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弥生時代の開始と殷朝の敗北との関連(重要)
~はたして弥生人は列島発祥なのか?
(本稿の趣旨・概略)
①弥生時代の開始時期については、かつての通説(紀元前5世紀~紀元前4世紀頃)を覆す新見解(紀元前10世紀)
が有力となっている。
この新見解からすると、「弥生時代の開始」と「殷周革命における殷の敗北」とが同時期となってくる。
両者に関係はあるのかないのかという 一つの論点が存在している。
契丹古伝23章等に、その答えを出してくれるかもしれない記述があるので、それについて検討すると、
この問題の答えについて肯定に傾くことになるといえる。
②さらに、日本列島内における弥生人と縄文人の関係について、この機会を借りて、
ある程度明確に述べておくことにしたい。(異論が多そうなので今までは保留していた
のだが、これ以上保留すると別の弊害を生じ、かえって国益に反すると考えた。)
(本文)
弥生時代の開始は、かつては紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろと思われていた。
ところが、2003年(平成15年)に
国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授は
放射性炭素年代測定法を用いて弥生時代の開始はさらに古く紀元前10世紀に遡るとされた。
この新見解は論争を呼んだが、徐々に受け入れられてきている。
春成教授はこの新見解に立った上で興味深い指摘をされていることは報道でも知られている。
春成教授は「弥生の始まりを考えるには、殷(いん)<商>が滅亡し西周が成立するころ(紀元前11世紀)の
時代背景を検討しなければならなくなった」と、東アジア全体の古代像を再検証する必要を指摘した。
(
「稲作伝来、500年早まる 国立歴史民俗博物館が発表」
(『朝日新聞デジタル』ウェブページ内)
https://www.asahi.com/edu/nie/syasin/kiji139.html
[Wayback Machine版はこちら])
このように春成教授は殷の滅亡と弥生文化の開始に関係があることを示唆されているのだ。
この点に関し、興味深いことに、契丹古伝23章には次の記述がある。
商(殷朝)の祀は終に亡んだ。
潢族は、海に浮び、潘族は、北に退き、宛族は、南に退避した。
(中略)東委は尽く頽れた。
契丹古伝のストーリーの基本中の基本ではあるが改めて言うと、
周という西族(漢民族)国家による中国統一(紀元前11世紀)がなされる以前の中国では、東族(東夷)
である殷朝を主体とする世界が展開していた。
ところが周朝になってから、文化のありようも変わり、東夷系種族への風当たりも強くなっていった。
それゆえ、周朝を嫌い、またはその魔の手から逃れる意味で、東夷系部族の大移動が発生
したことは督坑賁國密矩論でも少し記してある。
契丹古伝でも、24章以下で殷叔(箕子)の国が移動するさまが描かれているほか、上記23章の
ように潢族・潘族・宛族が移動したということが記されている。
このうち潢族については浜名氏も
潢が海に浮かんだとあるは、潢耳族が海に浮かんで去ったことを謂ふのであるが、
どの方面から去って、どの方面へ往いたのか、遺憾のことには何の徴證もない、
併し
(中略)其の中の大部若しくは一部は、我が国へ渡ったと想定される。
と記している(溯源p.499, 詳解p.213。太字強調と茶色のルビは引用者)。
文脈上、潢族は大陸から海へ出帆したものと読むのが自然だろう。(浜名氏は、潢を中国河南省方面と関連づけている(溯源p.353, 詳解p.67参照))。
潢族に限らず、東夷の諸部族が殷朝の敗北を機に移動を始めたことは確かであろう。
潢族以外の部族も、日本列島に入ってきた可能性も考えられる。
とすると、殷周の交替が弥生文化の開始と関係しているかも知れないという春成氏の指摘は、正しいのでは
ないだろうか。
○弥生文化の導入に際し縄文人と異なる種族の進入はあったのか?
このように、春成氏の言われるような文脈で弥生文化の開始を捉えるならば、当然、
日本列島における縄文人と弥生人の関係はどうなのか という問題をある程度詰めることが
大前提となってくる。
この、古くて新しいテーマだが、今では弥生人の渡来が教科書にも書かれる時代とはなった。
しかし、実際のところ、国民的コンセンサスを得たとまではいえない微妙なところではなかろうか。
色々の掲示板を見ても、いまだに意見が割れている。
しかも感情的なものも混在するためか、学説を適当に切り貼りしたり自分に都合よく解釈する不自然な意見が
ネット上で強弁されたりする妙な状況が依然続いている。
この論点につき当サイトとしては、かかる妙な状況もいずれ落ち着くと思い沈黙していたが、一向に収束せず、
むしろ混乱を引き起こす手合いもある様子さえ窺われるので、若干コメントしておきたいと思う。
(もちろん、弥生人の問題につき基本的な点は相当定着しているはずなので、
以下のことは自明なことと映る人も多かろう。そのような方にとっては以下の
内容のほとんどは不要かもしれない。しかし当サイト特有の問題もあるのでお読みいただければ幸いである。)
そもそも当サイトの場合、弥生人の問題の結論を契丹古伝のストーリーとどう具体的に組み合わせるのか
というさらなる論点があるわけで、通常の場合より厄介といえる。
当サイトの説明としては両者の問題の双方を見渡しつつ契丹古伝の記載も引用しながら説明した方が
分かりやすいと思われるので、以下ではそのようにしていきたい。
さて、上で潢族の話をしたが、これに関係する契丹古伝の記載として、第8章があげられる。
そもそも第20章で、東大古族は大きく4つに分類されているが、4つのうち最初に挙げられているのが
「阿祺毗
」系種族だ。これに関し、日本はこの阿祺毗系種族に含まれると浜名氏以来考えられて
いる(第7章参照)。
そしてこの阿祺毗系種族について契丹古伝第8章では
(現代語訳)
阿藝や央委や陽委や潢弭や伯弭や潘耶や淮委は、名を列し、族を聯ねている。
其の(名の)由来を尋ねるに、みな秦率旦阿祺毗に因むものである。
と述べている。つまり第8章は阿祺毗系種族のリストなのであるが、
そこにリストアップされているのは東大神族の中でも主流派のものが多い。
浜名氏によれば冒頭の阿藝が日本とされるのだが、先にみたように浜名氏によれば潢族の一部も日本に入って
いるとされていることに注意されたい。そして第8章ではこの潢族にあたる潢耳が同じ阿祺毗系とされている。
さらに扶余族(満州方面の古族)である潘耶も同じく阿祺毗系とされている。
彼らは、海洋性の濃淡などに差があるが、いずれにしても非縄文人的な容姿を持っていたはずである。
つまり、彫りが極端に深いこともなく、毛深いということもなかったという点では共通だろう。
これらの阿祺毗系種族が東大古族の重要部分である以上、
これらと相違がある縄文人は、
東大古族からはやや縁遠いと考えるのが自然である。
一方、弥生人や古墳人は、上記の阿祺毗系種族に含まれ、東大古族として日本人の中核をなしたと
考えるべきだろう。
つまり、日本列島において縄文人が先住民族であるところへ、
一定の時期に、列島の外から、日本人の中核がやってきたことになる。
この点を嫌がる人が出てきそうだ。
ただ、日本には神社という堂々たる祭祀文化があり、これが弥生・古墳文化に密接に関係する文化である
(縄文的ではない)点に注意されたい。
しかも同時に、半島の主流文化に神社的な祭祀が存在しないのと
好対照をなしている。
このことを矛盾なく捉えるにはどう考えればよいだろうか。
朝鮮半島人の主流派の典型的な気質・特徴が日本人のそれと大きく異なることを考えたとき、半島に
おける文化の分布・種族の分布なども時代時代によって大きく変化していたことを考慮しなくてはならない。
ただ、タイムマシンでもない限り、その変化の詳細を知ることは難しい。
難しいからといって、考察を放棄し、現在の朝鮮人が昔から半島のヌシであったと捉えるのは一種の
思考停止である。
従って「弥生人」=「現在の朝鮮人っぽい古代半島人のはぐれ者もしくは落ちこぼれ者が
対馬海峡を渡ってさらに劣化した存在」と捉える考え(本サイトでは今後これを二重劣化論と略す。二重劣化論に騙されてはいけない。)は神社のことからしても誤りである。
神社は立派な東大古族の文化であろう。
弥生人を中国東南部の江南の地のルーツとする(先の潢族の話と関係するかもしれない)
ことにこだわり、半島ルートの渡来の方をむきになって否定する人たちもいる。
しかし、それは半島を今の半島人の主流派が昔から独占していたという幻想に由来するのではないか。
(村山七郎氏は新羅語の
系統を引く今の朝鮮語について「北ツングースのなまりのかなり強いもの」
と捉えており、そうだとすれば新羅語をもたらした人々は半島外(である沿海州の内陸寄りかその周辺)
から半島に流入したことになる。)補注1
したがって、弥生人の到来につき、(もちろん潢族的ルートも興味深いが)
安易な決め付けは避け複数の到来ルートを検討していくべきだろう。
(特に稲作につき、イネの品種のDNAのデータの一部を強調して長江(揚子江)系ルートの到来以外
認めないという論者がいるが、①イネのデータにも各種のものがあること②最新の国際研究でも他ルートを
主張するものが登場していること③半島の出土状況は網羅性の点で依然疑問があること、等に照らせば、
安易にそのような単純説を採用するのは控えるべきであろう。)
いずれにしても日本人は立派な東大古族の血を引いていることは確かだろう。
ただ、日本人の原郷というのがはっきりしないとプライドが保てないという点は、気持はもちろん分かる。
しかし日本人は必ずどこかしっかりとした原郷(数か所に分かれるかもしれない-牟須氏系、非牟須氏系など)
で立派な生活を営んでいたはずである。
これについては「契丹古伝関連文献」で触れたロベーツだけでなく、色々な学者がさまざまな説を
建てているので、場合によっては紹介することもありうるが、できれば各自で検討頂ければと思う。
巨視的にみて、多数の弥生人が日本列島に流入したことはあきらかである。
昨今、縄文文化の継承を強調し、悠久の日本文化と強調するネット上の言論が盛んだ。
おそらく愛国的主張のつもりなのだろうが、「日本列島人」と「日本(大和)民族」を同義に扱うという
トリックを弄しているものがほとんどである。
前者は、古い時代の縄文人や後の弥生人を含む概念で
その居住地域が日本列島であればよく、アイヌをも包含する。
後者は、(論者により若干のブレはあろうが)、日本語をはじめと
する典型的日本文化の担い手であり、アイヌなどは含まれないし、移動により現在地に定着している可能性が
ある。
日本人の美徳の一つに先祖を敬うというものがあるが、縄文日本史観を述べ立てる人間の数千年前の
先祖が、その主張とはうらはらに、弥生系・古墳系の系統の人間である可能性は、有る程度顔つきからも想像できるだろう。
その場合、祖先を冒瀆している可能性が出てきていることに、その論者は気がついているのだろうか?
縄文人の中には争いを好まなかった人達がいた可能性もあるから、
地域によっては弥生人が比較的穏便に定着したところもあったかもしれない。
縄文人は、縄文土器を見ればわかるように、眉の突き出た、非常に彫りの深い顔立ちをしており、
体毛も毛深かったと考えられる。
一方、弥生人・古墳人は埴輪を見ればわかるように、もっとのっぺりとした顔付きをしている。
現在の日本で、主流となっているのはどちらの顔つきか、少し考えてみればわかるだろう。
神社の建物は、高床式建物に由来している。埴輪にもそれらしい建物が
あることからすると、神社は弥生文化とも古墳文化とも関連するといえる。
次の画像を参照されたい。
「所蔵資料詳細/囲形埴輪・家形埴輪」
(『宮内庁ホームページ』内)
https://www.kunaicho.go.jp/culture/shoryobu/syuzou-r18.html
日本文化の基本は、弥生人・古墳人がその担い手であり、縄文人が持っていた文化は
その弥生文化に覆いかぶせられる形で下に埋もれていった文化であると考えるのが妥当である。
縄文語も、日本語と異なる言語だったと考えるのが現在の通説的見解である(かつて縄文語も
日本語と大して変わらないものだったという見解(小泉保説)が出されたが、現在では否定に解されている)。
日本語も、到来した人々の存在なくして形成されていないということになる。
(ただし日本語は朝鮮語とかなり異なる言語である点に注意。)
それほど、弥生系文化は強力であった。そして、縄文人・弥生人・古墳人
のうち、契丹古伝でいう東大神族の中核に属するのは弥生人・古墳人であり、縄文人は
かなり縁遠いといえるだろう。
(弥生・古墳文化と大和朝廷の関係については、本宗家の権利所在論参照。)
もちろん、縄文人がほとんど滅ぼされるという事態には至っていないので、現代日本人にも、程度に個人差は
あるが、縄文的な要素が遺伝子に若干含まれるという事象くらいは生じる。
そして、遺伝子の縄文的な要素といってもその程度には色々ある。典型的弥生人の容姿をしていても、
DNAのある特定の一部分だけ縄文遺伝子になっていることもありうるわけで、
それを針小棒大に言い立て「だれそれは縄文人」と喧伝するのは誤りである。
世界のどの地域でも、さまざまな種族のさまざまなブレンドが起きるのが日常茶飯事であり、
そのようなことにこだわるのでなく、より巨視的に捉えれば、
日本人は基本、弥生的あるいは古墳人的な特徴を持っているといってよいだろう。
沖縄の人もアイヌと似ているとされることがあるが、非アイヌ的要素が案外濃いことについては遺伝学的にも
指摘されている(下記テンミニッツTVのページも参照。)し、容姿や言語から見てもそうであろう。
斎藤成也教授らによれば、縄文人から現代日本人にDNAが伝わっている割合は12%あるいは15%程度
になるという。あくまでこれも平均値で、個人差も想定される。
(斎藤成也
「縄文人から現代日本人にDNAが伝わっている割合は12%」
(『テンミニッツTV』ウェブページ内)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2584
[Wayback Machine版はこちら])
(集団遺伝研究部門・斎藤研究室
「縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定
〜東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜」(『国立遺伝学研究所ホームページ内)
https://www.nig.ac.jp/nig/ja/2016/09/research-highlights_ja/20160901.html
[Wayback Machine版はこちら])
このように、繰り返しになるが、弥生人・古墳人は契丹古伝でいう東大神族のメインの部分に含まれるが、
縄文人やアイヌはかなり縁遠いということになるだろう。
ただし、沖縄人は大和人に近い面があり、東大神族に含まれると考えられる。
(ただここで間違えてはならないのは、縄文人の血が多少濃かったとしても、
堂々たる神子神孫国たる日本において、日本人として、旧憲法下でいえば帝の臣民・赤子として生きている
以上は、みな神子神孫に組み入れられていると考えるべきだということである。)
弥生人の成立については、ネットの議論を見てもまだまだ粗野な論調が目立つ。
世の中には屁理屈をいう人がいるもので、細かい点に突っ込みを入れて論破したつもりになる人が
いる。それに惑わされるべきではないだろう。
例えば、殷周交替の前から、日本列島と海外との間にさまざまな交流・交易があったという論を持ちだす
人がいそうだ。それによって弥生文化ははるか古代から列島にあったと主張するやり方である。
もちろん、さまざまな交流があっただろうが、列島の縄文文化の特徴を完全に覆すには
至っていなかったといえる。
もちろん、地域的には割合と早期から弥生的な人が入り弥生化していた地域もあるだろうが、
それを日本列島全部に一般化して論を建てるのもおかしいだろう。
さらに、半島や大陸にも紀元前に縄文的な人が若干分布していたという話を利用し、もともと
縄文人が始原的文化の中核的存在であったとする説もありそうだ。
だがそれなら、縄文文化こそ根源的・本質的文化ということになり、その文化を我々は維持しなければ
ならなかったはずだ。それなのに縄文文化が水面下に追いやられたのはなぜなのか、
について納得のいく説明ができないはずである。
大陸からきた弥生人の一部に大陸縄文人の血がわずかに混じっており、彼らも列島到来者に含まれるという
意味の主張もありそうだ。
だがその場合、彼らも縄文土器使用者ではなく弥生的文化の担い手になるから、
列島に来て縄文文化を強化する立場ではなく、むしろ逆の立場となる。とすればあまり論じる意味がなく、
単に人々を煙に巻くための話と云うことになるのではないか。
さらに、渡来者はそれほど大人数ではなく少数が持続的に渡来し続けたために、縄文人の容姿などが
ゆるやかに変化していったにすぎないと強調する説もある。
しかし、少数の流入ならば言語の変化は
おこらず、縄文語が維持されたはずだから、この見解もどこかおかしい。
このように、いろいろと妙な説が流布されているが、「日本列島(居住)民」の連続性を
謳おうとすればするほど、それは「大和民族」の古来からの栄光ある歴史とは異なるものとなり、
むしろその栄光を損なうものになるのではないか。この点をよく考えてみる必要がある。
(もちろん縄文文化には独自の価値があり、そのことを否定するものではない。補注2末尾も参照。)
おわりに
上のほうで、「日本人は必ずどこかしっかりとした原郷で立派な生活を営んでいたはず」と書いた。
この詳細が史書に載せられていないことが、人々の惑いの原因の一つといえるが、不掲載であるのは
しかるべき理由・事情があってのことと察せられる。
昭和20年の終戦後、米国は日本に対し色々な主張をしないように圧力を掛けたことは事実である。
古代の日本においても、何らかの特殊事情がある時期生じた可能性もある。
圧力のせいで書かないというケースだけでなく、「あまりの情けなさに書く気が起きない」、つまり
「語るに落ちるような酷い人たち[(移動を余儀なくさせた事情に関連する存在)]
のことについてもはや触れたくない」という事情があった可能性もあろう。
ついでにいえば、そもそも、種族が移動する際に地名遷移(移動先で似た地名を付ける)が生じやすいという
話があるが、遷移するのは地名だけとは限らない。
物語ごと、別の場所に付け替えられてしまうこともあるということは
歴史を読むときにそれなりに留意しておかなければならないだろう。
弥生人の出現については、かつては「縄文人が稲作文化を学んで自然に変化しただけ」という考えが
支配的であった。遺伝子学の成果として、そうではないという顕著なデータが前世紀の終わり頃から増加
していったが、流入の経路にケチをつけるなどの屁理屈でできるだけ矮小化して理解する向きが多かった。
今世紀に入って、さらに様々なデータが得られるようになり、逆にデータの処理のコンセプトの差から
分析結果に差が出るなどの事態が生じているが、いずれにしても弥生人の圧倒的流入は動かしがたいと
見るべきである。
しかし、それが世間のコンセンサスとはなっていない雰囲気が継続しているのは、そのストーリーが
不愉快なイメージを与えるからだろう。
マスコミも現代人と縄文人との関連を強調した書き方をするので、
同じことが扱われていても印象操作で何となく誤魔化されている事態が生じている。
むしろそれを読者も
望んでいるのかもしれない。
しかしそれは半分は思慮不足・誤解が原因である。
誰しも、大昔から現在の地に住んでいたと思いたい心情はあろう。(補注2)
しかしアングロサクソン族も、当然大陸から民族移動した結果英米両国で栄えている。
(アングル族はバルト海と北海の間にあるユトランド半島南部が原住地、
サクソン族はドイツ北西部の低地ザクセンが原住地)。
トルコ人も偉大な民族だが、
決して今のトルコ共和国の場所が原郷ではない。原郷はモンゴル方面なのであるが、トルコ人は
決してモンゴル人の劣化種とはいえまい。
日本人も必ずどこかしっかりとした原郷で立派な生活を営んでいたはずである。何かの劣化種と捉える
必要はない。今や日本語の原郷の比定で外人同士が議論している時代になっているのだ。
そしてさまざまな歴史のねじれにより、この経緯がある意味隠されてしまった状態で一般常識が形成されて
しまったことが、もう半分の原因といえるだろう。
この二つの原因によるバイアスを是正した時に、案外素直に歴史に向きあうことができるのではないだろうか。
現在の文化に近い形で、自分たちが太古から現在の場所で(現在の自分たちの言語を使用して)暮らして
いたことにしたいというのは、世界のだれもが陥りがちな罠である。冷静に見ていく必要があるだろう。
罠に陥りやすいといっても、誰もトルコ族の巨大勢力がトルコ共和国にあることを否定しないと思われる。
もちろん東トルキスタン、トルクメニスタン、さらにウイグル方面の方が彼らの故地に近づいてはおり、
それらも当然トルコ系ではあろうが、それらの民がトルコ共和国に対して「優越的地位」や「起源」を主張
するのは変だ。正しくは、彼らと分かれてその辺りに残った人々ということになる。
まして、突厥のあった場所に近いからといってモンゴル人が
「優越的地位」や「起源」を主張したら論外となろう。
「移動者」即「はぐれ者」とはならず、「核心的勢力」の所在がどこかということこそが重要で、
それは常に一定の場所に固定されているとは限らない。
このようなあたりまえのことが、なぜか顧みられないのなら是正しなければならない。
そして契丹古伝はこのような新しい眼で捉えなおしたときに色あせるどころか、なぜか
一層の輝きを発する不思議な書物なのである。
以上
以下は補注である。
補注1 北ツングースの訛りの強い朝鮮語
村山七郎氏は朝鮮語は北ツングースのなまりが強い旨を時々述べておられたが、例えば次のように書いている。
幹収縮の点で、朝鮮語は北ツングース語のラムート語に似ている。
(村山七郎「日本語語源の研究」(日本語語源研究会編『語源探究2』明治書院 1990年所収)p.265)
補注2 大昔から現在の地に住んでいたと思いたい心情について
アメリカの白人は(ヒスパニック系等を別にすれば)イギリスやアイルランドからの移民の子孫で
あることは当然の話だが、やはり「昔からここに住んでいたことにしたい」という欲望もある模様
である。ネイティブアメリカンの血が少量入っていることをアイデンティティにするという(宗教的な)考えが
一部の白人に存在し、一定の勢力として存続しているのは、そのためであろう。
同様に、日本人も「昔からここに住んでいたことにしたい」欲望から「縄文アイデンティティ」への
傾斜ということが起こりやすい状況にある。
しかし、どうしてもそうしたいのであれば、縄文系容姿の人を君主に立てた縄文国体を立て、デザイン感覚も
宗教感覚もすべて縄文的に修正、塗り替えるのが筋であろうと思う。
そこまでしないというのであれば、日本文化の下層文化として保護・維持するという前提で
縄文的な文化を副次的に愛好するというのが筋であるはずである。
イングランドはいうまでもなく英国の中核的な地域である。かつてイングランド古王国などアングロサクソン
系の諸王朝が栄えた歴史があり、アングロサクソン族が繁栄している場所である。
しかしアングロサクソン族(ゲルマン民族の一つ)が大陸から入る前は、ケルト系民族が棲んでおり、
そのケルト系諸国は滅ぼされたのである。
従ってイングランドにもその下層にはケルト文化があるわけであり、多少混血もしているであろう。
だからといって、もしイングランドのアングロサクソンの人達が「ケルト・アイデンティティ」
を主張したとすればどう思われるだろうか。それはやはり「何かが変だ」ということになるのである。
イングランドのことと比べてみれば、安易な縄文傾斜は、別の何かを捨て去ることになりかねないので
慎重に考えていかねばならないと思う。
(別に縄文文化をけなしているわけではなく、芸術性も高く、評価されるべき文化だとは思うが、
日本的な文化といわれるものの核心ではないということを述べているのである。)
補注はここまで。
2022.11.15
(c)東族古伝研究会