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太公望の意外な最期(夏莫且の正体)──太公望は「克殷」後に誅滅されていた
という論考の一部分である。
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夏莫且誅滅の時期について
──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか
夏莫且 誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか
契丹古伝26章で武伯や寧羲騅によって誅滅された謎の人物「夏莫且」。その人物が誅滅された時期について
契丹古伝はどのような手がかりを残しているだろうか。
もし殷朝が倒れてから何十年もしてからということだと、夏莫且イコール太公望と考えることは(不可能ではないにしても)
やや難しくなってくるため、検討の必要がある(本稿の自説は、斉国への就任途中で誅滅されたというものであるため)。
後述のように、浜名寛祐氏は殷朝が倒れてから三十数年後のこととしている。果たしてその解釈は正しいのだろう
か。
契丹古伝24章では、殷朝が倒れた直後の辰沄殷建国の様子が描かれている。
武伯が、いわゆる箕子として知られる殷の王族を救出し、葛零基という場所にお連れした。ここで、
この箕子、すなわち契丹古伝でいう殷叔を主とする国「辰沄殷」がスタートした。
ところがこの国に攻めてきた勢力がある。
韓燕来り攻む。乃ち翳父婁に徙って都す。
韓と燕の2国が攻めてきた。そこで翳父婁に移動してそこを都とした。
この直後の25章で、武伯山軍が冀の地に集結し云々と、先ほど述べた武伯山軍・寧羲騅軍の進軍が、
またその次の26章で夏莫且捕獲・誅滅が語られる。
この24章で、翳父婁(日孫スサナミコ降臨の地でもある)への遷都が語られているが、その前提として
韓と燕の2国が成立していることが前提になるわけである。
26章の夏莫且誅滅の直後、27章は次のようになっている。
是に於いて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破る。
ここでも、燕という国と韓という国が出てくるが、韓という国についてはここで滅亡している。
夏莫且誅滅は、韓の滅亡よりは前ということになる。
次の28章は次のようになっている。
辰殷大記に曰く。
殷叔老いて子無し。
尉越の将に東に旋らんとするに当り、密矩を養ひて嗣と
為す。尋いで殂す。寿八十九。
督坑賁國密矩立つ。時に尹兮歩 乙酉秋七月也。
「辰殷大記」は以下のように述べている。殷叔は老いており子が無かった。「尉越(王の居所)」のちょうど東に移転する(直前の)タイミングで、密矩を養ってあとつぎとした。
その後間もなくして亡くなられた。年齢は数え八十九歳であった。督坑賁國密矩が即位した。時に尹兮歩 乙酉秋七月であった。
この28章だけは、「辰殷大記」という書物からの引用になっている。
辰沄殷の主である殷叔いわゆる箕子が密矩という人物を養子にして間もなく八十九歳で没したこと、
その年の干支が乙酉であることが読み取れる。
この24章から28章の時系列関係や、燕や韓といった国の興亡などが、夏莫且誅滅の時期判定に影響
することがわかるだろう。
浜名氏は古典等を引用しつつ、もっともらしく時期を推定しているが、その浜名氏の論理にも、どこかに落とし穴が
ないか、これを見ていくことになる。そのため若干細かい作業になるが、ご容赦願いたい。
【1】燕国との関係で夏莫且誅滅時期を検討する
まず、燕国という存在に着目しよう。
燕は春秋戦国の時代まで生き残った国であり、今の北京あたりに都しその北方・東北方を支配した国である。
周の初め、周の重臣である召公奭
という人物が燕に封じられたのが燕の建国とされる。(当時燕は匽と書かれた
が、ここでは燕で統一する。)
ただ、召公奭
は重要人物で周王を補佐しており、実際に赴任することはなかった。
最近の研究により、その子とされる克が最初に赴任し、次に旨が赴任したのではないかといわれている。
ここで、燕国の建国時期を検討する必要が出てくる。
伝統的には、周の武王が殷の都を陥落させた直後に建国されたとされている。
その一方、武王がほどなくして没し次の成王が即位した直後に、東夷の大きな「反乱」がおき、それが
鎮圧されたあとに、克が赴任したという考えも有力だ。(この反乱をこの論考では「周初の反乱」と呼ぶことに
するが、他の表現で呼ぶこともある。)
ただ、このあたりの事が確定的に分かっているわけではない。東方経営の進展具合に応じて、徐々に
封地が移転するという説もある。殷が倒れたあと、「周初の反乱」の鎮圧の過程でまず召公奭の一族が
今の山東省西部の奄の地に封じられたのが燕の起源で、後に現在の北京あたりに移転したという説もある。
貝塚茂樹氏は次のように述べる。
匽侯旨は・・東土開拓の事業に努力した。彼は自国の都を匽即ち燕と名づけ、地名によって燕と号した・・
・この匽即ち燕は恐らく奄国すなわち魯の首都曲阜であろう。
中略
匽侯旨は・・間もなく易州の地に移封せられた。(引用者注。易州は今の北京市の西南の保定市)
中略
易州に移封せられた理由は明確ではないが、周公の長子伯禽が曲阜に封ぜられる際に移封が起こったのでないか
と想像される。
(貝塚茂樹「殷末周初の東方経略について」『貝塚茂樹著作集』第三巻 中央公論社 1977年 p.158-p.160)
この燕による東方・北方経営についても、召公の出自やその傘下の勢力との関係など、現在でも学説に流動的な面
があるのであり、場合によっては意外に早い時期から「進駐」が部分的に始まった可能性もあろう。
そうでなくても「周初の反乱」の際には燕軍が東部・その北方へと展開してくることになる。
以上に鑑み、自分は契丹古伝24章から28章で起きた事件のありうる流れとして次の2種類の構成を想定する。
構成その1
殷の都が陥落した直後は、東族は茫然としてすぐに反撃をするところまでいかず、様子見をした場合もあろう。
そこで、その時点で、燕の先遣隊が奄の地のあたりから出発して殷叔の「辰沄殷」を窺うという事態も考えられる。
そこで辰沄殷が安全を確保するために翳父婁に移転する。これを24章の遷都とする。
次に夏莫且を誅し(25・26章)、勢いづいた諸族の「反乱」が勃発(「周初の反乱」)(27章)すると、
燕の勢力もさすがに今の北京より北にへ侵入し難くなり、南に退く。
そのため辰沄殷もそれに応じてもとの都へ(あるいはその途中の地に)戻ってくる。
だが、周初の反乱も数年後には周のまきかえしにあい鎮圧されていく。燕の勢力も今回本格的に現在の北京周辺を
支配するために北上するので、殷叔の「辰沄殷」も
再び翳父婁への動座を余儀なくされるが、動座直前に督坑賁國密矩を養子にとる。(28章)
[以前から本文の説明に採用していたのはこの構成である。]
構成その2
(構成を述べる前に、一旦説明を加える。)
殷の都の陥落後、24章で殷叔
の「辰沄殷」が葛零基という場所に創立されるのだが、
そもそも、この章で、引用されているのは『費彌國氏洲鑑の賛
』という文章だ。その文章は
本来、『費彌國氏洲鑑』という書の本文を下敷きにしているはずだ。その書の内容は想像するしかないが、
上記下敷き部分においては辰沄殷の建国・移転関係がまとまって叙述されている
可能性があると考える。そこで、この24章の「遷都」は実は28章に単独で挿入された「辰殷大記」
の(殷叔の養子縁組後の)「遷都」と同一事件であると考え、その28章の遷都「以前に」夏莫且誅滅
(25・26章)・東族の「反乱」(27章)が起きると考える。(遷都の回数は1回となる。)
すると構成その2は次のような流れになる。
(構成)
辰沄殷が創立される。(24章)→武伯・寧羲騅らが夏莫且を誅滅する(25・26章)
→「周初の反乱」(成王代初期)が起きる(27章)。
この数年にわたる反乱の中で、燕軍も反乱鎮圧のため数次にわたり東族軍を攻撃してくる。東族が勝つ場合もある。
(27章)。→燕の攻撃を避けるため、辰沄殷が翳父婁へ遷都。それに先立ち養子縁組をおこな
う。(「辰殷大記」挿入部分。28章)
費彌國氏洲鑑のレベルでは、最後の遷都の部分のみ、誅滅の章の直前の24章に繰り上げて(都の動静としてまとめて
記載された)と考えるわけである。記載が若干前後するわけだが、数年の誤差にすぎないので充分許容範囲内で
あるといえる。
(※なお、記述が前後しないような構成も考えられる。
費彌國氏洲鑑
と辰殷大記
とは別の書物だから、同一の遷都について異なる所伝を記したということはありうる。
そう捉えた場合、費彌國氏洲鑑は
何かをまとめて記したのではなく、単に夏莫且誅滅の前に遷都があったとの立場をとる書物であり、一方
辰殷大記
は誅滅後に遷都があったという立場ということになる。この場合どちらが正しい遷都時期か
という問題が生じるが、辰殷大記の方を採用したほうがよいだろう。
この構成を「その2改」と呼ぶことにする。)
以上、「構成その1」では24章から28章の間に遷都が2回、「構成その2」「その2改」では遷都が1回、行われ
たと考える。
いずれの考えをとった場合でも、周の成王の即位直後に起きた有名な反乱を27章にあてているため、夏莫且の誅滅
もほぼ同時期(もしくは直前)と捉えることになり、それでも特に矛盾なく説明可能である。
こう考えると、【1】の結論は次のようになる。
夏莫且誅滅の時期を浜名のように武王の次の成王の在位三十年前後[*]にまで引き下げねばならない必然性があるとは、燕国との関係では言えない。
成王の即位前後の可能性も充分あるため、この点で浜名説により自説が否定されることにはならない。
(* 浜名は、寧羲騅の渝浜到着の時期を成王の三十年と推算している。浜名遡源p.539, 詳解p.253参照。)
浜名がなぜそう計算したかについては、後に触れる。)
【2】 殷叔の養子縁組の時期について
本当はもっと話を先に進めたいのだが、案外重要な問題がここで派生してくる。
28章で殷叔
は養子縁組をおこない、その後まもなく亡くなったとされる。その時期として
「乙酉秋七月」と記載されている。乙酉は十干十二支(いわゆる干支)による表記で、乙酉のことである。
干支でその年代が記載されているとなると、その年が特定できるかも
しれない。すると、上で述べたことと計算上矛盾が生じたりする事態が生じないのか問題になってくる。
特に、構成「その2」をとった場合、「周初の反乱」の時期と殷叔
の養子縁組の時期との間にあまり間があいていないほうがよいので、この問題を検討する必要がでてくる。
実は「その1」「その2改」の場合は、そうでもないのだが、いずれにしても自分は、反乱の時期と養子縁組の時期
はほとんど離れていないと考えている。武王が殷を倒してから10年以内に養子縁組まで完結したイメージである(長めに考えても)。それゆえ、この機会に検討しておいたほうがよいと考える。
さて、この乙酉の年について、浜名は「康王
の二十三年」のこととしている。これは西暦紀元前1056年のことと
理解される。[注3-1]この年に殷叔が数え年89歳でなくなったことになる。
また、浜名は「紂の滅びた時」の干支を「戊寅」としているが。これは牧野の戦いを紀元前1123年とする計算
と思われる。すると武王が殷を倒したのは翌年1122年[干支は己卯]
(あるいは単純に解して1123年)である[注3-2]。
すると殷叔の死去はその時から66年も後で、死去の少し前に養子縁組がなされた
ということになる。それでは上記自説のイメージと全く反することになる。では自説は誤りなのか。
もちろん、そう簡単に話は終わらない。実は、武王が殷を倒した実年代には、争いがあり、確定していないという事情がある。
(何十もの説がある。といっても、ここでその全てを検討するわけではないので、安心してほしい。)
日本で現在人気があるのが東京大学東洋文化研究所名誉教授の平㔟隆郎氏
の計算で、氏によると武王が殷を倒したのは紀元前1023年とされる。
そこでこれより後にくる「乙酉」の年でもっとも早いものを探すと紀元前996年となる。
すると、殷が倒れてから27年後に殷叔が死亡したことになる。
浜名氏の計算よりもだいぶ改善された感じはするが、上で私が採る構成との関係でいえば、
依然違和感が大きいといえる。もう少し早い時期の死去が想定されるからだ。
勘のいい人は気づかれたと思うが、乙酉というのは十干十二支による年代表記であるから、六十年に一度めぐってくる。この起算点はどの年なのか、ということが気にならないだろうか。上の計算で、浜名説の1056年の乙酉と
平㔟説ベースで算出した996年の乙酉というのはちょうど60年の差があることに気づかれたかたもおられよう。
つまり、干支の起算点という点ではこの両者は同じ起算点に立っているのだ。
要するに、「乙酉の年が紀元前1116、1056、996、・・・・というように60年間隔で
到来する事」自体は不変の事実として固定しており(干支の計算は同じ)、ただ殷が倒された年代がいつかという点
の解釈が分かれているだけなのである。
だが、ここで重要な事実を指摘しておきたい。
「殷末~周にかけて、中国では、年を干支で表記する習慣はなかった」のである。
当時は、干支は年ではなく「日」レベルで使われていた。つまり「乙酉の日」という言い方は当時あった
のだが、「乙酉の年」というのはなかった。これは十干がもともと十個の太陽の観念にもとづく概念
であるので、「日」を表すのがむしろ本来の用法だからだ。
当時は年を表記するには、「●王の○年」の意味を表す「●王○祀」という言い方を使っていたのだ。
もうしばらくすると、年を、太歳という、観念上の星の位置ににもどづいて記す「太歳紀年法」表記
が登場したが、まだ干支では記されなかった。
秦漢時代になって、やっと年を干支で表記するようになった。
漢代には三統暦という暦が使われるようになり、そこから、過去にさかのぼって干支を計算するようになったのだ。
乙酉の年が紀元前1116、1056、996、・・と計算されるのは、この「逆算ベース」のものなのである。
以上からすると、契丹古伝に引用された「辰殷大記」の原資料は、リアルタイムで殷叔の死亡年を干支で記録
したのではないことがわかる。
つまり、事後的に何らかの方法で「計算」して、殷叔の死亡を「乙酉」の年としたのである。
もし、契丹古伝収録の費彌國氏州鑑などの原資料に、完璧に近い年表とか歴代表のような史料が存在し、
周初期のある事件について、漢朝のある年から正確に何年前に起こったと計算できるのであれば、
周初期の事件であっても正確に干支を算出できるだろう。[漢まで下らなくても、「学者の年代計算がまず分かれ
ることのない何らかのイベント(西周末期など)」の年代から遡れればよい。]
しかし、そもそも周朝自体の記録があいまいであるからこそ、殷が倒れた年代について議論百出していることを
考えてみていただきたい。東族の側で周朝以上に正確な記録をすることは難しいのではないか。
契丹古伝を観ても、「来××三百余年」など、大雑把な表記も散見される。それほど正確な年代記録が残っている
とは考えにくい。
では、28章『辰殷大記』において、殷叔の死亡が「乙酉」と計算されたのはいかなる方法によるものだろうか。
自分は、次のような計算によるのではないかと思う[注3-3]。
①まず、殷の帝辛(「紂王」)が倒され、周の支配が始まってから間もない時期においては、殷叔
の即位・周初の反乱
・殷叔の死去など、重要事件が多い。これらの事件については、「殷の都陥落から何年後」かという点については、
東族側でそれなりに鮮明に把握できていたと考えられる。
②ただ、それらの事件が後世の年代のはっきりした事件からみて何年前にあたるかの正確な計算は、東族の資料
を用いてもなお、不可能であったと考えられる。
③そこで、古い時代の暦につき諸説ある中で、漢代以降、暦の算出に最も定評があり一般的に使用されていた
書物を利用する。
この書物の説に基づく、殷の倒れた年の干支は広く普及し周知となったからだ。
その「殷の倒れた年の干支」に、単純に①の「何年後」というデータを組み合わせて殷叔死亡年の干支を推算する。
という方法である。
具体的にいうと、③の定評ある資料とは、『漢書律暦志 下』に収録された、著名な前漢期の学者・劉歆の『世経』である。
この書物には「周凡三十六王、八百六十七歳」(周朝は全部で36王、計867年である)
」という記載があり、これが信頼されて広く用いられたという事実がある。
この説によると、殷が倒されたのは東周が秦に屈し滅亡した西暦紀元前256年(争いなし)から
遡ること867年目であるから、計算すれば紀元前1122年、その年の干支は「己卯(つちのと・う)」
となる。
以上を前提に、契丹古伝の殷叔死去年の干支「乙酉」は具体的には次のように算出されたと自分は考える。
上記①の「何年後」について、例えば東族側で「殷の都が陥落したとき殷叔は83歳」と把握していたと
すれば、89歳で死去するのは6年後となるから、殷が倒れた己卯から6年後の干支を計算すればよい。
すると、己卯→庚辰→辛巳→壬午→癸未→甲申→乙酉で、殷叔がなくなった年の干支はちょうど「乙酉」
と計算されるわけだ。
この己卯
という干支が、漢書律暦志の計算をもとにしているため、真実の干支とは差が生じるが、
それはむしろ当然といえる。
たとえば、殷の都が陥落して6年後は、(仮に平㔟教授の計算が正しい計算とすれば)紀元前1017年に
あたるから、真実の干支は「乙酉」でなく紀元前1017年の干支「甲子」となるはずだが、そのような計算は不可能だったと考えるのである。
従って結論的には、自分は、「殷叔(いわゆる箕子)は殷が倒されてから6年後に数え89歳で死亡した」と考える。
[注3-4][注3-5]
ちなみに、この漢書律暦志による計算は最近まで普通に採用されていたもので、浜名も「殷が倒された年代」に
ついては同様に考えていたことがうかがえる。ただ、浜名説では殷叔の死は殷が倒れてから(約)66年後、
自説では6年後で、干支一巡分(60年)の差があるのである。
これは浜名氏が契丹古伝24章の韓と燕の来攻を武王の次の「成王の十五年乃至二十年」の時期と推定している
ため、(浜名寛祐 遡源p.539, 詳解p.253)その時点で既に殷が倒れてから20年近く経過していることになり、自説のような「6年後」
という解釈が取りえないという事情があるからである。
(なぜそのように浜名氏が推定しているかということと、それに従う必然性がないことは本稿内で後述する)
そして、浜名氏の場合「66年後」としたことで一つ不自然なことが生じた。つまり
一般には帝辛「紂王」の叔父とされる殷叔(いわゆる箕子)が、殷が倒れたときにはまだ王より年下の
「二十二歳の青年」ということになり矛盾が生じるのである。これについて浜名氏は
箕子を紂の諸父というのは、紂よりは遥か老年なる賢人といふ意味が含まれてゐる。ところが
それは事実に違った物語なる事が本章によって露見した。」
(浜名遡源p.558, 詳解p.272)
などど述べて、史書の記録の方が間違っていることにしているのである。
しかし、自説では殷叔は殷が倒れたときは数え八十三歳ということになる(89-6=83)。帝辛「紂王」
は当時かなりの高齢だったとされることや、兄が何人かいて父親との年齢は離れていること、などの事情から
みても、殷叔は帝辛の叔父であり、年齢も上の人物であるとして特に問題は生じないといえる。
<帝辛(紂王)の享年についても諸説分かれるが、50歳代とする説も結構多い。>
以上より、殷が倒れてから6年後に殷叔は死去し、その直前に養子殷組が行われたことになる(28章)。
よって、夏莫且誅滅(25・26章)はそれより少しだけ遡った時期に行われたと考えられる。
この結論は【1】で示した自説の構成と適合的である。当該構成では、28章を「周初の反乱」期の事件ととら
え、かつ、「周初の反乱」の開始直前に「夏莫且誅滅」が行われたことになるからである。
【3】韓との関係で夏莫且誅滅時期を検討する
【1】で燕国との関係で自説との矛盾のないことを示し、【2】でさらに具体的な夏莫且誅滅時期の絞込みができた
と思う。残る問題が24章と27章に登場する「韓」という国である。
契丹古伝24章
韓燕来り攻む。乃ち翳父婁に徙って都す。
韓と燕の2国が(辰沄殷に)攻めてきた。そこで翳父婁に移動してそこを都とした。
契丹古伝27章
是に於いて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破る。
浜名氏は次のように述べている。
韓燕が兵を連ねて辰沄殷に来攻せるは、成王十五年以降のことと推定される(中略)
かく推定される所以は、竹書紀年に左の如き暦年の記録が存するに依る。(中略)
[成王]十二年王師・燕師城韓。王錫韓侯命。(略)
(浜名 遡源p.513, 詳解p.227)(ルビは筆者による[現代仮名遣使用]、また旧字体を新字体に適宜改めた)
成王が即位十二年に、己の弟 応韓を今の直隷省固安県[引用者注・今の北京付近]に封じて韓国を立てさせ、
燕の側背を防禦せしめたは、一には殷叔の自由建国に、
一には山西貊族の糾合に 対せしめたのであらう。(略)
(浜名 遡源p.539, 詳解p.253)
※[引用者による補足;(周の)成王の弟「応韓」というのは不正確な表現で、実際には俗に応叔・韓叔と呼ばれる
ふたりの人物を指す。韓に封じられたのは後者のほう、いわゆる韓叔である。]
韓は前にも言ふた通り 成王十二年の立国にして、詩の大雅韓奕の章を看るとよく当時の情勢が判じられる。
(浜名 遡源p.546, 詳解p.260)(太字は引用者による)
※[引用者注・「詩」とは『詩経』という古い詩集(四書五経の1つ)を指し、
「大雅韓奕の章」とは、詩経の中の「大雅」という区分のなかに収録された「韓奕」という詩を指す]
ここで、浜名氏は竹書紀年という史料を引いて、「韓」という国の建国は武王の次の成王の十二年としている。
殷が倒されてから20年近く経過していることになる。とっくに周初の反乱は終わっている時期
である。従って、もし浜名氏の指摘が正しければ自説は全く成立しえないことになるはずだ。
しかし、この竹書紀年
は『今本竹書紀年
』と呼ばれる偽書で、本物の『古本竹書紀年
』とは異なる。
後述のように、建国をもう少し早く、武王の時とする書物もあり、伝統的にはその見解も有力である。
したがって、「成王の十二年」を気にする必要はない。成王即位の頃でも構わないのである。
しかしそれでも問題は残る。
□ 滅韓時期問題その1(韓侯国興亡の概略)
27章において東族の軍勢は韓を「滅」している。しかし、韓という国の滅亡について、
浜名氏は平王の十四年の事件としている。
(浜名 遡源p.545, 詳解p.259参照。)
これは紀元前757年にあたり、殷の倒れた時から少なくとも250年は経過している。
この部分だけ見ると、27章を周の初期の事件とみる自説と浜名説との差があり過ぎることがお分かりだろう。
浜名氏が正しければ、自説は到底成り立たないようにも見える。
しかし、そうでもないのである。この論点を以下、「滅韓時期問題」と呼び検討する。
まず、浜名氏が「韓」をどういう国とみているか、把握することから始めよう。
浜名氏の主張は次のように整理できる。
①「韓」は殷を倒した武王の子の成王の弟が封じられた国である。
②その時期は成王の12年である。
③『詩経』の『韓奕』という詩に登場する「韓」は、この国と同一の国である。
④最終滅亡年は(成王より即位順で数えて12代目の)平王の14年である。
⑤契丹古伝の24章と27章に登場する「韓」は、この国と同一の国である。
⑥その場所は河北省固安県にあった(今の北京付近)。
ではそれぞれについて見ていこう。
お断りしておくが、常識的に見るとこの「滅韓時期問題」にしても、あまりに細かな話で長々と論じる必要性が
あるのか、疑問を持たれるような問題であることは承知している。
ただ、本稿は、契丹古伝の発見・解説者である浜名氏以来の解釈の一部分について、真っ向から否定する内容
であるので、それだけ丁寧に論じる必要性がある。浜名氏の本を読んでこられた方にとっては、浜名氏の
アプローチに親しみがあるため、『詩経』の「韓奕」にまで言及する博識な氏の解説のどこに落とし穴が潜んでい
るか、具体的に示されないと問題点が把握できない面があろうと考えているので、このような記述に
なっていることをどうかご推察賜り、ご容赦願いたい。
上記①について:
大陸所在の「韓」という国で普通知られているのは、春秋戦国時代の七雄の一つ「韓」
であるが、実は、戦国七雄の「韓」以前に同名の「韓」という国が存在し、戦国七雄の「韓」の成立時には既に
滅亡していた。これが浜名氏の言う「韓」である(いずれの韓も、通説的には朝鮮半島の韓とは無関係である)。
まぎらわしいので、この古い方の「韓」の方を「西周の韓」と呼ぶ。
この古い方の「西周の韓」については、『春秋左氏伝』に、武王の子を封じた諸国を列挙した箇所があり、
その中に「韓」が含まれている。その成立の時期は殷を倒した武王の時と解されてきた。
以上より、①について浜名の記述はそれなりに常識的な理解ではある。(なお、後ほど若干の
補足をする。)
②について:
①の末尾に記したように、武王の時にすでに「韓」が成立しているならば、次の成王の時にもう一度建国するのは
おかしいことになる。先にも述べたが、浜名氏が②の根拠としてあげる『竹書紀年
』は『今本竹書紀年』と呼ばれる偽書で、本物とされる『古本竹書紀年』とは別の書物である。
したがって、その記載を額面どおりに信じる必要は必ずしもない。
従って、②の建国時期についての氏の指摘は誤りとして無視しても構わないと考えられる。
③について:
『詩経
』に収録された詩の中に『韓奕
』という詩がある。
これは、通説的な理解では、「韓」という国の首長である「韓侯」が周の都に詣でて、周の王から叙任を受け
、贈り物をもらって帰る様子を描写した詩とされる。
また、最後の方に「韓城」についての描写があり、その建設には「燕」の人々が参加したと読める記載がある。
この韓侯が詣でた「王」は、通説では周の宣王であるという。
(伝統的な計算では殷が倒されてから三百数十年ごろに在位。)
浜名氏も『韓奕』の詩を引いて宣王の時のこととしている。
詩に 王錫二韓侯一。
其追其貊。奄受二北国一。
因以其伯。 とあるは、久しく消息のなかった韓侯の来朝により、宣王
これに命を賜ふたを詠歌したものである。
(浜名 遡源p.546, 詳解p.260)
この「韓侯」の国である「韓」は、武王の時に成立した①の「西周の韓」と同一の国であるとするのが伝統的な通説である。
以上より、③についての浜名の理解は常識はずれなものとはいえない。
④について
「韓」滅亡時期について浜名氏が根拠としているのは『今本竹書紀年』周の平王の14年の「晋人韓を滅ぼす」
という記述で、浜名氏は東族が滅ぼしたのを隠蔽するために晋が滅ぼしたことにしたのだとしている。
お気づきのように、『今本竹書紀年』は偽書なので、必ずしも信じる必要がない。
ただ、③で述べたように、『韓侯』の詩にある韓侯の上京が周の宣王の時である以上、それより後に滅亡した
ことは確かだろう。平王は宣王の次の次の王である。
以上より、④について、滅亡時期に限っての話ではあるが、浜名の理解は不正確ではあるにせよ
大雑把にいえばあたっている可能性もあるとはいえる。
──と書くと、「そのような遅い滅亡時期では「滅韓時期問題」が解決しないのではないか?」という
鋭い疑問を持つ方がおられるかもしれないが、その点も踏まえながら検討を続ける。
⑤契丹古伝の24章と27章に登場する「韓」は、この国と同一の国である
⑥は固安県(北京付近)にあった
この⑤と⑥を一緒に検討することにしよう。
実は、このあたりが、契丹古伝の解釈に妙な影響を与えかねない特殊な論点になって
くるので、少し面倒だがもう少しお付き合い頂きたい(種々の派生的問題もあるので)。
上記①③で述べたように、殷が倒れた後に建国された「西周の韓」が『詩経
』の『韓奕』に登場する「韓侯」の国
であるというのは伝統的な通説である。
ところが、『韓奕』の「韓侯」国の所在については、かなり昔から争いがあり、様々な説が乱れ飛んでいるのだ。
できるだけ簡潔に説明しよう。大雑把にいうと、今の北京のあたり、あるいはその東北方面にあったと
する説(A説)と、今の陝西省と山西省の境を南北に流れる黄河に沿った境界線の南半分近辺の右岸
もしくは左岸にあったとする説。(B説。B-1、韓城 B-2韓原説。 B-3説など。)
の2種類に分けられる。
次の地図参照。(あくまでイメージ図で、海岸線の変化考慮など細部の処理は行っていない。)
以下、滅韓時期問題 その2(韓の所在地)としてその説明をしていくが、多少煩雑になるので別ページを
参照されたい
(地図もそこで再掲する)。
滅韓時期問題 その2(韓の所在地) へ進む
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さて、上記別ページ
「滅韓時期問題 その2(韓の所在地)」
をお読みいただいた方は、「韓侯」国の所在について(⑥)、またその国と契丹古伝上の「韓」
との同一性(⑤)について様々な見解を採った場合に、滅韓時期問題がどう処理されるか理解されたと思う。
ここで、⑤⑥についての様々な見解のいずれを採るべきかについて断定まではしなかったのは、安易に決め付けて間違った方向に進む危険を避けるためである。それだけ特殊な論点なので、ご容赦いただきたい、
しかし、いずれの見解に立ったとしても、自説が否定されることにはならないというのが結論だ。
特に、III説、IV説をとった場合は、浜名氏の言う韓の滅亡(最終滅亡時)以前に、韓は一旦滅亡した
と自説では解するわけであるが、あまりにご都合主義的ではないか、という批判を頂戴するかもしれない。
しかし、浜名氏の構成なら、自然で説得的だと本当にいえるだろうか。実は氏の説では非常に奇妙なことが
生じている。
浜名氏の想定する流れを簡単に整理しておく。(浜名 遡源p.539, 詳解p.253参照。)
[成王が即位12年に弟を固安
県(北京付近)に封じ韓国を立てさせた後で]
①即位15年から20年に韓・燕連合軍が殷叔の辰沄殷
王国に来攻する。契丹古伝24章。
②それより幾年か遅れて寧羲騅が日本から※兵を率いて渝浜に到着する。(仮にこれを成王の30年として
浜名は計算を立てている。殷が倒れてから三十数年経過。)25章。
※日本から寧羲騅が来たというのは浜名氏独自の解釈で積極的根拠がない。
③武伯と寧羲騅の連合軍が、夏莫且を誅滅
する。殷が倒れてから三十数年経過。26章。
④「是に於いて、燕を降し、韓を滅し、齊に薄り、周を破る。」について(27章)
④-a:「燕を降し」=周の穆王の元年ごろ、燕が他国に卑屈なほど服従する態度によりかろうじて命脈を保つ
状態になったこと(殷が倒れてから浜名氏ベースの暦では約120年後。別の計算でも約70年後。)
(浜名 遡源p.545, p.548, p.549, 詳解p.259, p.262, p.263参照。)
④-b:「韓を滅し」=周の平王の14年「(晋人)韓を滅ぼす」。紀元前757年。殷が倒れてから少なくとも
250年経過。 (浜名 遡源p.545, 詳解p.259参照。)
④-c:「周を破る」=貊族に近い犬戎が周の幽王を殺したこと。(紀元前771年。殷が倒れてから少なくとも
250年経過。)(浜名 遡源p.555, 詳解p.269参照。)
⑤寧羲騅が日本への帰途につく際、殷叔(箕子)の養子縁組。その直後、周の康王の23年に殷叔(箕子)が死去。
殷が倒れてから66年経過。(『辰殷大記』挿入部分。)28章。 (浜名 遡源p.556-p.559, 詳解p.270-p.273参照。)
※寧羲騅が帰途につく際という解釈は浜名説。自説では殷叔(箕子)が動座するにあたってとなる。
以上が浜名説による流れである。
時の流れを見ると、④の部分が異様なのにお気づきだろうか。
④の冒頭の「是に於いて」という言い方は、単なる「そして」と少し異なり、③の事態を受けて、と
いった意味で、時間的な近接性のニュアンスを含むと云われる。従って、
③と④は時間的に接近しているはずである。ところが③と④-aの間隔は90年超、
③と④-bや④-cの間隔は200年超と異常に長く、③④⑤の流れが破綻しているのだ。
さすがに浜名氏もまずいと考えたのか④と⑤の関係をフォローしようとして次のように述べている。
([]内は引用者による説明。)
此等[④-aや④-bの]史実が天孫[※(浜名説では寧羲騅=天孫)]出征中の[つまり⑤の浜名説でいう寧羲騅帰郷以前の]事
にあらざるは勿論
なれども、燕といひ韓といひ それ等の国が東族の攻囲をうけたるは、以前からのことで
天孫[寧羲騅]出征中[=⑤の寧羲騅帰郷以前]にある。 (浜名 遡源p.545-p.546, 詳解p.259-p.260)
④-aや④-bの「前兆」のようなものが⑤より前にあるとすることで、少しでもつじつまを合わせようとしたのだが、
それでも大してフォローになっていない。
④-cについてはフォローすら放棄している。この点は特に重要で、「周を破る」の解釈が特に苦しくなってくるのだ。
浜名説による流れを図にすると↓のような感じである。
そこで、一気に自説の主張へ突入しても構わないのだが、ここは慎重に、「浜名氏を少し手直しして
生かす道はないか」を検討してみる。少し手直しするだけで立派な説にできるなら、そちらを優先すべきか
もしれないからだ。
では、浜名説の枠組みのポイントで、自説と大きく異なる2つの点、
「夏莫且の誅滅は殷が倒れてから三十年以降」と「韓の滅亡は最終滅亡時を指す」
をできるだけ維持しつつ、浜名説の時系列の異常さをもう少し改善できる方法はないだろうか。
その方法を検討するにあたり、「燕を降し」については「滅し」とまでいっていないから、あまり厳しくとらえなくて
も良いと考える。
また、「周を破る」については、周の軍をそれなりに打ち負かす必要があると思うが、今特別に目をつぶることにしよう。
また、寧羲騅が日本に帰るという設定だとかえって不自由になるから、その部分は今はないことにしよう。
その前提でいえば、④-b「韓の最終滅亡時」の直前に、②武伯と寧羲騅の出陣(25章)と③彼らによる夏莫且の誅滅
(26章)と
が行われたことにすれば、④(27章)の「是に於いて」の語が示唆する③と④の接近性が確保
されそうである(②③の時期だけを200年以上後ろにずらすイメージ)。
確保はされるが、この場合②出陣③夏莫且誅滅④滅韓等の攻撃、が殷が倒れてから少なくとも250年経過した後
に行われたことになる。だから、
「夏莫且」は周が殷を倒したときの「粛慎
氏」の族長ではありえないだろう。だからその族長の何代か後の子孫の
粛慎
氏ということにするしかない(子孫に復讐してもあまり意味がなさそうではあるが)。
ここまで条件を緩くした上で何とか矛盾を少なくしたこの説を浜名修正説と仮に呼ぼう。
この浜名修正説であれば、流れを図にすると↓のような感じである。
一見問題なさそうだが、実はそうでもない。殷叔(「箕子」)が養子縁組を行い死去する⑤のイベント=28章(『辰殷大記
』挿入部分。)が、①と②の間に生じることになる。
殷叔が死去した時点(⑤)で武伯と寧羲騅の出陣(②)や夏莫且誅滅(③)は
まだまだ行われていない。まだ200年以上先となる。
であれば、⑤のイベント『辰殷大記』が挿入されるのは、④27章の後ではなく、
①24章の後かつ②25章(武伯
と寧羲騅の出陣)の前となるはずである。
①24章と②25章の間に⑤28章の内容を記載しても、叙述の流れが損なわれることが全くないし、非常に
すっきりするはずである。(※)
ところが実際の契丹古伝はそうなっていない。これは、浜名修正説において②③の時期を後ろにずらしたこと
自体が間違っていたことを意味する。
したがって、この浜名修正説も別の不自然さ(というより誤り)を生じさせてしまうので、
採るのは無理といえるだろう。(※ちなみに、修正前の説(最初の方の図)では③④が内容的に一体性を有するため、仮に③⑤④の順で
記載すると叙述の流れを損なってしまうことから、そのような記載を回避しても一応不自然さはない。)
以上に対し、自説だとどうだろうか。一応、2つの構成を図にしてみる。
構成その1
①成王即位以前、まだ東族が茫然としている頃、韓などが辰沄殷
王国を攻撃して東遷させる。24章。
②東族も事態を把握し、種々の動きを始める。寧羲騅が渝浜に到着する。25章
③武伯と寧羲騅の連合軍で、夏莫且(太公望)を誅滅する。殷が倒れてから数年経過。26章。
④成王即位初期の「周初の反乱」に発展する。東族は燕の本格的な軍を破り、韓侯国を一旦滅亡させた。
「周初の反乱」の大攻勢を受けて周自体も大きな痛手を負った(④は後ほど若干の補足あり)。27章。
⑤ ④初期の、東族有利の状況でやや西遷していた辰沄殷王国も、④後期で燕等の戦いが本格化するため
再度東遷を決定。東遷に先立って殷叔は養子縁組を行う。程なくして殷叔死去。この時点で殷が倒れてから
6年経過。 28章。
この流れを図にすると↓のような感じである。
構成その2、構成その2改
②東族も種々の動きを始める。寧羲騅が渝浜に到着する。25章
③武伯と寧羲騅の連合軍で、夏莫且(太公望)を誅滅する。殷が倒れてから数年経過。26章。
④成王即位初期の「周初の反乱」に発展する。東族は燕の本格的な軍に善戦し、韓侯国を一旦滅亡に
おいやる。「周初の反乱」の大攻勢を受けて周自体も大きな痛手を負った(④は後ほど若干補足あり)。27章。
⑤ ④の戦いの中で、殷叔の辰沄殷王国も、燕等の戦いが本格化することを考慮して東遷(①)を決定。
東遷に先立って殷叔は養子縁組を行う。程なくして殷叔死去。この時点で殷が倒れてから
6年経過。 28章。
この解釈の場合上の図の①を消せばOKである。
このように、自説の場合、この時系列の問題は、25章から28章がはるかにスムースな流れの中で数年以内
に完結することによって、全く自然に解決されている。
自説と浜名説のどちらの方が自然といえるだろうか。
自説に軍配が上がると思う。
なぜ浜名説において不自然な時系列が生じたかを考えると、結局、滅韓時期を「克殷」より何百年も後のことに
してしまい、それに合わせて周を破ったのも同様の遅い時期に認定したことに起因しているといえる。
自説の構成ではそのような不自然さは生じず、契丹古伝の原資料の著述者も自説のような時系列に従った進行を想定していたのではないかと考えるのである。
以上より、【3】(「韓との関係で夏莫且誅滅時期を検討する」)の結論は、
「韓」との関係でも自説との矛盾は生じない、ということになる。
従って、【1】【2】【3】のいずれの観点においても、自説の夏莫且誅滅時期との関係での矛盾は
生じないことがわかる。
【4】「韓侯」国幻想について
今までの解釈者は、「韓を滅す」の言葉にこだわりすぎたともいえる。
「韓」を検討しようとすると『詩経』の『韓奕』を検討することになるが、結局この詩には落とし穴が
沢山あり、不分明な点の多さから、ある意味もっともらしい説を何種類も造り出せると同時に、
それによって他人の説を完全には排除できないということになるから、自説の積極的理由付けとして
利用するには不適当なのである。契丹古伝の解釈にあたっては他の論点の解釈の方が重要といえる。
浜名氏が、先の(滅韓問題⑤⑥の)ページのIV説という説を採用しているため、何となく韓という国が
長期にわたり安定して存在したというイメージを持っていまいがちだが、実際には当初の韓は、鄭玄の指摘するように弱小国であったのではないだろうか。(もちろん周の側からは大きな期待を持たれてはいただろうが。)
北京方面には、在来の殷系首長が多くいたことが想像される。周としては、従属的な諸侯であれば厚遇する
はずで、燕の領域内のミニ首長国がいくつか存在した可能性も充分考えられよう。
それなのに、「韓」に大国のイメージを持ってしまうことが、浜名氏さえ想定していないような突飛な解釈
を生んでしまう危険が生じる。
契丹古伝を扱った本の中でも有名な『古代史言論 契丹古伝と太陽女神』の著者、田中勝也氏には
『環東シナ海の神話学』(新泉社 1984年)という著書がある。
お断りしておくが、こちらの本自体は契丹古伝を扱った本ではなく、契丹古伝の名は登場しない。
この本によると、
『詩経』韓奕の「韓侯」国は北京の燕のさらに北東辺境部に存在した大国であるという。つまりA-2説である。
田中勝也氏は『詩経』韓奕の詩の全文を引用し「解釈」した上で、そう主張するのだ。
その地域は確かに、貊族系の勢力等、東族勢力が強い地域であることは浜名氏も記している通りである。
だが、そこを詩経の「韓侯」の大国と捉えた田中勝也氏は次のように半島との関係を主張する。
燕に圧迫された韓侯の一族が南下して、朝鮮半島南部に樹てた国が韓であったのかもしれない。(A)
あるいは次のようにも考えられる。(中略)有力国家は、韓侯と(中略)姻戚関係を結ぶことが多かった
であろう。そうした国は自らを韓姓の名をもって呼ぶものも多かったにちがいない。そうした(中略)
王族が、(中略)中国東北部の故地から、朝鮮半島南部に移動したのが韓ではなかったろうか。(B)
筆者は、朝鮮半島南韓の興りをこのいずれかの場合と考えるのである。
(田中勝也『環東シナ海の神話学』新泉社 1984年 p.186)
(A) (B)は引用者が便宜上付した。
なぜ田中勝也氏はこのように考えたのだろうか。まず朝鮮半島南部の韓といえば、新羅・百済・任那の
成立前にあった辰韓・弁辰・馬韓の三韓が思いあたる。だがその前には謎の「辰国」が存在したり、
そこに殷の王族箕子(契丹古伝の殷叔)の子孫とされる「箕準」が衛満に追われて逃げてきたりといったことがあった。
魏志韓伝によると
侯淮既僭号称王、為燕亡人衛満所攻奪、将其左右宮人走入海、居韓地、自号韓王。
[箕子の後裔である][朝鮮]侯の淮(=準)は既に王と僭称していたが、燕の亡命人である衛満
に国を奪われ、左右の宮廷人をひきいて逃れて海に入り、韓の地に居留して、自ら韓王と称した。
後漢書韓伝によると
初、朝鮮王準為衛満所破、乃将其余衆数千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王
初め、朝鮮王・準は衛満に破れ、残党数千人をひきいて逃れて、海に入り、馬韓を攻めて
これを破り、自立して韓王となった。
ここで、準王は韓の地に入って韓王となのったとされるが、田中勝也説はこの「韓王」の「韓」の由来を
『詩経』韓奕の「韓侯」国に求めてしまうという見解なのだ。
一般には、「韓侯」の「韓」は朝鮮半島の「韓」とは関係ないとされて
いるから、それに対する異説である。
実は、朝鮮の「韓」と周朝の諸侯「韓侯」を結びつける説はかつて李氏朝鮮の学者に好まれた説である。
現在とは違い、当時の朝鮮は「小中国」として自らの起源を中国に結びつけることでアイデンティティを確保
していた。
そのため、儒教的聖人たる中国人としての箕子(契丹古伝の殷叔(箕子にあたる)の人物像とは異なる)
を朝鮮のルーツにしていたのだが、それでは飽き足らず「韓」の名称も中国由来にしようとしたのである。
李氏朝鮮の実学者 李圭景は
「三韓始末辨證説」(『五洲衍文長箋散稿』卷三十五所収)
Wikisource:
https://zh.wikisource.org/wiki/三韓始末辨證說
を著して、「韓侯」の国こそ箕子の国であり、朝鮮に移動
したのだと主張し、その「韓侯」の国の当初の位置は、「燕東統貊地」すなわち燕の東の貊族を統括する地
(つまりA-2の地)としている[注3-6]。
田中勝也氏の説(上記(A)参照)とそっくりなのがわかる。
ただ、契丹古伝では「韓」は殷叔(箕子)の国「辰沄殷」の敵対者であり、別の国であるはずである。
だから契丹古伝を前提とする限り、李圭景説そのものはとれない。
そこで田中氏の説に上記(B)の部分が付加されたのではないか。つまり「韓侯」の国と殷叔の国は近接し、
政略結婚などで何らかの関係はあったと捉えた上で、それゆえ殷叔(箕子)の国が韓姓を称して朝鮮半島南部に入った、と考える
見解ではないか。もちろんここでは箕子の名前さえ出ていないのだが、契丹古伝を意識した修正説と私は捉え
ている。
また、系図研究の大家として知られる宝賀寿男氏はその論考
「扶桑概念の伝播」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/fusou-g/fusosiso1.htm
(「古樹紀之房間」HP内収録の一論考。)
の下から12段落目において、田中勝也氏の上記著書の名を挙げられながら 、
『詩経』『山海経』等の記事からは、韓侯の国が燕の北東辺にあったとみられる(田中勝也著
『環東シナ海の神話学』も同じ。)この韓侯が箕侯、朝鮮侯(箕氏朝鮮)に当たるものと考えられる。
とされる。さらに、この韓侯が箕氏の後裔たる箕侯の跡をなんらかの形で承けたか、同族だったか、という
可能性が考えられる。
と述べておられる。
田中勝也説(A)と基本的に同じ説といえよう。(ただ、誤解のないよう記しておくが、宝賀氏は契丹古伝の研究家
ではなく、上で引用したページにも契丹古伝の名は一切登場しないことに留意すべきである。)
確かに、朝鮮半島の「韓」の由来については諸説ある。韓姓を名乗る民が北京あたりから移転したなど、種々
の説があることは確かだ。
しかし、「韓侯」の国自体を特別な国、特別な巨大勢力として、それが移転したとするのは全く一般からは
認められていない説である。それはまさに李圭景説の「『燕東統貊地』たる韓」の概念の復活に他ならない。
たしかにその一帯には貊族の諸勢力はいたが、どうしても韓侯国をその統括者として設定せねばならないのか。
田中勝也氏がなぜそうされたかについて、思いあたる節がある。
当論考「夏莫且の正体は太公望呂尚である」の附属論考「浜名氏の巧妙な「粛慎氏」トリック
──「粛慎氏」は東族の宗家ではなかった」の中でも述べたように、
浜名氏は「粛慎氏」を架空の本宗家として設定していた。そして、それが夏莫且誅滅によって
滅び、本宗家自体が以後存在しないという奇妙な論を(本宗家断絶についてはやや目立たない形で)叙述していた。
この「架空の本宗家」の印象があまりに強烈であるために、夏莫且誅滅後の世界についても無意識に「本宗家」
にあたるもの、しかも箕子の後継「辰沄殷」とは異なる存在を東北アジアに探してしまったのではないだろうか[注3-7]。
粛慎氏の場所については、遼寧省の中部辺りでもおかしくはないのに、浜名氏がそれを「本宗家」に仕立てたため
燕からあまり離れていない場所、しかもそれなりの広い地域に つい限定して探してしまうのである。
そして、李圭景説のいう、巨大な統括者としての「韓侯」に「本宗家」の姿を重ね合わせてしまったのでは
ないだろうか。
これは、「韓侯国」を誇大視する「『韓侯国』幻想」といえる。
浜名氏は、粛慎氏については誇張をおこなったが、韓侯国についてはそれほど誇大視してはいない。
しかし浜名氏の「粛慎氏幻想」が、他の研究者の「韓侯国幻想」を生んでしまったといえないだろうか。
田中勝也説の成立事情についての部分は私の推測に過ぎないので、もし間違いであれば深くお詫びするしかない。
(田中説の場合、「辰」の定義が独特であること(東族共通用語論参照)に絡んだ一定の思惑も作用していると思われる。
そこにも記したように、氏は神祖の中国支配を架空とする。すると、本宗家は一つしかないと考えることになる
はずであるが、それを李圭景説的に韓侯として処理したという面があるかもしれない。)
また、宝賀氏の場合はまた事情が異なるだろう。箕侯という語を出されているので、
遼西の発掘物に頻出する「㠱侯」を箕子朝鮮と結びつける既存の説がベースにあると思われる。
さらに氏の姓氏研究から、箕氏は山西省をルーツとする殷の傍系の氏族とし、それが遼西、つまり燕の東北方面
で独特の勢力をなしていたと捉えておられるので、そのイメージと田中勝也氏の「韓侯」イメージが重なったという
ことではないかと思う。
箕侯についてはまだ不明な部分も多いが、自分は次のように思う。
仮に、宝賀氏の説に準じて、「箕族」とか「韓族」ともいえるような(貊系の)族がいたとしよう。
そして、いわゆる箕子も、何らかの形で箕族との接点があったとしよう。(箕族の地を箕子が殷朝から
所領として与えられていた[たとえて言えば、"常陸親王"のような形]ということもありうる。)
だからといって、箕子やその後継(契丹古伝でいえば「辰沄殷」)がその辺りに移動した際に、当然に全ての
「箕族」とか貊族とかを支配したわけではなく、「箕族」の一部はやむなく周朝に服属もしただろうし、
また服属しない勢力もあったと考える。[注3-8]
また、「韓侯」の国も、周朝に服属した国のひとつで、当然にすべての「韓族」を支配したわけでもない
と解したほうが自然ではないだろうか。韓侯の国がそれほど大きな国であったかどうかは疑問である。
種々の古氏族がいた地域であるのだから、「韓」のような名称を複数の氏族が使用したこともありうるだろう。
ちなみに宝賀氏は、紀元前3世紀前半に燕の将軍秦開が討伐した東胡と箕子朝鮮との関係を指摘し、田村晃一氏の
「東胡東夷説」に言及する形で遼西の遼寧式銅剣にまで触れておられるが、これも広い意味での「箕族」とか
貊族についての文化論としては勿論傾聴に値する。ただ、「韓侯」に関する李圭景説的な色彩の影がここにもさし
てしまっているため、妙な読まれかたをされかねないという懸念がある点は残念である。
(なお、考古学資料の取り扱いについて、自分のスタンスとしては、現時点において資料の扱い・評価等が突然変更される等の不安定さが
いまだ見られることからできるだけ本サイトでは扱うのを回避していることを付記しておきたい。)
以上、個人名をあげた批判になってしまい大変恐縮しているが、自分が強調したいのは、殷朝を上回る本宗家
がその付近にあったとする浜名氏の「作為」の影響から免れないと、とんでもない方向に進んで行きかねない
ということなのである。
田中勝也氏の本は、昔から拝読しており、神話学的分析などで素晴らしい部分も多い。
『古代史言論─契丹古伝と太陽女神』の新装増補版(批評社、2012年)の方に載せられている契丹古伝の全訳も、他書に比べると非常に良心的なもので、
読む価値があるものである。
それなのにいきなり氏の名前を挙げて批判する形となってしまい、申し訳なく思っている。
ただ、契丹古伝の分析的部分で、なぜか自説と大きく異なる箇所が他にもいくつかあるので、いずれそのことも
論じさせていただくことがあるかもしれないとは思っている。
宝賀寿男氏は、いわずとしれた系図学の大家で、その著書やHPをたびたび拝読し参考にさせていただいている
身であるにもかかわらず、いきなり氏の名前を出して批判するような形となり、やはり申し訳ない思いで一杯である。しかも契丹古伝という、一般的には偽書とされる書物を扱っておられるわけでもないのに、このような形で言及することにはためらいもあったが、
種々の状況に鑑み止むをえなかった。ご容赦頂きたい。むしろ何らかの形でささやかなお礼ができればと願っている。
それ以外の方でも気分を害された方があれば心からお詫びする。
HP作成の時間が採れないため、不十分な記載の散見されるサイトを放置気味にせざるを得なかった。
ただ自分としてはウェブページに発表した以外の種々の蓄積をもとに、契丹古伝の読み方について鋭意研究を
進めているので、重要かつ確度の高い部分については鋭意指摘・発表をする必要は感じており、今回
やや無理をしてあらたにページを作成したものである。どうかご諒解頂きたい。
夏莫且誅滅の時期について ──本当に「殷周革命」より30年以上も後なのか の本文はここまで。補注はこの下に記載した。
太公望の意外な最期(夏莫且の正体)──太公望は「克殷」後に誅滅されていた
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補注
注3-1 乙酉の年について、浜名は・・・
浜名 遡源p.558, 詳解p.272参照。後述の「『漢書』律暦志」ベースの計算である。
注3-2 1122年(あるいは単純に解して・・・
浜名 遡源p.558, 詳解p.272参照。細かい事情で1年程度の誤差は生じる。
浜名氏が牧野の戦いの年=殷の滅びた年と考えている点は遡源p.496-p.497(詳解p,210-p.211)を見比べると推察できる。
注3-3 自分は、次のような計算に・・・
本論考で示した以外にも、乙酉は実は日付を表したものではないか、等、他の構成を採る余地も
存在しているが、煩雑になるので省略する。
注3-4
(もちろん、古事記や日本書紀の例でもわかるように、このような計算(年齢も含めて)には錯誤・異説が
生じるのが当然だから、そこまで厳格に考えなくてもよいともいえるが、ここでは丁寧に検討した。)
注3-5
細かい問題として、「武王が殷を倒して6年後」は周のどの王の治世だったのかという問題がある。というのも
武王が殷に勝利した年を1年目として、武王が何年目に死んだかについて、1年目説・3年目説・7年目説など説
が分かれているのである。
今日では7年説をとる学者はほとんどいない。自分も同じであるので、上記問題の答えは「成王の治世」となる。
それゆえ「周初の反乱」の時と合致するといえるのだが、ただ、劉歆の計算が7年説を前提にしている点が少しだけ
問題になる。もし仮に殷が倒れて6年が経過した時点で依然武王が在位しており成王初期の反乱がまだ起きていないとすると、28章の殷叔の死去が27章の反乱期より前ということになってしまうからだ。
もちろん多少の入り繰りは一般論としてありうるとしても、結論的には、文章の流れ等からして、ここの事件の展開はほぼ27章→28章という記載通りの順(少なくとも27章の反乱開始後に28章が来る)と考えている。
「乙酉」の計算については次のように説明できよう。後世のある時点で、契丹古伝の引用する『辰殷大記』(もしくはその原資料)に対して殷叔死去の干支を
補記する行為がなされた時、その補記時においては殷が己卯の年に倒れたことは常識とされていただろう。しかも、
その一方で、辰沄殷の王となった殷叔が「克殷」の何年後に死去したかは関係者間で比較的鮮明に記憶されていた
可能性が高い。
その記憶が「6年後」だったとすれば、結局、その己卯という劉歆の計算結果を単純に利用し、己卯の年に6年を
プラスして殷叔死去の干支を計算し乙酉と補記することは、若干荒削りな方法ではあるが、ごく自然にありうるこ
とであるから、問題は生じないと考える。(要するに、劉歆の推算の基礎データである各王の推定治世年数のレベル
にまで整合性を徹底するための操作、例えば「殷叔
は成王の治世のこの辺で死去したのだから『克殷』後もっと長く、
10年後位まで殷叔が生きたことにしよう」等という操作までは行っていないものと解する。
「6年後」は実年数の記憶であり、現実の歴史の展開としてはその時点(「6年後」)の王は武王でなく成王で
あった、ということになる。)
注3-6 「韓侯」の国こそ箕子の国・・・
王符が著した著名な政論書『潜夫論』の「志氏姓」章の、周の王家と同姓の「姫姓」について
述べた部分に、やや混乱した記述が見える。
「春秋戦国の韓」・「西周の韓」・「其後韓西」の3つを(いずれも姫姓とする趣旨で)説明した
上で最後の「韓西」について、
其後韓西亦姓韓、為衛満所伐、遷居海中。
その後[裔の]「韓西」が姓を韓とし、衛満に征伐されて、海中に遷り住んだ。
として箕子の話と混線させてしまっている。
王符はこの直後の部分でも延々と姫姓の氏族について論じているのであるから、箕子 の話が入るのは「韓姓」に
影響されての錯誤であろう。一般にこの記述によって韓侯国と朝鮮の韓が結びつくとは考えられていないのだが、
李圭景の場合は当然、この部分も活用して自説を根拠付けている。
注3-7 東北アジアに探してしまった・・・・
少なくともそれらは浜名遡源p.340, 詳解p.54のいう「支那本土に入って粛慎なる文字に著はれ」た本宗家ではない。
中国本土で、殷より上位の本家など存在しなかったのである。
ただ、本土に入った神祖のある意味で直系といえるこの宗家
とは別に、「本土に入らなかった」もう一つの
宗家
があったことを契丹古伝の第5章は伝える。
その実態について、浜名説と自説は異なるためここでは深入りをさけるが、浜名説ではなく自説
を採用した場合であれば、「そのもう一つ勢力の名残=田中氏の注目している勢力(の一部)」と捉えることぐらい
なら、可能かもしれないので、一応付記しておく。
しかしいずれにしてもそれは決して殷より上位の本宗家
ではない。
注3-8 一部はやむなく周朝に服属も・・・
辰沄殷
が移動する際に、その民の一部を連れていった可能性はあるが、
辰沄殷
がその全てを統率していたということはないと思われる。(勿論、観念上の支配はまた別の話である。)
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