このページは、
契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(トップページ)
契丹古伝(東族古伝)本文 (全文)と解説(本文解説ページ)
のサイト内附属ページである。検索等でこのページに直接こられた方は、↑のページをまずご覧頂きたい。
※当ページは暫定版
浜名寛祐氏が日露戦争中に満州の奉天の寺僧から見せてもらった巻物(契丹古伝)は浜名氏も述べているように
その十数年後に同寺を覗いたときには発見できず、元の持ち主のもとに戻ったのではないかとされる。
ただ浜名氏は当初作成されたその写し一巻をなくさずに持っていたので、浜名氏はこれを研究した。
当時は朝鮮が日本領だったため、朝鮮半島の民と日本人が同祖であるという「日韓同祖論」が盛んであったが、
浜名氏は浜名氏なりの日韓同祖論を説く彼の著書の補強材料としてその著書の後半部分に原文とその解説を
収録した。この彼の著書の書名が『日韓正宗溯源』である。
というのも、契丹古伝はより広い範囲の同祖を説く建前をとっているので、日韓同祖論の補強にも使えるからである。
(ただし彼の本音がどうだったかについては檀君問題のページや本文18章の解説を参照。)
もちろん、契丹古伝的な神話の共有関係があったにしても、血統面でどの程度関連があるか、王家同士はどうなのかなどは、
読む人の解釈次第という面はあろう。
それ以外の点についても解釈に幅はありうるけれども、自分の見解では原文を丹念に読みこみ、関連する概念を追求する中である程度
一定の枠内に自然と収まってくるので、融通無碍な我田引水的解釈は本来不可能ということになる。
しかし、自分の願望・世界観を極度に優先させて、単なるその表現に契丹古伝を利用しているとしか
いえないものもある。その中間も、もちろんありうる。
本の中に「契丹古伝に~と書いてある」と断定されていても実は「ただの特殊な解釈」に過ぎない場合があるので要注意である。
以下の文献リストは、そういう意味で玉石混淆であるが、解釈にどのような幅が生じているかの参考となればと思い作成した。
契丹古伝についての解釈を取り上げているものであれば主なものについては掲載を検討する方向で考えてはいる。
「溯源」は「さくげん」または「そげん」と読み、正確にはそげんが正しいが、本書の場合慣用読みの「さくげん」
で呼ばれることが多い。
なお、「正宗」は、「せいそう」と読む。「宗」は「本宗家(ほんそうけ)」の「宗(そう)」と同じだからだ。
『ムー』2022年5月号の記事(関連文献ページ参照)においては正宗をいわゆる呉音読み(仏教語等に多い)で読んでいるが誤りである。
◎戦前出版されたもの
このページでは戦前出版された書籍のうち、浜名氏関連のもの4点と、戦後出版された書籍について紹介した。
その他の戦前出版書籍については、契丹古伝関連文献(戦前版)に記したので参照されたい。
◎浜名寛祐『日韓正宗溯源』喜文堂書店 1926年
(国立国会図書館デジタルコレクション[一般公開])浜名寛祐『日韓正宗溯源』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/169
※デジタルコレクションの閲覧にはPCの場合最新版に近いブラウザーが要求されるので注意。スマホではほぼ問題なく閲覧可能。
(もしくはその復刻版である『神頌 契丹古伝:日韓正宗溯源』八幡書店 2001年)
この本から全ては始まった。上記解説参照。後半部が契丹古伝の本文と解説となっている。
当サイト内で既に指摘しているように、浜名氏は始源の地たる日本から日孫が満洲方面へ降臨(船で移動)し、大陸の東大古族の祖となったとし、
日本にはもともと本家としての王家があったという立場である。このような立場を採る他の研究者はだれかというと、
戦前の研究者は基本そうであろうが、戦後は少なくなっている。高橋良典氏の本の中にはそのような立場を採るものがあったかもしれない。
ただ、別の構成により、本宗家、もしくは準宗家的なものが日本列島に入ったとする考えであれば戦後の説の一部に見ることができる。
また、戦後の説は、日祖の始源の地を天上界やそれに準ずる聖地とみる見解と、地球上の一定の場所に比定する見解(比定地は様々)に分類できるが、
これについてはこの下の古銀剛氏の記事(月刊ムー2022年5月号)の項目に若干記してある。
○浜名寛祐『契丹古伝詳解』東大古族学会 1934年
上記『日韓正宗溯源』の後半の、契丹古伝の部分だけを独立させた書物。
内容的には同じと見てよいが、後序(奥書)などに、日満融和へのシフト傾向が垣間見える。
なお、冒頭にあげた『日韓正宗溯源』の場合、その前半部にも、契丹古伝の内容を先取りして説明したものが
わずかながら存するので、その部分は『契丹古伝詳解』にはない。
なお、田中勝也氏はその著書で、『契丹古伝詳解』
が浜名氏の『~溯源』に比べ「より細微な検討分析」であるかのように
紹介しているが(田中勝也『古代史原論─契丹古伝と太陽女神』新装増補改訂版 批評社 2012年p.45)これは全くの誤解である。
○浜名寛祐 原訳、有賀成可 編述 『契丹古伝』(契丹古伝本文)東大古族学会 1933年
(国立国会図書館デジタルコレクション[国会図書館利用登録者(本登録)限定])浜名寛祐・有賀成可『契丹古伝』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232554
※登録者限定と書いた(web本登録は可能)が、このタイプの場合国会図書館の公共図書館向け送信サービスに加盟した公共図書館等のPCでも閲覧可能。本サイトでは他の本については※以降の部分の注記を省略する。
『契丹古伝詳解』内の広告では『契丹古伝本文』と呼ばれている本で、契丹古伝の本文を中心に据え、
簡潔な解釈(浜名説の要約的なもの)を有賀氏が付したもの。40ページ強の小冊子。
有賀氏は浜名寛祐氏の忠実な弟子のような人で弁護士。
耶律羽之(契丹古伝著者とされる人物)の苦労も日本族によってむくわれる時期が来たという趣旨の勇壮な序文が
有賀氏により付されている。
※検索サイトで契丹古伝で検索した場合、この本がしばしば
表示されるので誤解を招きやすいが、そもそも契丹古伝が浜名氏によって
最初に解説されたのはその本ではなく『日韓正宗溯源』で、この『溯源』が八幡書店の復刻版で
『神頌 契丹古伝』と改題され出版されていることに注意。『契丹古伝(本文)』と『神頌 契丹古伝』は全く内容が異なるということである。
※田中勝也氏がその著書において浜名氏発表の『契丹古伝』として
紹介している写真はなぜかこの『契丹古伝(本文)』の方となっている(田中勝也『古代史原論─契丹古伝と太陽女神』新装増補改訂版 批評社 2012年 p.44)浜名氏が最初に
契丹古伝を紹介した本の写真ではないので念のため注記しておく。
○浜名寛祐 『東大古族言語大鑑』 喜文堂版 1936年
山東省にあったかつての斉国の言葉に日本語と似たものがあり、それが
漢民族到来以前の東大古族の言語のなごりであるという浜名氏の主張にそって構成された
いわば特殊な日本語の語源説、もしくは同源論。
和語を漢字音複数の意味の連続として捉えるものが散見されるが、少なくともそのアプローチを採るものに関しては、自分的には疑問である。
◎戦後出版されたもの
○田中勝也『古代史原論─契丹古伝と太陽女神』新装増補改訂版 批評社 2012年
「古代史原論」という地味なタイトルのためかあまり言及されないが、1987年の初版刊行以来それなりに読まれ続けてきた本。
契丹古伝に見える女神伝承等の諸概念が、古代史を読み解く鍵になるというような趣旨で「古代史原論」という題名が
つけられているため、契丹古伝を正面から採り扱った本といえる。
2012年の改訂版にはその第二章「『契丹古伝』と辰の時代」に契丹古伝全文の現代語訳が掲載されており(原文は不掲載)、
その訳文自体には穏当なものが多い。(疑問な部分がないわけではない。)
神話学的な分析が多いため、「超古代史」マニアの関心をあまりひかないようだが、契丹古伝に潜む深い部分を
真面目に読み解くには神話研究は必須の作業であり、その意味では着眼点として良いものを持っている本なのである。
といっても神話の分析自体には、充分な説得性のないものが散見され、一つの仮説といった体のものが多い。
また歴史解釈の面においても、「辰」王朝の定義に問題があったり、「辰」王朝の捉え方が「辰韓」主体に傾いていたり、チベット族への言及が多いなど、
なかなか(私見では)同意しがたい点が多い。
しかし神話学の視点から真面目に契丹古伝に取り組みたい方には一読をお勧めしたい本である。
田中氏の説についての具体的なコメントは誅滅時期論や共通用語論のページに述べてあるため、このページでは省略させていただきたい。
○
Uyopedia『契丹古伝』の項 http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/契丹古伝 ←コード表示時はそれを入力してUyopediaトップページに自動移動した後もう一度左記URLから開く
([Wayback Machine版はこちら])
および
○
Uyopedia『神頌叙傳』の項 http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/神頌叙傳 ←上記「契丹古伝」の項目の中からリンクで移動もできる
([Wayback Machine版はこちら])
アクセスの際、一旦ロボット除けのための手入力を要求される場合があるので閲覧が面倒ではあるが、相当詳細に契丹古伝(神頌叙伝)
の説明が記述されており、客観的で正確な記述も多い。Uyopediaの名にたじろぐ方もおられるかも
しれないが、閲覧する価値が高く、事典的な機能も当然あって便利なページである。
○佐治芳彦 『謎の契丹古伝』徳間書店 1990年
超古代史やいわゆる古史古伝の研究でつとに有名な佐治芳彦氏の『謎の~』シリーズの一冊。
『謎の竹内文書』に比べると書店に並ぶことが少なかったように思われる。
契丹古伝の各章が浜名説の読み直しないし論評・再解釈のようなスタイルで説明されていく。
浜名本において原文の訳に相当するものは
漢文の読み下しであり、当然ながら漢文調の文語であるが、佐治氏の本では58ページから
174ページまでに分散する形で、原文の各章全部が口語訳されている。
浜名氏が独自に付加補足した部分の引用・解説がかなり多いため、契丹古伝固有の部分がどこなのか
分かりづらい面がある。しかしそれなりに、浜名説が口語文で紹介されているという形にはなっている。
ただし、ところどころ佐治氏の独自色の濃い解釈を交えて進行する。これは契丹古伝の解釈本ではよくあることで特に不思議なことでは
ないが、独自解釈部分のイメージがしばしば強烈なため、初心者が契丹古伝の像を描く上で戸惑いを覚えるので
はないかとも思える(日祖が神祖を産んだ場所をタリム盆地とする、神族の拡散を人種発生論に拡張する。
また契丹古伝をオリエント史観で解釈する図式を否定する一方でヒマラヤをキリコエアケの宮
「シラマヤ」の原点とする見解を採る、等)。
正直読み辛さを感じる時もあるが、契丹古伝の難解な表現を浜名氏の解釈を下敷きにしながらもより普遍性のある
歴史解釈として読み解こうとされる佐治氏の意欲的な試みとはいえそうである。
(確かに色々なレベルに敷衍して論じたくなる気持ちは分かるし、種々のレベルを混在させると分かりにくくなる
のも自明の理で、自分のサイトにもそのような所があろう。)
4章について、「日孫の一族が万方に散ったということは、人種の発生を意味している」とされ、
3章の日孫の天降は、単なる東大族の始祖伝承以上のものを示唆するとしている。日孫の生まれた
「東大海」は人類発生の原点に位置し、それがタリム盆地にかつてあったタリム海だとしている。
そして日孫の子孫はタリム海の西方のパミール高原に居住し、そこから東方(モンゴロイド)、
西方(コーカソイド)南方(ネグロイド)へと拡散したとしている。これは佐治説独特の解釈である。
16章の原文においては日孫が(二大宗家発祥の地のどちらかから)西方に進出し山東方面に攻め入るが、
ここで日孫に協力する3人のアケについて、浜名氏はサカアケについては日孫の子とすると共に(溯源p.578[詳解p.292]の2行目)、
3人が各通過地の地主神的なものとなったとの説を出している(溯源p.416[詳解p.130]の10・11行目)。
ところが佐治氏はこの3人は日本・朝鮮・遼東から一人づつ渡海したものだとする。
なぜそうなるのか、状況的に全く合致せず不可解である。
19章において日孫が日祖のもとに帰還した理由を寒冷化によるものとし、五原(中国本土)よりの撤退と捉えて
いる点も独特で、璫兢伊尼赫琿の時にようやく撤退先の雲南から五原に戻ったしたことになるとされている。
これはさすがに誤りといえよう(五原は一貫して日孫の子孫が統治し続けているはずである)。
五原からの撤退先の高天原を雲南とするのは氏独自の説。そもそも五原に進出したのも雲南の
高天原からとするが、パミール高原との関係が明確でない。
40章の「末合」(浜名説ではイヨトメの最後の移動先とされる)について、
浜名説ではこれを「マッカツ」と読みいわゆる靺鞨(=韎韐)にあてる。
佐治氏は①浜名説の他に②鹿島説(末合=ミマナ)も紹介しており両論併記の形となっている。
イヨトメについて佐治氏はこれを浜名氏と同様に邪馬台国の女王壱与のことと解するが、
①とした場合彼女は「おそらく狗奴(狗邪)国との主導権争いに敗れ、旧邪馬台連合の地から
マツカツに逃れた」とされ、もし②の場合
「ミマキイリヒコ(崇神天皇)は、そのイヨの子か、孫ということになるかもしれない」と推定している。
(佐治氏が②で採用するのは場所の解釈の部分のみであって、イヨトメのそれ以前の事跡について鹿島説に同調しているわけではないと考えられる。
また鹿島説(鹿島新説)自体は崇神天皇とイヨトメとの間に近しい関係を想定していない)。
それにしても、全体として漢語を多用した浜名氏独特の部分の引用・解説がかなり多い。
浜名史観に対する論評のような性格もあるため、何が契丹古伝固有の部分かが判別しにくく、
初心者向きとは言い難い本である。
しかし漢民族論など筋を通した仕上がりにはなっているので、入門書として読むのでなければそれなりに興味深く読めるかもしれない。
なお、佐治氏はより以前の著書『謎の九鬼文書』(徳間書店1984年)においても契丹古伝に
ついて短く言及しているが、そこでは鹿島旧説に影響された説明が目につき、上記の著書の説明とは
異なるので注意されたい。(15章のキリコエアケを沖縄のシャーマンとし、シラマヤを沖縄の首里
にあてる等)。
○古銀剛 「奇書『契丹古伝』が語る日本人のルーツ『辰国』の謎」(『月刊ムー』2022年5月号
ワン・パブリッシング 2022年 p.112-p.117)
(関連ページ:奇書「契丹古伝」が語る日本人のルーツ「辰国」の謎/古銀剛
(『ムーPLUS』内ページhttps://muplus.jp/n/n87f572c71b0d?gs=d253ca19f2d5)
([Wayback Machine版はこちら])
)
(関連動画:奇書「契丹古伝」が語る「辰国」の謎 MUTube(ムー チューブ) 2022年5月号 #7 YouTube
https://m.youtube.com/watch?v=GdPE_BpiGkM
)
2021年11月にNature誌に掲載された
マーティン・ロベーツらによるトランスユーラシア語族仮説「トランスユーラシア語の農耕拡散が三角測量により裏付けられた」
と『契丹古伝』とを結びつけて紹介する記事である。
上記動画内でムー編集長の三上丈晴氏は、同仮説を単純に「太古の日本人が遼寧にいた」、と説明され、同じことが既に『契丹古伝』に書かれていたという趣旨のコメントをされている。
同仮説はトランスユーラシア語族の言語のルーツが約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで
たどれるというものである(それ以前に出たいくつかのロベーツ論文を発展させたもの)。
トランスユーラシア語族仮説については
・
「農耕/言語拡散仮説#トランスユーラシア語族」(日本語版『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E8%80%95/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%8B%A1%E6%95%A3%E4%BB%AE%E8%AA%AC#%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E%E6%97%8F
)
・
「農耕/言語拡散仮説#日本語族」(日本語版『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E8%80%95/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%8B%A1%E6%95%A3%E4%BB%AE%E8%AA%AC#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E6%97%8F
)
・
大きな修正を迫られる「農耕/言語拡散仮説」、インド・ヨーロッパ語族の起源をめぐる論争の行方
(http://www.jojikanehira.com/archives/11785262.html
日本語の意外な歴史サイト内)
などを参照されたい。
編集長の話からすると、一見単純明快な話のようだが、実は背景に複雑な事情がひそんでいる。
同仮説と契丹古伝とが当然明白に結びつくとまではいえず、一定の前提をプラスしないといけないのだ。
詳しく説明すると煩雑になるので、関係する点をいくつかピックアップしておきたい。
まず、契丹古伝の伝統的解釈である浜名説においては、日孫スサナミコ誕生の場所を地上の具体的な場所(日本)と
する。そのため、現実に日本から遼寧に降臨したという解釈を採った場合、種族の拡散の基点は日本ということ
になるはずだが、トランスユーラシア語族仮説の場合は「遼寧のとある農民」を出発点とするので、浜名説と
両立しない
ことになる(しいていえばその農民の推定DNAとそっくりなものを同時期の日本から探せれば別だろうが、
そのような話には当然なっていない)。
要するに、日祖の始源の地である日孫誕生の場所を日本に限らず地上の具体的な場所とする限り、上記仮説とは基本的に適合しない。
日祖の始源の地については佐治芳彦説(タリム盆地)や浜田秀雄説(奄美の加計呂麻島)などもあるが、これらとも適合しないだろう。
一方自説は、神話論で述べたように、日孫は天上界的な場所で生まれ、直接降臨したと捉える(この点
田中勝也氏と同じ)ので、トランスユーラシア語族仮説と適合する可能性が出てくる。
しかし、適合するためにはさらに次の条件を満たさねばならない。
それは、スサナミコの降臨地を遼寧の「医巫閭山」にするということである(契丹古伝第5章参照)。
トランスユーラシア語族仮説ではそのあたりが拡散の起点とされているからだ。
この点について見るに、田中勝也氏は、降臨地についてやや煮え切らない表現をされているが、医巫閭山の名を挙げているので、
まあ適合的といえる。一方自説は、15章の解説にも少し述べたが、各民族独自に比定地が設定されるという
ことも有り得る(その意味で原文一部修正の可能性を認める)と考える立場なので、少し違うのだが、
ただそれでも遼寧は拡散の重要地点の一つであるとは考えるので、その意味では適合的といえる。
一方浜名氏は降臨地を白頭山とし、佐治氏はパミール高原とし、
鹿島氏は5章の降臨地をメソポタミアにあて、浜田秀雄氏は3章では加計呂麻島自体に降臨、5章
では別系の人々がベトナム方面から九州へ入ったことを降臨とするので、いずれも同仮説と適合しない。
古銀剛氏は本文の中で「結局、浜名の解読によれば、『契丹古伝』は日本人と日本語のルーツが
中国東北部にあることを実証するものであった。」とされるが、「浜名の解読によれば」の部分は全くの誤り
である(『契丹古伝』を単純に読めば、のように修正すべきであろう)。
何か辛口になってしまったが、日孫の誕生・降臨について神話学を重視する当サイトは、その部分は
田中勝也氏にも近いので、契丹古伝とトランスユーラシア語族仮説の関連性について大いに論じられそうな立ち位置
にあることは確かである。なので、このムー誌の記事が無駄ということではなく、
単に今まで契丹古伝の解釈を出版した人の中に、シンプルな読みをする人がたまたま少なかっただけである。(注A参照)
久々に契丹古伝に人々の注目が
集まったこと自体は貴重なことで良いことだと思う。
このトランスユーラシア語族仮説は、Nature誌に載った論文で興味深いものではあるが、色々問題を
はらんでおり、微妙な修正説が出されるなど簡単に評価できるものではない。
遼寧の農民が話していた言葉が、日本語・朝鮮語・チュルク語などの共通の祖先ということになる点、単純な
日鮮同祖論(浜名氏の捉え方にも通じる考え)への道を開くような形にもなっているため、自説とは実は
乖離がある。つまり、契丹古伝的な同祖論を観念的なものと捉えるか、具体的なものと捉えるか、
具体的なものとしてもどの範囲で同祖と認めるか、などによって、
同仮説との適合性の有無に影響が生じてくるのである。
自分としては、修正説なども含め、精査した上でないとこの仮説への評価ができないと思っているので、
諸手を挙げて同説を歓迎するということにはなっていない。
ただ、同仮説について、外国の学者の中にはヒステリックなほど反論する向きもあるようだが、
その反論の方にも大きな問題があると考えている(機会があれば述べてみたい)。
そのようなわけで、同仮説については、丸のみはできないが、それなりに注目はしているという状態で
あり、現時点での詳細な論評を差し控えていることを申し上げておきたい。
もちろん今後十分検討すべき必要性があるとはいえる。
(付記 古銀氏は本文中で、魏志韓伝の称号を辰韓王のものとしているが、浜名氏のいうように馬韓の辰王
の称号とすべき点につき、東族共通用語論のページを参照されたい。)
(注A 種族の拡散の起点について単純に読まない解釈者が多いという点については、
契丹古伝を他の古史古伝に似せるため等の事情もあろう。ただ、契丹古伝おもしろ話で
採りあげた文化人類学者・岡正雄氏による契丹古伝の引用は、シンプルな読みを前提としているといえるだろう。
いずれにせよ誤解を招きやすい話題であり、各解釈者が種々の配慮をしてきた苦労が察せられる。)
○原田実『疫病・災害と超古代史』文芸社 2020年
(この本の紹介は、もう少し早く掲載できたはずであったが、
原稿整理の都合上遅くなったことを諒とされたい。)
原田実氏は(色々な変遷を経てはいるものの)、
いわゆる古史古伝を鵜呑みにして信じることの非を説き、批判的な立場で繰り返し紹介されてきた方として特に有名である。
もちろん単に否定するのでなく、それらの書がもつ意義・影響等について分析されて多くの著書を出されている
(最近は否定の度合いが高まっているようにも拝される)。
私もかなりの数の著書を拝読しており、非常に参考にさせていただいている。契丹古伝についても
以前からよく紹介されていたと記憶しており、中には細かい解釈論に触れたものもあるが、古史古伝
の中で契丹古伝が占める比重という観点からか、全体の分量としては短いものであったと思う。
原田氏は以前、『古史古伝 異端の神々』(ビイング・ネット・プレス 2006年)において、
契丹古伝第15章の神子「耆麟馭叡阿解」を「満州・朝鮮を守護する白頭山の山神キリコエ」
というプロフイールを付けて紹介されていた。
少し脱線するが、このことにつき当サイトとしての説明を述べておこう。
そもそも、契丹古伝15章で、神子「耆麟馭叡阿解」は巫軻牟と然矩丹の2つの京を
治めるとされている。
巫軻牟とは、神祖が最初降臨した場所とされるから、5章の毉父、つまり中国遼西地方の医無閭山
にあたるはずだ(自説はこちらである)。
しかし浜名氏は巫軻牟のことを、不咸山ともよばれる長白山(白頭山)(檀君の父の降臨地で
檀君の出生地とされる)のことと解しており、この解釈を原田氏は採用していたと考えられる。
もっとも、耆麟馭叡阿解が満州・朝鮮の守護神であるとまで契丹古伝に書かれているわけではない
し、浜名氏さえもそうは解していない。
だから、原田氏の紹介の言い方は、
何か誤解を招きそうなプロフィールであった。檀君伝承の方に傾斜した解釈だったのかも
しれないが(檀君伝承については本文解説の15章の項目も参照)、檀君伝承においてすら、そもそも当初
檀君の父の降臨地とされたのは朝鮮にある別の山であった。
さらに、契丹古伝15章について、自説(天照大神の五男神と契丹古伝の神子との関係参照)では耆麟馭叡阿解の本来の管轄は
然矩丹のみであったと考えている。
このようなことから、白頭山の山神キリコエという言い方はかなりひっかかる言い方であった。
今回の書籍『疫病・災害と超古代史』では、内容の性格から、上記の白頭山云々の話は登場しない
ため、その点安心である。
本書には、各種の古史古伝が取り上げられているが、契丹古伝については、「災害」に関わる内容を
超えた、比較的詳細にわたる言及があるためここに取り上げさせて戴いた。
本書ではまず、契丹古伝発見の経緯と、浜名氏の著書出版とその受容について述べられた後、41章以下の
丹鶏の奇瑞・霊石発見とそれに基づく契丹の主張についての紹介・批評が書かれている。
ただ、契丹古伝の著者とされている耶律羽之について、なぜか誤植(??)があり、彼が、
(契丹が渤海を滅ぼした後)契丹が渤海の旧地に置いた「東丹国」の王だった旨紹介されている(同書p.174)が、
実際の東丹国王は耶律倍(契丹初代皇帝の耶律阿保機の子)で、耶律羽之はその大臣の一人であった。
原田氏は、耶律羽之の生い立ちについて詳細な資料を参照されているように思えるので、
耶律羽之に関する上記の妙な記載については謎といえる。
契丹古伝発見時の様子につき、原田氏は「漢字で書かれていながら通常の漢文としては読めない
奇妙な巻物」と表現されているが誤りである。この誤りについては既にUyopedia氏によっても指摘
されているところであり、読者におかれては誤解のないようにお願いしたい。
詳しくは本サイトの「契丹古伝発見の経緯」のページの注に「読めない」とはどう読めないという
ことか記載してあるので、そちらを参照されたい。簡単にいえば、固有名詞や詩など、東大古族語
の部分以外はまったく通常の漢文であり(和習漢文とか満習漢文でもない)、むしろ教養が反映された
立派な漢文であるというのが実態である。
※おそらくこの誤りの元凶は浜田秀雄氏あたりと思われる
(浜田氏の著書の表紙に「謎の契丹秘史三千字は漢字を万葉仮名式に使って書かれ」とある)
ので原田氏だけを非難するのは穏当さを欠く面がないとはいえないとは思う。ただ最近では原田氏の著書関係でこのことが
拡散しているようであるのであえて書かせて頂いた。何卒了承されたい)
(原田氏の論法だと、漢文で書かれている日本書紀も、和歌などが含まれるから通常の漢文としては読めない
とされてしまいそうだ。漢文の達者さに巻により差があるとはいえ日本書紀は一応漢文である。)
原田氏が監修を務めた『偽史と奇書が描くトンデモ日本史』(オフィステイクオー著、実業之日本社 2017年)
にも「浜名は・・原文の翻刻を掲載している。だが、表記は漢字で、しかも漢文にもなっておらず、
そのままでは解読ができない文字の羅列だった。(同書p.51)」との記載がある。
この後、本書のテーマ「疫病・災害」に関連するものとして、21章の「海漠象変」に関して、
佐治芳彦説と鹿島曻説が相当批判的に紹介されており、興味深い内容である。
ここがメインの部分のはずなので、興味ある方は氏の本を参照されたい。
(鹿島曻説については本書のテーマを超え、鹿島氏のスタンスそのものについても鋭い論評が加えられている。)
その後契丹古伝全体の簡単な要約が記された後、契丹古伝の作者が誰であるかの考察に入っていく。
要約の部分についての紹介は控えさせていただくが、読者の混乱を避けるため、やや不正確と思われる部分について念のため
言及しておきたい。
「神祖から出たとされる子孫が7つの部族に大別されている」として契丹古伝8章の7つの部族を
浜名説によって説明された後、この7つの部族がかつて
「東アジア広域を支配していた」と説明される(p.185-p.186)。
しかし、この7つの部族はいわゆるアキヒ系の部族の列挙に過ぎない。他にヤライ系・ニギヒ系・タキヒ系の
部族など(20章参照)があることが無視されているようにも思える。
主な章についての要約は浜名説に偏りすぎず配慮のなされたものであるが、40章の洲鮮記
については、洲鮮記の著者が嘆いている地点を浜名説通り馬韓の首都の廃墟(平壌)としている。
これは自説とは異なる(本文40章解説参照)。
ところで、この契丹古伝を契丹の伝承でなく本来渤海のものと浜名氏は解しており、
渤海のものとする理由として浜名氏は根拠を5つ挙げている。この5つの根拠を原田氏は要約された上で、
これだけ疑問を並べるということは、浜名氏にとっても謎めいた文書だったことの表れではないか、
(p.190)として、浜名氏による偽作であれば、最初から渤海の文書として書いたはずと述べられている。
当サイトでは、本宗家論などにおいて浜名氏が偽作したとは考えにくいという
ことは既に説明している。浜名氏の偽作ならば、あのような無理な解釈をする必要はないからである。
それゆえ、原田氏とその点の結論は同じということになる。
ただ、前提とされた5つの根拠の捉え方
に関しては、「謎めいているから」疑問を並べているというのではないと自分では考えている。
契丹古伝の主張に不満があるから批判をしているという趣旨が強かろうと思う。
具体的に書くと長くなるので、別ページにすべきだろうとは思うが、少しだけ書いて置きたい。
浜名氏のあげる4番目の根拠は、40章の洲鮮記の感慨は渤海に帰すべきというものであり、
また、5番目の根拠は、神頌も馬韓から渤海に伝わったものでこれらも渤海に帰すべきというに
ある。しかし、これらは浜名氏の40章のイヨトメ靺鞨移動論からきており、基本的には無理な
解釈である。また、本当に魏志掲載の馬韓の辰王の称号が渤海に伝わったといえるのか、詩形などを
考慮すると単純に肯定できるか疑問なしとしない。
また、その他の根拠も含め、(辰沄)殷への帰属という観点が抜け落ちているように思える。
自分としては、渤海使の烏須弗と関係する第7章など渤海に関係する資料がみられるから渤海系資料が
多く使われていることは認められるとしても、浜名の理由づけは何かことさらに契丹の主張
(とされるもの)を否定するためになされたものと思えてならないのである。
浜名氏にとっては、契丹にこそ本宗家の継承権があるという契丹古伝の建前は認められない
ので、そのために契丹を必要以上に悪くいうことにメリットがあったわけである。
浜名氏が、46章で、契丹の神宝を鏡とせず兜と解釈した(皆これを信じてしまっているのであるが)
のも、そのような意図からである可能性がある。
それゆえ、「謎めいているから」疑問を並べているとは限らないという指摘はしておきたい。
細かい点といえば細かいが、浜名氏のポリシーに関する点なので、原田氏を批判する意図ではなく、
補足的にここに述べておいた。
この後の部分で原田氏は契丹古伝の真の作者について具体的な説を建てておられ、
興味深い記述をされている。
いずれにしても自分としては、この書を編むにあたり、かなり古い資料も使われていると考えている
ので、全てを明治期以降に簡単に偽作できるものではないと考えている。
神子号などに、日本の神々にも近い名称があることは当サイトで指摘していることであるが、
これを清朝末期の人が述作できたとするなら、その人はなぜそのようなことができたかという
ことが問われなければならないだろう。
なお、浜名氏の読みと解釈を紹介される中で、第3神頌の最後の一句をむらしこなるめ と読み、
大勢の戦士を招集すると訳されているが、浜名の読みはむらしこなもめ
で、浜名訳は「異族をも治しめす」なので、原田氏の記載は独自の解釈なのであろうか。
○浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』新国民社 1977年
倭人のルーツをインド・東南アジア等南方の諸地域に求め、そこから複数回にわたり弥生時代の日本に人々が流入した
とする独特の浜田氏の史観にもとづく日本人形成論と邪馬台国松山説を説いた書物。インドからも複数の王朝の人々が渡来
しており、そのうちシスナーガ王朝が契丹古伝の神祖の系統なのだとされる。
氏は邪馬台国の位置を解釈するのにいわゆる古史古伝に含まれる『上記』『宮下文書』の他に「契丹古伝」を
『契丹秘史』と呼んで利用しており、第三部「『契丹秘史』注解」に契丹古伝の全文と簡単な注釈を載せる。
読み下し文や漢字の読みは浜名氏のものを若干修正している。
浜田氏は語呂合わせを多く用いるが、その際漢字の読みを音訓ないまぜにするので、ある意味「なんでもあり」な
解釈が散見される。(自説の場合、契丹古伝は基本漢文なので、その部分については万葉読みのような音訓混合は
ないと考えている。)
神祖をインドのシスナーガ系とし、神祖の子孫の範囲を狭く解するため、神祖の子孫が東大古族という枠組みは有名無実となる(檀君もシスナーガのダルシュアカに由来するとされる)。
それゆえ多種多様な種族が登場しうるが、
弥生時代の主役はインド人と越人で契丹古伝にも主にこれらの民の活躍が描かれているという。
契丹古伝1~4章はアメミ(天孫)系で閩越出身アメシウ(天照)氏とされ、神祖とは別系とするなどの原文無視が見られる。
5章の二宗はシスナーガとは別系の越王(ツクヨミの命等の)系統で毉巫や鞅綏の所在は九州だとされる。
辰国はインドのナンダ系で奴国・イザナギの命の系統、
14章のウサハミコメは南越系ヒミシウ氏でイザナミの命の系統だという。
2・3世紀にまたがる倭国大乱は邪馬台国(南越系ヒミシウ氏)・
狗奴国(昔 浙江省から九州南部に入った勢力)などの連合が侵入者側高句麗軍(神武天皇もこの一族)[百済(ルーツはインド)の軍(アメミ系を捕捉していた)
等が助力]を降伏させた事象を指す
とする(高句麗の出身地はゴビ砂漠付近とする)。
もともと奴国を含む北九州の共同の敵として高句麗が意識されていたのだという。
後に倭国大乱はタブー化され、かちかち山の話になったのだとか。
契丹古伝11~15章『汗美須銍』各章を超古代のこととせず、時代を引き下げて解釈する手法は鹿島氏にも引き継がれている
(当サイトでは否定に解する)。ただ浜田説の場合シスナーガ系・狗奴系・ベトナム系
が高句麗を占領したというような内容を含むので鹿島説とは別である。
※この本の表紙で「謎の契丹秘史三千字は漢字を万葉仮名式に使って書かれ」
とあるのが間違いである点につき、原田実氏の著書の項目(本ページ内)参照。
鹿島曻氏もこれを受け継いだものか、誤解を招く表現(「本書は契丹文を漢字によって記録するという『万葉集』と同一の様式をとっている
(鹿島曻『北倭記』p.55)」)をすることがあるがあくまで三千字のごく一部分の東大古族語の部分であり、しかもそれは決して「契丹文」とは
いえまい。
佐治芳彦氏の表現についていえば「{契丹秘史は}漢字で記されているが、漢文ではなく(『謎の九鬼文書』p.126)」は間違いで、「漢字の羅列だが、といって
純然たる漢文ではなく(『謎の契丹古伝』p.16)」では改善が見られるも不正確さが残る。
○鹿島曻 『北倭記』新國民社 1986年 『北倭記要義』新國民社 1987年(前者は所蔵する図書館が少なくやや入手困難。後者は前者をダイジェストしたもの)
その独特な「鹿島史観」によって一部の人々に知られる在野の歴史研究家で弁護士の鹿島曻氏による
契丹古伝の解釈本。
鹿島氏は契丹古伝を契丹古伝の名称で呼ぶことはまず無く、時期に応じて
「契丹秘史」「倭人興亡史」「北倭記」「契丹北倭記」「契丹集史」と呼んでいるので
注意されたい。
鹿島氏は浜田秀雄氏によってはじめて契丹古伝の存在を知ったという。鹿島氏の解釈は、
独特の「借史論」等を前提にした「鹿島史観」に適合するように解釈されたもので、かなり恣意的な部分が多く、
鹿島氏の定番の語呂合わせも散見される(クルタシロスはタルシシ船の船長など)。中東からの渡来説を基軸とする。
✽実は上記の著作に限らず、鹿島氏のほとんどの著書に契丹古伝の内容への言及があるという特徴がある。
なぜか。その答えはそもそも鹿島氏の処女作『倭と王朝』(新國民社 1978年)が、契丹古伝を重視した
構成で、かつ日本と半島(内の日本語の読める者の間)でそれなりに評判を呼んだという話と関係すると思われる。
ところがその後鹿島説の骨組みは「ある書物」の登場によって大改造を余儀なくされ、
契丹古伝の解釈もかなり改変をこうむることになる。改変後の説を当サイトでは鹿島新説
と呼ぶが、上記二書(『北倭記』『北倭記要義』)は鹿島新説による契丹古伝解釈本である。
改変後の説を紹介することも可能だが、むしろ改説の経緯とその内容の方が当サイト的には
興味深いといえる。なので、ここでは鹿島氏の処女作とその続編について言及しておく。
○処女作『倭と王朝』の特徴
そもそも、のちの鹿島本に見られる鹿島曻史観の特徴は
①古史古伝類の総合解釈で一つの歴史を復元する
②借史論の重視(中国古代王朝・諸侯国の多くの歴史が古代オリエント史の翻訳・翻案に過ぎず
中国にはせいぜい古代中東諸国のコロニーがあった程度とする。中国の史書(例えば
史記)も文字通りには読めない(例えば周王朝の歴史の大部分はアッシリア史)とし、しかも日本の古史古伝や韓国の偽書類の登場人物
の一部までも古代中東の人物等に読みかえるべきとする。
(注・
一般論として、地名遷移や物語の付け替え自体はありえないことではなく、自分も弥生時代の開始のページにその旨記している。
しかし鹿島説の場合、特定の王の時に西アジアから一気に極東まで移動してしまったり、人名の遷移も
カタカナ1~2文字分の共通のみで肯定してしまったりと不自然なものが多く、到底首肯できるものではない。)
③倭人ルーツ論:倭人=インド経由で渡来した海洋民族で、その起源は中東にあり、新羅三姓の朴・金・昔も
倭人であり同祖。
④天皇の一族=シルクロード経由の民族で倭人を不当に弾圧した存在として否定的に捉える
といったものであるが、1978年の処女作(『倭と王朝』)の当時は若干異なり、
上記②③④の点が欠如もしくは別構成となっており、そのため後の鹿島本に比べ穏やかな印象を与えたようだ。
なのでこの処女作の特徴についてまず触れておくことにする。
この処女作は契丹古伝に加え『宮下文書』『上記』『東日流外三郡誌』を総合検討するという
スタイルで浜田秀雄氏の著作と似た体裁を採っている。
その契丹古伝解釈は、同書に実は二種類のものが載っている。多岐にわたる異説が必要だから
そうしたというのだが、一つは本文第二部掲載の鹿島旧旧説というべきやや素朴な解説であり、
もう一つは冒頭部「はじめに㈡倭人興亡史全訳」に掲載の別解釈(鹿島旧説)に基づく契丹古伝の全訳である。
この全訳の方は実は新しい解釈で、次回作の借史論につながるものであったが、本文第二部の解説の方
がより古い解釈で、わりとおだやかなものであった。読者は後者の方の解釈によりまずは意味を把握したことであろう。
その内容だが、まず、②のオリエント借史論については言及されず、ただ、ルーツがオリエントとされるに留まる
ため、奇異感がやや少なめである。
また③とはむしろ逆に、「倭人は海人でなくシルク・ロードを東行したサカ族」(裏表紙)
と位置づけられる。
④についていえば、「倭人の『天の王朝』であるアシムス氏」は「神武王朝」によって代られるが、
後者はもとシウ殷と同盟したサカ族で同じくシルクロード系であり、高句麗百済という形で発展
したのだという。
また「神武王朝」はもともと「天の王朝」とは同祖であり、約九〇〇年に及ぶ分離によって
異民族のような状態を呈したのであるとする(同書p.215参照)。
そして両者のルーツは共に古代オリエントのフルリ族・ミタンニ族とする(同書p.222参照)。
要するに後の鹿島本に比べるとずいぶん控え目な論調でシルクロードファンにも受けそうな面を
持っていたといえる。
そのためかそれなりに反響があったようで新刊案内欄でも反響を誇っていたようである。
このため鹿島氏は当初契丹古伝を中心にしたシルクロード史観で売り出そうとしたようで
この後の『倭と辰国』 『倭人興亡史1・2』 『シルクロードの倭人』辺りまでがこの路線である。
(『倭人興亡史1・2』は契丹古伝の解釈(鹿島旧説)を中心に据えた書で、『倭と辰国』もその準備
的な意味合いを有する。)
引き続き『倭と王朝』の説明を続ける。
氏は紀元前800年頃からが宮下文書の第三神朝に該当すると捉え、その宮下文書の第三神朝の国常立尊は契丹古伝5章のトコヨミカド
と同一人(同書p.226参照)で、満州に居て扶余を建国した(同書p.240参照)という。
これが契丹古伝5章のイフのシウ氏で、その弟分の国狭槌尊が辰国を建国したという。
ここで超古代の存在であるはずの5章の神祖を鹿島氏は殷周革命後のシウ氏系諸国の祖に
している。このように鹿島氏は原文の時系列を無視して契丹古伝を切り貼りするような解釈を
している場合が多いので注意されたい。その次の鹿島本からは28章のトコヒコミコと国常立尊が
同一人とする設定がなされたりしていくのである。
そして氏によれば倭王とは馬韓の月氏国にいた辰王のこと(同書p.115参照)で、
その馬韓王朝こそが『上記』のウガヤ王朝の正体であり(同書p.71参照)、
この馬韓王朝は(契丹古伝5章・37章の)東表のアシムス氏から分かれた安冕氏でいわゆる天の王朝で倭人だという(同書p.74参照)。
このウガヤ王=辰王の地位が途中から神武系に奪われたというのが同書の鹿島説である。
(なおのちの鹿島新説ではむしろ倭人を征服した神武系の方がもともとウガヤ王朝(辰王ではない)なのだという。)
この天の王朝という言い方は鹿島説において終始登場するが本来、菊池山哉氏の用語「天ノ朝」から来ており、
鹿島説においては菊池氏の主張とは異なる意味内容を持って使われていることに注意。
新羅王の(朴姓)南解次次雄や(昔姓)脱解は鹿島氏によるとこの「天の王朝」系の王
であるという(同書p.424参照)。新羅三姓は倭人の一種というより倭人の中核であるという扱いはその次の著作において確立され、
以後鹿島氏はずっとこれを骨格として維持していくことになる、そして新羅の方が先輩格とされることになる。
(もっともその骨格は保たれつつ朴金昔3姓の具体的態様がその後目まぐるしく改説されることになる。
いずれにせよ当サイトの解釈とは全く異なるものである。) p.23に「スサノオ(金氏)を日孫とし」とある
がこの金氏とは明らかに新羅の金氏を指すものだろう。
新羅三姓といえば、契丹古伝18章の後半の箔箘籍との関係が問題になる。
箔箘籍は非東大神族の元「南原」居住者で後に半島に入った者であるはずで、
(自説ではそれは新羅王家を意味し、その王家(特に金氏)が非東大古族であることを強調する趣旨と捉えたのだが、一方)
鹿島説では箔箘籍が倭人王朝の中核となり、かつ東大古族の重要部分ということになる。常識から見て異常な処理といえる。
その理屈が何であるかはもう少し後の著書で示されるのであるが、契丹古伝17章や18章の「神祖」を鹿島氏
は時系列を無視して高句麗の特定の王と解釈するため、南原は高句麗の南原となり、中国大陸内でなく
半島南部ということになる。そして18章の「(兇狠ゆえに)海に放つ」は半島から沖縄に追放したことを指すのだという。
そして、「神祖」こと高句麗王が、属民を配置したことを書物によって派遣(15章離京=沖縄説による)と扱ったり
追放と扱ったりしているだけなのだという趣旨のことを述べる(『北倭記』(1986年)p.167参照)が、いくら何でも無理ではなかろう
か
(「兇狠」の解釈も変なもので、同書p.182[『北倭記要義』p.209]によれば太祖王が沖縄に彼らを派遣してしばらくしてから反抗的
態度を採ったのが「兇狠」に当たるのだそうで、「兇狠だから追放」でなく「追放後兇狠化」したという解釈らしい)。
鹿島説の根幹である「新羅三族の重視」(東大神族の重要構成部分としての扱い)がこのような契丹古伝
のトリッキーな解釈によって支えられていることは重大な問題ではないかと思われる。
鹿島説のもう一つの根幹をなす主張に、皇室系譜の半島系図からの借用論がある。
皇統譜の御歴代のうち、同書の言説によれば第1~4・10~15・17~25・29~34・36・38代は高句麗系王朝で、
その多くが百済王と同一人であるとする(同書p439~p.441参照)。
この部分はこの後も微修正を加えつつも維持されているが、既に本書で登場している点
には留意される。
さて、日孫を金氏とまで呼ぶこの書が、半島で話題になったというのはありそうな話であるが、
今はおそらく忘れられているかもしれない。なぜなら鹿島氏はいくつかの骨格は維持しつつも
説をがらりと変えてしまったからである。
もともと、マイナーチェンジを繰り返しつつ、第2作『倭と辰国』(1979年)や
その続篇『倭人興亡史1・2』(1979年)(いずれも契丹古伝本)あたりまでは倭人シルクロード史観を重視していた。
『倭と辰国』では辰国は倭人王朝(扶余も同じく倭人系だという)であったがチュルク系高句麗から分岐した家にその地位を奪われたと解釈された。
『倭人興亡史2』では扶余・辰国・箕子朝鮮はいずれも倭人であり、
扶余の祖は常立命でもトコヒコミコでもあるバビロン海の国第2王朝の王族
であり、契丹古伝31章の宛の徐つまり徐珂殷系の種族(カルデア人)の出で昔氏であるとした。
また辰国はウラルトゥ系アラム人で朴氏であり、アメニギ氏として天の王朝を構成したという。
また箕子朝鮮は金氏(『倭人興亡史1』p.278参照)で殷(=バビロニアのイシン王朝)の遺民を擁していたという。
この扶余・辰国・箕子朝鮮はウラルトゥ連合を構成しシルクロードを
東に移動していったものとした(24章の辰沄殷の都(翳父婁)はキルギスタンのイッシク・クル(イシク・クル)
であるという)。
このあたりまでは、契丹古伝の鹿島風解釈を中心に鹿島史学は展開していたのだが、
『倭人興亡史2』の出版準備中にある事件が起こった。
それは1979年秋のこと。鹿島氏は『桓檀古記』という檀君信仰系の偽書を知人の韓国人から
手渡される。それは日本統治下の弾圧を免れた奇跡の書という触れ込みであった。
この後鹿島氏は1982年にその『桓檀古記』を読み下し・注釈(オリエント史観的なもの)付きで出版し、その後韓国内で非鹿島解釈
(シベリア・満州史観?)による解釈本が出て半島でブームとなってしまう。
ただ、『桓檀古記』の内容の一部に鹿島説が影響しているのではないかとも思われる節がある。
『桓檀古記』の作者との間に「言葉のキャッチボール」が成立していないか懸念されるところである。
そのことはともかくとして、鹿島氏は『桓檀古記』の熊本の昔氏の記載などを見て、朴金昔3姓自体を南海、インド回りの
渡来種族とする気持ちになったのではないか。そして南海経由の朴金昔3姓=倭人が偉いという
論調に改説していった。そして天皇家はシルクロード経由のウラルトゥ王朝で非倭人的という
感じで扱われていく(例:『シルクロードの天皇家』1984年)。
鹿島新説においては、扶余がまるごと倭人系だという鹿島旧説は放棄され、
ただ、インドシナ経由海路を北上したカルデア系昔氏が
(半島で辰朝を一定期間営んだ後に)扶余を一時期保有し(契丹古伝31章のサカ殷系)、その後熊本に入ったことになった。
さらに、鹿島旧説で九州の大分にあったとされた「東表」(フェニキア系海洋民族エブス人の国という)
について、鹿島新説においては金氏王朝(金閼智の子孫)という属性が付加された。
ただ『桓檀古記』の作者側としてはあくまで鹿島氏に「シルクロードの韓民族」的なものを期待していたとすれば、
予想外の展開だったのではないか。
鹿島氏の『北倭記』 1986年 『北倭記要義』 1987年は契丹古伝をメインに扱った本であるが、
『桓檀古記』登場後の本であるため、「倭人大航海」系の内容となっている。
このような事情で、『倭と王朝』に代表される鹿島氏の旧説は『桓檀古記』ブームの中、
半島では忘れられていったのではなかろうか。
『桓檀古記』の鹿島版解釈というのも、オリエント史観かつ「倭人大航海」系の内容である
ので、半島ではどうやら歓迎されていないらしい。(檀君王朝自体が、氏の1981年ごろの桓檀古記解釈(『神皇紀』所収)
(シルクロード系とする)からその後の「インド・ベトナム方面の朴氏系支配者やその関係者
の先祖の中東の王朝等の合成」(具体的表現は本によりマイナーチェンジあり。『北倭記』p.371上段など参照)に代わってしまい、混乱も見られる。
[『桓檀古記』初版本p.29に、檀君朝鮮の実態として挙げられている王朝のうち
「ウラルトゥ」「趙」が後の版で削られて[南方、インドのアーリア系の]「クル」に置き換えられ、
p.2の吾郷氏の序文の表現も同様に修正されていることに留意される])
それはともかく、日本においても、新たな「倭人大航海」史観によって鹿島氏が著書を量産
していったため、やはり鹿島旧説は忘れられていった。(鹿島新説の非常に妙な部分
の中には、鹿島旧説時代の名残が残っているに過ぎない場合も多いので、そのことを把握する
ためになら旧説も役立つかもしれない。)
それ以後、鹿島史観は『桓檀古記』(の鹿島版解釈)を中心として回っていったように見える。
ただ、鹿島史観の原点でもある『契丹古伝』は、その後の書籍でも『第2の基本書』扱い (例) で
言及されることが多い。契丹古伝に関する鹿島旧説にしても鹿島新説にしてもあまりに常識外の内容が
多いので、あまり当サイトで言及する気が起きなかったが、契丹古伝に触れる著書の多さ等に
鑑み、今回改めて調査した上でコメントを追加することとしたものである。
なお、鹿島旧説に属する著書(例:『倭人興亡史』)・内容を鹿島史観の紹介や参考文献に挙げている
ページや動画が散見されるが、不適切といえる(せいぜい新説に抵触しない箇所のみ参考としうるに過ぎない)。(✽印以降の部分につき2023.05.19加筆)
○高橋良典『超古代王朝の謎:『契丹古伝』が明かす「原・日本人カラ族」の世界王朝に迫る!』日本文芸社 1994年
(これ以外にも契丹古伝に言及している著書は多い。)
中国の最古の空想的地理書『山海経』の記述範囲を地球のほぼ全域に広げるというような幻想的な解釈を採る
高橋良典氏が、
契丹古伝にもその趣旨をおし及ぼして、神祖の征服範囲を極大化させるという奇説を展開する書物。
「古代の日本の王が世界を治めた」というような論調が基本にある。
神祖が到達した西の果ての地「ヒイクイ」は、今のアフリカのマリ共和国あたりとされる。
ニニギという人物が登場するが、神祖スサダミコの盟友であるエチオピアのタルハカニニギであるとする[別の本では、もう一人ニニギがいて秦の始皇帝と同一人ともいう。](いずれにしても殷朝が敗れた後の東族の勇者・寧羲騅とは別人である。)
中国の歴史で有名な「春秋戦国時代」の諸侯が割拠した地域は実はヨーロッパの広域を含む厖大な地域である
という高橋氏の史観と適合するように解釈された本である。
高橋良典氏が「契丹古伝に~とある」と説明する場合、そのほとんどは高橋氏の独特な地名解釈を前提にした、
高橋氏にしか見られない特殊な解釈であることを覚悟すべき。
同様の解釈は高橋氏の他の著書でも繰り返されているので、ファンタジーとして一定の面白さがあるのかも知れない。
ある種の文化共通論のようなものが根底にあることは察せられるので、そのように裏読みすることも可能かもしれない。
高橋氏の著書の愛読者は当サイトを見てある意味期待通りのものでないと落胆するかもしれないが、
自分のサイトにもまた別の味わいはあるので閲覧していただければ幸いである。
○榎本出雲『契丹古頌の研究』1988年 自費出版
榎本氏が昭和58(1983)年より始めた有志による契丹古伝研究のための資料を集めたもので、古書として流通して
いるのを時折みかける本。
契丹古伝の原史料は渤海のものという意見が研究者の大勢である中、榎本氏はそれを否定し契丹のものとする。
その上で契丹の出自を西方に求め、アラブ語・ペルシャ語で契丹古伝の用語が説明できるとする。
また漢字の音韻は約30の音韻群に分けられるが、北方系鬼神信仰族と西方系太陽信仰族とでは異なる音韻群
に属する漢字を使用するのだとされる。したがって契丹古伝に登場する漢字もその音韻を調べることでどちらの
族に関する呼称かが判別できるという。そのため漢字の音韻の説明が相当な比重をしめる。
本当にそのような音韻の使い分けが見られるのなら貴重な情報だが、そもそもその音韻による種族区別論が充分説得的ではないように見受けられる。
また、契丹古伝の原史料と東・東北アジアとの関連性がそんなに薄いのか等、大前提の部分について説明が
薄いため、アラブ語の説明を読んでもどうしても首をかしげたくなる。
思うに、神子号その他の契丹古伝的な佳名は、アジアの広い地域にひろがっていることも考えうるから、
そのような西方の異民族の用語と共通性があることも、単語によってはありえない話ではないということぐらいなら
言えるかもしれない(渾瀰など。ただし渾瀰について榎本氏自身はあまり言及していない)。そのような広域の類似性論の資料としてせいぜい使えるか、使えないかという
話ではなかろうか。
榎本氏は浜名氏の読み下し文と異なる独自の読み下しを多く採用するが、私見ではそのほとんどは
浜名氏を上回るものではない。榎本氏の読み下しを採用する研究家もおられるようだが、
折角のご解釈がその読み下しのせいで妙な方向にずれてしまい、勿体ないと私などは思ってしまう。
ただ、榎本氏は漢字の読みも時折浜名氏に従わない独自のものを採用することがあるが、漢字の読みはしばしば
複数ありうるから、浜名氏の読みにとらわれない読み方で新鮮に思えるものもあってその点は良かった。
○佃收 『倭人のルーツと渤海沿岸』 ストーク 1997年 第7章 第8章
http://tsukudaosamu.com/books_kodaishi_01.html (pdf閲覧可能)
○佃收 『新「日本の古代史」(中)』 ストーク 2015年 第4章
http://tsukudaosamu.com/books_shin_02.html (pdf閲覧可能)
佃收氏は 東アジアの古代文化を考える会の会員で、数多くの論考を発表されている方である。
契丹古伝に固有な、安冕辰沄氏や辰沄謨率氏等「東表」系勢力について多くのページが
割かれているため、ここにとりあげることにした。
佃氏には氏の倭人論という屋台骨があり、それは大陸の江南方面を倭人の主要なルーツ
とするものである。そして契丹古伝の「東表」の一派を倭人と捉えるのが氏の考え方である。
佃收氏は契丹古伝にいう「東表の阿斯牟須氏」の「東表」の所在を中国の山東省とする。
しかし意外なことに、阿斯牟須氏自体はもともとさらに南方の原住地である呉の方面から
北上してきたのだとする。
(契丹古伝上、阿斯牟須氏は東冥にあらわれた存在とされそれ以前のことは記されていない
のだが、佃收氏倭人のルーツの有力説に適合させて「東表」を捉えるためこのような
処理になったものであろう。)
契丹古伝37章で(一般的にはかつて半島にあったとされる)古国「辰」は東表の分派と
される。この点について、氏の考えでは東表系にはもともと
辰(辰沄謨率氏)と倭人(安冕辰沄氏と賁弥辰沄氏)があって山東に存在したとされ、前者にも
2種類の勢力を想定するため、これだけでも合計4種類となる。
このように中国東部に辰があった(時期がある)とする点に佃説の特色がある。
また、氏が倭人に分類する安冕辰沄氏と賁弥辰沄氏は、通常辰王の王家名と考えられている
から、この点も佃氏独自の見解である(辰王の王家は辰沄謨率氏の方ということらしい)。
そして佃氏は、この4勢力が東表の地から北上し時間をかけて遼東経由で
半島南方へ移動する(倭人の2勢力は日本列島にまで入る)と捉える。
その移動時期・経路などは各勢力で微妙に異なり複雑である。佃説ほど東表系勢力について
複雑な考察をしたものもないが、できるだけまとめると次のようになる。
(契丹古伝に記載のないものが大部分であり、契丹古伝に該当箇所がある(といっても佃氏の解釈上の話である)ものはできるだけ茶色の字で注記した)
①倭人・天族(安冕辰沄氏)
BC1200頃上海付近の呉地方に居た─(BC473呉滅亡以降)→山東半島の「東表」へ移動[37章「東表の牟須氏に出で」]
→BC354~334頃、越斉の争いを嫌って灤河東岸付近(碣石山)へ移動、
辰沄殷と婚姻関係を結ぶ[37章「殷と婚たり」]
→BC284orBC221以降大凌河下流に建国し辰沄殷と共に住む(医巫閭山付近)
[37章末尾「国を賁弥辰沄氏に譲る」の国をこれに充てる]
─(BC200頃卑弥氏に国を譲り、海路で移動)→半島南端の高天原へ
→数代後BC140~120九州北部へ天孫降臨、その子孫が伊都国王で邪馬壹国に従属
→邪馬壹国の壹与即位後邪馬壹国との戦に敗れ東へ(神武東征)
②倭人・卑弥族(賁弥辰沄氏)
上海付近→山東半島南部・徐州
─(BC354より後、越斉の争いを嫌って東表から少し北上)→黄河北岸付近に「倭国」建国
─(BC313より後、斉の燕攻撃を避けて白狼山北方に移動)→大凌河上流に「倭城」建国
─(BC221始皇帝の中国統一の際大凌河を下る)[一部は倭城に600年程残留]─
→大凌河下流で①「天氏」と出会う→BC200頃天氏から国を譲られる[37章末尾「国を賁弥辰沄氏に譲る」で譲られた国はこれ]
─(BC50頃orAD1頃、漢の支配強化、医巫閭山付近から海路で移動)─
→半島南部へ移り「倭国」を建国
→AD220~230卑弥呼が九州へ渡りAD238北部九州の「倭国」誕生→壹与の時敗れ出ていく[40章の辰(?)]
③辰王系の辰(辰沄謨率氏)
山東半島の東表(辰)[37章東表の阿斯牟須氏と一たり]→灤河東岸付近へ移動、碣石山で辰沄殷と一緒になる
→BC284燕に追われて殷と共に医巫閭山へ→BC194衛満に伐たれて月支国へ逃げ辰王となる。
またその分派は弁辰を形成する。
④辰国系の辰(辰沄謨率氏)
山東半島の東表(辰)[37章東表の阿斯牟須氏と一たり]→海路渤海経由で凌河下流域に大辰をつくる
→BC194③から国を譲られる[37章末尾「辰のために郭を」の辰をこれに充てる]
→BC128漢に追われて鴨緑江の南に辰国建国→BC108武帝が衛氏を伐つと南へ逃げて
辰韓建国(半島南東部)。
参考 辰沄殷
山海関の南にあった。その西方にBC354~334頃①の倭人が来て混血する
BC323大凌河上中流域の番韓(遼寧式銅剣を特徴とする)を併合
BC284燕の侵略を受け千里東に退く[32章]
BC194衛満に伐たれて辰国系の辰(④)へ奔る[34章]
(※注・辰は半島にかつて存在した謎の国
であり、契丹古伝37章では東表の分国のような扱いになっている。
一般には半島南部の国と考えられるが
浜名氏は馬韓・弁辰・辰韓諸国の領域をもっと北にまで拡張して捉える関係で
辰王の所在する月支国の位置は平壌とする。
37章の安冕辰沄氏が国を賁弥辰沄氏に譲ったのも同地とされる。)
佃説では37章の安冕辰沄氏が国を賁弥辰沄氏に譲ったのも遼東の辺りとされ浜名説よりさらに北になる
が、それは広域を支配していたからではなくその時点でたまたまその地で国を営んでいたから
ということになる。それより昔には大陸のより南方にいたとされる。
そして国ごと最終的には日本列島まで移動していくというのが特徴。
倭人のルーツ論という屋台骨から導かれているため、契丹古伝を抜きにして
見ればなるほどそのような説もあるのかということになるが、契丹古伝の
解釈論としてみる限り、4勢力が遼東方面を通過する部分が一番問題となろう。
移動の途中で辰沄殷と近接する状態が生じるため、遼西・遼東付近で
5勢力が共存するという事態さえ途中発生する。
このような、辰沄殷と辰・倭がほぼ同時期に遼西・遼東を経由して半島方面に
進む事態というのは契丹古伝の素直な解釈からは導かれない解釈である。
浜名氏以来の解釈としては、辰沄殷(箕子)の国が遼東で国を
営んでいた時点にすでに辰は半島に勢力を有している古国であり、
(衛満に追われた)辰沄殷の最後の王・準王はその辰へ逃げたというものであった
(契丹古伝34章で殷王、辰に奔りとある)。
魏志では「準王が海に入り韓地に居る」・・・
とあるから、準王は南もしくは南東へ向かったと一般的にも考えられている。
しかし、佃氏の場合、(準王が)韓地に向かう旨記されている箇所もあるのではあるが、
その場合契丹古伝の「辰に奔り」と氏の解釈体系上矛盾が生じるはずである。
なぜなら、氏の説では遼河下流域にいた「辰」2勢力いずれも衛満の侵略時(BC194)には
半島に国を持っていない。片方はその後(BC128)までは遼河下流域に留まっており(その後南下)、
もう一方は衛満の侵略後に半島の月支国へ逃げたとされるからだ。半島には逃げこむべき
「辰」がまだ存在していないことになる。
そのせいか氏は34章「殷王、辰に奔り」の説明の箇所では、
遼河下流域に留まっていた方の「辰」へ殷王は逃げた、とされているが、
これだと魏志の記載((準王が)海に入り韓地に居る)と適合しないことになる。
また、氏の説に従う限り、契丹古伝37章の
「賁弥氏立って未だ日あらず。漢寇、方に薄り。其の先、朔巫達に入る」
は「倭国の賁弥辰沄氏」の話であるのに、その直後の
「淮委氏・沃委氏、並に藩を嶺東に列ね、辰の為に郭を守る」
は「辰(辰沄謨率氏)」の話となってしまうのはかなり不自然ではないだろうか。
契丹古伝独特の存在である「東表」とその分家である「辰」の関係や日本・倭との
関係は、契丹古伝上は記載が少ないため、補充した解釈をしなくてはならないのは
確かであろう。
ただ、契丹古伝の記載を中心に解釈していく立場からは、
準王の移動先の問題を抜きにしたとしても、
辰沄殷と辰(や倭)がほぼ同時期に半島へ入るという解釈自体がかなり苦しい
ものであるといわざるを得ないと考える。
従ってあくまでも、契丹古伝の記載を加味した解釈体系に過ぎないということに留意して
読む必要があると思われ、上のように解釈の不備を指摘するのに本来なじまないものというべきであろう。
(契丹古伝の解釈本ではない以上、当然のことではある。)
他の古史古伝類、宮下文書や桓檀古記も参照されている本である。
○安部裕治 『辰国残映 日本国の源流が見えてきた』ブックウェイ 2015年
かなり大部の書物である。
この本における辰国という語の使われ方は少し独特なものであるので、
注意しながら読む必要があると思われる。
伝統的解釈からは、辰国といえば、魏志に記載されている、半島にかつてあったという馬韓の辰王の国が
有名で、契丹古伝37章の辰にあたり、神祖の子孫の国の一つである(下記⑤の国に該当。)
一方、契丹古伝17章には太古に神祖が五原を治めたことが記されているが、
安部氏によればこの五原(p150山東省西部地域にあたるという)は太古の辰国の
全領域だとされる。*1
氏によればそもそも神祖は山東半島東部に降臨し、山東半島西部へ移動した太古の神祖の国が辰国なのであって、堯・舜など有力な辰沄翅報(東大皇)
の有力な王が出て繁栄した。契丹古伝にないが蚩尤も五原を支配した辰沄翅報だという。
神祖から蚩尤辺りまでが「辰国の前史」*2とされる。
この後辰族は五原を逐われたという安部氏独特の説が記され、*3
辰族は各地に散らばったが、主力は現在の北京方面に逃げたとされる*4。
そして①北京方面の勢力から「粛慎」が出たという。
氏によれば辰王を盟主とする辰藩の同盟体を大辰というのだそうだが*5
殷末の時点で「粛慎」が大辰の盟主であったとされる。そしてそのあるじは辰王で辰沄翅報
なのだという*6。この時点の辰国は粛慎であり、韓侯国と同一とされる。*7
粛慎は殷周革命の際、周に協力した存在だという。*8
この辰国(粛慎)は周代に入って②内蒙古自治区寧城県(を含む地域)に移封*9され、その後もしばらく存続する。
しかしBC706年寧羲騅(山東半島系)が粛慎氏の長で辰王の「夏莫且」を
討伐したことにより「粛慎氏」の国は滅ぼされ、寧羲騅が新たな盟主「辰王」となる*10。
(寧羲氏は二宗家から分かれた王家の系統で辰王統の一つであるという*11)
寧羲騅は粛慎の領土を継承し、遼西に移転して新生辰国を作り(③遼西辰国*12、
契丹古伝に記載なし)→さらに遼東に移転して④遼東辰国*13(契丹古伝に記載なし)
→さらに移動し⑤半島の辰国安冕辰沄氏(契丹古伝37章の辰)となった。*14
このような安部氏の記述に従えば辰国は特別な地位をもつ国で太古の中国に発祥して
半島まで移動してきたことになろう。(ただし王家は途中で寧羲氏系に交代)。
この辰国が「五原」を逐われた後、前一千年紀には多紐鏡と遼寧式銅剣や細型銅剣
に代表される特徴的な青銅器文化を東北アジアに開花させたとされている。*15
神祖の治めた五原が既に辰国で、その辰国が一定の同一性を保って⑤の魏志の辰国となる
という解釈であろう。①の粛慎が辰国である理由は⑤の辰国と鏡と銅剣のセットによる
祭儀を執り行う点で共通だからという趣旨のこと*16を述べておられる。もう一つの理由は粛慎の語源解釈的なものである*17。
「辰国」(①~⑤)とその前史(上記参照)の「辰国」を同じ辰国の表記で一連のものとして
扱われている以上、辰国にかなり特別な地位を認める解釈をしている本ということになる
(上記「盟主」の語や、「韓侯の地位は重く*18」などの表現参照)。
安部氏によると鏡と細型銅剣(遼寧式銅剣など)を組み合わせて副葬する墓で一定の条件をみたしたものは
辰国の王墓となる(*19)というから、「辰国」以外の国は(安部氏の定める例外に該当しない限り)神子神孫であってもかかる
王墓をもちえないことになるのだろう。
その後辰国の安冕辰沄氏は同じく寧羲騅の子孫である賁弥辰沄氏に半島の辰国の権利を譲った
(時期はBC82年以降BC75以前のいずれかの時点)後、
九州の分家と合体して阿毎氏を称し*20主力は九州北部へ移動した。
辰国を譲る前から安冕辰沄氏は新天地の開拓を図り九州北部へ(弥生中期初頭に)降臨していた(邇邇芸命)*21。
これが委奴国王(倭国王)の王家であるという*22(倭の五王の祖)。
また、譲った後も阿毎氏は半島南部に領地を有していたが、辰王の賁弥辰沄氏が匈奴
系勢力を招き入れ(弁韓)、
阿毎氏を圧迫したことが九州移転を促進したという。
(賁弥辰沄氏は匈奴一派となんらかの形で通じていた可能性があるとされる)*23。
(その後賁弥辰沄氏の辰国はAD247歴史の幕を閉じる。がその前に賁弥辰沄氏の分派が九州北部へ到来し阿毎氏と争った(倭の大乱)後日本で邪馬台国・
狗奴国をつくるも*24それは一時的で、のちに半島経由で満州に移ったという。40章の逸豫臺米は壹与
の可能性があるとされる*25(この場合、卑弥呼や逸豫臺米は
賁弥辰沄氏の「分派」の人物ということになる)。
安冕辰沄氏は九州北部の王に返り咲き倭の五王の祖となったという。
安冕辰沄氏は「大皇」と号し、姓を「阿毎氏」とし、漢からは「倭」と記された。
阿毎氏は半島東南部などにも領地を残しており「白村江の戦い」は九州王権の領土防衛戦
の意味もあったという*26。
阿毎氏の分派の倭は畿内方面に東進しておりこれを母体として成立したのが上代日本語
で7世紀までには形が完成していたという*27。
さらにp.497では「阿毎氏の倭は九州王権(本元)と畿内王権(東進勢力)とに分立していた」という前提で論が進められている。
なお、殷が周に倒された後設立された「辰沄殷」(殷叔(箕子)の国)については
殷叔が裏切り者の「粛慎氏(安部説では韓侯と同一)」の御子(督坑賁國密矩。安部説ではこの人物はニニギの命の子でも紂王の子でもなく、裏切り者・韓侯の子)を養子にもらった関係で、それ以後は実家の「粛慎氏(安部説では韓侯と同一)」の祖「察賀亶唫」を祭る
国として遼東で国を営むことになるとされる(安部氏作の系図によると韓侯は察賀阿餼の子孫とされる*28)。
当然、辰沄殷は「辰国((安部説では)BC706年までは韓侯国、それ以降は寧羲騅系の国)」より格下の従属国で、辰国の辰王を
盟主と仰ぐ側ということになる*29。韓侯国が倒れた後もなお、その血脈を残し続けた家ということになるらしい。辰沄殷が衛満に滅ぼされたあとは、半島南部の辰国に辰沄殷の王が亡命し、以後この亡命勢力は、辰国内で
辰に支配されることになると解されているようだ。
この本は、タイトルに「辰」がついていて、内容も契丹古伝の解釈に
かなりのページ数を割かれている。
そのため、一見、契丹古伝の解釈本のようにも見える。
しかし、同書 冒頭「はじめに」の部分で氏は、
本章の主題は、太古の中国に発祥したと考定される辰国の移動の軌跡を、
文献資料および考古学の成果をもとに素描することにあります。*30
とされている。
特に、甲本眞之氏の東北アジアの青銅器文化(遼寧式銅剣など)に関する説を重視されて、
この本の屋台骨とされている感があり、第一章のタイトルが「考古学の成果からみえてきた
辰国移動の軌跡」となっている。*31
遼西辰国・遼東辰国などは契丹古伝に記載がないが、上記のような考古学資料に解釈を加えて
存在を肯定されている。*32
このようなことから推すと(勿論軽々に判断はできないが)、この本は、契丹古伝の記載よりは
考古学的なものや自分の史観を優先させている面がある可能性も率直に言って否定できない。
もし仮にそのような本であるとすれば、この本の外観から受ける印象とは異なって、
このページで紹介している本の多くと同様のタイプの書籍ということになる。
すなわち、契丹古伝を自説の単なる補強材料として用いたに過ぎない書物とすれば、
契丹古伝の内容の誠実な解読として許容されうる幅を超えてもかまわないファンタジー
ということになるから、その場合そのようなものとして読むべきものということになりそうだ。
(もちろん出版の自由は人権として保障された権利である。部分的に契丹古伝を
利用する本は沢山出版されているので、当然のことではあるが)。
(それでは佃氏の場合のように、どのあたりが問題となりうるかという話になる
かもしれないが、この話は限りなく次段落の問題に近づいてしまうため、省略させて
いただきたい。)
では、もしこの本がそのようなタイプの本ではなく、契丹古伝の内容の誠実な解読として
出された本だとしたら、どういう読み方をすべきだろうか。
契丹古伝の内容の誠実な解読として許容されうる幅の範囲内かどうかという問題である。
ただ、あくまで
著者が考古学の成果をもとにした素描という側面の存在を冒頭で提示されている以上、
これは仮定の話となるから、その問題の検討をここに記すのは
控えさせていただきたい。
ただ、当サイトの各ページ(サイト内附属ページも含めて)
を丁寧にお読みになった方は、おのずから気づかれるところがあるかもしれない。
*1 同書(初版本)[以下略] p.121, p128参照。
*2 p.129-p.130参照。
*3 p.147, p.150参照。
*4 p.130参照。
*5 p.155参照。
*6 p.161参照。
*7 p168参照。
*8 p.141-p.143参照。
*9 p.167, p.195, p.203参照。
*10 p.262-p.263参照。
*11 p.212参照。
*12 p.260-p.262参照。
*13 p.279参照。
*14 p.305参照。
*15 p.131参照。
*16 p.137, p.51参照。
*17 p.138参照。
*18 p.222参照。
*19 p.309参照。
*20 p.363参照。
*21 p.361参照。
*22 p.370参照。
*23 p.459参照。
*24 p.447参照。
*25 p.447参照。
*26 p.587, 592, p.593参照。
*27 p.587, p.590参照。
*28 p.117参照。
*29 p.319参照。
*30 p.3。
*31 p.25参照。
*32 p.229参照。
○岡﨑倫久 『古代出雲王国の真相』文芸社 2013年
○岡﨑倫久『明日を拓く日本古代史 倭のルーツは中国大陸』文藝春秋企画出版部 2021年
これらの本はいずれも契丹古伝を正面からとり扱った本であることが明示されており、
なかなか興味深い本であるとともに、執筆の理念にまで言及してあるこだわりのある本である。
契丹古伝のかなりの多くの論点や日本との関係についてそれなりに触れられているため、自説とは異なるにせよ自分も大いに関心を持って
読ませていただいた。かなり面白い本なのではあるが、浜名氏の解釈や当サイトの解釈との関係が
捉えにくい部分がかなり含まれている。そのためそれらの論点を含む形で紹介・感想を
書かせていただいたため、かなりの長文となり書評のようになってしまった。
その関係で掲載を別ページとした。
他の本よりこちらを重視しているということではないので、誤解のないようお願いしたい。
ブラウザの「戻る」機能で元のページに戻って下さい
2020.12.15新設
2020.12.25少々加筆
2021.03.28加筆
2022.01.02加筆
2022.01.04加筆
2022.01.11微調整
2022.07.28加筆
2023.05.19加筆
2023.09.30加筆
2023.10.03微調整
(c)東族古伝研究会