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契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(トップページ)

契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(本文解説ページ)

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 檀君問題
~日本の | みかどの本宗国の権利を侵す半島人の不当な主張について

※本宗家の権利については この前の論考「東大神族の本宗家の権利は結局日本の帝が保有」 を参照。本論考はその内容を前提にしている。 また、本宗家については太公望篇の中の本宗家論も参照。

[以下、要旨(要約) ・おことわり・ 本文 と続きます]

(要旨)

・檀君は契丹古伝の神子(またはその類似存在)のローカライズされた物に過ぎない。
したがって、檀君系偽書の説く「『太古の超広域の檀君領域』イコール『現在の韓民族の超古代における支配領域』 論」  は 誤り

・『太古の超広域の檀君領域』とされているものの実態は、「神子神孫国家群の支配領域の総体(に含まれる一定領域)」 であり、その現在の統括(管轄)権者は「東大神族の本宗家」すなわち日本国天皇となるべきで、 現在の朝鮮人にその資格がない

・半島でさかんに説かれる「東夷はすべて韓民族の子孫」は誤り、
「東夷」=「東族(東大神族)の各族の集合体」が正しい。

・なぜこんな勘違いが生じているのか、彼ら自身も分かっていないと思われるが、大きな誤解が前提にある

・「檀君系王朝が、朝鮮人による王朝で、東夷の本宗家であり、
よって朝鮮人が東夷の最優秀民族である」という誤解が半島人に蔓延している

しかし檀君伝説の正体は、東大神族アイデンティティ保持者の一部自らの集団 | ●●向けに引き直した  神子神孫伝説の変形物である。(神子神孫伝説=契丹古伝にいう日孫の子孫群に関する伝承。)

・この集団を仮に集団Pと呼ぶ。
契丹古伝の神子耆麟馭叡阿解 | キリコエアケ璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカ(読みについては本文19章解説参照)などの変形したものを、たまたま集団Pが檀君と呼んでいただけであり、
耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿は集団Pだけの独占物では本来ない。東族系民族すべてにおいて 祖神となりうる存在で、その場合檀君という名称である必要はない。

・スサナミコの子孫は広域に広がり、その本家が当初の降臨地にいるとは限らない、 当初の降臨地付近を支配していれば自動的に本家筋とみるのは誤り。

・旧約聖書の神話で、アダムはユダヤ人の祖とはいえるが、アダムはユダヤ人だといったら誤りであろう。
そういう意味で、檀君は集団Pの祖とはいえるが、キリコエアケは高句麗人だというと 誤りなのである。また「キリコエアケは朝鮮人」といっても当然誤りである。詳しくは以下の通り。

・「檀君=今の朝鮮人の共通の祖」概念は近世以降に発達した架空のコンセプトに過ぎない。
この点の誤解から、契丹古伝も(現代的意味における)朝鮮人のための物語と思いこむ人がいるが 不当な把握である。

・当初の檀君伝説の保持者(集団P)とは高句麗系の民の一部(東大神族の一部分)。
よって新羅系である現在の朝鮮人は基本的に檀君伝説と無関係、耆麟馭叡阿解 | キリコエアケ璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカとも無関係(次のア・イ参照)

・檀君王倹を祖神とあおぐことができるのは、現在殆ど残っていないはずの高句麗系の民(の一部)=集団P (東大神族) だけ(ただしこの後に記す「瑕疵 | かし」ある者は除く)。ここに 耆麟馭叡阿解 | キリコエアケ璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカ とも無関係な新羅系朝鮮人は含まれない。

耆麟馭叡阿解 | キリコエアケ璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカ を祖神と仰ぐことができるのは、上記集団Pに限らず、(契丹古伝の)東大神族すべて。 しかしここに耆麟馭叡阿解 | キリコエアケ璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカ とも無関係な新羅系朝鮮人は含まれない。

・新羅系を中心とする現代朝鮮人が檀君を自らの祖とした上で、 偉大な朝鮮民族が太古から広域アジアを支配したとする観念はアとイのいずれとも矛盾するため誤り

・新羅は神子神孫である高句麗・百済を併合してその民を打ち砕いた神子神孫文化破壊者。
新羅に続いた王建の高麗朝もその次の李成桂の李朝(李氏朝鮮)も神子神孫文化破壊継続者。
(そして今も破壊行為は継続されている(半島内前方後円墳の破壊など)。

・神子神孫文化破壊国体をもつ国の国民は神子神孫文化破壊に加担したものとして、 神子神孫文化破壊者の瑕疵 | かし を帯びるから、東大神族と主張する資格がない
たとえその国の中において、他の地域よりは東大神族の血が比較的濃く流れている 地域に属する人間が若干含まれたとしても、その者も破壊者に協力しつづけていることには変わりないので、 無資格な点は同じである。

・彼らはスサナミコの子孫の権利を主張できないし、スサナミコ系伝説の一変形である 檀君の子孫としての権利主張できない。

・古朝鮮と呼ばれているものの実体は、平壌ではなく遼寧にあったということが最近の学説において国際的 主流となってきた。
こうなると、古朝鮮というものと今の朝鮮人との関係性を相当割り引いて考えてもおかしくないはずだ。
しかしそうなるどころか、依然彼らは遼寧の古文化を自族の古朝鮮文化として独占しようとしているがそれでよいのか。
それは契丹古伝的にいうと実際にはシウ氏、スサナミコの国と呼ぶべきもので、 そのように本来捉えるべきものなのである。

よって大檀君帝国とか大朝鮮帝国とかいうが、今の朝鮮人の国とはいえない。


・それらの領域は、東大神族の各種族の領域の総体として、全体として本宗家である日本の天皇の (潜在的)管轄に服すると解すべき。

・朝鮮人の主張は、日本の帝の本来的権利を横取りする主張でしかないことになるため、
看過できない大きな問題を孕むといえる。

(要旨ここまで)

おことわり

檀君伝説と契丹古伝との関係は、浜名氏も取り上げている (浜名・溯源 第一巻第七章「檀君神話を彰奨す」p.134-p.156) ところであり、本サイトでも本文解説などで若干言及している。しかし、その点について詳細な解説に 踏み込むことまでは今までおこなって来なかった。
その理由としては
①檀君は朝鮮民族の祖と一般にはいわれており、日本人には関心が無いのが普通であること
②半島において、檀君信仰に対してはさまざまな経緯で虚像がつくられ、20世紀において政治的な ナショナリズムと関連づけられていったことと、日本のかつての半島統治における関与などの関係も あり、極めて政治的な色彩の濃い話題とならざるを得ない面があること
③半島の各種勢力の変遷について、今ではおしなべて朝鮮人であったという風潮が蔓延しており、 この点に関する考察をすれば誤解を招きやすいと共に政治性を帯びる危険があること などがあげられる。

従って今までは、この点についてあえて曖昧なままサイトを運営してきており、そのため檀君伝説 と契丹古伝との関係について、さまざまな読み方ができる余地を残した状態であったといえる。
しかし、当研究会も長年サイトを運営しつつ契丹古伝の研究をしてきたところであるが、 やはり契丹古伝を檀君伝説を拡充するための「だし」として使うような解釈は許容外という結論には 到達している。
そのような中、この問題について他国においていかなる言論が流行しているかという点についても 注視せざるを得なかった。その結果、
①当サイトで許容外の解釈を助長するような面があれば、除去するのが時代の状況に適していること
②契丹古伝について踏み込んだ解釈をするためには、基本的な部分で論外と思われるような解釈につながる ような要素を排除し、ややイメージを固めて論じていかないと深みのある記述が不可能であること
③檀君は日本人に一般に関心のない話題ではあるが、実は深層としては契丹古伝の東大神族の問題と 無関係ではないため、契丹古伝としては無視できない問題であること
④政治的に差し障りのない論述に終始すると、イメージが固まりにくく、曖昧模糊として 結局何をいっているのか分からないサイトになってしまいがちなこと

を考慮し、今回政治的な話題にあえて踏み込まざるを得なかった。
必ずしも当初のサイト運営方針には含まれていなかったものであり、内心忸怩たるものがある。 (もともと本サイトは「推して知るべし」型のものであったため。)
しかし今後の当サイトのさらなる充実のためには、必要なステップであると判断した。

本稿にはある意味、一般の言論に見られない論説が含まれるかもしれないが、それは種々の理由で本稿 でとりあげられている観点が一般の言論では風化していったなどの経緯があるものである。
それゆえ、他の一般の言論において欠如してしまっているからこそ、あえて危険を承知で論じてみる ことにしたものであり、できればその趣旨を御理解いただければ幸いである。
なお、そのような事情から、論述に少しでも慎重を期すため、関連する各種資料の確認・調査に相当の時間を 費やさざるを得なかった。これは必ずしも本意にかなったことではなかったが、ただその分内容のあるものを お届けできたとすれば存外の喜びではある(もっとも、初見では記述の意図が分かりにくい部分もあるとは 思うが、無意味に書いているわけではないので諒解されたい)。長文ではあるが反復も多く、要点をつかめば理解は容易と思われる。
ただ、政治的な論調になればなるほど、「このようなサイトで何を言っているのだ」とこの論考を奇矯な振る舞いと して嘲笑する人も出てきそうだ。しかし、諸状況に照らし、単なる契丹古伝の問題の射程範囲をも超える重要問題に関連する可能性も あることに鑑み、そのような嘲笑をも顧みずに論じる必要性はあると判断してのことであるので、何卒ご容赦賜りたい。

注・多くの方になじみのない内容であることを考え、長文だがあえて一枚のページにしてある。 任意の単語で「ページ内検索」をしやすいようにするためである。適宜活用されたい。

目 次
契丹古伝の「日孫・スサナミコ」系各辰沄氏国の領域 と「檀君帝国」の領土が類似?
契丹古伝と檀君伝説との関係 ──浜名説
契丹古伝と檀君伝説とのなんらかの関係を示唆する固有名詞群
契丹古伝と檀君伝説との関係 ──自説・総論
「檀君は架空の神」説は疑問 ──僧侶の創作ではないとする今西説の重要性
契丹古伝と檀君伝説との関係 ──自説・各論
「契丹古伝解釈(自説)のうち満州の遼寧付近に関するもの」と「半島の学説」との比較・まとめ
契丹古伝解釈(自説)による始祖神群の位置付け(プチ神話論)
辰王国の理解─浜名説と自説の差・檀君との関係について
檀君に関する半島の筋違い的主張─作り出された民族の祖
檀君ストーリーの学者による増殖─本来の檀君伝承の担い手とズレた形での普及
檀君は半島支配層に抑圧された人々が伝承した神
20世紀初頭の檀君ナショナリズムによる檀君の地位のさらなるかさ上げ
 ✽申采浩の檀君民族主義史観
 ✽「檀君教」の創設
「朝鮮民族」の「太古からの単一性」幻想──なぜ浜名氏は日鮮同祖論を説いたか
 ✽青柳綱太郎氏の朝鮮史論
 ✽新羅王家:金氏以前の朴氏・昔氏新羅は倭人と関係するが、金氏王朝は・・・?
 ✽青柳綱太郎氏の「同化不能論」と「日鮮開国祖先同一民族説」との間の「矛盾」の謎解き
 ✽浜名氏も「門戸を開いた」

檀君ナショナリズムと単一民族性の関係
檀君に対する「背乗り」の進行

当初の檀君教(大倧教)文書に垣間見える彼らの本音
新羅の位置付けを変化させた大倧教

檀君の「版図」について。
契丹古伝の伝承と檀君伝説の差・まとめ
檀君史観のいろいろ─その正当化のための理屈は成り立つのか

おわりに
・  本文中に記さなかった引用文献・参考文献補足 /補注・補足


(以下本文)


・契丹古伝の「日孫・スサナミコ」系 各「辰沄氏国」の総領域 と「檀君帝国」の領土が類似?

檀君(だんくん)といえば、日本人にはあまりなじみがないが、朝鮮民族共通の祖とされ、韓国ナショナリズムの シンボルともされている存在である。(ただしこれは昔からそうだったわけではない。後述。)
そして、今では箕子より以前に存在した檀君朝鮮の存在が韓国の教科書レベルで肯定されていることもあり、 檀君系偽書などを用いて「かつての大檀君帝国の偉大な領土」を自慢するサイトが無数に存在している。

一見、日本にあまり関係ないようだが、かつて日本に朝貢した親日国「渤海」の領域もこの「檀君帝国」 に含められてしまっていることを考えてみてほしい。(渤海については 東大神族の本宗家の権利は結局日本の帝が保有 参照)
『契丹古伝』は第7章をはじめ多くの文書が渤海系のものと浜名氏も解釈している。つまり、 渤海は契丹古伝的に見ても重要な神子神孫国の一つなのだが、その領域にしても檀君超古代史史観では 檀君の領域に含められているのである。

契丹古伝の本宗家の権利は、それぞれの神子神孫国の集合体に対して及ぶと考えられる。 とするとその集合領域と彼らの主張する領域がオーバーラップしてしまうことになる。

これを前提として考えた時に、彼らの主張の何かが契丹古伝とは違っていることに気付く。
つまり「東夷」あるいは契丹古伝でいう「東大古族」をすべて「朝鮮人」発祥のものと彼らは主張し 「独占」してしまっていることになるのだ。
檀君とは何かということも含めて、契丹古伝との関係が問題になってくるのである。

・契丹古伝と檀君伝説との関係 ──浜名説

檀君伝説と契丹古伝との関係は、浜名寛祐氏も取り上げているところ (浜名・溯源第一巻第七章「壇君神話を彰奨す」p.134-p.156)
であるが、平壌を辰王国の首都とする浜名氏の独特の論と合体しているので、
当サイトの解釈とそもそもかなりずれがある。

浜名説の趣旨の正確な理解も必要ではあるが、それは当サイトの見解(本頁全体)を十分把握してから でないと難しい面がある。そこで本稿の冒頭の段階ではやや短めに浜名説をご紹介しておきたい。

浜名氏は①高句麗・百済・新羅はすべて韓族であり日本人とも同族だ、という前提に立った上で
②満洲朝鮮系本宗家の流れが、平壌を首都とする「辰王国」をいとなみ、
③その辰王国のにある「太廟地」においては、檀君などを辰王国の祖神として | かしこ | つかえていた (浜名溯源p.147 6~10行目参照)とした上で、
④その宗廟でまつられる本来の祖神は「因庶子 | イソシ」「檀君 | タキ」の二神であったが、 後世に檀君神話のいうような桓因・桓雄・檀君の三神となったのだとする(浜名溯源p.135参照)。

もっとも、もともとその宗廟には「檀君 | タキ」は祀られていなかったとするようだ。
その経緯であるが、浜名氏によると壇君とは本来契丹古伝16章(西征頌疏)で遼寧の辺りに築城した「サカアケ」という神子 (日孫の子の一人)である(溯源p.578/詳解p.292 3行目参照)という。
サカアケが太古に築城した地と同じ場所にたまたま移動してきた辰沄殷が国都(30章参照)を置いた(溯源p.578/詳解p.292 4行目参照)ため、 まず辰沄殷が国都設置の際にそこでサカアケ(サカタキアケ)を祭祀し、 辰沄殷と親交の厚い国柄であった「辰王国」も辰沄殷にならって自国内の平壌でその神を祀るようにした、それが壇君であるという
(浜名溯源p.146 11~13行目参照)

また「因庶子 | イソシ」という存在について浜名氏は
壇君を察賀亶唫 | さかたきとすれば、 | の{(=壇君)}神話にいふ因庶子 | いそしは神祖順瑳檀 | すさなであらねばならぬ (浜名溯源p.145 5~6行目 {}内と太字強調・茶色ルビは引用者による)
と述べてスサナミコと同神としている。
ただし歯切れが悪い所もあり、後の箇所では、 (古代の日韓の言語が同一という前提で)同一言語地域には ある意義の事が相互に無関係にそれぞれ神格化されて並び生じることもあり、その場合でも その名・格・意義が同一なら同一神といえるなどと若干ぼかしてもいる。

しかし上記の浜名氏の立場について、当サイトは疑問を呈したい。
当サイトとしては以上の①②③の全てについて批判的に見ているのである。 (たとえば②の辰王国はムス氏系なので本宗家系ではない)。

それにもかかわらず、浜名説の中で重要なのは、明らかに浜名氏は契丹古伝上重要な神子神孫国である 「辰王国」について、その辰王国の祖神を「因庶子(イソシ)」・「壇君(タキ)」のような檀君系の神と認めている点で ある。
つまり檀君系の神が契丹古伝の始祖神と共通の基盤に立つと浜名氏は捉えていることになる。


檀君神話を系図化すると、桓 |  ─ (桓因の庶子 | ●●である)桓雄 | ○○ ─ 檀君王倹 | ○○○○ となっているが、浜名氏はこれを
 神の「因庶子 | いそし」 ─ ( | | の)檀君王倹 | ○○○○
のように変えてこれが本来の形であるとした。「因庶子は神祖順瑳檀 | すさなであらねばならぬ」というのだから、
檀君神話の神を契丹古伝の始祖神に近づけるための 工夫の一つだろう(ただ、あまりに異常な処理と思える)。
しかし、浜名説に疑問な部分があるとはいっても、 檀君神話と契丹古伝の始祖神話には次のようにいくつかの類似点があるため、自説でもその部分には 留意せざるを得ない。

・契丹古伝と檀君伝説とのなんらかの関係を示唆する固有名詞群

(1)アシタ
檀君神話は一然 | いちねん著『三国遺事』に載る短いものだ。桓因が下界の人間世界に興味をもつ庶子の桓雄を 地上に降ろして治めさせた(降臨地は太伯山の神檀樹の下)。
桓雄が地上で熊女をめとって生んだ子が「檀君王倹」で、始め平壌に都し、後に白岳山の阿斯達 | あしたに遷都した という物語である(阿斯達も平壌一帯を指すと解されることが多い)。

この阿斯達 | あしたは、契丹古伝11章「神祖は、鞅綏韃 | あした(の地)に 都した」の鞅綏韃と同音でよく似ている。
ただ都を置いた主体が、契丹古伝では神祖(スサナミコ)であるが、 檀君神話では降臨した桓雄が地上でなした子である檀君王倹となっている。

(2)蔵唐京とソトヤ
檀君は国を一五〇〇年治めた後、箕子が朝鮮に封じられると蔵唐京に遷り、最後は阿斯達に戻り隠れて山の 神となったという。

この蔵唐京の名は 契丹古伝15章後半 「阿解(耆麟馭叡阿解)はまた然矩丹に宮して居た。 (その京を)叙図耶と曰う。」の叙図耶と似ている。(なお、耶は京を意味する。)

(3)キミタ

白岳山の阿斯達(上記(1)参照)は別名を今弥達という。

この今弥達は、契丹古伝31章の徐珂殷の都である「弦牟達」を連想させる。
(31章 宛の徐(族)が・・・弦牟達に都市を築いて昆莫城と称し、国を徐珂殷と号した)

(4)その他、浜名氏は方忽山(白岳山の阿斯達のもう一つの別名)を 契丹古伝15章前半の巫軻牟フカムに、また白岳山を同章の芝辣漫耶シラマヤと関連付けているが、 全くの同音ではないため、必然的に関連するとはいえないだろう。

(注)なお、鹿島曻氏は11章から19章までの記述をすべてはるか後の時代にずらして解釈した上で、 それを高句麗王の事績だとするが、全くの誤りである。それゆえ本稿では鹿島説は考慮せずに論じていく。
(11章以降の『汗美須銍』については、時期をみて追加説明を加えたい。それにより鹿島説も無意味である と納得していただけるはずである。)

・契丹古伝と檀君伝説との関係 ──自説・総論

以上のように、類似している箇所は文字数的には少ないともいえるが、アシタなどの名称の位置付け の意味合い等を考慮すると、類似・関連性を無視できないと考える。
そのことから、当サイトにおいても檀君伝承は契丹古伝の神子神孫伝承の 一種の変形で、ローカライズされた形ではあると捉えている。
具体的には、檀君伝承は高句麗系(の一部の部族)の神話であると考える。
東大神族の本宗家の権利は結局日本の帝が保有のページの中の渤海論でも強調したように、高句麗系は今の韓民族の主流である新羅系とは種族的な差異が大きく、 有力な神子神孫の一つであったと考えられるのだ。

実は一然『三国遺事』には檀君に関し高句麗との関係を示す記載もある(「高句麗」の項目内)。
そこでは天帝の子、解慕漱 | かいぼそうが河伯の娘とひそかに通じて生まれた子が高句麗王家の始祖・朱蒙である旨 を記した上で、一然は次のように注釈している。
『壇君記』には、(壇)君が西河の河伯の娘と親しくなって子を生み、夫婁と名付けた、とある。 ・・・・・[以下は一然の意見](このことからすると)夫婁と朱蒙は異母兄弟なのである。
(原文は漢文。ここでは和訳で示した。太字強調は引用者による。以下同様。)
なお、『三国遺事』の「北扶余」の項目の本文では、天帝が降りてきて解慕漱と名乗り王となり、 夫婁を生んだとある。

また『三国遺事』の「王暦篇」の、高句麗初代王の項目には
・・姓 高。名 朱蒙。壇君の子
とある(太字強調は引用者による)。

一然が引用した『壇君記』の詳細が不明であるため檀君と朱蒙・夫婁の関係については種々の説があるが、 いずれにしても檀君伝承が高句麗王家・扶余王家の始祖伝承と密接に関わっていることが察せられる。


一般に檀君は朝鮮民族全体の | ●●●祖と今では信じられており、檀君神話と契丹古伝の両方を研究対象に していた田中勝也氏も同様であると考えられる。というのも別のところで既に 記したように、契丹古伝の満州の本宗家を檀君王朝的に捉えた上で田中氏は新羅を本宗家の後継のように 扱っているのである。

しかし、そう捉えるべきではなくむしろ、本来の檀君伝承の担い手が(高句麗系の)神子神孫系統であり、
朝鮮人の主流(新羅系が主体)は逆に神子神孫性が低いもしくはないと考えるのが正しい。


○「檀君は架空の神」説は疑問 ──僧侶の創作ではないとする今西説の重要性

ただ、(本稿をお読みの方にはあまりおられないかもしれないが)檀君伝承についての日本の通説を御存じ の方なら、「これは意味のない議論である」とおっしゃるかもしれない。

檀君伝承につき、日本の通説的見解では、僧侶・一然の創作に過ぎないとしてその価値を否定するのが 普通だからである。

しかし、契丹古伝の内容を重視する立場からは、檀君伝承も契丹古伝伝承の変形である と捉えることになり、内容に差があるとはいえその点は浜名氏も自説も共通する。
ただし本来の伝承は東大神族共通の伝承であり、始祖が朝鮮人であるというものではないと捉える。

また、朝鮮民族(韓民族)全体の祖が檀君であると浜名氏や田中勝也氏は捉えているのであるが、 自説の場合そうではなく、あくまでも高句麗関連の一部の民の祖が檀君であったということになる。

そして、檀君伝承について僧侶の創作とする説が日本では多い状況の中、意外なことに歴史学者として 著名な故・今西龍氏(京都帝国大学教授。朝鮮史の権威)(朝鮮では悪者扱いにされている) が、檀君王倹について、僧侶の脚色はあるものの古い背景のあるものとして次のように述べる 点は大いに注目すべきである。
王倹仙人は古くより、前平壌を守護した神人としてその地に伝えられたものであろう。

(今西龍「檀君考」『朝鮮古史の研究』p.44 原文は文語体、口語訳は引用者による) (オンライン版:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921111/3
また次のようにも述べている。
王倹仙人(檀君)は夫婁(扶余の始祖)や朱蒙(高句麗の始祖)の父である解慕漱であって、 現代朝鮮民族の祖先の主体である韓民族には関係のないものと断定することができるだろう。

(前掲書p.49 原文は文語体、口語訳は引用者による。太字強調も引用者による)
このように、今西氏は決して檀君を架空の神とは見ていない。このことはあまり知られていないので 注意すべき重要な点である。
氏は檀君は架空ではないという前提に立った上で、さらに、檀君と韓民族の関係について 注目すべき見解を上の文で述べている。この点も、やはり重要といえる。
なお、今西氏は檀君の称号については君がつく点から みて道教的な称号で後から付加された称号とみるが、この点自説では東族語である可能性を留保しておきたい。 ただ今西氏もその実態を架空とするわけではないことに注意されたい。「檀君は~」という説明になっている箇所も数多いのである。
また氏は次のようにも述べている。
(統一)新羅王朝時代における平壌およびその奥地は・・(統一新羅と渤海との間で)無所属無経営の地とは なったが、無人の地となったのではないのであろうから、若干の住民はたとえ希薄ながらも存在した であろう。そしてもし存在したとすれば、高句麗の移民と韓民族の逃れ入ってきたものとが混血したもので あろうから、高句麗時代の神祠が悠遠の僻地に、微々としてわずかに存在を継続していたとしても怪しむほど ではない。
(前掲書p.44 原文は文語体、口語訳は引用者による)
さらに次のようにも述べる。
檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括するツングース族中の扶余の神人であって、 今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神ではない。
(前掲書p.125 原文は文語体、口語訳は引用者による)
細部はともかく、今西龍氏が「檀君は高句麗・扶余系の神であって、今日の朝鮮民族の神ではない旨 明言されている点は自説と一致している。
(注・もっとも、今西氏は、韓種族はむしろ日本民族の方に近いと考えている旨も述べている。 その点では自説と異なることになるが、これについては時代的状況から、辰韓的な古い新羅(倭人に近い)に 焦点を合わせた言い方と捉えることもできよう。本頁の後の方の説明を読むと理解可能になると思われる。)
(なお、今西氏は三国遺事に載る檀君の伝説はその百年ほど前に整備されたものとしているが、全く無から生み出された ものとしているわけではない点にも注意されたい。)

・契丹古伝と檀君伝説との関係 ──自説・各論

さて、檀君についての誤解を修正する記述が続いているが、 当契丹古伝サイトの立場として、契丹古伝と檀君伝承とがどう具体的に関連付けられるのかは まだ述べていなかった。
契丹古伝の始祖神の変化型という点では浜名説と共通するにしても、 最初の方であげた浜名氏の著書の第一巻第七章「檀君神話を彰奨す」の議論と自説は大きく異なるから、 自説を提示しておく必要はあるだろう。とはいっても契丹古伝の始祖神がどう変化していったかは、ある 意味霞の中に消えてしまったものなので、明快に解くとすればかえってウソめいた話になりかねない。
しかしあいまいにしておいても理解できないというクレームにつながるので、ある程度端的に記しておく。

①上述のように檀君は高句麗系伝承であり、新羅系主体の韓国朝鮮人の神とはいえない。
契丹古伝18章後半の記述は、新羅王家が非東大古族であることを強調する趣旨と捉える。
②11章のアシタに都したのは、浜名氏の場合満洲半島系本宗家で、その場所は平壌で、その場所が 37章の辰王国の都いわゆる月支国と同一とされ、かつその位置は辰王国滅亡時まで不変であるとされる。
しかし自説では、a)11章の神祖の都「アシタ」は辰王国(37章)と離れた場所にあり無関係と考える(上の「同一視」について否定)
なぜなら、 37章の辰王国は、5章のムス氏系であり、満洲半島系本宗家ではなく、 37章の辰王国の都の位置は、時代による変遷もありうるが、 最終的に半島南部に存在したと考えられるからである。
また自説ではb)11章の神祖の都「アシタ」の位置を、平壌とは考えない。アシタについては本文11章の 解説にも少し記した通り、種々の考慮が必要であるが、11章のアシタを神祖西征前の医巫 | いふ | りょ山付近の統治体制における関係呼称 とした場合、アシタとは遼寧方面の地であると考えることになる。

つまり浜名説と自説ではスサナミコ降臨後、西征に出発するまでのあいだのスサナミコの版図について 次のような差異があることになる
[このような「図解」的記述は本来このサイトではやりたくなかったことであるが、やむをえない]。
・(浜名説)スサナミコが白頭山に降臨→黒竜江省から半島南端・鹿児島・山口あたりまで版図 にし、11~15章の京を各所に設置することにより当該版図を平壌で治める(本文解説参照)。
・(自説)スサナミコが満州の遼寧の医巫閭山に降臨→遼寧の付近に京を置いて治める、 (周辺部族の征服も行う(挹婁など)が、京は降臨地周辺の交通上の要路などに設置したと考える)。※この時点の版図については下の※参照。
※したがって東大神族が「万方に」広がって(4章)いくにつれて、当然東大神族の総領域の範囲は拡大して いくことになるが、11~15章の京はそこまで拡大する以前のものなので、それほど広範囲なものでも ないしある意味観念的なものでもあると捉える。

(浜名説で考える場合、そもそも日本には東表のアシムス氏という別格本宗家があるはずなので、 なぜ鹿児島や山口の萩が登場するのか理解に苦しむとしかいえない。)

また、浜名説と自説ではスサナミコ西征出発後の満州半島支配担当宗家のあり方が異なる。
・(浜名説)スサナミコが白頭山から平壌に移動した後、平壌の地から満州を含む広域を支配する体制を 整備したため、スサナミコが平壌からさらに西に出発した後も同じ体制が満州半島支配担当宗家後継者によって 継続したはず、となる。その後満州への支配は減縮していき、やがて半島内のみの辰王国となる。

・(自説)スサナミコは遼寧のあたりから満州・半島の一部地域を支配しており、スサナミコが西征に 出発した後もその地域については(分家たる居残り組宗家により)同等の体制は継続する(版図の随時拡張・変動はありうる)。
なお、殷朝の頃には有名無実化しており中国の東大古族本宗家の管轄に服していたように思われる。

浜名説はアシタを檀君伝説と同じく平壌に置くため、檀君朝鮮的雰囲気が濃厚な説ともいえるが、 あくまで契丹古伝の物語が本来なので、あくまでも平壌の辰沄氏の祖先はスサナミコであり、スサナミコに相当する辰王国の 祖神が「因庶子」か何かであるということになるのだろう。
そして、伝統的な朝鮮人の檀君朝鮮理解においては平壌で檀君(あるいはその後継者)が治めたということに なるが、浜名説においては檀君王倹は殷周革命後箕子が遼寧に建都した(30章参照)際に祀った、 (太古に遼寧に築城したというゆかりのある)「神子サカアケ」のことで、その祭祀を平壌の辰王国が模倣したという ことに過ぎない。そのため、平壌の王朝は檀君王朝ではなくスサナミコ王朝もしくは因庶子王朝となる。
しかし檀君も結局上記模倣により辰王国にて合祀された、という複雑な構成となっている。

このような浜名説は、朝鮮民族は高句麗・百済・新羅すべて同系でありしかも檀君の子孫であるという 前提を否定しない形で、ただ檀君はスサナミコの傍系のサカアケであるという微妙な処理をした形である。



一方自説は、当初の降臨地である遼寧方面に初期の各京があったとするので、一見檀君問題から遠ざかった ように見えるが、案外そうでもない。
というのも、そもそも、箕子の国やそれ以前の朝鮮を朝鮮では古朝鮮と呼び、檀君朝鮮を古朝鮮と結び付けるのが 半島の主流の考え方である(最近では箕子朝鮮を否定)。そして、その古朝鮮領域であるが、 学説の大勢は遼東を中心とするかなり狭い地域に置き、平壌を含めない傾向となってきているのである
(もちろん古朝鮮の文化は随時拡散していったとする)。
[なお半島の(学説ではなく)右翼的な考え方では、できるだけ古朝鮮領域を広く捉えることになる (ので平壌も含みうる)]。
いずれにしてもこれを「朝鮮民族」固有の文化とし、やたらと遼寧の文化(遼寧式銅剣など)にこだわっているのが現状である。
半島の学者たちが古朝鮮を平壌でなく遼寧におく理由としては、一部の史書の記載があげられる。簡単に触れておこう。
箕子の国(契丹古伝でいう(辰沄)殷)を滅ぼした衛満は王倹城を置いて統治した(衛氏朝鮮)のだが、 伝統的学説においてはそれは平壌のことであるとされていた。しかし、『漢書』地理志における 遼東郡の「険瀆」という場所の記載について「朝鮮王の満の都なり」などと2世紀の学者が注釈を付している 等の理由から、最近は、衛満の都もそれ以前の檀君朝鮮も 遼寧を中心とした文化であったとする意見が学者レベルでも強くなっているのだ。
(険瀆については史料によっては医巫閭山付近を指すようにも読めるものもあるが、通説は遼東に解している。)

つまりこの見解からすると檀君の都も平壌でなく遼寧となる。そうなると実は、自説の「初期の各京は当初の 降臨地である遼寧方面にあった」とする見解となんとなく雰囲気が似てきてしまうことになるのである。


・「契丹古伝解釈(自説)のうち満州の遼寧付近に関するもの」と「半島の学者の古朝鮮学説」との比較・まとめ

混乱しないようにあらためてまとめよう。
古朝鮮の領域ということば自体は浜名氏も時々遼寧付近について使用しており、それは決して今の朝鮮人の国という意味で はない、箕子朝鮮にしても今の朝鮮とは異なる、というのが契丹古伝の大前提である。ここが半島の学者とは ズレる所である。(ただし浜名説では平壌の辰王国は「韓内」所在として(単一民族としての朝鮮人の国として位置付ける気配が濃厚で)古朝鮮とは別扱いとなる。)
古朝鮮といった場合、朝鮮の伝統的学説①檀君朝鮮②箕子朝鮮③衛満朝鮮の三つとしていたが現在の半島学説では ②を架空とし、①と③を現在の朝鮮人と同種民族による政権とし、その場所も上記のように遼寧説が有力化 している。
このような半島学説に対して、契丹古伝の場合②は辰沄殷で、③は東族の敵の燕人による政権ということになる。
契丹古伝解釈においても、②と③についてはそのロケーションを遼寧に置くのが普通(浜名氏も 同解釈で(漢書)地理志にも言及している[溯源p.575詳解p.289参照])だが、それを今の朝鮮人の国とは考えていない点で半島学説と異なる。
そして、契丹古伝の場合、①に似たものがあるのか | ●●●●●●●●●●●という問題がでてくるが、
浜名説の場合、檀君とはスサナミコが西征する際に遼東に築城したサカアケのことにすぎない (なお浜名説の第一宗家は当初遼寧にあったとしても西征の際に中国にまるごと移動)ので、 平壌における第二宗家はあくまでも「因庶子」朝鮮?[浜名の用語法からすればむしろ「因庶子」韓というべきか]のようなものになるはずだ。ただ平壌で檀君も合祀されるようになり、これが 韓民族に属する政治体制であり文化であるように浜名氏は書くので、平壌の辰王国≒①檀君朝鮮のような 雰囲気がでてくる。日韓同祖を説くための一環として、このような処理がされていることになる。 (その大前提として、朝鮮民族を単一民族として扱っているのが浜名氏である。)
しかし自説の場合、遼寧との関係が強くなることもあり浜名氏のような処理にはならない。
そもそも浜名氏の場合、スサナミコの降臨地を白頭山にする以上、遼寧はあくまでも、(サカアケの築城を除けば)、 箕子の都や衛満の都について問題になる(あとはせいぜい、大陸本宗家が昔引き払った場所だとか云々)
これに対し、自説の場合、降臨地は遼寧の医巫閭山であり、スサナミコらの当初の都もその一帯に置かれたことになる
(西征後中国に大陸本宗家が存在するようになるが、遼寧の宗家が消えたわけではない)。
したがって平壌には本宗家は存在しない
それは遼寧に「居残り組本宗家」として存在していくことになるが、そのスサナミコ系王権は日本の神名風の 神子号をもつ王権であったこと になる。このことは重要である。そして、その王権を現在の朝鮮人の主体の祖先の王権とは捉える必要は ないし、日韓共通の祖先のものと捉える必要もない点に注意されたい。(この辺り浜名説と大きく異なる。)
もちろん、その王権が人種的に現在の朝鮮人と遠いのか近いのかという話は、厳密には 別問題であろう。しかし、そもそも、自説では檀君は高句麗系の変形バージョンであり、高句麗はそれなりの 神子神孫であるということは渤海論でも示した通りである。
要するに、(現在の)日本の本宗家と古の扶余・高句麗系は神子神孫度が高いが、新羅人はそうでない
(新羅人は現在の韓民族の主流をなす)。
一方医巫 | いふ | りょ山は扶余の神話とも関係する場所である(「東大神族の本宗家の権利は結局日本の帝が保有」参照)
これらを考慮しつつ、スサナミコ王権がどのような人たちであったか、推定していくのが正しい方法だろう。これが自説であり、浜名説と大きく異なる点である。
また、日祖と日孫(スサナミコ)は母子神信仰の系統であり、それが扶余・高句麗神話では失われている点も 本来の神話復元の判断材料となろう(神話論参照)。


・契丹古伝解釈(自説)による始祖神群の位置付け(プチ神話論)

以上に鑑みると、本来の檀君神話は契丹古伝神話の高句麗風変形バージョンといっても、浜名説のように 因庶子と檀君が桓因と桓雄と檀君王倹の3神に分割されるほど妙な変形ではなく、現在の形にもそれなりに 原形が反映されている面もあるのではないかということになる。
ただこれ以上の考察をするには、神話学的考察が必須となり、神話論の続篇が未掲載となっている以上 ここで明確な説明をすることにはためらいがある。
しかしある程度説明してしまうことにしよう。次の系図を比較されたい。

日祖 ─日孫 ─ いずれかの神子[契丹古伝の始祖神群]
桓因 ─桓雄 ─ 檀君王倹[檀君神話の始祖神群]
解慕漱─解夫婁 [三国遺事の北扶余の項目の始祖神群]
檀君 ─夫婁  [三国遺事の高句麗の項目に引用された『壇君記』の始祖神群]

①日祖は女神であり、日孫はその子である。この中間に「日子 | にっし」が入るのではないかという 推測が昔からあるが、それは神話論に譲ろう。
②日孫スサナミコも桓雄も天からの降臨者である点は似ている。
そして、神話学的にいうと、降臨者の次の代が王権の祖となるという話は自然に見られる形である。
檀君王倹はこれにあたる。
③神話論でも述べたように、北方ではしばしば始祖神は男性神化される
(始祖神の性別を変換する方法のほか、始祖神の配偶者を男神とした上でそちらを 始祖神としてしまう方法がある)。[桓因も③の観点で説明可能]
男性神化されてしまうと、始祖神自体が男性の王朝の祖神とされ、これがさらに変形して地上における王家の祖 とされる現象がおきることがある。
解慕漱は天帝とされたり天帝の子とされるが、本来は天帝の位置にあり、なんらかの方法で男性神化した 始祖神であろう。
④天帝解慕漱が天帝の子とされたりして王家の初代とされているうちに、解慕漱=王家の始祖=檀君と位置付けられる現象 もおきる。それが檀君─夫婁の系図であろう[別の説明もありうるが、煩雑なため略す]。
(ここでいう檀君はもはや檀君王倹と異なるキャラクターであり、「数世代繰り上がった」檀君であって、天神を人格神に引き直した存在を王朝の祖として檀君と呼んでいることになる。)
⑤解慕漱が天帝の子とされる点を強調して解慕漱≒桓雄とし、雄を訓読みの一種でsu、桓を神の訓kʌm で読み桓雄=kamsu=解慕漱とする金思燁説があるが、誤りであると捉える。
雄は訓読みする必要がなく、解夫婁の「婁」(ル)の類音であると考える。解慕漱は天帝の子というより 天帝そのものとした方が本来の形に近いと考えられる。

このように、契丹古伝の日孫が檀君神話では桓雄になったと考えると、日孫の後に「王権の祖」となる 人物が契丹古伝神話でも存在しているのではないかと考えられる。
高句麗系の檀君神話は契丹古伝神話(またはその類似版)の劣化版ではあるが、ローカライズされただけで登場キャラクターの 種類などは有る程度似ていると考えるのが自然だろう。
契丹古伝で「王権の祖」となる人物を仮に「A」とした場合、Aと檀君王倹とは、全く違った性格の神と いうよりは、神話上の位置が似ている人物ということになる。
ただ契丹古伝の内容が短いため、「A」の特定は難しいが、14章の耆麟馭叡阿解 | キリコエアケと、19章の璫兢伊尼赫琿 | タケイネワカ は関連するキャラクターではないかと考えられる。
11章の | | | | | | | | も候補に挙がりそうだが、11章は微妙な考慮が必要であり、統治者が 重複している点もあって候補から外した。
14章の耆麟馭叡阿解は、サカタキ≠檀君論でも述べたように重要な神子であり、外敵討伐の拠点ともなりうる ソトヤを担当しているところから、神話学的にも適合性があると判断しているところである。
もちろん、王権の祖として明示されていないことも確かではあるが。
この点、19章の璫兢伊尼赫琿は、スサナミコの子孫であり、(耆麟馭叡阿解の血を引くかどうかは不明だが) 神祖以来の伝統を蘇らせた存在として王権の祖にふさわしい雰囲気はある。
スサナミコの子ではなく子孫だが、王権の祖として、類似のキャラクターである可能性は残ると考える。
(ここではキャラクターの類似性を問題としているのであって、満州地域の神と中原の神(璫兢伊尼赫琿)が対応するのは妙だと かいう指摘は筋違いな点に注意)

結局、耆麟馭叡阿解や、璫兢伊尼赫琿のキャラクターを併せたようなものが変化して檀君王倹になったのかも しれない。浜名は、檀君王倹を傍系の神サカアケであるとしたが、サカタキ≠檀君論で述べたように 妥当でない。むしろ、契丹古伝の始祖神群の一つと似たキャラクター性一定程度保ちながらローカライズされてできたのが 檀君王倹と見るのが適切と考える。
(なお、璫兢伊尼赫琿の璫兢の部分と檀君が対応するのではなどという邪推を呼びそうだが、一応そうでは ないという判断は持っている。この点はまた後日に期したい。)
ちなみに、ここまでいうと逆に「檀君伝説の変形が契丹古伝なのでは?」という邪推もありそうだ。しかし、 契丹古伝には独自の内容が豊富で、十分説明しきれていないが微妙に日本神名と類似した固有名詞など、 容易に偽作できずかつ内容に真実味があるものが多く、この点檀君神話や檀君系偽書とのクオリティの差が 激しい。したがって檀君伝説の変形が契丹古伝ということはないと考える。[補注1]
 
(なお、契丹古伝においては耆麟馭叡阿解や璫兢伊尼赫琿について、檀君のような、その親たち以上 に特別に尊貴であるという雰囲気がない。これは両者の神話内容に似た面がありながらもズレが生じていることを示唆する。 このことから、扶余あたりの地域のうち、一部分の部族のみに檀君という名称やその信仰があったと推定できるかもしれない。)
契丹古伝の独自性についてはこれからのページ製作によりさらに説得力を高めることができればと 思っている。

・辰王国の理解─浜名説と自説の差・檀君との関係について

それにしても、浜名氏が檀君に絡み複雑な処理をしているため、説明が長くなる点は申し訳なく思う。
実際、本稿を書いている自分も煩雑さを感じるほどである。
そこで一旦ここで再度、浜名史観における辰王国について、自説との差異も含めて説明してみたい。
あえて引用も長めにしてみた。やや冗長だが、却ってわかりやすいのではないかと思うからだ、

浜名氏は馬韓=平壌を都とする辰王国=鞅綏 | あしの辰沄氏と捉えて次のように書いている。
韓といふ称呼は後漢の中葉からと思はれるが、それまで何と呼ばれていたかといふに、辰沄 | しう国 と呼ばれていたのである。 正にこれ前章{(5章)}に「神祖 鞅綏 | あしの陽に居り、すなわちまた辰沄氏あり」と謂へるに契合する。 後漢書にも三韓は皆 古の辰国とあって・・ 同書は三韓を統ぶる王者の号を・・辰王と記して居る。(溯源p.333, 詳解p.47)

浜名氏は第5章の「鞅綏之陽」の辰沄氏につき、鞅綏をアシタ=平壌とした上で、その地を(後の)三韓 (=馬韓+弁辰+辰韓)の前身たる辰王国(37章の辰)の都と 解している。しかしそもそも、「鞅綏之陽」の辰沄氏は二大宗家の一つである。
一方これとは別のアシムス氏という存在を浜名氏は「別に一大宗を・・・認め居る・・」(溯源p.324, 詳解p.38)として 異なる宗家と扱っている。そして実は辰王国の王家(いわゆる馬韓の辰王)はこのアシムス系であることを 37章は示している。(この辰王国が後漢書によると三韓の前身とされる。)すると「鞅綏之陽」の辰沄氏と辰王国は別の家に属するはずである。
これを同一視するのは明らかに矛盾しており、浜名説ではこの矛盾が解決していない。
浜名氏は辰王国がアシムス氏系であることをほとんど無視したような記述をしていることが多く、 次のようにも書いている。
辰沄氏の一は韓内{(半島内)} | いしずえ据ゑ | すえたること前第五章に見ゆ。 思ふに・・・韓内{(半島内)}の辰沄氏は遼東・北満・烏蘇里{(ウスリー)}今露領 を抱擁して大を成し、 後遂に韓内に退嬰{たいえい=ひきこもること}して辰国の称に跼蹐{きょくせき=ちぢこまること} し、(中略) 故に・・・扶餘北満挹婁東満及烏蘇里靺鞨等・・・は、韓内より興った辰沄氏の 故領{=旧領}と解すべきである。(溯源p.340, 詳解p.54.{}内及び太字強調は引用者)
要するに、半島内の「鞅綏之陽」の辰沄氏、つまり平壌の辰沄氏がもともと満州・半島担当本宗家として 当初は平壌の地から沿海州方面までも支配していたが、後に支配領域が半島内のみに縮減して辰 王国となったいう意味のことを述べている。

そしてこの辰王家の平壌の「太廟地」では本来「因庶子 | イソシ」と「檀君 | タキ」の二神を 辰王国の祖神として | かしこ | つかえていた(浜名溯源p.147 6~10行目参照)といい、
この二神が後世に桓因・桓雄・檀君の三神となったのだというのだから、
結局いわゆる檀君朝鮮と浜名の辰王国はなんとなく似たものになってしまう。
(浜名史観では、別途サカアケ国というのがあったかもしれないが、詳細不明である)

しかし思うに、この辰王家の実態は、40章の辰とも同じで、紀元後2世紀までも存在していた存在である。
それゆえ、その北部の高句麗(38章の高令)建国時にも健在で、辰王国は高句麗と同時に存在 した時期がある国ということになる。(浜名説ではこの辰王が馬韓の辰王 として一貫して平壌で満鮮系本宗家を営み、3世紀にイヨトメの時靺鞨へ入り渤海の源流となったことになる。)
一方後世の檀君史観では、檀君王朝が終わったあとの後継的存在が扶余で、そのさらなる後継的存在として高句麗が新たに登場するので、 檀君王朝と高句麗が同時に存在することはない。つまり浜名史観は自説とも異なるし、後世の檀君史観とも 異なる独特な構成といえる。
(それらを単一の朝鮮民族のものとする檀君史観の主張は誤りだが、檀君朝的なものと扶余との関連性自体は 検討の対象とすべきかもしれない。下記参照。)

このように浜名氏は辰王国を微妙に檀君朝鮮にも似た本宗家に仕立て上げたが、微妙なところで つじつまが合いにくくなるので要注意である。

一方自説では、以前も述べたようにアシムス氏系の辰王国は半島(南部)を中心とした国(三韓の前身) だと考える。そして、満州系本宗家はそれとは別に存在していたが、殷周革命のころにはその存在が 希薄化しており、遼寧には由緒ある家として存在していたかもしれないという程度になる。
それゆえ檀君朝鮮のような強大な宗家的な国は認められないと考える。
ただし、満州系本宗家の名残のようなもの(もちろん今の朝鮮人の国ではない)で後世 その姿が変形を重ねて檀君朝鮮的に訛伝したもの、が仮に存在したとして、かつ、それらしきもの ものを契丹古伝の中で探すという趣向を試みるとすれば、候補としてあげられるのは 第23章の「潘、北に退き」の潘耶、つまり扶余であろう。
扶余の中にそのような家の名残があり、その一部が遼寧辺りから殷周革命前後に北もしくは北東に 移転した、というぐらいならありうるかもしれない、という程度であろうと考える。

(なお、檀君の系統の本家が扶余・高句麗へと継承されたという見方については、檀君は高句麗系の伝承であるため 高句麗の側からはそのような主張はあるだろうが、契丹古伝の満州系本宗家の継承としてその通りなのか、 それとも修正を要するのか、はまた別に検討が必要であろう。)


・檀君に関する半島の筋違い的主張─作り出された民族の祖

さて、以上のように契丹古伝神話には(日本の神々との名称の類似性の他、) 檀君神話を含めた高句麗・扶余系の神話との一定の関連性はある(全く同列には置けないにしても)と考えられる。
契丹古伝では高句麗は高令、扶余は潘耶として登場しており、神子神孫として重要な存在であると考えられる。
ただ繰り返し述べたように、あくまでも檀君神話は亜流であり変形した神であるから、仮に檀君神話の担い手 である高句麗人が今の世に存在したとしても彼らが「東大古族の祖は檀君である」と主張することはミスリー ディングな主張ということになる。「檀君類似の神格であるキリコエアケである」なら若干ましという ことになろうか。
しかし、現実に起きている事態はそれどころではない。つまり新羅系を基調とし支配階層とする 現在の朝鮮人が、檀君を「一つの朝鮮民族」の祖とし、ナショナリズムの旗印にしている。
そして檀君王朝ががかつて東アジアの広大な領域を支配していたとする主張があちこちのサイトやブログで 展開されている、これは何かとてつもなく筋違いな主張ではないのだろうか?
契丹古伝的にはそれは神祖スサナミコの各神子神孫国の領域を合計した全体のことであり、
その全般的な管轄権は本宗家の格式をもつ存在(日本の帝)が有しているはずではないのだろうか?

筋違いの主張かどうかの判断をする際に極めて有益な論文がある。
朴正義氏の日本語による学位論文「『悠久の歴史を持つ単一民族国家』批判:『三国遺事』檀君による一つの民族の擬制」 (2010年) である。
論文要旨(日本語)が「東京大学学位論文データベース」に掲載されている (以下、朴氏・単一批判(要旨)と略す)。
(同旨の論文として、同じく朴正義氏の日本語論文「中世に作り出された民族の祖檀君」 『日本文化學報』 41号、韓國日本文化學會、2009年 p.213-p.224 (オンライン版:Korea Journal Centralサイト内http://journal.kci.go.kr/JJC/archive/articleView?artiId=ART001345990 [pdfダウンロード可能=右脇メニューToolsよりDownload PDFをクリック]
(以下、朴氏・作出檀君と略す)もある。)

ここで朴正義氏は、今西龍氏とは異なり、檀君神話を高句麗の系列のものとまでは認定していない。
既述のように、『三国遺事』からはそのように推測できるという程度の記載しかないので、
『三国遺事』の記載からは檀君と三国(高句麗・百済・新羅)の始祖がつながらない、と朴氏はしている。
その点はともかくとして、どうして新羅とつながらないはずの檀君が新羅の祖といえるようになったか の記載が重要である。

それを可能としたのは『三国遺事』より少し遅れて出版された『帝王韻紀』という書物であると氏は指摘する。
この書物で初めて檀君は「新羅・高句麗・百済・扶余・沃祖・濊貊」の祖とされたのだという。

そもそも、高句麗・百済・新羅が同じ民族であるという認識はもともとなかったが、新羅による 半島統一を機に全てが新羅色に染められていったことで、状況が変わっていったと考えられる。
『三国遺事』の百数十年前に出された官撰の『三国史記』(1145年)では、
新羅・高句麗・百済の三国を朝鮮半島内の歴史として編纂した。
当時は統一新羅を継承した高麗(開祖:王建)の世[補注2]で、もちろん高句麗・百済はとっくに 消滅している。
朴氏によれば、この『三国史記』編纂により、高句麗を含めた歴史共同体としての 三国認識が初めて示されたという(朴氏・単一批判(要旨))。
ただし半島内の歴史共同体としてのまとまり感はあっても単一民族という認識には至っていない ということになる(ドイツとフランスは欧州内の歴史共同体的な面はあるが、単一民族ではなかろう)。
僧侶一然の『三国遺事』には古朝鮮として檀君神話が掲載されたが、その後の王朝との関係が明示されない ままなのでこの段階でも未だ「一つの民族」観は成立していない。
ところが、上述の『帝王韻紀』が出版されたことにより、
「韓半島における唯一の祖という絶対的な意味」が檀君に付与され、単一民族という認識がここに 生まれたのだという。
これを図式化すると
上帝桓因 → 檀雄(桓雄) → 檀君 →東方諸国の祖(新羅・高句麗・百済・沃祖・ 扶余・穢・貊など=全韓民族
となるという(朴氏・作出檀君p.218)。
思うに、そもそも『三国遺事』に載る檀君伝承が極めて簡潔なものであったがゆえに、アレンジしやすい 状態であり、異種族がその神話に相乗りしやすい状態だったことも災いしたかもしれない。
実際、『帝王韻紀』以降も檀君伝承に少しずつ枝葉がつけられていくが、基本は新羅・高句麗・百済 よりはるかに昔の伝説的王朝といった中立無色的な「建前」のもと、半島の儒学者などが檀君に言及 するようになっていったのだ。
それにより、帝王韻紀出版当時の(王氏)高麗朝のみならず、 その後の李氏朝鮮でも、檀君が「なんとなく国祖神のような存在」として、一応尊敬される、という 状態になっていった。(ただ、半島人のほとんどすべてが檀君を祖とする認識をもつのは 20世紀に入ってからである(後述)。)

さらにいえば、そもそも新羅には新羅の神があったはずで、それを国祖神としてまつっていれば 檀君の出番はなかったはずである。
これは檀君伝承が記録に登場する以前の話となるので少し話が前後するがコメントしておきたい。
このことにつき今西龍氏によれば、新羅の始祖神はあったはずだが、 新羅の半島統一後それが半島全体に広められることはなく、しかも仏教の普及などで半島統一前の 新羅領域における始祖神の存在も弱いものになり、新羅の滅亡によって消滅したのだという。
そして新羅を継承した高麗朝において新たな国祖神を求める動きが一部(民間)で生じ、古い高句麗系の神 である檀君が持ち出されたのではないかとされる。
今西氏の見解は上記のようなものだが、これに関連して考察すると、仮に新羅が神子神孫国であり、 半島統一により半島内の最大雄者となったのであれば、自ら天孫としてそれらしい格式や祖神を用意して 押し広めていたはずではないだろうか。
しかしそのような痕跡は見られない。新羅の後継たる高麗朝でも新羅の有力層が国の実権をにぎっており、 その高麗朝の官撰史書『三国史記』には辰沄氏の痕跡[注※]を見出すことができない (新羅・高句麗・百済についての記述のすべてにおいて)。
(注※ これとは対照的に、発掘物の世界では、1920年に発見された百済の太子扶余隆の墓誌に「辰朝の人」という語句があり、百済王家が神子神孫の 一つであることが示されている。)
これは、新羅に神子神孫思想がなく、却って征服対象となった百済・高句麗の神子神孫文化の遺産を 消して回ったということを意味するのではないだろうか。辛うじて残ったその名残が檀君信仰であったと考える。

国祖神の観念が半島で消され、非神子神孫国体となっていたという前提があったからこそ、後に僧侶である 一然の『三国遺事』という民間の書物の檀君朝鮮の記載が一人歩きし、続く『帝王韻紀』によって「一つの 民族」の国祖としてのイメージを作り上げることができたのだと考える。

国祖としてのイメージが作られたといっても、当然に国から尊崇されるというほどの事もなく、 王家にとってさほど重要な神とは見られていなかったようで、むしろ一部の臣下からの強い請願により 重い腰を挙げるといった様子であったらしい。
例えば、(王氏)高麗朝の末期に、学者の請願により、国による箕子等への祭祀に関し新たに檀君が対象に加えられた (これはその後の李氏朝鮮においても継続したとはされている)。

・檀君ストーリーの学者による増殖─本来の檀君伝承の担い手とズレた形での普及

ここで重要なことは、
①当時の半島の学者たちは檀君ストーリーを拡充していたが、あくまで日本神道の ような信仰と緊密に結びついた思想があったわけではなく、せいぜい檀君をまつる祠の所在などに言及する 程度で、朝鮮の古い歴史の描写としての興味が基本であったこと
②信仰の実践としての檀君の祭祀などは 平壌方面では行われていたと思われるがローカルなものに過ぎなかったこと、である。
つまり実質は地方神なのだが、その神の形式的なプロフィールは半島全体の国祖的なものとして、学者 などに重要視され、国で時々祭祀に関し若干の配慮がなされるという中途半端な状態が続いていたと いうことがいえる。

このあたり、檀君伝説が『帝王韻紀』以降増殖していく過程については、
Kim Nuri氏の "Making Myth, History, and an Ancient Religion in Korea" (ハーバード大大学院総合文化研究科 博士学位論文, 2017年(英語で書かれた論文))
オンライン版 http://nrs.harvard.edu/urn-3:HUL.InstRepos:41140212 [pdfダウンロード可能] (以下 金ヌリ・Making Myth, History...と略す)が詳しい。
ただしこの論文は朴正義氏と異なり、朝鮮民族の単一性を否定はしていない。
確かに、金ヌリ氏によると檀君は平壌のローカルな地方神で、辛うじて神話だけ残っていたものが、 『帝王韻紀』により全半島の神へと拡大したと捉えられており、一見朴正義氏と同じに見えるが、 どうも何かが異なるのだ。
「単一の朝鮮民族の」ある地方のマイナーな祖先神のようなものを、他の地方の(種族としては同じ)人々 に拡大していった、という趣旨に読めてしまうのだ。
もちろん、半島の檀君ナショナリストからすれば太古から全土で檀君が尊崇されていなければ困るので、 おそらく金ヌリ氏のMaking Myth, History...論文も檀君ナショナリストには気に入らないものとなるはずだが、だからといって 当サイトで歓迎すべきものとはならない。朝鮮民族の単一性に対する疑義についての記述が この論文には全く見当たらないのである(この点はまた後でも触れる)。

さて、15世紀の半島においては檀君ら三神をまつったという三聖祠(九月山に所在)の扱いにつき、 種々の論議・請願がなされたが、流行病の拡大防止の観点で請願が採用されたのだという。
また、18世紀には学者たちの意見に押されるかたちで、檀君の墓とされるものに国(李朝)の管理が及ぶように なったりしたが、儒教の聖人とされる箕子の墓に比べずっと軽い扱いで18世紀末には再び放置された という(金ヌリ・Making Myth, History...p.66)。

このように当時檀君が「それなりに」しか重んじられなかったのは、もともと半島人の主流階層の神では なかったからだろう。

・檀君は半島支配層に抑圧された人々が伝承した神

井上秀雄氏は次のように指摘している。
檀君神話は一二三一年からはじまるモンゴールの侵入に対抗する全国的な農民の・・闘争を 基盤とする被支配階級の民族主義的な主張である。  (井上秀雄『古代朝鮮』日本放送協会 1972年 p.20。太字強調は引用者)

元の侵入当時の高麗朝(高句麗ではない)は当初、元朝に不服従の態度を採り、江華島という場所に宮廷を 移したため半島本体は元軍に蹂躙され荒廃していった。
このような中で、庶民の一部が支配階層を見限り、攘夷的理念を押し立てて元に対抗する風潮が生じた。
その際、支配階層の奉じない神、すなわち、かつて滅ぼされた高句麗の系統で わずかに残っていた信仰にたよるということはありえたことだろう。

僧侶一然による『三国遺事』の檀君関係記述も、このような中で記録されたものと考えられる。
ただ、結局高麗は元朝に屈服し、戦乱は止んだことから、半島の支配階層は結局存続し、檀君は国の正史に 記載されない曖昧な位置付けのまま微妙なありさまで一部の学者などにより檀君ストーリーが増殖していった。
そのストーリーが国に反映することもあることは上で述べた。

ただ、檀君は本質的には支配階層の神ではない。そのことは 李氏朝鮮後期の農民反乱などからもうかがえる。
例えば1810年に起きた洪景来の乱の背景事情として、半島西北部(平安道)人が政府による経済的収奪の対象と されているにもかかわらず、科挙に合格しても要職を与えられないという平安道差別が重大要因として挙げられる。
これが檀君・箕子の文化伝統を継承したと自負する西北人に精神的な傷を与えたとされる。
平安道人については、女真族が多いから差別されたいう説明がされることも多い。
しかし洪景来は、政府は普段は差別しているくせに、困ったことがある時だけ平安道人を頼る という趣旨の事を述べて非難している。これは女真族を頼るという趣旨ではないのではあるまいか。

このような所から、檀君信仰の本来の担い手が何であったかが逆算できるかもしれない。

(※今西教授も、半島に高句麗の遺民も多少は残っているという趣旨をのべている (「檀君考」『朝鮮古史の研究』p.127)ように、混血しながらも神子神孫の血を 引く者が多少残っていてもおかしくない。
しかし彼らは神子神孫文化破壊者に普段協力しているのだから、神子神孫文化破壊者の性格を帯びる ことを免れない。よって神子神孫の資格を主張できず、非神子神孫扱いということになる。
しかし、彼らが支配階層に対して反旗を掲げる場合、 その行為は神子神孫国的なものの定立へ向かう可能性を秘めているため、彼らの行為は神子神孫性を (やや)帯びることにはなる。
本稿でも以下類似の事例が出てくるが、どれがそれであるかは一々指摘しないので了解されたい。)


以上のように、檀君信仰の本来の担い手は限定されているはずである。
なのに、今や、半島では「檀君は『朝鮮民族』の祖」と誰でも口にする。
なぜこうなったのか。それは20世紀初頭になってからのあるムーブメントに起因する。

・20世紀初頭の檀君ナショナリズムによる檀君の地位のさらなるかさ上げ

檀君紀元(檀紀)を御存じだろうか。1961年まで韓国でも正式に採用されていた年代の表記法で、 紀元前2333年を檀紀元年とするものである。
計算の根拠だが、檀君ストーリーが増殖していった過程で登場した「東国通鑑」という書物(1485年)で 檀君の即位年が紀元前2333年に相当する年に位置づけられた。計算自体はこれを根拠としている。
しかし実は、「檀君紀元」という紀年法自体は20世紀に入ってから主張されたものなのだ。
この背景には20世紀初頭の「檀君ナショナリズム」の台頭があり、それが「ある経緯」により 現代の韓国政府にまで影響していったという事情がある。
この経緯は案外重要である。現在半島で盛んな「檀君帝国」的主張はまさにその経緯の延長線上にあるとしか いえないからである。

✽申采浩の檀君民族主義史観

申采浩シン チェ ホ | (しんさいこう)は檀君民族主義史観の創始者ともいえる思想家である。
1908年といえば韓国が日本に併合される二年前であるが、『大韓毎日申報』の主筆であった彼は 繰り返し「檀君子孫」概念を主張し、「四千年の歴史を有する壮大な国で、日本に比べれば長兄の国」と 主張した。
そして申采浩は、檀君の血統を引く扶余族が朝鮮民族の主たる族であるとして、 「檀君─扶余─高句麗─渤海」を朝鮮の正統と捉えた。
さらに満州族も檀君の子孫と扱った上で広大な「扶余」国家をイメージしたのだ。
(ただし、それを韓国のアイデンティティにする以上、日本を劣後した存在とする。)
(※扶余族が朝鮮民族の主たる族とする把握が、実態に合致するのかという点については、十分注意されたい。)


◇少し脱線するが、檀君紀元について少しコメントしておく。
これは日本で既に皇紀として神武天皇紀元が採用されていたことの模倣とされる。
ただ、これは日本より歴史が古くなるということで半島人の自尊心を満足させたようであり、
今でもそれを自慢する向きがあるようだが、よく考えるとかなり変である。
檀君とその後の三国その他の国々は、仮に『帝王韻紀』のいうように系図上つながっていても別の国であり、 別に新羅時代になっても檀君が別途在位しているわけではあるまい。なのになぜ通算して檀紀として 計算できるのだろうか。それは「悠久の歴史を持つ単一民族国家」という建前なので、朝鮮民族紀元という ことになるのだろう。
それであれば、日本の場合も神武天皇の曽祖父であるニニギ尊が「葦原の千五百秋の瑞穂の国」の統治を 天照大神に命じられて日本に天孫降臨したのだから、これを「瑞穂国紀元」とすれば、 179万年をこえる「瑞紀」表記が可能となる計算である(『日本書紀』巻第三(神武天皇即位前紀)参照。 令和7(2025)年は「瑞穂国紀元」179万5162年にあたる[即位七年前時点の「百七十九万二千四百七十余歳」について、即位時換算(七年後)ベースでの端数を「七年」と解する説 (『倭姫命世記』等参照)に従った場合])
したがって日本より歴史が古いというのは、あまり意味のない話ではあった。

その数字は観念的なものに過ぎない、と もし言うのであれば、次のような考え方もできる。
かつて東京帝国大学の久米邦武教授は、いざなぎ尊以前の神代についても、「神でもあるが人でもある」と いう考えを提示されていた。
例えば「天御中主とは神としては天の主にて、人としては天子の義なれば、・・・」とか
「独神とは独夫にあらず。」
「国初には・・・君(即ち神)を男主一人にて相継し・・・」
「泥土煮、沙土煮の時より男女共に{国事に}あづかる事になりたるなり。」などと述べておられる。
(久米邦武「日本古代歴史の研究」『久米邦武歴史著作集』第二巻 吉川弘文館 1989年所収 p.8-p.10。{}内は引用者による)

この考えを応用すれば、例えば「国常立尊紀元」を建てることさえ可能になるのである。


ちなみに、この「悠久の歴史を持つ単一民族国家」として半島史を捉えるときその「国家」めいたもの? を何と呼ぶかという問題がある(もちろんそのような捉え方自体、妥当であるかは疑問だが)
『帝王韻紀』(1287年)における「東国」はそれに近い概念らしい。
一方、申采浩はそれを「扶余」と呼んだ。扶余の血統を重視したからである。
このあと登場する檀君教ではそれを「倍達国」と呼んだ(ただし倍達には東北アジアの諸民族がすべて含まれる)。
ただ現代の一般半島人は、それを単に「朝鮮」と呼んでいるようでもあるが、 そもそも檀君を古朝鮮と呼んだのは李氏朝鮮の前の高麗朝(王氏)の書物であった。
その後たまたま李氏が朝鮮の国号を採用したためその国民が「朝鮮人」となったことに留意すべきだ。
つまり古朝鮮も李氏朝鮮もたまたま同じ朝鮮の名称を使っているだけで、同じ名称なら当然同じ民族 と思うのは間違いなのである。
朝鮮・朝鮮人といっても時代によって別物であることには注意すべきだろう。

外国の例であれば、British people | ブリティッシュ ピープル(またはBritons)といった場合、英国国民を指す場合も かつてのケルト系住民であるブリトン人を指す場合もあり、両者は表す意味が全く異なるのである。
(英国の場合、かつてのケルト系住民に対してアングロサクソン族による征服があり、さらにノルマン系 フランス人による征服があって現在の国体が成立している。)

檀君が朝鮮を開いたといってもそれは李氏朝鮮当時の朝鮮と同じ国ではないから、朝鮮という名称を根拠に 檀君が当然に朝鮮民族の祖とみるのは無理である。

✽「檀君教」の創設

さて、日本は韓国を保護国化し(1905)半島への関与の度合いを 高めていくなか、申采浩の檀君民族主義史観は影響力をもって浸透していった。

その流れの中、1910年の日韓併合が目前に迫る1909年、檀君に関する大きな動きがあった。
それは羅喆(ナ チョル | ら   てつ)らによる「檀君教」の創設である。
彼は檀君の教えを復元したとして、半島の過去の王朝のほとんども檀君を信仰していたと主張した。
そして檀君によって団結することで日本による併合に反対する立場を採ったのだ。
※檀君教は創設の翌年に大倧 | だいそう教と改名したが、改名に反対する一派が独立して檀君教と称した(以下、分派檀君教と略す)。 大倧教本体については以後檀君教(大倧教)のようにも表記するので留意されたい。

だが、ここでしばしば誤解されやすいことがある。
民族主義史観として檀君教(大倧 | だいそう教)は日本に対する優位は主張していた。しかし、 あまり知られていないことだが、実は
「檀君教(大倧教)は、日本と協力・迎合する側面を同時に有していた」という点がある。
大倧教が唱導した檀君民族主義の中には日本の天皇制イデオロギーや 「国体」論からの影響が顕著に見られるとされる。
(佐々充昭『朝鮮近代における大倧教の創設』明石書店 2021年 p.45参照。)
羅喆は日本に知人を多く有していたという点や、
檀君教発足式典に参加した中核メンバーの多くが羅喆と同じ全羅道の出身者で あり慶尚道出身ではないという点が、これに関連しそうである。
また式典参加メンバーの一人でもある金允植(羅喆の儒学における師匠)は非常な親日家であった。 これらについては後で再度触れよう。

だが、檀君理念で国を再生すれば日本による併合は不要と考えた大倧教創設者達はその勢いで 「独立運動団体」として名を挙げていった。
それゆえ日本が併合した半島の外(満州)へ本拠を移し、独立運動を続けたが、こうなると 日本側も反乱分子として抑圧する動きをせざるを得なくなる。
大倧教が「神道」の団体の公認を日本当局から得られなかったことに抗議して、羅喆が 自ら世を去って以降、ますます抗日独立運動団体としての性格を強めていった。
つまり慶尚道人やその他の地域の朝鮮人も多く参加していったのだが、自分が思うに
これは当初の檀君教の理念を歪め、単に歴史の古さ・版図の広大さのシンボルとして檀君を利用する傾向を 醸し出していったのではないかと考える(真面目に実践する人が残っていたとしても)。
大韓民国臨時政府が上海にできると、満州の大倧教勢力もその傘下に入る。そして 大韓民国臨時政府内でも「檀君ナショナリズム」が採用されたのだが、これも 「単なるシンボルとしての檀君」的な様相を濃くしていったと考えられる。

そして、太平洋戦争が終戦を迎え、半島が日本支配から独立すると、上海の大韓民国臨時政府の面々は 半島へ戻り「大韓民国」を設立することになる。
「大韓民国」設立の当初は、それまでのいきさつから、大倧教も優遇をうけたという。
そして檀君紀元(現在は廃止)・開天節(開国記念日) などが公式のものとして採用されていった。
しかし大倧教は、その後弾圧なども受けた結果、今では信者の数はわずか数千人程度であるという。
ただ、国民の祝日としての開天節(桓雄の降臨日もしくは檀君の統治開始日)などは現在も残っており、「すべての朝鮮人は檀君の子孫」 「半万年の歴史」などの枠組み的なものは一般的な理解として残された。
後2者は20世紀の檀君ナショナリズムが主張していたもので、開天節も大倧教由来のものである。
これらは「扶余」理念的なものとして申采浩が主張したものに通じるが、申采浩が提唱した 扶余優越的な民族観からはややズレてしまっており、どこか抽象化された 愛国主義として利用されている感がある。
それは慶尚道人優位の世界という点が以前と全く変わっていないからだ。
つまり檀君信仰本来の担い手の視点から見れば、むしろ檀君文化を 抑圧してきた人たちが檀君を利用していることになろう。

契丹古伝的に言い直すと、神子神孫を弾圧した神子神孫破壊者が神子神孫の歴史を悪用していること になる。
さらに、神子神孫文化の本宗家である日本の立場がないがしろにされている(この点は 申采浩や大倧教であっても建前上その傾向を有する)点も当サイトの立場として問題になるわけである。

このように、「太古から朝鮮民族が単一民族である」という幻想に惑わされずに 物事を直視した時、檀君信仰は、本来神子神孫文化と関連する側のものなのに、 神子神孫文化を抹消し破壊してきた側に悪用されているということになる。
新羅は神子神孫である高句麗・百済を併合してその民を打ち砕いた神子神孫文化破壊者であり、 新羅に続いた王建の高麗朝もその次の李成桂の李朝(李氏朝鮮)も神子神孫文化破壊継続者である。 (そして今も破壊行為は継続されている(半島内前方後円墳の破壊など)。
神子神孫文化破壊国体をもつ国の国民は神子神孫文化破壊に加担したものとして、 神子神孫文化破壊者の瑕疵 を帯びるから、東大神族と主張する資格がない。 たとえその国の中において、他の地域よりは東大神族の血が比較的濃く流れている 地域に属する人間が若干含まれたとしても、その者も破壊者に協力し続けていることには変わりないので、 無資格な点は同じである。
彼らはスサナミコの子孫の権利を主張できないし、スサナミコ系伝説の一変形である 檀君の子孫としての権利も主張できない。

しかるに彼らは扶余・渤海アイデンティティに基づく広域領土主張を現在行っている。
なるほど申采浩らの檀君民族主義史観は民族主義史観として日本を劣った存在とするから、それに 乗るのが彼らにとって好都合ではあろう。
しかし、それは、かつての実際の渤海国のあり方とも全く矛盾するものであるし、 そもそもそれ以前に「乗る」こと自体への疑義がもたれる。その疑義こそ上で述べてきたことである。
以上の点からすれば、本サイトで採りあげている契丹古伝にしても、決して現在の日本民族と朝鮮民族を同祖とする見解へ導く書であると 片づけることはできなくなる。

・「朝鮮民族」の「太古からの単一性」幻想──なぜ浜名氏は日鮮同祖論を説いたか

このような「非単一民族論」は、上で朴正義氏の見解としても採りあげている。
しかしそれでも、今日通常見かける意見ではないことを理由に、次のような疑問を抱く読者もおられよう。
例えば「新羅と百済・高句麗でそこまで差異があるだろうか」
「扶余・高句麗の方が新羅よりは神子神孫性が高いなんてことがあるだろうか」
あるいは「浜名氏は日韓正宗溯源を著して日韓が同一民族だと述べたではないか」等の疑問である。

上記のうち1・2番目の疑問については、「東大神族の本宗家の権利は結局日本の帝が保有」 である程度答えているので、そちらも参照していただきたい。
もっとも、そのページでは3番目の疑問との関係が採り上げられてはいない。
そこで以下では、朝鮮民族の「非単一性」とかかわる二つの著作物をご紹介しながら、あらためて 上記疑問に答えていくことにしたい。

✽青柳綱太郎氏の朝鮮史論

青柳綱太郎氏(青柳南冥)は、日本の朝鮮統治時代の言論人で、朝鮮に関する多数の著作で知られる。
左翼的な批判者は、彼を「総督府御用言論人」と評したりすることがあるが、その評価は彼の真の評価には なっていないと思われる。
例えば、日本の朝鮮統治時代、朝鮮支配の基本方針は同化政策と呼ばれ、 朝鮮人を日本人として同化させることが国の目標とされていた。
この目標についての評価は現代的視点からすれば種々のものがありえようが、これは「日韓併合」により 韓国が日本の一部となったことからすれば当然ありうる施策の一つであったろう。
(つまり、白人がアフリカを労働力や資源を目的として植民地支配したのとは異なり、半島も日本の延長で ありその住民は日本人としてのわきまえを身につけるべきという考えかたである。)

ところが、同化は国の既定方針であるとする寺内総督(初代総督)に対し、青柳綱太郎氏は、 日本国内にすら差別問題があり同化は実現できていないのに、まして朝鮮人を同化するのは無理であると 強く主張し反論している。 (青柳綱太郎『総督政治史論』京城新聞社 1928年 p.248-p.251参照) オンライン版:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454545
それゆえ青柳氏はそれ以前、併合前には併合反対論者として、保護国の状態に留めるべきであったとの 主張までしていたという。(同書p.246-p.247)

このように青柳氏には独自のポリシーがあり、愛国的ではあるが常に政府に迎合的な行動を採ることだけを狙いとした人物 ではなかった。寺内総督に対しては確かに全体としては同情的であるが、他の総督に対しては時に強く批判したりしているのである。
また氏は大正元(1912)年より「朝鮮研究会」を主宰し、朝鮮史・朝鮮文化に関する多数の書物を出版した。 その著作からは朝鮮に対する深い関心と研究姿勢が読みとれる。それは決して大衆迎合的な「ジャーナリズム史学」ではない

その青柳氏が、半島の歴史や檀君について非常に注目すべき記述を残しているので紹介していきたい。
まず青柳氏は、檀君を朝鮮の開祖とすること自体は当を得たものではないが、 単に記述の徴すべきものがないことを理由に檀君を投げ捨てるべきでないとの趣旨を述べる(下掲書p.1参照)。 その上で次のように述べている(原文は文語体、口語訳は引用者による)。
「これによって考えるに、我が日鮮両民族の祖先が、かつて同一の土地において 同一の生活を営み、かつ同一の信仰の下に噞喁したことは贅言をまたない。
そして以上の諸説を総合すれば、わが紀元前いく百千年の以前において、 朝鮮半島北部平安、黄海、江原等の地および日本西陲の辺において、 既に優良なる一部民族が棲息したことは疑いをいれない。
ゆえにこれらの民族は、話材において、言語において、その風俗習慣において、 その規を一にしたことは争うことのできない事実である。
即ち、わが日鮮民族は その祖先が同型であったが 一葦帯水をもって両島に分派したに過ぎない。

考えるに、檀君は日本の天降神族と同種族であって、かつて相協力して東方を経略しようとし、 ・・・神族の向かう所ほとんど破竹の勢いであって、草木の風になびくのにも似ていた。
現今の日本諸島および韓の半島 遼東の地は、ことごとく我が神族の政治下に屈伏した。
この時にあたり両地の蛮族は、神族を推して君長となし、数多の蛮族は遂にその地勢と風土と気候を 追って、自ら日韓両地に分属したものであろう。そして両地の生民が同じく天降神族の神代史を 朦朧とではあるが後世に伝説することができたことを喜ばなくてはならない。

その後 民の智の進化によって英雄が出現し、半島神系司命者は革命によって駆逐され、 いくども革命の乱を経て現代に至ったのではあるが、独り日本は神統連綿として、万世一系の神孫が 日本をしろしめしになられた。檀君の治世は、滅亡と共に、後世に問うべきものが何も無くなって しまったが、その伝説は決してこれを放棄すべきではない。そして上古の神代において我が日鮮の神族が 哀々たる庶民を撫育したことの跡は、決してこれを糊塗し抹消すべきでない。
そして檀君が半島開祖の守護神であり、日本天降の神族と同統神系とすることから、 いささかも異論の余地無く、吾ら現代の日鮮民は、その中間はあえて問わず、確かに遠祖を同一神族に 有していたことを祝し、この両民族の抱合がはるか数千年の遠祖の抱負に合致することを思うときは、
天運の挽回、遂に復古の時期が来て、同系の合法は歳月が隔たっていることを理由に偏狭に論じ去っては ならないことを知るのである。

(青柳綱太郎編著『朝鮮文化史大全』朝鮮研究會 1924年 p.8-p.10、復刻版(名著出版)1972年) 原文は文語体、口語訳は引用者によるが、 できるだけ原文の言い回しを残すよう努めた。誤字の指摘については省略する。太字強調は引用者による)

いかがであろうか?
同一種族の優秀な天降神族がかつて日本にも半島北部にも居て、一帯を征服したという説が述べられている。
しかし、これではまるで「同祖だから容易に同化可能」と述べているようにも見える。どうなっているのだ ろうか。

この本の出版は1924年のことで、その7年位前から青柳氏はこのような自説を発表していたようだ。 確かに、そのころには、同化の方針に対し(実は)慎重であった寺内総督は退任していたという事実がある。 そして1919年から国の方針が積極同化に転じていたこともまた事実ではある。
しかし実は、それでもなお、青柳氏は『総督政治氏論』において「同化不能の意見は今も昔も変はりはない」 と述べているのだ。(青柳綱太郎『総督政治氏論』1928年 p.287)

では青柳氏はなぜ1924年にそのような檀君論を説いたのだろうか?矛盾ではないのだろうか?

上の文章を良く読むと青柳氏の本音が浮かびあがってくる。
つまり、日本では天降の神族が万世一系の王朝を保ちつづけたが、半島ではそうではないと明記されている。
そして、「英雄」というのは半島の「神系司命者」を革命により倒した庶民という意味で使われている。
この神系司命者というのは、天命をつかさどる神族の王だから、天降神族系の王(檀君系) を指す。半島は革命が続いたということであるから、半島からは「神系司命者」がいなくなって いたということになる。
最後の方で、(日鮮両民は)「中間はあえて問わず、遠祖を同一神族に有する」 とあるが、この「中間」の意味が重要だ。
昔「神系司命者」が倒れた後、1910年に日本統治が開始するまでの「中間」の期間に あっては、半島の支配者は天降神族系存在ではないという意味だろう。
その間の支配者というのは暗に新羅系の支配者であると示唆していると思われる。
日本統治により、半島に久々に「天降神族」による統治が蘇ったという趣旨になる。

細部はともかく、檀君系神族と日本の天降神族を同一と捉える点で青柳説は注目に値しよう。
ただ同祖といっても、神族の「神系司命者」の元にまとまっている状態をもって「同祖」といえるの であり、「神系司命者」を倒した非神系・蛮民部族が支配している国は、天降神族の国とはいえない、 となりそうである。

では具体的に歴史上半島に存在した国のどれが「神系司命者」の国にあたり、どの国があたらないと氏は 考えているのだろうか。実は細かく明記はされていない。
しかし氏の『朝鮮文化史大全』をよく読むとその答えがそれとなく浮かび上がってくる。
(※原文は文語文、口語訳は引用者による)
扶餘族が一小王国を形成したのは、北扶餘の満州の地である。王国を形成する以前において、 扶餘は果たしていかなる状態であったか。・・・{扶餘族は}犬戎種、鮮卑族に比べて遥かに優等の種族で あったようだ。(『朝鮮文化史大全』p.165)

扶餘族の口伝に、その祖先は天神であって(中略)・・・・とあることより推考すれば、・・・ 檀君神系の種族の発展したるものであることは異論の余地がない。・・・ (中略)・・・そうであれば、天孫族と檀君神族と扶餘族が、同一国内の神族系統であることを 推断するのに苦しむことはないのである。(『朝鮮文化史大全』p.167-p.168)

また高句麗について青柳氏は
(※原文は文語文、口語訳は引用者による)
思うに、高句麗はかつて卒本、丸都、国内城を根拠として満州に武勇をたくましくしたことが明らかで あるのに、朝鮮の史書の多くは高句麗の英邁の王の建国と元基を抹殺して、これを記述しないとは どうしたことか。(『朝鮮文化史大全』p.137)

と述べて、その史書の不備の原因を、高句麗に圧迫された事実を隠蔽したい中国人とそれに追従した (高句麗滅亡後の)半島の文士に帰している。

そして高句麗が唐・新羅の連携により倒されて跡かたもないさまを
「ああ悲しいかな、ああ悲しいかな」と嘆いている。(同書p.67)
また、百済の最後の王である義慈王が遊びにふけり、新羅を併呑しようとし、大国たる中国の威光に さからったがゆえに百済が滅亡したする朝鮮の史書の記述を青柳氏は否定し、 唐・新羅の大軍と戦った義慈王を「英傑の士」であるとしている(『朝鮮文化史大全』p.54参照)。
そして百済の滅びてその跡かたもないさまを「ああ悲しいかな、ああ悲しいかな」と嘆いている。 (同書p.55)

ところが新羅の滅亡について述べた箇所の記述には「ああ悲しいかな」がない。(同書p.73参照。)

以上のような青柳氏の書きぶりからすれば、扶余・高句麗・百済は天降神族の国だが、 新羅は非神系・蛮民部族の国ということになるのではないか。
青柳氏は「日鮮開国の祖先は実に極東の神族であって、・・・二国に分派すべきでない」 とか「どうして日韓民族が異閥なわけがあろうか」(同書p.136、※原文は文語文、口語訳は引用者による) と書いて一見 日鮮同祖論的にプレゼンテーションしているが、「神系司命者」を革命によって「駆逐」 する事態が、ある時期の半島に生じ、その状態が日本統治開始前まで続いていたというのだから、単純な同祖論では ないだろう。
「駆逐」した存在は、かつて神系司命者(天降部族)に征服された種族で、一旦その傘下に入ったにしても 、その恩義を忘れて神系司命者を追い出したことになるはずである。
そしてその「駆逐」した存在とは、やはり新羅系種族のことを暗に指していると読むべきであろう。

✽新羅王家:金氏以前の朴氏・昔氏新羅は倭人と関係するが、金氏王朝は・・・?

このように、青柳氏の著書からすれば、「神系司命者」を倒した非神系蛮民部族は、新羅ということに なりそうだ。
ただ、ややこしいことに新羅王家の初期には倭人の面影があり、また契丹古伝的にいえば 牟須氏の影響も残存していたかもしれない。このため細分化して考える必要がどうしても生じてしまう。 それゆえ、ここでどうしても把握する必要があるのは、新羅王家には三つの姓(朴・昔・金)があり、 朴・昔氏の王朝は短命で最終的に金氏の王朝となったこと※、その金氏の王朝こそが百済や高句麗を滅ぼし 半島を統一したということである。

※新羅王のほとんどは金氏なのだが、初期に朴氏や昔氏の王朝がある。
以下、簡単に何代目が何氏かを示す。
[朴氏:第1~8代(第4代を除く)
昔氏:第4・9~16代(第13代を除く)
金氏:第13・17~56代 (第53~55代の朴氏を除く)]   

初期の朴氏・昔氏の王朝については以前から倭人との関係があるとする説がしばしば唱えられており、 青柳綱太郎氏も、新羅初代王の赫居世や第4代の昔脱解は日本人であるとしている。
この点は、今西教授が韓人と日本人の共通性を指摘しつつ、新羅系である朝鮮人は赫居世的な神をまつるべき とした発想と少し重なるところがある。

しかし、日本への朝貢を怠り、日本書紀等でさんざん非難されているのは金氏の新羅であり 金氏新羅が「神系司命者」を倒したということになる。この金氏は倭人ではなさそうである。

青柳綱太郎氏も、『朝鮮文化史大全』176頁で
(※原文は文語文、口語訳は引用者による)
静かに机に向かって新羅の立国を回想すれば・・ ・・四代{昔}脱解王は日本より海に浮かんで・・・(中略)・・・{初代}{朴}赫居世の父は日本覆面の志士なり・・ ・・
などとしているが、ここで金氏のことには触れていないのである。 (契丹古伝18章後半は、その記述が契丹もしくは渤海目線で新羅王家の非神子神孫性を非難している ものだとすれば、やや大雑把に記されている面があろう。)
(なお青柳氏は、最晩年には金氏王統をも朴氏・昔氏の延長線上として倭人系にしてしまったようだが、 同化推進のための窮余の一策と思われる。)


✽青柳綱太郎氏の「同化不能論」と「日鮮開国祖先同一民族説」との間の「矛盾」の謎解き

青柳氏の引用が長くなってしまったが、氏が朝鮮人を日本人に同化させるのが無理だと考えていた ことを改めて思い出していただきたい。それと上記の「同祖論」は矛盾するのではないか。
勘の良い方は気付かれたのではないかと思うが、おそらく矛盾しない。
要するに、現在の朝鮮人のほとんどは「神系司命者」を輩出した「天降民族」ではなく、
むしろ「神系司命者」を駆逐した側、つまり(金氏)新羅系である、という把握ではないかと思う。
これであれば、「神系司命者」を駆逐した種族は、天孫系との距離が大きく、容易に同化できないという ことになる。
しかし、そのことをあからさまに書かなかったのはなぜか。
それはやはり、国策として、「同化方針」が策定されている以上、無理を承知で、朝鮮人に門戸を 開く必要があったからだろう。
そもそも、日韓併合により、半島人も日本臣民となった以上、天孫民族に組み入れる必要性は 生じていたわけである。
青柳氏は朝鮮人の主体が実質新羅人であることを知りつつも、表面上は神系司命者を駆逐したのが 新羅であることは明示せず、高句麗などの優秀さや天孫民族性を強調して内地・朝鮮の一体化を 図ろうとしたと見ることができる。
青柳氏の記述には時々不正確なものもあるが、 早くから半島に渡って朝鮮社会を間近で観察し続けた氏の意見には無視できないものがあろう。

✽浜名氏も「門戸を開いた」

そして、このことは契丹古伝を世に紹介した浜名寛祐氏の場合も同じだったのではないか。
浜名氏は『日韓正宗溯源』で、朝鮮民族を完全に単一民族のように扱い、完全な日鮮同祖論を説いている。
これは、出版当時、半島人も日本臣民である以上、同化が国是であったからと考えられる。
青柳氏の説からも見えてくるように、新羅系の血・気質の濃厚な朝鮮人に神子神孫系としての 認定を与えることは、本来はおかしいはずである。
そもそも、彼らが大昔、神子神孫系の国の傘下にあった時期があったとすれば、その時期は「神系司命者」 により神子神孫(シウカラ)に組み入れられていた可能性はある。 (例えばムス氏の時代。あるいは新羅の初期で他国の傘下にあった頃。)
しかし彼らが「神系司命者」を駆逐し、自立した時点で、彼らはその地位を自ら捨てたことになる。
ただ彼らが、日本という東大神族の堂々たる神子神孫国の支配下に入った期間(1910~1945年) は、彼らは日本臣民として、再び神子神孫に組み入れられたことになる。
つまり彼らは1910年に神子神孫系に返り咲いたことになるのだが、それまでの間も神子神孫であったことに しようと「下駄を履かせた」のが青柳氏や浜名氏ということではないか。
青柳氏が「中間はあえて問わず」と書いたのは、「それまでの間については下駄を履かせる」趣旨と 考えられよう。
ただ、そのように下駄を履かせたのは、日本の統治が長期間続くことを前提としていたはずだ。
長期間、気質の異なる朝鮮人を(昔スサナミコが行ったように)「同化」してそれが完成するならば、 「中間もあえて問わず」神子神孫だったことに | ●●●●●●してあげようというのは一つの人情として否定できない 態度である。一種の方便としてありうるやり方であろう。
ところが、1945年、太平洋戦争の終結に伴い、半島は独立し、彼らは日本国民ではなくなった。 そして日本統治時代を否定し非難し始めた。これは、かつての「神系司命者」の駆逐に匹敵する事態である から、彼らはせっかく返り咲いた神子神孫系の地位を再び捨てたことになる。

ということは、1945年以降、朝鮮人は再び「神系司命者」を駆逐した神子神孫文化破壊者の地位に戻った ことになる。青柳氏のいう「檀君神族」にも当然該当しなくなる。
それなのに、新羅系が有力である半島において、朝鮮民族の単一民族性・朝鮮純血主義を主張し、 「檀君の子孫」と主張し続けることは背理であろう。
朝鮮民族の単一民族性や純血主義は、ある意味、日本の側から「同化」のため持ちだされた「日鮮同祖論」 とも関係しているのである。

契丹古伝18章後半は、南原の箔箘籍という原住部族が神祖に従わず大陸から放逐されたが後に 半島南部に入ったと解釈できる、問題のある箇所である。
これは、契丹古伝(の原資料)編纂者が新羅系種族を非神子神孫であるとして露骨な嫌悪感を表したように 読めるのだが、浜名氏はここは偽作の可能性もそうでない可能性もあるとして含みを持たせた。
それは、やはり「門戸を開いておく」必要性があったからであろう。
なお、青柳氏は「下駄を履かせる」といってもその適格者はあまりいないと(本音では)思っていたと考えられるが、 浜名氏の場合は「下駄を履かせる」適格者に制限らしいものを付していないという差はある。
それでも青柳氏の場合、新羅の古い王統の倭人性を強調することや、新羅が任那の日本人を併合した ことにより日本人との近似性があることを強調している。また新羅の血脈が半島全土に拡大したことを もって日本人の血統も「混化継承」された旨も主張している(これは天孫族云々とは別次元の「混化」論理である)
浜名氏の場合は、内地(日本本土)と朝鮮の一体・融和を力説している場面においては半島と完全な同祖といった体裁になっている。
もっとも、浜名氏の場合本音がどうだったかについては熟考すべき余地があるとは思う (浜名・溯源p.9最後の5行の彼独特の「天の予誡」論参照)。また、本ページ末尾の補足Eも参照。


さて、すぐ上で青柳氏の主張を参照しながらみてきたように、朝鮮民族は神子神孫系の地位を再び捨てた のだから、「檀君神族」を主張できないと考える。
だがこういうと、次のような反論がされるかもしれない。すなわち、
「朝鮮民族の単一民族性は、もともと民族主義歴史学の提唱者である申采浩や、檀君教(大倧教)も前提と しており、その上で檀君の子孫としての一体性を主張していた。日本に同化論の一部として 持ち出される以前からある話である。
むしろ新羅を異族とするなどは日本人が勝手にいっていることではないか」

この問題にも答える必要があるだろう(先に触れた朴正義氏の論文だけでもある程度の答えにはなる)。

・檀君ナショナリズムと単一民族性の関係

申采浩の場合

そもそも申采浩は、檀君・扶余・高句麗を主軸とする北方種族を優越させる民族概念を説いており、
それまでの新羅中心の歴史観からのパラダイムチェンジを図ろうとした。
李氏朝鮮の王家が信望を失い、あげくに日本に併合されていくなかで、彼が狙ったパラダイムチェンジが 仮に成功し、新しい独立朝鮮が生まれた場合、それは扶余系優位の国体になるはずだったろう。
その場合(神系国体充足性の点で疑問はあるが)一種の神子神孫国家となったのかもしれないので、 神子神孫組み入れによる疑似的単一民族性が正当化された可能性はある。
しかし実際には、朝鮮は独立したものの、そのようなパラダイムチェンジは起きていない。
そんな未来を予見したのかどうか、彼は上海の大韓民国臨時政府を辞めてアナーキスト(無政府主義者)に なってしまった。
したがって、申采浩については上記反論は成り立たない。

檀君教(大倧教)について──根本経典は『渤海文書』の形をとる

続いて檀君教(大倧教)について、上記問題に答えていこう。
檀君教については、もちろん誰にでも入信資格を認めていたし、創設から年数を経て多種多様な信者層が 形成されていった面はある。
だが、檀君教も、当初はやはり一種のパラダイムチェンジを図ろうとしていた のではないかと思われる。このことはあまり論じられていないが、本稿との関連では重要である。
(実は『桓檀古記』等の檀君系偽書の成立にも大倧教で出された各種文献が大きく影響して いるので、その意味でも重要になってくる)。

檀君教(大倧教)は、申采浩と毛色が異なる部分はあるが、やはり扶余・高句麗系アイデンティティを重んじて いると考えられるのだ。
例えば檀君教の根本経典である『三一神誥 | さんいつしんこう』には、初代渤海王の弟・大野勃による序文や、初代渤海王(大祚栄)による「賛」、 さらには第3代渤海王(大欽茂)による「三一神誥奉蔵記」 と称するものが付せられた体裁が採られている。
(神誥の神の字は原文では扁が「一の下に小」つくりが「旬の下に旦」という異体字。以下神の字で代用する)
渤海は扶余・高句麗系の重要な国家として申采浩・檀君教(大倧教)のいずれにおいても重視されているのだ。

ただこれも、現在の半島におけるありがちな認識としては、檀君を朝鮮民族の祖とする「単一民族説」 と結び付いてどの朝鮮人にも門戸が開かれたものであるとされ、
東北アジアの諸民族をすべて朝鮮を主体とする同一民族とみなす大倧教の「倍達民族」史観もそのような ものとして扱われている。

だがしかし、この点については重大な疑問がある。
自分の見解を簡単にいおう。当初の檀君教は日本的な理念を持ち(補注3)、扶余・高句麗系を 優越させるアイデンティティを指向していた。その中で新羅系の主要層については入信行為を媒介として、新パラダイムへの 「組み入れ」を図ることを考えていたのではないかと思われる。

ところが、創設者の死後、抗日団体としての性格を一層強めるうちに、パラダイム変換の機運が薄れ、 新羅が檀君の重要な子孫として正式に位置付けられていった。それに伴い、
①「檀君紀元」的な、朝鮮の歴史へのの悠久性の付与 や②「倍達民族」史観的な、「大朝鮮主義」的版図へ の魅力、といった形式的な枠組みの部分だけが重視され利用されるという現象が生じた。

上海にあった大韓民国臨時政府でも、檀君アイデンティティは重視されていたが、上記のような形骸化を 伴っていたものと思われる。
(このあたり青柳氏のことに触れる前の記述と重複するが、ここで再言するとより鮮明な理解が可能と 思われるので、あえて重複を辞さずに記してあるのでご理解いただきたい。)
それゆえ独立後の大韓民国でも、檀君紀元の採用(現在は廃止)・
開天節(桓雄や檀君と関係する)を開国記念日とする・檀君関係の祭祀施設とされる塹城檀での聖火点灯 などが公式に行われたが、旧新羅系優位の政治体制は昔のように継続していった。

そのため大倧教の勢力は現在数千人の規模に落ち込んでいるという(キリスト教の普及などが理由とされているが、 国体に関わるものならそこまで落ちぶれることはないはずだろう。)
もちろん大倧教にも、当初の理念が、やや薄れたとしても、それなりには残っているはずであるが、その残った ものさえ大多数の人には不要ということがこの状況から読み取れよう。
この状態で、檀君朝鮮以来の半万年の歴史を有する偉大な民族であると学校教育で教えられているわけである。
そのような大多数人の「形骸化した檀君史観」は、もはや大倧教などの檀君信仰とは異なる別種の 宗教だという見解もある(後出)。ただそのような「歴史教」を国家が採用しても、その国が神子神孫国体 になるには全く不十分であることは、論をまたない。

檀君に対する「 | はい | り」 の進行
以上が自分の理解であるが、現在半島のナショナリズムとして「大檀君帝国」の版図が韓国朝鮮人によって 声高に叫ばれている経緯は上記のように捉えれば理解できるだろう。
しかし、おわかりのように、それは、檀君神族と主張する適格の無いものが、パラダイム変換すらせずに 行っているのだから、それは檀君への「 | はい | り 」というべきものである。
契丹古伝的にいえば、神子神孫文化の実践も無いのに、神子神孫を気取って「自らを聖とい」っている ことになるのである。日本統治時は、日本の側で、いわば神子神孫文化への組み入れが図られたが、 独立後、大倧教の理念さえ形骸化させて歴史の長さや版図の広大さだけを利用する中で神子神孫性など 認められるはずがないといえることになる。
仮に神子神孫の血がやや多めに残っている人がいたとしても、神子神孫破壊文化の協力者には神子神孫性 を主張する適格は認められないだろう。

「大朝鮮主義」的な版図を「東夷」の代表としての朝鮮人が誇るという珍事態が展開されているようであるが、 それらの版図は本来、すべて、本宗家たる日本の潜在的管轄に服すと解するのが筋だと思われる。

今論じているこのあたりの論は、おそらく他で見られないものであるが、契丹古伝の立場としては、 充分妥当性を持つものであると考えられよう。しかも極めて重要な論点であることがおわかりだろうか。

重大であるがゆえに、当サイトの偏見によるものとして片づける人が出てくるかもしれないので、 ポイントとなる部分につき改めて少し丁寧に検討しておこう。

要するに、①当初の檀君教(大倧教)はどのような性格をもっていたか、②それがどのように変化していった か、という点を把握することで何かが見えてくる。

まず①について。
繰り返しになるが、大倧教が唱導した檀君民族主義の中には日本の天皇制イデオロギーや 「国体」論からの影響が顕著に見られるとされる。
羅喆と共に檀君教発足の式典(重光式[重光は韓国語で(光の)再興の意味])に参加した 中核メンバーの多くが羅喆と同じ全羅道(旧百済地域)の出身であり、 慶尚道(旧新羅地域)出身ではないという点が重要である。

羅喆は日本に知人を多く有しており、影響も受けているが、新たなパラダイムで国を再生すれば日本に伍して 国を維持でき、併合されずに済むはずという思いがあったようで(つまり日本を本家的には捉えない立場。あえて例えれば、叱られモードの大欽茂王みたいなもの) 、抗日独立運動団体という側面を大倧教は持ってしまった。

・当初の檀君教(大倧教)文書に垣間見える彼らの本音

だが、当初の大倧教は「高句麗も百済も新羅もみな同じ」とは思っていなかったと考えられる。これには 明確な証拠が実はある。

檀君教(大倧教)初期に出された『檀君教五大宗 | だんくんきょうごだいしゅう旨佈 | しふ明書 | めいしょ 』(1910年)は、檀君教の当時の歴史観が長文の漢文 で述べられた書である(布教用に配布されていたという)
そこにおいて高句麗・百済・新羅がどう扱われているかを読めば、そこに彼らの本音を感じ取ることができる。 以下一部引用する(原文は漢文。以下は引用者による現代語訳 太字強調や{}内も引用者による)。
開極後2275(BC59)年に、扶餘の一家から解慕漱が現れ、檀君の本教にもっとも精通して天王郎と称した。
その後、東明聖王(姓は高、名は朱蒙、高句麗の始祖王)がまた現れ、本教門の賢人・・・を率いて・・ 河を渡り、開極2297年に高句麗国を建国した。
{高句麗}王{(朱蒙)}は天にそびえる聖なる姿をしており、 文武を兼備し、我らが衰え分裂した状態なのを憂いて振興の志を抱き、本教を崇奨した。 {(以下高句麗を立派なものと描写する記述が長く続くが略す。)}・・・
本教がかつての檀君朝尼古郎倹神以来再び栄え、国運が盛んとなったのは、実に高句麗朝が一番である。 {(この後も高句麗の繁栄の様子が続くが省略する。)}・・・
{(その後本教がやや衰え仏教が侵入したため、高句麗は唐に攻められて滅びた旨が記されている。)}・・・

百済朝が本教を崇め奉るさまは、高句麗をも大きく上回るほどであった。箕氏の美業の余韻の残る場所で あるため自然にかつての気風にならうことが生じたためである。(中略)その後悪弊が生じ、 奢侈に傾き、仏教に耽溺したため開極2993年に扶餘城が落城し、3年後・・(百済は)滅びた。

新羅朝は、本教(=檀君の教え)とは別に重大な関係を有していなかった。
ただ、高句麗を崇め奉るという習慣はあったものの、 それは虚飾に過ぎなかった。
新羅の{第30代}文武王の時、賢人である金庾信 | ゆしんがいた。
金庾信はもと駕洛 | から国{(任那 | みまなの有力国である金官加羅国。 新羅第23代法興王に滅ぼされた)}の王の嫡孫であった。
その駕洛国の先祖の首露王は、もと箕子朝の教門{(檀君の正統が絶えたときに箕子の子孫が再興したという 檀君の神教の道のこと)}の名士で、{(倍達民族の)}南方の団部{(=部族)}の{(うちの一つの)}領首であった。
金庾信は家伝の本教{(=檀君教)}の大旨を知っており、17歳の時三韓を統合する志を抱き 中岳の石窟に入って身を清めて大皇祖{(=檀君)}に真摯に祈禱すると、4日にして 大皇祖が聖なる姿を現して金庾信は秘法の親授をうけることができた。
また翌年金庾信は烟薄山に入って祈ると、{檀君}大皇祖は宝剣に霊気を下し、成功の兆しありと前もって告げた。 庾信はこれに従って新羅の文武王と魚水の交わりをし、宿した志を奮い立たせ、ますます本教を崇め奉って 人民を訓導した。
{金庾信は、}基礎たる土地を完全に獲得するという檀君の宗旨を高句麗が実行しているのを羨ましく 思い、自分も他国の併合を急ごうと考えて、唐の人間を籠絡して百済を攻め滅ぼし、また百済人を扇動して 遂に唐の大将を殺して国土を併合した。
高句麗もまたこの策を用いて13ヶ国を統治していたがこれは 覇道に近く、族友を統合するという檀君の教えとは相違する所があった。
しかし金庾信はそうではなかったのである。(中略)
新羅は半島統一後、檀君朝の系統を引き受け、盛んに本教を崇め奉った。しかし 新羅朝は檀君の廟を建てることはしなかった。ただ家の中に檀君の御影と位帖を奉安するのみであった。
そして{51代}真聖女王の時代になった時、仏教に帰依することが甚だしく、本教は徐々に衰え、天下は乱れて 檀君開極3268年に新羅朝は傾き滅びた。

新羅がもともと檀君とあまり関係ないという以上、新羅は檀君の子孫ではないといっているようなもの ではないだろうか。
檀君ナショナリズムにおいては、扶余や高句麗の文化の偉大性を強調し、半島の史書にはその偉大さ の記述が十分でないとしばしば指摘されるが、その不十分さの原因は「新羅が中国文化にかぶれたため」とし、
檀君子孫としての単一民族性を崩さないような説明になっていることも多い。 しかし、それは一種の方便に過ぎず、新羅が異質であるというのが真相ではないか。

『檀君教五大宗旨佈明書』の上記記述は、新羅国王よりも、金庾信という著名な将軍 (新羅に滅ぼされた金官加羅[任那の一国]の出身)のほうが、立派な檀君神族だといわんばかりである。
新羅よりも金官加羅(魏志倭人伝の狗邪韓国)の方が、神族性がはるかに高い国だったということにされているのである。
百済や高句麗を新羅が滅ぼしたという歴史上の事件は、檀君教(初期)にとっては歓迎できないものだった のではないかと思うが、それを非難するわけにもいかないので、金庾信が檀君の教えを実行したという 形で説明している。
百済・高句麗が新羅により滅ぼされ統一新羅時代となったあとは、統一新羅が檀君朝の 系統を引き受けたことにしているが、無理やりな感じがないだろうか。家の中でまつるだけとしている 辺りに、本音が隠れているように思われる。注◇◇

注◇◇ 半島統一後の新羅について、次のような意見も出るかもしれない。
金庾信がそこまで神族性が高いのなら、その影響を受けて新羅も檀君神族国化しないのかと。
これは金庾信の後裔と称する系図の保有者が多数にのぼり、しばしば有力層を占めていることから、 出そうな意見ではある。
しかし、そこまで立派な国になったのなら、『檀君教五大宗旨佈明書』も「家の中に檀君の御影と位帖を 奉安するだけ」という素っ気ない描写で済ませるはずがないだろう。
したがって新羅は半島統一後も檀君神族国化していないと考えられる。



ちなみに少し前後するが新羅の初期の朴氏新羅(初代:赫居世)については少し違う評価を下しているようだ (金氏新羅の項目と離れた別項目に記載)
開極2265年、本教門の大哲人である東神聖母が赫居世を生んだ。聖母の名は婆蘓といい、扶餘王室の 姫であったため(慶州郡の)仙桃山で一心に修行した・・・・
開極2277年{朴氏の}赫居世は東海浜の数団部を統合して 新羅国を建国した。赫居世は本教の中にいる人で あるので、馬韓が所管する団部の人々も、かの(新羅)国を侵すことはなかった。・・・
これは『三国史記』に載る、「仙桃聖母=中国皇帝の娘」伝説をアレンジした形をとっているが、 金氏新羅との扱いの差が大きいことは注目に値する。
朴氏新羅当時の文化が金氏の世で廃れているのだから、その継続性を否定していることになるわけである。

さて、以上のことからすると、大倧教は建前上は単一民族説でも、実は純粋な単一民族説でなく、 朝鮮民族として包括するにしてもその中で優劣をつけることを当初は考えていたのではないか。
つまり、新羅系主要層については入信行為を 介在させることにより同じ民族とみなす、という意味での単一民族説だったのではなかろうか。
とすれば、当初の大倧教も新羅中心の歴史観からのパラダイムチェンジを図ろうとしていたと考えられる。

新羅の位置付けを変化させた大倧教

しかし満州で抗日独立運動を続ける存在と羅喆は見られていたため、大倧教は日本当局から神道としての 許可を受けられなかった。それに抗議し羅喆は自死してしまう。このことが大倧教に微妙な変化をもたらした。
羅喆は金教献を後継の教主に指名したが、金教献は慶尚道人であった。
この指名の背景には、金教献が熱心であったことの他、金教献が高い地位にある役人であって、 王室系図書室をも監理していたことがあり、文才もある人物であったということがあるようだ。
初代教主も自分が世を去った後の大倧教の維持発展を考慮し、外部との軋轢を軽減してくれそうな金教献に後を託したのでは ないかと思うが、皮肉なことに金教献が著した各種書籍が、宗教の教義を越えて「檀君を始祖とする 朝鮮民族の客観的歴史」の扱いで一人歩きを初めてしまうことになる。

実は檀君の子孫として新羅がどのように大倧教で位置付けられるかが、金教献の手によって変更されている。
変更 | の位置付けとしては、そもそも、大倧教初期の『檀君教五大宗旨佈明書』において、「大皇祖神孫源流の図」が載せられており、 そこでは、
「倍達族(檀君民族を表す)」の後裔である「北扶余族」から、
①本流として東扶余族(この子孫が高句麗・百済や高句麗の末裔としての渤海・女真・金・清)
②また分流として「馬韓族」と
辰韓族(この子孫が『新羅』・『{王建の}高麗一部の写本では高句麗と誤記されている』・『大韓{帝国と一時期称していた李氏朝鮮}』)  と「弁韓族」
とが分かれていることになっていた。
これは、檀君教(大倧教)において、扶余と関わりのある高句麗・百済・渤海を新羅よりも本流と見て いたことを示すものだろう。

しかし金教献が1914年に著した『神檀実紀』においては、
檀君民族である「倍達民族」が五つに分かれ、その
一つ目が「朝鮮族」でその後裔が「韓族(その子孫が辰韓族で、さらに新羅族・{王建の}高麗族・現朝鮮族と続く)」
二つ目が「北扶餘族」でその子孫がいくつかに分かれて東扶余族や 高句麗族(この子孫が渤海族・女真族などへ続く)や百済族などとなっている。
ここでは扶余系を本流とする考えにゆらぎが見られるのがわかる。
ただ一見明白に大変更があったというほどではない(当時まだ羅喆は在世していた)。

さらに教主となって7年後の1923年に金教献が著した『神檀民史』においては再度変更が加えられている。今度の変更は大きい。

檀君民族である「倍達民族」が七つに分かれ、その一つめが「朝鮮(その後継が扶餘 | ●●)」となっている。
また三つ目が「韓(その後継が | )」となっている。
この前者の方の「扶餘 | ●●」はさらに五つに分かれ、その一つめが「東扶餘」、二つ目が「北扶餘」、
三つめが「卒本扶餘(その後継が高句麗→渤海→女真など)」
四つめが「徐菀扶餘(その後継が新羅→{王建の}高麗→朝鮮(韓))」⇐ 現朝鮮民族の主流
五つ目が「南扶餘(その後継が百済)」となっている。
また「韓」の後継の「 | 」は三つに分かれ、その一つが辰韓でその後継が新羅となっている。

ここでは辰韓族(いわゆる三韓系)より扶余系を重視するスタイルに戻しつつも、
新羅をその扶余系の一種として、百済と遜色無い形で位置付けてしまうという荒技が行使されている。
辰韓の子孫にも新羅が残されているのであるが、その後の半島の歴史につながる新羅は辰韓系のほうではなく、
徐菀扶餘という謎の分類によって扶餘系とされたほうで、百済よりも上のようにさえ見える扱いである。 ((徐菀)は当時の大倧教用語で中国東北部奥地のある地点を指すらしい)[補注5]


このように大倧教二代目教主・金教献のもとで、当初の扶余系種族重視の考えが薄められ、新羅の扱いが格上げ されたことで、純粋な「単一民族説」への道が大きく開かれた。 (もはや「檀君と新羅に重大な関係がない」とした『檀君教五大宗旨佈明書』の考えは撤回されたことになろう。)
このような考えをベースにして、金教献はできるだけ客観的に(表面的には)見えるように 工夫しながら宗教書というより歴史書のようなスタイルで檀君民族の歴史を 雄大なものとして『神檀実紀』『神檀民史』等の著書を叙述していった。
これが教団外の人々にも受け入れられ、「入信による単一民族化」の手順が不要となった檀君史観に対して 慶尚道人ら「神子神孫の理念に縁遠い人々」が「純粋単一民族説」に基づき相乗りし易い形となっていった。
これが、現在の一般韓国人による檀君ナショナリズムへの道を開いたといえるのではないかと考えられる。

あまり知られていないことだが、『桓檀古記』などの檀君系偽書の作成に、金教献の著書群は大きな影響を 与えていると見られる。したがって金教献がもたらした影響には無視できないものがあるのだ。
それにしても、檀君教(大倧教)において新羅の位置付けがここまで変えられるということが、もともと新羅が 扶余系ではないことを逆に証明しているともいえる。従って朝鮮民族単一性はやはり幻想といえる。

青柳綱太郎氏は「平安{(半島西北の地域)の}南北より京畿{道}に亘って、檀君教は陰然として一勢力を成せり。」 [補注6] と書いている(『朝鮮文化史大全』1924年 p.5)。1924年当時の檀君教徒分布状況がわかり興味深い。
青柳氏の指摘するエリアに、半島東南部の慶尚道という旧新羅地域が含まれていないことに注目されたい。
(旧百済領にあたる地域の一部である全羅道も氏の指摘に含まれていない。ただこれは、百済の場合王家が 扶余系であるが本来契丹古伝のムス氏のエリアであることと関係があろう。)

現在も慶尚道出身者が社会で重きをなしている半島で、檀君をアイデンティティにすることが いかに奇妙かがわかるだろう。

(なお、誤解を招くといけないので述べておくが、半島北部の政権は平安道に首都を置いている。
しかし、その支配層が神子神孫系といえるのか、その行いを見れば自ずと素性が知れるというものである。
かつて日本の有力政治家二人がかの国を訪問した時に○○の事実が判明したことがあった。
このとき噂されたのは、彼らは○○○○族であるから平気で○○をするという話であった。 案外当たっているのかいないのか、検討の価値はあるだろう。
本稿では、説明の簡明を図るため、新羅系が背乗りを~と述べていることが多いが、背乗りの主体として 正確には新羅系+αとすることが必要になる可能性があるので、その点本稿全体について留意願いたい。)



◎檀君の「版図」について。

冒頭でも記したように、現在半島では「大檀君帝国」的主張が盛んだ(大朝鮮帝国とか様々な名称が付されている)
特に『桓檀古記』などでは桓因や桓雄までそれぞれ複数代からなる地上の王朝とされる関係で、 バイカル湖方面まで関係領域とされたりする。
かつて存在した親日国「渤海」の領域も当然「大檀君帝国」の領域に含まれるとされる。 (それのみならず、もはや韓国の一般常識として渤海は「ウリナラ」の国で、面積もウリナラ国家群の中でも最大級の立派な国と主張されているらしい。) 新羅も渤海も韓民族の国という扱いだ。
しかしそもそも、檀君は神子神孫伝説がローカライズされたものなので、その版図はそのローカルなものに しか及ばなかったはずである。それは高句麗の一部集団のものとすればその範囲であり、仮に高句麗に 檀君伝承が正式採用されていたとしても高句麗の版図を越えることはないはずだ。というのもその領域以外 で檀君という形の観念は広まっていなかったと見られるからである。 (檀君観念の素地のない領域に対して、神話として、檀君が進出した ことにするという神話もありうるが、それは神話的意味意義は別とすれば現実味のない版図である。)

ただ、朴正義氏が指摘したように新羅による半島統一後、王氏高麗朝において官製や民間の 史書(『三国史記』や『三国遺事』)が編纂されたことを契機として、檀君が半島全体の祖であるという 認識、つまり拡張された檀君像が広まっていった。檀君像が拡張すれば、檀君の版図が拡大されるのも ある意味当然おこりうる現象ではあろう。従って半島全域にその版図が拡大された形でイメージされることになる。
さらに、20世紀の申采浩や檀君教(大倧教)によりさらに檀君の版図は半島を越えて拡大されることに なっていった。

しかしそもそも、本来の檀君領域(高句麗の範囲の一部)以外の部分は、他の神子神孫の領域であるので、 それらを当然に檀君の領域にするのは変ということになる。
それらは契丹古伝のような、同祖で結合したグループ国家という観念でも立てたときにようやく包含で きるのであって、当然単一の檀君帝国に属していたというのは無理だ。
ただ『桓檀古記』はそういう無理筋な内容を力説しており、馬韓・番韓などを檀君傘下の国として 扱っている。ここまで拡張すると、それはローカルな話を越えて、契丹古伝の神子神孫の本宗家 の管轄地域の話の領域を侵食するものとなる。
いいかえれば、辰沄繾翅報の本宗家の管轄の90%以上の領域と檀君帝国の管轄領域が同じになってくる事態が生ずる ことになる。大檀君帝国の主張にも各種あるが、日本や日本の帝を関係するものとして含めないのが普通で、 含めたとしても枝葉扱いだから、何かがおかしいということになる。
これは、辰沄繾翅報の本宗家と檀君の関係がどうだというよりも、檀君の話が拡張されすぎて辰沄繾翅報の 本宗家権に背乗りした状態といえる。
この背乗りした権利を、非神子神孫が声高に主張することは、ある意味「二重の背乗り」ということに しかならないと思われる。20世紀のナショナリズムの展開の中で、檀君の領域が拡張されすぎても通用した のは、広い意味での扶余系地域を包含するというイメージの範囲内では、拡張してもあまり違和感がないなど の事情があったと思われる。そうだとしても、非神子神孫による「背乗り」によりそのような 「自然な拡張(?)」の意味も薄れることになる。

そもそも、浜名氏の契丹古伝解釈による当初の(西征前の)スサナミコの領域(第11章~第15章) が広域過ぎることは本文5章解説等でも示した通りであるが、これは浜名氏が半島人に「開いた門戸に入り易くする」趣旨で 上記領域を意図的に20世紀版「拡張檀君領域」に近づけてプレゼンテーション(解釈操作によるもの)した面があると思われる。
これが戦後何かとんでもないものを助長させたり、誤解を生む原因になっているとすれば憂慮すべき点 であると思われる。

◎契丹古伝の伝承と檀君伝説の差・まとめ

そのようなわけで、契丹古伝の伝承と檀君伝説の差・違いを理解しておくことが重要である。
そうでないと、契丹古伝を檀君伝承に合わせて修正的に理解してしまい、折角の契丹古伝の宝を取り逃がす ことになりかねないからである。
そこで改めて説明すると、檀君伝説は、東大神族アイデンティティ保持者の一部が自らの集団向けにローカライズした、神子神孫伝説 の変形物である。(神子神孫伝説=契丹古伝にいう日孫の子孫群に関する伝承。)
この集団を仮に集団Pと呼ぶ(高句麗系もしくは扶余系の一部集団か)。
契丹古伝の神子耆麟馭叡阿解や璫兢伊尼赫琿などの変形したものを、たまたま集団Pが檀君と呼んでいただけであり、 耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿は集団Pだけの独占物では本来ない。東族系民族すべてにおいて 祖神となりうる存在で、その場合檀君という名称である必要はない。

旧約聖書の神話で、アダムはユダヤ人の祖とはいえるが、アダムはユダヤ人だといったら誤りであろう。 そういう意味で、檀君は集団Pの祖とはいえるが、キリコエアケは高句麗人だというと 誤りなのである。 (また、高句麗王家に対し日本の天皇家が朝貢を求めうることからすると、高句麗王家が 檀君系王家とはいっても決して本宗家の資格を持っていない状態であるといえる。)
また「キリコエアケは朝鮮人」といっても当然誤りである。
「檀君=今の朝鮮人の共通の祖」概念は近世以降に発達した架空のコンセプトに過ぎない。
この点の誤解から、契丹古伝も(現代的意味における)朝鮮人のための物語と思いこむ人がいるが 不当な把握である。

当初の檀君伝説の保持者(集団P)とは高句麗系の民の一部(東大神族の一部分)である。
すると、新羅系である現在の朝鮮人は基本的に檀君伝説と無関係で耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿とも無関係ということになる。
すなわち、

・檀君王倹を祖神とあおぐことができるのは、現在殆ど残っていないはずの高句麗系の民(の一部)=集団P (東大神族) だけ(ただし「瑕疵」ある者は除く)。ここに 耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿 とも無関係な新羅系朝鮮人は含まれない。
・耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿 を祖神と仰ぐことができるのは、上記集団Pに限らず、(契丹古伝の)東大神族すべて。 しかしここに耆麟馭叡阿解・璫兢伊尼赫琿 とも無関係な新羅系朝鮮人は含まれない。
・新羅系を中心とする現代朝鮮人が檀君を自らの祖とした上で、 偉大な朝鮮民族が太古から広域アジアを支配したとする観念は上記二点のいずれとも矛盾するため誤り。

という点を理解する必要がある。
広域の支配領域の主張がしばしば日本で笑いの対象となっているが、主張すべき者でない者、 慎みのない者が主張すれば滑稽で嘲りの的としかならないのは当然である。
しかし日本と渤海の関係を見ればわかるように、主張すべき資格あるものが一定の主張をすることは、 何らおかしくないのである。



○檀君史観のいろいろ─その正当化のための理屈は成り立つのか


檀君史観について述べてきたが、檀君アイデンティティといっても、人によって温度差がある。
もちろん誰が何をいっているのか、一々把握する必要はないと思う。程度の差こそあれ彼らは「背乗り」を していることにはなるからだ。だが、ある程度その意見の差を知っておくことは、有用な場合もある。
例えば、大朝鮮帝国的なものに、日本を含めるのを嫌がる人とそうでない人がいる。
前者は後者に対して、そんなのは親日だと思っている節もある。もちろん日本からすればいずれも論外 であるが、まぜそのように差が出るのかを考えることは有益かもしれない。
そのようなこともあるので最後に、「温度差」について少し基本的な部分に限り検討しておこう。

さて、半島における一般的な檀君史観肯定者は
①民族の一体性 ②檀君の全朝鮮民族の神という特徴 ③檀君の存在の客観的事実性 ④檀君祭祀の 全半島における実践の歴史の存在 の全てについて少なくとも肯定する。
さらに、⑤ 檀君が一人でなく複数の歴代檀君からなる王朝である という考え (数百年前から一部の学者が主張)を採用する者も多い。
さらに加えて、
⑥歴代檀君についての歴史書と称する歴史書の類( | | えん史話・檀奇古史・ 桓檀古記など)を(少なくともどれか一つは)真実として受け入れる
というスタンスをとるものが多い。

①から⑥の全てを採る者が最も誇大に「かつての檀君帝国の大領土」的な大朝鮮主義史観をブログなどで 宣伝していることになる。

一方、半島における学者の | ●●●意見はさまざまであり、例えば②の全朝鮮民族の神という特徴は否定するが ③檀君の客観的事実性については遼寧を中心とした古い エリアの支配者として認める(この場合④⑥は否定)というのもあるし、 神話的存在にすぎないとする説(③④⑤⑥の否定)もある。
ただ、前者の場合でも、①の民族の一体性は肯定するため遼寧は「朝鮮人」の独占的な古文化である、 という論調にはなってきやすい。

そして、学者の意見よりも過激なのは学校教育のようだ。2007年の教科書改訂の結果、 ②全朝鮮民族の神としての檀君③檀君の実在性について肯定説を生徒は教わっているらしい。
これは①はもちろん④檀君祭祀の全半島性や⑤の檀君の王朝性も肯定する方向に働くので、 ⑥の檀君系偽書にはまってしまう人を誘発させていると考えられる。

檀君につき大なり小なり肯定的な学者の中でも、 ⑥(檀君系偽書)について否定する学者はそれなりにいるようだ(たとえば、それらは近代人による偽書 とした上で『揆園史話』のような戦前のもの(1930年前後には世間に登場)については民族主義的運動として 思想史的意義があると肯定的に捉えたり、また学者によっては逆に親日的儒学者とのつながりがあるとか 大アジア主義の韓国版だとして否定的に捉えたりする。)

そのような学者も、①②③④については肯定的な場合が多いようだ。
しかし、朴正義氏の論文からもわかるように、三国を一体としてみるのは三国史記からはじまり、 『帝王韻紀』から檀君を朝鮮半島全体の祖とする作為がなされたのであるから、 自説の立場からは①民族の一体性と②全朝鮮民族の神という特徴も否定すべきということになる。
また、自説からは③檀君信仰というのは契丹古伝神話の 残滓とみるので、そもそも(高句麗系の神の)檀君としての存在が全半島に存在したのではなく、 あくまでより古い本来の形、つまり東夷共通の始祖神としての契丹古伝の始祖神(スサナミコ・キリコエアケなど) がいろいろな形で東アジア各地の東大神族に存在した、特に日本にその古い神々の影響が残っていると 捉えている。
決して今の朝鮮人のための朝鮮神などではないということである(ただ 各部族に細かく分かれたはるか後世に、扶余系の一部部族のためだけの概念として檀君の概念が登場したという ことぐらいならありうる)。
また「東大神族=今の朝鮮人を筆頭とする民族」では全くない。

朴正義氏(「中世につくられた民族の祖檀君」など)は①(民族の一体性)を否定するため、 残りの②全朝鮮民族の神という特徴 や④全半島における檀君祭祀実践の歴史については少なくとも否定 に解するはずだ。

ところで、①(朝鮮民族の一体性)について特に否定しないが、その上で②③④⑤⑥を否定する論文 (金ヌリ・Making Myth, History...)がある。これは
②~⑥を否定することからおわかりのように大多数の半島人から嫌われそうな論文だが、 それでもなお内容的に問題があると当サイトでは考えている。
金ヌリ説はマイナーな見解かもしれないが、本論考の主張を理解するのに逆に役立つのであえて検討してみよう。

金ヌリ氏は②檀君の全朝鮮人の神という属性 について、もともとローカルな神話としては存在していた (僧侶の偽作ではない)とする。全朝鮮人の神という属性は後から付与されたとするので②を否定する ことになる。
(ただ①朝鮮民族の単一性を否定してはいないところが、朴正義氏とは異なる。)
また同氏は③(檀君存在の事実性)について、あくまで神話として文化的な意味があるが、現実の人間とは 認められないとするようなので③も否定していると思われる。

④⑤については、ローカルな神話は存在したとしつつも、信仰の実践はとっくに途絶えていたとする ので④も否定する。⑤の檀君王朝論も否定する。
否定だらけには見えるが、①(朝鮮民族の一体性)については否定していないことから、檀君系運動について 次のような評価が氏によってなされている。

すなわち、檀君系の運動は、
①13世紀以降の檀君像の拡張(朝鮮全体の始祖としての存在への拡大)⇒②20世紀初頭の檀君教 (大倧教)による「新たな教義や歴史観の作出」& 大韓民国臨時政府との関わり ⇒③教義的な面を殆ど そぎおとした「檀君朝鮮」という悠久の歴史を奉じるムーブメント
という経過をたどったとし、大倧教が(金教献以降)産みだした歴史記述の延長線上にある、宗教性が希薄化した現在の③の傾向はもはやその檀君史観自体が 「新たに作りだされた神話・宗教」であるとする。(金ヌリ・Making Myth, History...p.318-p.320参照)

これは檀君朝鮮というものが歴史としては架空であるとし、現在の檀君朝鮮史肯定運動はそれ自体が 宗教のようなものとする捉え方である。(多くの韓国人からは嫌われそうな考え方といえよう。)
もっとも、金ヌリ氏は 「朝鮮の始祖{(檀君)}は疑いもなく 今後の多くの人々の感情や想像力を良かれ悪しかれ刺激し続けるであろうから、檀君[ワールド]は未だ進化の途上にあり完成には程遠いものである。」(金ヌリ・Making Myth, History...p.320。和訳は引用者による) とするばかりでそれを必ずしも否定していない。
おそらく金ヌリ氏の意見を敷衍していけば、「歴史観自体が特殊な宗教なようなものなのでどれだけ 檀君大朝鮮史観肯定運動を行ってもカラスの勝手でしょ」 ということになってしまうのではなかろうか。
ヌリ氏は『桓檀古記』なども偽書とするのだが、それを利用した国粋主義的檀君朝鮮史肯定運動 自体を責めてはいないのである。(運動をウォッチの対象にしていこうという様にも読めるが。)

もしそうだとすれば、この点においてヌリ氏の説は、偽書『桓檀古記』による愛国的歴史主義運動に 警鐘を鳴らすという一部の学者の意見とは何か大きな差異があるように思われる。

また、「檀君信仰の実践は絶えていたから「新・檀君歴史教(?)」をつくっても それにより傷つく檀君信仰の実践者はいないから問題ないでしょ」ということになりかねない。
それなりに半島の西北部のかすかな伝統として残っていた神子神孫文化的風俗の「横取り」や「破壊」に つながりかねないという視点が欠如しているのである。

ハーバードの博士論文なので、個々の論述については正確な部分も多いし、参考になる部分も多い のだが、自分の立場からすると落とし穴があると考えている。
まず、金ヌリ氏の論文は朝鮮民族が単一民族であるという前提に立っているとしか思えない点が挙げられる。
檀君教の創設主体のほとんどが全羅道人であったという重要な点に全く触れられていないだけでなく、 全羅という地名さえ論文中1回しか登場しない(羅喆の出身地として言及)。

また、教祖羅喆が日本人と親しかったことの説明が不十分であり、また 羅喆が慕っていた儒学の師匠である金允植も親日派であった点についても言及がない。
(佐々充昭氏によれば金允植も大倧教の初期教義文書の作成に関与した可能性があるという。)
檀君教が日本からの影響を受けたことについては今までも論じられたことがあるが、金ヌリ氏の場合 その影響を限定的にみるような誘導がなされていると自分の読解においては感じられた。(補注3も参照)

自分が思うに、檀君信仰は、高句麗系のものであるので、神子神孫文化との一応の関連性があると考えた時に、 その檀君信仰を宗教化した檀君教も神子神孫系文化の復活運動という側面があったと思われる。
それがしばしば日本神道的である等といわれるのも無理からぬものであると考えられるのである。
そして、金ヌリ氏は檀君の信仰の実践が途絶えていたとするが、三聖祠の祭祀など、実態が残存していたと すれば、金ヌリ氏とは異なる捉え方をすべきということになる。
檀君教がどの程度「本来の檀君信仰」を復活できたかという問題はあるにしても、かつて満洲にあった国家 「渤海」を重視するなど、当初は神子神孫文化への傾斜が見られたという重要な特徴を有していた。
当然ながらそのような視点からの把握はヌリ氏にはない。

そして、教祖の死後、先にも述べたように、日本統治に反対するという反日の側面が濃くなった檀君教 (大倧教)に、本来の創設グループとカラーの異なる慶尚道人などが多数参加していった。そして 大韓民国臨時政府(上海にあった独立運動勢力の拠点で、現在の大韓民国の前身)も檀君教と深く関わって いったという事実がある。
これは、非神子神孫が神子神孫文化に頭を下げて受け入れるという 側面が本来あったはずだ(非神子神孫という言い方については日本統治下なので微妙な面はある)
しかし実際は「純粋な単一民族」観で済むように変質した大倧教の外枠の部分を利用する方向へ 変わっていった。独立後も大倧教はそのような方向で利用され、学校教育などに檀君史観が採用されたり するが檀君の神族文化はないがしろにされることになる。

このような経過をたどることによっていかなる問題が生じているか。繰り返しになるが重要な点である。
つまり、檀君を奉じるという、「神子神孫文化」的側面を限りなく希薄化させた上で、 架空の単一民族「朝鮮民族」の歴史を古く見せかけるために檀君神話を悪用していることになる。
初期の大倧教がもっていたであろう、失われた理念の再生やおとしめられた人々の復活という 理念は全く捨て去られ、社会の支配階層に何らの変更もなく、檀君の悠久の歴史だけが喧伝されている。
これは檀君信仰の外枠だけを利用したものに過ぎず、 これでは結局「神子神孫文化破壊者」が檀君の子孫と称して檀君に「背乗り」していることになる。

その意味で、朝鮮人は檀君よりも新羅の神をまずまつるべきとした 今西教授の説は(やや不正確な面はあるが)古い説ながらも改めて注目に値する、
ただ新羅神祭祀については、倭人の神というより かの独特の行動・思考原理をもたらす根源的部族の 部族神を探して祀るのが筋ということになろう。(補注7)

ところが実際には多くの半島人は、檀君を実在として、朝鮮民族全体の始祖とし、信仰の実践も昔から 行われてきていると主張しているわけであるから、この主張は当然檀君に「背乗り」するという主張 ということになる。

「背乗り」でなく檀君をまつるというのであれば、檀君の理念の背後にあるはずの神子神孫文化的 理念を受け入れた上で、そのような信条・物の考え方などを上等と扱い、また神子神孫に少しでも 近い人を社会の上位に置くような体制変換がない限り無理であろう。
そのようなパラダイムチェンジがなされた体制下で、たとえば檀君祠を神社のようにまつるなどし、さらに 「しかるべき神孫」が「非神子神孫」を(神子神孫文化への帰依を前提に)「神族」に繰り入れるというので あれば、非神子神孫が神子神孫とみなされることにより檀君を奉じることができるようになるかもしれない (かつそれらの条件が履行され続けることも要件となろう)。
(実際には、高句麗文化の勝手な拡張になるので、檀君という形が正しいのかという問題は残る。)
(そのような体制変換がない場合には背乗り解消は無理といっているだけであり、本ページで体制変換自体を提唱している訳では ないのでその点誤解のないようにお願いしたい。)

檀君教がどこか日本的だというのは、半島では一般人の目からすればむしろ常識的な理解なのだとも いわれている(*)。この点に目をつぶった現在の檀君運動は、確信犯的背乗りといえるのではないだろうか。

(*檀君教の日本性は鹿島曻氏も強調していたことなのではあるが、鹿島氏の論の場合いつも「本末転倒」 的なものに彩られているため、全体として無意味なことになるのは残念なことである。)

さてここまで言ったときに、高い確率で来ると予想される批判は「日本も多民族ではないか」という ものである。
この問いに対する答えは、実はいままでの文章を良く読めば自然に出てくる。
つまり、本宗家国家たる日本は、神子神孫文化を神社などの形態で有し、 帝を頂く神子神孫理念国家として運営され続けていることは塢須弗の『耶馬駘記』(契丹古伝第7章)の頃と 全く変わっていないのである。
そして、たとえ国民には多少の血の濃い薄いがあったとしても、日本の国民として (憲法上の問題はともかく)精神的には帝の臣民として(戦前風にいえば「赤子」)として 生きることができるのであるから、当然 韃珂洛(第4章で神族の意味)に組み入れられていると考え られることができるのである。従って皆神子神孫であるといえる。

また、新羅も神子神孫国家だったはずだという反論も考えられる。
新羅初期の王統も複雑なので、高句麗や倭国との関係を主張する反論法もあるかもしれない。
しかし、結局神子神孫性は消失したと考えるべきだ。
かりに新羅が神子神孫国家であったとしたら、 高句麗・百済を滅ぼした時に(半島内の)有力な辰沄氏として自らを辰沄繾翅報と誇ることが できたと思う、そして自らを筆頭として神子神孫文化を維持運営することを行ったはずである。
ところが実際には、その気配は全くなかったといってよいのではないか
(高句麗を滅ぼした後、王族を報徳王として一時封じただけでは何ら継承性はない)
『檀君教五大宗旨佈明書』も新羅が高句麗を崇めたのは虚飾に過ぎないとしている。
やはり神子神孫文化の抹殺ばかりおこなっていたといったほうが適切な把握と思う。
中華文化を受け入れたせいだけで、そのような抹殺行為に狂奔することになるとは到底思えない。
やはり非神子神孫国家だから、そのようなことを行ったのではないのだろうか。

中国の史書(隋書など)に「新羅では元旦に日月之神を拝んだ」と されているので神子神孫国家なのではという指摘もあるかもしれない。しかし、新羅の三王家の 中で太陽信仰に密接に結びつくのは朴氏の赫居世や昔氏の脱解であるとされ、上でも触れたように 倭人的な要素、あるいはムス氏的な要素と関係するものである。『檀君教五大宗旨佈明書』で 赫居世と金氏新羅が別の項目になっていることも考慮した時に、たとえ金氏王家で日月神の尊崇が 国家行事として行われていたと解しても、それが辰系信仰の実践である保障はないし、 日本への朝貢を行っていたころの体裁もしくは高句麗との関係で古い新羅の建前の継続として行われ ていた可能性が考えられよう。半島の史書に書かれている神宮祭祀も、せいぜいそのようなものであろうし、単に金氏の始祖廟の可能性もある。 庶民の信仰としては、もう少し強く残っていたはずであるが、下火になっていったものであろう。 迎日県・迎日湾などの地名(浜名氏も一部言及している)は、太陽信仰の残滓と見られる。


檀君への背乗りにより大檀君帝国を掲げるするのでなく、大新羅帝国の夢でも見ておけば よいだろうということになる。
ただしこういうと女真族(満州族)が新羅人の子孫という説を持ち出す人がいそうである。
これにより満州への権利を主張するわけである。
この説は大いに疑わしく、自分は反対であるが、長くなりそうなので別稿を期したい (本ページの内容の本質からは外れた話題ではあるので、何かの折におまけとして述べたい)。

檀君の民を弾圧した側の子孫なのに、檀君の子孫と称すると、これは系図上の「背乗り」となる。
これは本来おかしいのであり、そのことは次のいくつかの例を 参照すればすぐに理解できるだろう。

例1
白人の米国人は、いうまでもなく、先住民であるネイティブアメリカン(いわゆるインディアン) を滅ぼした側である。
ところが、その白人が、(少量のネイティブアメリカン血を引くことを理由に)ネイティブアメリカンの 子孫としてネイティブアメリカンのアイデンティティを主張できるだろうか?
このような主張は原則おかしいのであって、ただ、宗教の世界において、そのようなアイデンティティ に自らを位置付け、それなりにネイティブアメリカンにも敬意を払うならば、入信を前提として 例外的に許される(というか社会的に問題視されない)と考えられよう。
(実際、キリスト教の一派(?)で、似た教義を持つ団体は米国に存在しており、存続してきている [ユダヤ系ネイティブアメリカンの子孫と自らを位置付けている。])

例2
イングランドのアングロサクソンが、ケルトのナショナルアイデンティティを主張し、大陸のケルト系住民の居住地域を 含めて「大ケルト帝国領」を主張したら、まわりから どうかしているといわれるに違いない。それは本人に少しケルトの血がまじっていても同じであろう。 (アングロサクソンはブリテン島内のケルトを滅ぼした側である。)混血していればよいという問題でもないし、 同じ英語を話しているからよいという問題でもない。

例3
系図が繋がっていればいいとは限らない。
フランスのかつての王家、カペー家の初代ユーグ・カペーは、祖先をドイツやベルギー方面に持つ関係で (詳細に不明な点があるが)、系図の質を問わなければゲルマンの祖神オーディンにまで祖先がたどれる ことがある。
カペー家の子孫であるブルボン家も同じである(北欧神オーディン=ドイツではヴォータン、英語では ウォーデン[(水曜の英語Wednesdayはウォーデンの日の意味)]で、イングランド七王国(Heptarchy)の多くも祖先をウォーデンに繋ぐものが多い.)

これを理由に、(キリスト教徒であるため現実には起こらないはずだが)フランスが「オーディン教」 を採用して「オーディン文化の筆頭継承者」と主張したらどうなるだろうか。 それは狂気の沙汰とみられるだろう。

このような例に照らせば、神族を滅ぼした側が、かりに熱心に滅びた側の神を信仰し、神族の文化を 実践してみせたとしても、「どうかしている」ことになるはずだろう。
だとすると、そのような檀君の教えの宗教的実践すらない状態で、
神子神孫を冷たい目で見つつ、かつ神子神孫からかけ離れた気質を発散させ、 檀君国家の古さ・広大さばかりを言い立てて権利主張することがいかに異常か容易に理解できるだろう。

それは果たして、「彼らの勝手」すなわち他国人は口出しできないことであろうか。
契丹古伝の記載を深く汲み取り、歴史の諸経緯と併せ考えたとき、 「東夷」とは東大神族各族の集合であり、その本宗家は日本となるはずである。 ところが、東夷イコール朝鮮人とし、契丹人も満州人もすべて現代朝鮮人の祖先たる朝鮮人の分流と する檀君史観はあきらかに上記の考えと矛盾する。
本宗家たる国の権利が、無資格者によって蹂躙されているとしたら、どうなるのだろうか。
この点について深く思いを致すべきではないだろうか。

・おわりに

当サイトにこられるかたは、契丹古伝の解釈に興味があってこられる方が基本だとは思う。
だが、そもそも、東大神族や神子神孫がどのような人々のグループで、どのような相互関係があったかという ことは、謎が多いため完璧に知ることは無理だ。だが現実の歴史の経過に照らせば、ある程度雰囲気を 察することはできるだろう。神子神孫の中のランクや、異民族に対する支配の在り方など、具体的なこと は何も書かれていないに等しい。しかしこれも、歴史の経過に照らし、ある程度見当をつけながらそれを 契丹古伝の解釈につなげるのが正攻法であろう。いいかえれば、そのような基礎事情を探り、わきまえつつ 解読に臨むのが当然ということになる。

このような中、解釈に一定の幅がでるのはやむをえないが、
「基礎事情」の部分が歪んだ歴史観で契丹古伝を解釈してしまった場合、契丹古伝の持ち前の長所が 失われ、人々に誤ったイメージを植え付けることになる危険がある。

「朝鮮民族=単一民族」史観をベースに、檀君系偽書の記載を考慮して契丹古伝を解釈する事態は、既に 若干は起きているし、今後も考えられる。
例えば檀君系偽書には殷朝の時に、檀君の命により檀君朝鮮側が殷の支配する山東省もしくは河南省方面に攻め入ったというような話が あるが、契丹古伝とは矛盾するはずである。矛盾を避けるために、契丹古伝にこじつけ的解釈を施したり 原文の一部否定をするということが起きうる。そのような解釈を見たときに、なぜそう解釈されているかの 事情も知らずに何となく参考にしてしまうことが起きるかもしれない。
そのような危険を避けるためには、少なくとも檀君信仰と檀君系偽書の関係ぐらいは 把握した方がよいということになる。本稿はそのための基礎知識ともいえる。
皆様がその基礎知識を生かすことによって、今後登場するかもしれないさまざまな方の解釈を判読される 際に役立つことがあれば幸いである。

本稿は日本人にとってなじみのない話題を多く取り上げざるを得なかったが、これ以上の煩雑化等を避けるため あえて記述を省いた所がある。例えば半島内の地域差別なども問題となる。旧百済地域である全羅道は 差別されてきたようだが、そのため戦後左派勢力がこの地で急伸、そのため 右派の慶尚道勢力の一部がかえって資本主義陣営である日本に接近する等の事情も発生している。そのような現在の 政治事情だけでは本稿は読み解けないので注意されたい。また李朝の出自が北方ともされることがあるが、 檀君とは本来縁が薄いと考えられるので注意を要する。また半島では神社のような民族固有の立派な祭祀 施設がない点も省略した。社会で拝み屋のように軽く扱われるムーダンという存在とその関連施設程度が ある位である。
(なお、省略したその他の話題として、浜名氏の著書以前に日本で出版された著書における日韓同祖論系檀君論の問題がある(補足D参照)。)

そもそも本稿のような問題を扱うために当サイトを開設したわけではなく、筆者としてはもうgoogle翻訳結果の不完全な同音異議語を修正解読するのには飽き飽きしており、檀君問題から離れて、神話論や本文の解釈などに時間を割きたいとも思っているので
一応檀君問題については本稿である程度まとめることができたとものして、先に進みたいと考えている。
それゆえ、これからもご愛顧頂ければ幸いである。

檀君系偽書の中でも最も有名な『桓檀古記』についていえば、①既存の檀君系偽書や経典などを取り込みつつ、 ②20世紀の民間の各種歴史本(戦後のものを含む)の意見を取りこんで作成されているようだ。

すると『桓檀古記』の場合①の関係ではそこはかとなく檀君教的雰囲気(日本を上位におくことは拒むが、扶余系王朝を護持するなどの 神子神孫的メンタリティーを含む)が残されがちということになる(ただしその雰囲気を 味わうというより、(誇張的な)栄光的歴史に「背乗りして(版図や歴史の古さなどを)楽しむ」 という器用?なことを半島の読者の多くは行っていることになる) (注☆)

また『桓檀古記』の②にあたる部分では日本を貶める粗雑な意見の採用やあてはめ等が当然行われうることになり、驚くほど クオリティが低い記載が頻出しうることになる。
偽書は偽書としてその限界を知りつつ利用することは、一般論としては妥当と思われるのだが、 『桓檀古記』についてはあまりに問題が多く、例えば①②の区別もせずに特に質の低い②の部分も面白そうだから参考にしてしまうということ は論外である。遺憾ながらそういうことも(契丹古伝の解釈本ではないにしても)日本で発表された 書籍において行われたことがあることは確かである。

ちなみに 『桓檀古記』の低クオリティの記載の一端を明らかにしたサイト 「『桓檀古記』の驚くべき妄想」(「古代史Tips」サイト内ページ) https://historytips7.webnode.jp/kandankoki-hwandankogi-illusion1/ もあり、かの書が日本や皇室について流すデマに惑わされるのを避けるのに役立つのではないかと思われる。

注☆:①の部分にしても、そこから既存の檀君系のストーリーに教訓などを付加したものを除外していくと、 残りの中身が案外薄いことはたしかである。これは檀君ストーリーの増殖過程を大倧教系文書も含め検討することで 確認できる。

長文をお読み頂き、感謝申し上げる。

なお、本文ではいろいろな論文を引用させて頂いた。当然それぞれの論文著者にはそれぞれの立場 があるため、自分が好意的に引用したからといって、自分と当然同一の立場に立たれているとは 限らないのでそれぞれの御立場に対して十分な配慮が必要である。

佐々充昭先生の論文は非常に参考にさせていただいたが、佐々氏にはご自身の立場があり、半島の方々と さまざまな資料のやりとりなどでの接触がおありになると思う。
本論考の読者の方も各引用論文の著者の意見につき軽率に決めつけたりせず、十分配慮されるようにお願いしたい。

ちなみに、個々の宗教団体の内部事情に立ち入って論評するのは本来自分の好まざるところである。しかし 状況が状況なだけに、やむを得ない場合もある点につき、ご賢察賜れば幸いである。

○引用文献・参考文献補足(本文中に書誌データを記したものは除く)

・一然著 金思燁訳『完訳 三国遺事』朝日新聞社 1976年(原著述:1280年頃)
・金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』1~4 平凡社(東洋文庫) 1980・1983・1986・1988年(原著述:1145年頃)

・李承休『帝王韻紀』朝鮮古典刊行所 1939年(原著:1287年頃)
(オンライン版:国会電子図書館(韓国) https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=OLDP1200500284&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=OLDP1200500284%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=true&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=+OLDP1200500284)

※『帝王韻紀』は上下巻で構成され、下巻の冒頭付近に檀君の記載がある(上記pdfの39枚目画像)。なお、かつて、この書は散逸したものとされ行方不明とされていた。今西教授でさえ その書名を知りつつも「檀君考」発表当時(1929年)実物を目にすることができかったことが氏の記述からわかる。
総督府が様々な史書を押収・焚書したと半島では声高に叫ばれるが、今西教授のもとにこの書物が届けられていなかったことはどう説明されるのであろうか。


・『檀君敎五大宗旨佈明書』1910年頃
(オンライン版:韓国学中央研究院『韓国学デジタルアーカイブ』内 http://yoksa.aks.ac.kr



・『三一神誥』大倧教本部 1912年
(オンライン版:国会電子図書館(韓国) https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=OLDP1000000413&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=OLDP1000000413%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=true&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=+OLDP1000000413 )
※渤海王らによる「賛」その他について、 王の名は記されていないが「渤海年号」と文書の形式によりどの王によるものか特定しうる書式となっている。


・金教献編修『神檀實紀』大倧教本部 1914年
(オンライン版 国会電子図書館(韓国) https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=OLDP1200500339&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=OLDP1200500339%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=true&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=+OLDP1200500339

・金教献『神檀民史』1923年
(オンライン版:Harvard Yenching Library(1.2巻のみ) https://hollis.harvard.edu/primo-explore/fulldisplay?docid=01HVD_ALMA211935396810003941&context=L&vid=HVD2&lang=en_US&search_scope=everything&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=everything&query=lsr01,contains,005066685&mode=basic&offset=0 )


(以下は檀君系偽書関連 ─本文中ではあまり触れていないが、参考として掲げる)

・鹿島曻 訳『桓檀古記』新國民社 1982年(左記は初版だが、その後妙な改訂がされているため 改訂版(例:改訂第5版 1986年)を参照すべき) 

・『桓檀古記』原文: Wikisource: https://zh.wikisource.org/wiki/桓檀古記 

・『檀奇古史』:一応、「檀奇古史-大野勃」(『물음표 느낌표 ... 마침표™ 그리고 예향(睿響)』サイト内ページ https://sinabrodym.tistory.com/1951に資料があるようだ。 但し檀奇古史には各種修正版があり、内容が少しずつ異なっている模様。


・『揆園史話 | きえんしわ』原文: Wikisource: https://zh.wikisource.org/wiki/揆園史話 


引用文献・参考文献補足はここまで。
以下は、本文の内容に関する補注・または補足である。


補注1 檀君伝説の変形が契丹古伝ということはないと考え・・

本稿を作成するにあたり、確実を期すため自分はかなり無理をして 檀君関係資料をチェックし、檀君系偽書の原型的文書まであたっているので、軽々しくこの意見を述べているものでは ないことを申し添えて置きたい。


補注2 新羅の後継である王氏高麗

王氏高麗の王家は、高句麗人の出自であると主張したが、新羅の豪族の地位を基盤にしており、 その北に棲む女真族などから見れば新羅の延長に過ぎないと見られていた。
実際、『三国史記』はその高麗朝で正式に編纂した文書であるにもかかわらず、檀君の名は全く登場しない。 民間の僧侶が同時期に編纂した『三国遺事』の方にわずかに登場するのが檀君の名の初見である。
このことは、高麗王朝が檀君アイデンティティを持っていなかったことを示すものだろう。
高麗朝が編纂した三国史記の著者は新羅系有力層に属する金富軾 | きんふしきであって、三国史記の内容が 新羅・高句麗・百済の順に記述されていることからしても、高麗王朝が高句麗の後継とはいいがたい。

補注3 当初の檀君教は日本的な理念を持ち・・・

日本的なものに影響されてどこか共通した要素のある檀君教を作ったという ことであれば、羅喆は日本の宗教文化を肯定的に捉えたことになるのではなかろうか。
もちろん、当時の神道ナショナリズムの真似をしたに過ぎないという考えもあろうが、それは浅はかな 考えであろうと思う。
ちなみに金ヌリ氏は檀君教の教義が 交流のあった日本人の仏教系国粋思想に影響されたのではないか 云々と累々のべており、神道の影響が大きいとは見ていない。
羅喆が日本人と親しかった点についても、 大陸浪人のいざとなると荒々しい行為も辞さないところとウマがあったのではないか? といった趣旨のことを述べている。 (金ヌリ・Making Myth, History...p.170参照)。しかしこれは本筋を歪曲しているように思われる。

羅喆は創設メンバーのほとんどを自分と同じ全羅道の出身者で固めて檀君教(大倧教)を創設した。
彼は普段から多彩な人脈との交際があり、慶尚道人を多く含むナショナリズム団体?大韓自強会 にも加盟していたが、檀君教創設にその人脈は活用されていない。(補注4 参照)

補注4 慶尚道人材の活用例(補注3の注)

羅喆が慶尚道人達を活用したのは別の局面ではみられる。
朝鮮が日本の保護国になることを受け入れる意思決定に関与した李朝の大臣たちの暗殺を彼が謀った (1907年)とき、その主体は彼が新たに結成した自新会でありその幹部は彼と同じ全羅道の出身者が主体であった。
しかし、暗殺の実行役の人員を確保する必要性から、 普段彼が反対していた運動である抗日義兵運動(反日の挙兵により日本に対抗する運動)の 首領格を計画に加担させ、彼らが人員を調達した(佐々・創設p.187参照)。
この義兵の首領格には慶尚道人二人が 含まれており(同書p.181参照)、政権転覆を主張する羅喆に対し彼らは義兵再挙を主張して 一時対立したという。
羅喆の意図は日本に対し実力行使で抵抗するより、朝鮮国内の体制を刷新して自分たちの 人脈で日本と交渉する方が事を荒立てずに併合を阻止できるという判断だったらしい。
もっとも政権転覆は失敗し、併合が目前にせまる1909年に彼は大倧教を創設することになる。

補注5 新羅が二回登場する点について

最後の『神檀民史』の「民族系」で新羅が二回登場するのは、全く無から生じたのでは なく、新羅のルーツが複数あることを示している可能性がある。
現朝鮮語は「北ツングースの訛りの強いもの(村山七郎氏)」であるから、
新羅のルーツに北方要素があることは考えられる。しかしそうだとしても実際には扶餘の子孫ではなく、 その東部にいた異質な何かだったということになるのかもしれない。

補注6  平安南北より京畿{道}に亘って、檀君教は陰然として一勢力を・・・

1924年当時の檀君教というのは、分派檀君教(親日派)と大倧教の半島内支部の勢力とを指すと思われる。
一方、1920年代、大倧教の本部自体は満州において物資の乏しい中で抵抗活動を続けており、 そこへ各種義勇軍 が加わりソ連との関係でもさまざまな混乱があったという。
このような状況からも大倧教内部も 「神子神孫の理念に縁遠い人々」が相乗りし易い雰囲気が濃くなっていったと想像できる。

補足A 
明治に入ると、スサノオの尊と檀君を習合させて同一神とする見解 が日本でも盛んになったが、これについては15章の本文解説も参照。
契丹古伝的にはスサノオの尊と檀君王倹はキャラクターとして相違があることは既に述べたことでも お分かりのことと思う。
ただ、広い意味で関連するとしたときに、明治期の議論の影響下で、逆にスサナミコという祖神を偽造して 檀君と関連させるために契丹古伝を製作したのではないかという疑いがもたれることはありそうである。
しかし、偽造した割には浜名は「イソシ」「神の雄の檀君王倹」とか無理なことをして檀君信仰と つなげてみたりと奇妙なことをしている。少なくとも浜名が偽造してはいないと解される。
スサナという名は2章のスサボナとも関係し、古い神聖語と関係するように思えるので、失われたとしても 古い神格の可能性はあるだろう。全く他の神話群と無関係な呼称でもなく一定の普遍性も 看取しうると当研究会では見ている。それゆえスサナミコ偽造説は採らない。

補足B
(檀君の版図というものと契丹古伝の神子神孫の領域というものの比較についての補足)
この比較については本文で検討したが、論ずる際に非常に煩瑣に感じる点が一つある。
それは檀君の版図について各種のものがあり、日本列島を含めるものと含めないものがある点だ。
含めたバージョンを見れば、なるほど日本に利害関係ある話だということを納得しやすい。
しかし含めないバージョンの場合どうだろうか。日本と関係ないから彼らの勝手、で済むかと いう問題である。 (たとえば申采浩の考えは広域の檀君領域を考えるが、日本は異族として含めない。)
勝手で済まないと考えるべきだろう。なぜなら、 本来日本列島を含め、宗主国日本の管轄である神子神孫領域群というものにつき、日本以外の部分につき(特定の勢力が) 独占することが許されるかという問題になるからである。
この点については、日本書紀の一書のスサノオ半島降臨説の解釈から派生する「スサノオ尊領域= 檀君領域で、天照大神領域(日本列島)とは別」的考えが(明治期~戦前の同祖論の一部に)あり、かかる考えから 「独占が許される」と思われている節もあるが、誤りである。
あまりに長くなるため、必要があれば稿を改めて論じたい。
ただ、この下の補注・補足を含め、派生的問題は案外多く、細かい点で様々な切り口からの疑問が 呈されることは予想されるところである。しかし一々論じていても空虚感を感じるので、 適宜ご賢察頂ければ幸いである。(それでも一々論じた部分の中には何のための長文なのか全く見当が つきにくいものがあると思うが、時が解決する位のつもりでこだわらずに読んで頂くか、もしくは 徹底して検索するなどして解決するなどして頂ければよいと思う。)


補注7  部族神を探して祀るのが筋・・・

今西龍氏は、高句麗はツングース族であって韓族とは異なるとした。
そして、韓族は新羅の神を拝むべきとした。
これについては、拝む神を勝手に 指定するというのは外国から一種の政策的提案を押し付けてくることになり、言い過ぎではないかという考えもあろう。
しかし、今西氏は「民族の根本に遡って祖神を崇敬しようという選択を仮にする場合、新羅の神を掲揚すべき筋合いになる」 趣旨を述べただけで、実の祖神を掲揚することを強制しているわけではない。

確かにこの場合、だれがどの神を拝んでも自由という考えが一見妥当するようにも思える。
しかし、民族の歴史・発祥と緊密に結びついた神話である場合、それは一定の歴史に関する主張を 伴う。もし他族の神を自国の歴史的淵源としているなら、それは外国からみたその国に対する認識を誤らせる 可能性があるし、本来その神を拝んでいた種族に関連する人たちの権利を侵さないかという問題もある。
そもそも、言論は自由である(例えば宗教同士の批判等もありうる)のであるから、他国の神について 「『他人の歴史に口を出さない』を絶対ルールとせよ」とばかりに論評自体を禁止することはできないはずである。
さらに、論評を越えて積極的作為もしくは不作為を要求できるかということは別に問題となりうる。
今回の場合、統治権の範囲に、「国体を偽装する権利」を含むか あるいは「筋違いの神を勝手に国家神にすることは許されるか」という特殊な論点の登場とも捉えうる。
たしかに、社会常識として、国がある程度格好つけること自体は許されると思われる。
しかし、仮にその国民が全員同意していたとしても、 ①その格好つけの程度が極端で、かつそれが、 ②ある種の重要な文化破壊と密接な関連性を有し、しかも③その文化破壊にある程度密接な利害関係を 有する外国(人)等が存在した場合、当該利害関係者が「なぜこちらの神を拝まないのか」 もしくは「そちらの神を国体にすべきでない」と抗議する程度の事は、当然許されるものと解される。
これを今回の件についてみると、 ①偽装されるものと偽装する側の特徴の差が顕著であり②偽装を成就するため一定の文化的潮流に 属する遺跡を破壊するなどの醜行が行われ③その文化破壊等につき重大な利害関係を有する日本が存在している。
よって、当然ながら半島祖先神と称されるものについての強い指摘をすることは許容されると考える。

ちなみに、本稿でとりあげたその他の各論点については、より自由な論評が許されるだろう。
ある一つの国の歴史観等について、他の国による論評を拒むことは異常であると考える。


補足C

「当初の理念が薄れたにしても、ある程度残そうとした面もある大倧教」を戦後徐々に弱小化した勢力と して本文では説明し、「宗教性が薄められた檀君歴史に背乗りする一般半島人勢力」と対比して論じた。
ただ正確には、そのどちらに属するともいえない中間的な勢力が半島にはあるようだ。 これについては本文での言及は省略した。述べればあまりに長くなるし、結論に影響するとも思われないからだ。ただ、その一部については特殊な経緯により日本国内でも有る程度 知られているため、本稿に対して疑問を呈する理由づけに使われることもありえないではない。念のため 簡単に言及しておく。
まず、非檀君教的な新興宗教であるにもかかわらず、『桓檀古記』といった偽書を極めて重視し宣伝する 団体もある。解説書などを出版し、それを一般韓国人が購入するということも起きるようだ。こういう 微妙な現象もある。
また、これとは別に、仙人道系の団体は、北方山岳宗教の関係もあって檀君を仙人道の祖と主張することがある。 仙人・丹学系の精神修養団体や大学も存在はしており、檀君関係の研究をしたりするようだ。
ただその根拠となる書物『青鶴集』などについて偽書の疑惑もあり、また日本でも神道と仙人系は一応 趣が異なることも考慮し、本稿では重視しなかった。
もっとも、檀君教(大倧教)の経典にも自己修練法的な ものに相通じる箇所が少しだけある模様で、その関係で、時期によっては、仙人・丹学系の人間も濃密に大倧教に関与 することも生じるようだ。
そのような人物の一人がかつて日本で紹介されたことがあるようだが、 ここでこれ以上論じるべき内容ではないので省略といたしたい(その人物も檀君帝国的主張 をしていたはずだが、その宗教観・歴史観は当然このサイトの主張とは異なる。またこのサイトで論じるなら その人物の伯父が対日協力者として忌避される親日家であるとかの周辺事情にまで及んでしまうかもしれないが、 自分としては他のコンテンツを優先させたいのである)。


補足D 浜名氏の著書より10年以上前に日本で出版された著書における檀君論

契丹古伝と直接の関係はないが、浜名氏の著書以前に出版された著書で、浜名氏の著書でも時折引用されている 『日韓上古史の裏面』(椎川亀五郎著 1910年)にも檀君論があ(り、かつ日本と半島の関係について触れてい)るのだが、この書物への言及はあえて省略した。
この書物は殷朝を漢民族の系統とし、箕子も否定的に解するなどそもそも契丹古伝とは前提が大きく異なる。 また、半島全体が本来馬韓の領域で、その王家(辰王家)の廟(平壌所在)が馬韓の神である檀君を 祀っていたとし、馬韓は全く日本と同じ天降民族であり、半島全道が尊崇すべき神が檀君だとする(つまり天降民族の降りた地域は基本日本列島内で、それに半島のほぼ全域を加えたエリアに限定される)。その一方で、鴨緑江より北にはかつて漢民族の箕子にかぶれた高句麗 等の貊族がいて、(彼らも多少は天孫民族的文化をもつものの漢系文化や匈奴系文化をも保持しており)鴨緑江より南に侵入して平和な桃源郷 であった半島を乱したと捉える。そして新羅人は本来の馬韓人の残存で日本人同然の天降民族であり、貊族の百済・高句麗(もともとは侵入者で日本民族と同種の国でないという)に比べ上等であった[しかしその後中国文化にかぶれて堕落した] と扱っている。 (日本人+新羅人+百済南下前の馬韓人あたりを優等な天降民族で同祖とする 考えで、契丹古伝的表現に置き換えればムス氏(+新羅人)本家論の一種?のような感じである。) (檀君廟を半島全道人民が宗廟として尊崇すべきとする主張について日韓上古史の裏面(上)p.122参照。 その少し前のp.114辺りから檀君関係の記述があり、朝鮮の書物は檀君の国号が馬韓であるところを 朝鮮(古朝鮮のこと)と改竄したのだという。 この考えだと新羅人こそ檀君を拝む適格者ということになるはずだが、本稿でご紹介した諸事象とあまりに矛盾するため当該著書への言及は省いた。 (椎川説では、新羅の王家金氏は、旧王家朴氏が失った王位を回復できるように日本から派遣された貴族の可能性さえあるという。) もっとも、浜名氏は契丹古伝と矛盾しない範囲[プラスアルファ]で、椎川本を(ある意味過度に)利用してしまっているので、浜名説を詳しく調べた方はかえって 混乱されるおそれがなくもない。そのため老婆心ながらここで短くコメントさせて頂いた。 浜名氏の解釈する契丹古伝ともやはり距離のある解釈であるし、浜名氏の強引な部分を除去すればさらに大きく距離が開く書物といえよう。
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補足E 浜名氏の本音について

浜名氏は青柳氏に比べて朝鮮人に対する「門戸の開き方」の程度が大であることは本文で詳しく説明 した。例えば「今の鮮人の祖先は總て我と同一の風格を具へていたのであるが」と いう書き方をしている箇所がある(浜名・溯源 p.133)。
しかし、契丹古伝18章には新羅三姓の朴・金・昔を連想させる箔箘籍が非東大神族の出と されている箇所があり、この部分の解釈においては浜名氏は新羅王家三姓の非神族性について肯定している のである。また朴氏王家初代の赫居世 | かくきょせい(浜名氏の読み方ではホクセ) について「古伝説上のもの(神族で、倭人との関係がありうる)」と『異族の侵入者による「引直し」による自称』の二種類に分けて説明している (浜名 溯源p.448(詳解p.162)9~13行目参照)
この点については本文18章の解説も参照。


補注・補足ここまで

2022.12.27初稿
2023.09.30加筆

(c)東族古伝研究会