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「殷叔(箕子)の養子「督坑賁國密矩」の正体は『紂王』の皇子である」
という論考の一部分である。
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大陸残留東族のメンタリティーについての 覚え書き
顧頡剛氏は殷朝に対してかなりの思い入れがあることが推察される。その一方で、
顧頡剛氏は戦時中激しい抗日活動を展開したことでも知られており、反日宣伝ビラを自ら作成して配った
ほどだという。このことはどう説明できるのか問題となる。
結論的なものを少し単純化していえば、大陸に残留した東族のメンタリティーには2種類あり、片方については
反日になることもありうるということになるが、以下ではその「反日」になりうる方のメンタリティーについて
取り上げていきたい。
契丹古伝は、それ自体がある意味政治的問題を秘めた書物であるが、筆者は今まで政治的問題に
直接関わるような論及はできるだけ避けてきた。浜名氏の説を紹介する程度にとどめてきたつもりだ。
ただ顧頡剛氏があまりに抗日活動家として知られていたことから、若干この問題を採り上げざるを得ないだろうと
考える。
顧頡剛氏が、殷朝や殷系諸国にシンパシーを感じていること、周について冷たい態度を採っていることが
氏の論文「周公東征史事考證」からは察せられるのであるが、ではなぜ東族の日本に対して
厳しい態度をとるのだろうか。
彼の行動を追ってみると、大体のところは想像することができる。
辺境に関心があった顧頡剛氏が依頼を受けて1937年から1938年にかけて
西方の甘粛省へ教育状況の視察に出かけた際の様子を記した、
氏の『西方考察日記』には、氏が卓尼(現在、甘粛省甘南チベット族自治州内)に滞在した1938年5月20日の
こととして、以下の記載がある。
ついで、[柳林]小学校に行き、教導隊及び小学生に向かって挨拶をしたが、話の内容は次の通り。
この地方は番民地区で、諸君には番籍の人が多く、諸君の家庭の生活は漢人と相違があるでしょうが、
[国民と言う]団体としての生活はもはや全く同じです。また「番」というのは「吐蕃」に由来するが・・・
(中略)元・明時代以来、ラマ教の勢力がひろがって、この地方の人々の生活も蔵化し、・・・
諸君は「蔵民」とされてしまいました。しかしその根源にさかのぼれば、「番民」「蔵民」と言っても、
その初めは実は「羌民」であります。
羌民のうちのラマ教を受け入れたのが「番民」で、この地方の人たちがそれです。
羌人と漢人との交渉は三千余年来のことで、漢人の中には少なからず羌人の血が入っており、
その最も明瞭なのは姜姓です。「姜」が「羌」と同じであることは、現代の学者によって定説とされています。
最も有名な姜太公(太公望呂尚)のことを、きっと諸君は知っているでしょう。このほか申・呂・斉・許の諸国も、
みな姜姓の分派です。だから諸君、どうか「番人と漢人は[別種だから]対等の地位に立つべきだ」などど
考えないでいただきたい。
歴史上の事実によって国族(中華民族)を融和させることは、実にこの時代の切実な要求であり、
私がその先触れをすれば、きっと彼らの共感をよびさますにちがいない。
(小倉芳彦『抗日戦下の中国知識人ー顧頡剛と日本』筑摩書房 1987年 p.218-p.219)
このように辺境に関心があるといっても、氏はそれこそ「(漢民族への)同化」を推奨するような
講演をしているのである。
契丹古伝の立場からすれば、チベット族も非漢族として「東族」に含まれるから、顧氏のような態度は
もってのほかということになる。
つまり顧頡剛氏は、殷も周も「中華帝国」の一部であり、その枠の中で支配者が交替したという、中国の「常識」
的立場に立っているに過ぎないのである。(氏は「中華民族は一つ」という文章も書いている。)
「東族を呑みこんだ西族」の国である巨大な「中華帝国」を想定し、その国の中に西族の文化も東族の文化も
含まれていると捉える考え方である。
実際、蒙古族の文化も満州族の文化も、中国の文化の一つとして一体として保護するという建前が現在実際に
採られていることは周知である。
この考えに立った場合は、主流の文化は西族的文化であっても、国に忠誠をつくすことにより、
その見返りとして、政策として東族的文化を含む文化への保護も得られるというアプローチが採られうることになる。
そのようなアプローチを指向する場合、外部から中華秩序を破壊する者はたとえそれが東族であっても
悪ということになる。
このようなアプローチは、西族の文化に呑まれた大陸残留の東族が
自らを守るために採る方法の一つとして止むを得ない面があるとはいえる。
契丹古伝の立場からすれば、殷から周への交替により、「東族」の支配すべき「五原」が「西族」の手に落ち、
中原を中心とする「五原」は辰沄氏の国ではなくなったことになるのだが、
顧氏らの立場においては、東族と西族を渾然一体として捉え、中華・華夏は一貫して継続していると捉えるため、
五原は一貫して中華民族の支配者の下にあり続けていることになる。(いわば「混族本宗家」が大陸に継続している
と捉える考え方、と言えるかもしれない。)
中華民族や赤県神洲は一貫して失われていない以上、その中華秩序に従わない、特に日本のような国は
いわば宗主国に従わない忘恩の国ということにしかならないのであろう。
東夷といっても辺境の蛮族より大陸の自分の方が本流に近いという思いもあったかもしれない。
いわば中華秩序の埒外にある日本のような国に侵攻されるということは、
大陸残留の東族が苦しみながら継続してきた権利確保行為の蓄積を無にすることであり、いわば
中華秩序の放棄につながるものであるから、絶対に受け入れられないということではなかったか
(大陸残留東族への配慮が足りないという思いもあったかもしれない)。
顧氏は地主階級の出で、伝統的な知識人の家庭に育ち、代々周族系の学問・文化にも親しんできていることから
すれば、彼の視点は「渾族(混血族)」的なそれであり、東族を含めた「拡大漢人」としての
アイデンティティを主張しているとみられる。
純粋に東族の文化のみを重視できないのであり、周の文化も含めた中華の概念を重んじる考えを
持っていると見られる。
ヨーロッパの例を挙げよう。
フランスという国の所在する地域の大部分はもともと『ガリア戦記』で知られる「ガリア」であり、
ローマ帝国の支配を受けたケルト系の国であって、
中部ヨーロッパのフランク族が少数流入したために「フランス」の名が付けられたものである。
フランス語がラテン語に似ているというのは、ケルト人がローマの支配時にラテン語の影響を強く受けたことに
由来する。
血統的には彼らはかなりケルト的なのであるが、彼らはローマ帝国の文化の継承者という意識を強くもっている
から、自らを文化的国民(いわば「ローマの市民権保持者」)として誇り、ケルト系も相当多いイギリス人を
見下す傾向にあることは周知である。[ブリテン島のケルトと呼ばれてきたものが、実は大陸の
ケルトとは関連性が薄いという議論もあるが、少なくともブルターニュ・ブリトン人等々、一定の関連性はあろう。]
これと同じで、血統的に東族的であっても、混血族の中華文明の正統なる継受者という意識を強くもっていれば、
中華文明に従わない東族の国=日本を毛嫌いすることはありうるのである。
ただ、そのような人たちが、同時に、中国内に残存する東族的文化の保護を実現したいという気持ちを強く持つ場合、
その希望は国に対する文化保護・認知の要求というアプローチによって図られることになる。
顧頡剛氏の「禅譲伝説起於墨家考」という論文には(『古史辨』第七冊下所収)
次のような一節があるという。
秦漢の統一によって皇帝権力が日増しに高まるにつれ、墨家は存在の余地がなくなり、
その巨子制度は秘密社会でのみ採用された。
(小倉芳彦「現代中国と中国<専門家>」(『小倉芳彦著作選 2』論創社 2003年所収 p.317)
(初出は『思想』523号 1968年))
城郭の防備などを請負う特殊な集団といわれる墨家集団のリーダーを巨子といい、
墨家思想を行動指針としていたのだが、秦漢以降墨家思想の衰退により非公認の存在となった。
現代の学問でも非公認のもの、地下に潜ったものは存在しないものとして扱われがちであるのに
あえて「在るものは在る」とする顧頡剛氏の主張は印象深いものだとされる(前掲書p.318参照)。
もちろん、これも、より一般化して捉えれば、顧頡剛氏は権力側から遠ざけられ地下に潜った
文化に焦点を当てているのだということもできるのは確かである。
すなわち、戦国時代や秦・漢帝国以来、統一的国家の下で、階級社会を前提とはするものの、
文化の多様性はその階層性の中で保持されてきたといえる。その多様性を掘り起こすことによって、
現代国家が陥りがちな画一性に対して抗うのが
顧頡剛氏の本心だったという見方ができるという考えには非常に鋭いものがあると自分も考える。
ただ、顧頡剛氏が掘り起こすものの多くは、社会のどちらかというと下の層に埋もれたもので
しばしばそれは「東族」的なものなのである。
実は上記の墨子思想も、ここでは詳細を控えるが、その担い手からみてもやはり東族的なものといえる。
顧頡剛氏は、伝統的な史書の記載を疑い、近代的な歴史研究の手法を追求した「疑古派」の代表とされるが、
実はこの裏にある目的は、古典にしばしばみられる儒教的な粉飾をとり払うことによって、
西族である周の権威に密接した、西族的文化への傾斜を少しでも軽減することにあるのではないかと思える。
このように顧頡剛氏の目は東族へ向いているのであるが、東族保護のための氏の方法論は、
あくまでも国家への忠誠を尽くしつつ、
もしそうしなければ得られないような文化保護の機会を国に対して求めていくというものなのだろう。
拡大した中国の文化をパッケージとして保護するという名目で国に文化を保護させることができれば、
それにより「画一性」を回避できるからである。
この方法が顧頡剛氏の武器だったとすれば、外敵に抵抗するのはむしろ当然であるかもしれない。
愛国の功績が大きい程、国に対して大きなものを求められることになるからである。
顧頡剛氏の反日はこのように説明できるのではないだろうか。
ただもちろんそれは、契丹古伝が前提とする考え方とは大きく異なるものである。
そして上記のチベット講演の例に見られるように、氏の考えは西族文化への「同化」を
一定程度受容することを前提としたものといえよう。
もちろん、顧氏のような考えの人ばかり大陸にいると言っているのではない。
大陸残留東族の子孫でも、周や周系の文化(西族=漢族の文化)への執着が少ない人は、また違った考えに
なるはずである。そのような人も多数いるだろうと思われる(ただ彼らも、心中複雑であろうとは思われる)。
またそれに加え、日本に対する捉え方・位置づけにしても、種々のブレがありうることから、
その面でも様々なメンタリティーが生じることは当然であろう。
以上
2021.04.09初稿