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太公望の意外な最期(夏莫且の正体) ──太公望は「克殷」後に誅滅されていた
の論考の一部である。検索等でこのページに直接こられた方は、↑のページをまずご覧頂きたい。
浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック
──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった
●はじめに
浜名寛祐氏によると、裏切り者「夏莫且」は東族の「宗家」である「
粛
慎
氏」の長であり、殷が倒されたときの
殷軍の部隊の一部を寝返らせた人物であるという。もしこれが本当なら、夏莫且は太公望とは明らかに
別人ということになる。浜名説は本当に間違いないものなのだろうか。
契丹古伝の関連する箇所を抜粋しよう。この中の「
朱申
の宗」の意味が特に焦点になる。
なぜなら浜名氏は「朱申の宗」とは東族の「宗家」である「粛慎氏」を意味するとしているからだ。
契丹古伝23章
(※本稿において振り仮名には現代かな遣いを使用している。また、引用文中、
茶色で表示した振り仮名があればそれは引用者が付したことを明示したものである
(ここでいう引用には契丹古伝は含まない)。)さらに、引用文中{ }(中かっこ)内の部分は引用者の補注である。
伯、
唱
へて成らず。
和、
征
して克
たず。
伯族は、(大義を)唱え(て周を止めようとし)たが、成功せず、和族は、征するも勝たなかった。
陽、津防
に
勇
なりしも、易、
節
を売って
之
に
畔
く。
陽族は、
孟津
の攻防に勇戦したが、この(攻防の)際、易族は、金財と引き換えに(殷朝への)忠節を捨てて、敵に内通した。
周師、
牧
に
次
す。
周の師団は、
牧
野
に布陣した。
淮徐、方に
郊戦
に
力
め、しかして
姜
、内より
之
を
火
き。
商
祀、
終
に
亡
ぶ。
[東族側である]淮族・徐族は、そろって[殷周の決戦の場である]牧野の郊戦に力をつくしていたが、
この際、姜族は、内より火を放って焼毀し、商(殷朝)の祀は終に亡んだ。
潢、海に浮び、潘、北に退き、宛、南に
辟
く。
潢族は、海に浮かび、潘族は、北に退き、宛族は、南に退避した。
嘻
、
朱申
の宗、
賄
に毒せられ、兵を
倒
にして、
東
委
尽
く
頽
る。
嘻、朱申の宗家
が、賄賂に毒せられ、
兵器を
倒
にして、そのあげく、東委がことごとく
頽れてしまうとは。
ここでは、殷と周の最終決戦として有名な「牧
野の戦い」の描写がなされている。
(ここで列挙されている族名は、すべて東族(殷側)の勢力である。)
東族側は奮戦したが、裏切り行為もあって商(殷)は落城し「ついに亡んだ」。
そして殷側の部族のいくつかは、周の支配になど服するわけにはいかないと、遠方に退避したと記されている。
その後に、嘻(ああ)で始まる問題の文がある。再掲しよう。
嘻
、
朱申
の宗、
賄
に毒せられ、兵を
倒
にして、
東
委
尽
く
頽
る。
嘻、朱申の宗家が、賄賂に毒せられ、
兵器を
倒
にして、そのあげく、東委がことごとく
頽れてしまうとは。
もはや殷は落城し、いくつかの部族が遠方に退避したと書かれたあとで、何かを嘆いている言葉。
何を嘆いているのだろうか。
その言葉の最後の部分、「東委が尽く頽れてしまう」の解釈にはまず争いがない。
東委の「委」は20章にも登場する言葉で「夷」と同じと解される。従って東委=東夷で、東族のことと解してよい。
よって、末尾の部分の意味は「東族がことごとく衰退してしまった」となる。
次に、その直前の「兵を倒にして」の部分。これは、司馬遷の『史記』の有名な一節から来ている。ここが結構重要
な所だ。以下にその部分を引用する。
帝
紂
、武王の
来
れるを聞き、
亦
兵七十萬人を発して武王を
距
ぐ。
殷の帝王である
紂
も、周の武王が攻めてきたと聞いて、兵七十万人を発してこれをふせいだ。
武王
師尚父
をして
百夫
とともに、師を致さしめ、大卒をもって帝紂の師に
馳
す。
武王は師尚父
(つまり太公望
呂尚
)に命じて百人の兵とともに、敵に挑戦させて必戦の意気を示させ、
みずからは主力軍をもって紂王の軍に突入した。
紂の
師
多しと
雖
も、皆
戦
ふの
心
無く、心に武王のすみやかに入らんことを欲す。
紂の軍は人数は多かったが、みな戦う意志がなく、心中ひそかに、武王がすみやかに入ってくるのを
望んでいたので、
紂の師、皆
兵を倒
にして もって戦い、もって武王に開く。
紂の兵はみな武器をさかさにして戦い、武王のために道を開いた。
武王之に馳す。紂の兵 皆崩れて紂に畔く。
武王の軍が馳せ入ると、紂の兵は総崩れになって紂王にそむいた。
紂 走りて都へ
反
り入り、
鹿台
の上に登り、
其
の珠玉を
蒙
り
衣て、自ら火に
燔けて死す。
紂は敗走して城中に帰り、鹿台の上に登り、そこにあった珠玉を身にまといつけて、
みずからを火中に投じて焼死した。
(『史記』周本紀 )
以上からもう一度、契丹古伝の次の一文の意味を推理してみてほしい。
ああ、朱申の宗家が、賄賂に毒せられ、兵器を倒にして、東委が尽く頽れてしまうとは。
「賄賂に毒せられ」たという、朱申の宗家(原文「朱申の宗」)とは何だろう?
「兵器を倒にした」という、その、朱申の宗家(原文「朱申の宗」)とは何だろう?
上の『史記』を見れば、この部分の主体は殷の「紂王」もしくは「紂王の部隊」である。
軍の行為は国の行為だから、常識的にみて、朱申の宗とは、殷朝そのもの、あるいはその主である「紂王」だろう。
ちなみに、朱申に良く似た「珠申」という言葉が、契丹古伝第6章に登場している。この章は、東族は神祖スサナミコから分かれて
時代が経っても、族称の類似性にその名残を残すという指摘をしている章である。そこには次のように書かれている(太字は引用者による)。
例へば
瑪玕・靺鞨・渤海、同声
相
承け。珠申・粛慎・朱眞、同音
相
襲げるが
如
し。
例えば瑪玕・靺鞨・渤海が ともに同じ音の響きをうけ継いでおり、珠申・粛慎・朱眞が ともに同じ音を受け継いでいるようにである。
この珠申について浜名氏は
珠申はその本義
辰沄翅報(東大国霊)である。 (浜名寛祐 遡源p.339, 詳解p.53)
今
本頌叙
{(=契丹古伝)}の教ゆる所によれば、珠申の原義は辰沄翅報
なり (浜名寛祐 遡源p.340, 詳解p.54)
としている。自説も、ほぼこれに近く、朱申・珠申は辰沄翅報(東大国皇)を表す古い美称で、様々な部族によって
その族号として用いられたものと捉えている。、
この自説からすると、問題の「朱申の宗家
(原文「朱申の宗」)」とは、「辰沄翅報
の本宗家」という意味で、
当時の本宗家であった殷朝を指す、と解することができる。
そもそも太古、神祖・スサナミコは契丹古伝16章で中国本土に進出しその主となったが、中国の上代の伝説
の「三皇五帝」時代の「堯・舜」などが実は漢族の王ではなく、神祖の権威を受け継いだ東族の本宗家
であったことは、浜名氏もたびたび指摘していることである。
そして浜名氏は次のようにも書いている。
朱申氏は・・・各族連合の名であるかのやうに取れる、
尤
もこの時代のことであるから、
その称号は最大雄族
の
処
へ置かれたに相違あるまいが、
如何
に雄族でも
起踣盛衰は免れぬ所なれば、
その度毎に次の
雄族に移って来たのかと思はれる、
仮へば
堯が東族の最優秀者なりし時はその号も堯の処におかれ、
舜
これに代って立つに及んでは、舜の処に置かれたといふやうな
訳ではなかったか。
(浜名寛祐 遡源p.505, 詳解p.219)
自説では、殷朝の当時その本宗家の権威を受け継いでいた「最優秀者」は殷朝であると捉えるのである。
(なお、上記遡源p.505, 詳解p.219の記述も部分的には問題を含むのだが、今はとりあえず先に進む。)
朱申の宗家が殷朝を指すとすれば、先の一文
「嘻
、
朱申
の宗、
賄
に毒せられ、兵を
倒
にして、
東
委
尽
く
頽
る。」
は次のように理解できる。
「ああ、東族の
宗
家
である殷朝が、周の賄賂工作で弱体化し、ついには兵器を下に向け無抵抗で武王を通すありさ
まで滅び、東夷がことごとく衰退するとは。」
「兵器を倒にして」の前に「賄に毒せられ」という言葉があるが、これは、殷を倒す前の一諸侯としての周が
殷朝に対しさまざまな金品を贈って工作したという周知の事実を指すと考える。
実際、このことは契丹古伝22章にも
昌・発、
(中略)賂を以て夏を猾し。
戈を以て
之に継ぎ。遂に
臣を以て
君を弑するを致し。
姫昌(周の文王)・姫発(周の武王)は(中略)賄賂を以て国(殷朝)をみだし、賄賂のつぎには戈(武力)を使
い、遂に臣下が君主を弑するという事態を起こした。
とその金品攻勢について記載されているのである。
以上をまとめると、この部分は、殷が打倒された後で一連の経緯を想い起こし、「それにしてもあの偉大な殷朝
が、賄賂で弱体化して、ついには敗北するなんて」と嘆いているものと考えられる。
このように朱申の宗家=殷朝として理解すれば、この部分が無理なく極めて自然な文として理解できることがわかる。
そもそも、契丹古伝は殷朝が滅びた後もその後裔を丹念に描写しており、最後は40章で
嘻、
辰沄氏殷。
ああ、辰沄氏殷よ。
とやはり殷の末裔のことを気にしている。これは殷が本宗家だからこそと考えるのがごく自然な理解だろう。
自説を先に語ってしまったが、浜名説はここをどう理解しているか。
もう一度例の文を載せよう。
嘻、朱申の宗、賄に毒せられ、兵を倒にして、
東委尽く頽る。
ああ、朱申の宗家が、賄賂に毒せられ、兵器を倒にして、東委が尽く頽れてしまうとは。
これについての浜名氏の解釈というのは、簡単にまとめれば、次のようになる。
[殷とは別の勢力で、周の時代には一諸侯となる]「粛慎氏」(当時東族の本宗家の地位にあったという)が、
周から賄賂をもらい、[殷軍の部隊の一部を寝返らせて]武器の向きを殷側に変えさせ[るという裏切り行為を行っ]
て、東夷がことごとく廃れてしまうとは。
(後ほど引用する浜名遡源p.339, 詳解p.53参照)
自説と比較してみよう。
①主体。自説では、朱申の宗とは殷朝であり、その主、紂王である。
浜名説では、朱申の宗とは、殷より上位の本宗家の粛慎氏で、裏切って周の側についた存在である。
②賄に毒せられの意味。自説では、殷が長期にわたる周の金員攻勢で弱体化していたことを指す。
浜名説では、周側が牧野の戦いで殷の部隊の一部を寝返らせるため、殷を裏切った「粛慎氏」に金を渡したこと。
③兵を倒にしての意味。自説では、紂王の兵が戦意無く武器を下にむけて道を開いたこと。
浜名説では、「粛慎氏」が殷の部隊の一部に命じ武器の方向を殷を攻撃する向きに変えて攻撃し、
同士討ちをさせたこと。
ではまず①と②について検討しよう。
そもそも、粛慎氏が牧野の戦いで裏切り、周から賄賂をもらって部隊の一部に対し影響力を行使した、と
いう話は、いかなる史書にも見えず、かつ、
契丹古伝にも載っていないのであるが、浜名氏によればここの記載によってその史実が新たに判明したことになる
らしい。[注2-1]
もしかすると殷より上位の本宗家
だから部隊に影響力を行使できるというのだろうか。それなら
そもそも殷に命じて殷を降伏させることもできたのではないかということになってしまうだろう。
浜名氏のいう粛慎氏とは、周の初期の諸侯国の一つで、周に従順な存在として史書に登場する存在である。
殷の時代にも当然殷よりは小さい存在であったはずだが、それが殷よりも上位の「宗家」であったというのだ
(「宗家」論はこの後でまた検討することにしよう)。
③について、自説は史記の「兵器を倒にして」の通説(ほとんど定説)的解釈に従う。
自説では、周による金品攻勢→武力行使→殷が倒れて東族衰退という流れを思いおこすために、
兵器を倒にするという言葉を、牧野の戦いの象徴的シーンとして使用したということになる。
一方浜名氏は、わざわざ『史記』のこの部分の引用をせず、『書経』の中の、
後世の学者が偽造した篇(『偽古文尚書』)
の類似部分をもってきて説明している。(もちろんそこにも、「粛慎氏」がさせたと書いてあるわけでは
ない。後述。)
①②③につきどちらの説が正しいか。まずは、契丹古伝の記述の順番に注目して頂きたい。
姜族が火を放ち、殷が落城し、東夷側の部族のいくつかが遠方へ退避したという
記述の後に、浜名氏の説では、そこで改めて、周から賄賂をもらった「粛慎氏」の指示による部隊の利敵行為
のために敗北したことを悔しがることになる。
これは普通に考えれはおかしい。そういう具体的経過を記述するなら、「姜族が火を放つ」の前後にでも書けば
よいはずだ。でも実際にはそうなっていない。
最後の部分でその事を改めて嘆き、それさえなければと悔しがるというのであれば、
それは、まさに、その粛慎氏の指示による部隊の行為いかんで殷の滅亡が決まるといった場合ぐらいしかない。
しかし、実際には当時殷は一部諸侯の反乱(これも周が工作していたとする説もある)に対応するため
かなりの兵を投入させており、その虚をついて周が殷の都を襲ったという見解が有力となっている。
周は天下をとる準備を着々と進めていたのであり、太公望の協力も、大きな貢献となっていた。
粛慎氏の指示が仮にあったとしても、その影響は小さいはずだ。
そこで考えてみてほしい。部隊の裏切り行為に粛慎氏の指示があったとしてみても、
粛慎氏の指示の影響がその程度のものにとどまるのであれば、それはそこまで悔しがるほどの事件ではなかろう。
もし浜名氏がそういう印象を読者に与えてしまえば、浜名氏の主張が読者から信じられなくなってしまう危険がある。
(なお、浜名氏はそのせいか、周はむしろ劣勢だったという見解さえ説いている。[注2-2])
もしあなたが浜名氏で、なんとしてもその最後の部分の主体(朱申之宗)を「粛慎氏」としたい、それを
説得力のあるものとして人々に信じさせたい、と思えば、どうするだろうか。
そのためには、粛慎氏をもっと悪者にすればよいのである。殷の滅亡に関し何かにつけて
粛慎氏が糸をひいていたことにしてしまえば、粛慎氏のせいで殷が滅び東族が衰退したということにでき、
不自然さを緩和できるわけだ。
浜名氏は次のように述べている。
東族 尽く崩壊に及んだのであるが、この惨禍は東族の不一致が内に存した為で、・・・
・・・この東族の不一致は、当時 族中の宗家たる粛慎氏が、周の智謀に引込まれて心を賂に奪はれ、竊に
款を周に通じたに由る、易族が節を売り周に降ったのも、蓋 亦 粛慎氏の意図からであらう、
又 牧野血戦の際に、戈を倒にして周師を迎へ、共に殷を攻めたのも粛慎氏であらう。
(浜名寛祐 遡源p.491, 詳解p.205)
23章の最初の方にでてくる「易族」の裏切りまで「粛慎氏」のせいにされている。
浜名氏が、無理矢理、牧野の戦い以前の裏切り行為にまでさかのぼり、粛慎氏の陰謀のせいにするという、
契丹古伝には記載されていない物語を作出しているのがお分かりだろうか。
しかし、粛慎氏がそこまで陰謀の糸をめぐらせているなら、「易族」の裏切り行為の記述の段階で、「粛慎氏が
陰で指示をし」などの記述が契丹古伝にあってしかるべきだろう。そこまで重要な事実が記載されないのは
解せない話である。
契丹古伝の本文解説のページ(23章)で浜名氏の解釈は「あきらかにおかしい解釈である」としたのは、
このような事情からである。しかし、世の中には浜名氏の解釈を信じきっている人もまだまだ多そうだ。
もう少し説明を続けたい。
実は、なぜ浜名氏がこのような無理をするのか、思い当たる節があるのでその点を説明していくことに
しよう。
2.謎の浜名氏「本宗家断絶論」
契丹古伝の第5章には、神祖スサナミコの子孫の3大血脈が示されている。
①神祖降臨の地である「毉父」系の辰沄氏 ②降臨後の移動先である「鞅綏」系の辰沄氏、この二つが
二大宗家である。
それらとは別に③「東冥」系の阿辰沄須氏があり、③は宗家ではないのだが、浜名説では日本に該当するとさ
れるせいか格上げされ、③までが「一大宗」とされている[注2-3]。
この二大宗家をどう理解するか、細かいことをいえば説が分かれるが、今はそのことはできるだけ問題にしない
でおこう。
(以下、わかりやすくするために用語は一部筆者独自のものを使用している(<>で囲んだ部分))。
『契丹古伝』の始祖王である神祖は、最終的に今の中国の五原の地に入り、国皇となったので、少なくとも
<中国大陸系辰沄氏>が1つの宗家だ。
そして、「中国進入前の辰沄氏」がもう1つの宗家となる。後者が、浜名氏の解釈では<半島・満州系の
辰沄氏>ということになり、後に衰え半島の「辰国」(37章に登場)になったと解釈されている(37章から
すると「辰国」は③の阿辰沄須氏系なので疑問が残る)。(浜名遡源p.340, 詳解p.54参照)。
[※上で書いた「細かいこと」について。
具体的には、<中国大陸系辰沄氏>に該当するのが2大宗家(鞅綏系・毉父系)のどちらかという点である。
①自説では「『鞅綏』系辰沄氏」(但しこの鞅綏は半島内を意味しない)だが、②浜名氏の場合は「『毉父』系辰沄氏」、となり
一種の逆転的現象が生じている。
誤解を避けるためこの点については、
本文5章(及びそのリンク先ページ)の最後の方で補足説明してある(太字の「以上の自説とは・・」)の部分。(2022.12.06追記)]
(やや脱線するが、契丹の先祖はどの本宗家の系統に連なるのかという問題もある。
契丹の存在を軽く扱う浜名氏は、降臨地を毉父とする記述にまで疑いを差し挟むのであるが、
それは裏を返せば、契丹を毉父の辰沄氏の方の系統と見ていることを意味する。
自説でも、契丹を毉父の辰沄氏の方の系統と見ることになる。
ただ、浜名説だと毉父の辰沄氏は中国大陸(五原)へ入った方の辰沄氏となる。
五原侵入後契丹が分かれたというのはまず考えられない(契丹は遼寧の西北のシラムレン川発祥)
から、浜名説では契丹は五原入り前の毉父の辰沄氏の分流という位置付けになると思われる。
(2022.12.16追記))
二大宗家であれ三大宗家であれ、事実上、第一の本宗家は<中国大陸系辰沄氏>であることは契丹古伝
19・21・22章が今の中国を舞台とするとされていることからも分かる。浜名氏もそう考えていることが
随所から窺われる。例えば、「粛慎」には<中国大陸系辰沄氏>系統の粛慎と<半島満州系辰沄氏>系統の粛慎
の二種があり、前者の粛慎は古族で、後者の粛慎は別系統だが辰沄翅報ではあるところから前者の名前と同じ
粛慎をつけたものと氏は解している。(満州族は後者にあたるという。)
魏志・後漢書等に扶餘 挹婁 靺鞨等を「古 粛慎之地」と謂へるは・・・其の古伝の同音なるところより、支那本土
に於
ける辰沄氏に対した訳字の粛慎を移して、同一に称したものに過ぎぬ。
(浜名寛祐 遡源p.340, 詳解p.54)
そこまでは一応理解できるとしよう。しかし、「粛慎」は、4章・6章からすれば神祖の子孫
の国が名乗る美称の一種であるはずだが、
いつのまにか、第一の本宗家<中国大陸系辰沄氏>系統では、本宗家だけが名乗る特別な呼称という扱い
に浜名説ではなってしまうのだ。そして、驚くべきことに、なぜかその本宗家「粛慎」
が滅びたことにされてしまうのだ。
粛慎てう{(てう=という)}東族の優呼{(優呼=優等なる呼称)}は、時の宗家{粛慎氏}の主が周の賂に魅せられて節を売り、戈を倒にして東族を崩壊に陥らしめた
覿面の報で、支那本土から掃蕩され、剰さへその宗家の主は貊族に獲られて軍神の血祭に上げられ、
為めに支那本土に於ける太古よりの辰沄氏は、遂に茲に滅亡に終ったのである。・・・粛慎はこの時を以て
終焉になったのであれば(後略)
(浜名寛祐 遡源p.344, 詳解p.58. 振り仮名は引用者による、{}で囲まれた部分は引用者の補注)
周の勝利後、契丹古伝25・26章において東族側に誅される「夏莫且」を粛慎氏の当主と解釈し、当主が誅滅されて
粛慎氏国が滅んだのみならず「支那本土の太古よりの辰沄氏」つまり第一本宗家自体がなくなったという。
先ほど引用した「最大雄族」という言葉を覚えていた読者は、おかしいと思われたのではないだろうか。
少し丁寧に検討していこう。
元来 粛慎は東語 辰沄翅報の漢訳されたもので、
太古より虞夏の際まで、支那の先住民であった東族宗家の美称なれば、
東族の君主たる堯も舜も、其人自身が辰沄翅報(粛慎)であるから、・・・
(浜名寛祐 遡源p.343, 詳解p.57.「(粛慎)」という記載は浜名氏自身の付した説明。太字強調と傍点は引用者による。)
ここで浜名氏は、伝説の古帝王「堯」も「舜」も東族の第一本宗家の主であった旨を述べている。これは妥当だが、
その粛慎が「宗家の美称」であるとか、宗家の主自身が当然に粛慎であるとかいう部分は浜名氏の勝手な推定である。
そもそもこの点に関して浜名氏は契丹古伝第4章の説明では次のように正しい解釈を述べている。これを貫くべきだったのだが・・。
辰沄繾翅報は・・日孫の名であるが、 皇を尊んで亦斯く曰ふとのこと。そして神子神孫の四方に国する者、最初は
皆このとほりの美号優呼を用いたと、遠き古しへを物語って居る。
辰沄繾翅報は・・日孫の名であるが、皇を尊んでの尊称としてもまた辰沄繾翅報というとのこと。そして神子神孫で
四方に国する者は、最初は皆、このとおりの美号優号を用いたのだと、遠い古のことを物語っている。
(浜名寛祐 遡源p.311-p.312, 詳解p.25-p.26)
浜名氏の上記の指摘のように、辰沄翅報という美号は、国を持つ各地の神子神孫に多用されていた[注2-4]
ので、本宗家の独占物ではなかったのである。
浜名氏が勝手に推定したというのは、既に引用した次の部分からもわかる。
粛慎 即 朱申氏は・・・各族連合の名であるかのやうに取れる、
尤
もこの時代のことであるから、
その称号は最大雄族
の
処
へ置かれたに相違あるまいが、
如何
に雄族でも
起踣盛衰は免れぬ所なれば、
その度毎に次の
雄族に移って来たのかと思はれる、
仮へば
堯が東族の最優秀者なりし時はその号も堯の処におかれ、
舜
これに代って立つに及んでは、舜の処に置かれたといふやうな
訳ではなかったか。
(浜名寛祐 遡源p.505, 詳解p.219)
各族連合というのは、浜名氏のアイデアで、朱申=辰沄翅報連合 のように仮に理解した時に、朱申「の宗(宗家)」=
辰沄翅報連合「の宗家」=本宗家となって整合性がとれるということだろう。そこまではまだよいが、
(実際には)「その称号(粛慎すなわち朱申)は最大雄族のところにおかれたに相違あるまい」
といっているところが問題だ。何となく読み流してしまいたくなるが、堯や舜といった本宗家の権利保持者のとこ
ろに当然に粛慎という号が置かれるという話で「相違あるまい」と巧妙に誘導されてしまうのである。
こういった調子で、読者はいつのまにか「粛慎氏という名なら本宗家だ」と思わされてしまうのである。
ここで、最大雄族は殷ではないのかという疑問が当然湧くと思うのだが、浜名氏は
このことについて言及していない。殷よりは弱小な粛慎氏をなぜか本家と強弁するのだ。
(殷を西族との混血系王朝と解釈し、だから排除されるのではないかという見解もありそうだが、妥当でない。
なぜなら契丹古伝は殷の後裔をずっと追っており、40章で「嘻、辰沄氏殷」と述べ、41章以降の契丹による権利主張
につなげているからだ。排除どころか、殷朝が中心的存在として描かれている。)
そして、先も引用したように、この粛慎氏、周代に入ってから周に従順な諸侯として史書に登場する。
(『史記』によると、周の成王は来朝した粛慎氏当主に贈り物をしたという。
この時作られたのが「賄息慎之命」(息慎(=粛慎氏)に賜物を下付するにあたっての みことのり)という文書
で、『書経』の失われた篇の一つである。[注2-5])
浜名氏はこの粛慎氏当主が契丹古伝26章の夏莫且(周代に入ってから武伯・寧羲騅連合軍に殺された人物)と
同一人だと強引に主張するのだ。
そして夏莫且が殺された結果、「支那本土に於ける太古よりの辰沄氏は、遂に茲に滅亡」したという。つまり
<第一本宗家>自体がなくなったというのだが、浜名氏は「最大雄族」「最優秀者」が継承するといっていたはず
である。仮に混血の無資格者がいたとしても、他に淮族、伯族とかいくらでも継承候補がいるはずである。
なのになぜ太古よりの辰沄氏、本宗家自体が消滅したと主張するのだろうか。
おそらく浜名氏の意図は次のようなものではなかったか。浜名氏の本宗家論をまとめながら考察する
(わかりやすくするために用語は引き続き一部独自のものに置き換えた(<>で囲んだ部分))。
浜名説において、①「支那本土の太古よりの辰沄氏」(つまり<第一本宗家>)とは別の存在であるところの、
もう一つの本宗家(②)は、いわば<半島系本宗家>ともいうべきもので、かつて満州・半島の広域を支配し、
その後半島の「辰朝」となった。
③さらにもう一つの系統(浜名説ではこれも宗家)すなわち「東冥(30章では東表)」の「阿辰沄須氏」系がある
が、こちらは日本にあたる。
ここでは、②を<第2本宗家>③を<東表本家>と呼ぶことにしよう。
とすれば、浜名氏の著書の出版当時、朝鮮は日本領であったから、この<第2本宗家>や<東表本家>の領域は、
ほぼ日本が押さえていたことになる。<第2本宗家>=辰国(=阿斯牟須氏から枝分かれした末裔)という浜名氏
の解釈からは、第2本宗家も③日本の権利下にあると読むことはできそうだ。
しかし、<第一本宗家>つまり「支那本土に於ける太古よりの辰沄氏」だけは、日本の権利の下にあると
いいにくい事情がある。
もちろん、浜名氏の解釈では、すべては日本から船にのって東北アジアに降臨した皇子から始まるという
ことになるから、抽象的には日本に全ての権利があるということに一応はなる。
ただ、契丹古伝では、どうしても真の本宗家と思しき殷朝が注目を浴び、その権利の後継が取り沙汰されている。
<第一本宗家>の継承者こそ五原の回復権者だという契丹古伝の強固な示唆からすると、第一本宗家の継承者でない
限り中国を回復できないとどうしても思われてしまう。すると日本はその「埒外」ということになりかねない。
それは出版当時の日本の立場にふさわしくなく、日本の威厳が保てないと浜名氏は考えたのではないか。
そこで、<第一本宗家>は殷ではなく、より小さい「粛慎氏」とし、これを<第一本宗家>系の最後の生き残りと
捉え、その粛慎氏が滅びて<第一本宗家>が消滅したとすることで、第二本宗家と東表本家の権利者である日本が
その代替として浮かび上がってくるという寸法ではないだろうか。
それでも殷朝に注目が集まりそうで安心できないので、28章では辰沄殷
王家に日本の皇子を養子に入れる
という無理な解釈まで行ったというのが真の事情ではないだろうか[注2-6]。
辰沄氏殷の権利を継承したと主張する契丹についても浜名氏は必要以上に悪口を言っている部分が実はあって、
上記の事情に関連していると思えるという事情もある(注 今回はその説明は略す)。
浜名氏の意図としてもう一つ考えられることがある。
それは「朱申之宗」の「朱申」によく似た「珠申」という語についての一般的な学者的捉え方と関係する。
その捉え方とは、「珠申」=「女真」=「満州族」というものだ。
浜名氏も、この点について、清国が編纂させた『三朝実録』の引用として次のように言及している。
三朝実録に曰く。(※引用者注・『欽定満洲源流考』参照)
我朝清朝の肇めて興る時、旧 満珠と称せり、所属を珠申と曰ひしを後に改めて満珠と称せるな
り、而かも漢字相沿りて満州と為せども、其の実は即ち古の粛慎にして、珠申の転音たるなり。
わが清朝が初めて興った時、もと満珠と称した。珠申に所属するとかつて言っていたのを後に改めて満珠と称したので
ある。しかもその呼称を受け継ぐ間に漢字が変化して満州となったのであるが、その実はすなわち古の粛慎
であって、珠申の音が転じたものである。(浜名寛祐 遡源p.339, 詳解p.53)
このように満州族(もと女真)である清の皇帝が「満州=粛慎=珠申」と主張しているのである。
ただ、前述のように「粛慎=珠申」といっても、<第一本宗家「中国大陸系辰沄氏」>の「粛慎=珠申」が本来
の珠申で、別系統<満州・半島系辰沄氏>の「粛慎=珠申(満州族はこちら)」は<第一本宗家>の方にあやかった
だけの名称ということに、浜名説ではなるので、問題はさほどないはずなのだ。(なお、挹婁との関係
は[注2-7]参照)
それでも、契丹古伝の「朱申之宗」の部分を見た多くの人が、もし「殷朝=本宗家=朱申之宗=満州族」
と読み、「満州族こそ本宗家で、東族全体に権利を有する」と思ってしまったらどうだろうか。
やはり日本の立場がなくなってしまうのである。
「朱申之宗」は裏切り者の粛慎氏で、もはや存在しないという解釈にもっていくことで、その懸念も払拭でき
るのである。
こういう背景事情があり、浜名氏は本当の解釈を知りつつ、わざと捻じ曲げた解釈をしたのだと思うのである。
これは当時の日本の特殊状況を忖度したもので、浜名氏にだけ必要なものだったと考えられる。
当時はこのような「解釈」が日本の国益に資すると考えられただろう。しかし、現代では、むしろ逆の結果を
招くことになると私は考えている[注2-8]。
3.殷周の決戦「牧野の戦い」における浜名氏『史記』無視の不審
以上でこの論点の説明はだいたい終えたことになるが、「兵を倒にして」の意味についての検討が残っていたので、
最後にこの点を論じておこう。
③兵を倒にしての意味。自説では、紂王の兵が戦意無く武器を下にむけて道を開いたこと。
浜名説では、「粛慎氏」が殷の部隊の一部に命じ武器の方向を殷を攻撃する向きに変えて攻撃し、
同士討ちをさせたこと。
繰り返しになるが、「兵を倒にして」(原文:「倒兵」) は史記の「周本紀」に登場する語句である。
帝紂聞武王来、亦発兵七十萬人距武王。
帝
紂
、武王の来れるを聞き、亦
兵七十萬人を発して武王を距ぐ。
殷の帝王である紂も、周の武王が攻めてきたと聞いて、兵七十万人を発してこれをふせいだ。
武王使師尚父与百夫致師、以大卒馳帝紂師。
武王
師尚父
をして
百夫
とともに、師を致さしめ、大卒をもって帝紂の師に
馳
す。
武王は師尚父
(つまり太公望
呂尚
)に命じて百人の兵とともに、敵に挑戦させて必戦の意気を示させ、
みずからは主力軍をもって紂王の軍に突入した。
紂師雖衆、皆無戦之心、心欲武王亟入。
紂の
師
多しと
雖
も、皆
戦
ふの
心
無く、心に武王のすみやかに入らんことを欲す。
紂の軍は人数は多かったが、みな戦う意志がなく、心中ひそかに、武王がすみやかに入ってくるのを
望んでいたので、
紂師皆倒兵以戦、以開武王。
紂の師、皆
兵を倒
にして もって戦い、もって武王に開く。
紂の兵はみな武器をさかさにして戦い、武王のために道を開いた。
武王馳之、紂兵皆崩畔紂。
武王之に馳す。紂の兵 皆崩れて紂に畔く。
武王の軍が馳せ入ると、紂の兵は総崩れになって紂王にそむいた。
紂走、反入登于鹿台之上、蒙衣其珠玉、自燔于火而死。
紂 走りて都へ反
り入り、鹿台の上に登り、其の珠玉を蒙り衣て、自ら火に燔けて死す。
紂は敗走して城中に帰り、鹿台の上に登り、そこにあった珠玉を身にまといつけて、
みずからを火中に投じて焼死した。
(『史記』周本紀 )
(注 兵を倒にして、の「兵」は武器の意味。倒は、さかしま または さかさまと読み下すが意味は同じである。
ここでは、吉田賢抗『史記 一(本紀)』新釈漢文大系第38巻 明治書院 1973に従い、さかさま と読む。)
一方、浜名氏の引用しているのは『書経(尚書ともいう)』の「武成」篇である。
武成篇には次のような記載がある。
受率其旅若林、会于牧野。
受 其の旅を率いること林の若く、牧野に会す。
受(紂王の実名と思われる)はその兵を率いること林のごとく大勢であったが、牧野に会戦した。
罔有敵于我師、前徒倒戈、攻于後以北。
我が師に敵する有る罔く、前徒 戈 を倒にし、後を攻め以て北ぐ。
わが(周の)軍に敵する者なく、前列の徒兵が戈を反対方向に向けて、後列の味方の兵を攻めて逃げるという有様であった。
血流漂杵。
血 流れて杵を漂はす。
杵(棍棒)を浮かべるほど多量の血が流された。
(『書経』武成篇)
「兵を倒にして」 ではなく 「戈を倒にして」となっている。その部分単独で見れば、大して違わないようにも
思えるが、浜名氏は契丹古伝の文により近い『史記』の引用をせず、『書経(尚書ともいう)』からの引用のみ
を次のように載せる。なぜだろう。
牧野血戦の際に、戈を倒にして周師を迎へ、共に殷を攻めたのも粛慎氏であらう。
尚書等によってみると、流血杵を漂はす激しき戦の最中に、殷の後陣に裏切の者が起って、全軍を崩潰せしめた
とあれど、其の裏切った者の何者なるかを語ってゐない。
(浜名 遡源p.491, 詳解p.205)
武成の篇に見れば、紂 その軍旅を率ゐ 林の如く牧野に会したとあり、血流れて杵を漂はすともあれば、
(浜名 遡源p.498, 詳解p.212)
『史記』と『書経』の各記載をよく読み比べると、
『史記』の「兵を倒にして」は、戦意無き兵が兵器を下に向けて無気力戦闘をしたという解釈になっているが、
『書経(尚書ともいう)』の「武成」篇の「戈を倒にして」の方は、前列の徒兵が武器の向きを反転させ後列の兵を
攻める同士討ち=裏切り行為をしたという解釈になっている。浜名氏がこの「裏切」を上記のように強調している点に注目されたい。
金文研究の大家として著名な歴史家貝塚茂樹氏(湯川秀樹氏の兄でもある)は次のように述べる。
周武王と殷紂王との牧野における決戦について、『尚書』には、武王が戦争当日未明、
周とその連合軍に対して行った布告である牧誓篇が残っているが、戦闘の実況については、
『尚書』の武成という篇に詳しく記述されていたらしいけれども、後漢王朝の初期までに
亡びてしまった。
(貝塚茂樹 『貝塚茂樹著作集 第一巻』 中央公論社 1976年 p.204)
この亡びてしまった武成篇を含む数十篇を、後に東晋時代に梅賾(または梅頤)という者が
偽造した(偽造者については争いがある)。
これを『偽古文尚書』という。浜名氏の引用しているのは、この偽造版の武成篇なのである。
貝塚氏の引用を続ける。
戦国時代にまだ残っていた武成篇を読んだ
孟子は、「
尽く書を信ずれば書無きに如かず。
吾 武成において二三策{(つまり二、三行)}を取るのみなり。仁人は天下に敵無し。至仁をもって
至不仁を伐つなり。しかるに何をもって血の杵を流さんや」(『孟子』尽心下篇)といっている。
武成篇には牧野の戦は激烈を極め、血が流れて杵を浮かべるほどになったと書かれていた。
徳の高い武王が暴虐で民心を失って孤立していた紂王を攻めるのに、こんな激戦になるはずが
ないではないかといっている。
(貝塚茂樹 『貝塚茂樹著作集 第一巻』 中央公論社 1976年 p.204)
ちなみに、『孟子』の朱子注で朱熹は、上記の孟子の考えに反論して、あくまで殷は同士討ちで滅びたのだから、
武王は手を下しておらず問題ない旨を述べている。しかし、朱熹が前提としているのは偽造版の武成篇
なので、話にならないのである。偽造者は『孟子』も参照しているだろうからそれなりにもっともらしくはできているが、
孟子の見た真の武成篇にはもっと残酷な場面が記載されていたと推定されて
いる。それこそ、無抵抗の兵士を虐殺する場面さえ描かれていたかもしれない。
さらに 貝塚氏の引用を続ける。{}で囲まれた部分は引用者の補注である。・・・は中略を示す。
この亡
びた武成篇と密接な関係があるとされているのが前漢以来現在まで保存されてきた『逸周書』世俘解で
ある。・・・
この篇は武王が殷国を敗って周の都に帰ってきて、宗廟で凱旋式を行った次第を書いたものである。
戦争で打ち落した敵軍の首級と、捕虜とした殷の兵士を周の宗廟の前にすえて、祖神に戦勝の報告を申し上げる
のであるが、この捕虜の人数の厖大に上ることがこの篇の読者たちを驚かせ、その信憑性に対して疑いを
抱かせずにおかなかった。
・・・・
原文を引用すると、まず、
・・・{(武王が牧野近辺で行った狩猟の獲物のリスト(禽虎・貓・麇・熊・羆その他)を載せた後に)}・・
武王遂征四方、
凡
憝国
九十有九国、馘磿{※馘磿=斬首されたもの、又は敵を殺した証拠として耳を切り取られたもの}
億有七万七千七百七十有九{(177,779人)}、俘人{※俘虜となったもの}
三億万有二百三十{(300,230人)}、
凡
服国
六百五十有二
(このころの中国の一億は十万)
と述べている。
狩猟の獲物である獣と、征服した国家捕虜を同一列とみなしたことは、まだ狩猟を重視し、遊牧性を残していた
周民族の意識をよく表している。その意味からいうと、この一段は周初の周民族の生活をよく反映している
極めて生々しい記録ということができる。
西周中期以降に追述された周の詩篇などに比べて、初期の同時代の記録として、史料的に高く評価されるべき
作品である。
・・・ここに挙げられた数字は、現代の古代史家にとっても過大にすぎ、誇張があるのではないかという
疑念を抱かせずにはおかない。おそらく『逸周書
』世俘解に相当すると思われる武成篇を初めて読んだ孟子も、
大変な衝撃を受けたにちがいない。死傷者の激戦が杵さえ浮かべるほどだったという牧野の激戦について
の記述は、孟子の聖人と考える武王が悪徳の紂王を伐った正義の戦争には起りえない出来事を描いている
から、この全篇は二、三行を除いては全然信用できないと断じたのであるが、
これこそ全く武王を善玉、紂王を悪玉とする孟子の偏見から生れた独断論であった。
孟子の独断論を廃して『逸周書
』世俘解の信憑性を評価し、この斬首、俘虜のおびただしい数字を、そのまま
受け容れる私は、これをもととして、牧野の凄絶な戦闘の場面を思い浮かべるものである。
(貝塚茂樹 『貝塚茂樹著作集 第一巻』 中央公論社 p204-p206)
貝塚氏の指摘されるように、牧野の戦いは凄絶なものであった。このことから眼を背け、周の武王を聖人化したい
後世の周人が、流血を殷の同士討ちによるものとして誤魔かそうとし始めたのだと考えられる。そのような流れ
の中で『偽古文尚書』の偽武成篇も製作されたのだろう
(そのような流れ自体は、部分的には偽古文尚書のもっとずっと前から
開始していたと思料される)。
しかし、その同士討ちを現実の出来事とし、
しかもそれを粛慎氏の指示によるものと強引に解釈するのが浜名説なのである。
(もちろん、貝塚説に対しても、細かい部分では異論がありうる。犠牲者の数に誇張があるのではないか等々
。しかし、偽武成篇の記述より『逸周書』世俘解の方がはるかに事実に近いことはまず争いのないところである。
儒教的聖人である武王の兵=仁義の兵であるはずというドグマから「殷内部の同士討ちに過ぎない」という捉え方
が生まれたことは定説といってよい。)
浜名氏の漢籍の教養は相当広汎にわたるもので、氏は契丹古伝の説明でも過剰とも思えるほどに漢籍の引用を
しているのが普通である。(例えば、34章の「はじめて周武の志を達せるなり」のあたりもそうである。)
ところが、契丹古伝23章の「兵を倒にして」と一字一句一致する『史記』の記載を無視し、
偽造の書である偽古文尚書の武成篇の「戈を倒にして~」しか引用しない氏の態度は明らかに不審というしかない。
粛慎氏の指示で行われた裏切り行為とするためには、確かに偽武成篇の「戈を倒にして、後を攻め」のほうが
便利であろう。
もし『史記』の文を載せれば、殷の軍が戦意をなくして無抵抗状態になったという印象を読者に与えてしまい、
殷の軍の一部が何者かの指示により同士討ちをしたという浜名氏の解釈に無理があることが露見してしまう。
このことを浜名氏は恐れたのだろう。
また、「兵を倒にし」た主体が殷そのもの(あるいは殷の紂王)であるという点も、史記の方により明確に
表れている。浜名氏にとっては、なんとしても主語を粛慎氏にしたいのだから、この点でも史記の記載を
読者に見せたくない理由があるわけである。
実際のところ、戦場では混乱のために一部同士討ちが起こることもあるのであり、自説の立場からは
仮に万一当時同士討ちが発生していたとしても特に自説への影響はない。仮に『史記』でなく『偽古文尚書』
を用いて説明しても自説からは大きな問題にはならないのである。敗戦の一シーンであることに変わりはないの
だから。
(自説では殷が賄賂と戦で滅びた経緯を振り返るため、「兵を倒にして」を敗戦の象徴シーンとして引用し
ただけということになる。さらに踏み込んで言えば、敗戦という表現を避けた一種の婉曲表現のようなもので、
本宗家殷朝に対して気を遣った味のある表現といえる。[注2-9])
しかし、浜名氏の場合はそうはいかない。『偽古文尚書』武成篇で説明するという方法しかなかったのだ。
というのも、浜名氏の場合、あくまでも主体は粛慎氏でなければ困る。しかも粛慎氏が相当な悪者でなくては
ならない。なぜなら、"粛慎氏が賄賂を収受しそこで同士討ちという具体的行為を指示したという事実"が(なぜか
そのような箇所で)初めて判明した!!ということにしなければならないからだ。
(しかも、そこまでしたにもかかわらず、
「それにしても、最後で同士討ちのせいで落城して、東夷が皆衰退するなんてね」という、締りのない文章
にしかならない。)
こういった苦しい手段に頼るということは、明らかに、浜名氏が自説の誤りを百も承知の上であえて
主張を行ったことを示すものといえる。
これは極めて不誠実な態度で、あってはならないことと考えられるが、浜名氏の場合は当時の特殊な状況下、
例外的にやむを得なかったというべきかもしれない。
自説では、
「ああ、東族の宗家 殷朝が、周の賄賂工作で弱体化し、しまいには戦意喪失し兵器を下に向け敗北するありさ
まで滅び、東夷がことごとく衰退するとは。」
と読むところを、
浜名説では、
「ああ、[殷よりは弱小であるが家の格式が]東族の本宗家である粛慎氏が、周から賄賂をもらって兵器の向きを
変えさせ同士討ちをさせて、[そもそもそれ以前から周から賄賂をもらっていた粛慎氏が種々の工作を行い
東族の不一致を生じさせていたため][東族の本宗家"粛慎氏"は安泰ではあるものの]東夷がことごとく
衰退するとは。」
と読むことになる。
これは、契丹古伝の解釈というより、浜名氏の創作というべきと考えるが
いかがであろうか。
前にも引用した浜名氏の文章を再度引用するので改めてお読み頂き、確認していただければと思う。
東族 尽く崩壊に及んだのであるが、この惨禍は東族の不一致が内に存した為で、・・・
・・・この東族の不一致は、当時 族中の宗家たる粛慎氏が、周の智謀に引込まれて心を賂に奪はれ、竊に
款を周に通じたに由る、易族が節を売り周に降ったのも、蓋 亦 粛慎氏の意図からであらう、
又 牧野血戦の際に、戈を倒にして周師を迎へ、共に殷を攻めたのも粛慎氏であらう。
尚書等によってみると、流血杵を漂はす激しき戦の最中に、殷の後陣に裏切の者が起って、全軍を崩潰せしめた
とあれど、其の裏切った者の何者なるかを語ってゐない。
(浜名寛祐 遡源p.491, 詳解p.205)
上の文章に潜むトリックがお分かり頂けたのではないかと思う。『偽古文尚書』に載る裏切的行為にしても、
誰かの陰謀によるなどという記載はもともとないのである。
本宗家の興亡は契丹古伝全体を通じて重要問題なのであり、本宗家が陰謀し殷朝打倒に
協力し、その後消滅したとかいう異常事態がもし存したのなら、もう少し書きようがあるはずだと考える。
4.このページの結論
以上のように、粛慎氏は、東族の本家ではないし、粛慎氏の長は、殷の敗北の責任者ではない。
浜名氏は、殷の敗北の責任を粛慎氏の長に負わせ、その後で登場する26章の「夏莫且」という名の人物こそ
粛慎氏の長と同一人物で、武伯・寧羲騅らに滅ぼされたとするが、誤りである。
「夏莫且」の正体はそのような人物ではなかろう。
浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック ──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった の本文はここまで。補注はこの下に記載した。
太公望の意外な最期(夏莫且の正体)
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補注
注2-1 新たに判明したことに・・・
尚書等によってみると、(中略)其の裏切った者の何者なるかを語ってゐない。今それが粛慎氏と分って見れば、
(中略)史学への貢献 鮮少ならざる可しと思ふ。
(浜名遡源p.339, 詳解p.53)※『尚書
』については本文の中で触れてあるので、その部分もご参照いただきたい。
注2-2 周はむしろ劣勢・・・
浜名遡源p.496-p.498, 詳解p.210-p.212参照。「白魚」は殷兵を指すなどの異説を重ねて、殷はむしろ優勢だったにもかかわらず、
易族の裏切り行為によって劣勢になったとする強引な論調で、やはり不自然さが目につく。
注2-3 ③までが「一大宗」と・・・
右二大宗の外に、別に一大宗を東冥の表に認め居るは大なる奇異である。
(浜名遡源p.324, 詳解p.38)
注2-4 神子神孫に多用されて・・・
これに関して詳しくは、4章の解釈問題もあるが、長くなるので4章の注という形で別途
掲載を検討したい。[2021年3月28日掲載済み]契丹古伝上は、本宗家だけが粛慎と名乗れるという記載は素直に読んでどこにも存在しない。)
注2-5 賄息慎之命
注2-10参照。
注2-6 それでも殷朝に注目が集まりそうで安心できないので・・・
浜名説では、<第一本宗家>が消滅した以上、五原の支配権は第二本宗家と東表本家に属する誰かが事実上代行するという
ことになると思われるが、周の時代におけるそれが誰であったかについて浜名氏は明記を避けている。
しかし恐らく、辰沄殷に日本の皇子が養子に入ったという物語を付加した上で、その辰沄殷を事実上の代行者として
つじつまを合わせているようだ(ちなみにそもそも<第一本宗家>が消滅していないと、他の宗家・本家から養子に入ることも
困難ということになろう)。
というのも、 契丹古伝第40章の中には「ああ、 辰沄氏殷。」という無視し難い記載が存在しているからだ。
40章の少なくとも後半部が辰沄殷に関するものであることは浜名氏でさえ認めている通り(遡源p.649, (詳解p.363)の末尾4行参照)で、
このことは[よほど変な読み方をしない限り]まず揺るぎないところである。
この部分が契丹の権利主張にもつながっていくポイントである以上浜名氏としてもつじつまを合わせた説明をせざるをえないのである。
浜名氏が 「辰沄殷を弔せるは、古を懐(おも)ふ者 誰も皆しかあるべきであるが」(遡源p.682, 詳解p.396)
({辰墟を訪れた者が}辰沄殷を弔ったというのは、昔のことを偲ぶ者誰もみなそうすべきではあるが)
と述べているのはそのような文脈で理解できよう。
(自説では、そもそも一貫して殷は本宗家であるのでそのような複雑な処理をする必要がない。)
注2-7 挹婁
との関係
粛慎というのは、中国の史書にさまざまな形で登場し、東北アジアのツングース系部族を指すというイメージが
一般だが、特に穴居民族「挹婁
」をさすと理解されるのが普通だろう。
ところが、契丹古伝第9章では挹婁(浥婁)
は神祖(すさだみこ)が特別に教化して仲間に加えた異族として登場し、
粛慎とは呼ばれていない。
契丹古伝の「珠申・粛慎・朱真はともに同音を伝えている」
という記載は、東大古族としての伝統を有する種族についていうものと読めるし、浜名氏もこれらの族名は
「辰沄繾翅報」を縮約したものと推定しているのだ。
実際、古い時代の記録に見える粛慎には、穴居民族「挹婁」ではないと思われるものがある。
その粛慎と、後世の記録に見える穴居民族「粛慎」とは、名前は同じでも別の民族で、後者が前者の名前にあや
かったということであろう。浜名氏も同旨のことを述べており、それ自体は妥当である。
ただ、なぜかその(ゆうろうでない)粛慎氏がなぜか「本宗家」に化けているのが浜名説なのである。
注2-8 国益に資する・・
なにが国益かということ自体、もちろん議論はあるだろうが、自説の全体像をもし把握できた方がいらしたとすれば、
それなりのものという評価をおそらく頂戴できるだろうと一応自負はしている。
ただ、著述の余裕がないなどの事情から断片的な示唆にとどめた部分が多くあるため、曲解して誤解に基づく行動を
とる方が出現するのではないかというのが正直気がかりな点である。
(ここで念頭に置いているのは、契丹古伝関係の著述をしている人以外の方である)。
しかし、それなりの段取りを踏まないと書きにくい物事というものが、存在することも事実であり(本稿もその一
つで、やむなく長文となってしまった)、全体像の提示にはなかなか至らないことについては申し訳ないと思っている。
注2-9
なお、自説に対しては、次のような批判も考えられる。『史記』の(無気力な兵が)「兵器を倒にし」たというのも、
結局、武王の手を血まみれにしたくないというドグマから来た表現ではないのかと。
もちろんその可能性もあるとは思うが、仮にそのように解してみたとしても、自説からは『契丹古伝』が「兵を倒
にして」を敗戦の象徴的・婉曲的表現として使用しているに過ぎないからやはり影響はないといえる。殺された兵は
もはや武器を構えていることができないことからしても、「兵器を倒にし」という言葉で殷兵の在り様や敗戦を示そ
うとしたということは十分ありそうなことである。
注2-10 賄息慎之命
周の武王の次の成王が東夷を伐ったあと、周に来朝した「息慎(=粛慎)」に対し周は贈り物を与えた[注2-11]。
『賄息慎之命』はこの時出された命令を記した文書だが、原文は伝わらない。『書経』の序である『書序』
[注2-12]には『賄粛慎之命』として似たような文書製作経緯のみ掲載されている。『書経』の失われた篇の一つ
である。
「賄息慎之命」とは「息慎氏へ賜物を下付するについてのみことのり」という意味。
(尾崎雄二郎他訳『詩経国風 書経』 世界古典文学全集2 筑摩書房 p.430参照)
この「賄」の字は、
とりこんで私有する財貨のこと。あいてに金品をとりこませる、物を贈ることを贈賄といったことから、
悪い意味に用いられるようになった。(藤堂明保 編 『学研漢和大字典』 学習研究社 1978年 p.1260)
賄は人に贈ることを本義とし、[左伝、文十二年]「厚く
之に
賄る」のように用いる。
(白川静『字統』普及版 平凡社 2007年 p.960)
とあるように、当初は必ずしも悪い意味ではなかった。この命令の出された時代の古さを反映して、ここ
での「賄」は「贈る」という古い意味で用いられている。
もっとも、浜名氏は「贈賄」と説明している。
成王が栄伯に命じて粛慎氏へ贈賄する為の詔書を作らしめたことなど、皆ともに其の意義が挙ったわけで、・・
(浜名寛祐 遡源p.491, 詳解p.205)
浜名氏のいう「粛慎氏へ贈賄する為の詔書」は明らかに『賄息慎之命』のことを指している。
この粛慎氏は周に従順な諸侯であるから、もちろん東族から見れば寝返った者ではあるが、この当時そのような者は
特に珍しくはない(谷秀樹氏の用語でいう陝東系外諸侯のほとんどが該当するだろう)。
周の立場からすれば、、東族の反乱を鎮めた直後、さっそくお祝いを述べに来て忠節を示した粛慎氏に対し
褒美を弾むのは当然のことだろう。
ただ、浜名氏としては周と陰謀を巡らせた悪の張本人に仕立てあげたいので、「贈賄」と表現したのだと思われる。
この「賄息慎之命」の「(息慎=)粛慎」氏を最大限に拡大利用して読者を錯誤に陥らせたのが浜名氏なのである。
注2-11
なお、『史記』の原文は次のようになっている。
成王既伐東夷、息慎来賀、王賜栄伯作賄息慎之命。
(周の成王が既に東夷を伐った後、息慎が来賀し、王は(中略)・・[この部分解釈に争いあり、
後漢の学者・馬融の解釈によると周と同姓の諸侯である栄伯が[注2-13] ] 『賄息慎之命
』を作った。)
注2-12 『書序』とは、『書経』各篇の作られた理由を解説し、その順序を明らかにしているものである。
『書序』はもと単独で一篇となっていたが、偽古文尚書は分割して、各篇の始めに置いた。(『中国古典文学大系』書経・易経(抄)赤塚忠訳 平凡社 1972年 p359参照)
『賄粛慎之命』篇の本文は失われているため、序の部分のみが収録されている
(現行版:「成王既伐東夷、粛慎来賀、王俾栄伯作賄粛慎之命」)。
後漢の学者・馬融が使用した古い版の『書経』の『書序』にも賄息慎之命は存在していたと伝わっている。
(なお、古い版の『書序』を司馬遷が参考にして『史記』を著述した点について、陳夢家氏の指摘がある。[注2-15])
いずれにしても、「賄息慎之命」の息慎(粛慎)氏は、古典に登場するため教養的には多少知られた名前ではある
ものの、決して東族の本宗家ではない。(周の側がどう捉え、どう利用したかは別として。)
しかし浜名氏は、息慎(粛慎)氏は本宗家(朱申の宗)であると断定した上で、さらにその族長が第26章で誅滅
される裏切り者「夏莫且」と勝手に同一視するわけである。氏によれば「夏莫且」の正体は、
諸族から
悪まれ
怨
まれたる朱申
宗家の
主
であらうと思ふ、彼は常に周室に出入りしていたことも見えて居り、
淮夷の
伐
たれるのを
余所
に見た
計
りでなく、周の
克
ったのを祝賀した程であれば、
萊夷の
攻伐
にも周に
与
しゐたであらう、かういふ風であったから、
彼は東族でありながら東族の
寇讐であると
目
されたに相違ない。
(浜名遡源p.543-p.544, 詳解p.257-p.258)
「祝賀」という語から、この「出入り」が『賄息慎之命』の話を指すことが読み取れるだろう。
そして粛慎氏の来賀が東夷の乱終結後であることから、それにまつわる淮夷とか萊夷を持ち出して
それらが周の攻撃を受けたのもあたかも粛慎氏に責任があるように巧妙に誘導しているのであるが、
そう解釈する必然性は全くない。
浜名氏は辰沄殷が韓・燕に攻められたのにも粛慎氏の影が見えるという。
周のこの策動の際には、粛慎氏
猶
存在し、周の賄命に
曳
かれていた、恐らく周のために
謀り同族の
頽廃を
余所
に見てゐたのであらう。
(浜名 遡源p.514, 詳解p.228)
ここでも「粛慎氏陰謀論」が語られているが、「周の賄命」とは実は「
賄粛慎之命
」のことで、粛慎氏に褒美を与えよ
という命令に過ぎない。ここでも巧妙な印象操作がなされていることがわかる。
注2-13 周と同姓の諸侯である栄伯が・・・
「賄息慎之命」の作者(起草者)が栄伯なのかというのは一つの論点だが、本稿との関係ではあまり意味がないので詳細には
触れない。ただ、検討するなら『書序』成立時期についての池田末利氏の指摘[注2-14]や、書経の他の「命」
形式の篇の書序(例えば、旅巣命篇の序:「巣伯が来朝した。芮伯が『旅巣命』を作った。」[及びその馬融注])等を総合考慮した上で
決するべきではないかと思われる。
注2-14
池田末利『尚書』(全釈漢文大系 第十一巻)集英社 1976年 p.28,p.29,p.37参照。
注2-15
陳夢家『尚書通論』陳夢家著作集 中華書局 2005年 p277-p278.
浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック ──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった のページはここまで。
太公望の意外な最期(夏莫且の正体)
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2020.12.15初稿
2022.12.06本文内注釈を一箇所付加
2022.12.16本文内注釈を一箇所付加