存在が窺えるが、
その実態がわかっていない。
契丹古伝には36・37章・40章などに辰が登場し、独自の記載を含むことから注目される。
特に、辰国と(史書に記載のない)「東表」のムス氏との関係が37章に記されていることは、
「東表」と日本列島との関係性が多くの研究者によって指摘されていることから注目される。
(例:浜名説では東表は最初から日本列島にあったとされる。
鹿島説では外国から入ってきた勢力が九州に東表国を建てたとする。
佃説では山東半島にあった東表の地にあった複数の勢力が遼寧系由で日本列島に移動したとする。
安部説においては山東半島にあった東表の勢力の子孫が、北上後 本宗家性を遼寧付近で とある事件によりBC8世紀の末頃獲得して半島を南へ少しずつ移動し、
獲得者の子孫のうち①最初に本宗家格を有していたのがアメシウ氏②
次に(獲得者の別の子孫の家で)BC82年以降BC75以前のいずれかの時点で王位を譲られて本宗家格
を保有したのがヒミシウ氏 とされ、最終的に
本宗家②ヒミシウ氏のイヨトメは(短期間日本に入ったがその後)満州に消え、旧宗家①のアメシウ氏は日本の九州に入って王権を保有したという.)
浜名氏の場合、この辰は半島内の辰王の国だが、辰沄氏の領域全体を指すものではないと
考えているので、誤解をさけるため浜名はこの半島の辰王の国「辰(国)」をしばしば「馬韓」といいかえている。
(浜名氏の用語法に注意されたい。浜名氏にとって「馬韓」は倭女王の領域となる。
かつ、それは朝廷の領域とは別の「半島の倭」であるという位置付けを浜名氏は行っている。)
この「辰国」に関して、契丹古伝40章において、「イヨトメ」という謎の女性が登場する。
浜名解釈においてはこれが卑弥呼の後継者イヨと同一人で実は「辰」国の最後の女王とされる。
結局卑弥呼も彼女も日本列島内にはいなかったのだという説を彼は主張したわけだ(当サイトは別見解)が、そう解するか否かに関わらず、
辰国・「韓」・イヨトメ・ひいては日本との相互関係性をいかに理解するかが課題となろう。
これはもし日韓同祖論から説明するというのであれば 単純な話となり、ある意味薄っぺらい話となるので
深い見識のない人でもあっさりと理解できるものになるのであろうが、
しかし自説の立場はそのようなものではない。
浜名氏の本音も単純な日韓同祖論と異なる部分があるのであって、本文解説ページの18章の解説に紹介した浜名氏の本音らしきものをヒントに課題を解決するのが妥当と考える。
(これは36章解説にも記してある。)
浜名解釈において卑弥呼の後継者イヨは「辰」国の最後の女王であるが、
辰沄氏の領域全体を指すとの誤解をさけるため浜名氏はこれを「馬韓」の女王と表記している場合もある(上記浜名氏の用語法から)。
ただし契丹古伝のテキスト自体には半島勢力としての「韓」の字は一切使用されていないことにも注目されたい。
(後述するように、上記相互関係性を理解するためには契丹古伝に載らない「韓」の定義を
再考していくことが必要になろう。)
なお、辰王の支配領域は後の半島領域内の馬韓・弁辰・辰韓をあわせたもの
(争いあるも、浜名氏はこの見解をとる。但し三韓の領域につき通説とズレがある)であるのだが、
中国の史書で王家は馬韓種族から出たとされていることや、王都所在地(月支国)が馬韓地域に属するということから、
俗に辰王は馬韓の辰王と呼ばれ、そのため浜名氏も「馬韓」(女)王といった表記を
使用していることに留意すべきである。
この37章の辰国というのは、
浜名氏の場合、繰り返しになるが辰沄氏の領域全体を指すものではない。
あくまで半島内の馬韓に都する辰王の領域(馬韓+弁辰+辰韓)「のみ」を指す。
したがって、当然ながら、「辰」は中国大陸系の辰沄氏を含まないため、殷も含まれないし殷の承継もしくは殷そのものとしての
「箕子」・トコヒコミコの国(辰沄殷)[所在は遼寧]も含まれない。
徐珂殷(31章)も含まない。マッカツ(後の渤海の地域)(6章参照)等も含まれないことになる。
(この「含まない」とされた部分につきこの後の論述で注目していくことになるので、
留意していただきたい。目印として◆を付けておく)
だからこそ氏は次のように指摘している。
辰は辰沄繾の略称である。
漢魏史
の謂はゆる辰王は{辰沄翅報の}尊号の漢訳された者である。
其の尊号のシウシフは、
東大族の全般に共通せる霊語であつて、 訳字を替ゆれば、
粛慎であり女真であるが、・・・・ 粛慎と書かれ・・たる辰沄氏は、復た辰国ではない。 女真と書かれ・・たる辰沄氏は、復た辰国ではない。
・・・辰国は辰国としてその疆域を
画し、他の辰沄氏と別れて、
その存在の自証を為した者なれば、其の源に溯って水質の本源を味ふ時は
孰れも一つ流の分派なれど、・・・
(浜名 溯源p.181)
このように書いているのである。
ただ浜名氏は馬韓の辰王の所在地「月支」を平壌として、それが5章の鞅綏11章の鞅綏韃と
同じとするため、辰王国=5章の鞅綏の陽の辰沄氏=二大宗家の一つとなってしまうという
特徴がある。(自説ではそうはならない点は、檀君問題のページその他を参照。)
浜名説の矛盾点のうち特に注目すべきなのは次の点である。
37章の辰国は「神祖の後に」とある以上神祖スサナミコの子孫となるはずである。
一方東表のムス氏は日本であるとするから、天照大神の直系子孫の系統とはなるものの、
天照大神とスサノオ尊の姉弟関係からスサナミコの子孫とはならないことに浜名説ではなる。
ところが37章には辰国の辰沄謨率氏がもと東表と一つであったと記され、
また辰国の安冕辰沄氏が東表のムス氏の出身と記されている。
とすれば辰国はスサナミコの子孫とはならないようにも思え矛盾するのである。
自説の場合神話論のページ・本宗家権利日本保有論・檀君問題などのページで論じたような処理により、みな神祖の子孫には該当するが、辰国はもともと東表と同じムス氏
の系統であると考える。
そしてムス氏は、本宗家である鞅綏系シウ氏・翳父系シウ氏とは少し離れた系統であると捉えている。
よって辰国はもともとは契丹古伝上の本宗家ではなかったと考えている。
○え?37章の辰国は沿海州方面も含む?
さて、浜名説では37章の辰国が馬韓に都する辰王の領域(馬韓+弁辰+辰韓)「のみ」を指す点でシンプルであるが、実は
浜名氏と異なる説が37章の辰国に関し多数呈示されている。これが大きな
混乱のもととなっているので、少し丁寧に指摘しておきたい。
混乱の原因の一つは、37章の辰国を二大宗家の一つとして浜名氏が処理してしまったことにもありそうなのだが、あくまでも浜名氏は
「辰国は辰国としてその疆域を画し、他の辰沄氏と別れて~」という当然の解釈は維持している。
ところが、この部分を無視してしまえば、とんでもない解釈が可能となる。
すなわち、上の◆で「含まない」とされた諸国さえも
37章「辰」に属する国として同章で扱われていることに出来てしまえるのである。
たとえば鹿島新説では次のようになっている。
37章後半のアメシウ氏=辰国(半島内の国)の担い手(カルデア人の子孫)
であるが、後にフェニキア系種族のヒミシウ氏に半島内の辰国を譲ったという解釈になっている。
この範囲までは「辰」の定義として一応の整合性はある。
しかし、37章冒頭については
辰沄謨率氏=殷の本国であるアラビアのイシン王朝
日馬辰沄氏=古代のウラルトゥ(ビバイニリ)[アララト山東方]の勢力 (日馬をびばと読む)
干霊辰沄氏=カルデア人の海の国の勢力
干霊辰沄の分派の干来=箕氏朝鮮(主力がカルデア系)
高令=チュルク。高句麗系
であるという。
(なお、ここには鹿島説において血統的に同祖といえないものが含まれているが、
擬制同祖論か何かかもしれない。本論とは無関係な話であるので深く追求しない。
結局は無理な解釈をした結果に過ぎないということになりそうだが。)
上に記した鹿島氏の処理の中で、箕氏の国もそもそも上の◆で「含まない」とされたものの一つであるし、
それより時系列的に前の存在で位置的にも離れているあるウラルトゥとか海の国とかは
当然辰国に含まれない。イシンにあたるとされる辰沄謨率氏もそうである。
鹿島新説において神祖=檀君王倹=バビロニアのグート王シャルラク
とされているが、バビロニアのイシンをその(観念的)後継の一つと見ているのが鹿島氏である。
しかしいずれにしてもそれは、「神祖の後に辰沄謨率(イシン)あり」
という文章における「神祖」と「辰沄謨率」の関係を説明できるとしても「辰は古国・・・神祖の後に辰沄謨率氏・・」の
「辰」と「辰沄謨率」との関係を説明できていないという欠陥がある。
というのも神祖の後裔であれば当然に「辰」の後裔というわけではないはずだからである。
(オリエント史観の点に目をつぶったとしても、欠陥性が残るという意味。)
鹿島新説では37章前半は辰国成立の前史にすらなっていない
(カルデア関係で微かにつながるとすれば、辰国成立の前段階の関連事情の叙述となる?)のである。
要するに、37章前半の辰沄謨率氏・日馬辰沄氏・干霊辰沄氏などは辰そのものに属していなくてもかまわないという態度か、
もしくは広い意味では辰といえる
という扱いなのかもしれない。
しかし、それでよいのだろうか。浜名氏が辰の五王統としてすべて半島の馬韓の辰国の王家が時期によって変動したと見ているのと好対照な点にとりあえずは注目されたい。
なおほとんどの部族をシルクロード系とする鹿島旧説における処理はまた異なっている。
鹿島旧説といっても 本によって差があるのだが、
『倭人興亡史 2』の場合 (同書p.476,477,454参照)
37章前半については
辰沄謨率=バビロニアのイシン王朝
コマシウ=箕子(ナブシュミリブルのいとこ)の国。養子のトコヒコミコ(海の国のカシュナディンアッヘ王の王子)の時ラケーからイリを経由して東に移動していく。
于霊辰沄=[カラコルム山城の]ウル(徐珂殷・扶余の前身)
于来=ウラルトゥ。アララト山の東方に建国したウガヤ王朝(辰国)。
高令=丁零(のちの高句麗)
37章後半のアメシウ氏とヒミシウ氏について鹿島旧説は次の処理をしている。
鹿島旧説におけるアメシウ氏(同書p.481)は于来=ウラルトゥ=ウガヤ王朝(=辰国)であり、
紀元前400年頃には未だシルクロードの楼蘭あたりにおり(同書p.445)、
34章、つまり紀元前200年前後には半島に入っていたらしい(34章の説明文による)。
その後王朝交替が生じウガヤ41代王にあたる高句麗の大武神王以降のウガヤ朝がヒミシウ氏の王朝となるという筋立てである。
ここで、辰沄謨率氏は辰国そのものとは異なるし、コマシウ氏を箕子の国とする
以上それも辰国とは別の国である。
ただ、37章後半の辰国のアメシウ氏を同章前半の干来(于来)と同視する(という珍しい処理をする)ため、怪我の功名で
37章前半も辰国の由来の説明とはなっている。それゆえ、その37章の構造については鹿島新説よりマシとなっている。
鹿島説の具体的中身はともかく、
37章は油断をすると妙な展開につながる危険性を秘めているのだ。
そもそも、37章前半に
干来はまた分かれて高令となった
とある。素直によめば高令は「神祖の後裔の辰沄謨率氏」の子孫となる。
浜名氏的に辰沄謨率氏を辰の王家の一つとすれば、高令は
辰国王家の分家筋となるはずだ。
ところが、38章の末尾に
伯族が・・・(匈奴から去って)砂漠の辺境に潜んでいたとき、
辰国は、率發符婁の谿(・・・等の土地[満州内か]・・・)を提供して招いた。
そこで高令は(その提供された土地へ)やってきた。
のようにここにも「高令」が出てくるためこの解釈問題が一つの論点となる。
普通に考えると、辺境の伯族=高令=高句麗と解され、扶余系の部族がイメージされそうである。
そうすると、南方のムス氏と関係のある37章の高令とイメージがズレてしまうのである。
浜名説においてはこの問題を次のように解決している。
①「砂漠の辺境に潜んだ伯族」と「高令」とはそれぞれ別の異なる存在
②辰王家の一つ干霊シウ氏が半島から海を西へ渡って山東省に移動したものが干来で、
干来が河北省にまで北上したものが①の高令(いずれも37章系)
③辰の招きに伴い到来したのは37章系高令で(砂漠辺境の伯族でない)、満州へ入り高句麗となった
しかしまず、①が文脈上無理であるし、また、辰王家がムス氏系という考え(自説)からすれば、
その子孫が高句麗を建国するのは妙である。
38章で満州方面へやってきた「高令」は、浜名説と異なり、
「砂漠の辺境に潜んだ伯族」系の部族と考えるのが妥当であろう。
この問題を説く鍵の一つと思われるものが37章に実はある。
37章で「高令」に言及された直後に「しかし、考えを得ることができないものがある」
つまり「よくわからない」と注釈者が嘆いている部分があるのだ。
この点に注目されたい。
この嘆き、やはり「高令」に関するものではなかろうか。
おそらく、37章前半の部分に何か錯誤のようなものがあるのはないかと思える。
たとえば37章前半の高令は38章で辰の招きに応じて到来した高令(=高句麗)とは名前がたまたま同じなだけで別のグループということかもしれない。
あるいは37章前半の「干来はまた分かれて」の部分に錯誤があり、そのため「干来の子孫である高句麗」という理解自体が誤りなのではないか。
ところが、既存の説でえてして見られるのは、自説のようなことまでは想定せず、
下記のような安易な処理に走ってしまうパターンである。
このようなパターンの説が、これからも登場してしまうことは充分予想され、
非常に多くの問題をひきおこすと思われるのであえて指摘しておきたい。
その安易なパターンというのは、上の自説のようなことまでは想定せず、かつ、
浜名氏のような変わった処理をも回避するパターンである。この場合、37章「辰」の定義問題に影響する。
すなわちそれは、38章の高令も37章の高令も同一の存在=高句麗と見る立場を採るパターンであり、
一見素直なようだが、そう捉えた結果、37章前半の「神祖の後裔に、
辰沄謨率氏が有った・・・(中略)高令となる」のあたりを
「高句麗を含む、東大古族全体にまたがる話」、または少なくとも
「非ムス氏系を含む民族系統についての話」と理解してしまうというパターンである。
もしそのような理解に立ってしまえば、37章冒頭「辰は古国・・」の「辰」を
半島内の古い国「辰」と見るのでなく、5章でいう、スサナミコ当時の「辰沄氏」特に
ムス氏と関係のない方を含む、本宗家を中心とする統合体として捉えてしまうことにつながる。
これは、浜名氏でさえ37章冒頭の「辰は古国」の「辰」は中国大陸系辰沄氏を含まない
としているのに、それをも逸脱できてしまう荒技といえる。
例えば榎本出雲氏は37章前半について「高令」が登場することを理由に「北側の部族の系統を指す」
としているので「辰」を広義に解釈しているように思える(本ページ末尾の付録参照)。
また、田中勝也氏は本家筋の辰沄氏の国(氏の説では満州内)(5章参照)を古代東方国家「辰」と呼び、
それが37章冒頭の「辰」と同じものだとしてしまっている。
そしてその本家「辰」が次第に半島を南下し、半島東南部の辰韓となり新羅となった
というのだが誤りと考えられる(田中勝也説については4章詳説(共通用語論)参照)。
ただ、ありがちな反論としては、たとえば渤海(かつて満州に所在した国)は当初「震国」と名乗っており、
これは「辰国」を意味するのではないか、つまり半島と満州の一部を含む地域に
本家の「辰」が元々あり、その後継として「震国」と名乗っているのではないかと指摘
されることが想定される。
上記反論内容と似た要素を包含するものを他に挙げると、檀君信仰系の偽書『桓檀古記』では渤海の領土を含む広域を檀君朝鮮
の領域としていることは知られているが、その檀君朝鮮を単に「辰」と呼ぶ箇所も同書中にはある。
また戦前からある学術組織に『震檀学会』というものもあるが、
これも渤海や檀君朝鮮の領域としての広域を意識したネーミングであろう。
しかし、契丹古伝においては、遼寧の本家筋のシウ氏の国はシウ氏としか記されていない。
その本家と37章の「辰国」は別の存在と考えるべきである。
つまり、浜名も書いているように東大古族の神子神孫の共通用語として、辰沄繾とか
辰沄翅報があり、それゆえ異なる部族が似た国名を名乗るケースは相当多く発生しうるのである。
再度浜名氏の本から引用すると
辰は辰沄繾の略称である。
漢魏史の謂はゆる辰王は{辰沄翅報の}尊号の漢訳された者である。
其の尊号のシウシフは、東大族の全般に共通せる霊語であつて、
粛慎と書かれ・・たる辰沄氏は、復た辰国ではない。
女真と書かれ・・たる辰沄氏は、復た辰国ではない。」
・・・辰国は辰国としてその疆域を画し、他の辰沄氏と別れて、
その存在の自証を為した者・・・
(浜名 溯源p.181 太字強調は引用者)
浜名氏は「辰国」を決して東族の連合体と見ていないことがわかる。
「辰国」には女真など満洲奥地は含まれないし、当然ながら中国大陸系本宗家も含まれない。
(ちなみに中国大陸系本宗家とはスサナミコの西征後(16章参照)の辰沄氏本宗家の国(17章の幹浸遏)である。
この国は当然辰国に含まれないので、西征前の「もう一方の本宗家の国(降臨後西征前に建てられた国)」と同一国として包含させてしまうことは浜名説から見てもありえない。
これは当然のことで、鉄板であると自分は考える。)
このことからすると、渤海が「震国」と名乗ったのは、
東族共通用語としての「辰沄繾」の一つとして、その略称として「震国」と名乗ったのであって、
分かりやすくいえば「辰沄国」というものの簡略表記に過ぎず、
半島にかつて存在したといういわゆる「辰王」の国は渤海(震国)とは別個独立の存在と考えられる。
このように考えるのが筋なのであるが、浜名氏が半島の月支国に都する辰王を
アシタ系本家のシウ氏と同視してしまったこともあり、
その筋論が多くの研究者によってうやむやにされていることは遺憾である。
浜名氏が半島の辰女王イヨトメをマッカツ(渤海方面)に入ったと解してしまったことがさらに混乱に拍車をかけている面もある。
(例、渤海の震王は馬韓の辰王の王号を継承した旨を述べている箇所として、浜名・溯源p.198参照)
田中勝也氏以外でも、37章前半の「辰沄謨率氏」を「殷」に通じる存在
と見る説も存在している(関連文献欄未掲載)。以下若干コメントしておく。
そのような類の説においては、✽1韓国は一の辰国の別号であるとか、
✽2三韓(馬韓・弁辰・辰韓)は併せて一つの韓国であるとか、✽3辰は全ての源流である東大国とか
説明したりしている。(この説において、韓国を通常の意味で解していると思われる。)
たしかに、浜名氏が馬韓の本来的領域を(通説と異なって)満洲方面にまで拡張する見解を採っていたこともあり、
これをさらにアレンジすれば三韓の総体が檀君朝鮮領域と
ほぼ同じという論を建てることができてしまうことにはなるが、
浜名氏も基本(古)朝鮮=遼寧を含む地域と 韓(半島内地域)を区別していることに注意すべきである。
浜名氏も「韓の全称なる辰国」(溯源p.573, 詳解p.287)という表現を使ってはいるが、
上記引用でも見たように浜名説においてその辰国に粛慎や女真は含まれないので、
浜名氏のいう辰国を檀君朝鮮的超広域と考えることは明らかに誤りであるが、
✽のような見解はおそらくそのような誤解に立脚しているであろう(浜名氏も✽1✽2のような表現は使用しているが(溯源p.186)ニュアンスが異なると思われる)。
そして、✽のような見解は韓民族優越主義から指摘されがちなものとなっているが、
今急務となるのは、全く違う観点から、異なる着目点を対象として検討していくことである。
それは前にも書いたように
謎めいた(馬韓の)「辰王」の国である辰国が、40章のイヨトメと関係のある国であり、
辰と韓とイヨトメと日本との関係が
深いかもしれないという点であり、そうすると「韓」の定義問題になってくるという
ことになり、18章の注釈で浜名が述べた「真の韓人種」の問題にもつながりうるという点である。
檀君問題のページ(既発表)においては、浜名が日韓同祖論をあくまで建前としていたことに焦点を当てた上で、浜名氏の意見を修正する形で、
「古朝鮮」と「李氏朝鮮」が別物であることを指摘しつつ、現代の半島国家による
古朝鮮への「背乗り」論を本サイトの意見として紹介した。
が、浜名氏の本音は単純な同祖論ではないと思われ、
その本音の線を追求していくと本サイトの「背乗り」論にはさらに続きがありうるということに留意し推察して頂ければと思う。
契丹古伝には半島内勢力として「韓」の字は一切使用されていないことにも注目されたい。
辰国について調べると、必然的に魏志韓伝の記載が問題になるのであるが、実は
契丹古伝37章の記載はさらにその魏志よりも古い何かを留めていると思われる。
そのため、魏志の説く「辰王」(や三韓)と、契丹古伝37章の「辰」との関連性やいかに、ということが論点となり、
同時に、そこに謎を解くカギを見いだせるように思われるのである。
契丹古伝37章に描かれた「辰」朝の姿がその後どう変わっていくのか、
その後の馬韓・弁辰・辰韓とどう関係していくのか、イヨトメの所在、こういったことを含め本稿の続篇で
検討していきたい。
付録
37章に関する諸解釈者の処理について(※資料として残しておく)
浜名寛祐説
辰王の王都は半島内で移転せず、王家が辰沄謨率氏→日馬辰沄氏→干霊辰沄氏→安冕辰沄氏→賁弥辰沄氏の順で
移転したと考える(五王朝説)。40章でイヨトメが最後の女王であると捉えるため、必然的に
イヨトメは賁弥辰沄王朝の人物となる。干霊の分岐である干来と高令は中国東部の存在と見る。
田中勝也説(補足)
辰の定義が広義の辰になってしまっている点は本文で指摘した。
その定義の関係で、日馬辰沄・干霊辰沄・安冕辰沄などは辰沄氏の諸族の名の例として
位置付けられるだけ(『古代史原論』新装増補改訂版p.72)で、具体的な位置付け
が試みられていない。おそらく「本家たる辰(辰沄氏)が南下して最後は新羅になる」という
氏の説と矛盾することを回避するためかとも思われるが、氏の説の中でも残念な部分である。
同章原文には漢寇到来の記載があるがこれについても一切言及されていない。
鹿島曻説
当ページ本文中で概略は紹介してある。(最も初期のものに属する説は一応別にあるが似た部分も
多いので省略した)賁弥辰沄氏の賁弥はフェニキア系を意味するが、賁弥辰沄氏自体は卑弥呼・壹与(イヨトメ)
とは遠縁の中馬韓の君主だという(鹿島曻『北倭記』p.429, p.430参照)。
卑弥呼・壹与のルーツはアラビア海→アンガ国→マレー海域→ボルネオ→中山国綽氏→公孫氏→大物主家の出身
という解釈になる(同書p.479, p.482参照)。
佃收説
関連文献のページにおおまかな所は記載してある。
倭人のうち賁弥族についてはAD220~230年に卑弥呼が九州へ移動し238年に北部九州の倭国が誕生するが、
壹与の時敗れ出ていくとあるので、壹与がイヨトメなのであろうか。
安部裕治説(安部裕治『辰国残映』ブックウェイ 初版本による)
37章前半①「辰」は「スサナミコから連続する本宗家としての辰(ただしその中で王朝の担い手の交代や場所の移動あり)」のような位置付けであるように
解される。
②辰沄謨率氏以降、高令までの部分の解釈については(浜名の解釈の現代語訳同書p.108以外)37章の説明として詳しくは言及がなされていないように
見受けられる。
30章の鞅委王との関連で遼東半島の勢力を「干来」と考え同書p.319、そこから分かれたとされる「高令」への言及等はある
が、37章後半や本宗家「辰」との関係が明確ではない。
37章後半(安冕辰沄氏と賁弥辰沄氏)については当ページ本文参照(関連文献のページも併せて参照されたい)。
「(氏の用語法でいうところの)辰」朝の最後の担い手が安冕辰沄氏→賁弥辰沄氏ということになる(後者から卑弥呼・壹与が出る)。
氏の説による本宗家「辰」について、
安冕辰沄氏の前の一定期間は安冕辰沄氏の祖先のニギシの系統
さらにその前は別系の韓侯(韓侯について周武王の子孫とする通説を否定し
東族の国とする)と 氏の説からはなるはずであるが37章との関連では採り上げられていない。
岡﨑倫久説
関連文献のページにおおまかな所は記載してある。
半島の37章の辰王国自体を本宗国とする立場のようで、「辰王は東大神族のステータスシンボルだった」としている(『古代出雲王国の真相』p.136。p.115も参照)。
『明日を拓く日本古代史』p.101の表現からすると、5章の満洲の辰沄氏と同一視しているようでもある
(注・のちの新羅である異族の楛盟舒系が
辰国の支配圏に入ったのははるか後のAD240頃以降とする(同書p.205,p.214参照)。)
ただ東大神族の嫡流たる倭人は5章の拠点から大陸に雄飛し、(雲南時代を経ての再出発)後に再び東北アジアから南下
し辰国に入ったとする。そして賁弥辰沄氏は倭人の一派で、37章の辰国(本宗国)の地位を禅譲された
とする(同書p.70)。そしてこの王朝が北九州に邪馬台国を建設したとする。
榎本出雲説
37章につき、「「辰」国の由来を述べているヶ所が、問題となる」(榎本出雲『契丹古頌の研究』1988年 p.364)
としたうえで、37章前半を
「「高令」が明瞭に、後の「高句驪」となるものなので、北側の部族の系統を指」す
と捉え、後半(東表系-安冕辰沄氏─賁弥辰沄氏)については
「朝鮮半島在住の部族を指していると思われる」としており(同書p.365)、賁弥氏の箇所に日本のことは書かれていないとする(同書p.366参照)。
ただし辰王の存在は何らかの点で日本古代史に関係あるとする。缺史十代の天皇の系統は辰王に当てた方が面白いと思う云々と(同書p.384)。
なお、37章前半の干霊と干来を隔てる海は渤海と解釈している(同書p.366)。
イヨトメについては辰王系の女性で東夷系部族にありふれたイッヨという名の人物と解し(同書p.393参照)、倭人伝とは結びつけていない。
ただし一解釈として、イヨトメは女性祭主で、「娜」は倭人系美人の形容詞であるとする(同書p.392参照)。
浜田秀雄説
浜田秀雄氏は戦後の研究者の中でも古い時期の研究者で、鹿島氏の出版社に
自著の原稿を持ち込み、鹿島氏に契丹古伝をインスパイアした人物であるが、
それだけに困った解釈が非常に多い。
37章の冒頭、蓋辰古国(蓋し辰は古い国)の蓋(けだし=思うに、の意味)
をその意味にとらず、蓋辰という辰とは別の国ととらえる。
蓋辰を「アシ」と読み、アシタ等と同じで神祖系、つまり
浜田説でいうBC400年ごろインドから到来したシスナーガ王朝系により建設された国とする。
シスナーガ王朝系の到来時、九州・南鮮は越の支配下にあり、蓋辰はそれらを
まるごと自分の勢力下に置いたことになるらしい(浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』新国民社 1977年p.223参照)。
蓋辰には越の支配下にあった時点からベトナム系務僊氏が越王により派遣されてきており、
交趾出身のものがアシムス氏[注・交趾はコーチシナのコーチ]、合浦出身のものが合浦ムス氏、九真出身のものを日馬ムス氏
というのだそうだ。(前掲書p.51参照。合浦、九真などの読みは浜田氏の勝手な読み方である)
37章の干来と高令については言及がない。
このように、ムス氏は蓋辰の祖たる神祖の「子孫」ではなく蓋辰の傘下の存在となるため、
37章冒頭「神祖の後に、シウムス氏あり」の意味は「神祖より後の時期に、(神祖の子孫ではないが)シウムス氏
が出て来た」という意味になるらしい(前掲書p.50参照)。要するに神祖系の範囲が狭いため、神祖の子孫が東大古族という枠組みは有名無実となる。
そのため神祖と無関係な民族が他にも続々と紹介される。
37章後半のアメシウ氏については天孫アマミ系という全然別の系統なのだという。
これは閩越の系統なのだそうで、秦によってBC214年閩越が討伐されて沖縄に逃れ天孫氏となり長期間沖縄を
統治することになるが、この系統からBC200頃カケロマ島でアメミという女性が生まれ、これが
日孫(日祖ではない)で、その系統がBC150頃北九州に現れ、南鮮に進入してアメシウ氏を名乗った
のだという(前掲書p.61-p.62参照)。
浜田秀雄説においては馬韓の辰王そのものにあたるものは37章では登場しないという変わった処理となる。
というのも氏の説では蓋辰(シスナーガ系)でもムス氏系でもない
「インドのナンダ王朝系」が南鮮の東施県で「辰王」と称しており、
これが壱岐→北九州(伊鎩河畔の載龍髯)の奴国→一部淡路島へと移動していく「イザナギのミコト」系となるのだそうだ(前掲書p.126, p127, p.136, p.141参照)。
氏の説で東表のクルタシロス(30章)は辰王系の国で九州の唐津の汲田(浜田氏の読みはクルタ)にいたナンダ系(前掲書p.36, p.38参照)で、
東表のアシムス氏(37章)はムス氏なのでベトナム系となる。
東表のなかでこのような区別をつける説はやや珍しい。
なお賁弥辰沄氏はまた別で、BC112年に漢の武帝が攻めた南越王嬰斉の子の
一族の一部が南鮮に入り、その後イザナミの命がAD40年に壱岐、AD50年に出雲に
入ったが征服され兎として描かれたのだという(前掲書p.144, p.56参照)。
しかしAD100年九州の一勢力の招きで再度賁弥氏が渡来し豊後に入り(前掲書p.56, p137, p.139参照)、
AD110には松山に移動し邪馬台国を建国したという(前掲書p.139, p.73参照)。
この後の説明がなぜか曖昧化してくるが、邪馬台国は敵と戦いつつ国を維持し、
その後、イヨトメは民を率いて伊予を出て対岸の中国(山陽地方)へ移動したのだという
(イヨトメと卑弥呼との関係不明だが、おそらく同族?)。
ちなみにこのとき対岸の周防は景行天皇が支配していたとされる。卑弥呼の墓は宇佐八幡と解している
(前掲書p.228参照)。
2023.09.30初稿
2023.10.03補記・修正
2025.02.27補記
2025.05.09加筆
(c)東族古伝研究会