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4章詳説(東族共通用語論) ──国の名「辰沄繾」は本宗家についてのみ使用される用語なのか
(附・田中勝也氏の辰国関係用語の使用法に関する疑問)

この第4章では神祖の子孫が各地に国をつくり繁栄した際、各国で使用した共通の用語に ついて述べられている。以下に読み下しと現代語訳を示す。
族 萬方 | ばんぽう | はびこる。
| びょう弗菟毘 | ふとひ曰ひ | いい。廷を蓋瑪耶 | こまやと曰ひ。国を辰沄繾 | しうくと曰ひ。族を称して並びに辰沄固朗 | しうから | し。民を称して韃珂洛 | たからと為す。皇を尊んで | また辰沄繾翅報 | しうくしふ謂ふ | いう
神子神孫四方に国する者。初め | みな | これ | れり。

族はあらゆる方角に広がった。
| びょう」を(彼らの言葉で)「弗菟毘 | ふとひ」といい、「廷」を「蓋瑪耶 | こまや」といい、「国」を「辰沄繾 | しうく」と呼んだ。各「族」をおしなべて「辰沄固朗 | しうから」と呼び、「民」を「韃珂洛 | たから」と称した。
[「辰沄繾翅報」は日孫の御名であるが]「皇」を尊んで呼ぶときにもまた「辰沄繾翅報 | しうくしふ」といった。
神子神孫であって四方に国を構える者は、当初は皆、以上の言い方によっていた
初めみなこれによれり、の「これ」というのはその前にある弗菟毘 | ふとひ以降 辰沄繾翅報 | しうくしふまでの用語法をさす。
すなわち
「~を~と云う」とか「~を~と称す」というその用語法に従うという意味である。
これらの用語は神子神孫が各地に作ったどの国でも当初は同じ言い方をしていたという ことになる。

浜名氏も第4章に「東大神族」というタイトルをつけた上で、次のように解説している。
・・・(一部略)蓋瑪耶 | こまや高天使鶏 | こまかけから取義した廷名であらう、・・・ 辰沄繾 | しうく は東大国。辰沄固朗 | しうから東大神族 | しうから韃珂洛 | たから国神族 | たからである。 辰沄繾翅報 | しうくしふは・・日孫 | にっそんの名であるが、皇を尊んで | また | | ふとのこと。そして | しん | 神孫 | しんそんの四方に | くにする者、最初は 皆このとほりの | | ごう | ゆう | を用いたと、遠き | いにしへを物語って居る。
(参考・現代語訳)・・・(一部略)蓋瑪耶 | こまや高天使鶏 | こまかけから意味を採った廷の名であろう。 ・・(一部略)・・
辰沄繾 | しうく は東大国。辰沄固朗 | しうから東大神族 | しうから韃珂洛 | たから国神族 | たからである。
辰沄繾翅報 | しうくしふは・・日孫の名であるが、皇を尊んでの尊称としてもまた辰沄繾翅報 | しうくしふというとのこと。そして神子神孫で 四方に | くにする者は、最初は皆、このとおりの美号優号を用いたのだと、遠い | いにしえのことを物語っている。

(浜名寛祐 溯源p.311-p.312, 詳解p.25-p.26 太字強調は引用者による)
さらに上記の記述に続けて浜名氏は 蓋瑪耶や珂洛の語につき諸国に使用例があることを検討している(溯源p.320-p.327 詳解p.27-p.34参照)。
このことからしても、 浜名氏も「用語法が共通」という解釈をしていることが明らかである。


ところが、これに対する異説がある。この異説があるため、 一見どうてもいいように見えるこの論点が無用の混乱を引き起こすことがある。
当サイト開設時に掲載して置くという案もかつて検討したが、結局見送ったことにつき若干の後悔 がないでもない。(本宗家論でも既に若干の言及はしている。) 当時見送ったのは、初心者向けでないからであった。今もこのページの意義に疑問を呈される方も 多いとは思う。しかし、当面の読者がたとえ少なかろうとも、将来の読者に期待して、今回あえて執筆することにした。

田中勝也氏は4章相当部分の冒頭を次のように訳す。
神祖の | ●●●廟堂を弗莬毘といい、神祖の国は | ●●●●●宮廷を蓋瑪耶といい、
国名を辰沄繾といい、一族を辰沄固朗といい、国民を韃珂洛といった。

(田中勝也 『古代史原論 契丹古伝と太陽女神』 新装増補改訂版 批評社 2012年 p.52) 太字強調・傍点は引用者
「神祖の」という限定語が付けられていることに注意されたい。
この解釈だと蓋瑪耶にしても辰沄繾にしても辰沄固朗にしても、神祖が開いた国に限定しての名称と いうことになる。
共通用語どころではなく、東族の本宗家 | ほんそうけ の国(以下本宗国とも呼ぶ)でのみ使用可能な言い方 という解釈に展開していきかねないことになる。この説を「本宗家限定説」と呼ぶことにする。
どちらの説が正しいだろうか。契丹古伝4章の途中の、 「族」と「辰沄固朗」に関する記載を分析してみると比較的容易に答えが出せる。
族を・・・並びに辰沄固朗 | しうから | し。
(各「族」をおしなべて「辰沄固朗 | しうから」と呼び、
この「族」とは4章冒頭に登場した、万方にひろがる「族」と同義であろう。
そして 冒頭の「族」の広がった「万方」とは本章末尾付近の「四方」と同じとみるのが 自然であるから、「辰沄固朗 | しうから」と呼ばれる「族」とはすなわち、各地に広がった神族たち を指すと解するのが当然である。
つまり各地に広がった神族はみなおしなべて「辰沄固朗 | しうから」と呼ばれる同胞である、 という意味であり、これが浜名氏以来の伝統的解釈である。
ところが本宗家限定説の場合、本宗家の国内に限定された話となるから、 本宗国を構成する国内各族のみを「おしなべて辰沄固朗と呼ぶ」ことにな り「四方に国する」神子神孫の国の民は辰沄固朗 | しうからではないことになるが、不自然な解釈である。
以下その理由を述べよう。

そもそも、本宗家限定説の場合、もし冒頭の「族」を上記のように「四方」に広がった 神族とみるなら、冒頭と末尾の記述は、各地で国を営む神孫の下で繁栄する人々の様子 に関わるものなのにその間に挟まったものはなぜか本宗国内部に限った話となってしまい 不自然である。
また、それを回避するため、冒頭の「族」の方は、まだ「神祖の国」一つしか国がなかったころ に人々が拡散していった様子を表すという主張もありえそうである(田中勝也氏の場合おそらく こちらであろうか)。
だが、仮にそうだとすると、 そもそも、国の名とか廷の名などは、「神祖の国」の民が広範囲に広がる前と後で 変更する必要性がないはずなのに、なぜ冒頭に族は「万方に」広がったと記してから 用語集の記載をしなくてはならないのか、ということになってしまい理解に苦しむことに なる。
その場合特に「万方に広がった」と冒頭に書く必要性はないといえる。

従って、本宗家限定説は誤りであり、族が万方に広がり、神子神孫があちこちで国を営む 状況における、神族共通用語について記したのが本章であると解すべきである。

なお、田中勝也氏の解釈にはまだ変わった点があり、それは次の部分に見られる。
皇(君主)を尊んで辰沄繾翅報といった。神祖の子孫らは皆、この称号を名乗った。(同書p.52)
上記訳文の後半部分(神祖の子孫らは皆この称号を名乗った)は、原文の「神子神孫四方に国する者、初め | みな之に | れり。」 の訳であるので、「これによれり」の「これ」を辰沄繾翅報という尊称の使用限定する異色の解釈である。
しかも田中勝也氏は「本宗家限定説」でありながら 「辰沄繾翅報」称号に関してだけは「神子神孫四方に国する者」が名乗れる共通用語と して扱うという点でも異色※である(後者の点を「共通用語範囲限定説」と呼ぼう)。
辰沄繾翅報が共通用語であるという部分については自説と結論同旨であるが、 その他の点では問題であり、その理由は上記の通りである。
※まさかとは思うが、 田中勝也氏は「辰沄繾翅報」称号に関しても「本宗家限定説」を貫かれる、あるいは貫きたいと思われている 可能性がなくもない。それは「四方に国する」の訳が抜けているからである。 悪く解せば、「本宗家の神祖の歴代後継者は国がどこに移動しようともこの称号を名乗った。」 と無理やり解しようとしているという疑惑がないでもないが、文脈上ありえない解釈であり、 この解釈を氏が採っているとはさすがに思いたくない。本来本宗家が移動するのは 異常事態であり、まだ国が始まった段階の描写にふさわしくない。またその移動を四方と形容するのも愚かしい話であるからである。
従って神族共通用語の範囲を限定するべきでないし、「これによれり」の「これ」は辰沄繾翅報という尊称の使用に限定 するべきでないから、「これ」についての田中勝也氏の解釈も不適切であるということになる。

田中勝也説の場合、本宗家の国のみが「辰沄繾」ということになる。
そして田中勝也氏の説で問題なのは、この解釈が、氏の契丹古伝解釈全体に大きな 影響を与えてしまっていると思われる点である。あるいは、氏の解釈の核心部分を 支える役割を果たしてしまっている点である。

その話はさておき、4章の解釈問題に戻ると、そもそも、「辰沄繾翅報」 については諸国の共通呼称なのに国名「辰沄繾」だけは本宗家が独占する、ということに、 田中勝也氏の説ではなるとすれば、その点でも氏の説は不適切であるといわざるを得ない。

その不都合さをごまかそうとするためには、田中勝也説をさらに徹底させて、 「辰沄繾翅報」の称号までも本宗家が独占すると解釈してしまうという解釈が 都合良い解釈であることは確かであろう。
といっても上で小さい字で記した解釈は論外であるが、別構成としては、 各国の神子神孫が「本宗家の大皇」に対してのみ「辰沄繾翅報」と お呼び申しあげる、という解釈を採ることは一応考えられる。
この場合、さらに、蓋瑪耶、その他の呼称についても同様に、各国の神子神孫が、本宗家のそれに 対してのみ、各呼称をもってお呼び申しあげるということになる。
辰沄固朗については、本宗家国から見た他の国の同胞をまとめて辰沄固朗と呼ぶ、等の処理もありそうではある。
そのようにしてしまえば、少しは改善された解釈になるようにも思える。
しかし、上の方で書いた「万方に広がった」と冒頭に書く必要性はないという批判は 依然妥当しよう。

しかもそれだけではない。
4章の末尾の表現は、神子神孫で四方に国する者であり、その意味は、四方で国を構える統治者である。 決して四方の国に居住する一般人のことではない。
すると、本宗家の国の尊い廟や国名をしかるべき名称で「お呼び申しあげる」行為というのは、 小国の統治者に限らず一般人も当然行うことであるのに、なぜ、国を構える統治者だけが そのように行ったという表現になっているのか、ということになってしまう。
これは極めて不自然なことだろう。 よって、そのような修正説は、改善どころか改悪になるので、結局採ることはできないだろう。


(注・原文の「国する」というのは、『荘子』則陽篇にも見える表現で、「国を構える」 「国を統治する」という意味で、君主として国を運営することを指す。一般人が国に住む という意味ではない。
参考『荘子』則陽篇 「蝸の左角に国する者あり、触氏という。
[=蝸の左の角に国をかまえるものがいて、触氏という]」参照。
寓話ではあるが、触氏は戦争の主体であり統治者。実在の君主を諌めるための寓話である ことから、その意味はあきらかである)

さて、田中勝也説の話はまだ続けられなくもないが、長くなるので一旦中断する。

4章の解釈に関する説として最後に有賀成可説について一応触れておきたい。

・・・と思ったがあまりにマニアックな話なので本ページ末の補注にまとめておいた。

それでは田中勝也説における問題点について引き続き検討していく。



○田中勝也説における問題点・・・「本宗家」の国イコール「辰」なのか


繰り返しになるが、田中勝也説の場合、本宗家の国のみが「辰沄繾」ということになる。 そして田中勝也氏の説で問題なのは、この解釈が、氏の契丹古伝解釈全体に関係して しまっていると思われる点である。あるいは、氏の解釈の核心部分を 支える役割を果たしてしまっている点である。

田中勝也氏の書き方はさりげなく進められているため、この点に気がついておられない 方も多いと思われる。
契丹古伝に引用される書物の一つである「辰殷大記」の「辰殷」 が「辰沄殷」と同義であると捉えた氏は「辰」=「辰沄」であるとして、 次のように述べる。
「辰沄」の号が辰とも言われたこと・・・{は}『契丹古伝』に登場する諸々の 辰沄族が辰の系類であることを教えている。(同書p.68)
さらに氏は「辰沄氏を名乗った箕子殷を辰の系類として認識している事実」 という言い方をされたりした上で、さらに次のように述べられる。
・・・結論的に言えば『契丹古伝』は辰とその後継国家や支族についての歴史を 記したものと理解できるのである。(同書p.68)
これではすべての源流が「辰」という国に始まるように読める。
また、辰=辰沄とされることからすると、氏が「辰沄繾」という国名は本宗家が使うものと 限定的に4章を解釈されるのもこのことと関係していそうである。

しかし、契丹古伝には神祖の国の国名を「辰」とした部分はない。
5章で、毉父の地の辰沄氏が初めての「辰沄氏」で、鞅綏の地の辰沄氏がその次の「辰沄氏」 であり、これが二大宗家だと述べている。

そこで、もしこれらの本宗家の国を便宜的に「辰」と呼ぶ、というのであれば まだ話はわかる。ところが、田中勝也説ではそう単純ではない。
ここは正確な説明が必要だと思うので、冗長な説明になるかもしれないがご容赦いただきたい。

そもそも契丹古伝には、37章に「辰」という国のまとまった説明があり、34章・36章・38章・40章 にもその名が見える(30章の大辰も同じ国と解するのが一般的である。)
この国は、魏志や後漢書に登場する「辰国」(二千年ほど前に半島に存在)でもあって、 その実態について学問上諸説入り乱れている状態である。
ただ契丹古伝では、37章で辰は東表の阿斯牟須氏系との説明がある。
そしてこの阿斯牟須氏は第5章の「東冥」の「阿辰沄須氏」と同じと考えられている(浜名氏以来の通説。 「東表」=「東冥」ということになる)。
だが、この「阿辰沄須氏」は5章で二大宗家の記載の後に、それとは別の系統 として記載されているもので、宗家とは記されていない(有力な系統ではあろう)。
その阿斯牟須氏の「東表」から分かれたのが37章の「辰」国なのだから、 この辰国は本来「本宗家の国」ではないはずだ。

従って、もし5章の二大宗家、毉父の地の辰沄氏と鞅綏の地の辰沄氏を 便宜的に「辰」と呼ぶのであれば、37章の「辰」国は名前がたまたま同一の 別の国であるとして説明する必要がでてくる。
ところが田中勝也氏は、むしろ、37章の辰国が本宗家そのものであると主張されている。
例えば40章の文について氏は次のように説明されている。
墟を悲しむと同時にそのものではない辰沄殷についても、その滅亡した 姿を嘆いているからである。
これは・・・辰沄氏を名乗った箕子殷をの係累として認識している事実を物語る。・・・
ここにも辰沄の号を名乗る氏族が辰とかかわりあっていることのもう一つの証しが あるのである。結論的に言えば『契丹古伝』は
とその後継国家や支族についての歴史を 記したものと理解できるのである。(同書p.68)色分け・太字強調は引用者による
上記「墟」「そのもの」「の係累」の辰は、40章の辰を指し、 37章の辰の延長線上にある国である(浜名氏もそう解している)。 (ただその担い手が賁弥辰沄氏である特殊事情から、解釈次第では、殷の権利も併有していると 見る余地があるが、それは今の問題とは別の話である。) その「」は基本37章の辰の意味であるが、本宗家としての意味 で「辰」と書かれているとは通常解されていない。
しかし、田中勝也氏の上記説明中のは神祖の国、太古の本宗家という意味でないとつじつまがあわない。 とすると、田中勝也氏は本宗家の意味の"辰"と37章以降の辰を同一視していることになる。
このあたり以下の記載をお読みいただければさらに明確になると思う。

浜名寛祐氏は、37章の辰国について以下のように述べているが、田中勝也氏とは異なり、太古の辰沄氏の国がその辰国だとは 全く述べていないし、むしろ逆であることに注意されたい。
辰は辰沄繾の略称である。
・・・縉雲が、 | すなわち | また 東族の辰沄なりと理解され、粛慎の粛もそれ{(=辰沄)}なりと肯定され、 女真の女も亦さうである。
辰沄は東大の義、辰沄繾翅報は東大国君霊の義、・・・
漢魏史の謂はゆる辰王は{辰沄翅報の}尊号の漢訳された者である。
其の尊号のシウシフは、東大族の全般に共通せる霊語であつて、 訳字を替ゆれば、粛慎であり女真であるが、・・・・ 粛慎と書かれ・・たる辰沄氏は、 | 辰国ではない。 女真と書かれ・・たる辰沄氏は、復た辰国ではない。」
・・・辰国は辰国としてその疆域を画し、他の辰沄氏と別れて、 その存在の自証を為した者なれば、其の源に溯って水質の本源を味ふ時は | いずれも一つ | ひとつ | ながれの分派なれど、・・・其の過ぐる所の地方に由って、或は青く或は白く、・・・ その色彩を歴史・・・ともいふが、・・・
(浜名 溯源p181)太字強調は引用者による

もちろん、神祖は辰沄繾翅報を含む名号を称したのであるから、 神祖が開いた国の名は辰沄繾であるという推理をすることは一応可能ではある。
しかし、神子神孫が各国で似たような呼称を用いたのだから、 半島古代の辰国も「辰沄繾」であるがそれは唯一の辰沄繾ではない、
粛慎もある意味辰沄繾に通じるがそれも唯一の辰沄繾ではない。
浜名氏の文章を読み取ればそのような結論に導かれよう。
源流にさかのぼれば一つであるが その源流を辰国とは呼んでいないし、半島古代の辰国がその源流と格別な特殊の関係を持つとは 述べていない。
仮に源流を辰国と呼んだとしても、半島古代の辰国は似た呼称を使用した 神子神孫の一つとなるはずである。
ところが田中氏の場合は半島の辰国は神祖の辰沄繾の直系の国であるといっているように 見えてしまう。

田中勝也氏は37章にあたる部分(東表系の辰について述べられている箇所) について「神祖は辰の国祖と | とら えることができる」とされる。
そのこと自体は同章に「神祖の子孫に辰沄謨率氏あり」とあるし、 辰王も神子神孫で神祖の遠孫である以上一見問題なさそうに見える。
しかし、田中勝也説の場合、神祖が国を建てたときから、その国は「辰」 であり、かつ「辰」がその名を保持している以上本宗家であるといっておられるのではないか。
実際田中勝也氏は、上記「神祖は辰の国祖と把えることができる」 という言い回しで実は無理を押しとおしておられるようにみえる。
というのも、氏は、「("神祖スサナミコが降臨し国を開いた"といった)神祖伝説」におけるその国は そもそも如何なる国(何という国)の話であったのかという疑問を提出されたうえで、契丹古伝上明確な記載は ない旨をまず述べられる(田中勝也氏前掲書p.66参照)。
その上で、氏は、上記の37章の解釈を持ち出し、 論理的に「神祖は辰の国祖」となるとされる。この表現における田中勝也氏の意図はどうやら「神祖は(37章の)辰の初代王である」 ということを述べられたいようで、もし本当にそうなら神祖スサナミコの国は「辰国」の古い姿そのもの ということになる。
そこから氏は
神祖伝説はとりもなおさず古国辰の伝承を伝えていると理解できる(同書p.66、太字強調は引用者による)
という結論を導かれるのである。これが先の疑問に対する答えということになる。
さらに、
神祖に象徴される辰とは・・どこに成立していたものなのか。(同書p.68)
との問いを発された田中氏は、5章の毉父の辰沄氏の発祥の地医巫閭山などを検討した上、 「辰の故地は中部満州から以南の満州領域ということになる。」(同書p.69) と、本宗家についての5章の記述をそのまま初期の辰の姿としてしまっている。
名前だけの問題なら良いが、東表系の「辰」と直結する存在とする捉え方は おかしい(5章に無理な解釈を付加する必要がでてくることになるだろう)。

そもそも、37章の東表系の辰について、契丹古伝の「費弥国氏洲鑑の賛」 は辰は古国で上代悠遠なりと書いているが、 これが、神祖の建国の時から続く本宗家であるというのなら、上代悠遠なのはあまりに当然すぎる話 であり、わざわざ「辰は古国」と書くまでもまでもないことである。 これをわざわざ書いている、しかも費弥国氏洲鑑の末尾近くで書くというのは、 本宗家ではないが、それなりに古い伝統をもつ別の国を紹介するという意味なのは明らかであろう。
従って、東表から古い時期に分岐した古い国という意味に解するのが通常の理解である。
従って、神祖は辰の遠祖ではあるが、辰の初代国王ではなく、神祖の子孫の「東表の阿斯牟須氏」 からさらに枝分かれしたところに辰の初代国王が位置すると考えるべきである。

田中勝也氏の説明では、辰が最初の本宗家で、箕子の殷などはその後継・氏族ということになってしまうが、 前出のように40章の辰国は37章以下の辰と同じで東表系統の辰である以上、あきらかに5章 の本宗家辰沄氏とは異なる。


37章において、辰の中で最も | あらわれた者(最顕者)を安冕辰沄氏というとの記載がある。
最も顕れた者というのは、常識的解釈では、半島にかつてあったという辰の中の
最も有名な威勢のある勢力ということである。
浜名氏的に解すれば辰の五王統の中の最大優良勢力となり、 自説では単に(賁弥辰沄氏以前の)辰の伝統的最大勢力となる。

顕れた者というのは、有名で威勢のある者という意味である。 (『孟子』離婁下に「顕者」(名の知られている人)の例がある。また同じく『孟子』で晏子以其君顕 のような用例 がある。顕は有名で知られるという意味がある。「貴顕」は、身分が高く有名なことをいう。 顕の字にも種々の意味があるが、この文脈では他の解釈はありえないだろう。 浜名氏のように「 | あきらかな者」と訓読してもその点は不変である)

「顕れた」の箇所につき、田中勝也氏はその部分を「実態が最も明らかな」と訳されているが意味がややずれている。
その直前の「今不可得攷(今よくわからない)」と対比させて工夫されたのかもしれないがその対比は誤りである。今不可得攷は注釈の一部に過ぎないからである。
田中勝也氏の訳以前に出された佐治氏の本においても「もっともはっきりしているのが~」と訳されており、これも誤りである (佐治芳彦『謎の契丹古伝』p.155)。)
一方高橋空山氏は「顕」の部分を「いちぢるし(き)」と読んでおり、自説とほぼ同一の良い解釈といえる (高橋空山『契丹神話』p.28)。)
一応、ここは田中勝也氏のその部分の解釈は修正して話を進めよう。

この点、田中勝也氏の場合、辰は神祖の建てた国だから、 神祖の建国以来で最も顕れた者という解釈になるはずだ。
すると問題が生じてしまうのである。
つまり神祖が降臨した時も辰国、 大陸の五原を征服した時も辰国であるのだから、 その頃の辰国の方がよっぽど威光が輝いていることにならないのだろうか。

一応この点、氏の説も巧妙なしつらえがなされていて、「神祖なる神人格が神話的存在である ゆえんであり、辰の祖先が中国本土を支配したという架空の物語を以ってその権威を誇張したのである」 との記載がある(同書p.71)。どうも、神祖の国「辰」はずっと満州方面にあって、中国本土に「五原」という 植民地的なものを設けたと理解されているらしく、しかもその支配が架空であるというのである。 そして浜名氏の章区分でいう21章以前は神話的部分で22章以降はほぼ一定の史実に基づく伝承と される(同書p.71)。
とすれば中国支配は架空だからその時の支配者は「最も顕れた者」にならない、ということに なるのだろうか。
この「架空論」も非常に問題ではあるが(箕子の国が殷の再興でもあるという氏の解釈の扱いがどうなるのか等)、
それはさておき、氏の説で問題なのは21章の記載についてである。 契丹古伝上「費弥国氏洲鑑」は21章から始まっていることに注意すべきで あろう(39章まで続く。)
「費弥国氏洲鑑」の立場として21章は神話であるとはいっていない のであり、浜名氏も20章以前を神話篇としているのである。
従って堯と舜(21章参照)が東族の翅報として五原を支配したことは 「費弥国氏洲鑑」でも事実と扱われている。


したがって「辰」を本宗家と見る限り37章の「辰」の「最も顕れた」時期は堯・舜のころ即ち 西族到来以前の超古代の時期になってしまうのではないだろうか。
その時の「辰」こそが37章の「最も顕れた」辰国というのであれば、それが同章のいうように東表系の阿斯牟須氏であるとするのはいかにも妙だ。
東族の威光が燦然と輝いていた上古であるのに、その当時になぜか二大宗家に属しない辰王がいて、しかも辰王だから本宗家だという考えると矛盾が生ずることになる。
(東表系をむりやり二大宗家のどちらかに帰属させるという無理でもしなければ説明がつかないと 思われるが、もし無理に二大宗家の末流としてもこの上古の時期に宗家の地位を得るのはいかにも不自然である。

もちろん 仮に本宗家の国の名が「辰(国)」と呼ばれ、37章の古国がその本宗国を指すと解した場合でも、 一般論として東表系の氏族(安冕辰沄氏など)が堯・舜などよりもう少し後の時期(仮に時期Pと置く)にでも本宗家の地位を引き継いで辰国と名乗ったという のは無理をすれば観念しえなくはない(浜名氏の最大雄族論(本宗家論参照)などを活用すれば不可能ではないかもしれない。) しかしその時期Pが「五原喪失後」(周以降)であるとすれば、その安冕辰沄氏 (など)は堯・舜の頃の宗主ではない以上、辰国という本宗家の諸家の中では堯・舜ほどには「最も顕れた者(37章の)」といえず、 やはり矛盾が生ずることになる。

従って田中勝也説の場合、37章の「最も顕れた」に、「~の時期以降において最も顕れた者」 などのように不自然な限定解釈を加えないとつじつまがあわないのではないかと考えられる。
浜名氏や自分を含め、通常の解釈では、このような限定語をつける必要は全くなく、原文を自然に解釈 できるのである。 (ただし浜名氏は37章の解釈については田中勝也氏的なこじつけをしていないことは確かなのだが、 なぜか別の箇所では辰国と本宗家の一つを同じ扱いにするという奇妙な処理をしている。 つまり、本宗家の一つであるアシタ系辰沄氏について浜名氏は平壌から満州方面にまで張り出して治めたものととらえる(溯源p.340後半部参照) が、馬韓の辰王(魏志に登場する存在で、月支国で治める存在つまり37章の辰の王)がまさに そのような存在と同一視される(溯源p.155後半部参照)点がおかしな解釈である (この点については檀君問題のページを参照)。 結果的には浜名氏と田中勝也氏が似た誤りをおかしていることにはなるが、 浜名氏の場合神祖の時から本宗家といえば辰国だという処理になっていない。これは浜名氏が 中国大陸系本宗家についてそちらが辰国だという処理をしていないことを考えれば把握しやすいだろう。 浜名氏は中国大陸系本家を半島満洲系本家より格下とはしていないため、神祖の時からの本家の国名を辰とした場合それを中国大陸系本家が保持していないのではおかしなことになるからである。 これに対し、田中勝也氏の場合対中国支配が架空であるとするためそのような考慮をしなくて済むという ことになろう。2023.05.19加筆)

田中勝也氏は次のような言い方もされている。
『契丹古伝』は契丹王権がその遺光を継承したと自負する古代東方国家"辰"およびその支族 の始祖伝説と歴史を綴ったものである。(☆)

遠い時代から満州朝鮮半島の故国として伝統ある権威を保ってきた辰は、 渤海によって再興された・・契丹王権は渤海を仲だちとして古国・辰の権威を受け継ぎ・・ (同書p.48)
このように氏は述べられるが、当サイト契丹古伝40章の解説でも述べたように 契丹は辰沄殷の権利継承を主張していると読むのが素直であり浜名氏もそれなりに 肯定に解しているのである。
渤海という国が振国とも称したことは事実であるが、それは辰沄氏系の国によく見られるネーミングと 見れば足りる。(もちろん、世の中には本家争いというものもあるし、渤海にしても 何らかの強い矜持をもって国号をつけていたということもありうる。
しかし契丹古伝の解釈としては自説のように読むべきである。)

とにもかくにも氏の著書では
契丹古伝5章の「毉父」系「辰沄氏」の国らしきものが、なぜか 「古代東方国家"辰"」と呼ばれ、その直系が魏志の辰王の国であると 思わせる記述に満ちている。
(しかも辰王の王権の在り方として、氏は浜名氏以来の 通説と異なり、辰韓[新羅の前身となった地域]中心の捉え方をしている。)

例えば
(前出☆の記述の後に続けて)
残る正史に見るかぎり、"辰"は秦代にはすでに存在していた。その後、 燕や韓に攻められて南下し、朝鮮半島の南部に辰韓という国を建てており、 もともと朝鮮半島北部から満州にかけて支配領域を保っていたものと見受けられる。(同書p.48-p.49)
このように、辰沄氏の本宗家がそのまま辰韓にスライドしたと読めるようになっており、 このことが契丹古伝から当然には導かれないことについての言及がないので注意を要する。

(辰王の王権の在り方として、学説上馬韓中心の捉え方・辰韓中心の捉え方の対立があるところ、契丹古伝37章は前者に適合的とするのが浜名氏以来の解釈だが、田中勝也氏は後者を採用する。
そして、新羅の文化のなかに辰の文化が残っているとし またチベットの文化の影響も濃いと捉えておられるが、これは田中勝也氏の独自色の濃い解釈である。)

箕子の国「辰沄殷」の捉え方も一風変わっている。
・・・これは殷の再興であるとともに辰沄の族号をもつ辰王権の再興でもあり、 後継国家あるいは辰の分国であった。 (同書p.72)
本宗家論の中で既に述べたように、もともと殷は中国大陸系の辰沄氏で本宗家 であるから、再興も何もなく、本宗家の継続と捉えるべきである。
ただ、殷朝を本宗家とみないのには浜名氏の影響があると思われるし、 浜名氏が提示した幻の本宗家「粛慎氏」の存在が中国東北部において 全てを包括する本宗家が長期にわたり持続するという幻想を氏に与えたのではないかという ことも既に誅滅時期論で述べた(他の文書の影響*もあろう)。
その包括本宗家を「辰」と氏は呼んでいるのではないかと疑われる。

(あえて今まで書かなかったが、田中勝也氏は、檀君信仰系の偽書「桓檀古記」も参考になる旨を他の機会に 述べておられた。このことからすると、中国東北部において長期にわたり持続する本宗家というのは檀君朝鮮を イメージしたものではないかと強く疑われる。
檀君朝鮮であれば、古朝鮮の領域(鴨緑江より北側、今の中国東北部の一部)から巨大な範囲の領域を 支配することになり、箕子なども臣下ということになるのである。(韓侯国についての氏の解釈(誅滅時期論内に記載)も同様な動機が疑われる。)
これは契丹古伝の立場と衝突するものであることは当サイトをよくご覧になればお分かりになるだろう。
田中勝也氏の解釈は、その衝突を避けるため契丹古伝の方の解釈をねじ曲げた疑いがあることは事実といわざるをえない。
このような問題につき、明確にしないためにかえって混乱・誤解を招くおそれが多いので、やむなくここで念を押させて頂いた。 2022.1.14追記。)

箕子の国「辰沄殷」についての氏の捉え方は既に見たが、では辰韓との関係は どうなるのだろうか。氏の説明をもう少し見てみる。
遠い昔、満州(遼東)の地に立てられた古代東方国家・辰は、 ・・周の圧迫により衰え分裂したがやがて・・・箕子朝鮮として再興し中国の東方を制圧 した。その後・・遂に南韓付近へと流亡するに至る。

一方辰の他の支族は東方の諸地域で威勢を振うことになった。(同書p.77)
箕子の国は先述のように田中氏の場合辰の分国という扱いであるので、辰(氏の説では辰韓)はそれとは別の国のはずである。 後者の「他の支族」について氏は「辰は、一方では上古の宗族に直結する支族を数多く派生 させながら、・・・」(同書p.77照)と書かれているので、この「宗族に直結する支族」に「辰(韓)」も含まれるものと 思われる。

実際、氏はかつて遼河の東、満州から朝鮮半島にかけて箕子の国と辰国と弁国と があり三国とも南韓に流亡し(辰国が辰韓になっ)たとしている。(同書p.118-p.119参照)
いずれにしても契丹古伝的には箕子の国の流亡だけは肯定されるが、 その移動して入った先が既に存在していた辰国であると明記されていることにも 注意する必要があろう
(一般的な契丹古伝解釈としてはには半島南部を含む地域に古くから辰国が あったと解されている。
一方、田中氏の説では「辰は古国」という37章の記載は そもそも本宗家としての満州での建国以来(移動があるにしても)ずっと辰国だから 古いという趣旨になる)。

それにしても、箕子の国(辰沄殷)のように遼東方面に存在した後流亡・移動した国が他にも近接した場所にあって、 流亡の方角も似ているというのであれば、なぜそのことが契丹古伝に載っていないのだろうか。
記録が失われたから、といえば一見もっともらしいが、本宗家や本宗家と称して分裂した古国であれば より鮮明に記録されていたはずだし、少なくとも本宗家に関する重要な記述としての 位置づけが契丹古伝内で与えられるはずと考える。
そのようなものがない以上、辰沄殷よりも重要かもしれない国が半島を同様に南下し、 それが37章(費弥国氏洲鑑の末尾近く)の辰であるというのはいかにも奇妙ではないだろうか。契丹古伝上、あきらかに 箕子の国(辰沄殷)の方が重視されているのである。
この点、佃收説のように、本宗家でない「辰」や「東表」が移動したというのであれば、本宗家ほどには 人々の記憶に残っていないかもしれないから、知られざる陸路移動があったと主張されてもまだ 違和感が心持ち少ないとはいえるのである。


氏は朝鮮半島南部の辰韓の先行国家が(満州・半島北部の)辰であるという書きかた をされるなど、辰韓と本宗国との連続性の主張が際立っているが、契丹古伝の解釈として は異色であるし疑問である。

辰(韓)の後身である新羅について、 田中勝也氏は「新羅は歴史的に最も明らかな辰の直系の後継国家であった。」(同書p.85)
とされているが、自説では、新羅は辰系諸国からもっとも縁遠い国の一つ なのではないかと考えている。おそらく文化的に影響を受け、グループに 属した時期もあったとかもしれないとは思うが、契丹古伝的 な辰国関係の資料を新羅政権が残そうとしなかった点について考察する必要があるのでは なかろうか。
田中勝也氏は、古代東方国家"辰"のあった場所から南韓に流亡したことが不名誉な記憶で あったことから太陽の国としての辰の記憶を消しさったと いう考えを提示されている(p.98-p.99参照)。が、果たしてそうであろうか。
さらに、辰韓の宗主権を奪取する際にチベット人やアーリア人 の貢献があったからというような理由もあげられているが、そもそも遼東に辰があった ころの辰文化自体にアーリア人の影響、次にチベット人の影響があったともされる。(同書p.161-p.162参照)
新羅にチベットの影響が多大と見る田中勝也氏は、神話学的分析にもチベット文化への 言及を多く登場させ、辰沄繾翅報の美称までもチベット語で解釈する(同書p.158参照)が、 あまりにもチベットに傾斜しすぎた解釈のように思えるし、辰沄繾翅報の解釈は契丹古伝 の説明とも不適合であろう
(「遣」が「国」にあたるというのが通常の解釈だが、 氏の説明だと雲(契丹古伝では沄)が「国」の意味とされる。国を辰沄繾と呼ぶ4章とも 矛盾する)。

以上のように田中勝也氏の「辰」という用語は独特のもので、
浜名寛祐氏の用法と大きく異なるため、田中氏の著書を読み解く際注意が必要である。

ちなみに田中氏の辰韓寄りの解釈の大きな動機としては、魏志における辰国の領域が (後漢書と異なり)辰韓の領域内に限られるとされている点が出発点であると思われる。
契丹古伝の解釈もそちらに引き寄せられた形となっているものと推察される。
しかし、契丹古伝の文言を素直に解釈する限り、辰国の領域は弁辰・馬韓の領域を含むとする のが自然で、浜名氏もまたそう解釈している。
学説上魏志の価値が高いとされていることとの関係で、どちらを選ぶかという問題が生じることになるわけ であるのだが、この問題は37章の「辰」、つまり魏志の辰の解釈自体にかかわる問題で、学説上の一大論点でもあり、 「辰」が神祖の国からの継続かという問題とは別なので、ここではこれ以上扱わないこととする。


以上のように、田中勝也氏の説においては、「辰」という名前の王朝に対する独特の位置づけが うかがわれるが契丹古伝の解釈としては大いに疑問である。
契丹古伝第4章についての氏の解釈において、「辰沄繾」と名乗れるのが本宗家の国に 限定されているような書き方になっているのもこのことに関係している可能性が大である。
4章の解釈としてそのような解釈は採れないことは既に述べた。
「辰」「辰沄繾」という名であれば本宗家だけを指す、ということはない。
「辰沄固朗」は本宗家の国の族だけを限定的に指すのでもない。
「辰沄繾翅報」も本宗家の皇だけを限定的に指すのでもない。

37章の辰王について魏志に第三神頌類似の称号が載るから、辰国は本宗家ではないかという考えもあるかとは 思うが、称号自体に汎用性があった可能性や、(辰沄)殷経由で伝わった可能性が排除できない以上、 田中勝也説的な「辰」国継続論の理由にはならないのである。

本稿は、内容の性質上、田中勝也氏への疑問・批判が多くなってしまったが、何卒ご容赦賜りたい。
繰り返しになるが、契丹古伝に神話学的アプローチを試みる必要があるとされる点は全く同感 であるし、それに古代史の原論としての位置づけを与えるのももっともと感じる次第である。
末筆ながら、学恩に深く感謝して筆をおくことにする。

4章の解釈についての詳しい説明 ──「辰沄繾」は本宗家についてのみ使用される用語 なのか(附・田中勝也氏の辰国関係の用語の使用法に関する疑問)の本文はここまで。


以下、補注 (4章に関する有賀成可説について)


なお、有賀成可氏の説について以下一応触れておくが、非常にマニアックな話なので、 今回言及する必要性があまりないものである。ただ、論点的には同じ論点なので掲載しておこうと思う。
以下の部分は本サイトの他のページも全部読んでもまだ物足りないというぐらいに格別の興味の ある方だけ読むことをお勧めする。

有賀氏は結局本宗家限定説でないので、説明を省いてもよかったのだが、
自分の承知している限りではごくまれに有賀氏的な説明(しかもしばしば不正確な説明)に 出くわすことがあるので
(10年ぐらい前だったかに見た気がする)、念のため触れておくことにした。

有賀成可氏は(あいまいな言葉遣いのために分かりにくい面はあるが)
4章の「皆これによれり」の「これ」が弗菟毘以降の用語体系を指すのではなく、
「皇を尊んで辰沄繾翅報という」の部分だけに関係すると捉えているようだ。
田中勝也説と似ているようだが、有賀氏の場合、どうやら
「これ」=「君主が辰沄繾翅報という尊ばれる存在として君臨すること」
のように捉えることで各君主がその使命に従う意味となり矛盾が生じないと考えているらしい。
いずれにしても、結局本宗家限定説でないという点では同じと思われる。
また、それ以前の用語についても、特に本宗家に限定するという趣旨ではなさそうなので、 その点は田中勝也氏と異なると思われる。
結局、結論的には浜名説と同じで理由づけが異なるだけということになる。

有賀氏の説明文(韃珂洛の語の説明の直後)は次のようである。
神子神孫四方に国したその主系本源の長なればこそ、我が御神勅の神義を | うけ | | | たてまつるので ある。
(有賀成可編『契丹古伝』(契丹古伝本文)東大古族学会 1933年 p.3)
この文は何通りかに読めそうに見えるので厄介なのだが、詳細に読むと、
四章の「これによれり」を有賀氏は「我が御神勅の神義を | うけ | | | たてまつる」 と言い換えて説明していることがわかる。※※
したがって、その主語は「これによれり」の主体すなわち四章の「神子神孫四方に国する者」の ことで、これが
有賀氏の説明文における主語の「神子神孫四方に国したその主系本源の長なればこそ」
に対応することがわかる。(紛らわしいが、「主流の本源系に属する有力君長たち」の意味)

※※御神勅とは日本の天照大御神の「天壌無窮の神勅」のことで、
皇孫に対し「出でまして治らせ」と統治権を与える内容である。
ここではそれに加えて天照大御神=契丹古伝の日祖という理解が前提になっている。
したがって統治権を与えられた側は神勅の精神にしたがい代々位を継いで統治することに なるので、それが有賀氏の説明でいう「御神勅の神義を(天照大御神に対して) | うけ | | | たてまつる」 こと(注・ | うけがい奉るということをする主体はこの場合各国の辰沄繾翅報※※※)に該当し、
契丹古伝4章の当該部分(「これ」の解釈)はすなわち 「辰沄繾翅報という日孫の権威を(有力神子神孫たちが皆それぞれ)引き継いで(四方に赴いて) 使命を持つ神聖な存在辰沄繾翅報として日孫さりながらに君臨すること」となる。
そのような行動体系に依ることを「これによれり」とするのが有賀氏の理解と思われる。 自分も当初有賀氏は辰沄繾翅報について本宗家限定説を採るのかと思ったのだが、上述の 「これによれり」の主語の比較検討によりそうではないと判明した。※※※※

※※※「 | うけがい奉る」が「天照大御神に対し奉る」意味なのはまだ理解しやすいが、 「だれが」奉るのか迷う方もおられるかもしれない。ここを誤解すると上の解釈も理解できなく なるので念のため付記しておきたい。
御神勅(天壌無窮の神勅)の中身が「出でまして治めよ」という命令であるので、
| うけがうというのは命令を受けた側がそれを承諾して履行する意味である。 したがって、皇孫やそれに準じる立場の人物が「 | うけがい奉る」ということになる。




もちろん有賀氏の説は考えすぎであって、4章の読解としては単純に用語体系に従ったという 意味で理解すればよい。もちろん、四方に国する神子神孫が一定の矜持の下で統治されるのはいかにも そうかもしれないが、ここではそのことに直接言及されてはいないと考える。

(※※※※なお、万一、有賀氏が「 | うけ | | | たてまつる」 主体を一人に限定する趣旨で書いているとすれば、 「皆これによれり」と主語が複数である契丹古伝の記載を、解釈により 改ざんしてしまっているということになろう。)

以上


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2021.03.28ページ新設
2022.01.14加筆
2023.05.19加筆・微調整