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このページは、
「契丹古伝」28章の登場人物「督坑賁國密矩」について、今までの解釈とは異なる知見を述べるものである。
「督坑賁國密矩」(殷叔(箕子)の養子)の正体は
紂王の皇子「武庚禄父」(またはそれに準じる皇子)である
(契丹古伝28章の新解釈)
●おことわり
この論考は本来、本年6月を目途にリリースする予定で執筆していたものである。
太公望篇で説明した多くの事項を前提にする内容であるため、太公望篇のリリース
(2020年12月15日)から4カ月も経過していない2021年4月という時期に発表するのは
本来時期尚早であることはもちろんである。未だ太公望篇を熟読しておられない方が多数おられるからである。
ただ、諸般の事情により、6月やそれ以降における発表そのものができなくなる可能性が残念ながら生じてしまったため、
やむ無くリリース時期を早めることにした。自分としてはその後の時期の更新も行いたいとは思っているので、大事をとっての処置といえる。
皆様の中には、本論考にしてもあまり興味が持てないという方もおられるとは思うが、
太公望篇(含 本宗家論・誅滅時期論・滅韓時期論)を含めてできればお読みいただき、
自分の真意を推察頂ければ幸いである。
(万一今後自分からの饒舌な説明がなくなったとしても)。
●まえがき
本論考は「太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈」
(令和2年(2020年)12月15日発表)の一種の続編である。
「太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈)」で得た結論や理由の部分を前提にしているので、
本稿を読まれる前に、まずそちら(太公望篇)をお読み頂くと理解が容易になると思われる。
上記太公望篇では、太公望が「克殷」後に殷側のある人物によって倒されたこと、
その人物は有名な人物であったが歴史上抹消されせいぜい小説上の人物として変名で登場することが期待
されうる程度であること等を、
簡略化した年表等を使用して説明した(上にリンクしたページからさらに先のページへ進んだ所に年表や図などを掲載)。
これは今までの契丹古伝解釈を塗り替える新解釈であるが、自分としては十分妥当でありかつ正しい解釈と考えている。
さて続編とはいったものの、本稿で採り上げるのは太公望呂尚ではなく、別の重要人物である。
太公望篇では「夏莫且」の正体に迫ったが、今回は「督坑賁國密矩」という人物の正体に迫っていく。
今回も、今までの契丹古伝解釈にない新解釈となる。
この新解釈は、読みようによっては波紋を呼ぶ事になるかもしれない。もちろんそのようなことは
本意ではないけれども。
それゆえ本稿を発表するかしないかについては一種の決断を迫られる面があった。
発表は時期尚早かとの思いもあったが、諸般の事情に鑑み今回発表の運びとなったことは
感無量である。
本論考も先学諸賢のさまざまな知見の上に成り立っており、学恩に改めて感謝する次第である。
特に今回、諸事情を考慮し、本論考については、謹んで樹氏に捧げることにした。
お会いしたことはないけれども、色々と勉強させて頂いているにもかかわらず、礼を欠くこと
があったかもしれないので、本論考で少しでもその埋め合わせができればと願っている。
●殷朝が倒れても抵抗活動をつづけた殷王族「殷叔(箕子)」の「辰沄殷」国
周の武王が殷を倒しても、まだ殷朝の民が当然に服属したわけではなかった。
反乱も当然起きてくるわけだが、契丹古伝には「殷叔(箕子)」(一般には殷の最後の王「紂王」の叔父とされる人物)
を奉じての抵抗活動が記されている。殷叔は渤海
に面した場所に「辰沄殷」という国を建てていたのだ。
それとは別に、一般に有名な反乱として知られているものとして、殷の旧都で起きた、「三監の乱」と呼ばれる動乱がある。
これも実質は殷遺民の大規模な反乱であり、ここに殷の最後の王「紂王」の皇子「武庚禄父」が関係してくる(後述)。
そして「三監の乱」に引き続き、山東半島方面にも大乱が発生することになる。
契丹古伝の立場から評価すれば、これらは漢民族同士の内部抗争ではなく、
周族(西族=漢民族)vs殷系勢力(東夷)の争いということになる。
●殷叔(箕子)とその養子「督坑賁國密矩」
殷が周に倒された直後に、上でも少し触れたが、
契丹古伝24章において、一般には「箕子」とされる人物が「子叔釐賖」
の名で登場する。(「子」は姓、「釐賖」は名(一般には胥余という名で伝わっている)。)
一般常識からすれば、箕子は、一般には殷の最後の王・紂王の叔父とされる人物で、賢人とされ、殷の王族ではあるが、
紂王と異なり、周からも善人として扱われる人物で、周の武王に統治法を伝授したことになっている。
そして殷の民を率いて中国東北部、遼西・遼東方面へ移ったともいう。
しかし契丹古伝では、しばしば「殷叔」という略称で登場し、
殷が周に倒された後「武伯」によって
擁立され、渤海に面した地域と思われる葛零基という場所(今の北京より東方)に「辰沄殷」という国を
建国したと記されている。
しかも、武王からの「箕の地に封じる」という申し出を断っているので、そもそも「箕子」では
ないことになる。(もちろん殷朝からは封じられていた可能性はあるだろう。)
そして、契丹古伝の立場からは、箕子は漢民族ではなく、漢民族(周人、西族)が
西方からやって来る以前から中国を支配していた「東族」人であるので、
「辰沄殷」の王として、西族による乗っ取りへの抵抗活動を続けた存在となる。
このように、「箕子」こと殷叔の動静は、ある程度契丹古伝でもうかがえるのであるが、
意外なことに、契丹古伝では殷叔には子がいなかったため、養子をとったという。
殷叔老無子。(中略)養密矩爲嗣。
殷叔老いて子無し。(中略)
密矩を養ひて嗣と為す。
殷叔は老いており子が無く、(中略)
密矩を養子とし後継ぎとした。
尋殂。壽八十九。督抗賁國密矩立。
尋いで殂す。寿八十九。督坑賁國密矩立つ。
その後ほどなくして亡くなった。年齢は八十九歳。 督坑賁國密矩が即位した。
(契丹古伝28章。同章の内容の詳細は後述する)
もちろん、「辰沄殷」は殷の継続を図るために建てられたのだから、常識的には、殷王家の血筋を引くだれか傍系の人物を養子にしているのだろうということになりそうだ。
ただし一般には、箕子の子孫は箕子の国の最後の王「準王」
まで連綿と続いたと思われているから、養子というのは意外な事実となる。
本論考では、養子となった「督坑賁國密矩」の正体が意外な人物であることを明かしていくことになる。
○本論考の意義について
ところで、『契丹古伝』の浜名氏以来の解釈としては、全ては日本で生まれた皇子が船で中国東北部に
降り立ったことから始まるとされていたから、殷朝の後継関係がどのように意外なものであろうとも、どうでも
いいことだと思われる方が多いかもしれない。
しかし、「太公望篇」の附属ページ「本宗家論」でも述べたように、契丹古伝では本宗家は日本であるとまではされていない
のであり、浜名氏の解釈は読者をミスリードしている部分がある。このことは契丹古伝が浜名の手による偽作で
ないことを意味するから、逆に重要である。しかもその一方、第7章であきらかに日本は神子神孫の諸国のグループの
一員であることは読み取れるのである。
皇子の降臨地として、文書製作者にゆかりの地が設定される
ことは十分考えられるのであり、そのことを踏まえたうえで、契丹古伝の固有名詞に日本の神名と似たもの
が多いのがなぜなのかを考察していく必要がある。
一見、矛盾に満ちたパズルのように思えるが、その謎の解決の手掛かりとなるものの一つに、
「本宗家」殷朝に関するミステリーがあるといえる。しかも、浜名氏の解釈では、殷朝は本宗家の位置を
認められていなかったから、その点を修正し殷朝を本宗家とした上で考察を進めていく必要がある。
釈然としない方も多いかもしれないが、前稿「太公望篇」や本稿を読み解く中で、新たな気づきを得られること
も多いと思うので、浜名説を信奉する方にもご一読をお勧めする次第である。
○殷が倒れた直後の周朝支配のありさま──「三監の乱」の実態、勃発する大「反乱」
殷叔の養子となった「督坑賁國密矩」の正体を探るには、周の武王が殷を滅ぼした後に
残された殷の民のありかた等、周の初期の様子を知る必要がある。
この時期、周の支配体制はどういう状況にあっただろうか。
『史記』によれば、殷の都周辺の殷民を管理するため、周は、武王の子である「管叔」と「蔡叔」
及び、殷の紂王の皇子「武庚禄父」の3人を「三監」として、その任に当たらせていた。
ところが、周の武王はほどなく死に、後を継いだ子の成王がまだ若いため兄の周公旦が摂政となった。
この時「三監」のうちの2人、「管叔」と「蔡叔」は、自分たちの兄弟である周公旦が国をほしいままにするのではと疑念を抱いた。
そこで、彼らは殷の皇子「武庚禄父」を担ぎあげて殷の民とともに反乱を起こし、周公旦に
鎮圧されたという。
この乱を「三監の乱」と呼んでいる。
ただ、この伝統的理解も、近年発掘された金属器の銘文や、竹簡の記載によって崩れてきて
おり、修正を迫られているのだ。
どのように修正するかにつき、まだ争いのある部分はあるが、「三監」
には「武庚禄父」は含まれず、三人とも武王の子であり、上記2人に「霍叔」を加えた
3人が「三監」で、「武庚禄父」は逆に監視される側であったという見解(従来は異説とされてきた
見解で、一部の書物に関連記載あり)もかなり有力である。
さらに、「三監」自体、管叔や蔡叔などではないかもしれないという見解さえある。
これ{(清華簡『繋年』第三章)}によると、反乱の主体となったのは商邑、すなわち
もとの大邑商{(=今の河南省にあった殷の都)}の人々であり、・・・更に周公ではなく成王自らが
征伐に当たったことになっている。
この文からは管叔や蔡叔が反乱に加わっていたのか、更には彼らが三監であったのか
どうかもわからない。
(佐藤信弥『周──理想化された古代王朝』中央公論新社 2019年 p.37-p.38)
当時の状況を推し量ると、「武庚禄父」は監視する側というよりは監視される側であったろう。
『詩経』には周の初期の様子を描いた詩も収録されている。周の都からみて東部、契丹古伝的に
いえば東族である人々が周側の人々にこき使われ、苦しんでいる様子が描かれている詩もあるのだ。[注1-1][注大東]
このような周側の態度からすれば、旧殷都の人々が不満を募らせ、反乱をおこすということは
十分考えられよう。
「三監の乱」に引き続き、あるいは連動して、東部、山東省方面でも反乱が勃発し、
「東夷の反乱」ともいうべき大反乱に発展し、周の成王、および周公旦や召公が総がかりで鎮圧したという
ことが史書に残されている。
しかも金属器の銘文などからすると、史書に記されている以上に抵抗が激しかったことが
わかってきた。それこそ周王朝の存続に黄信号がともるほどにである。
司馬遷の『史記』その他の書物は、周の体面を傷つけないようにするため、「三監の乱」の主原因を
周王族内部の内輪もめであるかのように演出し、武庚禄父は担ぎ出されたにすぎないように
見せかけたのだと考えられる。倒したはずの殷に逆襲されたとするよりは、王家にありがちな
内紛に仕立てたほうがまだしも体面が保たれるからであろう。
浜名氏以来の契丹古伝解釈では、「三監の乱」をはじめとする東族の大反乱について契丹古伝は扱って
いないことにされていた。武庚禄父は担ぎ出されたにすぎないからかもしれない、等と
自分も注釈したことがある。
しかし、そうではなく、東族を主体とする大反攻である以上、
契丹古伝がそのことを無視しているというのは不自然である。従来の解釈を見直した結果、実は
契丹古伝の第27章こそが この大反攻を扱っていることが判明した。くわしくは
「太公望の意外な最期(契丹古伝第23~28章の新解釈)」で既に論じてある。
いずれにしても、「三監の乱」の主体が旧殷側勢力であることは佐藤信弥氏も次のように指摘されている。
少なくとも金文と『繋年』第三章の記述からは、・・・
「三監の乱」の首謀者は管叔
・蔡叔
であり{かつ(彼ら武王の王子同士による)周の}、王位争奪戦争の性質を具えていた とは、
まったく読み取れない。これら出土文字資料の記述に則した場合、反乱の呼称も「三監の乱」
ではなく、{殷の王子である}彔子聖の乱あるいは商邑の乱と呼ぶほうがふさわしいということになろう。
(佐藤信弥「「三監の亂」說話の形成―淸華簡『繫年』第三章より見る―」
『漢字學硏究』第二號 p.26)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kanjigaku2/no02_02.pdf
○武庚禄父と同一人とされる、発掘物にのみ見える謎の王子「彔子聖」・「彔子耿」
上記佐藤信弥氏の説明中に登場する「彔子聖」というのは、金文(金属器の銘文)に記載されている名前で、
殷の紂王の皇子、武庚禄父の当時の呼び名であると解されている。
また、清華大学保有の竹簡『繋年』に登場する「彔子耿」という人物も同一人とされる。
佐藤信弥氏も
この{金文の<大保簋>に見える}彔子聖が 武庚禄父、彔子耿にあたる。
(中略)征伐の対象となった彔子聖は、また<08王子聖觚>など自前の青銅器を残しており、
それらの銘文では「王子聖」と称している。殷の王子ということである。
(佐藤信弥『周──理想化された古代王朝』中央公論新社 2019年 p.38)
とされている。
武庚禄父については、種々の異説もあり、武庚と禄父は別人とする説もある。また、彔子聖や彔子耿との
関係についても別人説はある。さらに彔子聖は紂王の子ではなく甥あるいは孫ではないか等の説もある。
ただ、学説の大勢は、武庚禄父=彔子聖=彔子耿で、紂王の子とする(かつ紂王の太子とする見解も多い)ので、便宜上、
これに従って以下も表記していくことにする。ただし、若干幅をもって捉えておいた方が良いことは
付言しておきたい。
※彔子聖・彔子耿の読み方についてーーー
彔子聖・彔子耿
は同一人物とするのが多数説であるが、
なぜ聖と耿とで読み方が異なるのかという問題がある。
中国の清華大学の竹簡の整理者である李學勤氏は「聖と耿は本来同音である」という見解を採っている。[注1-2]
これは聖という発音が当時の発音ではセイ・ショウというよりはキョウ・コウのような音
で耿にほぼ近いとする考えである。
一種の異説を根拠にしている説で、日本の学者の漢字説とも異なるので一見間違いにも思えるが、
聖の漢字音の推定上古音は語頭にsがつかない形(Axel Schuesslerの推定によれば*hjeŋh または *lheŋh)で
あることから結果的に正しいのではないかと自分は考えている。
最近では
彔
子
聖
・
彔
子
耳口
という表記が多く使われるようになったが、
聖と表記すればどうしてもセイとかショウと発音してしまい、当時の発音と大きく異なることになる。
実際の発音はキョウ・コウ・ヨウのようなもので耿に近いのである。
彔
子
耳口
と
書いて「ロクシコウ」と読む方も実際おられる。
そこで混乱をさけるため、本論では「耿」字を使用し
彔
子
耿
の表記の方で原則表記することにする。
従って、武庚禄父=彔子耿という通説的見解と合わせて考慮した場合、
武庚禄父の実名は「耿」であり、「彔
子」という肩書きを持っていたことになる。
ちなみに、道教関係では、殷の紂王の王子が「殷郊」の名で古くから祀られており、13世紀の
彭元泰が著した『天心地司大法』に殷郊の名が見える。(殷郊は正史に登場しない名前である。)国を失った怒りを表わすためか、殷郊の像は
憤怒の表情をしていることが多い。
ただ、殷郊という名について言えば、もしかするとそれは彔子耿の名がわずかに形を変えて
民間の記憶に残ったものなのかもしれない。
○武庚禄父(禄子耿)のその後──実は生きていた殷朝の正統
この武庚禄父もしくは彔子聖(彔子
耿)については、三監の乱の鎮圧によって落命したと一般にはされている。
『史記』など史書の記述もそうなっているし、清華大学の竹簡にも、そう書かれている。
しかし、『逸周書』には、異なる記述がある。
武王克殷,乃立王子祿父,俾守商祀,
武王は殷に勝ち、(殷の紂王の)王子禄父を立てて、殷の祭祀を司らせた。
建管叔于東,建蔡叔,霍叔于殷,俾監殷臣,
(武王の子である)管叔を(殷の都の朝歌の)東に配置し、蔡叔と霍叔を殷(の都)に置いて、
殷臣を監視させた。
王既歸,乃歲十二月崩鎬,肂于岐周,
武王は既に周の都に帰還していたが、同年(または翌年)12月に鎬の京で崩御した。岐(周原)の地に仮葬した。
周公立,相天子, 三叔及殷東,徐奄及熊盈 以略,
周公旦は立って、天子(武王の子の成王)を補佐した。
三叔(管叔と蔡叔と霍叔)及び殷東・徐奄・熊盈が反乱を起こした。
(中略)
二年,又作師旅,臨衛政殷,
(成王の)二年、また軍隊を編成して衛の地に臨み、殷の都一帯を攻めた。
殷大震潰,降辟三叔,王子禄父北奔,管叔經而卒,乃囚蔡叔于郭淩,
殷は総崩れとなった。周は三叔に罰を与えた。(紂王の)王子禄父は北に奔り、管叔は絞首により死亡し、
蔡叔は郭淩の地に拘禁された。
(『逸周書』作雒解 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=82376&page=88 )和訳と太字強調は引用者による
つまり、『逸周書』によれば、武庚禄父は死亡したのではなく、北へ逃げたのだという。
まさかそんなことがと思われるかも知れないが、後述のように、逸周書の説を採用する高名な中国の学者もおり、
自分も無視できない見解と考えている。
逃げたということを認めることは、周にとって極めて都合が悪いことであろう。
それゆえ、あくまでも首魁を退治し乱を無事鎮圧したという建前を押し通すことにし、
表向きはそのように発表して、金文にもそのように記録されたと
いうことは充分ありうると考える。
周としては、その体制を存続させ、プライドを貫くためにも、武庚禄父の脱出を隠蔽したのかもしれない。
さらに後世になると、武庚禄父が「反乱」の主体・指導者であること自体も隠蔽していったのではないだろうか。
そして現在残る史書では武庚禄父はただ「担ぎ出されただけ」の存在になってしまったのである。
●謎の顧頡剛氏「武庚禄父 北遷説」
顧頡剛氏(1980年死去)
は、現代中国の最も傑出した歴史学者の一人とされる極めて高名な人物である。
そんな彼が、意外なことに、紂王の皇子「武庚禄父」は殺されずに中国東北部方面へ逃げた
という説を主張したのである。
この説は中国語版Wikipediaの武庚の項目
「武庚[ 2020年2月18日 (火) 20:51時点の版]」
中文版『維基百科 (Wikipedia):自由的百科全書』
https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E6%AD%A6%E5%BA%9A
の最後のあたりにも紹介されているため、それによってある程度
顧頡剛説の内容の概略を知ることは可能である。(出典が明示されていないが、
顧氏のある書簡を引用に近いかたちで載せたものである。ただし、一番最後の方の説明は不正確である。)
ただ、もともとこの見解は顧頡剛
氏の「周公東征史事考證」
という論文の中で詳細に論じられたものであるので、その内容について少し触れておきたい。
周の成王の時代の初期、兄の周公旦が摂政だった(王位についていたという説もある)時に、東族の反乱
が起きたことは当サイトでも強調してきたことである。
その時に、周の王が諸侯に反乱征伐への協力を
求めるありさまを描いたのが、中国の古典『書経(尚書ともいう)』の「大誥」である。
顧頡剛氏は1961年、この「大誥」に関する「尚書大誥訳証」を完成させたが、あまりに大部のため、
その考証部分を大幅にカットして発表せざるを得なかったという。
そして、その考証部分をベースに肉付けをする形で「周公東征史事考證」として執筆を進め、
1966年には完成に近づいたものの、
文化大革命等の事情で発表はされぬまま、氏の死後に遺稿として学術雑誌『文史』に
1984年から1988年にかけて掲載されたものがこの論文である。
この論文「周公東征史事考證」はいくつかの部分に分けられている[注1-3]が、武庚禄父の話は「三監的結局」
の章に登場する。
顧頡剛氏はまず、『逸周書』の「殷大震潰,王子禄父北奔(殷は大崩壊に至り、王子禄父は北に奔る)」を引用し、
禄父が当初封じられた邶の地(氏は河北省最南部、[殷の都のすぐ北方]に比定する)から北に逃亡して
周公旦の勢力範囲を超えることは、大いに可能だと捉える。[注1-4]
そしてその北上は後世の盧綰(劉邦の幼馴染で燕王)の匈奴亡命などと同様な事件だとする。
また、その根拠として、王国維氏の説(邶と燕(北京方面)の関係を指摘するもの)を引き合いに出している。
(注:王国維説は、北伯器などの出土品に鑑み、邶自体の所在がもともと北方の燕の地(易県[北京市の南隣り・保定市内])に
あって武庚もそこに所在したと考え、三監の管轄を広大なものと捉えるので、そのまま顧氏説の根拠になるのではない。
王国維説(王国維『北伯鼎跋』の中で主張された見解)に顧氏独自の修正を加え、邶の勢力が乱の失敗後北上して燕方面に入った関係で
それらの出土が見られるとする趣旨と思われる。)
顧頡剛氏は次に、司馬遷の『史記』に殷系子孫の氏として「北殷氏」が載ることを挙げて、この北殷は、
武庚禄父が北奔して作った国のことではないかとする。[注1-5]
また顧頡剛氏は、『史記索隠』の著者司馬貞が、北殷が武庚禄父の国であることを知らずに、
西方の殷系の国「亳」と混同して(秦の寧公が北殷を滅ぼしたという)誤った注釈をつけたとしている。
そして、「亳」とは殷の都城を表す汎称であるとして、武庚禄父の国は
『春秋左氏伝』に「粛慎、燕、亳、吾が北土なり」とあるその「亳」であるとする。[注1-6]
そして亳の地は燕に接する地(渤海の北側、遼西方面)であったと解釈している。
一方顧頡剛氏は、箕子(紂王の叔父とされるが異説もある)の東遷については伝説に過ぎないとして否定する
(箕子の領地はむしろ西方の山西省にあったとする)。[注1-7]
武庚が率いた殷民の子孫が、周政権が嫌う武庚の名を出すことをはばかって、崇高な人物とされる
箕子を引き合いに出したこと等の事情で箕子伝説が誕生したと捉えているのである。
(箕子を否定している点は、契丹古伝とも適合しなさそうではあるが、この点は後で検討しよう。)
このように、顧頡剛氏は武庚禄父が民を率いて北に脱出し、北殷となったと主張しているのだ。
(北殷のその後に関する氏の説については後述。)
自分も、氏の説の細部はともかく、武庚禄父は殷の都を脱出したと考える点では同じなのであるが、
それは中国の伝統的通説・ドグマとは正反対の解釈である。それをこの大学者が採用しているというのは、
興味深いことである。
この論文には色々と続きがあり、「奄和蒲姑的南遷」の章でも
殷と密接に関係する諸侯国が周に討たれて移動していった先について種々の検討が加えられている。[注1-8]
そのうちの1つ「蒲姑」も周公旦の東征によって滅ぼされた国とされ、
周への反抗心が強かった国といえる。
しかし、この国の行く末について、顧頡剛氏は少し奇妙な論を立てている。
追い出された「蒲姑」は江蘇省南部の呉県(今の江蘇省蘇州市姑蘇区)へ入ったというのだ。[注1-9]
その論拠は蒲姑大冢という塚があるからという程度のものに過ぎないのだが、
江蘇省蘇州市姑蘇区は実は顧頡剛氏の故郷にあたる。これは何を意味するのだろうか。
「周公東征史事考証」の論文で顧頡剛氏は、儒教的聖人とされる周公旦を激しく罵っている。
一応これは、社会主義の立場から儒教を非難する目的でなされたという説明も可能ではある。
しかし、この論文の最後まで読めば、
顧頡剛氏は周族に追いやられた側、つまり契丹古伝でいう「東族」のありさまに深い関心をもつ
学者だったのではないかという推測を立てることが可能である。
彼は民俗学の研究者としても第一人者であり、日本でいえば柳田国男のような調査研究を行った人でもある。
彼は周族の文化の陰に埋もれた「東族」の文化を発掘しようとしたのではないか。
ただこの点について、彼の対日姿勢について指摘する方が当然おられるとは思うのだが、
種々の理由により別ページで若干論じておいた。
●その他の武庚禄父北奔肯定説
顧頡剛氏以降にも「禄父北奔」を肯定する説は登場しており、
例えば陳昌遠氏・陳隆文氏は2004年に
(※上記『逸周書』の武王克殷から王子禄父北奔までの引用のあとに、それに基づく自説の説明として)
此“殷臣”就是指“武庚禄父”,后禄父北奔。
この{逸周書にいう}「殷臣(臣下である殷人)」とは「武庚禄父」を指し、
その後 禄父は北に奔るのである。
(陳昌遠・陳隆文「“三監”人物彊地及其地望辨析——兼論康叔的始封地問題」
『河南大学学報(社会科学版)』2004年02期 p.31)和訳・太字強調は引用者による
と、短くではあるものの武庚禄父北奔を肯定している。[注1-10]
清華大学の入手した竹簡が2011年に公刊され、周の初期に関する参考資料が増加した今日においても、
「武庚禄父(彔子聖)北奔」の可能性はなお失われていない。
例えば、権威ある雑誌『中央研究院歴史語言研究所集刊』に2020年冬に掲載された、
王紅亮氏(陝西師範大学歴史文化学院)による
「邶、康丘與殷墟——
清華簡《繫年》
與 周初 史事 重構」は次のように述べる。
司馬遷説封康叔之封在「殺武庚禄父・管叔,放蔡叔」之後,後者即二年克殷。
實際上武庚未被殺死而是北奔。
司馬遷の説では康叔が衛の地に封じられたのは「武庚禄父と管叔とを殺し、蔡叔を追放した」後であり、
「後」とは、周の成王の二年の克殷(殷遺民の反乱の鎮圧)を指す。
事実としては、武庚はいまだ殺されず、北に奔ったのである。
(王紅亮「邶、康丘與殷墟——清華簡《繫年》與周初史事重構」
『中央研究院歴史語言研究所集刊』第九十一本,第四分 p.611 2020年12月)和訳・太字強調は引用者による
http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4592IkvHspS.pdf
故周軍又據衛攻殷,結果王子禄父率領殷国的残餘突圍北奔
それゆえ、周の軍は衛の地を拠点として殷の旧都を攻め、
その結果、王子禄父は殷の残存勢力を率い、包囲を突破して北に奔った。(同書p.598)
而武庚在成王二年既已北奔
そして武庚は成王の二年に既に北に奔っていた。(同書p.603)
周成王二年克殷,武庚北奔,親信飛廉也東逃
周の成王の二年、旧殷都の反乱を鎮圧し、武庚は北に奔り、武庚の信頼する飛廉は東に逃げた。(同書p.617)
このように王紅亮氏は武庚禄父(彔子聖)北奔説を採用している。
この論文には、殷朝に対する好意のようなものがあまり感じられない部分もあるのではあるが、
それにもかかわらず「北奔」の語は文献からの引用を含め10回以上登場する。
これは「三監の乱」の研究においてそれだけ『逸周書』の重要性が今なお高いことを示すのではないだろうか。
●武庚禄父移動説と契丹古伝との関係
さて、顧頡剛氏の「武庚禄父 北遷説」に話を戻そう。
顧氏は、殷の王族である箕子(『契丹古伝』でいう殷叔にあたる。箕子は紂王の叔父とされるが、
その血縁関係についてはさまざまな説がある)が東方に移動したことについては伝説として否定する。
当然、『契丹古伝』で殷叔(箕子)の国が河北省から遼西方面へ移動したとしていることには適合しない見解である。
しかしその一方で、顧氏は紂王の皇子武庚禄父が死なずに北方へ逃げたとし、さらに遼東方面・その
周辺に影響を与えたとしているのである。この点は東族の抵抗活動として興味深い指摘である。
そこで、ここで一つ皆様にクイズを出題したい。
顧氏の武庚禄父移動説を、もし『契丹古伝』の平面に移し変えたらどうなるだろうか。
つまり、氏の説を『契丹古伝』世界とできるだけ適合するような形にアレンジして
解釈し直し、『契丹古伝』のストーリーに組込むとすればどうなるかというクイズである。
『契丹古伝』を是とする立場からは、契丹古伝の世界上で、
武庚禄父の抵抗活動が起こったらどうなるかというのは興味深い検討事項といえる。契丹古伝の世界では、
殷叔(箕子)の国「辰沄殷」が実在しているのであるから、これと適合させる方向で考えてみていただきたい。
恐らく、数種類の答えが出てくるとは思う。
殷叔の国「辰沄殷」の他に武庚禄父の国(「北殷(?)」)が出来て、両者が並立するとかの解答も
ありそうである。
しかし、武庚禄父という殷の皇子が国を持ち、殷叔(箕子)の国(辰沄殷)同様に東北方面に
移動していくということになると、これが別個独立に移動するというのも不自然な話である。
単純に考えると、脱出した武庚禄父は殷叔(箕子)の元へ身を寄せるというのが一番ありそうである。
そして、身を寄せた後、どうなるだろうか。
契丹古伝に適合的に考えるのであるから、契丹古伝の本文を見てみるのが一番よい。
何章を見るべきだろうか。
そもそも、武庚禄父が殷叔の元へ身を寄せる直前の時期、すなわち
武庚禄父が殷の旧都から脱出した時期というのは、周の武王の子、成王の時期の東族による激しい
「反乱」の時である。
これは、自説では契丹古伝27章の「周を破る」等の時期にあたる。
あまりに激しい東族の活動に、周が青くなり、周の総力を挙げて押さえ込むことになったのである。
(詳しくは当サイトの太公望篇の論考で論じた通りである。浜名氏の解釈を再検討し、27章の時期を、
浜名氏の推定より30年近く引き上げたもので、当サイト独自のものではあるが妥当な見解である。)
わかりやすくするため、
太公望の論考でも掲げた
時系列の図表をここでも掲げておこう。
<図の説明の抜粋>
②東族は殷の敗北を受けて種々の動きを始める。寧羲騅が水軍と弓矢隊を率いて渝浜に到着する。25章
③武伯と寧羲騅の連合軍により、夏莫且(太公望)が誅滅される。殷が倒れてから数年経過。26章。
④成王即位初期の「周初の反乱」に発展する。(「三監の乱」やその後の践奄の役などを含む。)
「周初の反乱」の大攻勢を受けて周自体も大きな痛手を負った。27章。
⑤ ④の戦いの中で、殷叔(箕子)の辰沄殷王国も、燕等の戦いが本格化することを考慮して東遷を決定。
東遷に先立って殷叔(箕子)は養子縁組を行う。その後まもなく、殷叔が死去。
この時点で殷が倒れてから 6年経過。 28章。
自説では25章から28章まで、ほとんど前後逆にならずに進行することは既に太公望の論考で
示した通りである。
武庚禄父の脱出が27章(④)のある時点とすると、武庚禄父が殷叔の所に到着するのは何章の頃になるだろう?
ここで、⑤にあたる契丹古伝28章を良く読んでみることにしよう。
辰殷大記に曰く。殷叔老いて子無し。 尉越の将に東に旋らんとするに当り、密矩を養ひて嗣と
為す。尋いで殂す。寿八十九。 督坑賁國密矩立つ。時に尹兮歩乙酉秋七月也。
「辰殷大記」は以下のように述べている。殷叔は老いており子が無かった。
「尉越(王の居所)」のちょうど東に移転する(直前の)タイミングで、密矩を養子としてあとつぎとした。
その後間もなくして亡くなられた。年齢は数え八十九歳であった。督坑賁國密矩が即位した。
時に尹兮歩 乙酉秋七月であった。
この28章からは、辰沄殷の主である殷叔いわゆる箕子が
密矩という人物を養子にし、その後間もなく八十九歳で没したことが読み取れる。
殷叔(箕子)に子がおらず、養子をとったというのは他に見えない記述である。
この養子「督坑賁國密矩」とは、誰なのだろう。殷叔とどのような血縁関係があるのだろうか。
もう大体「答え」の想像がついた方もおられるだろう。
私は、この「督坑賁國密矩」こそ、殷の都を脱出して殷叔の元に身を寄せた皇子
「武庚禄父(またはそれに準じる皇子)」その人ではないかと考える(これは今までにない新解釈である)。
上では「クイズ」の出題という形を採らせて頂いたが、この結論はこの後でも見るように説得的で魅力的な説である。
とすれば、もはや仮の話ではなく、契丹古伝の解釈として正式に採用すべき説ということになってくるのだ。
●「武庚禄父」(彔子耿)は北方に移動し、殷叔(箕子)の養子になっていた
殷叔(箕子)の養子「督坑賁國密矩」こそ、殷の都を脱出して殷叔の元に身を寄せた皇子
「武庚禄父(またはそれに準じる皇子)」その人であるという話、まさかと思われる方も多いだろう。
しかし、タイミング的に丁度よいことは分かって頂けると思う。
もちろん、たまたまタイミングが同じだけで、無関係な遠縁の王族ではないかという指摘もあろう。
そのような疑問に答えるためにも、以下、
契丹古伝28章の謎の王子「督坑賁國密矩」について考察していこうと思う。
まず、浜名氏の解釈について説明しておきたい。彼の解釈には問題が多い。
浜名氏は「督坑賁國密矩」を「寧羲騅」という人物の子と解釈する。
そして氏の解釈では「寧羲騅」=日本の
邇邇藝命だから、「督坑賁國密矩」は
邇邇藝命の子である
「火須勢理命」であると解釈する。
これに対しては、①漢文の文法(構文)上無理な解釈をしていること、
②殷が本宗家である以上他国の王子を養子にしては殷が殷でなくなってしまうという批判ができる。
詳しくはこちらに掲載した。
上記別ページで説明した通り、
この章の記載は、"尉越がまさに東に移転しようとするタイミング"で、「殷叔が」
「密矩という美称で呼ばれる殷の王族」を養子にした、という意味に解釈するのが妥当である。
したがって浜名氏の「火須勢理命説」は成立せず、「督坑賁國密矩」は少なくとも殷朝の王族で
なくてはならないことになる。
ただ、それであれば殷叔(箕子)よりさらに遠縁の王族でもよいことになりそうである。
しかし私はそうではなく、「督坑賁國密矩」は殷の都を脱出した殷朝の皇子であると考える。
すなわち上で検討した通り、紂王の皇子とされる「武庚禄父」(彔子耿
)その人であると。
(もちろん前述のように、武庚禄父や彔子聖、彔子耿については異説もあるから、
例えば脱出したのは「武庚禄父とは別人の彔子耿」とか、「武庚の子の彔子聖」等の可能性もあろう。
また、「武庚禄父の他に別の皇子も」脱出したといった可能性もあろう。
従ってより正確には、殷叔(箕子)の養子「督坑賁國密矩」の正体は
紂王の皇子である武庚禄父、またはそれに準じる皇子ということになる。)
いずれにしても紂王から見て、皇太子もしくは、(日本でいうところの)親王級の皇子が
殷叔(箕子)のもとに来たと自分は考えるのである。
なぜそう考えられるのか。
上述のように、タイミング的にあって(時期的な一致)おり、皇子が脱出して向かった先と
殷叔(箕子)が国を構えている場所が同じ方面であること(場所的な一致)、がまず
挙げられる。(理由その1)
その他にも
いくつかの理由をあげることができる。
(理由その2)「養子」記載の意味する重大な事実
そもそも、殷叔(箕子)は武伯に擁立されて「辰沄殷
」国を設立したのだが、
その2代目「督坑賁國密矩」がいきなり養子ということに契丹古伝ではなっている。
養子といっても、殷王朝の何らかの王族でないとなれないはずだが、ここで考えていただきたいのが、
このような書物で、養子のことを積極的に記載する必要があるのかという点である。
箕子は歴史上有名な人物であり、契丹古伝上でも殷叔は武王の誘惑を斥けた立派な人物と
されているのに、殷叔の血がいきなり途切れてしまうというのはあまりに決まりが悪い話だ。
民間には箕子の子孫の系図と称する(偽作)系図などもあるが、箕子から実系でつながる子孫の系図という
体裁になっている。
子がいなくても、一族で承継するのは当然の理であるから、契丹古伝上でも、あえて実の子か養子かを明示せず、
「子、督坑賁國密矩が即位した」と書けば十分だったはずである。
それなのに、仮に、遠縁の傍系王族からの養子縁組を正直に書いてしまったのだとすれば、
箕子の子孫が連綿と続いたという世間一般の理解よりも、契丹古伝の「辰沄殷」(初代は殷叔(箕子))
王朝の価値の方がより低くなってしまうことになる。
わざわざそのようなことをするというのは、常識に反する行為であると考えられよう。
(もし正確な史料集なみに、そのような事実を記録したというのであれば、どのような系統から養子を採ったか大雑把にでも併記してしかるべきだろう。)
ではなぜ一見不利とも思える養子縁組のことを記載したのだろうか。
浜名氏の答えは、「邇邇藝命の皇子火須勢理命を養子にしたから」というものだろうが、
それが成り立たないことは既に説明した。
あくまでも辰沄氏殷の系統が存続していることが
契丹古伝全体の枠組みの前提にもなっているのである。
では、真の理由は何だろうか。
答えは一つ。「養子縁組のことを記すことに格別のメリットがあったから」である。
それはすなわち、「特別な方を養子にお迎えしたこと」を意味する。
もちろん、殷の王族ということは大前提とした上での話である。
つまり、殷叔(箕子)よりもさらに上位の皇族である、特別な方を養子に迎えたのであれば、
それは特筆すべき養子縁組として記録に残す価値のある事実といえる。
より遠縁の王族ではなく、帝辛(紂王)により近い、むしろより「近縁」の王族を養子に迎えたので
あれば、あえて養子の事実を載せる意義があるわけである。
それも、殷叔(箕子)という著名人の子孫でなくなるというデメリットをはるかに上回るメリット
があるからこそ載せたのだとすれば、かなりの上位の皇族を迎えたものと推察される。
そして、殷叔が養子縁組をした時期は、自説の分析では、ちょうど「三監の乱(彔子耿の乱)」
が終わり、武庚禄父またはそれに準じる皇子が北方へ脱出した時期と重なるのである。
とすれば、殷叔は脱出してきたその皇子を庇護し、自らの後継として後を託したのではないだろうか。
[もちろん、状況によっては、その皇子が殷叔のもとにやってくる前(皇子が未だ周と戦っている
時点)で、殷叔がその皇子を後継に指名して先に死亡するということも、ありえないではない。]
(理由その3)「督坑賁國密矩」は神子号に匹敵する「神聖呼称」である
浜名氏は、密矩を単純に和語の「御子」と同義と解して、「督坑賁國密矩」は「督坑賁という国」の
御子かもしれないとしている。(浜名 溯源p.557, 詳解p.271参照)
しかし、単に普通名詞である「御子」(尊い子、のような意味)と考えるとおかしなことになる。
(詳しくは上記リンク先ページ参照。38章の「殷の密矩王」の説明がつかなくなってしまう点が1つ。
普通名詞の「御子」を養子に迎えるというのなら誰の御子か明示していないと
奇妙な漢文になる点が1つである。)
密矩とは、一種の尊称的な意味合いをもつ特殊な名称として、(固有名詞的に)使われているのであり、
単純な普通名詞ではない(御子と意味上関係があったにしても)。
そのことからすると、督坑賁國密矩というのも、密矩の、より正式な雅称の類で、
神子号に類する特別な名前なのであろうと解される。
以前にも言及した通り、このような六音の神子号的な呼称については、その神聖さゆえある程度の汎用性
(東族部族間での)があり、日本の上古の神名・皇子名などに類似呼称が見られる確率が高い
(ただし しばしば より古雅に音数は六音より多い場合あり)と考えている。
筆者としては、このような神聖呼称について軽々しく言及するのを避けるのが
穏当とは思うのであるが、種々の状況を考慮し、今回は以下で若干言及することにした。
ただ、十分説明できないため疑問が残るかもしれないが、その点はご容赦頂ければ幸いである。
日本の記録に残された「督坑賁國密矩」類似表現を少々挙げさせて頂くと、
日本書記神代巻で、天孫降臨に先立って天下りした
「天穂日尊
(天照大神の子)」は、
天下りの際に自らの子
「建
三
熊
之大人」を伴って降臨したのだが、この「建三熊(たけみくま)」が一つ。
また、日本書記巻七で、
日本武尊の子として名が見える
「建
卵
王」の「たけ かいこ」。
それから、同じく日本武尊の子とされる
「
葦髪
蒲見
別王」の「あしかみ(の)かまみわけ」、
等が、「督坑賁國密矩」の類似表現であると考えられる(詳細は割愛する)。
一般には、これらは単なる人名であると考えられているのであるが、実際には、契丹古伝の神子号のような
美称で、重要人物としてそのような名前で呼ばれることが多かったため、
その名称で記録が残ったのだと考えられる。
建三熊之大人は、天穂日尊の後継者であると考えられるし系図上もそうなっているから、
「建三熊」には、「後継者」という含みがあるとも考えられる。
「建卵王」の父「日本武尊」は、
倭武天皇(
常陸国風土記)ともされる天皇級の人物であるから、
その皇子は、いわば(日本的な意味での)親王級の人物である。
それゆえ少なくとも督坑賁國密矩には、「(親王級の人物である)若君」「皇子さま」
といったニュアンスがあるのではないかと考えられる。
「建卵王」は、やや無名であるが、伝承の類にも登場する人物であり、「若さま」というような
敬愛のニュアンスをこめて「建卵王」と呼ばれたのではないかと考える。
葦髪蒲見別王
については、仲哀天皇との対立が日本書紀に寓話的に記されているが、
足鏡別王
(古事記)のような別表記も残されているようにその名は宛て字であり、
何らかの重要な地位にあった皇子なのではないかと考える。
このように、督坑賁國密矩には「(親王級の人物である)若君」「皇子さま」というような意味が
含まれると考えられる。
だが、そうだとすれば、それは誰の「若君」という意味なのかが実は問題となる。
もちろん、殷叔(箕子)の養子となったことにより殷叔の「若君」となったことは確かだから、
単に殷叔の若君という意味に過ぎないというのは、一応成り立ちうる考え方である。
しかしよくよく考えると、殷叔は辰沄殷王国の初代王であるにもかかわらず、亡くなるとき
に至るまで契丹古伝では「殷叔」として
単なる一皇族のような呼び名で記されており、死去時の表現を含め殷叔に対して払われている敬意が
やや弱いように思えるのである。
それに比べると、督坑賁國密矩は神子号さながらの六文字雅称であり、かなりの敬意をもって
扱われていることが察せられる。
とすれば、督坑賁國密矩は
「殷叔の」若君ではなく、殷王である「帝辛(紂王)の」若君の意味と解すべきではないだろうか。
要するに、殷叔は、死の直前に、「皇子様」を養子にしてから亡くなったと考えることができるのである。
(理由その4)殷としての継続性・・・辰沄殷は、督坑賁國密矩の即位により実質「殷」に戻った
(「周武の志」達成論)
これも、根拠となりうる話であり、案外重要なものではあるが、細かくなるので注を参照されたい。
[注1-12]
●結論 及び、武庚禄父(彔子耿)のその後
(付・督坑賁國密矩の正体を契丹古伝が分かりにくくした理由について)
以上より、「殷叔(箕子)」の養子である「督坑賁國密矩」の正体は、いわゆる「三監の乱」の際に
脱出した皇子、すなわち「殷の紂王の皇子である武庚禄父(彔子耿)、またはそれに準じる皇子」
であると考える。
上述の根拠に照らすと、この考えは浜名氏の説よりもはるかに説得的で納得できるものといえよう。
ただし、この見解は筆者が独自に契丹古伝第23~28章を見直して養子縁組の時期を浜名説より数十年
遡らせた結果可能になったものである。その詳細を確かめたい方は太公望篇を(附属ページも含めて)参照されたい。誅滅時期問題や滅韓時期問題が全て関係してくるからである。
さて、自説からすると、武庚禄父(彔子耿)は殷の旧都を脱出後[注1-11]、葛零基(今の昌黎)周辺にいた殷叔(箕子)の
辰沄殷国へ入り、殷叔の後継者になったと考える。従って、その後、辰沄殷
と共に東方の翳父婁方面
(大凌河の東方。遼河よりは西方)へと移転していくことになる。
(28章、24章参照。 詳しくは太公望の論考を参照。)
辰沄殷
は、殷叔(箕子)の子孫の国と思われているが、実は武庚禄父(彔子耿)の子孫であり、
それが長期にわたって続いていくことになる。
この点、武庚禄父(彔子耿)北奔肯定説を採る学者達はどう考えているか、参考までに言及しておきたい。
武庚禄父が脱出後どこへ移動したかという点については、今の北京方面やその東方へ入ったとの見解で
おおかた一致するようだ。
しかし、その後どうなったかについて明示する研究は少ない。ここでは3人の学者の見解+αを紹介し、その後にあらためて
自説を述べておくことにする。
顧頡剛氏の説では、上述の通り、武庚禄父
は三監の乱の時、民を引き連れて脱出して燕の東方に
「北殷」を建国したのであるが、周の康王の時、その「北殷」は周に討たれて滅ぼされ、
その地は燕の管理下におかれたという。
その後、旧北殷の民は隣接する扶余の民に文化を伝え、相当数の民も扶余へ流れて融合していったと
解釈するようだ。[注1-13]
このように、武庚の影響は中国東北部に限られるとするのが顧氏の説だが、当然ながらこの点は契丹古伝
の上記解釈とは異なる。
また金文の大家として知られた唐蘭氏(『西周青銅器銘文分代史徴』中華書局 1986年)
は、武庚禄父と彔子聖を別人とする立場を採り、①武庚禄父は三監の乱の際に殷の都(河南省北部)
から河北省南部へ北上した②武庚禄父は同地で死去したが、後継者の王子である彔子聖は
成王の征伐を受け、さらに北京方面へ進み燕亳の地まで北上した(彔子聖の安否につき詳しい記述なし)
③燕亳は後に燕国の境土となった、とする。[注1-14]
さらに、魏建震氏(「邶国考」河北省社会科学院『河北学刊』1992(04期)所収) は、
①邶国は三監の乱当時の武庚の国であり、武庚北奔に伴い北京方面へ移動した②その後邶国は武庚の後継者
「彔子咠(彔子聖)」の時に周の成王の討伐を受けた③さらにその彔子咠の子孫が邶伯
灭殳器という金属器にみえる「邶伯
灭殳」である
④その後邶国は韓(韓侯国)に滅ぼされたがその時期は不明、とする。[注1-15]
しかし、本稿および前稿の立場からすると、④については、
i)その根拠が『詩経』「韓奕」の詩の解釈の異説(北国の「北」を固有名詞とするもの)による点に難があること、
ii)契丹古伝の解釈として、既に別稿でのべたように、韓侯国は、初期においては東族の強い攻撃にさらされていた
国であること、等から、その見解に従うのは無理である。
その他、北上した武庚禄父(彔子聖)勢力は召公の軍勢に滅ぼされたという見解や、
召氏の燕の一諸侯となったという見解もある。[注1-16]
しかし、契丹古伝の立場から解釈する際には、24章に、召氏の「燕」とは別に
「智淮氏燕(殷叔の国、辰沄殷)」があり両者は区別されたという記載があること、
なども考慮すべきであろう。
すると、契丹古伝に適合する見解としては、上に御紹介した諸説とは少し異なり、
武庚禄父(彔子聖)の勢力は北上後 辰沄殷へ入り合体して
残存し、辰沄殷として東方へと移転していったと考えるのが妥当であり、
それが契丹古伝(の原資料)の著者の認識とも一致するものだろうと考える。
では、そうだとするとなぜ契丹古伝(の原資料)の著者は、28章でもっとはっきり
督坑賁國密矩の正体を明示しなかったのだろうか。
それは、明示すれば、殷叔(箕子)の子孫の国と一般に思われている辰沄殷が
殷の紂王の直系の国として周側(漢民族の側)から警戒されてしまうからであろう。
また、契丹古伝で三監の乱(武庚の乱)について触れられているのは、前述のように27章である
と解される(自説)が、なぜ短く扱われているかを想像できるだろうか。
27章 ここに於いて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破る。
この事態を受けて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破った。
このような簡潔な記載になっている理由もやはり上と同様と思われる。
もし武庚の乱を詳しく書けば、その後彼が殷叔(箕子)の養子になったことを悟られかねない。
それでは問題があると契丹古伝の原資料の著者は考えたのだろう。
それゆえ、読めば東族サイドの事情通にはわかるという程度の記載にとどめ、周側の人間が読んでも
気づきにくいようにしたのだろう。 28章の督坑賁國密矩のような佳名も、周の初期ならともかく、
後の時代には西族からは何のことだか分かるまいといった計算があったのではないだろうか。
箕子の血統については、紂王の父「帝乙」の兄弟とする説の他、傍系の王族とする説等もあるが、
後者であるとしても、箕子の国は「督坑賁國密矩」を養子にしたことで、殷の正統な後継者としての実質を
備えたことになる。
ただ、西族の「周」こそ神聖な王朝として美化される中、殷の紂王には悪王としてのイメージが
付加され続けていった。
そのことから紂王の後裔と自称することには危険が伴ったと推察される。
一方、紂王のイメージが悪化するのと同時に、箕子のイメージは紂王との差別化を図るために利用され、
儒教的聖人君子として(西族的に)良いイメージで捉えられていった。
このような状況下で、表面的には箕子の子孫であると称することは、止むを得なかったことと考えられる。
もちろん、紂王の悪名についは、最近の研究でそれが虚像であることが明らかになりつつある。
酒池肉林についても、肉が女性の身体を指すのではないことは勿論であるが(肉は祭事の供え物に
用いる脤肉のこと)、酒も清浄のためのものである可能性もある。
多くの人柱を用いた点は貝塚茂樹氏も指摘されている点で事実ではあるものの、
そのことについて周でさえ非難を加えていないことに留意すべきである。
宗教儀式を重んじた当時としては当然の慣習であり、その量が多量な点については
まさに本宗家としての威儀を整えようとしたためとも解釈できよう。
(逆に、浜名氏のいうように別に本宗家「粛慎氏」があるというのなら、粛慎氏による壮大な宗教儀式の
痕跡が残っているはずであるが、そのようなものは存在しないであろう。)
契丹古伝は、周が自らを美化したことを糾弾しており、学者の指摘よりも時代を先取りしているといえる。
浜名氏も、紂王の悪行とされるものが実は周の陰謀による等の指摘をしているのではあるが、それでもなお、
契丹古伝の糾弾的記述をやわらげ伝統的歴史解釈に近づけて解釈してしまっている面はある。
それは浜名氏の大人の態度として十分理解はできるが、現在の状況からするともっと明確にしたほうが
よい気がしてならない。その具体例は[注1-17]を参照されたい。
箕子は有名な存在で儒教的聖人として一般には知られているから、後世その子孫を自称した者は多いだろう。
もちろん、全てが自称とは限らないだろう。本当の箕子の一族(あるいは㠱族)が、
辰沄殷を支える部族の中に含まれていた可能性も、十分考えられる。
だが、それとは別に、辰沄殷の王家そのものは、殷の王家の直系であるとみることができる。
そして、この辰沄殷(というより殷)が、約800年後、準王の代に燕瞞(衛満)に滅ぼされ、
半島南部の辰に移動した(34章)あと、どうなったかについてはさらなる問題となる。
契丹古伝の「費彌國氏洲鑑の賛」は、衛満に滅ぼされた(史書にいう「準王」の)時点で殷が滅んだとする
(34章「殷亡ぶ」)。
しかし第40章「洲鮮記」は、辰沄氏の殷の終焉の地を「洲鮮国」としていると考えられるから、そこまで
は殷が続いたという見方もできる。辰沄殷の存滅について当時様々な見解があったことが察せられる。
34章・40章間の殷の移動経路、40章における辰と殷の関係、が明示されていないこと等から、
契丹古伝の解釈として争いがあることについては、本文ページの37章・40章
などの項目中で触れてあるので、興味のある方は参照していただきたい。
●謝辞
本稿は「太公望の意外な最期(夏莫且の正体は太公望呂尚である)」のある意味続編であるが、これを発表するにあたってはさまざまな思いや葛藤もあった。
しかし、前作とあわせて、契丹古伝の根幹部分について読み直しを迫る重要事項であると考えている。
ただ、あまりに従来の解釈と異なることや、一見常識外れとも思えるようなことが重なっているので、
そもそもここまで読み進めるだけでも大変だったかも知れない。
お読み頂いたことに深く感謝申しあげる。
なお、執筆開始の時点では、武庚禄父北奔説を採る論文(2000年以後発表のもの)をもう一つ紹介する構想も
持っていた。これは本論考の素案ができた時以降たまたま管見に入ったものである。
しかし、当該論文著者の学問環境等に配慮し、念のため言及を避けることにした。
この説では、武庚が身を寄せようとした先が最後は召氏のものになるというような処理が
なされてはいる。しかし、それにもかかわらず、
当該論文にて開陳されている内容には、契丹古伝と一致、もしくはそこまではいえないにしても、
それなりに「古を想う」心が通っているようにも思えるだけに、紹介できなかったことは若干心残りである。
あらためて諸先生の学恩に感謝して本稿を閉じる次第である。
本文終わり
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
以下、補注
[注1-1]
例えば、『詩経』小雅の「大東」という詩は東族の悲哀を歌った詩の代表例といえそうである。
その一部分を引用してみる。
東人之子、職勞不來。
西人之子、粲粲衣服。
(中略)
私人之子、百僚是試。
東人の子、
職として勞して來はれず。
西人の子、
粲粲たる衣服。
(中略)
私人の子、
百僚是れ
試ひらる。
東国の人は、ひたすら苦労しても報いられない。
西の都の人は、きらびやかな衣服を身にまとっている。(中略)
西の人なら召使いであろうと役人に雇ってもらえる。
[注1-2] 中国の李學勤氏は「聖と
耿
は本来同音である」という説を見解を採って・・・
整理者{李學勤}は(中略)
大
保簋
にいう「
彔
子
耳口」
のことである とし、
「耿」字は古音では見母耕部{つまりコウに近い音}で,
「耳口」に從う
「聖」字は書母耕部{つまりショウに近い音}であり,
「聖」と同音の「聲」が從う「殸」は溪母であるから
{=「聖」と同音とされる「聲(声)」という字があるが、聲(声)は形声文字であって音は
殸という部分で表わされ、かつ殸はケイと読む溪母の字なので、[聲(声)の音であるセイ、ショウは
ケイ、キョウのような音から変化したものであって「聖」も同様にケイ、キョウのような音から変化したと考えられるから]},
『説文』の引く杜林説は「耿」字を「从火,聖省聲」とする
{=『説文解字』に引用される杜林説が「耿の字は意味は火で発音は聖声」としている[のは耿を
ショウ・セイと読ませる趣旨でなく、聖の本来の音(キョウなど)と同音に読ませるとの趣旨なのである]}
といい,(以下略)
(小寺 敦「清華簡『繫年』譯注・解題」『東京大學東洋文化研究所紀要』170号 2016年12月 p.363(88)に引用される、
李學勤「《繋年》譯注」 (李學勤主編『清華大學藏戰國竹簡』(貳))の説明)
ここで李學勤氏が言及する杜林説は『説文解字』の中で疑問が呈されている異説なので、
問題もある(ただし疑問の呈されている部分は後世の加筆との説もある)が、
氏の結論は結果的に正しいと思われる点は、本文で述べた通りである。
[注1-3] 顧頡剛氏の論文で『文史』(中華書局)に1984年から1988年にかけて「周公東征史事考證」の副題を添えて
掲載されたものは以下の論文である。
①「“三監”人物及其疆地」文史 二十二輯 1984
②「周公執政称王」文史 二十三輯 1984
③「三監及東方諸國的軍事行動和周公的對策」文史 二十六輯 1986
④「周公東征和東方各族的遷徙」文史 二十七輯 1986
⑤「康王以下的東征和北征」文史 二十九輯 1988
⑥「三監的結局」文史 三十輯 1988.7 ※武庚禄父についての言及が多い
⑦「奄和蒲姑的南遷」文史 三十一輯 1988
⑧「徐和淮夷的遷留」文史 三十二輯 1990
その後、「尚書大誥訳証」の"本編下 歴史之部──周公東征史事考證"
として『顧頡剛古史論文集 10下』に収録された(『顧頡剛全集 11』中華書局 2012年に収録)。
『顧頡剛古史論文集 10下』に収録された際に上記④~⑧は他の論文も加えて「周公東征的勝利和東方各族大遷徙」
という章の一部となったので、そこでは⑥の「三監的結局」はその章の一節としての扱いになっている。
[注1-4]北に逃亡することは可能・・(顧頡剛説)
按武庚封於邶,依王國維説,邶即燕,或是近於燕的地方,則武庚失敗後北向逃亡,
直至塞外,超越了周公的勢力範圍,是很可能的事。
考えるに、武庚は邶の地に封じられたのであるが、王国維説によれば、邶は即ち燕、或いは
燕に近い地方である。
それゆえ、武庚が反乱失敗後北へ逃亡し、国境外へ出て、周公の勢力範囲を越えることは、
十分可能なことである。
(顧頡剛「三監的結局──周公東征史事考證 四之三」『文史』三十輯 中華書局 1988 p.2)
[注1-5]『史記』の北殷氏(顧頡剛説)
《史記・殷本紀》:“契為子姓:其後分封,以國為姓,有殷氏,……北殷氏。”《索隠》:
“‘北殷氏’蓋秦寧公所伐亳王,湯之後也。”
(中略)秦寧公所伐的亳王、是殷裔在西方所建之國。
這“北殷”該是武庚失敗後逃到東北所建的新國,
司馬貞不得其解,以爲即是《秦本紀》的亳王,其實那邊只該稱“西”而不該稱“北”。
『史記・殷本紀』に「契は子姓を称し、その子孫は各地に分封され次のように国名を姓とした。
有殷氏、・・・北殷氏である。」とある。
(司馬貞の)『史記索隠』に「「北殷氏」は秦の寧公が征伐した亳王で、殷の初代の湯王の子孫である。」とある。
(中略)秦の寧公が征伐した亳王は、殷の末裔が西方に建てた国である。
一方こちらの「北殷」は武庚が反乱失敗後東北方面に建てた新国である。
司馬貞はその解釈ができず、北殷を史記の秦本紀に見える亳の王としたが、
実際には、その場合であれば「北(殷)」ではなく「西(殷)」と呼ばれたはずだ。
(顧頡剛「三監的結局──周公東征史事考證 四之三」『文史』三十輯 1988 p.6)
[注1-6]亳は殷の都城を表す汎称・・(顧頡剛説)
《左傳》昭九年:“及武王克商,蒲姑、商奄,吾東土也。……肅慎、燕、亳,吾北土也。”
(中略)亳乃是商王都城的一個公用的名詞。
(中略)在這些記載裏儘管尚有很多待考辨的問題,
但商王的都城,無論遷到那裏,都可以稱爲“亳”,這是一個確定存在的事実。
『春秋左氏伝』昭公九年に「武王が殷に勝利した以降、蒲姑と商奄は、周の東の領土である。……
粛慎と燕と亳は、周の北の領土である。」とある。
(中略)亳は殷の都につけられる共通名詞である。
(中略 具体例の記述のあとに)
これらの記載についてはまだ考察すべき問題が多くあるけれども、
殷王の都についていえば、それがどこに移動しようとも、全て「亳」と称しうることは、一個の確定的事実
である。
武庚北奔,離開周公的鋒鏑,到東北建國,仍名其都“亳”,這事有極大的可能性。
康王之世,伯懋父“北征”,恐怕就是爲了解決這個亡国之君“死灰復燃”的問題。
武庚は北に奔り、周公の攻撃を避け東北地方に建国して、その都を「亳」と名づけた、この可能性が最も高い。
康王の時代になって、伯懋父が「北征」したのは、
恐らくは、国を失ったこの君主の「死灰
復た燃ゆ(一度衰退したものが再び勢力を盛り返す)」問題を
解決するためであろう。
(顧頡剛「三監的結局──周公東征史事考證 四之三」『文史』三十輯 1988 p.6-7)
此{陳璋壷}銘中最可注意的,是“伐匽亳邦”一語,它明白地表示出亳在燕境。
この(陳璋壷)銘で最も注意すべきなのは、「匽亳の邦を伐つ」の一語である。
それは亳が燕の境界に存在することを明白に表わしている。
(顧頡剛 同上論文p.6)
[注1-7]箕子の東遷については否定・・(顧頡剛説)
跟隨武庚到東北建立新國的殷民已經傳至孫約歴三十代了,
他們忘不掉(中略)地位崇高的箕子,作爲稱頌的代表人物,
他們在周政權高壓下也不敢提出武庚這個名字,
於是箕子的傳説就長期盛傳在東北。
武庚に従い、東北に建国された新国へと移動した殷の民の子孫はすでに約三十世代を重ねていたが、
彼らは、崇高な人物として知られる箕子のことを忘れず、称賛に値する代表的人物とする一方で、
彼らは、周政権の圧力の下では、武庚の名前を出すことを恐れていた。
このことから、箕子伝説が長期にわたり中国東北部において盛んに伝えられることとなったのだ。
(顧頡剛 同上論文p.14)
(注・顧氏は、箕子の子孫とされる準王を箕子と無関係な半島の政権とし、
秦漢交替期に大量の中国人が半島に流入した際、中国東北部で広まっていた箕子の故事と
朝鮮統治者の歴史とが無意味に結合されたものとする。
そして、燕人衛満が朝鮮王の準の政権を奪取した時に、
民衆の反感の軽減を図るため、中国が過去に当該地方を統治した実績を故意に主張して自慢し、
衛満の負う責任の一部を、名声の高まっていた箕子に肩代わりさせる意図で、その伝説を利用したのだとする。
この点はもちろん、契丹古伝の見解とは異なる。)
[注1-8]「奄和蒲姑的南遷」の章で述べられる周に討たれた諸侯国の移動先・・(顧頡剛説)
「奄和蒲姑的南遷」の中で、顧頡剛氏は、まず、「奄」の行く末につき、
『越絶書』呉地伝の「毗陵県南城は古の淹君の地である。東南大冢は、淹君の子女の冢である。」
という記載や『奄城訪古記』の「常州城南二十里ばかりの所に奄城遺址がある」などの記載を
を引いて、奄が南遷して江南地方に入ったとする(毗陵県は今の江蘇省常州市)。
次に、「蒲姑」についても、①『今本竹書紀年』中の「(武)王の軍は蒲姑を滅した」という記載についての
徐文靖の注釈(『竹書紀年統箋』)に、蒲姑を取慮県(今の江蘇省北部の徐州市睢寧県)としている部分
を引用し、それは蒲姑が滅された地というより蒲姑が南遷した先だとする。
[注1-9]「蒲姑」は江蘇省南部の呉県(今の江蘇省蘇州市姑蘇区)へ入った・・・(顧頡剛説)
顧頡剛氏は「蒲姑」については、さらに②『越絶書』呉地伝に「蒲姑大冢は、詳細不明ではあるが
呉王の有名な冢である」とあるのを引いて、江蘇省南部の呉県(今の江蘇省蘇州市姑蘇区。
上記常州市の東100km)にも蒲姑が入ったとする。
[注1-10]陳昌遠氏・陳隆文氏は2004年に・・・
《逸周書·作雒篇》明确記載:
“武王克殷,乃立王子禄父,俾守商祀,建管叔東,建蔡叔、霍叔于殷,俾監殷臣。”
又曰:“周公立相天子,三叔及殷東徐奄及熊盈以略……殷大震潰,降辟三叔,王子禄父北奔”。
這里所説的三叔,就是指管叔、蔡叔、霍叔,因他“俾監殷臣”,故称“三監”。
此“殷臣”就是指“武庚禄父”,后禄父北奔。
『逸周書·作雒篇』は明確に次のように記載している。
・・・(既に本文で紹介した『逸周書·作雒篇』の引用部分なので訳文は省略。
"王子禄父北奔"のところまでを引用)・・・
ここにいう「三叔」とは、管叔、蔡叔、霍叔を指す。彼らに「殷臣を監視させた」ので「三監」と称するのである。
この「殷臣(臣下である殷人)」とは「武庚禄父」を指し、その後 禄父は北に奔るのである。
(陳昌遠・陳隆文「“三監”人物彊地及其地望辨析——兼論康叔的始封地問題」
『河南大学学報(社会科学版)』2004年02期 p.31)和訳・太字強調は引用者による
[注1-11] 武庚禄父(彔子耿)は殷の旧都を脱出後・・・
(自説の補足)この時、脱出せずにとどまった殷民は乱が制圧された後、成周(洛陽)などに移動させられ管理されて
いくことになる。脱出しなかった人の中には殷の王族もあり、おそらく武庚禄父(彔子耿)の代替的な
存在として、殷民をなだめる目的で(一種の名誉的称号、例えばそれこそ
"密矩伯爵" 的な肩書きのようなものを与えられて)周に利用されたということもあった
のではないかと解される。
そのようなことも史書からは抹殺され、微子(殷の王族で周に忠誠を誓った人物とされるが、
殷の王族という点に疑問を呈する見解もある)の国である「宋」が、殷の祭祀を継ぐ国として「周朝からは」
扱われていくことになる。
[注1-12]殷としての継続性(「周武の志」達成論)→[注1-18] を参照のこと。
[注1-13]その後、旧北殷の民は隣接する扶余の民に文化を伝え・・・(顧頡剛説)
他們{夫餘人}固然不一定是殷族,但看他們彬彬有禮如此。
他們所用的“俎、豆、爵”又都是殷、周間習用的禮器,祭天的日期又用的是“殷正月”,
他們的耆老又説自己的血統是“古の亡人”,結合了《作雒》的武庚北奔的記載,
又結合了《左傳》的燕和肅慎之間有亳都的記載、
我們很可以看出當武庚反周失敗的時候,他必然帶了許多殷族人民一起走,直到
他祖宗相土所拓的“海外”而建立新國,
他們直接或間接地把殷文化傳播到鄰近的夫餘地方,也許在夫餘還留下相當数量的殷民,
所以夫餘的文化裏保存了大量殷族的文化,夫餘的人民裏也相當地會有了殷族的血統。
彼ら{夫餘人}は必ずしも殷族ではない。しかし、彼らが以下のように礼儀正しいことに注目すべきである。
彼らの使う「俎・豆・爵」もまた全て殷周時代に使われていた礼器で,天を祭る日程にしても「殷正月」を
用い、彼らの古老は自らの血統を「古の亡人」ということに加え、『逸周書』作雒篇の武庚北奔の記載や、
『春秋左氏伝』の燕・粛慎間に亳都があるとの記載を合わせると、
我々は、武庚は反周活動が失敗した際に、多くの殷族人民を当然帯同して移動し、彼の祖先の相土が開拓した
「海外」(渤海を北に渡った先の意味、p.3参照)に新国を建国したのであり、彼らは直接または間接に
殷文化を近隣である夫餘地方に伝播させ、おそらく夫餘に相当数の殷民を
残しており、それゆえ夫餘の文化の中には多くの殷族文化が保存されていて、夫餘の人民の中には
殷族の血統がかなり残っている、と考えることが大いに可能である。
(顧頡剛「三監的結局──周公東征史事考證 四之三」」『文史』三十輯 1988 p.10)
[注1-14]唐蘭氏は、武庚禄父と彔子聖を別人とする立場を採り、・・・
今,{河北省}平郷在殷虚之北,約一百餘公里,王子祿父北奔,當即至地。
今、(河北省南部の)平郷は殷虚の北方およそ100kmに所在する。王子
禄父は北に
奔って、この地に至った。
(唐蘭『西周青銅器銘文分代史徴』中華書局 1986年 p.81)
王子祿父北奔以後,大概又過了一個時期纔死,(同書p.19)
王子禄父は北に奔ったのち、おそらく一定期間後に死亡した。
銅器太保簋説…『王伐彔子咠』此彔子當是商的王族,(同書p.57)
銅器の
太保簋
に…『王は彔子咠(彔子聖)を伐つ』とあるが、この「彔子」は殷の王族である。
(※咠の字は耳の右下に口で構成される字形のことで、普通
「耳口
」
の字で表記され聖と同字と解されているが、唐蘭氏は咠と表記したものである)
彔子之國當在今河北省平郷縣一帯・・・此時祿父當已死,(同書p.81)
彔子の国は現在の河北省の平郷県一帯にあった。
・・・この時武庚禄父はすでに死亡していた。
銘為…『天子咠・・・』天子即是大子,・・・大子也就是太子,是可以繼承王位的。
因此,武庚雖已死,還有征伐的必要。
・・・成王的代彔子咠。
顕然是隨着王子祿父北奔的路綫的。其終点顕然到達了燕亳。
燕亳就是後來燕國的疆土。(同書p.57)
(陳介棋所蔵の觚の)銘文に『天子咠・・・』(天子聖・・・)とあり、
天子は大子(という殷代の爵)であるが、
大子は太子であり、王位を継承することが可能である。
それゆえ、武庚が死亡していても、なお征伐の必要が存したのである。
・・・周の成王の世、彔子咠(彔子聖)は明らかに王子禄父が北奔したのと同様の行動をとった。
その行く先として燕亳に到達したことは明らかである。燕亳はその後燕国の領土となった。
[注1-15]魏建震氏(「邶国考」)は・・・
王子禄父北奔,即到了现在的涞水流域,邶国也遂之迁到了这块土地。
王子禄父は北に奔り、現在の淶水流域に到達した。邶国は遂にこの地まで移動したのである。
邶国迁到涞水流域后不久,周人将建国之功臣、・・・召公奭封于燕(今北京瑠璃河),以对邶国实行镇服。
邶国が淶水流域に遷ってまもなく、周は建国の功臣である召公奭を燕の地(今の北京の瑠璃河)に封じ、
それにより邶国鎮圧を実行したのである。
成王晩期,为消灭殷之残余势力,继续对邶进行征伐。
成王の代の晩期に※1、殷の残余勢力を消滅させるために、邶国に対する征伐は継続された。
成王時期太保簋铭:“王伐录子咠”。此录子当为武庚的后代。
成王時期の太保簋の銘文に「王は彔子咠を伐った」とある。この彔子は武庚の子孫にあたる。
武庚之后邶国还存在一位国君名
灭殳,
現已出土几件邶伯鼎器。揖器時代早于
灭殳,
灭殳
继邶伯之位当在咠之后。
武庚より後の邶国の君主の名として
灭殳があり、既に出土した複数の邶伯鼎器にその名が見える。
彔子咠の名が見える太保簋の時代は
灭殳より早いことから、
灭殳が邶伯の位を継いだのは彔子咠の後であると思われる※2。
≪诗经・韩奕≫“奄有北国。”・・・韩国在固安县一带,与邶所迁之涞水地望相近,韩灭邶国于何时已不可考。
『詩経』韓奕に「北国を奄有し」とある・・・韓国は固安県一帯に所在したのであり、
邶国の移転先である淶水と近接した場所にある。韓が邶国を滅ぼした※3のがいつなのかはわからない。
(魏建震「邶国考」河北省社会科学院『河北学刊』1992(04期) p.85)
※1 成王晩期とあるのは、成王による彔子聖の征伐を成王晩期と捉える趣旨かと思われるが、
武庚禄父≠彔子聖という魏氏の把握にも関係するものであろう。
武庚=彔子聖とする多数説(既出)からは、成王初期、「三監の乱」勃発の数年後に征伐が
あったとの見解も出されている。
※2 魏氏のように彔子聖の国は彔子聖以降も北京付近に留まったと解すると、辰沄殷が翳父婁に遷都した
とする契丹古伝の記述と(自説を採った場合)衝突するようにも思える。
しかし、邶国に留まっていたのは武庚と共に北奔した別の殷の末裔であるという見解も出されており、このような
ことを考慮すると、
例えば、邶国とは別に、武庚禄父(彔子聖)系辰沄殷が存在し、後者は東方へ移転していったという解釈も可能である。
※3 邶国が韓侯国に云々は、元々は唐蘭氏の説から来ていると思われるが、
唐蘭説においては武庚禄父(一族)の帰趨と邶国の帰趨はそれぞれ別々の話となるので本稿では唐蘭説としての紹介は省略した。
[注1-16]
(自説の補足)金文の「大保簋」の、王が大保(召公)に命じて彔子聖を伐ったという部分の解釈については、
「一旦北に奔っていた彔子聖を召公が追撃した」とする解釈が割合と多い。
この場合、伐つという語の意味に幅があることもあり、彔子聖がどうなったかは解釈がわかれるようだ。
王紅亮氏も、彔子聖が死亡したと明示はしていないが、かといって死亡していないとも述べていないのである。
他方、前述の魏建震氏のように、彔子聖が周の成王の征伐を受けてもなお国が存続し子孫へと受け継がれたとする解釈も存在している。
[注1-17]契丹古伝の糾弾的記述をやわらげて・・・・の例
22章
及昌發帥羗蠻而出。以賂猾夏。戈以繼之。遂致以臣弑君。且施以咋人之刑。
昌発、羗蛮を帥ゐて出づるに及び。
賂を以て夏を猾し。戈を以て之に継ぎ。
遂に臣を以って君を弑するを致し。且つ施すに咋人の刑を以てす。
昌(周の文王)・発(武王)が蛮族の羗をひきいて出陣するにあたり、
賄賂によって夏(=国。殷朝のこと)を乱した上で、賄賂のつぎには武力を行使し、
遂に臣下が君主を殺害するという事態を起こし、かつ食人の刑(被刑者の肉を調理して食用に供する刑罰)
を実施するのであった。
この章は周が殷朝打倒の兵を挙げ、牧野の決戦で殷が敗北に至る過程の概観的説明である。
「遂に」以下の記述は、牧野決戦で勝利した帰結として、周の武王が殷の紂王を殺した下克上を
非難している部分である。
その直後の「且つ施すに咋人の刑を以てす」が実は問題のある箇所なのだ。
浜名氏はここを「且つ施くに咋人の刑を以てす」と読む。「施く」は「行きわたらせる」という
意味があるので、「食人の刑という刑罰を広くおこなった」という意味に解釈しているものと
察せられる。
しかし、「かつ」の語に注目すると、実は別解釈が可能である。
実は「施」には、「断罪する、刑を執行する、処刑する」という意味もある。その例を挙げよう。
叔向曰。三人同罪、施生戮死可也。(杜預注)施、行罪也。
叔向曰く、三人罪を同じくす。生に施し死に戮して、可なり。(杜預注)施、罪を行うなり。
叔向は答えた。三人(邢侯と叔魚と雍古)の罪は同じです。生きている者(邢侯)には刑罰を施し、
死んでいる者(叔魚と雍古)はさらし首にしましょう。(杜預の注)施とは罪を定めるの意味である。
(『春秋左伝杜注』 昭公十四年 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=141513&page=84 )太字強調は筆者
そうすると、契丹古伝の上記の箇所は、「臣下(武王)が君主(紂王)を弑する事態を生じさせ、
しかもその断罪として食人の刑を採用した」と読むほうが素直なのである。
そもそも、この22章は周が牧野決戦の下克上に至る過程を概括的に非難する部分で、
牧野の戦いの具体的描写は次の23章でなされていると分析できる。
つまり、この22章の最大の焦点は紂王を死に致したことへの非難にあるといえよう。
ということは、ここで食人の刑が適用されたのは、他ならぬ紂王本人に対してということになる。
もちろん周勝利後の刑罰方法の一般的記述ではありえない。
史記では、紂王は宝玉をまとって火中に身を投じたことになっているが、それすら周による「美化」の一環で
あり、現実は違っていたのではないか。そのことを契丹古伝は告発しているように読めることを
ここに指摘しておきたい。
このようなことははっきりと書かず曖昧にしておいてもよかったが、あえて今回指摘しておくことにした。
※昭和15年出版の田多井氏による解釈本も
「王を弑した許りでなく其肉を咋ふという咋人の刑に處したのでありますから・・」
(田多井四郎治『契丹古傳譯並註釋』p.24)としているので同趣旨と思われる。
[注1-18] 殷としての継続性・・・辰沄殷は、実質「殷」に戻った
(「周武の志」達成論)
(自説の理由その4)
この話は、本来それほど難しい話ではない。
ただ、浜名氏がある意味ややこしくしてしまっている論点といえるので、補注の最後に記述することにした。
このような事情から、まず最初に自説を簡潔に記しておきたい。それで納得できれば問題ないとはいえる。
上述のように、辰沄殷は殷の皇子(武庚禄父またはそれに準じる存在)を養子に迎えたことで、
実質殷朝の継続にもどったといえる。
殷叔(箕子)はある意味「中継ぎ」的存在に過ぎないので殷叔に対して払われている敬意がやや軽いと
とらえることができるのである。
実際、辰沄殷はその後二度と「辰沄殷」の三文字で呼ばれることはなく、
すべて「殷」と呼ばれている。もちろん、単に辰沄殷を略したものとも取れるから、呼称の問題は
今は措いて、説明に入ることにする。
契丹古伝は、周の武王(姫発)の「志」について2度言及している。
その1つ目は 24章の次の部分にみられる。(太字強調は引用者。)
智淮奪子叔釐賖於虜。城于葛零基以舍焉。國號辰沄殷。
時人又稱智淮氏燕、以別邵燕。姫發降志、賄以箕封。殷叔郤之。
智淮、子叔釐賖を虜より奪ひ、葛零基に城き以て舎く。
国を辰沄殷と号す。時人又智淮氏燕と称し、以て邵燕に別つ。
姫発、志を降し、賄するに箕封を以てす。殷叔、之を郤く。
智淮は捕虜となっていた子叔釐賖[=殷叔(箕子)]を奪還し、葛零基に城塞都市をつくり
(そこに子叔釐賖を)おいた。
その国号を「辰沄殷」といった。
時の人はまた「智淮氏燕」とも称し、それにより邵燕(召公の一族の燕)と区別した。
姫発(武王)は、(殷打倒の)志を曲げて、
子叔釐賖を封じて箕の支配者の地位を与え(るという懐柔策に出)た。殷叔は、これをしりぞけた。
2つ目は 34章の次の部分にある。(太字強調は引用者。)
瞞襲取殷。(中略)殷王奔辰、秦氏隨徙。殷亡。
瞞乃案智淮氏燕故事、以之紀國曰朝鮮。始達周武之志也。
瞞、襲って殷を取る。(中略)
殷王、辰に奔り、秦氏随って徙る。殷亡ぶ。
瞞、乃ち智淮氏燕の故事を案じ、之を以て国に紀し、朝鮮と曰ふ。
始めて周武の志を達せるなり。
瞞(衛満)は襲って辰沄殷の地を取った。(中略)
辰沄殷の王は、辰に奔り、秦氏もそれに随って移動した。辰沄殷は亡んだ。
瞞はそこで、智淮氏燕([として世の人に知られていた辰沄殷]の旧事を勘案し、
それを順序立ててしるして国の記録とし、その国を朝鮮※と名づけた。
ここに初めて周の武王の志が達成されたのである。
(※これがいわゆる箕子朝鮮にあたるが、韓国・北朝鮮はその存在を否定している。
その所在地につき大きく二説に分かれるが、契丹古伝の解釈としては現在の中国領(遼寧省)内と解することになろう。
いずれにしても、現在一般的に使われる意味の朝鮮とは内容が異なる。)
自説を簡単にいえば、24章の(姫発の)志と34章の周武之志(周の武王の志)は基本的に同質の
もので、その志とは本来「殷朝を完全に打倒する」というものであった、というものである。
紂王なき後も、殷叔(箕子)の「辰沄殷」が敵対しているのでは武王の志は完全には達成されていない。
そこで殷叔を諸侯としてとりこもうとしたが拒絶された。そして、800年以上も後、
準王のときに燕の衛満に滅ぼされて衛氏朝鮮ができたときに、はじめて武王の志が
成就したことになる。(「費彌國氏洲鑑」は、衛満に滅ぼされた時点で殷が滅んだとする(34章「殷亡ぶ」)ため。)
武王の志がそのときまでは成就しなかったという契丹古伝の記述は、裏を返せば、辰沄殷は殷とは別の国でなく、
完全に殷の継続であり、それゆえ800年後も殷朝としての実質を失っていないという主張をしているに等しい
と考えられるのである。辰沄殷は殷朝に戻ったのだから、
800年たっても殷朝そのものであるよ、というメッセージがこめられているように感じるのである。
と、これで本当は終わりたいところだが、浜名氏は「周の武王の志の達成」について違う考え方をしている
ので、浜名説を信じておられる方のために、検討を加えておきたい。そしてその中で自説の補足もしていこう
と思う。
浜名氏は、24章における当初の「(姫発の)志」が何であったか明示していない。
だが、それはあまりに当然だから省略したのだともいえる。
つまり、その「志」とは文脈上当然想像できるものに限られよう、
22章で周の武王(姫発)が出陣したのは殷を倒すためなのだから、当然ながら
武王(姫発)の志とは殷朝打倒の意志であろう。それならばその点については自説と同じである。
だが、浜名氏はこの志が曲げられて、殷叔(箕子)に爵位を与える意志に変わったことを重視する。
関連する契丹古伝の箇所は次の部分である。
24章
姫発、志を降し、賄するに箕封を以てす。殷叔、之を郤く。
姫発(武王)は、(殷打倒の)志を曲げて、
子叔釐賖を封じて箕の支配者の地位を与え(るという懐柔策に出)た。殷叔は、これをしりぞけた。
要するに、武王は妥協して懐柔策に出て、にもかかわらず殷叔に拒絶されたわけだが、
この懐柔策を実行する意思が武王には残ったままだったと浜名氏は解釈するようだ。
そしてその妥協案である、殷叔(箕子)に爵位と国を与えて武王の臣下にするという「志」が
34章で達成されたということになる。それは浜名氏の次の記述からそう読み取れるのだ。
箕子てう(てう=という)}国爵名は・・・貰受人が無かったのであれば、箕子てう{(てう=という)}名は
つまり小説に終ったものである。・・・故に
箕子といふは箕子といはるる其の人の志を破るもので、宜
しくまさに殷叔と称すべきである・・
・・故に猶且つ箕子といひたければ辰沄殷を簒奪
した衛満をさういふが宜い、
彼{(=衛満)}は・・・周{の}武{王}の一度試みて手を焼いた朝鮮号を受け取り、以て其の志を
成さしめた者なれば、箕子の名を甘受したは彼である。
(浜名 溯源p.603, 詳解p.317)太字強調は引用者による
(辰沄)殷は武王の誘いに最後まで乗らなかったから、武王の妥協案に基づく「志」は結局成就しなかったはず
だ。しかし、上記で浜名氏が書いているのは、辰沄殷を滅した衛満が、武王の与えようとした称号を
辰沄殷の代わりに受け取ったことで、いわば新たな「箕子」として武王の願望を満たすことになったという話である。
かなり苦しい説明ではないだろうか。それは武王の意思の変ちくりんな達成でしかない。
さらに丁寧に見ていくと、他にも苦しい点が出てくる。
武王の懐柔策の内容について、浜名氏は、『後漢書』東夷伝に「昔 武王 箕子を朝鮮に封ず」とあること等を参照しながら、
"朝鮮という既存の地名があった場所"に武王が殷叔(箕子)を封じようとしたもの、と解釈する。
そして氏は、その場所について、葛零基(今の中国の河北省に所在)の地に建国した「辰沄殷」の通称である「智淮氏燕」に
宛て字をしたものが武王にとっての「朝鮮」だった、つまり葛零基こそその場所だったとする。(浜名 溯源p.507-p.508, 詳解p.221-p.222 参照)
さらに浜名氏は、その約800年後、(既に今の遼寧省の遼東方面に移動していた)「辰沄殷」を滅ぼした
燕人の衛満が、辰沄殷が用いなかった朝鮮の呼び名を辰沄殷に付け、自らも古朝鮮の主となったと解している。
(浜名 溯源p.603, 詳解p.317参照。)
浜名氏がこのように解釈する裏事情は、上のほうで引用した
(衛満が)「武{王}の一度試みて手を焼いた朝鮮号を受け取り、以て其の志を成さしめた」
という記述から割り出すことができる。
要するに、武王が「朝鮮」とも呼べる地に箕子を封じようと試みて、結局あとで別の場所で衛満が朝鮮の号を受け取ったことに帰するから、
武王の「志」が達成されたことになると言いたいらしいのである。
しかし、契丹古伝では朝鮮の名称は衛満の箇所で初めて登場するのであり、武王は単に殷叔を箕の地に封じようと
しただけだから、浜名氏の解釈はむしろ契丹古伝の記述を否定することにつながり、無理な解釈といえる。
ただ、浜名説でいう武王の志をさらに大雑把に捉えてしまえば、浜名氏的アプローチでも かろうじて説明がつく余地がなくもない。
「諸侯として封じる意志で、結果的には、事後的にではあるにせよ『箕子朝鮮』という一諸侯の国のような
記録が出来た」とか、「箕子を諸侯として封じる意志で、結果、衛満というあらたな『箕子』的存在を
諸侯に封じることが出来た」と見れば、朝鮮の名称問題を回避できるからだ。
[それでは大雑把過ぎるというのであれば、武王が封じようとした場所の「名称」はともかくその「所在地」
が箕子の都と一致したということで「意志と結果の一致」を主張するという修正方法もあるかもしれない。
どういうことかというと、(箕子が最初は葛零基にいたとしてもその後に遼東方面に移ったという
のであれば、)①「武王が志を降したあとで起こした新目標である『箕封を行う意志』の内実」を、「『遼東方面』に
封じる意志」とし、かつ②箕子がその地に実際に都するという事実が発生し、かつ③800年後に衛満が「箕子がその地の
諸侯であった」と記した、ことにより、(書物の上では?)「特定の場所に封じる意志」が「その同じ場所で成就」したと捉えられる可能性があるのである。
しかし、箕子(殷叔)は実際には葛零基から東遷する前に力尽きた可能性があるから(本サイトの本文解説ページの
28章解説末尾も参照)、箕子の次代以降についての分が書物上達成したとなってしまうのだが、
浜名説では箕子の次代以降新目標が陳腐化するはず(後述)なのでこの処理にも疑問がある。]
いずれにしても、かなり無理な解釈であるが、なぜ浜名氏が無理な解釈を強行しているか、お分かりだろうか。
それは、督抗賁國密矩を日本の邇邇藝命の子である火須勢理命
にしてしまったことに関連する。
そのような解釈だと、殷叔(箕子)の死去後「督抗賁國密矩」が即位した時点で、
実質的な王朝交代が生じるから、ここで殷は消滅したともいえる。
つまり、武王の志の内容を「殷を完全に滅亡させること」としてしまうと、浜名氏の場合、
「督抗賁國密矩」が即位した時点で武王の志が早々と達成されたことになり都合が悪いのである。
そこで、達成されるべき武王の志は「曲げられた」状態の志、つまり殷叔を諸侯に封じようとする意志である
とすることで誤魔化し、逃げ切りを図ったのだといえる。
上で「かろうじて説明がつく余地がなくもない」とは書いたものの、以上の述べた分だけでも
浜名氏の説明が無理に近いことはお分かりいただけただろうか。
今度こそそろそろ終わりにしたい所ではあるが、正直にいえば、上記の「かろうじて説明がつく」というその説明さえも、
実際には、とある理由により成り立たないので、最後にそのことに触れておくことにする。
というのは、当初の武王の意志は「殷を完全に滅亡させること」であったわけで、その志を武王は曲げた
わけであるが、その「曲げる」の部分にポイントがあるのである。
24章の関連箇所をもう一度引用する。
姫發 降志、賄以箕封。
姫発、志を降し、賄するに箕封を以てす。
姫発(武王)は、(殷打倒の)志を曲げて、子叔釐賖を封じて箕の支配者の地位を与え(るという懐柔策に出)た。
「志を曲げて」に相当する部分の原文の表現は「降志」(志を降し)であるが、その意味は、
「降志辱身」という熟語
(辞典オンライン https://yoji.jitenon.jp/yojik/5361.html 『四字熟語辞典オンライン』中)
にもあるとおり、「当初の計画のハードルを下げて妥協する」の
意味で、当初の意志を撤回する意味ではない。(「降志」が孔子の『論語』に見える表現であることは周知である。)
つまり、あくまでも殷を完全に滅ぼすという目標のハードルを下げて緩和させ「殷を諸侯として従属させる」
ことにしたという意味なのである。
緩和である以上、緩和前と緩和後とで何らかの「同質性」が保たれているところがポイントである。
そうだとすると、武王の意志の達成を「殷を諸侯として従属させる」意志の達成と解したとしても、
殷叔から「督抗賁國密矩」に王が交代した時点で、浜名説では実質的に王朝交代が生じるわけだから、
その時点で当初の殷朝をなくすという当初の目標が達成されてしまい、そもそも緩和された目標を存続させて
おく意味がない。あるいは諸侯として従属させる対象がないことになる。
したがって、結局浜名説は成り立たないのである。「同質性」がある以上大は小を兼ねることになるからである。
自説では、緩和された目標(諸侯として従属させること)が武王のあらたな達成目標であると仮に捉えたと
しても、それは800年後の準王の時の(辰沄)殷が(「費彌國氏洲鑑」著者の理解に従えば)滅亡したことによって、より大きな形で達成されたことになる
から、原文を自然な形で理解できるのである。(もちろん途中で王朝交代のようなことは生じていない。)(このように、自説ではこのあたりが大きな問題にならないので、
従前の説明を若干雑なものにしていたことについては申し訳ないと思っている。)
念のため、『論語』微子から引用しておこう。(太字強調は筆者)
子曰。不降其志。不辱其身。伯夷叔斉与。
謂柳下恵小連。降志辱身矣。言中倫。行中慮。其斯而已矣。
子曰く、
其の
志を
降さず、其の身を
辱しめざるは、
伯夷、叔斉か。
柳下恵、小連を、
志を
降し、身を
辱しむるも、
言は
倫に中り、
行いは慮に中ると謂うことは、
其れ斯のごときのみ。
子曰く、自分の理想を低下して妥協することなく、その身を汚すことを許さないのは、
伯夷、叔斉のことだろうか。
柳下恵、小連のことをば、
理想を低下し、身を辱めることはあったが、言うことに道理が通り、行うことと考えることが一致していた、
と批評するならば、正にその通りで賛成だ。
(宮崎市定『現代語訳論語』岩波書店 2000年 p.317)(太字強調は引用者による)
このように、あくまで「当初の目標のハードルを下降させること」が「志を降し」であり、目標を「撤回」する
わけではない。「緩和」に過ぎないのであり、同質性は保たれている。
もし、仮に「撤回」と解釈できるのであれば、当初の滅亡させる意志の「撤回」後全く新規に"諸侯に封じるという周武王の志"が生じたということで浜名説もなりたち
そうだ(その諸侯とする意思が衛満により実現)が、その場合でもやはり実質的には「緩和」に等しいことになるから、
結局同じような非難をまぬがれず、他家からの養子縁組によって封じる対象が消滅したと批判されてしまうことになる。それゆえその場合
、別の妙な理屈(例えば、滅ぼす意志の緩和とはならないようなロジック、言い換えれば、
当初の意志より撤回後の意志の方が殷朝に対する圧迫度がより高くなるよう当初の武王の意志の内容を(滅ぼす意志とは何か別のものに)調整
(し、かつ殷叔が養子をとっても新目標が陳腐化しないように新目標を殷叔個人に対する処遇の記録に関する点に限定するなど)
する等の異常とも思える処理を伴うレトリック)
を考え出して合わせ技で使用したという特殊な場合のみ(外形上)正当化できる計算になる。
しかし、そもそも実際には、撤回と解釈できない(あくまでも「要求のハードルを下げた」に過ぎない)
のであるから、そのような異様なロジックを使った場合でさえも実際には正当化は不可能であり全く無意味であることは、いうまでもないことである。
このように、浜名氏のように殷叔が他家から養子を採ったと解する限り、
周の武王の意志の達成に関する解釈が支離滅裂となり、取り繕う余地もないことがわかる。
従って、実際には殷の皇族で継承されていることになる。しかも、武王の殷打倒の意志が辰沄殷の滅亡で
ようやく達成するということは、辰沄殷はもはや殷と別の国でなく、殷そのものであるという
ことを示すものではないだろうか。
注 ちなみに、「降志」について「降」と「下」の比較により分かりやすい説明を記載しているものとして、
日本の複数の大学で中国語講師をされている孫国震氏の
「中国語の下降移動動詞群「下 xia」「降 jiang」「落 luo」「掉 diao」について」
http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/tmu_j/pdf/15/15-12%E5%AD%AB%E5%9B%BD%E9%9C%87.pdf
[Wayback Machine版はこちら]p.105
の項目(58)~(60)を参照。
補注ここまで
2021.04.09初稿