このページは、
「『督坑賁國密矩』の正体」のページの付属ページでもあり、原文解説ページの補足ページでもある。
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契丹古伝28章―謎の王子「督坑賁國密矩」についての原文精読
上に挙げた「『督坑賁國密矩』の正体」のページにおいては、契丹古伝28章の「督坑賁國密矩」登場部分の
文言解釈について、細かい部分は省略している。
上記ページにおいては、『督坑賁國密矩』の正体について新解釈を提供しているのであるが、そもそも、そのためには
28章の当該部分を正確に解読することが当然不可欠である。
ところが、この章は、短いものではあるが、しばしば誤読・誤解釈されやすい部分なのである。
誤読がまかり通ったままで、それを信じている方々に、いくら新解釈を提供しても、話が噛み合わないことに
なりかねない。
このページでは、そのため、上記ページでは触れなかった少し細かい解釈に踏みこむが、その結果、ありえない解釈の排除を行うことが
できれば、新解釈への地ならしとなるため、それに越したことはないと考えている。
まず、焦点となる箇所の原文・読み下し・現代語訳を掲げる。
殷叔老無子。當尉越之將旋于東。養密矩爲嗣。
殷叔老いて子無し。尉越の
将に東に旋らんとするに当り。密矩を養ひて嗣と為す。
殷叔は老いており子が無く、尉越のちょうど東に旋ろうとする際に、密矩を養って継嗣と為した。
尋殂。壽八十九。督抗賁國密矩立。
尋いで殂す。寿八十九。督坑賁國密矩立つ。
その後ほどなくして亡くなられた。年齢は八十九歳。 督坑賁國密矩が即位した。
まず、浜名氏でも自説でも変わらないのは、「密矩を養って跡継ぎとした」のは「殷叔」本人であるという点だ。
もちろんそれは当然のことではあるのだが、隣国のサイトのように違う解釈[注2-1]もあるので、
まず押さえておきたい。
ここで「尉越」という難解の語があるのが混乱の元なのであるが、(それを自説のように聖座と
解釈するか浜名氏のように宮廷の有力人物とするかはともかく、)読み下し文の「~に当たり」の部分が、
原文の「當(=当)~」に相当し、この「當~」が「~の時」の意味を表す言葉である点はできれば
押さえておきたい点である。英語であれば「when~」とか「at~」「on~」のような接続詞や前置詞にあたる。
そして「~」の中身にあたることばが「尉越之將旋于東」であり、これは
「尉越、將旋于東」(尉越がまさに東に巡ろうとする)
の「尉越」と「將旋于東」の中間に「之」という言葉をいれることで
「尉越之將旋于東」=「尉越がまさに東に巡ろうとすること」という名詞的なフレーズ
としたものである[注2-2]。
その前に「當~」が付加されることで、そういうことがあったとき、すなわち、「尉越がまさに東に巡ろうとする
状態のとき」の意味となる。
したがって、尉越はあくまで養子縁組のタイミングを表わす描写の一要素であって、養子を採る主体ではない。
したがって、養子を採る主体はあくまで「殷叔」なのである。
次なる問題は、密矩とはどういう家系に属する方なのかということである。
浜名氏は、密矩とは日本の
邇邇藝命
の子、
火須勢理命
であるとする。
ここでの浜名氏の論法は①密矩とは日本語の御子と同義②その御子とは「尉越」の子を意味し、
「尉越」とは邇邇藝命である③尉越が東にめぐるとは、寧羲騅としてはるばる日本から救援にきた邇邇藝命
が日本へ凱旋帰還することをいう、というものである[注2-3]。
そもそもニギシ=邇邇藝命というのは、音が似ているからというだけの理由にすぎず、無理な解釈である。
また、浜名氏は「尉越」は和語の「上」と同じとした上で、契丹語で特殊な貴人に冠せられる称号「于越」を
引き合いに出し、殷叔(箕子)より上位の地位にある「邇邇藝命」だからこそ「尉越」なのだとする。[注2-4]
ここで、仮に「尉越」が何らかの人物を表わすと考えたとしても、「密矩」=「尉越」の息子、と
考えるのはかなり無理筋であることを指摘しておきたい。
実は、本ページにおいてはむしろこの部分が重要な点となってくる。
そこでこの点について、①語義・文法的な検討②家の継承、の
両面から考察してゆく。
①語義・文法的な面における不自然さ
その点についての浜名氏の結論を正しいとするためには、ⅰ)密矩は日本語の「御子」と全く同じ、
かつⅱ)漢文で単に「密矩を養って」といった場合に、それを「尉越のお子を養って」と読むことは問題ない、
としなければならない。
しかし、
ⅰ)
「密矩」を単に普通名詞である「御子」(尊い子、のような意味)と考えるとおかしなことになる。
というのも、
38章で督坑賁國密矩が「殷の密矩王」と呼ばれているのが「御子王」となってしまい、説明し難くなるから
である。密矩とは、一種の尊称的な意味合いをもつ特殊な名称として、(固有名詞的に)使われているのであり、
単純な普通名詞ではない(御子と意味上関係があったにしても)。
ⅱ)
仮にⅰ)の点に眼をつぶって、密矩を単純に「御子」の意味と解釈したとしてもまだ問題がある。
28章の尉越を人物と解した場合に、尉越の御子を殷叔(箕子)が養子に迎えたと
いうのなら「尉越の御子を」とか「其の御子を」といったようにだれの御子かを明示しないと、漢文としては
珍妙な文もしくは拙劣な文になる。
「尉越という人が何々するに当たり、(殷叔は)御子を(殷叔の)養子にした」
という文の「御子」を「尉越という人の御子」と読むことは、日本語としてもやや大雑把な感じの文として
文脈によっては許容される程度であろう。まして、当然に漢文としてOKというにはほど遠い。
また、尉越という肩書の人物の子を養子にするといいたいのなら、そもそも、別に「密矩」という東族語を使わずに、
「養其子為嗣」(その子を養いて嗣となす)のようにすれば足りるはずである。
ⅰ)ⅱ)より、浜名説はとうてい採ることができない。
密矩を単純に和語の「御子」と同義と解する浜名氏は、督坑賁國密矩は督坑賁という国の御子かもしれない
としている(浜名 溯源p.557, 詳解p.271参照)が、同様に無理がある。
自分としては、「密矩=特別美称」説を強調しておきたい。
上記ⅰ)の通り、密矩というのは一種の美称的な名前であり普通名詞ではないことからすると、
督坑賁國密矩というのも、密矩の、より正式な雅称の類で、神子号に類する特別な美称なのであろうと解される。
契丹古伝に頻出する6文字の神子号の一種とみたほうが自然である。
②家の継承の面から見た不自然さ
殷が本宗家である以上、他国の王子を養子にしては殷が殷でなくなってしまうという問題がある。
当時、殷の王族が絶えてしまったとは考えられない。それにもかかわらず他国の王子を養子にすると
いうことは、そこで王朝が変わったことを意味するから、もはや辰沄殷とはいえなくなってしまう。
しかし、30章においても辰沄殷は 鞅委王や東表からの崇敬を受けているし、
40章で「ああ辰沄氏殷」と惜しまれていることからすると、そのような王朝交代はありえない。
(督坑賁國密矩の代から非殷系に血統が変わったのであれば、40章の場面において、もう一度
同じところから養子を迎えれば万事解決し、40章の嘆きはなくなるはずであろう。)
以上より、「密矩」=「尉越」の息子と解釈することは、①語義・文法的な面②家の継承の面、の
両面からみて妥当でない。
自説では、「尉越」=「聖座」と関するので「東に動座する直前に」殷叔が殷の王統に属する密矩を
養子にした、となる。
仮に、「尉越」=「何らかの高貴な身分をもつ高官」と解したとしても、
「その高官が東に移動・出陣する直前に」殷叔が「殷の王統に属する王族の一人である密矩」を養子にした、
という解釈になるはずである。
以上
[注2-1]隣国のサイトのように違う解釈も・・
隣国のサイトでは、「尉越の将」なる人物がその御子を(殷叔の)養子に据えたと
解釈している。①将は「まさに~しようとする」の意味。大将などの将ではないから、まずこの点で誤り、
②御子をその尉越の将なる人物の養子とする点は本文に記したように誤り、
③「嗣となす」の主語は殷叔その人である。尉越の将がいかに実力者であったとしても、その人物が勝手に
殷叔の養子を決定し決着させるという表現は、常識外の不謹慎表現として、採ることはまずもって
不可能であり、その点においても誤っている。
[注2-2]「之」という言葉をいれることで・・・
今 Aが主語を表わす名詞、Bが動詞としたときに「A、B」(AがBする)のA、Bの間に「之」
を挿入すると「A之B」(AがBすること)の意味となる。
英語でいえば「that A B」「A's Bing」のような感じである。後者のは学校英語的であまり使われないが
イメージとしてはわかりやすいと思う。
契丹古伝28章ではBにあたる部分が「将~」(まさに~しようとする)という言い方、(英語でいえば
(「be about to~」 「be going to~」)
なので少し難しいがこれが「B」の部分へ入る。
したがって「A之B」は「Aがまさに~しようとすること」となり、それ全体に「時」を表わす前置詞的な
「当~」が冠せられる形となる。
結局「AがまさにBしようとするとき」という意味になるわけで、
英語でいえば「when A is going to~」もしくは超学校英語風にいうと(何々する時に
を意味する「on ~ing(動名詞)」を使ってみると)
「On A's being about to (move around)....」のような構造の表現となっている。(←かえって難しくなって
しまったかもしれないが。)
[注2-3]ここでの浜名氏の論法は・・・
天孫{(邇邇藝命)}凱旋の間際に殷叔が、殷の社稷
の主に{(=殷の新当主として)}{天孫の}皇子を請ひ申して猶子と為したといふことは、転た又驚愕すべき史実である。
(浜名 溯源p.559, 詳解p.273)
※ここでは「請い申して」という浜名氏の補足があるため「天孫の」皇子と明示してなくても日本語としては理解できるが、
原文にはそのような補足はない点に注意されたい。
[注2-4]「邇邇藝命」だからこそ「尉越」・・・
ちなみに、尉越は「上」としつつ、「上=邇邇藝命」ではおかしいから、
殷叔こそ「お上」として尉越になるので
はないかという解釈は採れない。なぜなら、殷叔が殷叔として言及された直後にすぐに別の称号で言い換え
られるのは漢文として奇妙な表現になってしまうからである。
(本稿において、引用文中、茶色で表示した振り仮名があればそれは引用者が付したことを明示したものである
(現代仮名遣いを使用)。)
引用文中{ }で囲った部分は引用者による補足である。
なお、漢字について旧字体を新字体に改めた場合がある。
別ページ終わり
2021.04.09初稿