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太公望の意外な最期(夏莫且の正体)──太公望は「克殷」後に誅滅されていた
という論考の一部分を分離させた別ページであるところの、
論考「夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか」の中の、
「【3】韓との関係で夏莫且誅滅時期を検討する」という項目の一部を、さらに別ページに分離したもので、
契丹古伝26章の記載「韓を滅す」をいかに解するかの問題(滅韓時期問題)の検討の一部分である。
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滅韓時期問題 その2(韓の所在地)
それでは引き続き、浜名が前提としている
⑤契丹古伝の24章と27章に登場する「韓」は、この国(西周の韓)と同一の国である。
⑥その国の場所は固安県にあった(今の北京付近)。
について検討していく。
繰り返しになるが、前述①③で述べたように、殷が倒れて建国された「西周の韓」が『詩経』の『韓奕』に
登場する「韓侯」の国であるというのは伝統的な通説である。
ところが、『韓奕』の「韓侯」国の所在については、かなり昔から争いがあり、様々な説が乱れ飛んでいるのだ。
できるだけ簡潔に説明しよう。大雑把にいうと、今の北京のあたり(A-1説)、あるいはその東北方面
(A-2説)にあったとする説(A説)と、
今の陝西省と山西省の境を南北に流れる黄河に沿った境界線の南半分近辺の右岸
もしくは左岸にあったとする説。(B説。B-1、韓城説。 B-2韓原説。 B-3説など。)
の2種類に分けられる。
下地図参照。(あくまでイメージ図で、海岸線の変化考慮など細部の処理は行っていない。)
この、韓侯国の所在問題について、どのような考え方があるかを見ていく中で、実は滅韓時期の問題
にも自然に答えが見えてくるので、場合分けが煩雑に思えるかも知れないが、それぞれ検討していきたい。
I 「一貫してBに存在」説
そして実は、現在、わりと有力な説が、「西周の韓は建国から滅亡までBの位置にあった」という説だ。
この説の場合、詩に登場する、韓城建設に参加した「燕」とは、いままで登場した北京あたりの燕(北燕)
とは別の「南燕」と解されることが多い(谷口義介氏、吉本道雅氏)[注4-1][注4-2]、
詩の冒頭、韓の地の説明として、昔、禹が梁山で治水をしたという記述があり、他の詩の似た記述と合わせ
いずれも 禹の伝説の残る文化圏であるBの地周辺と捉えるべきとされる。
もしこの説が正しいとするとどうなるだろう。契丹古伝に登場する「韓」は、(今の河北省の渤海沿岸
近辺にあった)殷叔の治める「辰沄殷」国を攻撃したりする以上、Bの位置に存在したことはありえないから、
詩に登場する韓(B)とはさらに別の、同名異国ということになる(⑤の否定)。
(同名異国の例として、周朝における、虢という諸侯国が複数あったという例が挙げられる。一般的に、同名
異国は存在しうるとする説が、金文などの発掘によって通説的見解となっている。)
そう考えた場合、前記①②③④も全て、契丹古伝とは関係ない方、つまり詩経に登場する方の「韓」ということ
になるから、契丹古伝との関係では全く気にしないでよいという結論になってしまう。
つまりそもそも「滅韓時期問題は生じない」となるのである。
これはこれでありうるし、問題がない以上、幸いな話ではあろうが、契丹古伝の記載からすると、やや疑問もある。
なぜなら、契丹古伝の24章と27章に「韓」と「燕」がセットで登場する。これは『詩経』韓奕に登場す
る、「燕の人々が建設した韓城」をどうしても連想させるものである。これを重視すると、「契丹古伝の韓・燕と
詩経韓奕の韓・燕が無関係」と決め付けてしまうのにはためらいが残る。
従ってここは、他の説も検討していくべきだろう。
では他にはどのような説があるだろうか。
浜名氏の立場は、「西周の韓(=詩経の韓奕の韓)はA地にあり、B地とは全く無関係」というものだが、
春秋戦国の韓がB-1の地にあったことも影響して、A・B両方の地と何らかの関係が「あった」とする説
の方がまだ有力かもしれない。まずそちらから検討していこう。
II 建国当初はBにあり、後にAの地に移転したとする説。
(江永[注4-3]、 目加田誠氏[注4-4])
この説に立った場合、「韓」は建国当初、すなわち周の初期においてAの地に存在しなかったことになるから、これを
契丹古伝の「韓」と見ることはできず、結局I説と同じような処理・結論(滅韓時期問題不存在)になる。
問題が不存在な点は良いため勿論不可ということにはならないが、I 同様、採用にはためらいも残る。
III 建国当初はAにあり、後にBの地に移転したとする説。
(雷学淇、徐文靖、竹添進一郎[注4-5]、 Wikipedia)
この説だと、建国当初Aにあったというその「韓」が契丹古伝の「韓」ということになるから
自然な感じである。しかし、移転したというのはいつの時期なのだろうか。
実は日本語版『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』の
「韓(西周)[ 2020年3月13日 (金) 06:57時点の版]」ではこのIII説が採用されており[注4-6]、しかも
移転時期について、周の成王の頃とされている。そして移転理由として、燕が南方から北京に移転したため
北京にいた韓がBの地に移転したとされている。(ネット上ではかなりこの説が拡散している。)
この説は、かなり契丹古伝に適合的といえる。
例えば、
夏莫且誅滅を契機として、成王の世に「周初の反乱」の始まったころ、北京付近の韓という諸侯国は
そのエリアでは比較的珍しい親周国家であった[注4-7]ので、周はその韓に対し反乱勢力を鎮圧するように命じる。
→そこで韓は東族軍勢からみて格好の攻撃対象となった。
→そこへ南の方から本格的な燕軍も北上してくる。東族軍勢は燕軍に善戦し、韓については国自体を滅ぼした。
→「周初の反乱」が鎮圧されると、燕は北京に位置を定め、韓についてはあらためて西方の地Bに移転再建された。
──のように考えれば、実は「移転」とは「一旦滅亡して、別の地で再興」という実態の言いかえではなかった
かということになる。(構成1の場合については[注4-8])
(自分が以前から契丹古伝本文のページで示唆していた考え方は、これであった。)
この日本語ウィキペディアの説はなかなかに興味深いが、このIII説(AからBへの移転説)
の主流は、もっと移転時期を遅いものと捉えているのである。
例えば清の学者雷学淇は、詩経韓奕に登場する韓侯(周の宣王の時代)はまだAの地におり、その後Bに移転して
滅びたとする。(雷学淇『介庵経説』[注4-9])
この背景には韓奕に登場する「韓城(燕人が建設したとされる)」が周の宣王当時も依然存在
していたはずだとする推理が働いているのだろう。
しかし、清代の別の学者徐文靖は、もとAの地にあったが宣王の時にBの地に移されたと解している。そして、「韓城」の記載は
かつてAの地にあったころの記憶であると考えているのである。
(徐文靖『竹書紀年統箋』)[注4-10])
この考えを応用すれば、Aの地から韓が消える時期をもっとはやく捉えることもできそうである。
宋の羅泌の著した『路史』巻十九には次の記述がある。
韓武庶子、幽世失国、宣王中興、韓討不庭、(以下略)
韓は武王の庶子[が封じられた国で]、「幽世」に国を失い、宣王の時に中興し、韓はまつろわぬ者を討ち、・・・・
(羅泌『路史』巻十九 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=505084 )
ここで「中興」とあるように、周の宣王のとき(紀元前800年前後)に中興するまでは、韓は衰微しており。
ほとんど存在していなかった可能性もあろう。 (注:「幽世失国」の意味は、宣王の次の幽王の時代に
滅びたという意味と解されており、この点疑問もあるが、ここでは踏み込まない。)
そもそも、韓としての受封は周の宣王の時で、それ以前は韓という国自体が存在しなかったという立場さえ
存在するのである。
もちろんその立場そのものには従えないにしても、宣王以前の韓は、とっくの昔に東族に滅ぼされて廃絶した状態
になっていたと見ることは可能であろう。
したがって、最後にBの地で滅びたにしても、それ以前にAの地で滅びたと考えることで、
滅韓時期問題が解決できることになる。
IV 「一貫してAに存在」説
最後に、今は人気のあまりない説かもしれないが、「韓」は建国当時からA地点(今の北京またはその東北方面)に
あり、詩経の韓侯の時も同じ場所(周の宣王の時)で、その後同じ場所で滅びたとする説が残る。
(王粛[注4-11]、王符[注4-12]、 顧炎武[注4-13]、 浜名氏[注4-14])
この説だと、詩経韓奕の詩に登場する梁山も、今の河北省、北京方面にあることになる。
(注・ このヴァリエーションとして、詩経の韓侯の国(A地)とBに同名異国の「韓」が周初から同時に
存在したとする説(陳奐)もある[注4-15])
この説だと、韓滅亡の時期は「韓奕」の周宣王期以降となるから、
さすがに滅韓時期問題が解決できず、自説は成り立たないことになるとも思える。
しかし、そうでもない。
そもそも『詩経』には数種のテキストがあったが、
毛氏(前漢の毛亨・毛萇のこととされる)の伝えたテキストに毛亨が注を
つけたものを「毛伝」といい、これが現代にまで伝えられた版である。
この『毛伝』は、後漢の鄭玄がさらに注釈をつけた版が広く流布した。
それゆえ、この鄭玄による注釈は、いわば詩経解釈の基本中の基本であり、『鄭箋』と呼ばれる。
実はその『鄭箋』で鄭玄は次のように述べている。
韓侯之先祖微弱、所伯之国多滅絶。今復旧職、興滅国、継絶世、(以下略)
韓侯の先祖は微弱で、所領の国は多く滅絶した。今、旧職を復し、滅びた国を興し、絶えた世を継ぎ(以下略)
(「毛詩」(『四部叢刊初編』版) (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77331&page=120 )
ここで鄭玄は、韓奕の詩に登場する、周の宣王当時「韓侯」と呼ばれる人物の、その先祖について述べている。
その先祖というのは、周の初期、武王(今本竹書紀年でいえば成王)の時に北国統治を命じられた初代「韓侯」
を指すと一般に解されている。しかし当時の韓侯は「微弱」であったというのだ。
それで、「所伯の国は多く滅絶した」と。これは、韓侯が管轄する諸国の多くが滅絶したと解釈されるのが
通常だが、「絶えた世を継ぎ」の表現の部分では、「韓」そのものが廃絶していたという印象も受ける。
実際、鄭玄はより明確に、次のようにも書いている。
韓侯先祖有功徳者、受先王之命、封為韓侯、居韓城、為侯伯。(中略)後君微弱、用失其業。
今王(中略)使復其先祖之旧職、(以下略)
韓侯の先祖で功績と徳行を有する者が、周の昔の王の命を受けて、韓侯に封じられ、侯伯となった。(中略)その子孫
は微弱で、それゆえその業(職務)を失った。[周の]今の[宣]王は(中略)韓侯の先祖の旧職を復活させた(以下略)
(「毛詩」(『四部叢刊初編』版) (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77331&page=119 )
ここで「職務を失った」というのは、「韓侯の地位を失った」という意味で争いはない。やはり韓侯の国は廃絶
していた。それを周の宣王のときに復活させたのだという解釈が示されている。
このように、詩経の注釈の中でも基本中の基本といえる『鄭箋』において、
韓侯国は当初は微弱な存在であったという理解が示されている。
韓侯の国は鄭玄の指摘するように、脆弱なもので、滅びたり再興されたりを繰り返すような状態だった
のではないだろうか。
韓侯国の位置につき鄭箋のとる立場はI説(「一貫してB」説)ではあるのだが、上記の解釈(「微弱」説)はより
一般的に、韓侯国の位置にかかわらず妥当するものであろう。
したがって、浜名氏の指摘するように仮に韓侯国が最終滅亡時まで今の北京方面(A)にあったとしても、
最終滅亡時まで何回か滅亡・再興を繰り返したと考え、そのうちの一つは微弱だった初期に起きたもので、それが契丹古伝27章の「韓を滅す」
だったと考えれば、自説と何ら矛盾が生じないことになる。
(実はIII説についても、この理屈を適用することもできる。
例えば東族によって韓が滅ぼされた後、"反乱"が収束した頃に同じAの地で韓が再建され(詩の「韓城」もこのとき建設)、
その後再び廃絶し、後に西方のBの地で再建した、と考えることができよう。)
韓侯国は、周にとっては都合の良い存在であっただろうが、設立当初から微弱で、東族の"反乱"の際に
一旦潰れたとしても不思議ではないと考える。
このようにI II III IV説のいずれをとっても、滅韓問題は解決できる(もしくは存在しない)ことが示せた
と思う。さらにこれに対する補強を、元のページに戻ってから行いたいと思う。
「滅韓時期問題 その2(韓の所在地)」の本文はここまで。補注はこの下に記載した。
元のページ(夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか )へ戻る
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補注
I 説
注4-1 吉本道雅氏の説:
韓奕の「貊」は今日の陝西・山西の境界あたりにあった「百蛮」の一つということになろう。
(中略)
顧炎武は(中略)涿郡の良郷県{(今の北京市の一部)}の「梁山」を
「韓奕」の「梁山」に比定した(『日知録』巻三/韓城)。
(中略)結局のところ、この説の根拠は、
何より「燕」を北燕に比定し、「貊」を前漢以降と同じく東北に位置するものとする認識にあった。
これに対し、燕を東郡南燕縣の姞姓の南燕に比定することで顧炎武説を辨駁したのが兪正燮である。
(中略)[韓奕の詩の、韓侯の新妻の父の]蹶父を南燕の分派とする議論は明快であり、従うべきものとなろう。
(中略){「貊」が動詞である}可能性を捨象して「貊」を異族の称謂と解した場合でも、それを後の異族と同一視して
その東遷を想定する必要もなく、それを傍証する材料もない。{引用者注・韓侯国の位置について鄭玄説に従いながらも、鄭玄の主張する貊族移動論を否定する趣旨である。}
吉本道雅「中国先秦時代の貊」『京都大學文學部研究紀要』 47号、2008年 p.4
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/72831
注4-2 谷口義介氏の説:
{「韓奕」で、かつて禹が治水した場所とされる}「梁山」は、韓侯の所領を陝西の韓城県{B-1}とみるか、
山西の韓原附近{B-2}とするかによって異なり、前者と見れば河西の梁山、
後者ととれば河東の呂梁山脈となる。
いずれにせよ、禹
の伝説の密集地である。(中略)そもそも黄河の河曲部を中心とする山西・陝西・河南の一帯は、
夏禹の伝説地帯であり、考古学的には仰韶―彩陶文化圏に属する。
(中略)禹の神話が山東・河北にまで広がるのは、春秋期に入ってからではなかろうか。
(谷口義介「詩経韓奕の背景」『學林』第二十八・二十九号 中國藝文研究會1998 p.3~p.4)
(旧字体を新字体に改めた箇所がある。)
周知のように燕には、北燕のほかに南燕というのがあり、{「韓奕」}第六章でいう燕とは、
『漢書』地理志(上)東郡南燕県に「南燕の国は姞姓、黄帝の後なり」というところの姞姓の南燕であろう。
(谷口義介「詩経韓奕の背景」『學林』第二十八・二十九号 中國藝文研究會1998 p.8)
II 説
注4-3 江永 (清代の学者)の説 (『羣経補義』巻一より)
武王之子封於韓、括地志同州韓城県南十八里為古韓国。
武王の子は韓に封じられ、『括地志』は同州の韓城県の南十八里(B-1の地)を古の韓国とする。
然韓奕之詩言韓城燕師所完奄受追貊北國、則韓當不在闗中。
しかし『韓奕』の詩によると韓城は燕人の完成させたもので追・貊族・北国を奄受したというから、韓は
関中(函谷関の西側、今の陝西省の西安を中心とした地域)に所在したのではない。
(中略)
或又以梁山在韓城為可疑、然而燕地亦自有梁山。
{『韓奕』の}梁山が韓城(B-1の地)にあるとするのは疑うべきで、燕の地にもまた梁山が有る。
(中略)
正当固安県之東北也。
正に固安県の東北(A-1の地)にあたる。
(中略)
然則韓始封在韓城、至宣王時徙封於燕之方城與
従って、韓は はじめは韓城(B-1の地)にあり、周の宣王の時に燕の方城(A-1の地)に移封されたのではないか。
(江 永 『羣経補義』 巻一 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=652098&searchu=%E9%9F%93%E5%A7%8B%E5%B0%81%E5%9C%A8%E9%9F%93%E5%9F%8E )
注4-4 目加田誠氏(古典中国文学者)の説:
史実、地名についてはいずれも判然としない。けれども、詩の本文から察すると、韓侯の国は始め
同州{(今の陝西省内)}の韓城{(B-1の地)}にあり、これが宣王の時に夷狄の押えとして、燕の方城(河北、涿郡){(A-1の地)}に移された。
(目加田誠 『定本 詩経訳注(下) 楚辞訳注』目加田誠著作集第三巻 龍溪書舎 1983年 p.118)
III 説
注4-5 竹添進一郎(日本の著名な漢学者。(1842-1917))その代表作『左氏会箋』
(『春秋左氏伝』の注釈で、清代の諸説を集大成したもの)に以下の記載がある(現代語訳は引用者による):
或謂、・・・韓有両国、其始封在固安、後失於北而遷於西、是為定論。
あるいはいう、韓は国が2つ[の場所に]あり、初めの封地は固安{(今の北京付近、A-1の地)}に在り、
後に北の韓は失われて西に遷ったと。これを定論とする。
然其西遷之地、要在山西境内而非韓城也。
しかしその西遷した場所は、山西の境内(B-2)にあるべきで、韓城(B-1)ではない。
(竹添進一郎『左氏会箋』僖公十四年条 (国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/753755/44 )
(※田中勝也『環東シナ海の神話学』p.181~p.183を読むと、『左氏会箋』は本稿の
IV説(一貫して北京方面A地に在ったとする説)を採るように見える。しかし、田中氏前掲書p.181
最終行に引用されているように『左氏会箋』は「韓国は、河東郡界に有り」(山西省、B-2)とB地説も併記している。
その上で、『左氏会箋』は、AからBに遷ったという見解もありこちらを定論とすべき旨を述べている。
従って田中勝也氏の説明は正確ではない。竹添説はIII説に分類される。)
注4-6 Wikipedia (「韓(西周)」の項目より)
韓の祖は周の武王の子で成王の弟である韓叔であり、殷周革命の際に
現在の北京の南方にある固安(現在の河北省廊坊市固安県)に封じられたのを起源とする。
その後、領地の地名を氏とするようになった。
兄の成王の代に、韓原(現在の陝西省韓城市~山西省河津市の境目)に移封された。
紀元前757年もしくは756年、晋によって滅ぼされた。
(「韓(西周)[ 2020年3月13日 (金) 06:57時点の版]」 日本語版『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93_%28%E8%A5%BF%E5%91%A8%29 )
注4-7 比較的珍しい親周国家・・
なお、通説は西周の韓を春秋左氏伝に載る武王の子(俗にいう韓叔)の系統とするわけだが、このような系譜は、
後になって製作されたものである可能性は高い。
本当は東族系の諸侯[で周に帰服したもの]であっても後に婚姻関係などで周と近縁となり、周朝に忠誠を尽くす
ならばそのようなことはありうるだろう。
したがって周と同姓という建前を事後的に獲得する旧東族系種族ということであれば、周の初期に辺境管理に駆り出さ
れても奇妙とはいえないのである。(別の可能性としては、韓叔は周と同姓だが母系が殷系であるということも
考えられなくはない。)
ちなみに、『詩経』「韓奕」の詩に登場する「韓侯」の国について、ほとんどの注釈は「韓侯」の国=
西周の韓とし、武王の子の系統とみるわけだが、そこは「みなし武王の子の系統」と読み替えればよく、
当然に捨て去るべきものではない。
注4-8 構成1の場合は?
本文で示した構成は燕の所で示した「(構成2)」に適合する構成である。「(構成1)」の場合は、例えば次のように
なる。
武王が殷を倒した直後、まだ東族が茫然としているころ、北京付近の韓という諸侯国は周の命令を受けて
燕の先遣隊と共に辰沄殷を攻撃し、東遷させた。(24章)
しかし東族も事態を把握し、弱小な「韓」は周辺の東族勢力の厳しい監視の下、身動きしづらくなる。
そして、夏莫且誅滅(25章26章)の直後、成王の世に「周初の反乱」の始まったころ、北京付近の韓という
諸侯国は東族軍勢の攻撃対象となった。
そこへ南の方から本格的な燕軍も北上してくる。東族軍勢は燕軍に善戦し、韓については降伏させた。(27章)
周初の反乱が鎮圧されると、燕は北京に位置を定め、韓についてはあらためて西方の地Bに移転再建された。
注4-9 清代の学者 雷学淇の説(『介庵経説』巻三より)
韓於幽王之世失国,(中略)
韓は{周の宣王の次の}幽王の世に国を失った。(中略)
謂失其近燕之国也。
{それは、}燕の近くの国が失われたことをいうのである。
蓋失於北而遷於西。(中略)
思うに、北方{の韓}は{韓奕に描かれた宣王期より後の幽王期に}失われ、西に遷ったのであろう。(中略)
韋昭謂韓於平王之世失國,此則指其所遷之國,
{呉の学者}韋昭は、韓は{幽王の次の}平王の治世に国を失ったというが、これはその遷った後の国のことである。
近於禹貢之梁者。
「禹貢」の梁に近い{場所に韓が位置すると韓奕の詩からは読み取れる}という点については、
韓之二國皆有梁山,故鄭氏誤以遷國為封國。
{遷る前後の}両方の韓の国が、それぞれ梁山を擁していたが故に、鄭{玄}は国が{西に}遷ったことを
その地に{当初から}封じられたものと誤解したのである。
(雷学淇『介庵経説』巻三 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=14085&page=52
、
同
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=14085&page=53 )
注4-10 清代の学者 徐文靖の説(『竹書紀年統箋』巻十・巻七より)
成王十三年(中略)是時韓在北方、與燕近。
成王十三年(中略)、この時に韓は北方{(Aの地)}にあり、燕と近かった。
宣王四年、(中略)韓侯来朝、則又改封於韓原。
宣王四年、(中略)韓侯が来朝し、その時{韓を} 韓原{(Bの地)}に改封した。
(徐文靖『竹書紀年統箋』巻十 (國學大師)
http://skqs.guoxuedashi.com/828i/493656.html )
([Wayback Machine版はこちら])
溥彼韓城燕師所完非即紀年之所称王師燕師城韓者哉、此蓋追述其先祖之事欲其克紹前烈。
{『詩経』の韓奕の云う、}「燕人が完成させた、かの大いなる韓城」というのは、{今本竹書}紀年{(成王十二年)}の
いうところの「王師と燕師が韓に築城した」のことではなく、その先祖の事を追述したもので、それにより
先祖の偉業を良く受け継ぎたいという意味と思われる。
非宣王之世別有燕師城韓也。
宣王の世にさらに別に燕人が韓に築城したということでもない。
(徐文靖『竹書紀年統箋』巻七 (國學大師)
http://skqs.guoxuedashi.com/828i/493598.html )
([Wayback Machine版はこちら])
IV 説
注4-11 王粛
三国時代の魏の学者。 『水経注』巻十二に、王粛の文の引用がなされている。
今涿郡方城縣有韓侯城
今の涿郡方城縣(今の河北省内)に韓侯城がある
(酈道元『水経注』巻十二 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/shui-jing-zhu/zh?searchu=%E7%8E%8B%E8%82%85%E6%9B%B0%EF%BC%9A%E4%BB%8A%E6%B6%BF%E9%83%A1%E6%96%B9%E5%9F%8E%E7%B8%A3 )
注4-12王符 後漢の学者。
『潜夫論』の「志氏姓」章より
昔周宣王亦有韓侯、其國也近燕、
昔、周の宣王の時にまた韓侯があった、その国は燕の近く(今の北京方面)である。
(王符『潜夫論』「志氏姓」章 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/qian-fu-lun/zhi-shi-xing/zh?searchu=%E9%9F%93%E4%BE%AF )
注4-13 顧炎武 明の末期・清初期の著名な儒学者。
(『日知録』 巻三より)
水經注聖水徑方城縣故城北 又東南徑韓城東
『水經注』によると、聖水は方城県の故城の北をめぐり、また東南へ向かい韓城の東をめぐる。
(中略)
按史記燕世家、易水東分為梁門、今順天府固安縣有方城村、即漢之方城縣也
考えてみるに、『史記』燕世家に見える「易水」は東に分かれて梁門となり、今、
順天府固安県(現在の北京の辺り)に方城村がある。即ち漢代の方城県である。
水經注亦云 濕水徑良鄕縣之北界、歴梁山南
『水經注』はまたいう、「濕水はまた良郷県(今の北京市の一部)の北界をめぐり、梁山の南を通る(中略)」と。
是所謂奕奕梁山者矣
これが[『詩経』「韓奕」の]「奕奕たる梁山」である。
況其追其貊乃東北之夷 而蹶父之靡國不到 亦似謂韓土在北陲之遠也
[『詩経』「韓奕」にいう]「その追・その貊」とは東北の夷であり、[その詩にいう]「[韓侯の新妻の父の]蹶父 は
国として至らない国はない」
というのは、韓の土地は北方の辺境の遠方にあるといっているようなものである。
(中略)
今以水經注為定
今、『水経注』の記載を正しいと考える。
(顧炎武『日知録』巻三 (中國哲學書電子化計劃)
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=924711&searchu=%E9%9F%93%E5%9F%8E )
注4-14 浜名氏の説
成王が即位十二年に、己の弟 応韓を今の直隷省固安県[引用者注・今の北京付近]に封じて韓国を立てさせ、(以下略)
(浜名 遡源p.539, 詳解p.253)
竹書紀年に・・晋人滅韓とある、ところが晋はこの時代、韓の所在地なる今の直隷省固安あたりへは
手が延びて居ない、(中略)
晋が滅ぼしたやう書いたのは、夷の為めに亡されたるを隠蔽せん為の曲筆なるべく(以下略)
(浜名 遡源p.549, 詳解p.262)
注4-15 陳奐の説
この 韓侯国はずっとAの地にあったとする説のヴァリエーションとして、詩経の韓侯国(A地)とB地とに同名異国
の「韓」が周初から同時存在したとする説(陳奐)もある。この場合、韓侯国(A地)は周の平王以降もさらに長く
存続したことになるので、自説との関係で一見不利になる点は同じである。したがってIV説としてまとめて検討する。
「滅韓時期問題 その2(韓の所在地)」のページはここまで。
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