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契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(トップページ)

契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(本文解説ページ)

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東大神族の本宗家の権利は結局日本の | みかどが保有 (超重要)
 ~半島経営・渤海関係論から見えてくる真相~

(要旨)
契丹古伝第5章では、日孫降臨後、東族の移動にともない二つの辰沄氏が生じ、「二 | そう」となったと記されている。
これにより二大祖系が生じるため、本宗家が二つあると捉えられてきた(東表 | とうひょうを別にして)。
いずれにしても 「殷朝 | いんちょうの敗北・移動の果てに『辰沄氏 | しうし殷』の権利は消滅した」 と契丹王家は捉えており、その 権利の継承を天から命じられたと41章以降で主張する契丹王家は「自称本宗家」であったといえる。
しかしこれでは本宗家の地位にブランクが生ずることから、契丹王家の立場を離れて本宗家の所在を検討する 価値はある。(自説を含め、第2章・3章で日孫の日本出生説を採らない説からは、重要性の高い検討である。)

この点について、日本の半島に対する権利主張の歴史を追うことが有用である。 また、日本の歴史上、 | こう句麗 | くり百済 | くだらに対する扱いと新羅 | しらぎに対する扱いの差が顕著であることから、 新羅の企みにより滅ぼされて消滅した高句麗・百済の方がまともな神子神孫国であるといえる (新羅はその点大きく異なっている)。
そして同時に、その高句麗より上位に立つ日本は本宗家格を持っていたといえる。

高句麗の継承者と自任した渤海 | ぼっかい国に対し、平安時代の日本は強い立場で接し、朝貢を受けてきた。
渤海と日本が本家・分家の関係にあると主張した鹿島曻氏の説は全くの誤謬である。
日本・渤海関係史を丁寧に読むことで、日本は渤海の「天孫」主張を封じることのできる立場にあったと 判明する。
これにより日本は、本宗家の格式を持つ存在であると考えることができよう。

要旨ここまで

(本文)

契丹古伝では、日孫スサナミコの医巫 | いふ | りょ山降臨と中国大陸への移動に伴い、二つの辰沄氏が生じ それが「二宗 | にそう」とされている(第5章)。そこから、東夷の本宗家として、中国大陸系の本宗家と 遼寧の医巫閭山の本宗家の二つが考えられていることは太公望篇でも詳述した。
これらの本宗家の在り方や行く末については、興味を持つ人も多いと思う。
ただそれだけに解釈者によって位置付けが異なる面がある(そのことについても太公望篇では触れている)。

注 本宗家の解釈者による相違の例

浜名氏は、①医巫閭山系辰沄氏が中国へ移動して宗家の一つとなり、
②もう一つの宗家アシタ系辰沄氏が半島・満州を統治し、後に統治範囲を半島部分のみへと縮小させつつも平壌を中心に辰朝として存続した、
とする(浜名・遡源p.340,詳解p.54参照)が、辰朝は牟須氏系であるため別系統と思われ疑問が残る。

一方自説においては、医巫閭山系辰沄氏は降臨地の留守番的な存在として満洲の現地にとどまったものと考え、 中国へ移動したほうがアシ系辰沄氏であると捉える。しかも11章のアシタは平壌ではなくせいぜい 移動前の辰沄氏が医巫閭山付近に置いた都にすぎないと考える。
(ここでは以下、基本的に自説によって記述していく。)


自説の場合、中国大陸系の本宗家は最後に殷朝として現れる。
この殷朝は、殷周革命後医巫閭山経由で東へ移動し、衛満に遼東で(紀元前195年に)滅ぼされたと 第30・34章等からは読み取れる。
また自説の場合、次のように解釈できる余地がある。衛満に敗れた殷王は半島を南下し辰王の地位を譲り受け 「ヒミ辰沄氏の辰」となって、その後、40章(『洲鮮記』)で滅びた、と。

後者の考えを採用した場合でも、本宗家の殷(ヒミ氏辰)は大雑把にいって紀元後3世紀初頭の頃には すでに消滅していたことになる。(前者ならもっと早期に消滅。)
そして、40章ではその本宗家たる殷に代わる「真人」が待望されており、それが実は 10世紀の契丹皇帝だった というのが契丹古伝の筋書きである。

つまり契丹古伝の筋書き上、契丹皇帝が登場するまでの間、大陸系本宗家は「空位」で、せいぜい理屈上は 医巫閭山系本宗家がどこかにあるかも?ということになる。
(浜名説なら当初から日本列島内に東表の本宗家が別途 存在したはずだが、自説はそのことについて否定に解する⇒太公望篇内の本宗家論参照)

医巫閭山本宗家は、殷が遼寧で活動していた第30~32章の時点ではその近辺に姿を見せていないから、 当時その実態が希薄化していたものと思われる。(もしくは遠方に移転していたとか。)注※
いずれにしても第40章の最後で契丹は殷朝の権威の代替を企図しており、医巫閭山系本宗家を探す様子は 見られないから、基本、契丹古伝編者の編集意図として、本家は空席という感じで読むことに不自然さはない と思う。

(注※ ちなみに、ここで浜名説を出すと複雑になるので控えておきたい所だが、浜名説を少しアレンジ すると、「医巫閭山系本宗家は牟須氏の辰朝と統合して辰朝となっていた」、 などという解釈も(少し苦しいが)一応ありうるかもしれない(?)。
だがこの統合説をとった場合、辰朝自体3世紀には消滅しているから、その消滅の際にその本宗家(的な何か) も もろともに消滅したということになり、その後は結局(丹鶏出現までは)不存在ということになってしまう。)


このように、契丹王家としての立場は「40章の後、本家は(丹鶏の奇瑞までの間は)空席」だろうが、
現実の問題としてはたしてそうだったろうか。
やはり本宗家を名乗りたい勢力は多いはずで、さまざまな主張が絡みあいながらも  やはりいずれかの勢力が本宗家格と扱われたのであろうと考えることはできるだろう。

それでは、どの勢力が本宗家なのかということが問題となる。
ちなみにこれは契丹王家の殷朝後継論をあえて無視した議論なので、原文一部否定的な話になるが、 事柄の性質上、論じることが許されるものだと思う。

しかし、論じるといっても、なかなか難しい面がある。
例えば、40章の洲鮮記の辰の後始末問題を検討するとなると、
イヨトメ問題などの超難問論点が控えており、安易に答えを出せるという性質のものではない。
また、人によっては、医巫閭山系本宗家はどうなったのだなどと言いだして混乱しそうである。


それで、そのあたりの後継論については、あえて放置したままにしておき、本宗家の所在につき 別の角度からシンプルに検討してみた。
その結果得た結論だけを言えば次のようになる。

 「日本の帝は、東大神族の本宗家の宗主の資格を持ち、それを実効化させることもしていた。」
 「よって日本は東大神族の本宗国である。」


宗主の資格を保有する経緯については、依然不明なままとしておくが、とにかく日本の天皇は、東大神族の 本宗家の宗主である、という考えである。

なぜそういえるのか、以下で検討していきたい。
この問題は、そもそも、従来、浜名説では、日本が東表という特別の本宗家の位置を最初から保持していたという 設定になるので、論じる必要性がなかったのである。しかし、自説の場合、そのような設定にならないことから、 論点として実は重大性を帯びてくることになる。

また、そもそも浜名氏は、「大倭神話」と「大陸神話」で共通なのは日神(天照大神的存在)で、スサナミコは後者にしか 存在しないとする(契丹古伝の始祖神話と日本神話 その1参照)。
つまり浜名説では日本の帝は日神の子孫ではあるが日孫スサナミコの子孫ではなく、日神の別系統の子孫ということになる。

この構成を当サイトでは採らないことに注意されたい。 (契丹古伝では5章のムス氏も含めみな神祖すなわち日孫スサナミコ の子孫である(40章参照)し、7章・8章からアキは古の日本とされる(遡源p.358, 詳解p.72参照)が、 このアキは8章で他の東大神族と並列されスサナアキヒ系であると記されていることを参照されたい。)
むしろ、当サイトでは、 スサナミコ相当存在が本来の日本神話に存在したと考えている (契丹古伝の始祖神話と日本神話 その1の末尾参照)。
具体的には「日祖・日孫を始祖とする王朝」が、ある時点(日孫のずっと後の子孫の時点)で仕切り直しをして 現在の日本神話ができたと見ている。 契丹古伝の始祖神話と日本神話 その5参照。 (詳しくは契丹古伝の始祖神話と日本神話全体、特に母子神関連部分を参照されたい)

従って当サイトで本宗家というのは、日孫の子孫すなわち神子神孫の中の本宗家という意味である。


さて、そもそも、日本列島にはもともと東大神族と縁遠い(注▼)縄文人が古くから住みついていたと 思われる(当サイト内「殷朝の敗北と弥生時代の開始(重要)」参照)が、そのことは今は置いておく。
(注▼もちろん縄文人にもさまざまな交流があったとは思うが、今は単純化して述べる。)

日本人の遺伝子については基本的に 各人90%程度は非縄文由来の遺伝子 を有しており(個人差あり)、これが東大神族と関係してくる。
列島に入った東大神族についていえば、彼らの中で最初に日本列島内で勢力をもったのは、  アシムス氏系東表勢力や潢弭系勢力であろうと考える。
彼らは海洋文化と親和的な面があり、これがいわゆる倭の百余国と関係する勢力であると捉えたい。
彼らは彼らなりに王家的なものをもっていたと思われるが、それは | みかどの王朝ではないと考える。

その後、帝の一族が力を持って列島を支配することになった。
この帝の一族は、それまでの列島の支配者と異なり、何らかの理由で本宗家の権利をもっていたと 考えるのである。(また、先行の東表系等の権利をも引き継いだと考えられる。)

では、あらためて、なぜそういえるのか。
そもそも、日本の帝が、半島の新羅や百済から朝貢を受ける立場であったことは、
日本書紀に再三記されている。
ただ、この位であれば、本宗家の権利を持っていなくても可能であったことはたしかである。
ところが、日本は、高句麗にも臣下の礼を要求したのである。
そこまで要求するには、かなりの権利を持っていなくてはならない。
こういうと、新羅や百済と高句麗がどう違うのか?と疑問を持つ人が当然出てくる。
これは、結局半島の歴史についての基礎知識プラスアルファが必要になるが、本稿の主目的とは 別の方面の話になるので、興味ある方は各自検索などで対処して頂ければと思う。
(プラスアルファというのは学問上幻の王朝ともされる馬韓の辰王国関係などである。)

しかし一応簡潔に記しておこう。
新羅の前身である「斯盧 | しろ国」(辰韓諸国の1つ)や百済の前身である「伯済国」(馬韓諸国の1つ)も半島の 南半分にあった国の一つで、 かつて馬韓の辰王(契丹古伝37章でいえば安冕辰沄氏や賁弥辰沄氏)の管轄下にあったといえる。
これに対し、辰王国のあった場所より北、満州方面にまたがり存在した高句麗は別である
(契丹古伝38章でいえば馬韓の辰王が一定のオファーをして「招く」存在)。
高句麗は馬韓の辰王の属国とまでは言い難いだろう。

もちろん、日本が伝統的に半島の新羅や百済から朝貢を受ける立場であった理由は史書に明確に記述 されていない。(それが馬韓の辰王の権利とリンクするのか興味ある方はおられると思うが、
本稿ではそのことの検討も棚上げにするのでなにとぞ諒解されたい。)

いずれにせよ先にも書いたように、日本は、高句麗からも貢納を受ける立場にあると主張していたのである。
となると、これは本宗家の地位に基づいた主張である可能性が出てくる。
(なお、本サイトを熟読された方はこの点についても辰王との関連性云々のご指摘をなさろうとするかも しれないが、本稿はその点も含め棚上げにした上での別発想の検討なのでご留意賜りたい。)


高句麗は、唐に隣接する国で唐からも警戒されていた存在である。唐からは新羅よりも はるかに重要なものとして見られていた。もちろん最後は唐と新羅が結託する中、 唐によって滅ぼされるのではあるが、公開土王 | こうかいどおう(好太王 | こうたいおう)の碑文にもあるように、倭と争ったことも あった強力な国である。
今現在、中国と北朝鮮の西部境界は鴨緑江である(契丹古伝10章の閼覆禄大水)が、
高句麗の領土はこの鴨緑江の北にも及び、遼寧を含む満州方面をも領有していた。
ここで留意すべきなのは、高句麗の王家は扶余 | ふよ系とされ、 | はく族であるとされる点だ。

扶余 | ふよは、契丹古伝にも潘耶として登場する東大神族の国であり、 満州東部に5世紀ごろまで存在した国である。ただ、どうやらその発祥はもっと西寄りだったらしい。

なぜなら、扶余の始祖神話には次のように、扶余の一般的領域よりも西に離れた場所が登場してくるのだ。
古記にいうのには、・・(前漢の)宣帝の神爵三(BC59)年・・に、
天帝が訖升骨城 大遼の医州の界にある に降り、・・・都を建てて 王と称し、国号を北扶余とし、解慕漱 | かいぼそう と名乗った。
産んだ子の名を扶婁 | ふるといい、解を姓とした。
(『三国遺事』北扶余の項目の現代語訳。太字強調は引用者。)
ここでいう医州の医は、遼寧の医巫閭山の医をさし、大遼の医州とは その一帯の地域を指すと考えられているのだ[補注増補α]
この神話は、父神(解慕漱)─子神(解扶婁)のパターンとなっており、契丹古伝とは異なるが、 医巫閭山一帯を舞台としているため、契丹古伝との関係の有無に興味が持たれる。
(ただ、扶余国の領域自体は遼寧よりはるかに東北寄りの地である。)

そして、その扶余系の国と言われるのが高句麗である。
今、私たちは、高句麗も百済も新羅も同じ朝鮮人の国家と思いがちである。
しかし、日本書紀を読めば、新羅に対する扱いが 高句麗や百済に対して格段に低いのが分かる。新羅は日本の朝廷に対して礼を失したとして 再三非難されている(「補注2 新羅の無礼について」参照)
新羅は唐をうまく利用することにより、結局百済も高句麗をも滅亡に至らせたのだが、 その際、倭も百済を救援して白村江の戦いで敗れたという事情があった。そこでこのときばかりは 新羅も思惑があったのか例外的に日本に朝貢し、日本から比較的丁寧に扱われている。
だがその後再び新羅は日本への朝貢を止めてしまい、険悪な関係に逆戻りする。

百済も、一時期南扶余と国号を改めた(都を泗沘[現・忠清南道扶餘郡]に置いていた時期の話)ことからもわかるように、 扶余系と自称していた国である (そのため中国に対しては扶余の余の一字を採って苗字として称したりしていた)。

このような経緯からすると、日本から見て高句麗・百済と新羅との間に大きな開きがあったことが 分かる。
扶余系貊族の国である高句麗は契丹古伝的に見ても東大神族の有力な部族の流れであるといえるが、 新羅はそうではないのではないか。
契丹古伝18章で、兇狠な箔箘籍が半島南部の辰国に入ったという記載があるが、 箔箘籍が新羅王家の朴金昔の三姓を指す可能性があることは昔から指摘されている。
このことについても検討を保留したままであったので申し訳ないが、 この部分の原資料の執筆者が持つ、新羅に対する冷たい視線を感じることはできよう。 (つまりそれは新羅を非東大神族とみなしていることになり、 そうであれば牟須氏にさえ含まれないことになるのである。)

高句麗(および百済)と新羅との間には、種族的な差異が相当あったと考えた方がよさそうである。

そして、新羅の当初の主要地域は、現在でいえば半島東南部の慶尚 | けいしょう(キョンサン)北道・慶尚南道であるが、
現在韓国で事実上一番重んじられているのは、やはりその慶尚道出身者なのである。
要するに新羅は高句麗・百済の地を併合し「統一新羅」とした後、半島全部を新羅色に染め上げたのだ。
つまり、典型的な朝鮮人というのは、旧新羅人のことを指すと考えてよい。 そして高句麗・百済の旧民は抑圧されて減少していき、生き残った民の血も薄まっていったと考えられる。


ちなみに新羅が10世紀初頭に滅び、それに代わって王建という人物が半島内に高麗(扶余系の高句麗とは 場所も時期も異なるので注意) を建国して半島を統治し、それが滅びたあと14世紀末に李成桂が李氏朝鮮を建てる (その後1910年日本に併合、戦後大韓民国などとなる) が、慶尚 | けいしょう道人の支配階層としての優位性は今日でも揺らいでいない。

これは私たちが勘違いし易い点であり、かつ重要な点であると考えられる。
(なお、新羅といっても最も古い時代等はまた別の要素があるため、区別する必要もあるが本稿では 省略する。)
要するに今私たちが「朝鮮人」という時、それは、新羅が高句麗・百済の地を併合し「統一新羅」 として半島を新羅色に染め上げていった中で、それ以降になって初めて出来上がった存在ということになる。
しかも蒙古の侵入なども介在しているのである。

日本から見た場合、高句麗は日本の帝よりは格下だが、それなりにしっかりとした神子神孫であったと考える のが適当であろう。
(もちろん考古学上扶余と高句麗は墓制が違うなど、色々指摘されてはいるが、 広い意味で高句麗は扶余系勢力と認知されていたと考えられる。)

実際日本書紀で、孝徳天皇の大化元年7月、高句麗の使いが朝廷に貢物を奉った際、天皇が発された | みことのりの中に 次のような箇所がある。
(原文)
天皇所遣之使、与高麗神子奉遣之使、既往短而将来長。(以下略)

(現代語訳)
天皇の遣わす使いと、高麗 | こまの神の子との遣わしてくる使いとのゆききは、 これまでより将来はるかに長く続くことであろう。(以下略)

(現代語訳は井上光貞監訳・笹山晴生訳『日本書紀(下)』中央公論新社 2020年 p.256による)
ここでいう「高麗の神の子」とは高句麗の王を指すことは明らかであり、高句麗の王を高麗の神の子孫と 日本が認めていることになる。
(ここでいう高麗 | こま は、高句麗を指すのであって、10世紀に王建が建てた高麗 | こうらい朝とは無関係 なので注意)
高句麗の始祖朱蒙が天帝の子であるという神話を高句麗は持っていたから、それをある程度顧慮した表現と いえ、高句麗の王に対し日本がそれなりの格を認めていることが窺われよう。

高句麗が契丹古伝上どの勢力に該当するかという問題もある。おそらく 第38章の高令にあたる国ではないかと思われるが、いずれにせよ伯族の国で 神子神孫ということではあると考えられる。

高句麗は遼寧を含む満州にも広い領土をもつ国であり、倭と戦ったこともあった。
中国からすれば高句麗は戦争の相手となることも多く、倭と比べてはるかに警戒すべき国であった。 しかし、高句麗が新羅対策の必要などの事情で倭に対し通好を求めてきたとき、
倭(日本)は高句麗に対し臣下の礼を要求している。
日本にはそれだけの自負があったということである。
それは日本が東大古族の本宗家だからではないのだろうか。


○高句麗の後継国家「渤海」は日本に朝貢していた

渤海 | ぼっかい」という国が満州東部にかつて存在していた。

これは高句麗の遺民が靺鞨 | まっかつ族と共に建てた国である。
渤海国は高句麗の貴族を擁すると称し、高句麗の再興であると誇ったのだ。 画像が表示されない場合があります。ご了承ください。 渤海(8~9世紀当時の最大領域のイメージ) [CraftMap(http://www.craftmap.box-i.net/)提供の白地図を加工して使用しています]

もっとも渤海国の支配下にある一般人は靺鞨 | まっかつ族が多数をしめていた。
靺鞨 | まっかつというとやや辺境民感がある。
こうした事情などから、渤海の実態が高句麗なのか靺鞨 | まっかつなのか疑問を投げかける説もあり、 昔から議論がなされている。 (この点の詳しい説明は補足1と補注追加Cに記載してある)

だが重要なことは、日本は渤海をあくまで高句麗の再興として扱ったということである。
渤海からの使節(貴族)に対し日本の貴族は貴族同士としての交流を行ったし、彼らに与えた待遇(官位)も
靺鞨 | まっかつ人に対するものにしては良すぎるものなのである。
日本は渤海の一般人にマッカツが多く、支配層に高句麗人が多いことは把握していた。
そのように把握した上での処遇なのであるから、「渤海」がただのマッカツというのは誤りであろう。

渤海は当初「震国」と称していた。これは契丹古伝でいう辰沄氏の国ということであり、 東大神族の国であることはあきらかだろう。
また契丹古伝編纂の際に使用された資料の多くが渤海関係のものであるとは浜名氏以来の通説である。

さて、重要なことは、この高句麗の再興である渤海国は、日本に対して朝貢していたということ なのである。
日本は渤海を高句麗の後身として扱い、高句麗同様に日本への従属を求めていた。 そして一時期トラブルがなかったわけではないが、結局日本に臣属したのである。
この点に関し重大なデマも流布されているので、この際丁寧にみていこう。

渤海と日本との関係でよく引用されるものに、渤海第2代国王・大武藝が日本の聖武天皇 にあてた国書がある。

ところがこの国書についてとんでもないデマが流されている。
それは、「当該国書の中に『渤海が本家で日本は分家』と記されている」というものだ。
このようなひどいデマが何十年も流布され続けているのだから驚異である。

●鹿島 | のぼるによる日本渤海交渉史の歪曲
~「日本は渤海の分家」説という完全な誤りを流布した鹿島氏

故・鹿島曻氏は古史古伝の有名解釈者の一人だが、彼は このデマを氏の各種の著書に繰り返し掲載している。
あまりにも重大な誤りなのでできるだけ正確に引用する。氏の書き方をよくご覧頂きたい
({ }で括った部分は引用者による補足。太字強調も引用者による)。

引用ここから
渤海人にあなたは分家だといわれた聖武天皇

突然あなたに電話がかかって、「こちらは成田空港警察署です。
実は先ほどブラジルから到着した人が、あなたの親戚だといっているので、迎えに来てください」
といわれたら、どんなに驚くだろうか。
 家中もうてんやわんやで、「エェ、おじいちゃんのまたいとこが行方不明だったから、その人の子供 じゃないか」などから始まって、「その人はお金持ちかしら、お土産はなんだろう」とか、小さい子供は、 「ワタシ、ブラジルに連れてってもらうんだ」などといいだすに違いない。
 同じことが奈良時代に起こったのである。神亀四年というから紀元七二七年、いまからおよそ一三〇〇年 の昔だが、(中略)満洲にあった渤海国の使節が突然入京したのである。
 勿論ブラジルのおじさんと同じで、山のようなお土産もちゃんと持ってきたのだが、 問題は渤海王が聖武天皇の親戚だといったことであった。
 いったいどうして満洲の王様が日本の天皇のご親戚なのか。
(中略)ひょっとすると、(中略)聖武天皇は(中略)ご先祖が満洲にいたのではないか。
 戦後、学問の自由が保障されてから、こうした想像も自由であるが、 真相を確かめるには、まず文献を読む必要があろう。
(中略){渤海使の}一行は{日本に到着・入京した神亀四年の}翌神亀五年正月庚子(三日)拝朝、 甲寅(十七日)の日、武藝(二代王。七一九~七三七)からの国書方物を献上したが、その書は、
「武芸啓。山河異域、国土不同。延聴風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。 武藝忝当列国濫惣諸蕃、復高麗之旧居、有扶余之遺俗。但以天崖路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、 親仁結援、庶叶前経、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠将軍郎将高仁義・游将軍果毅都尉徳周・別将舎那婁等 廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。土冝雖賤用表献芹之誠、皮幣非珍、還慙掩口之誚、 主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好」
と述べている。

漢字だらけで読みにくいが、それは親戚だから仕方あるまい。
(中略)
 我が国の歴史学者はあえて言及を避けてきたが、神亀五年の渤海使の国書は重大な内容を含んでいる。
「大王の天朝は命を受け、日本は開基す。奕葉重光し本枝百世なり。
武芸・・・高麗の旧居を復し、扶余の遺俗有り」という文章は、
 ⑴渤海は扶余の後継者であり、
 ⑵渤海と日本は本枝の関係にある。従って、
 ⑶大王の日本もまた扶余の後継者である、
と主張しているからである。{引用者注:「本枝 | ほんし」は「本家とその子孫(分家)」の意味}
(中略)渤海の国書がウソなのか。『日本書紀』がウソなのか。歴史家がこの問題にケジメを つけないのは怠慢ではないか。
(中略){[引き続き以下も鹿島氏の著書からの引用部分である]}

渤海の国書は正しかった

(中略)それ以外にも{日本書紀のウソを示す}史書が残っていた。それは
明治時代の朝鮮総督府が、(中略)朝鮮全土の史書を掠奪させたとき、偽史シンジケートにとって、 「最も危険な史書」とされ、太白教徒によって命がけで今日に伝えられた『桓檀古記』という書物 であって、これを本書{(北倭記)}と綜合すると、失われた歴史はリアルに再現できるのである。
(中略)このなかには、失われた渤海国史を語る「大震国本紀」が残っていて、(中略) ここに登場する「扶余国王依慮の子・依羅が倭王になった」ことが事実ならば、それは(中略)即ち 崇神{天皇}以外ないのである。(中略)
 渤海国が「扶余の子孫であり日本と本枝の関係にある」と主張したのは、 まさにこのことを云ったのである。
引用ここまで
(鹿島曻『北倭記』新國民社 1986年 p.58-p.59)

鹿島氏によるこのような渤海・日本 間の「本家・枝国関係論」 は1982年ごろから各種の著書で繰り返されているため、古代史好きの方は どこかで目にされた方も多いのではないだろうか。
インターネット上でも、日本の老舗サイトで昔から掲載されているなど、複数のサイトで目にすることができる。
さらに、韓国のサイトでも同様のようで、「渤海」「本枝」をハングル変換して検索するとそのような 主張が当然の前提になっているブログなどが散見される。

しかし、これがあまりにお粗末な誤りであり、知識のある人なら一発で見抜けておかしくないほどなのだ。
実際、歴史系掲示板などで簡潔な否定論を私も見かけたことがある。しかし、簡潔すぎるためか目立たず、 一向に誤謬が垂れ流されている状態が止まないのである。

そこで、渤海王の国書の内容を以下に現代語訳してみるので、どこが問題だったのかご覧頂きたい。
(原文)
武藝啓。山河異域、国土不同。延聴風猷、但増傾仰。伏惟、大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。 武藝忝当列国、濫揔諸蕃。復高麗之旧居、有扶餘之遺俗。但以天崖路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問。 親仁結援、庶叶前経、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠将軍郎将高仁義、游将軍果毅都尉徳周、別将舎那婁等 廿四人、齎状、并附貂皮三百張、奉送。土冝雖賤、用表献芹之誠。皮幣非珍、還慙掩口之誚。 生理有限、披胆未期。時嗣音徽、永敦隣好。
               (読み下し)[赤字のフリガナは現代仮名づかいによる]
武藝 | もうす。山河 域を | ことにして国土 同じからず。 | ほのかに風猷 | ふういうを聴きて、 | ただ傾仰 | けいこうを増す。 伏して | おもいみれば、大王の天朝 命を受けて、日本 | もといを開き、奕葉 | えきよう | ひかりを重ねて、 | ほん | 百世 | ひゃくせいなり。 武藝 | かたじけなくも列国に当りて | みだりに諸蕃を揔ぶ。高麗の旧居に | かえりて扶餘 | ふよの遺俗を | たもてり。 但し、天崖の | みち | へだたり、海漢 | はるかなるを以て、音耗通 | いんこうかよ | ず、吉凶問ふ | とうことを絶てり。 親仁結援、前経に | かな | | こいねが | 。使を | かよ | して隣を聘ふ | とうこと、今日より始めんとす。 謹みて寧遠将軍郎将高仁義、游将軍果毅都尉徳周、別将舎那婁ら廿四人を | つかわして、 | ふみ | もたらし、 | あわせて貂の皮三百張を附けて送り奉る。土冝 | くにつもの | いや しと | いえども、 | もちて献芹の誠を | あらわさんとす。 皮幣 | めずらかに非ず。 | かえりて掩口 | えんこう | せめ慙づ | はず。生理限り有り。披胆 | ひたん期せず。 時 音徽 | いんきを嗣ぎて、永く隣の | よしみ | あつくせん。

(現代語訳)
武藝(渤海2代目の国王の名。姓は大氏。姓+名の表記なら大 武藝。)が申し上げます。(両国の)山河は領域を異にし、国土は遠く離れた別の場所にあります。
遥かに日本の政教による徳治のうわさを聞き、ただ心を傾け | あおぎ見る思いを増すばかりであります。
伏して思いますことには、(かつて)大王さまの朝廷におかれては天の命を受けて、 日本の国の基礎が開かれました。
その開基以来、代々立派な君主が現れ、開祖の子孫が百代までも末広がりに栄えておられます。
(一方)武藝はかたじけなくも、列国の一つとして、分不相応にも諸蛮民を支配しており、高句麗の旧領土を 回復し、扶余の古い風俗を保っております。ただし日本とははるかに遠くへだたり、海や河があいだに ひろびろと広がっているため、音信は通じず、慶弔を問うこともありませんでした。
徳のある方と親しくよしみを結ぶことを、古い書物の教えの通りに [or古の日本・高句麗間の友好にならって]行いたいと思います。 使者を通わして隣国としての親交を結ぶことを今日から始めたいのです。

そこで謹んで寧遠将軍郎将の高仁義、游将軍果毅都尉の徳周、別将の舎那婁ら二十四人を派遣して 書状を進め、あわせて | てんの皮三百枚を持たせてお送り申し上げます。
土地の産物はつまらぬ物ですが、これにより献上の誠意を示したいと存じます。
皮革の贈り物は珍しいものではないため、かえって失笑を買って責められることを恥じ恐れます。
人にとって割くことの許される時間には限りがあり、自分の真心を十分お伝えできるには足りません。 機会があるごとに音信を継続して、永く隣国の友好を厚くしたいと思います。



以下、特に注記のない限り、日本渤海間の国書については 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸 校注『続日本紀』一~五 岩波書店(新 日本古典文学大系) 一1989年・二1990年・三1992年・四1995年・五1998年の原文を参考に、原文に忠実な訳を心がけた。
訳出にあたっては、 岩波本掲載の注釈の他、 直木孝次郎 他 訳注『続日本紀』全4巻 平凡社(東洋文庫) 1:1986年 2:1989年 3:1990年 4:1992年、  宇治谷孟『続日本紀 全現代語訳』(上)(中)(下)講談社学術文庫 上・中1992年 下1995年、  及び学者の近年の指摘をも考慮した。
さて、どこがポイントか、おわかりだろうか。
「本枝百世」の解釈が問題なのである。
上の訳で「開祖の子孫が百代までも末広がりに栄えておられます」とした部分である。
ここで本・枝という二字が登場するが、この「本・枝」は「開祖・子孫」または「本家・分家」の意味で 使われる。後者の意味だとすれば、鹿島説が正しいのだろうか。否である。
「本枝百世」は、祖先から百代までも子孫が栄えるという、一族繁栄のおめでたい意味を表す言葉として 用いられることばである(もともとは中国の古典『書経』に登場する言い方)。
本枝を本家・分家の意味で訳したとしても、「本家から百代までも分家が派生してそれぞれ途絶えず栄え続ける」 の意味となり、やはり一族繁栄をたたえることばとなる。

要は、「本」・「枝」いずれの語も、日本の朝廷の御血筋について述べているのであり、
従って日本皇室の一族繁栄をことほぐ表現となっているというのが正しい解釈なのである。
これは、その直前に日本の開基のことが記されており、そこから代々栄光を重ねて・・・と 表現されていることからもうなずける。つまり、初代天皇から途絶えず皇室が繁栄しているという 意味で、「本」は初代天皇を指すと見てよい。(「本家」と解するなら初代天皇以降御歴代が「本家」、 その他の皇族や皇別氏族が「分家」。)
ところが鹿島氏は「本」を渤海とか それ以前の扶余とか 解してしまったわけだ。
これがどう見てもおかしいことはおわかりだろうか。
そもそも、「伏して思いますには」と謙譲語で話している文の中で、「あなたはうちの分家だ」 などと表現する手紙がありうるはずもない。もはや漢文という以前に常識の問題ではないか。
手紙の相手を「大王」と讃えつつ「大王は自分たち本家から見れば枝葉ですな」という手紙を出したら正気を疑われるだろう。

○ネットで見られる鹿島説の妙な正当化の例
掲示板の類を検索してみたところ、この問題で応酬しあっている掲示板を複数発見できたのだが、 鹿島説的結論を主張する方が、大抵妙な理屈をこねている。

例えば、
(国書の中で)「山河異域(両国の山河は領域を異にし)」のように両国の関係が述べられている 以上、「本枝百世」も両国間の関係と解すべきだ、・・・

などという趣旨の意見を述べ立てるものがあった。誰の意見の受け売りなのだろうか?上の現代語訳を読めば説明不要と思えるが 一応言及しておきたい。

この国書の出だしの部分は、現代語訳でいえば次のように仕分けできるだろう
①武藝が申し上げます。(両国の)山河は領域を異にし、国土は遠く離れた別の場所にあります。
遥かに日本の政教による徳治のうわさを聞き、ただ心を傾け仰ぎ見る思いを増すばかりであります。
②伏して思いますことには、大王さまの朝廷におかれては天の命を受けて、日本の国の基礎が開かれました。
その開基以来、代々立派な君主が現れ、祖先より子孫が百代までも末広がりに栄えておられます。
③(一方)武藝はかたじけなくも、列国の一つとして、分不相応にも諸蛮民を支配しており、高句麗の旧領土を 回復し、扶余の古い風俗を保っております。ただし日本とははるかに遠くへだたり、・・・


①は渤海国王が両国間の距離的障壁を前提に、それでも聞こえてくる日本の名声に賞賛する部分= 両国関係的要素が含まれる
(注・掲示板ではない別の媒体で、逆に
「遠隔性は当然に過ぎ、記載不要なのに、あえて記載するのは『遠隔だがむしろ文化的には共通』と主張する ため」のように自説(渤海の本家性)を根拠づけ付けようとするサイトもあるが、 国書の文言からでは単なる尊敬の表現かもしれないし、あるいは親近感の あらわれに過ぎない場合もあろう。要するに「自説の結論先にありき」の説明に陥っているので、本人とその賛同者に対してのみ説得的な説明といえる。)


②は渤海国王がへりくだって日本の皇室繁栄をたたえる部分、
③は渤海国王が、自分の業績を謙遜しながら紹介する部分

である。山河異域は①の一部、一方「本枝百世」は②の一部だから、掲示板の上記主張は全く的はずれである。 当該掲示板で応答された方は、大体正確な返答をしながらも、①のあたりでたまたま若干不正確な説明を されていたようで、その点を例の主張者が最後に指摘して、たまたまそれへの返答がなされなかった。
そのため一見主張者が勝利したような形に見えているが、全く逆である。

第2回渤海使が天平11年に日本に提出した国書(本ページ末尾の補注追加F参照)の冒頭 も、やはり同様に①②③の内容で構成されていることからしても、まず間違いないといえる。

注 ちなみに「本枝百世」の直前の語「奕葉重光」の「奕葉」は「代々、世々」の意味、
「重光」は「徳の光を重ねる、立派な天子が次々と現れる」(中国の古典『書経』顧命篇に登場する語)の意味。
このことからもわかるように「奕葉重光」「本枝百世」はいずれも特定の王家の繁栄を讃えるための美辞に 過ぎない。「本枝百世」は決して何か二つの異なる勢力が互いに本枝の関係にあることを意味しない。注の補足(このすぐ下に記載)、及び補注追加E参照。
なお、掲示板とは別の媒体で、本枝百世は子孫繁栄の意味としつつ「本」には渤海・扶余のニュアンスもある との主張もある。が、先にも書いたように「本」は文脈上「日本開祖」を指すので、主張されたニュアンスは ない。

上記注の補足  常識的に考えて、この「本枝百世」の誤解釈はありえないような間違いであるが、実は この解釈は鹿島氏独自のものとは考え難い。自分も鹿島氏の文章は色々読んだことがあるが、 氏のトンデモ解釈力は固有名詞の語呂合わせ等に発揮されるのが普通で、熟語のこじ付けというのは 珍しい部類に属する。
よって、今回の誤解釈については「本枝」の「本」が文脈上「日本開祖」を指すこと を知ってか知らずかコジツケた読みをした解釈者(鹿島氏以外の人物)がどこかにいて、その人物から 鹿島氏が示唆を受けたのではないかと想像される。
誰から示唆を受けたかということは、大体見当がついている(必要に応じ追記したい)が、 そもそもの発信源が誰なのかはさらに検討を要すると考えられる。


(なお、鹿島氏の引用した国書と、上記和訳で使用した国書との間にわずかな文字の異同があるが、 本稿で扱う内容には影響しない軽微な相違に過ぎない(校訂の相違によるもの)ので念のため付記しておく。)

鹿島氏は「渤海の国書がウソなのか。『日本書紀』がウソなのか。」 と書かれていたが、ウソなのは国書に対する鹿島氏の解釈だったのである。
本枝百世は、日本の繁栄に対する賛辞に過ぎないので、そもそも この国書では渤海王と日本との縁戚関係の有無については一切触れられていないと見るのが正しい。
はっきりしているのは、日本が渤海よりずっと格式が高いということなのである。


ちなみに上記第1回渤海使に聖武天皇が賜った渤海国王への書状は、次の通りである。

(現代語訳)
天皇はつつしんで渤海郡王にたずねる。
王の書状を読み、王が旧高句麗の領土を回復し日本との昔のような修好を求めていることを | つぶさ に知った。朕はこれを悦ぶものである。王はよろしく仁義の心で自分の国の内を 監督撫育し、我が国とは遠く海を隔てていても、往来を断たぬよう努めるべきである。
そこで首領の高斉徳らが帰国するついでに、この書状と贈り物として綵帛十疋・綾十疋・絁二十疋 ・絹糸百絇・真綿二百屯を託すものである。このため一行をおくり届ける使者を任命し、それを 遣わして帰郷させる。気候は暑くなってきたが、王の平安と順調を想う。

以上のように、渤海国が日本に通好を求める態度は | うやうやしいものだったため、両国関係は和やかに進展していった。
ところが、ある時期、険悪になりかけたことがある。それが次にのべる「天孫僭号」事件である。

○渤海王大欽茂 | きんも、突然「天孫」と自称し光仁天皇に叱られる

渤海は日本に対してへりくだった態度をとっていたが、渤海にも一定の自負はあったと考えられる。
それは、かつて日本からも「高麗の神の子」と呼ばれた高句麗王の継承者として、自分にも一定の神聖さが あるという思いがあったからであろう。(渤海の高句麗継承意識について補注1参照)。
契丹古伝の世界でいえば、第7章の塢須弗による『耶馬駘記』は、あきらかに渤海人が記した内容となっている。
『耶馬駘記』において、日本は東大神族の阿其比系で(つまり渤海とはシウカラ同士で)あるという 塢須弗なりの見解が示されているのだ
(渤海が東大神族の何系かまでは残念なことに記されていないが、もちろん東大神族ではある)。
そもそも第7章『耶馬駘記』以外のかなりの部分も、渤海系史書をもとに編纂されているというのが 浜名氏以来の伝統的見解である。
浜名氏は神頌も渤海に帰すべきとまで[補注増補β]述べ(この点、自説は反対)ているぐらいである。
とすれば、渤海にも神子神孫として、それなりの自負があったことはむしろ当然であろう。
(第7章『耶馬駘記』の口調からもそれは感じられる。)
それゆえ、日本に朝貢しつつも、本音では朝貢性を緩和したいなどと思っていたことはありえよう。

そんな中、次のような事件が起きた。

宝亀2(771)年6月、 第7回渤海使・壱万福 | いちまんふくらが出羽国(今の秋田県)内、今の能代市付近に到着し、12月には 京へ入り、正月の賀正の儀に出席した。
ところが壱万福が差し出した渤海国王からの上表文に失礼な内容が含まれていたらしく、
1月16日には上表文は無礼なものだから受け取れないと壱万福へ通告された。
壱万福は、自分は密封した書状を素直に提出しただけであり、返却は憂慮すべきことであるとし、 国に帰れば罰をうけるであろう、今は聖朝(日本)にいるので、日本の罰は軽重を問わず受けると述べた。
そして19日には渤海から朝廷への進物も壱万福へ返却されたのだ。

しかし1月25日、壱万福は上表文を修正し、渤海国王に代わって謝罪した。
そのため2月2日、渤海使らは五位以上の官人とともに朝堂院でもてなしをうけ、官位や俸禄を与えられた。
壱万福は深く感謝の意を表した。

いったい何が問題だったのだろうか。
その答えは光仁天皇から渤海国王への書状の中に示されているので、少し長文だが引用する。

(現代語訳)
天皇はつつしんで高麗国王(高句麗王つまり渤海国王[ここでは第3代国王大欽茂])にたずねる。
朕は(日本の)国を継承して天下に支配者として臨み、徳化の恵みを施すことを深く心がけ、人民の救済と 安寧を図っている。それ故に、領土の隅々まで、徳治は統一的にされているし、 全天の下、その恵みは外国にまで分け隔てなく及んでいる。
昔、高句麗が全盛を誇ったとき、その王の高氏は、始祖より歴代、海を隔てた場所におりながら、 親交は兄弟のようであり、義は君臣のようであった。
海を渡り山に | はしごを架け(るような困難をおかし)て(日本へ)朝貢することが続いていたが、 末年に及んで高氏が滅亡した。それ以来音信は絶えてしまっていた。

神亀四(727)年に至って王の亡き父の左金吾衛大将軍・渤海郡王(第2代国王大武藝)が使者を使わして来朝し、 初めて朝貢物を献じた。先朝(聖武天皇)はその真心をよしとして厚遇歓待した。
王(第3代国王)は、先王の遺風を継承し前代の事業を継承して、誠をもって仕え朝貢し、王家の評判を (今までは)落とさなかった。(ところが)今もたらされた国書を見ると、 突然父王の方針を改め、日付の下に王の官品・姓名が記されておらず、 信書の末尾にそらぞらしく天孫という僭号がつらねてある。
遠い場所から王の真意を推察するに、この国書のようなものであるはずがない。
また近頃の事情を考慮しても、何かの錯誤のようなものであろう。
そこで、官司に命じて、使節に対する賓客待遇は停止した。
ただし、使者の壱万福は深くさきのあやまちを悔い、王に代わって謝罪しているので、 朕は、遠方から来ている点を憐れみ、悔い改めを聴き入れよう。 王はこの意図をよく理解し、永くよいはかりごとを立てるように。
また、高氏(高句麗王家)の時代には、兵乱が止まることなく、わが朝廷の威をかりるために、 わが国との関係を兄弟の国と称していた。今、大氏(渤海王家)の世になってからは 政情は全く安泰であるため、みだりに(両国を)舅甥と称しているのは礼節を失したものである
[注・Aの母方のおじをBとするとき、BAの関係を舅甥(きゅうせい)関係という]。
今後の使節においては、二度とそのようなことをしないようにせよ。
もし過去を改めて心を入れかえることができるならば、隣国のよしみを永久に継続したいと思う。
春の気配はようやく和やかになってきた。王も気分は佳しかろうと想う。
今、帰還する使いに託してこの思いを述べ、あわせて別に信物を贈る。


この書状から、第7回渤海使において、渤海国王大欽茂が天孫という称号を僭称したと非難されている ことがわかる。
渤海もそれなりに神子神孫の系統の一つではあろうから、ある意味「天孫」といえなくもない。
しかし臣下として日本に朝貢するにあたり、姓名を記す代わりに天孫と署名するなどということは とりもなおさず天皇と同等以上の地位を主張したことになる。
しかも渤海と日本を舅甥関係と称したことも日本の怒りをかった。
舅甥関係の解釈については諸説分かれているが、(高句麗時代の「兄弟」関係を前提に)大欽茂が在位37年に 達し日本の方が先行して代替わりが発生していたなどの事情が関係しているかもしれない(渤海は 淳仁天皇が未だ在位していると思いこんでいたはずで、淳仁帝の即位後間もない時期の第4・5・6回渤海使 の際に帝が大欽茂よりもかなり年下であることを知ったはずである)
(青木和夫ら校注『続日本紀 四』 岩波書店 1995年 p.563(森田悌氏執筆部分)参照)。
(特に本稿との関係では、特定の説でなければ困るということはないので、森田説に反対する石井正敏説 (『石井正敏著作集 第一巻』勉誠出版 2017年 p.101-p.129)でもよさそうではあるが、 理由付けの説得性が十分とは感じられない。)

いずれにしても、渤海国王が国力の充実を背景に、様子を見ながらではあるが自国の地位向上を 図ろうとしたことが察せられる。

さてこの後どうなったのであろうか。
光仁天皇の叱責の書状をたずさえた壱万福 | いちまんふくだが、帰国には意外に時間がかかったらしく、そのため さらなるハプニングが発生した。

渤海は、第7回渤海使の壱万福の帰国をまたず、宝亀4(西暦773)年に烏須弗 | う すほつ(う すふつ とも読む)を正使とする第8回渤海使 を派遣してきたのだ。
光仁天皇の書状が渤海国に届いていない状態で第8回渤海使は渤海から出発したということになる。
そのため今回も(ある意味当然だが)上表文が無礼な点が解消されていなかったようだ。烏須弗は そのことを理由に入京さえ許されず、能登に留め置かれた上で帰国を命じられるという事態となった。
この第8回渤海使の正使である烏須弗は、おそらく契丹古伝第7章『耶馬駘記』の著者「塢須弗」と同一人と 思われる(その後の渤海使において使節団の一員として入京をしたとすれば
その際に著述したのが『耶馬駘記』ということになろうか)。

さて、烏須弗はやはり壱万福とゆき違いになっていたらしく、壱万福は結局無事に渤海へ帰国したようだ。
その時点で初めて日本の意思が渤海王に伝えられたことになり、よって光仁天皇の「お叱り」にいかに 渤海が対応していったかが焦点となってくる。

渤海は宝亀7(776)年 第9回渤海使を派遣してきた。
光仁天皇は770年の即位であり、渤海は壱万福の帰国によって初めて即位の事実を知ったようだ。
そのため第9回渤海使は光仁天皇の即位祝賀という名目が附せられていた。

そしてこの時は前回の烏須弗のような入京拒否は発生せず、使者は無事入京しているので、 明らかに前回に比べて変化があったことがわかる。

そして正使の史都蒙は宝亀8(777)年4月22日次のように奏上した。
(現代語訳)
渤海国王は、遠い昔の時代から絶えることなくお仕えしてまいりました。
また、国使の壱万福が帰国した際、 | ひじりの天皇が新たに即位されたことを承り、喜びにたえません。
そこですぐさま献可太夫・司賓少令で開国男の史都蒙を遣わして入朝させることにしました。
それに併せて進物をささげ持たせて、拝謁の上 朝廷に奉らせます。


これに対し光仁天皇は次のように宣命 | せんみょうを発せられた。
(原文)
現神 大八洲国所知 天皇大命良麻 止 詔大命 聞食 宣。 遠天皇御世々々、年緒不落 間 事無 仕奉来 業止奈毛 所念行。 又天津日嗣受賜礼流 事乎左閇、歓奉出礼波、辱奈美 歓之美奈毛 所聞行。 故是以、今毛今 遠長 平、恵賜 安賜 安賜牟止、 彼国 王尓波 語部止 詔天皇大命、聞食 宣。
               (読み) 現神と大八洲国知らしめす天皇が大命らま と詔りたまふ大命を、聞きたまへと宣る。 遠天皇の御世々々、年緒落ちず間む事無く、仕へ奉り来る業となも念し行す。 また、天津日嗣受け賜はれる事をさへ、歓びたてまだせれば、辱けなみ歓しみなも聞こし行す(注◇)。 故、是を以て、今も今も遠長く平けく、恵み賜ひ安め賜ひ安め賜はむと、 彼国の王には語らへと詔りたまふ天皇が大命を、聞きたまへと宣る。

(現代語訳)
現神(然)として大八洲国をお治めになる天皇の 御言葉として存在なさるもの として仰せになるお言葉を承れ と申し渡す。

これは(汝の国が)遠い昔の天皇の時から世々、欠かすことなく間をあけずに奉仕し続けてきた行い であると思っている。(今回)皇位を継承したことまで歓びとしてくれるので、 ありがたく喜ばしいことであると思っている。
それゆえこれからも長く変わりなく恵みを与え安らかにさせると、
そなたの国の王に語るがよい、

と仰せになる天皇の御言葉を承れと申し渡す。

原文の注◇:かたじけなみ=本来恥ずかしいというニュアンスの語だが、 転じて感謝の意味(ありがたい、うれしい)にも使われ、天皇が臣下に謝意を表明される場合にも用いられる (例:孝謙天皇から吉備真備に対する感謝の際)。

この宣命は、後で記載する(天皇から渤海王への)書状とは別のものであることに注意されたい。
つまり使者の行いについて格別に光仁天皇が感銘深く御感じになったことから賜ったもの なのである。昔の高句麗時代からの奉仕について言及されていることからも、今回の朝貢が 何ら問題のない、申し分のない内容であったことがうかがえよう。
また、昔の高句麗も日本に従属するのが当然とする考えが、この光仁天皇の御言葉の大前提であることが 読み取れよう。

そもそも、前回壱万福が国王に代わって上表文を修正したことについて今回渤海は何も文句も言っていない。
つまりそれは、日本の天皇の前回の叱責に渤海は反論せず、素直に従ったということを意味する。

光仁天皇から渤海王への書状も次のように、叱責的内容の含まれないものとなっている。
(現代語訳)
天皇はつつしんで渤海国王にたずねる。使者の史都蒙らは、遠方から大海を渡ってきて、即位を祝ってくれた。
顧みるに、寡徳にもかかわらずみだりに大いなる皇位をついだことは恥ずかしく思う。
まるで大河を渡るのに渡る場所がわからないように(どのように政治をとったらよいか)悩むところである。
王は旧例に従ってわが朝廷への朝貢を果たし、新たに即位したことを慶賀してくれた。
王のねんごろな誠意は、まことに賞賛に値するものと評価する。
ただし都蒙らは、わが国の海岸に到着するころに急に暴風に遭い 人や物を失ってしまい、乗って帰る船がない。
これらのことを聞いたり思ったりすると、また心が傷むが、彼らが故郷から遠く離れていることを思うと、 ますます悼む気持ちが増してくる。
そこで船をつくり使者を任じて本国まで送らせることにし、 あわせて絹五十疋、絁五十疋、絹糸二百絇、真綿三百屯を託する。
また都蒙らの申し出によって、黄金小百両、水銀大百両、金漆一缶、漆一缶、海石榴油一缶、 水精念珠四連、檳榔扇十本を加えた。着いたら受け取るように。
夏の日差しが燃えるように熱いが、王は平安に和やかであろうと想う。


このように第9回渤海使は日本から見て問題のない朝貢であった。 ということは、渤海王は光仁天皇の叱責に従い第7回の際の「天孫」主張を取り下げたということになる。

先述のように、渤海もそれなりに神子神孫の系統の一つではあろうから、ある意味「天孫」といえなくも ないわけで、それにもかかわらず、 天孫を自称することをやめさせることのできる日本はいかなる格式を持つのだろうか。
少しだけ格が渤海より上ということでは、渤海による天孫の自称を『僭号』として非難できないのではないか。
つまり天孫と名乗ってよいのは日本の天皇だけという考えが、上記非難の前提にあると考えられよう。
それはすなわち、日本が東族の本宗家であるということを意味すると考える。


繰り返しになるが、日本は渤海を高句麗の再興として扱っており、これは十分理由がある ことと考えられる。
一般人はマッカツ族が多いが、各行政地域の村長など支配体制側は高句麗人であったと 日本の史書『日本後紀』にも記録されている。(詳しくは「補足1」及びそれを前提とした「補注追加D」参照。)
そもそも渤海使を本国に送り届ける送渤海使も日本から派遣されており、日本が渤海の実情を把握していた ことは間違いない。
渤海からの使節(貴族)に対し日本の貴族は貴族同士としての交流を行いその交誼は深いものであったという。

渤海使らに朝廷が授けた官位も正三位、従三位など、靺鞨人に対するものにしては高すぎるもの があり、しかもこの傾向は渤海使の到来が回を重ねても変わっていないのである。
また、宝亀10(779)年に渤海人の他に鉄利人(ツングース系)を含む謎の渤海使団が出羽国に到着したことがあり、 その際、光仁天皇は、その渤海使は身分が低いので賓客待遇とするに当たらず、そのままそこから 帰らせたい旨の詔勅を出されている。
このように渤海人なら当然厚遇されるわけではなく、貴種か否か がきちんと見分けられていたことに注意すべきである。

渤海は、得てして「ただの靺鞨族の国」とみられる傾向もあるが、そのような把握では、本稿の問題に 対する正しい判断ができなくなると思われるので注意されたい。


『続日本紀』が完成した際の、撰者(菅野真道)らの上表文にも次の一節がある(『日本後紀』巻第五に収録)。
(原文)
伏惟、天皇陛下・・・・遂使仁被渤海之北、貊種帰心、(以下略)
               (読み下し)伏して惟みるに、天皇陛下・・・・遂に仁を渤海の北に被カガフらせ、貊種、心を帰し、(以下略)

(現代語訳)
伏して思いますのに、天皇陛下は・・遂に 仁を渤海の北にまで及ぼして貊種族を心服させ、(以下略)


ここで貊種が心を帰したというのは、渤海の服属のことを指すことで争いがない。
貊種の部分を「渤海」と訳している現代語訳もあるほどである。
マッカツ族は「貊種」とは言い難いので、日本は一貫して渤海を靺鞨として扱わず、扶余系伯族として扱っていることが このことからもわかるだろう。

渤海の第3代国王・大欽茂は「天孫僭号」事件を起こしたが、渤海の主張したこの天孫号については、 高句麗の始祖と結びつけて捉える理解が、学術的観点からの説明としても普通に存在している (青木和夫ら校注『続日本紀 四』 岩波書店 1995年 p.563参照)
高句麗の威勢を引き継ぐ趣旨での自慢なのだろうから、上記説明は正しいものと思われる。
つまり渤海は国体として高句麗系のものを持っていたという話になる。
それを前提にした上で、仮に「渤海=実は靺鞨」説が正しいと仮定した場合、渤海は靺鞨であるのにも かかわらず①日本に対して高句麗系「天孫」と偽装し、かつ②日本と対等以上と主張する、 という二重の無礼を働いたことになってしまう。
果たしてそこまで渤海がするだろうか?あまりにも不自然であると自説では考える。

日本は渤海の朝貢を歓迎したが、宗主国に相応しい威儀を整えそれなりの褒美も用意せねばならない 関係で、財政がかなり圧迫されたといわれている。
朝貢貿易色が途中から濃くなったともいわれるが、日本の格式は問題なく維持されていた。
多額の出費をしたのも、高句麗の遺民である「貊種」の朝貢だったからであり、実体が靺鞨であれば、 出費をもっと抑えたのではないのだろうか。

立派な格式を持ち、その権威に基づき、たとえ渤海が時に不遜な態度に出ても叱責し従わせる ことができた日本の帝は、東大神族の本宗家の宗主の資格保有者である、そのように捉えるのが相当 であると思われる。
ただの資格保有にとどまらず、渤海への指示など、その地位を実効化させることも行われていたのだ。
「補注3 日本は渤海の宗主国」 も参照。

以上より、日本は東大神族の本宗国であると結論づけられる。
現時点でそうだといえるのであるが、いかなる経緯で本宗家がこの列島に存在するようになったかに ついては、契丹古伝の本文を含め十分な検討をした上で今後考えていくことと致したい。

ここまでで、一応本稿は完結した(ただし下の方に「まとめ」がある)。以下、

「補足1 渤海=靺鞨説について」及び
「補足2 光源氏の未来を『予言』したのは来日中の渤海使だった」及び
「まとめ」及び「補注」を記す。

補足1 渤海=靺鞨説について

ここまであえて記さなかったが、渤海に多少の知識を持つ方は、
ここまでの話に意外感を覚えたかもしれない。人によっては「おかしい」と思われたかしれない。
要するに、渤海=高句麗説と渤海=靺鞨説のうち、後者が正しいのではという疑問を抱く人がいるかも、という話である。
それは、渤海の王家「大氏」については、靺鞨 | まっかつ族出身という説が通説とされているからである。
中国の歴史書『旧唐書』には
「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種なり」
とあり、高句麗系のように見えるが、
一方『新唐書』の
「渤海、もと粟末 | ぞくまつ靺鞨にして高麗に附す」
という記載からは、渤海は高句麗に従属していた靺鞨人の国ということになる。
そのため争いとなっており、初代大祚栄の父に関する記載などから、圧倒的に粟末靺鞨出身説が有利 となっている。
しかし、高句麗の遺民が建国に関わったことは一般に認められていることと、高句麗遺民は 沿海州に近い方面の人々よりは高い文化を有したケースが多いと考えられるから、やはり彼らが渤海国の重要な 役割を担ったであろうということは少なくともいえる。
靺鞨出身説については、Wikipediaの渤海の項目にもおどろくほど多量の記載がある。
ただ、渤海の実態が靺鞨であるとし、王家も靺鞨人であるとする 考えがロシア・中国において圧倒的通説である点に留意されたい。 (補注追加C参照)
中国の立場は渤海は中国の一部というものであり、当該通説はその立場に非常に適合的である。
また渤海の領土の北辺部分は現在のロシア領と若干重なり、住民は靺鞨系が多かった。

Wikipediaのような発想だと、本稿のような結論は思いもつかないだろう。
しかし、幾度となく渤海にも使いを派遣し、先方の事情も熟知している日本の史料から見えてくるイメージは、 全く異なっている。本稿でご紹介した通りである。

高句麗の権利関係、貴種間の位置付けなど、今では不明になったことが多い。
しかしかつて日本の朝廷にはそれらについての知識もあったのではないだろうか。
自説の立場だと、宗主国との自負を持つ日本の立場において、渤海王家は高句麗の継承者と認めるに足りると 認定したと捉えることになるので、渤海初代王の本姓が何であるとかは、極論すればあまり問題に ならないとさえいえる。

仮に通説のように解したとしても、次の例のように考えてみたらどうなるだろうか。
妙な例だが、ノルマン系フランス人であるギヨームは、フランス系貴族を率いてイングランドに渡り、 ウィリアム一世として即位し、それが現在に至る英国の国体の基礎となった。
ウィリアム一世はノルマン系だからゲルマン系ヴァイキングの部類、といえなくもないわけだが、
実際のところフランス貴族と変わらず、生まれながらのフランス語話者であり、実際フランスの王位を その数代後には主張している。(ここで面白いのはギヨーム本人よりその配下のフランス貴族 の方が立派な系図を持っていたということである。)

渤海の大祚栄の場合、そういう鷹揚な見方にならない背景には、権利は男系で継承されるべきという 中国の一般原則がある。男系原則自体は社会秩序の安定化に資するので、非常に有用で重要なものとは考えられるが、
歴史において実際に発生した事象のことごとくすべてが男系原則にかなっているかは、また別の問題ではあろう。
大祚栄もそれらしい系図(高句麗の末裔としての系図)を作成保持していた可能性もあろうし (もちろん現実にはつたわっていない)、一応の体裁を整え、そして高句麗の貴族の擁護者という実態が あれば、日本としてそれを高句麗として扱うというのは、決しておかしなことではない。
このような発想が一般的理解には不足気味なのではなかろうか。王家には高句麗の貴族との婚姻関係もあったと 推測される。

この渤海王家問題についてはさらに、婚姻云々とは別の観点から再考できる可能性もある。
それは靺鞨の定義問題などが関係するということなのだが、煩雑なので略させて頂こうと思う。
と思ったが少しだけ書いておくことにした。
そもそも靺鞨といっても複数の部族に分かれており、それがすべて同種族なのかという問題がある。
扶余の遺民で靺鞨に入ったものもいたのではないか、など、
歴史上不明瞭のまま残された問題がいろいろある。学問においては、史料上の根拠がないことは不存在として 扱われるので、こういう問題にまで思いが及ばないということになりがちである。

だが一応、日野開三郎説に触れておこう。
日野開三郎氏は東洋史学の先駆者として名高い学者で、東北アジア史にも造詣の深かった方である。
氏によれば靺鞨の七部族のうち、
粟末 | ぞくまつ靺鞨の前身は「扶余 | ふよ」で、②白山靺鞨の前身は「沃沮 | よくそ」であるという。
そして③拂涅靺鞨の前身は挹婁 | ゆうろうで、 ④安車骨靺鞨・⑤伯咄靺鞨の前身は勿吉 | もっきつであるとされる。
以上のうち③④⑤及び、前身の不明な⑥黒水靺鞨⑦号室靺鞨をあわせた③④⑤⑥⑦の合計5部族は全て純ツングース族に属すという。
ところが①②は他の典型的な靺鞨部族(③~⑦)とは異なり、ワイ貊族に属するとされる。
(日野開三郎『靺鞨七部の前身とその屬種』 九州大学法文学部「史淵」38・39号 1948年3月
(オンライン版 九大コレクション https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=2339062(pdfダウンロード可能))
p.1-p.68 特にp.36, p.48-p.49, p.63参照)

そしてワイ貊族(注・韓族とも別の族とされる)扶余・高句麗・沃沮等は「純ツングース族の いずれよりも遥かに民度の高い先進族」であったとされる (上記論文のp.57参照)。

前述のように仮に『新唐書』によった場合、渤海の王家は①粟末靺鞨の出となるが、 日野開三郎説に従うと、渤海の王家はたとえ①粟末靺鞨であったとしても、
(他の大部分の靺鞨とは異なり)扶余系であり、従って貊族ということになる。

こうなると、一般の学説が、靺鞨を十 | | からげに扱っていること自体の妥当性とかが問題とされるだろう。
さらに、扶余と高句麗はどのような関係にあるのかという問題にも関わりが生じ、 両者が争ったこともあるとかいう話題にもなる。しかし、煩雑なので本稿では割愛したい。
ただ、両者の争いの中で高句麗に従属した粟末靺鞨ではあるが、単に高句麗に劣後した存在では ないというような微妙な関係があったかもしれないとすれば、家柄によっては再興高句麗としての渤海王の適格性に プラスに働くことがありえよう。

このように様々な問題点もあるので、巷にあふれる渤海言説で先入観を持ってしまっている方は、
一旦忘れてもう一度本稿の最初から読むことをお勧めしたい。
日本は渤海国の性質について適切に判断をしており、決してニセ高句麗に対して無用な出費をした、 ということではないと考える。
少なくとも、日本にとって高句麗が属国でなければならない、という強い本宗家的意識があったことだけでも、 感じとることができれば、契丹古伝の解釈にも良い影響をもたらすものと信じる。

補足2 光源氏の未来を『予言』したのは来日中の渤海使だった

紫式部の『源氏物語』といえば、いわずとしれた日本の古典の中の古典といわれる長編小説である。

その『源氏物語』の最初の巻「桐壷」には次のような箇所がある。
(原文)
そのころ、高麗人(こまうど)の参れる中に、かしこき相人(さうにん)ありけるを聞こしめして、宮の内に 召さむことは、宇多帝の御 | いましめあれば、いみじう忍びて、この皇子を鴻臚館に遣はしたり。御後見だちて 仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率(ゐ)てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾(かたぶ)き あやしぶ。「国の親となりて、帝王の上(かみ)なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。朝廷(おほやけ)のかためとなりて、天の下を輔弼(たす)くる方にて見れば、 またその相違ふべし」と言ふ。

(現代語訳)
そのころ、高句麗{の後身である渤海国の}人が来朝していた中に、人相を見る才能が優れた人がいたことを  {桐壺}帝はお聞きになり、宮中に招きいれ{て直接顔を合わせ}るのは宇多帝の御遺戒が あるため{不可能なので}、 厳重に人目を忍んでこの皇子{(のちの光源氏、当時数え年で七歳)}を{その人相 | にんそう | のいる}鴻臚館へお遣わしになった。
後見役のようにお仕え申し上げている右大弁{の職にある人物}の子供であるかのように思わせて {右大弁が}お連れ申し上げると、人相 | {の渤海人}は驚いて、何度も首をかしげて不思議がるのだった。
「国の親となって、帝王の最高の地位にまで登られるはずの人相をお持ちの方ですが、 そのような人であるとして占いまするに、{将来国のことで}乱れ憂えるようなことが起こるかもしれません。
{一方}朝廷の重鎮となって帝王の補佐をする人として占いました場合、またその人相と合わなくなるようです」 と言うのだった。

本文の中で、渤海使と日本の公卿が渤海使が親しく交流を交わした事実に少し触れたが、
来日した使者の中には、人相を見るのが上手な達人もいたことが日本の記録にもある。
第9回渤海使の大使である史都蒙(光仁天皇の即位祝賀として来朝)は、自分への応接を担当した橘清友を見て、
「あなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるだろう」と予言し、 実際その通りになったとされている。
また第25回渤海使の大使である王文矩は、849年に時康親王の「拝起の儀」を見て、天皇になる相がある と語ったという。(時康親王は皇嗣ではなかったが、884年陽成天皇が急遽譲位する必要性が 生じた際に天皇の大叔父にあたる時康親王が即位し光孝天皇となった。)

『源氏物語』はフィクションではあるが、醍醐天皇の時代をイメージして執筆されているため、 高麗人とは当時まだ存在していた渤海国の人を指すというのが通説的見解である。
人相 | にんそう | の話も、渤海使の現実の予言の話が反映されたものであることはあきらかといえるので、 高麗人とは高句麗の後継である渤海の人、という意味で間違いないといえる。
鴻臚館 | こうろかんというのは国内3か所に存在したが、源氏物語の鴻臚館は平安京内のもので、渤海使が京に滞在するときに利用した施設である。(京都市下京区に東鴻臚館址の碑がある。)
したがってこの人相見は渤海使がモデルとされており、しかも光源氏(当時はまだ皇子)の未来を予言する 重要な役割を与えられていることになる。この「予言」がどう的中したのかについては文学者間で細かい 争いがあるが、光源氏は後に「相人の言むなしからず(相人 | そうにんの予言は誤りではなかった)」 と述懐しているので、的中した扱いであることは間違いない。

源氏物語の本文はさらに次のように続く。
(原文)
弁も、いと才かしこき博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、 いと興ありける。文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、 かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、
御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げ たてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。

(現代語訳)
右大弁も、非常に優れた学識人なので、{渤海人と}語りあった事柄は、大変趣深いものであった。 漢詩文など作り交わした後、{渤海人が}今日明日にも帰国するという時に、 これほどにもめったにない方{(皇子)}に対面したよろこびや、却って悲しくおもうであろう心情を趣深く作った ところ、御子も大変感動的な詩句をお作りになったので、{渤海人は}この上なくお誉め申し上げて、 すばらしい贈り物を捧げたてまつった。朝廷からも{その渤海人に}多くの物を賜った。

このように『源氏物語』で渤海使節と宮廷社会が文化交流するのは現実の歴史事実を反映してのことである。


さらに、『源氏物語』桐壷の巻の末尾部分には次のように記されている。
(原文)
「光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ。

(現代語訳)
「光る君という名前は、高句麗{の後身である渤海国の}人{すなわち例の人相見の人}がお褒め申して お付けしたものだ」と、言い伝えているとのことである。

このように、当時の公家社会で、渤海使は教養もあり、信頼のおける人間として高く評価されていた ことがうかがえる。
それのみならず、フィクションではあるが①皇子の未来を予言し②「光る君」という名前を皇子に献上 することが許される存在として扱われていることは重要であろう。
この①は日本と渤海である種の価値観を共有しているという前提があって初めて許容されることではある まいか。ここではさらに加えて②すなわち、よりによって皇子に対する光輝ある呼び名の献上までして いるのであるから、契丹古伝的にいえば、神子神孫同士であるという関係があってこそ、 このようなことが認められると考えられる。
渤海は、高句麗の後継として、日本より格下ではあるがそれなりの重要な神子神孫とみるのが 適切であると前に述べたが、「光る君」の一件もその前提をおいてこそスムーズに理解できるのである。
源氏物語解説ブログや動画(Youtube)?の中には、長いつばのついた朝鮮帽をかぶった (半島の王氏の)高麗国の人?が虫眼鏡で幼い光源氏(まだ源姓ではないが)をじろじろ見ているという 挿絵のついたものがあるが、誤りである。また、最近(令和4[2022]年秋)出版された本の中に、初の完全漫画化と称する本 で、半島の地図の王氏高麗の領域に「高麗」と明示して説明しているものもあるが、そこから来日しているものではない。 それに加え、微妙に紛らわしい説明文が付されている。また、渤海使はもっと丁寧な姿勢で応対している 点については、各種絵巻類を見れば明らかである[もっとも、絵巻の類も渤海滅亡後制作までの年数が経っているため、 渤海使の容姿はさまざまである]

石井正敏氏は次のように指摘している。
『源氏物語』の読者は、「高麗人」はかつて交流のあった渤海使との認識をいだきながら読み進めた ことであろう。(中略)好感をもって印象づけられる点において、「敵国」とされた新羅とは 好対照と評してよいであろう。 (『石井正敏著作集 第一巻』勉誠出版 2017年 p.384)
もちろん日本渤海間の交流素材には漢詩文などの中国文化が多くなってくるのではあるが、 半島の政権(王氏高麗、支配層にいるのは旧新羅系)にも当然中国文化が流入して吸収はされていた。
それでも日本は王氏高麗と国交をもたなかったのであるから、渤海への「好感」は単なる中国文化への アクセスの提供のみに由来すると考えるのは誤りであろう。



○まとめ 日本列島はある時期から「東大古族の本宗国」となった

さて渤海関係の論述が長くなったが、あらためて要点をまとめよう。
契丹古伝解釈において、渤海は契丹古伝の原資料の出所とも目される重要な神子神孫国として位置づけられる。
渤海は高句麗の継承者と自負しており、日本もそれを認めて一定の待遇をした。新羅よりもずっと上の扱い であった。
それは渤海が神子神孫国の一員と日本が認識していたからだと当サイトでは捉える。
おそらく一般には、渤海に朝貢を求めたのは、中華思想からであるとか、覇権主義からであると解される かもしれない。
しかし日本は高句麗の継承者たる渤海に「天孫」主張をやめさせることを要求できる格式をもっていた。
それは単なる中華思想のまねごとなどではなく、日本が東大古族の本宗家の地位をもっていた からであろう。
高句麗にも朝貢を求めて当然という観念が日本にあったことは上で述べた通りである。
これはかつてのアメシウ氏の権利(37章)よりも大きい権利である。とすれば、最初の方で述べたように、 大は小を兼ねることから、(かつてアメシウ氏が当初保持していたような)半島内権利についても、 当然主張できることになる。したがって、半島内の百済・新羅に対する権利主張も当然可能となる。

この大きな権利を保持する日本の帝の一族は、太古から日本列島のあるじだったわけではなく、 何らかの事情である時期から日本列島の支配者となった。
当初から本宗家だったのか、それとも途中からなのか、もちろん謎は残るだろう。
しかしいずれにしても、列島内に本宗家が確立した以降は、たとえ継承問題が生じる時期があったにせよ、 神子神孫によってきちんと本宗家の権利は保たれていったことは間違いないだろう。
日本列島に本宗家が所在するようになる以前の列島は、「百余国」などと中国の史書に記されたように さまざまな小王朝が存在していた可能性がある。
それらの多くも、東大神族ではあり、牟須氏などを含む人たちで構成され、海洋系の色が濃かったとは 考えられる。(当時すでに非縄文社会には なっていたことに注意されたい。弥生時代の開始時期論参照。)
その後、帝の一族は、それらの小王朝の権利も統合していったと考えられる(もちろん 帝の一族だけが少数で登場したというのではない。同時期に多くの原日本人が列島に入り、日本人としての重要勢力を構成していったであろう。 この点二重劣化論に騙されない観点からの判断が必要である)。
常識的には武力の使用を予想するかもしれないが、その解釈は今一つ単調で不十分である。
つまり、このときの状況というのは、もともと日本列島にはなかった本宗家が何らかの理由で 日本列島に存在するようになったという特殊な状態であり、本宗家の直轄支配地域・準直轄支配地域についての 設定の変更が生じている場面である。
この際に働く意識というのは、帝が本宗家の権利を保持する以上、支配権はどうぞ本宗家の方が 行使なさってくださいという一種の礼譲のようなものだろう。
そして色々な小国も統合され、消滅していったこともあっただろう。
また、神話についても統合がなされていったかもしれない。
ただ、それは本宗家のおひざ元として、本宗家を立てる必要がある以上やむをえないことであろう。
神話伝承の統合・抹消のたぐいは一定程度世界のどこでも起こり得る。
ただ今回の場合それは神子神孫文化の十全化のための必要なコストともいえるから、問題性は低いと 考える。
神子神孫文化をさんざん抹消しておきながら、それは自分たちの文化だと後で言い張る人達より はるかにましであろう。
ここで大事なのは、本宗家は本宗家であって、何かの劣化種ではないという点である。
この点は誤解が生じやすいので、弥生時代の開始時期論を十分参照されたい。

以上により、日本は本宗家を頂く東大神族の本宗家であると結論づけられる。
先の戦争でもその地位自体は不変であるものと解される。
ただし、本宗家を頂くことになったその経緯自体については、また鋭意追求していくことにしたい。
この追求を困難にさせているのは、かつて神子神孫国を滅ぼした文化抹殺者の行為が大きいと思われるのだが、 「抹殺した者勝ち」の状態に下手すればなりかねない。
読者におかれても、東大古族の文化というものが架空でないという可能性を念頭において、
一体何がどう問題だったのか熟慮することを試みて頂ければ幸いである。
そうしないと、日本の文化もいつしか衰退してしまうかもしれないので、それを回避するには必要な ことであると思う。

本稿は「変わった論考」と受け取られるかもしれないが、それはむしろ「抹殺した者勝ち」の状態に なりかかっているからこそそう見えるのかもしれない。
その意味でも、当サイトを安易に特殊なサイトと決めつけず、引き続き愛読頂ければ幸いである。

以上

補注1・渤海の高句麗継承意識について
渤海が日本への国書について一時期「高麗国王」と名乗ったのは日本に迎合したからという石井説が著名 である。しかし、それは渤海に高句麗継承意識がないという見解ではないので混同するのは不適切である。
石井説は「高麗の旧居を復し」という言い方で渤海に高句麗継承意識があったこと自体は肯定されている。
→補注追加A(補注1への補注)参照

補注2 新羅の無礼な振る舞いについて

新羅の無礼の一例を『 | しょく | | ほん | 』からあげる。
天平7(735)年に入京した新羅使は、国名を新羅から『王城国』に改名したと通告してきた。
それに対し日本は、日本に無断で勝手に改名するのは無礼であるとして追い返したという。

翌年 遣新羅大使 阿倍継麻呂は、新羅で非礼な扱いを受け、外交使節としての礼遇を受けられなかった。
朝廷は天平9(739)年  伊勢神宮、大神(おおみわ)神社、宇佐神宮、 | 椎宮 | しいぐう などに 勅使を派遣し、 新羅の無礼を報告している。 香椎宮へは、天平宝字3(西暦759)年・天平宝字6(西暦762)年にも 使いが派遣されている。
(一方、新羅の後継国家である高麗朝が編纂した『三国史記』によれば、新羅の景徳王の元(742)年に 日本から来た使者を受け付けなかったとか、 景徳王12(753)年に来た日本の使者は傲慢・無礼なので追い返したなどと記されている。)


なお、8世紀の中ごろ、日本は渤海と結んで新羅を挟撃しようとしていたとも考えられているが、この点 渤海にその意思はなかったとする反対説もある。
しかし、735年、唐は、新羅の要請(新羅が渤海に対抗するため浿江に(駐屯地)を設置したい)に 許可を与え、さらに浿江以南の地を新羅に割譲している(それ以前の対渤海攻撃に新羅が協力 したこと等を理由とする)。

(戍の設置に関する唐の許可につき、「敕新羅王金興光書 第二首」参照。
「敕新羅王金興光書 第二首」については
専修大学社会知性開発研究センター/東アジア世界史研究センターウェブサイト内「データベース」より
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyoushiryou/chokusho/chokushiragiousho-735.02.htm
参照。
[Wayback Machine版はこちら]


さらに、新羅は762年に北部国境付近(今の黄海北道内)に6つの城を築城して防御態勢を強化した という事実(『三国史記』新羅本紀参照)は、新羅が渤海からの攻撃を相当警戒していたことを示す。
渤海にとっては、高句麗の旧領を回復するという目標は当然あったことだろう。
結局日本においては政治的混乱等もあって、日本からの対新羅攻撃は行われずじまいとなったのだが、
それ以降も826年に新羅は、浿水沿いに三百里の長城を築かせている(『三国史記』新羅本紀参照)ので、 渤海と新羅は依然緊張関係にあったとみられる。


補注3 日本は渤海の宗主国

日本における学説で、渤海の日本への初回の遣使が 「対等関係を意図していた」とする説(石井正敏説)あるいは「厳密には朝貢でなかった」とする説があり 有力説とされている(酒寄雅志氏などの著書でもその点につき石井説に賛成)。
だが、その内容の実態はそれほど自説と異なるものではない。
石井説というのは「渤海は高句麗という大国の継承意識はあったが、当初日本に従属する意思までは なかった」というものである。
しかし、石井説においても、初回の渤海王大武芸の国書の書式が「上長に奉ずる形式を取っている」 こと、つまり日本を格上として出されたものであること自体は認めているのである
(これを石井氏は、言葉の上ではへりくだったのだ云々というような処理にしている)。
(石井正敏『日本渤海交渉史の研究』吉川弘文館 2001年 p.273-p.274 参照。)

この点を次の例と比べると興味深いだろう。
すなわち、渤海を滅ぼした契丹は、半島内の「高麗朝」 (918~1392。実質的には新羅の後継者であり、高句麗とは全く別の国) に対し、当初一定の思惑により甘い言葉を含む国書を送っている。
しかしその中でも契丹自身を兄、高麗朝を弟として格下と扱っているのだ。

そのような例に比べれば、渤海の日本への初回遣使のありさまが、相当に日本を立てた内容になっていることは、上の方で掲載した 大武芸の国書の全訳を読めばおわかりだろう。

自説でも、渤海には神子神孫国としてのそれなりの自負があり、その意識から「天孫」と称したい願望 があったことにはなる。しかし日本からの叱責に結局応じ臣下としての形式面も具備していくことになる という捉え方であり、石井説と大きく異なるものではないのだ。
しいていえば、「当初から、日本に従属すべきという義務について知ってはいたが完全に認めたくはなかった」 という意識があり、その部分を自説のように捉えるか石井氏のように「対等の意識」と 捉えるかの差にすぎない(補注追加Bも参照されたい)。

なので石井説(その他この点において同旨の他の学者の説)を持ち出して自説を批判するのは無意味である から控えていただきたいと思っている。

渤海の日本への遣使の一部について「臣属では なかった」と文書の細かい文言を理由に主張する学説が存在するため、そのことばかりが世上喧伝される 状態にある。
しかし表面的印象で大局的なものを見誤り、誤ったイメージを抱いてしまうとすれば問題である。 日本で一般に認識されているように、渤海と日本との関係は基本的に朝貢であり、その形式は最後まで 維持されたと見られる。

壬生家文書(宮内庁書陵部蔵)の一文書の中に
「咸和十一年閏九月二十五日付 渤海国中台省牒写」が収録されている。
これは承和8(西暦841)年に来日した渤海使がもたらした牒状(国の官庁から他国の官庁への文書)で、 牒状の本文自体は『続日本後紀』にも収録されているが、 壬生家文書のものは使節一行の署名までも含まれたもので、貴重な史料とされる。
この文書を研究した酒寄雅志氏は、牒状の文言を指標として国家間・官司間の上下関係を知ることが 可能であるとし、当該中台省牒は、
渤海国が日本の付庸国であることを表明すると共に
②(渤海国の)中台省自体も付庸国の官司として宗主国の日本の太政官の下位に位置づけていた ことを示すと結論されている。
(酒寄雅志「渤海国中台省牒の基礎的研究」[酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房 2001年 所収]  p.272参照 太字強調は引用者による)

この点は注目すべきであろう。

以 上

補注はここまでだったはずだったが、どうしても意を尽くせないところがあるので、以下 若干細かいが、今後の読者に期待する意味で追加したい。


補注追加A(補注1への補注)

石井氏は、三上次男氏の論文『金室完顔氏の始祖説話について』を参照された上で、次のように 書かれている。
・・渤海が日本への国書にこの一句{高麗の旧居を復し}を挿入しているのは、決して対日外交 のための説辞─(中略)─ではなく、自国渤海の建国・由来を具体的に示し、かつ往時の大国高句麗を 表面に出して自国の立場を主張したものに他ならないであろう。 (石井正敏『日本渤海交渉史の研究』吉川弘文館 2001年 p.266. 太字強調及び{}内補足は引用者)

補注追加B 石井説における「渤海の対日意識」に関しての補足

石井正敏氏が細かい漢語の意味・使用例から既存の説を見直すアプローチを採られていたことはよく知られている が、氏の「渤海の当初の日本への対等意識保有説」の根拠の一つに、渤海王初回国書における 「大王天朝受命日本開基」の解釈がある。
詳しく紹介している余裕がないが、石井解釈において「受命」すなわち「命を受領」 したのは 「大王の天朝 | ●●」でなくて「大王(=国書の相手である日本の天皇すなわち聖武天皇)」という説なのである (前掲書p.287-p.292参照)が、 こう解した場合聖武天皇のときに日本が開基したことになってしまい矛盾が生じる。
また「奕葉(=代々、世々)」の解釈もおかしくなろう。大変僭越な指摘ではあるが、種々の影響を考え このような場ではあるが書かせていただいた。この点についての説明がなく石井氏が亡くなられたとすれば 大変残念なことではないかと思う。

補注追加C 渤海の実態についてのロシア・中国説

先にも記したが、ロシア・中国の通説は、渤海の実態が靺鞨であるとし、渤海王家も靺鞨人であると する(A説)。
一方韓国朝鮮は、その実態を高句麗系国家であるとする(B説)。
そして日本も、戦後A説が有力となっている。
しかしロシアや中国がA説を採用するのは、その方が彼らの国益に資するからではないか。
本文で示したように、各種資料から当時の状況を分析すればB説が正しい。
ただB説は半島における通説であるので、このサイトは半島を応援するサイトなのか?と疑う人が出てくるだろう。
しかし、その疑いはあたらない。なぜなら、彼らがB説を採る趣旨・目的と当サイトの意図とは全く異なる からだ。察しのよい方は既に十分理解されていると思うが、念のためこの点は機会があれば補筆したいとは思う。


補注追加D 『日本後紀』に記された渤海国の支配体制

『日本後紀』(巻第四)に次のような記載がある(現代語訳)。
百姓は「靺鞨人」が多く、「土人」が少ない。村長はみな「土人」が任用されていて、大村の長を都督、 次(のクラスの村長)を刺史と呼び、「その下の百姓を(この部分解釈に争いあり)」首領(靺鞨系有力者) と称している。

この記載についての学説の話を簡潔にさせていただこう。

上記「土人」を「高句麗の土地プロパーの人=渤海内の高句麗系の人」と解するとつじつまが合うので、日本でも通説的見解となっている が、中国の通説の立場では、渤海は基本的に靺鞨でなければならないので、「土人」も靺鞨の一種で あると解する荒技を使ったり、あるいは「土人」の「土」を「士」の誤記とするなどしている。
誤記説の場合、「士人」=官員、官吏の意味と解するのであるが、そもそも『日本後紀』では「靺鞨人」と「土人」を 対比的に用いており、「百姓は『靺鞨人』が多く、『官員』が少ない」というのは妙だ。
渤海が基本的に靺鞨というのなら『官員』(士人)も靺鞨人になってしまうから整合性を欠く。
それとも官員とは中国人か何かだろうか?「士人」説は相当苦しい説ではないかと思われる。



補注追加E 「本枝百世」英訳

繰り返しになるが、半島のサイトとなると渤海の武藝王の国書の都合のよい所だけ切りとって渤海が本家だと 力説しているブログ類が複数ある。
そこで、鹿島氏が問題にしている箇所すなわち

伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。 武藝忝当列国、濫惣諸蕃・・・
[当サイト訳]伏して思いますことには、(かつて)大王さまの朝廷におかれては天の命を受けて、 日本の国の基礎が 開かれました。その開基以来、代々立派な君主が現れ、開祖の子孫が百代までも末広がりに栄えておら れます。(一方)武藝はかたじけなくも、列国の一つとして、分不相応にも諸蛮民を支配しており・・・)

について、念のため、
George Washinton大学助教のBrendan Arkell Morley博士の英訳をあわせて紹介しておく。
It is my understanding that your majesty’s Heavenly Court has received the mandate and laid the foundations of rule in the realm of Japan [日本]. Prospering generation after generation, the glory of your polity extends a hundred ages beyond the time of your forefathers. With due humility, I preside over a large state [列國], and I have in my charge various frontier territories [諸藩].

(Morley, Brendan Arkell "Poetry and Diplomacy in Early Heian Japan: The Embassy of Wang Hyoryŏm from Parhae to the Kōnin Court"
Journal of the American Oriental Society Vol.136, No.2 American Oriental Society, 2016. p.345.)

当然ながら渤海が本家という解釈などではなく、日本が始祖から百世までも伸びるという解釈になっている。
漢文の英訳は困難を伴うと察せられるが、東洋のおかしなブログ類を顔色なからしめるほど穏当な名訳 といえよう。


補注追加F ≪参考≫第2回渤海使が天平11年に日本に提出した国書

天平11(西暦739)年12月に第3代渤海国王(大欽茂)が奉呈した渤海国書(第2回渤海使到来時) を参考資料として引用しておきたい。
文章の構造が、問題の「第1回渤海使国書」と似ているので、正しい解読に役立つからだ。
これにより愚かしい解釈が二度と出現しないことを願って・・・。

(現代語訳)
欽茂が申し上げます。(両国の)山河ははるかに隔絶し、国土ははるかに遠く離れております。
たたずんで日本の政教による徳治を望み見ますと、ただ心を傾け仰ぎ見る思いを増すばかりであります。
伏して思いますことには、天皇の尊い御考えやこのうえない徳ははるか遠くまで広がり、 代々立派な君主が現れて、その恩沢はすべての一般国民にまで及んでいます。
(一方)欽茂はかたじけなくも、祖先以来の業をうけついで、分不相応にも民を統括しておりますことは 始めと変わりありません。義を国内にいきわたらせて、なさけ深い統治を心がけ、つねに隣国と友好の 関係を保つようにしております。
いま日本からの使者である(平群)広業らが、風や潮の状態が悪く、漂流没落して渤海国に来ました。
そこでつねに丁重なもてなしをし、来春を待って帰国させようと思いましたが、
使者は前に進むことだけを欲し、今年中の帰国を強く要請します。
彼らの訴えの言葉ははなはだ重く、隣国との義理は軽いものではありません。
よって旅行に必要な品を準備しすぐさま出発させることとし、そこで 若忽州都督の胥要徳らを指名して使とし、広業らをひきつれて日本に送らせます。
あわせて虎の皮と羆の皮をそれぞれ七張、豹の皮を六張、人参を三十斤、蜂蜜三石を つけて進上いたします。日本の国に到着次第、調べてお納め下さい。

(この国書の最初の部分の分析)
①「欽茂が申し上げます~増すばかりであります。」の部分は、
渤海国王が両国間の距離的障壁を前提に、それでも聞こえてくる日本の名声に賞賛する部分
= 両国関係的要素が含まれる

②「伏して思いますことには~一般国民にまで及んでいます。」の部分は、
渤海国王がへりくだって日本の繁栄をたたえる部分、

③「(一方)欽茂はかたじけなくも~友好関係を保つようにしております。」の部分は、
渤海国王が、自分の業績を謙遜しながら紹介する部分

②の部分の中に、
「代々立派な君主が現れて、その恩沢はすべての一般国民にまで及んでいます」
(原文:奕葉重光、沢流万姓)
という語句があり、この位置に初回の国書では「奕葉重光、本枝百世」という言葉が来ていたのである。
この「沢流万姓」が日本国内の繁栄を表すことは明らかだ。
初回国書の「本枝百世」も同様に日本国内の繁栄を示しているのである。


補注追加G 渤海論補足 
先述のように、日本は本宗家として、高句麗や渤海も従わせることのできる立場にあった。
それゆえ、百済や新羅に対しても本宗家として朝貢を求めることが当然できたということになる (日本書紀にもその旨繰り返し記載されている)。
それをすべて架空とするのが半島人の現在の見解であるが、不当というしかない。
さて、既に触れたように新羅は半島を統一した後日本に対しまともな朝貢をすることを止めてしまった。
参考までに、その後の半島の対日外交について簡単にまとめておく。

○王建の高麗朝・・・・基本的に日本との間に外交関係はなかったと捉えられる。
(高麗朝末期の室町幕府への遣使など、細かい例外はある)

○李氏(朝鮮)の対日外交
徳川将軍は日本国大君と称して李氏朝鮮と外交的交渉を行った。 日本国大君というのは、あいまいな呼称であって、日本から見れば帝の臣下の一種のような形の 雰囲気を残しつつも、朝鮮から見れば実質日本国王であり、朝鮮国王と共に中国皇帝に従属する仲間同士 ・兄弟関係という形を満足させる形をとったのである。
仮に李氏朝鮮から見た立場(朝鮮は兄、日本は弟)を貫徹するなら、日本の朝廷から見たときに それは徳川家の私的交流と見るしかない行為といえる(さもなければ徳川氏が勝手に日本を中国皇帝に 従属させたことになりかねない)。
ただし徳川家は中国(清朝)に朝貢してはいない。
要するに、朝鮮と私通するために徳川家がとった便宜的手法にすぎないということになる。
仮に朝廷自体が取り扱うとした場合、朝貢の形式でなければ受け入れなかったであろうことは 本宗家の格式からして当然である。しかるべき朝貢であれば、朝廷から使節に対し官位授与などの処遇も あったことだろうが、朝鮮通信使にはそんな処遇は当然なされていない。
以上からもわかるように、日本の朝廷自体に対する関係では、 李氏朝鮮は何らの外交的関係を保持してはいなかった。 (徳川以前、室町幕府においても足利将軍が「日本国王」の名義で李朝とやりとりをしている が、足利将軍に弔意を表す使節が来ていることからもわかるように朝廷に対する効果はない。)
このような事情から、明治維新の当初、李氏朝鮮が日本の朝廷を認めようとしないという事件が起きた。
「天皇」という肩書では李朝の主君たる中国皇帝と対等になるからダメだという理由で、トラブルに なったのである。現在でも彼らは 天皇を日王と呼び続けているが、これはかつての渤海の態度とは全く異なる点に注意すべき。

補注増補α 大遼の医州
『三国史記』巻三十七 雑志第六には、後漢書を引用して、 漢の時代の遼東郡、その東方の玄菟郡について述べている箇所がある(高句麗の当初の都は後者の玄菟郡にあるとする) が、前者の遼東郡の無慮という属県につき、三国史記は 「すなわち『周礼』の北鎮である医巫閭山であり、大遼はその下に医州を置いた」と注釈している。

また、これに関して、次のような補足説明もなされている。
昔、大遼{(=契丹帝国)}がまだ滅んでいないとき、遼{(契丹)}の皇帝は燕京{(今の北京市)}に いた。{当時}わが国{(=王氏高麗朝)}の人で{遼(契丹)に}朝貢する者は、 {遼の}東京{(=今の遼陽市遼陽。遼寧省東部に所在。)}を通過し、{西へ進んで}遼水{(=遼河)}を渡り、 一両日進んで医州に至って、 そこから燕{の旧都である}薊{(今の北京)}に向かった。



補注増補β 浜名解釈における契丹古伝40章の靺鞨について
ちなみに浜名氏の解釈では、40章のイヨトメが卑弥呼の後継者壹与と同一人で、 半島から靺鞨に入ったとされている(自説は反対)。ここにも靺鞨が出てくるが、この靺鞨は 渤海当時の靺鞨以前の、より広い概念の靺鞨である。決して満州奥地・沿海州方面の意味で浜名氏は使っていない点に つき、本文40章解説参照。




補注追加はここまで。

2022.11.15 初稿
2022.11.17 少々加筆
2022.11.19 少量の加筆
2022.12.06 補注に少量の加筆
2022.12.27 補注等に少量の加筆

(c)東族古伝研究会