この論考は4ページで構成されていますが、単純に順番に4枚を読む形式ではありません。
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逆旅人曰、吾聞、時難得而易失。逆旅 の人曰 く、吾 れ聞く、時は得 難 くして失 い易 しと。
旅館の主人は言った。「私は、時は得がたく、失いやすいものだと聞いている。
客寝甚安 殆非就国者也。
客、寝 ぬること甚 だ安 し、殆 ど国 に就 く者に非 ざるなり、と。
お客様は、ゆっくり寝てとても安楽にしている。国に赴任する人とはとても思えない。」と。
太公聞之、夜衣而行、黎明至国。太公 は之 を聞き、夜に衣 て行き、黎明 に国に至る。
太公望はこれを聞いて、夜のうちに服を着て出て行き、夜明け前に国に到着した。
萊侯来伐、与之争営丘。萊侯 来たりて伐 ち、之 と営 丘 に争 ふ。萊侯 が到来して太公望を攻撃した。太公望は萊侯と営 丘 の地で戦った。
営丘辺萊。萊人夷也。会紂之乱而周初定、未能集遠方、是以与太公争国。太公至国、修政(以下略)営 丘 は萊 に辺 す。萊人 は夷 なり。紂 の乱に会 して周 初めて定まるも未 だ遠方を集 んずる能 はず、是 を以 て太公 と国を争 ふ。太公は国に至り、政を修め、(以下略)営 丘 は萊 に隣接している。萊人 は、夷 の族である。紂 王の乱の際に周は初めて天下をとったが、未だ遠方の平定 はできていなかった。それゆえ萊 は太公望と国を争ったのである。太公は国に至り、政治を整えた(以下略)。
(『史記』巻三十二「斉太公世家」)
(※本稿において振り仮名には現代かな遣いを使用している。)
(上記『史記』の太公望就任時の部分を引用した後に)
拠此。可見就国営丘之不易。
これによれば、営丘に就任するのが容易ならざることがわかる。
至于其就国在武王時否、即甚可疑。
太公望が周の武王の時に就任したのかが強く疑われる。
(中略)
武王之世、殷未大定、能越之而就国乎?
武王の世は、殷はいまだ完全に平定されていなかったのに、これ[済水]を越えて就任などできるだろうか?
(中略)
綜合経伝所記、即知大公封邑本在呂也。
諸経・注釈の記載を総合すれば、太公望がもともと封じられたのは[斉の国ではなく] [今の河南省に属する、成周の都のおかれる場所から遠くない] 呂の地であったと知ることができる。
(傅斯年「大東小東説」(『傅斯年全集』第三冊 聯經出版 2017年所収 p.0750))
「祖 甲斉公 」の号を刻した(中略)青銅器が発見された。
これはおそらく初代の斉公の号であるが、殷代以来の十干諡号を用いているのが注目される。
(中略)この「祖甲斉公」が伝世文献上の太公望を指しているのかもしれない。
(佐藤信弥『周─理想化された古代王朝』中央公論新社 2016年 p.42)
太公望は、「斉 」という諸侯の初代であり、『史記』等の文献では文王・武王の軍師とされている。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』筑摩書房 2008年 p.204)斉 が元は殷側の勢力だったことが窺 われる。・・『史記』などに記された太公望の活躍は
後世の創作と考えてよいだろう。(同書p.206-p.207)
(本稿において、引用文中、茶色で表示した振り仮名があればそれは引用者が付したことを明示したものである
(ここでいう引用には契丹古伝は含まない)。)
『史記』太公望のモデルは斉 世家では、{斉の始祖太公の}祖先を姜 姓で虞 夏 の際に呂に封じられたとする。姜 姓は周と協力関係にあった勢力であり、周文王・武王の軍師だったという太公の伝説と合致しているように 見える。しかし、甲骨文字には「斉 」が殷王支配下の地名として見え(中略)つまり斉 は元々は姜 姓ではなく殷の支配下の勢力であり、その後、周王朝の側についたと考えられるのである。
当然、「周王の軍師」という伝説も後代の創作である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.116)
(本稿において、引用文中{ }(中かっこ)で囲んだ部分は引用者の補注である。)
陳荘遺跡から出土した前掲 豊啓觥銘 に、「厥 祖 甲斉公 」というように、{『史記』の} 斉太公世 家 に見えない十干 諡 号 が 見出されている以上 {、『史記』の太公(太公望)と斉国の初代「祖甲斉公」は同一人とはいい難いから} 、{落合淳思} 氏の所説をそのまま受け入れるわけにはいかない。
{(「豊啓觥銘」の)}豊啓は・・斉 公室{(公室=君主の家柄)}出身者であると推定されるのであるが、そうすると IB期{(=周武王の子の成王~孫の康王の治世)}の頃に十干 諡 号 を用いる在地型陝東 外諸侯の斉 国が存在したことは確かであろう。そうして、{周の}孝王 5年及び夷 王3年に王朝からの討伐を受けて、在地型斉 公室出自者の哀公 が処刑されたのである。
・・・{(上のほうで本稿作成者も引用した『礼 記 』檀弓 上の引用をされた上で)}・・
初代太公{(太公望)}から5代<すなわち哀公>までの歴代国君・・・が斉 国で埋葬されずに遠く離れた関 中 王 畿 の周 原 {(周の都鎬 京 (今の西安)よりさらに西方の周の発祥の地)}で埋葬されたというのは、いかにも不可解である。 だが、
初代太公{(太公望)}から始まる歴代当主がそもそも斉 公室{(斉国の君主の家)}ではなかったと 見たらどうであろうか。
つまり、太公{(太公望)}一族は本来周 原 に遷 住 した陝東 出自者の家系であったと解釈 したならば、{[太公から4代までの]}埋葬地が周原に所在していた理由も了解されるのである。
そうして斉哀公 が周 原 に埋葬された理由は
{(また事情が異なり、斉 の在来型の諸侯として)}処刑された後に故地{(斉の地)}で祭祀対象と なることを避けるためであったものと考えることができるであろう。
そうすると、哀公処刑後に斉 国に入封して来た外来型斉公室こそ太公{(太公望)}一族であったものと考えられ、
その折衷型諡 号 は太公{(太公望)}一族が周 原 遷住後に既に一定の「周化」を遂げていた事情を示すものであろう。
・・・(引用者注 この後、外来型斉 公室の初代、斉の「胡 公 」が在来型斉公族に倒され、在来型の系統の「献公 」が 即位、その孫「厲公 」のときに外来型系統の巻き返しに遭いかけるが、結局在来型の系統が春秋期以降も 斉公室であり続ける、旨を述べられた上で)・・・
問題となるのはいつ頃太公家の系譜を斉公室の系譜に架上させたのかという点である。
おそらくその時期は、曽国の場合と同様に春秋期以降に降 るのではないかと推定される。斉国も・・・
西周王朝崩壊以降の混乱期において周囲の諸勢力に対してその政権としての正統性を主張しうる 根拠を必要としていた筈である。また、特に斉 の場合は東遷期以降中 原 進出を企図しており、
周系諸侯群と交渉を深めていくためにも政権の尊貴化は是非とも必要であったものと考えられ、
少なくとも「かつて周王朝によって討滅された在地型陝東 系外諸侯 の後裔である」という 負の血統は隠蔽したかったものと思われる。それ故、おそらく春秋初期に斉僖 公 が周王朝に入朝した頃(前715年)に、 大公{(太公望)}を始祖とする系譜が作成されたものと推定されよう。
(谷秀樹「西周代陝東系外諸侯帰順考」『立命館文学』631号 2013年3月 p.1075-p.1074)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6429&item_no=1&page_id=13&block_id=21
殷代の甲骨文字に地名として「斉 」があり、しかも殷王が滞在した軍事駐屯地として記されている。
・・このことから、斉 も元々は殷に服属していたと考えられる。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』 筑摩書房 2008年 p.205)
実際には斉 は殷系の勢力であり、殷末周初のいずれかの時期に周の側についたことになる。
(落合淳思『殷ー中国史最古の王朝』 中央公論新社 2015年 p.218)
のように、周の初期に、周に対して起こされた反乱の際に蜚廉(飛廉)が殺されたと記されたものが発見されて いることから、実在の線が濃くなってきているのだ。ちなみに書物ではこの
成王伐商蓋、殺飛廉、西遷商蓋之民于邾圉,以御奴虘之戎,是秦之先
成王は商蓋を伐 ち、飛 廉 を殺し、西のかた商蓋の民を邾圉に遷 し、以 て奴虘之戎を御 す。是 れ秦 之 先
成王は商蓋を征伐し飛 廉 を殺して、商蓋の民を西方の邾圉へ遷 し、奴虘之戎を統御した。これが秦の先祖である。
(清華簡『繫年』第三章)
・周武王姫発大封諸侯,姫姓子孫,不狂不惑者,皆賜爵裂土。
・周の武王(姫 発 )は大いに諸侯を封じた。姫 姓の子孫で、惑わされずに忠節を揺ぎ無く貫いたものは、みな爵位を 賜り、土地を分与された。
・斉太公姜尚誣殺隠士狂矞、華士。
・斉 の太公である姜尚 は、隠 士 の狂 矞 と華士 に捏造した罪を被 せて殺した。
・周自酆邑遷都鎬京(陝西西安)。
・周は都を酆邑 から鎬 京 (陝西 西安)に移した。
・姫発卒,子成王姫誦嗣位。
・姫 発 は死去し、子の成王 (姫 誦 )が位を嗣 いだ。
(柏杨『柏杨全集』15 北京 人民文学出版社 2010年) p.33(簡体字は常用漢字または繁体字で表記。)[注1-12]
『史記』偶然でない可能性を残しておられるということは、太公望の事跡と斉の君主の事跡に関連性がある可能性を残して いることになる。(自説では、それぞれ別人の事跡なので、「偶然合致」となる。)斉 世家では、異説として、「[太公]嘗 て紂 に事 う。紂 、無 道 たり、之 を去る」という伝承を掲載するが、これが何らかの事実を元にしたものか、後代に作られた説話が 偶然に{山東半島の斉がかつて殷の臣下だった}事実と合致したものかは不明である。
(落合淳思『殷代史研究』朋友書店 2012年 p.132注釈12) [ { }内は引用者の補注]
((参考))『春秋左氏伝』昭公九年 「粛慎・燕・亳、吾北土也。」(武王が殷を倒した後、貊 族、大挙して南に跳出し、粛慎 が当時どこに居たかそれを今詳 にし難 いが、(以下略)
(浜名 遡源p.544, 詳解p.258)
このように、東表とは中国大陸の東方、海寄りの、山東省辺りを指すと思われるふしもある。
孟獻子曰、以敝邑介在東表、密邇仇讎。孟獻 子 曰く、敝邑 の東表に介在するを以 て、仇讎 に密 邇 す。
[今の山東省西南部の国である魯の]孟獻 子 がいうには、
「手前どもの国は東表に介在しているので、仇敵[である斉などの国]に近く接しております。」
(『春秋左氏伝』襄公三年)
と愚痴をこぼすほど、周が危機状態にある様子が語られている。まさに周はぼろぼろになっていたのであり、幸 いすることの薄い天は、災害をわが王家にしきりに下して、少しもゆるめようとしない。
(赤塚忠(訳)『書経・易経(抄録)』(中国古典文学大系 第1巻)平凡社 1972年 p210)
もちろん、あくまでこれは東族が周の側からの攻撃を受ける場面の説明である。萊 夷 はその以前から已 に斉 と戦ってゐて、史記に武王、師 尚 父 [引用者注・太公望呂尚のこと]を斉 の営 丘 に 封ず、萊人 来 り伐 つ、之 と営 丘 を争 ふ とあるなど、以 て証 とすべきである。萊 は歴代の侯伯 で東族の雄 なれば、昌 黎 に建国せる殷 叔 とは、当然提携すべき情 誼 の上に居 り、
海よりするも陸よりするも、頗 る聨絡 の取りよい関係にあった。
それが周の連合軍に破られたとしたら、殷 叔 も攻撃を免 かれるわけにはゆかぬ、(以下略)
(浜名 遡源p.514, 詳解p.228)