古記にいうのには、・・(前漢の)宣帝の神爵三(BC59)年・・に、ここでいう医州の医は、遼寧の医巫閭山の医をさし、大遼の医州とは その一帯の地域を指すと考えられているのだ[補注増補α]。
天帝が訖升骨城 大遼の医州の界にある に降り、・・・都を建てて 王と称し、国号を北扶余とし、解慕漱 と名乗った。
産んだ子の名を扶婁 といい、解を姓とした。
(『三国遺事』北扶余の項目の現代語訳。太字強調は引用者。)
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渤海人にあなたは分家だといわれた聖武天皇引用ここまで
突然あなたに電話がかかって、「こちらは成田空港警察署です。
実は先ほどブラジルから到着した人が、あなたの親戚だといっているので、迎えに来てください」
といわれたら、どんなに驚くだろうか。
家中もうてんやわんやで、「エェ、おじいちゃんのまたいとこが行方不明だったから、その人の子供 じゃないか」などから始まって、「その人はお金持ちかしら、お土産はなんだろう」とか、小さい子供は、 「ワタシ、ブラジルに連れてってもらうんだ」などといいだすに違いない。
同じことが奈良時代に起こったのである。神亀四年というから紀元七二七年、いまからおよそ一三〇〇年 の昔だが、(中略)満洲にあった渤海国の使節が突然入京したのである。
勿論ブラジルのおじさんと同じで、山のようなお土産もちゃんと持ってきたのだが、 問題は渤海王が聖武天皇の親戚だといったことであった。
いったいどうして満洲の王様が日本の天皇のご親戚なのか。
(中略)ひょっとすると、(中略)聖武天皇は(中略)ご先祖が満洲にいたのではないか。
戦後、学問の自由が保障されてから、こうした想像も自由であるが、 真相を確かめるには、まず文献を読む必要があろう。
(中略){渤海使の}一行は{日本に到着・入京した神亀四年の}翌神亀五年正月庚子(三日)拝朝、 甲寅(十七日)の日、武藝(二代王。七一九~七三七)からの国書方物を献上したが、その書は、
「武芸啓。山河異域、国土不同。延聴風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。 武藝忝当列国濫惣諸蕃、復高麗之旧居、有扶余之遺俗。但以天崖路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、 親仁結援、庶叶前経、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠将軍郎将高仁義・游将軍果毅都尉徳周・別将舎那婁等 廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。土冝雖賤用表献芹之誠、皮幣非珍、還慙掩口之誚、 主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好」
と述べている。
漢字だらけで読みにくいが、それは親戚だから仕方あるまい。
(中略)
我が国の歴史学者はあえて言及を避けてきたが、神亀五年の渤海使の国書は重大な内容を含んでいる。
「大王の天朝は命を受け、日本は開基す。奕葉重光し本枝百世なり。
武芸・・・高麗の旧居を復し、扶余の遺俗有り」という文章は、
⑴渤海は扶余の後継者であり、
⑵渤海と日本は本枝の関係にある。従って、
⑶大王の日本もまた扶余の後継者である、
と主張しているからである。{引用者注:「本枝 」は「本家とその子孫(分家)」の意味}
(中略)渤海の国書がウソなのか。『日本書紀』がウソなのか。歴史家がこの問題にケジメを つけないのは怠慢ではないか。
(中略){[引き続き以下も鹿島氏の著書からの引用部分である]}
渤海の国書は正しかった
(中略)それ以外にも{日本書紀のウソを示す}史書が残っていた。それは
明治時代の朝鮮総督府が、(中略)朝鮮全土の史書を掠奪させたとき、偽史シンジケートにとって、 「最も危険な史書」とされ、太白教徒によって命がけで今日に伝えられた『桓檀古記』という書物 であって、これを本書{(北倭記)}と綜合すると、失われた歴史はリアルに再現できるのである。
(中略)このなかには、失われた渤海国史を語る「大震国本紀」が残っていて、(中略) ここに登場する「扶余国王依慮の子・依羅が倭王になった」ことが事実ならば、それは(中略)即ち 崇神{天皇}以外ないのである。(中略)
渤海国が「扶余の子孫であり日本と本枝の関係にある」と主張したのは、 まさにこのことを云ったのである。
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『源氏物語』の読者は、「高麗人」はかつて交流のあった渤海使との認識をいだきながら読み進めた ことであろう。(中略)好感をもって印象づけられる点において、「敵国」とされた新羅とは 好対照と評してよいであろう。 (『石井正敏著作集 第一巻』勉誠出版 2017年 p.384)もちろん日本渤海間の交流素材には漢詩文などの中国文化が多くなってくるのではあるが、 半島の政権(王氏高麗、支配層にいるのは旧新羅系)にも当然中国文化が流入して吸収はされていた。
・・渤海が日本への国書にこの一句{高麗の旧居を復し}を挿入しているのは、決して対日外交 のための説辞─(中略)─ではなく、自国渤海の建国・由来を具体的に示し、かつ往時の大国高句麗を 表面に出して自国の立場を主張したものに他ならないであろう。 (石井正敏『日本渤海交渉史の研究』吉川弘文館 2001年 p.266. 太字強調及び{}内補足は引用者)
It is my understanding that your majesty’s Heavenly Court has received the mandate and laid the foundations of rule in the realm of Japan [日本]. Prospering generation after generation, the glory of your polity extends a hundred ages beyond the time of your forefathers. With due humility, I preside over a large state [列國], and I have in my charge various frontier territories [諸藩].
(Morley, Brendan Arkell "Poetry and Diplomacy in Early Heian Japan: The Embassy of Wang Hyoryŏm from Parhae to the Kōnin Court"
Journal of the American Oriental Society Vol.136, No.2 American Oriental Society, 2016. p.345.)
(現代語訳)
欽茂が申し上げます。(両国の)山河ははるかに隔絶し、国土ははるかに遠く離れております。
たたずんで日本の政教による徳治を望み見ますと、ただ心を傾け仰ぎ見る思いを増すばかりであります。
伏して思いますことには、天皇の尊い御考えやこのうえない徳ははるか遠くまで広がり、 代々立派な君主が現れて、その恩沢はすべての一般国民にまで及んでいます。
(一方)欽茂はかたじけなくも、祖先以来の業をうけついで、分不相応にも民を統括しておりますことは 始めと変わりありません。義を国内にいきわたらせて、なさけ深い統治を心がけ、つねに隣国と友好の 関係を保つようにしております。
いま日本からの使者である(平群)広業らが、風や潮の状態が悪く、漂流没落して渤海国に来ました。
そこでつねに丁重なもてなしをし、来春を待って帰国させようと思いましたが、
使者は前に進むことだけを欲し、今年中の帰国を強く要請します。
彼らの訴えの言葉ははなはだ重く、隣国との義理は軽いものではありません。
よって旅行に必要な品を準備しすぐさま出発させることとし、そこで 若忽州都督の胥要徳らを指名して使とし、広業らをひきつれて日本に送らせます。
あわせて虎の皮と羆の皮をそれぞれ七張、豹の皮を六張、人参を三十斤、蜂蜜三石を つけて進上いたします。日本の国に到着次第、調べてお納め下さい。