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契丹古伝関連文献(解釈書等) 増設ページ
○岡﨑倫久 『古代出雲王国の真相』文芸社 2013年
この本は契丹古伝を正面からとり扱った本という体裁をとっている。なぜなら
浜名寛祐氏が解読した『契丹古伝』を基調にしていることが明示されているからである(本書4頁参照)。
そのためこのコーナーで採りあげる必要は少なくない本である。
この本は契丹古伝の原文からの逸脱は比較的少ないため、解釈に幅がある中で上手に勝負されたと
いう印象となっている。もちろん自分の意見とは異なるところも多いが、日本との関係にしても
契丹古伝上明示されていないことから、ある意味解釈は自由と言えるような部分も多い。その関係で批判を避けたところが
ある。ルールを守って書かれている本とは思うので、丁寧めに検討することとしたい。
この本は、日本との関係についての記述の比重が極めて高いことが特徴だ。
5頁には「大和朝廷が・・漢民族との抗争で東北アジアからこの地に移住した。」との記述がある。
※岡﨑氏の「倭」はもともと大陸に存在する「倭」で、
移動して日本列島に入った存在(弥生人)であるとされることに注意。
そもそも契丹古伝の7章で日本が神子神孫であることは説明されているが、浜名説ではもともと
日本が日本列島内にいてかつ本家だということになっていた。
そうでないという立場を採った場合、どのようにして日本に神子神孫が到来したかを述べた本は
ごく少数である。この著書はその中の一つであり、かつ到来後かなり後の時期まで考察している。
この本は佐治氏の『謎の契丹古伝』からの引用が多いが、与える印象には独自色が見られる。
岡崎氏によると、倭は東大神族のなかでも嫡流であった(p.29, p.49参照)とされる。
(嫡流の理由が示されていないが、浜名説の東表本宗家説に従う趣旨だろうか。
144頁では、佐治説を引用して日本・辰国・殷いずれも牟須氏系としている。)
そして次のように述べられている。
倭は、気象の・・異変や戦乱による混乱からアジア内で居住地を転々とし、
さらに朝鮮半島に移住した。そして漢民族の攻勢によって日本列島内に
緊急避難的に移住し、ここで分国を建国した。それが邪馬台国などである(p.29-p.30)。
以上の部分を契丹古伝の記載と関連づけると岡﨑説ではおおよそ次のようになる。
(契丹古伝2章関係)東大神族の原郷については、佐治説(シウニスサボナ=東大海=タリム盆地にかつて存在したタリム海)
に沿った理解がされている(p.30-p.33)。そこを人類発生源と捉えるのも佐治説と同じである
(契丹古伝の始祖神話を人類の始祖神話と捉える説)。
佐治説の場合、別途高天原が雲南に設定されるのであるが、岡﨑説でも
倭人のルーツは・・・『契丹古伝』では、中国大陸の雲南地域ではないかと推定している。
ここを起点として東北アジア地区に進出し、・・・(p.4)
とされている。「東北アジア地区に進出」が契丹古伝5章の記述に対応し、その後西方(中国の五原)へ
展開するという趣旨らしい。
また、19章の日孫の高天原への帰還については、
基本的に佐治説に従い、スサナミコが(気象異変のため)(日祖の所に)「帰省(撤退)」し、
(十有六運=約千年後に)もとの本土へ再進出したとしている。(p.87参照)
帰省・再進出の部分は佐治説に従ったものらしいが、当サイトの佐治本紹介欄や本文解説にあるように、
誤解であると考えられる。
以下、本書の全ての内容を紹介することはできないが、概要プラス若干の細かい論点という形に
なっていることをお断りしておきたい。
岡﨑説では、日本列島の諸勢力の中で契丹古伝との関係で3つの勢力が重要視される。すなわち
①辰国賁彌王朝の出身である卑弥呼・邪馬台国(宗主国)の系統
およびその分家(崇神帝)の系統 [分家については次回作に詳しい]
②同じ倭人ではあるが別系統で鴨緑江付近から南下した出雲人の系統
③非東大神族である南原の楛盟舒(クマソ)の系統
(③については次回作の方が詳しいが、楛盟舒は卵生神話をもち(p.85)、新羅王家もこの系統で
あるという。一方、百済は楛盟舒ではなく日本的風情をもち「日孫」的神話をもっていたという)
倭人一般についていえば、倭人は(再進出後)雲南・長江上流域・山東半島・遼東半島・遼河地方付近などで生活しており、
紀元前7世紀ごろには半島に移動し、
紀元前5世紀ごろから日本列島に移住を開始したとされる。②はその中の一つということらしい。
①の辰国(37章の辰)については、p.115で「紀元前7世紀ころは存在している・・・倭人も
この国を支える勢力」とあるが、本書の中では時々5章の辰沄氏の話と混じってしまっている
ようでもある。(p.115に「東大族を代表する国は、大辰と表記されている辰国である」とある。)
「倭人が、雲南地域、山東半島、辰国を経由して日本列島に移住」との表現もある(p.189)。
結局本書は37章の辰国=本宗国という立場で、①の辰国賁彌王朝はその37章的宗主権を譲り受けた存在であり倭人の国ということになる
ようだ。
辰国の瓦解が引き金となって東大神族の敗北は決定的となり、その残党は、当時日本列島に軸足を
移していた倭国に亡命したと解釈されている(それが上記の①
。辰国については、倭人の他に韓民族も東大神族の主要民族であり、遥か昔、辰国王を共立して、
日韓両民族は、国家共同体として共存していた時代があった(この時は倭人は半島内にもいた)とされる。※この韓民族に非東大神族の楛盟舒は含まれない
)。
まず、日本列島到来の時期が古い出雲系 ② について岡﨑説の概要は次のようになると思われる。
倭国のはじまりは、出雲の胎動によって始まるとされる。
これは邪馬台国以前にできた倭人の一派の国ということらしい。
新羅よりの国引き神話が
紹介され、辰国の主要地である新羅が葦原中津国を倭に譲ったなどの記載がある(p.215)。
しかし、岡﨑説においては新羅は18章南原の楛盟舒系であり一方辰国はむしろ東大神族の主流に近いはず
だから、ここでいう新羅は一般にいう新羅ではなく新羅成立以前の辰韓をさし、楛盟舒系でなく
辰国系ということになるものと思われる(辰国系の中に辰韓も馬韓も含まれるということ)。
岡﨑説においては新羅と辰韓の間に大きな開きがありそうである
(新羅は、辰国滅亡後、箔国が建設した国家とされる(p.87))。
また、出雲族は辰韓時代以前はより北方にいて南下したということになるらしい。
この南下に関して、次の記載がある。
神代に渡海した「日孫」は大国主命であり、・・・国つ神族が、・・・大国主命を統領として
倭国を統治していった時代が、古代出雲王国の時代である(p.55)。
このように、「日孫」が大国主命であり、神代に渡海したいう解釈が載せられているが、
この日孫はおそらく日孫の子孫という意味かもしれない。出雲大社が彼の神社であり、
東大神族の神祖である炎帝の後裔である倭人が列島内に移住した際に創設したとされる。
なお大国主命は可汗が派遣した船に乗って、渡海したとされるが、この点は錯誤か何かであろう。
この少し前のページに、大国主の命の協力者スクナヒコナがのってきた天之羅摩船が、
大陸の可汗の派遣した船であるという浜名説が、佐治本のまた引きの形で引用されている。
どうもスクナヒコナと大国主が共に天之羅摩船に乗ってきたと誤認されたのかもしれないし、
この船を日孫が降臨の際のったコマカケ(佐治説によると天之鳥船)と混同されたのかもしれない。
※佐治氏の本は読みにくい本である。(表現をぼかし気味にしていたりであるとか
様々なレベルの話が混在していたりする。)
ところが岡﨑氏の本は、大幅に佐治氏の本に依拠している。佐治本は圧縮されていて読み辛いにもかかわらず、かなり丹念に
佐治本を読み解かれたことが窺え、自分にとっては驚きである。
それゆえ所々不正確な読みがあるのも、やむを得ないことと考えられる。
出雲は日本列島に展開していき、大和にも早くから進出していた。
出雲国は辰国(おそらく5章の辰沄氏の国のこと)をモデルにした国で、同一な神祖を信仰する
連合国家となり、その(出雲連合の)宗主国が出雲であったという。
出雲の祭祀のありさまについては、浜名氏が挙げる三体のシラヒ神として、出雲の白日神、
筑紫の白日別、月支国のシラヒキワケがあるとし、この3地域が古代一帯であったとされる(p.190 参照)。
また、月支国(浜名 溯源p.381, 詳解p.95三行目で11章の鞅綏韃の意味で使われている)の中心に政治の中心としての聖の宮(11章のヒシヤのことらしい)が祀られていたと
されている。
そのことから出雲の白日神が古代出雲王国の聖の宮で、筑紫の白日別が邪馬台国の聖の宮とされる。
ただ、浜名氏によるとシラヒキワケは月支国(鞅綏韃)の人物ではなく戞牟駕(浜名氏は慶州の迎日湾に比定)
の人物なので、やや理解し難い部分があるが、聖の宮とは各国の首都の王廟ということだろうか。
次に、① の辰国賁彌王朝の出身である卑弥呼の系統についての概要は次のようになる。
契丹古伝37章では辰朝が漢の来寇を受けるさまが描かれているが、岡﨑氏
によるとこの時代にはまだかなりの倭人(弥生人)が朝鮮半島におり、そこから日本列島への移住が
本格的に開始されたのだという(p.136参照)。
40章の賁彌氏の最後の姫について岡﨑氏は、佐治説②(=鹿島説)と同様に末合を
ミマナ(任那)と呼ぶ(p.138参照)。そしてミマナは辰国に隣接する倭国で、当時の倭国は朝鮮半島南部と
北九州一帯であったとする。そして賁彌氏の姫は(ミマナから)倭国の邪馬台国(北九州に所在し、
辰国の分国)に逃亡したとする。
そして、卑弥呼はこの賁彌氏の姫で、宗主国の姫であったという。
この卑弥呼と壱与(イヨトメと同一人と岡﨑氏も解している)との関係が明瞭でないが、
後の著書で卑弥呼は半島から海を渡ったという趣旨のことが書かれていることからすると、
卑弥呼が壱与より一歩先に(あるいは同時に)任那経由で渡海したということなのかもしれない。
辰国について氏は、辰沄殷の流れをひいている国だけに辰韓より強大である旨述べられるが、
殷との関係の詳細については言及されていないため不明である。
辰国末期、多くの倭人・弥生人が北九州に進出し、分国を樹立していったとされ、これが倭国大乱と
なり、結局、卑弥呼を王とする邪馬台国がこれらの国の宗主国となったという。
辰国は壱与の(倭国への)帰化により滅亡したが、壱与による倭(馬韓)の賁彌王統として残ったといい、
半島でも辰国の権威を継承した馬韓が辰王の制度を存続できたとするが、やがて扶余からの
王子の亡命により馬韓は滅びたという。
筑紫に渡来していた倭人のグループは後から到来した宗主国の姫卑弥呼を中心としてまとまり
国家連合を形成し、その後一部勢力が東遷したと推定されている。
佐治本でも強調されていた漢民族vs東大神族の対立史観について、岡﨑氏も滔々と論じられており、
佐治本よりも美文で長文にわたっているが、ここでは省略する。
その他の論点について
契丹古伝16章の西征について、三人のワケが結集するほど辰国の権威が確立していた、とあるが(p.75参照)、
ここで辰国とあるのは、(5章の)辰沄氏と読むべきだろう(東族共通用語論参照)。
契丹古伝19章に関して、「東大神族が原郷に戻り、そこで統治を完成し・・峰での祭祀となった。」
とされる(p.81)が疑問である。なぜなら、チホヤヘチクシコム峰での祭祀はスサナミコが日祖の所に戻る
「前」に行われているからである。本文19章解説参照。
26章の裏切り者ケムソを(殷の滅亡後のある時期に)討った「ニギシ」という人物についてであるが、岡崎氏は
浜名氏とやや異なる捉え方をされている(p.109参照)(自説とも勿論異なっている)。
岡﨑氏は彼のことをニニギとも呼んでいるのだが、それは日本列島にいたニニギの命
ではなく、大陸にいた「倭人」であるとされる。
この当時は、倭人は大陸のいずれかの場所に(時に移動したりしながら)存在し、
後に日本列島に移住し、弥生人となったと推定している。
30章の東表王クルタシロスについて、東表とは倭人の国を指すが、当時未だ日本列島内にはなく、
東北アジアのある地域に存在していたとする(p.114参照)。
同じく30章に関し氏は、辰沄殷の脇腹が辰国(大辰)であり、東大族を代表する国はその辰国で
あるとされる(p.115参照)が、当サイトの立場とは異なる(本宗家論参照)。
34章の辰沄殷の滅亡に関して氏は
「殷の滅亡によって中華思想が名実ともに定着したということを意味するし、
東大神族対漢民族の一千年の長期間に及ぶ戦いに終止符が打たれた、」
とされる(p.132)。
これは同章の「周(の)武(王)の志」が達成されたという記述に対応するものと思われる。
さらに氏は、「この抗争の最終決着は、高句麗、百済が、漢民族である漢の支援もあって
新羅によって滅亡された時点である」とされる。
(この意味するところはおそらく、7世紀の新羅による半島統一という事象により東大神族が決定的
に力をそがれたということであろう。)
(この点については
次に出された著書でニュアンスが改められている可能性がある。)
最後に、岡崎氏が著書で重要視している李寧熙著『枕詞の秘密』について言及しておきたい。
李寧熙氏(『枕詞の秘密』)は、三輪山のミワは酒を意味する古代韓国語「ミバブ」から来ていると
いう解釈をしており、
それを岡﨑氏は紹介されているが、自分としては問題のある解釈であると思っている。
このような問題について詳細を語ることは時間等の問題もあり困難であるし、解釈は自由であるという
反論もあると思われる。
ただ、一般に××は朝鮮語で読めるという類の本はトンデモの極みであるとされていることに
は相当の理由があるといえる。
確かに絶対にこうだと言う解釈をすることは困難だが、良い機会であるので、契丹古伝解釈者である
自分としてミワの例に関して少しだけ自説を述べておこうと思う。
三輪山には御諸山、三室山の別名がある。
ここでミワ≒ミモロ≒ミムロということができ、音や語尾などが若干変わったものに過ぎないと
捉えることができる。
そして、ミムロというのは、契丹古伝5章に登場する毉父(医巫閭山・医無閭山)のイフロ・イムロと類音の語であり、聖なる山を
意味する東大古族語から来ていると解するのが自説であり、種々の山名の検討等からすると良い解釈
であると考えている。
したがって、ミワが古代韓国語で酒を意味するミバブから来ているというのは、単に音が似ているとか
そうであれば何となく面白いとかいうものに過ぎず、意味がないものと考える。
××は朝鮮語で読めるというたぐいの本は ほとんどこの「ミバブ」的な解釈で埋め尽くされている
ので、僭越ながら、これらの本を信じておられる方におかれては是非とも再考されることを
お勧めしたい。
○岡﨑倫久『明日を拓く日本古代史 倭のルーツは中国大陸』文藝春秋企画出版部 2021年
本書61~62頁で、この本は「契丹古伝史観」(個別の史書を「契丹古伝」を切り口にして考証することにより
統合し古代史を構築するもの)により考証した結果であると明示されている。
したがって前著に引き続き契丹古伝を正面から取り扱った本といえる。
内容的には前作に新たな内容を追加したものともいえるが、両者の共通部分を含め、両書籍とも複数回読まないと細部の意味が
取りづらい箇所がかなり含まれている。そのため両方を読み解くことで理解に資するという面がある。
以下、自分の解釈がどうということはできるだけ棚上げにして、この本の主張について自分が読解した内容を載せておきたい。
契丹古伝18章の楛盟舒(クマソ)(前作でも少し触れられていた)について、かなり重要視されているのも
本書の特徴の一つである。もともと浜名氏はこの部分について捏造の可能性もあると指摘されているが、
その捏造説を採らず、古代史解明の重要項目とされているという特色がある。
前作では取り上げられなかった崇神帝以降の日本の歴史につき、契丹古伝に基づく視点に絡めて
説明されている。それ以前の部分についても、前作に比べ内容がより具体的になった部分もある。
本作は前作と比べ佐治本の直接引用が少なくなったが、それでも佐治本と類似した表現・理解が
依然多く含まれていることを把握しておくと、読解に役立つ面がある。
岡﨑氏は前作でも採りあげた李寧熙氏による新著作『天武と持統』を重視され、
その著作でいう『古代韓国語読み』は岡﨑氏のいう『東大神族読み』とほぼ同じ旨を述べられている
が、非常に疑問がもたれる点について、上記「ミバブ」の話を参照されたい。
東大神族はパミール高原から東に向かった族と捉える(佐治説と同じ)(p.66参照)。
そして朝鮮半島北部に辰国を建設し、この国を宗主国として東アジアに侵攻していったとされる。
この点に関し、辰国については辰沄氏と読みかえるべきだろう(東族共通用語論参照)。
なお辰沄氏の位置について、自説の場合は満州方面となる(5章解説参照)。
さらに氏のいわれる「宗主国として~」については、本サイトの立場とはやや異なる。
自説では、医無閭山系本宗家の辰沄氏の一部が中国に移りあらたに鞅綏系本宗家の辰沄氏となった
と考えているので、読者はどうか混乱されないようお願いする(当サイト5章解説参照)。
「倭のルーツは、契丹古伝の記事から中国大陸の雲南地域でないかと私は推定している」
とされ、前著同様佐治説を採用している(p.70参照)。ただ佐治氏は5章を異説とし、契丹王家が加えたものと
見るが、岡﨑氏は、「(雲南を)起点として東北アジアに進出し」と述べているので、おそらく5章を
歴史と見ていると考えられる。
(この場合神祖もパミール高原もしくは雲南付近の「スサナミコ」とイフロ山に降臨した
「トコヨミカド」とでは別人ということになる)
「その後東大神族が地殻変動などによって雲南地方に帰省し、再進出している」とか
「契丹古伝では日孫は(天変地異により)雲南地域に帰還している(p.99参照)」
とされるのは佐治氏類似の説(佐治氏の誤解釈を受け継いだものと考えられる)。
(地殻変動後中原地域が広大な湿地帯となったとされているが、
海漠象変後のありさまとして佐治氏が描いている情景と近似している。)
(日孫ら)東大神族は雲南方面(高天原)に帰還(避難)したあと王国を創建し、(山で)
封禅の儀を行ったという記事が契丹古伝にあるとされている(p.100, p.193-p.194参照)が、実際には逆でスサナミコは山上で祝詞を
唱えた「あとで」高天原に帰還している点につき、本文19章解説参照。
(天変地異終息後)東大神族が治めた五原とは河南省の鄭州・開封付近とされる(p.185参照)。
本書は氏のいわれる「契丹古伝史観」を前作に比し徹底したもののようで、殷帝国の意義についても
一章をさいて述べられているが、ここでは省略し、本書の特色にかかわる部分を中心に採りあげて
いくことにしたい。
倭人のルーツについては(p.70)前作同様、雲南地区とし、そこから北東アジアに進出し(5章の降臨を指すらしい)、
また中国大陸での天変地異によって雲南に帰省し(19章の佐治氏的解釈)、再出発した(19章の祖風重興)とする。
倭人の故地である雲南地方を起点として(再出発後も)移住が繰り返され(p.82)、
(再び北東アジア方面に達し)あるものは松花江付近に入った、倭人の一部はニギシ系辰沄殷にもなり、また、31章の徐珂殷にもなったとされる。
半島には辰国があったとし(37章の辰)、それは東大神族の宗主国的存在であったという(p.210)。
辰国は前王朝からの禅譲により、賁弥王朝となり(p.70)、これは倭人の王朝であるとする。
本書では、「契丹古伝史観」に基づき日本列島に数々の勢力が入ったさまがあちこちの章に分散して
語られているが、まとめると次のような勢力に分けられると思われる。
すなわち①a 辰国賁弥王朝の出身である卑弥呼・邪馬台国(宗主国)の系統
①b その分家(崇神帝)の系統
②同じ倭人ではあるが別系統でより早い時期に鴨緑江付近から南下した出雲人の系統
③非東大神族である南原の楛盟舒の系統
④東大神族である徐の一族に属する徐福が日本列島に入った猿田彦の系統
そして④との関係もあり、秦帝国・徐福・徐族・その出発地である斉の地についてもかなりのページ数
がさかれている(楛盟舒の一部もこの地に関係するとされる)。
以下、各勢力につき②①a①b④③の順で氏の主張を自分なりに整理してみた。
②:同じ倭人ではあるが別系統で鴨緑江付近から南下した出雲人の系統
倭が松花江近辺に有る時期存在し、寒冷化のため水稲耕作ができなくなり南下したという(p.82参照)。
松花江近辺の地がスサノオの故郷ではないかとされる。
(出雲族の祖という意味で、全ての倭人の祖という意味ではないらしい。)
古墳の起源を紀元前後の高句麗前期の石塚古墳としている(p.90参照)。これらの中には、出雲地方の古墳と
似た型のものがあり、そこから出雲地方に倭人が移住した足跡の一つであるとしている
(その際安羅を経由しているらしい)。
①a:辰国賁弥王朝の出身である卑弥呼・邪馬台国(宗主国)の系統
(契丹古伝37章の)大国辰国は賁弥王朝となり、
この王朝が北九州に建国した国が倭国・邪馬台国であったという。
楛盟舒の伊都国の周辺に、東大神族の倭が強力な勢力として存在していた(半島の馬韓の倭の本流的勢力(の飛び地的なもの))。
そこへ宗主国の姫・卑弥呼が半島の辰国から移住してきた(p.228参照)。
この辺りは前著とほぼ同じで前著の方が詳しいが、新たに伊都国が楛盟舒系原住民の国という情報が
付け加えられたことになる。
卑弥呼の宮殿は高良大社であり(p.233)、卑弥呼の墓は北九州のどこかにあるという(p.87)。
①b:その分家(崇神帝)の系統
崇神天皇は朝鮮南部に居住していた倭人(馬韓人)であり、伽耶から
日本列島の大和に移住した大王であった(p.244参照)。
出雲の大国主命から東大神族の御神宝(広矛か)を譲り受け、日本在住の東大神族のトップになった。
(賁弥氏の卑弥呼とさほど遠縁でないと考えられるが、本来は九州の卑弥呼・壱与の倭国の方が
東大神族の宗主国的存在ということらしい)
大和の地には前著に従う限りその後東大神族の出雲王朝系が展開したが、大和は楛盟舒の神武天皇の
支配下におかれていた。
その後崇神天皇が到来し、出雲王朝を引き継ぐ形で楛盟舒から出雲王朝への覇権移譲がなされたという。
④:徐福について
徐福伝説で有名な徐福について、氏は、徐福は漢民族でなく契丹古伝31章の宛の徐氏の一族で、
東大神族であり(ある意味)倭人であるとする。
そして徐福は東大神族においても由緒ある家系であり、倭にとっても尊崇すべき家系であるとするが、
その理由が今一つ弱いようにも見受けられる。
(自分としては、もちろん31章の徐族自体は大族で重要な氏族であることは確かであるが、
徐福との関係は今後の検討課題であると考えている。)
また、徐族は4000年前、東夷集団鳥夷の一支族で(p.114)河北省にいたとされるが、
別の箇所では鳥夷は卵生信仰を持つ部族(のちの熊襲)で東大神族とは一線を画していたともあるので、
一見矛盾しているようにも見える。徐族と鳥夷の関係が気になるところである。
徐族と熊襲(楛盟舒)は互いに異族だが、鳥夷と呼ばれるほどの類似性・関係性はあったということらしい。
また、遥か昔、東大神族が西征する以前、徐族は鳥夷と共生していた(徐族は鳥夷の一支族)
とあるので、徐族・鳥夷は東大神族でなく五原の原住民となりそうであるが、
岡﨑説の場合、 パミール高原(または雲南)から東に向かった東大神族は "イフロ山に降臨した
「圖己曳乃訶斗(浜名読みでトコヨミカド)」" だけではなくそれとは別系の東大神族もありうるはずだから、その中の有力部族に徐族は
含まれるということに(楛盟舒は単なる原住民?)なるのだろうか。
徐福の故郷は 臨淄で、徐福は日本人の先祖の一人。日本国のかたちの屋台骨となる文化
に最も影響を及ぼしたものの一人とされる(p.155参照)。
(紀元前3世紀)徐福一行は日本列島の熊野に到着(p.186)、当時日本列島の支配部族は熊襲(楛盟舒)
であった(楛盟舒は鳥夷の末裔で、徐福とは親和性があるとされる)。
そしてこの徐福一族が、楛盟舒系の神武天皇がa安芸を過ぎる頃 やb熊野から北上する際
に援助を行ったという(p198, p236参照)。
この徐福系勢力のことをaについては八咫烏、bについては猿田彦と呼んでいるようだ(記紀に不掲載)。
猿田彦は、徐福もしくは徐族を宗族とする日孫の王であるという。
③:非東大神族である南原の楛盟舒の系統について
楛盟舒は契丹古伝18章で神祖に従わず海に放逐されたとされる非東大神族の部族である。
この部分につき、岡﨑氏は、
熊襲は楛盟舒の同義語とし、東大神族に順応しない部族であるとする。
熊襲の祖は「蚩尤」で、東大神族の「黄帝」(岡﨑氏によると東大神族の2代目皇帝)に敗れ、
一部が東海の海に逃れ、その末裔が熊襲となったと解釈されている(日本の原住民となったとされる)。
東大神族・倭人よりも先に日本一帯、特に日本海沿岸に東大神族に居住した先住民であるという。
黄帝が敗れた際、楛盟舒の一部は海に逃避したが、残りは山東方面の斉の地に居住し兵士神蚩尤
を祖神として祀ったとされる(斉の八神の一つ「兵主」が蚩尤神)(p.208参照)。
蚩尤と戦った黄帝について162頁に「この国(黄帝の国のこと)は、契丹古伝によると辰国であり」と
あるが、ここで氏は黄帝を中国大陸系辰沄氏の王の意味で用いているので、辰国は辰沄氏と読みかえる
べきだろう。
契丹古伝18章で楛盟舒の移動経路につき、浜名氏は「灘波」=沖縄の那覇、「蔚都」=鹿児島の
宇豆峯、「巨鍾」=筑紫とし、辰の領域に入って新羅となったとしているが、岡﨑氏はこれと
異なる説を提示している。
楛盟舒の中心地は筑紫・難波・日本海沿岸の若狭地方であるとされ、
まず北九州から難波へ一部が移住したことが「灘波を踏み」に当たるという(p.235参照)。
なお、北九州の伊都国や熊本近辺の狗奴国に熊襲が居住していた(p.151など参照)。
「蔚都」は丹波(若狭など)を指し、紀元前後 丹波は楛盟舒の一大勢力地であったという。
このように南原の箔箘籍(楛盟舒族)は(半島に入る前に)一旦丹波の地を経由し、
その丹波の王(皇子)が半島において(辰韓滅亡後、AD240年以降に)建国した国が「辰藩」で新羅のことなのだという(p.98参照)。
18章の「遺孽」は、その皇子のことで、妾腹の遺児の意であると解されるらしい。
楛盟舒が住む北九州へ、賁弥王家の卑弥呼が移住した時両部族の衝突があった(倭国大乱)が、両者が
協定を結び、東大神族の卑弥呼を北九州で共立して王とし、その際楛盟舒族の伊都国(金印の倭奴国)
が東遷した(p.218参照)。その際の伊都国王イワレヒコは本州の大和の地へ入り神武天皇となった。
(イワレヒコの東征とは楛盟舒の(当時の本拠地丹波に近い)難波・堺への逃避行だという)
楛盟舒は東大神族ではないが、人種的にほとんど東大神族と差異はないともされる(p.215参照)。
したがって漢民族から見ると彼らも倭国の倭人として記録されたという。
蚩尤を兵主神として若狭などで祀ったのが、応神天皇一族であるとされる(p.162参照)。
(応神帝・仁徳帝は熊襲系大王だという。p.80参照。)
これを考証するのも本書の目的の一つであり、
この考証結果により日本古代史が解明され、この解明により日本古代史の謎のほとんどが解明
されるのだとされる。
熊襲の一部は半島に渡って新羅王家の祖にもなったが、列島内熊襲は後に武装化し武士として台頭
したのだという。
○各勢力の交渉のありさま
以下は、勢力別ではなく、各勢力の交渉の様子を描いた岡﨑氏の記述について紹介していく。
熊襲であるイワレヒコ(神武天皇)は出雲の根拠地である奈良で出雲との協調体制を樹立した(p.274参照)。
その後崇神天皇(東大神族)が熊襲と争い勝利し、出雲祭祀※を継承する。
※出雲祭祀に関し、通説では同一神とされる大物主と大国主を岡﨑氏は別の存在とされている(p.287-p.288参照)。
しばしばみられる指摘で不思議なことではないが、氏の場合両者をどう区別されるのかが
分かりにくいことは事実である。
大物主は出雲で祀られた白日神であり後世崇神帝ともなったとあるので、
出雲王家で祭祀対象となる日孫系神子を大物主ということもあり、最後に海を照らして到来した
崇神帝をも大物主ということになるらしい。
崇神帝は九州の倭国(東大神族本宗家)の分家である任那の出であるといい
大国主命から出雲を譲られたという。崇神系が祀るのが三輪神社(祭神は大物主神)で、一方、
出雲王朝系神社が祀るのが大国主命とされる。
後者の祭神には崇神系が含まれないという差異があるという趣旨かもしれない。
応神天皇は丹波の楛盟舒系で、崇神系王朝(出雲王朝の継承者)の覇権を自らに移譲させた(p.224参照)。
本州の大和は神功・応神以降楛盟舒系が主流となるが、その時代にあっても
九州には倭国(東大神族宗主国)が依然存在し、倭の五王もこちらの倭国の王であるという。
その国はその後磐井の時に敗戦により権威が失墜するも、600年タリシヒコの時には遣隋使を派遣した。
そして白村江の戦いの後九州の倭国は衰退したとする。
527年の磐井の乱は、九州の東大神族と大和の熊襲(一部東大神族を含む)との戦いだという(p.252参照)。
7世紀本州の都が熊襲社会から東大神族社会に移行
するにあたり藤原不比等の政策が反映され、伊勢神宮を造営して朝廷の祭る神を天照大神に変更した
(それまでは大和の倭国は[楛盟舒系でない限り]大国主命を含む出雲系祭祀を継承していた)。
そして大国主命は新たに出雲大社を建造してそこに祀ったという。
これらの造営により祭祀を日孫・大国主命系から日祖・天照大神系に交替させ
天照大神を日本国の神として再登場させたとする。
ここに古代出雲王国は滅んだのだとする。
(この新体制において)「帝」から「天皇」への転換がなされ、
一人でなかった「日孫である命」の権威と権力を一人の天皇に統合する
「皇国史観の世界」への転換という思想革命がなされたという(p.85参照)。
これが万世一系の天皇制の創始で、日本書紀によって概念の統一が図られたという。
氏は渡来した人物の中でスサノオ・スクナヒコナ・崇神帝
の名を特に掲げている。これらは氏のいう古代出雲王国と関係のあるとされる存在である。
天武天皇の正体について小林恵子説・李寧熙説等を参照した上で莫離支任武という人物と
同一視するなどして、楛盟舒系であると結論される(p.284参照)が、(小林・李説に基づく根拠として挙げられている)
神宮系資料に見える「仁武天皇」は神亀元(AD724)年に即位した旨その資料に明記されている以上天武天皇と同一人物と見るのは無理では
なかろうか。
以下、その他の論点に触れた後、全体の感想を述べさせて頂く。
その他の論点について
p21で、契丹古伝によれば、スクナヒコナ命はモンゴルから渡来した、との記載があるが、
契丹古伝にはそのような記載はなく、浜名氏の解説(解釈)中にスクナヒコナが可汗の派遣した船に載って
大国主命のところにやってきた、とあるだけである。しかも浜名解釈によればその出発地は「古代の
韓郷」であってモンゴルではない(溯源p297, 詳解p.11)。
35頁で、牛頭天王を素戔嗚命に比定されているが、20頁でキリコエアケについて佐治説
(スサノオこと牛頭天王が思いおこされるとされる)を参照しているからだと
思われる。ただ佐治説も基本スサノオ=スサナミコと考えていると思われるので、
読者は混乱しないように注意する必要があるかもしれない。(蘇民将来伝説の主人公
牛頭天王が神社の祭神としてスサノオの命に比定されていることはたしかだが、それは
唯一絶対の説とはいえない。)
いずれにしてもこの箇所で岡﨑氏は、素戔嗚命は「出雲の白日神を崇めた一人」で
「日孫の神祖の一人」としており、少しわかりにくい。が、前著190頁にもあるように、
出雲の白日神は「古代出雲王国」の都で祀られる神であるから、その神をあがめた素戔嗚命はスサナミコでは
なく、その子孫で出雲で王国を営んでいた王家の誰かということであろう。
契丹古伝16章の東大神族の西征について、
日孫に協力する3人のアケは倭人(大陸内の)・朝鮮・遼河地方から一人づつ渡海したものだとする(p.95参照)。
これは佐治説を微修正したものらしい(詳細は佐治本についてのコメント参照)。
26章のニギシ(ニニギ)は北東アジアに居住していた東大神族の一部族の長であるとされる。
彼が(BC1000年頃)、先の天下分け目の戦い(牧野の戦い)で裏切った朱申宗族を攻め
血祭りにあげたという。
またニギシの子が(箕子の養子に入り)辰沄殷を継承したとしている。
これらの点に関する自説については、適切なページを参照されたい。
(146頁で、ニギシ(ニニギ)はこの地でニニギ王朝*を確立した倭人のレジェンドと岡﨑氏は捉えており、
しかもニニギは大和の天孫族の王ではなく、記紀編纂時に倭人の王として取り込まれたものと解している。
(大陸のニニギ王と(千数百年後の)崇神天皇は共に倭人ではあるが別系の可能性もあるということ
らしい。)
(この点について、そもそもニギシとニニギ命は全くの別人と考えるべきというのが自説である。)
*ニギシ(ニニギ)の当時倭人は遼東半島か、遼河の東側か、または鴨緑江沿岸の東アジア北東・
卒本地区にいたとしている(p.139参照)。
27章の周を破る、の内容については、佐治説と同様浜名説に従っている。
殷が周の武王によって破られた後、周が殷の祭祀継承者として認定した王朝が周の属国である「宋」
であるが、当サイトの立場では、これはあくまでも周の勝手な認定で、契丹古伝としては殷叔(箕子)の
辰沄殷・その養子の殷へと継承されていくことになる。
この点に付き岡﨑氏は独特の論を建てている。
すなわち上記周代の「宋」は宗主国で、西周が衰え、戦国七雄の争いが激化したころの
東大神族の宗主国も宋であった(p.158参照)。それが西周を滅ぼした晋となり、中国を統一した秦となったが、
周代の宋自体は実は千年以上存続し 南朝の宋になったという(p.139など参照)[一般常識とは異なる]。
したがって倭の五王が遣使した中国南朝の宋について氏は殷の系統の国で東大神族の宗主国で
あったという(p.249)。
東大神族同士であるから遣使したという趣旨のようであるが、周代の宋にしても南朝の宋にしても
自説からは宗主国とすることはできない(34章解説参照)。
まとめ
本書には、筆者の「鑑識眼」など、歴史把握の視点に関する記述がかなり含まれているが、
氏の視点を要約すると、
① 前著から強調されている視点すなわち
a神祖を祭祀する「契丹古伝」的精神の時代(出雲・大和では[楛盟舒系以外]大国主命を祭祀)
→b記紀の「皇国史観思想」「万世一系思想」によりaの精神が損なわれた時代(奈良時代以降)
→c理性的な思想をもつ日本国憲法によりbの皇国史観思想が否定された現代
というものの他に、
② 非東大神族である楛盟舒が度々日本で権力者となり「権力の強いものが統治する」
という考えで日本を統治するという事態が生じたが、これに対抗して、
藤原氏が東大神族的政教一致政治を構想し、元明女帝の時に東大神族的政治が具現化された。
藤原氏・中臣氏のもと神社格付などが行われ、東大神族的国体の在り方・卑弥呼の政治体制の
在り方が具現化された。藤原不比等は万世一系思想が世界精神であると読み、これは間違いでは
なかったのであるとし、彼は哲学者であったとする(p.311-p.314参照)。
そのうえで、
日本史は古代から次の二つの民族の抗争史である
・天照大神を信奉する東大神族・・(例)崇神天皇・景行天皇・天智天皇・藤原氏・平安政権・平家・信長・島津氏
・八幡神を信奉する熊襲(楛盟舒)・・(例)神武天皇・神功皇后・応神天皇・聖徳太子・舒明天皇・天武天皇・持統天皇・源氏・足利氏・明智光秀・徳川氏
という視点がある(自分なりの要約なので、正確には実際の本を参照されたい)。
この①と②の両者の視点が微妙に矛盾しているようにも思えるという不思議さがある。
そのような複眼的視点で書かれている本である。
しかし、契丹古伝に登場する東族系諸国・諸氏族について、日本で具体的にどう展開していった
という考察をする本はほとんど皆無であるから、そのような意味では画期的な面があるともいえる。
浜名説では太古から本宗家が日本列島内にあるという立場であるから考察不要ともいえるが、
そのような立場を採らない場合、何がどう展開していったかを論じるのは極めて難しい。
それにもかかわらず、「契丹古伝主義」で現代にいたる日本史を把握する試みを行ったという点で、
ここまで切り込んだ本は未だ出たことがなく、(内容の肯非はともかくとして)
注目すべき本かもしれない。
ただ、倭人の中でも出雲系と本宗家系で祭神が異なるとされる点は、読んでいて混乱しやすい点の
一つであろう。本来日祖は共通の祭神になるはずだが、著者が島根の出身である関係で、天孫系神社
・出雲系神社の祭神の相違という現実に引き寄せた説明をされたためこうなっていると思われる。
その他、日本史の中で楛盟舒系の占める比重が高いなど、にわかには信じがたい記述が多いことは確か
である。
契丹古伝の40章以降の神子神孫の日本に与えた影響について自説を述べてほしいという
希望を持つ方もおられると思うが、今回それを述べずに基本岡﨑説の紹介に留めている点を了承され
たい。もちろん岡﨑説をプッシュするという趣旨ではないので、誤解なきようお願いしたい。
以上
2022.1.2
(c)東族古伝研究会