トップページはこちら   契丹古伝本文ページはこちら   

37章の謎・40章の謎 関係の説明の補足


37章の謎その2・40章の謎その1 の補足

・任那からの調は天皇が直接ご覧に・・・

『日本書紀』大化元(645)年七月十日条
{任那の使を兼ねた形で、任那の調(みつき)をも たてまつった}百済からの使いに対し 「・・・・任那のたてまつるものは{百済からの調と異なって}天皇が 直接ご覧になるものであるから、今後は{百済と任那の}どちらの国から何を貢納するのかを 具体的に記すようにせよ。・・・」参照。

・浜名氏による言及(韓の字の使用時期)

浜名詳解p3654行目「・・・その称呼に韓の字を宛てたのは後漢中葉からと考えられは する。」参照。
(注・ただし後漢中葉の頃は、ムス氏のいい方もまだ現役ではあったと思われるが、その後廃れたものと 自説では捉える。)

・辰韓概念についての②説(浜名説)


浜名は広義(α+β+γエリア)の場合を「父国称」、狭義(γエリア)の場合を「子国称」と呼んでいる。
具体的には浜名溯源p190 4行目に「此の辰韓は父国称」 「此の辰韓は子国称」の表現あり。

p196 11行目には「父国称の辰」 12行目「子国称の辰」{(狭義の辰韓)}の表現 p200 8行目「父国称の辰国」、p211 13行目には「父国称の辰韓と子国称の辰韓」の表現。
浜名説はもっともと思える部分もあるが、もう少し緩やかに「辰」と「辰韓」の混同と 見れば足りる(①説)ように思う。時代による概念の変遷がある場合も、①説で対応可能と なろう。

・弁那をハンナと呼ぶことについて

いわゆる匈奴は契丹古伝38章において「弁那」と記されている (29章では弁と略されている)
浜名氏は弁那に「ハンナ」のルビを振っている。 弁は「ベン」と読む字(古くはbonのような音もあった)。同系列の拚はベンの他にフン・ヘン、 また畚はホンと読むから、「ハン」の読みも的外れとはいえない。
ただしこれらの音読みが日本で形成された当時、ハヒフヘホは「fafifufefo」もしくは 「papipupepo」であったことに注意。仮名で「ハ」「へ」「ホ」とある場合 | のど音で 「ha」「he」「ho」と発音するので、一見、「匈奴」の冒頭子音である喉音と似ていると 誤解しやすいが、ハ行の喉音化は江戸時代の日本における現象であることに注意。
「ヘン」「ホン」は本来「fen」「fon」のつもりで宛てられたカナであるから、 「ハン」と読んでもそれが本来表そうとした音はfanとなる道理であることに十分注意されたい。
逆に、「匈奴」は世界史上のフン(hun)族のことであるとされるところ、これはhunの音のhuを 現代日本語のカナで適切に表せないためやむを得ずフンという仮名表記でfunと発音して しまっている(これはwhatをファットと読んだ場合の不正確さに匹敵)のであり、その点留意されたい。 したがって「匈」は「弁」の音からは遠い。

・シウムス氏が当初はもっと西部にいた可能性

『漢書』に真番傍衆国という謎の国が登場するが、版によっては真番辰国とあるため、しばしば 辰国との関係が取りざたされる。(一般には「真番の傍の衆国」などと解されている真番傍衆国であるが) 契丹古伝解釈サイトとして気になるのは、真番傍衆と辰沄謨率は音が近似するので、関係しないかという点である(契丹古伝についての既存の説にはないよう である)
ただし関係あるとしてもその位置は楽浪郡 に寄った所になるであろう。また、真番辰国と記す版の方を学者は優先するが、それは分かりやす さのために真番の辰国と書き換えたに過ぎないのではないかという疑問点を当サイトとしては 提起したい。
もっとも、ムス氏系の古い時代のありさまの詳細は不明で、類似名の部族が点在していた 可能性もあるから、これ以上の検討は控えたい。
(なお、溯源p.185にあるように、真番傍衆はシウクシフに由来するとの説(浜名説)が既に存するも、 自説はそれとは少し趣が異なる。)

・「七、八十年間倭は乱れ」とする訳について[細かすぎる内容を含むので注意]

魏志倭人伝の当該部分の解釈として、第三の解釈として「七、八十年間倭は乱れ」とするもの(C説)がある。
これは厳密には第二の解釈(B説)と少し差がある(と見る余地が存する)が、煩雑化を 回避するため第二の解釈とほぼ同じ解釈として本稿では処理しているので了解されたい (どちらの場合も倭国大乱が相当長い期間として捉えられることには変わりがないので)。
第二の解釈で「七、八十年前」を「その記述の前後における倭国の魏代のありさま(落ち着き) が備わったときから見て七、八十年前」とすると第三の解釈と殆ど同じことになる。
ただし第二の解釈を「魏志の編纂時より七、八十年前」と見た場合、また別の話となるので 第四の解釈(D説)として論じなくてはならないが省略とさせていただきたい。
(この場合非常にマニアックではあるが非計算説+D説とすると自説には適合させうるが、 そもそも往~年(住の読み替え)の解釈として過ぎ去りし~年という意味にならないかなどの 問題もある。)

・計算説+Q説(解釈A+否後) の補足説明[やや細かいが理解困難ではない]

男王制が70~80年続いたあと、[桓帝・霊帝の治世かどうかとは関係なく]倭国大乱が 多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。

この説は、後漢書の編者が魏志を参考に編集作業を行ったため誤解釈による間違った記載が あるということを前提とするので、後漢の時代が終わる220年の時点でも依然卑弥呼が未即位である 可能性をも排除しない説である。

ただ、梁書(7世紀に成立)の倭伝において次の記載があるため問題が生じる。

漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐歴年 乃立一女子卑彌呼爲王・・

漢の霊帝の光和年中(一七八 - 一八三)に、倭国に戦乱が起こり、互いに戦って何年かが過ぎた。 そこで卑弥呼という一人の女子を、皆で王に擁立した。

(井上秀雄 他 訳注『東アジア民族史1─正史東夷伝』平凡社 1975 p.317[山尾幸久氏訳出部分]参照)

この梁書倭伝には、霊帝の治世というだけでなく光和という年号の明示まで なされているため、やはり後漢書は正しかったとなれば、計算説+Q説は成り立たなくなりそう なので問題となるのである。

この点については、倭国において、西暦107年、倭国王帥升が後漢王朝に遣使した とされている(後漢書)ことの関連で梁書の編者が早合点したと見ることが可能な ことが既に指摘されている。

というのも、梁書の編者は後漢書を文字通り採用する「魏志A+後」説を採ったと 考えられる。つまり「魏志A+後」説とは

男王制が70~80年続いたあと、
桓帝(在位147-168)・霊帝(在位168-189)の治世に、倭国大乱が 多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。

であるが、これを「西暦107年の帥升の遣使の後。男王制がさらに70~80年続いてその後で大乱開始」
と読みかえてしまうと、「西暦177~187年に倭国大乱開始」ということになり、
これが光和の年号の間(178-183)にほぼ一致することになる。
つまり、梁書の編者は、後漢書編者の誤計算による誤記載「桓帝・霊帝の期間」を真に受けただけで なく、後漢書編者とはさらに別の妙な理論構成によりその詳細な年代を特定したつもりになったと いう可能性があるわけである。

通説的には「光和年」の記載が重視されるために、180年前後の倭国大乱開始が当然のように 説かれることがあるが、自説はこれに反対である。

もっとも、通説の側からのさらなる反論としては、『太平御覧』という書物に引用された 古い魏志の抜粋とも思える文章の存在がありうる。 『太平御覧』には、かなり長文の魏志倭人伝的文章の引用が魏志の引用として掲載されている。 この文章が、部分的には魏志のものと異なっており、魏志のプロトタイプのものでないか とか、『魏略』という古い文献の影響を受けたものでないかとして論議の対象となっている のである。

そして問題の箇所について『太平御覧』版『魏志』は
漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐無定
として光和年の大乱開始を述べるため、魏略の古さなどからして間違いないのではないかという 指摘がなされるわけである。

この点についても当サイトとしては反論しておきたい。

問題の箇所は「漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐」の部分が『梁書』と全く同一である。
そして、『梁書』の成立は7世紀である一方、『太平御覧』は983年の成立である。
たしかに『太平御覧』版の引用には魏志の古い形と思えるものが含まれていることは たしかであり、一見倭人伝については信用したくなるのも人情である。
ところが、『太平御覧』自体は膨大な引用から構成されており、引用元の書名を間違えていた り、適宜要約・修正・他文献との合成などが散見される書物なのである。

(このことにつき詳細に検討されたものとして、河野六郎『三国志に記された東アジアの言語および民族に関する基礎的研究:平成2・3・4年度科学研究補助金一般研究(B)研究成果報告書』東洋文庫,1993年 p.1-p.10 参照。特にp.10では「『太平御覧』では、「魏志曰」といって、明らかに・・・ 別の本から引用していることも少なくない。従って、通行本二十四史の『三国志』の方が 信頼性が高いといえよう。」とされる。

そして、普通の版の『魏志』では

住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年

(男王制が七、八十年持続したあと 倭国が乱れ、たがいに攻伐すること数年)

となっているところが『太平御覧』版『魏志』では

漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐無定

(漢の靈帝の光和年間に 倭国が乱れ~)

とされており、「住七八十年」という分かりにくい表現が直されていることに気付く。
「住七八十年」についてはこれを「往七八十年」と解して「七、八十年前に」と解する (魏志B説参照)説もあるなど、厄介さのある表現である。
それゆえこの部分を分かりやすく修正するのは『太平御覧』ならではの荒技と見る余地が 充分にある。
よって、この部分は決して魏略の反映ではなく、『梁書』の類のアレンジ挿入と見たほうが よいだろう。
そもそも、『魏志』の著者は『魏略』という現在では失われた書を参照できており時折引用を しているという実態がある。魏略に具体的な年代データ「漢靈帝光和中」があったとすれば、
『魏志』の著者はそれを使ったはずで、それを記さずに曖昧な「住七八十年」という表現を 『魏志』に記すのはおかしいことになるはずである。

以上より、『太平御覧』版『魏志』を根拠とした通説からの批判もあたらないと解される。

・参考:委奴国の朝貢についての浜名氏の考え

浜名氏も溯源p.50において、「委奴国王」が「印を(後漢朝から)受領した」ことを「今の外国勲章を胸に掛ける のと同じやうな考え」と評している。(ただしこれは西暦57当時すでに日本列島(の近畿 地方)に本宗家の朝廷があったという氏の考えを前提に、北九州の委奴国王の後漢への朝貢 について評している部分である。)





37章の謎その3・40章の謎その2 の補足


・参考:新羅による加耶歴史抹消についての浜名氏の考え

浜名寛祐氏は戦前の軍人であり、日本の朝廷はもとから列島にあったという立場を
崩していない。それでも加耶の歴史の改変について次のような趣旨の言及がある。

異族の侵入を受けて変貌した新羅は神話や歴史を変造(溯源p.451(詳解p.165)11行目参照)したとする。 その際歴史を昔に「溯らせ(溯源p.452, 詳解p.166 5行目)」て大いに改変(同頁2行目) し、同時に矛盾抵触する旧史を湮滅して後世を欺いたとする(溯源p.452, 詳解p.166 7行目参照)
その一環として駕洛(ここでは大加耶を指す)の国史もその「惨行」の対象となったとする (溯源p.452, 詳解p.166参照)。その結果が三国史記の地理志にわずかに次の文字をとどめるに過ぎないこと になったとして(同じページの8・9行目)次のように述べる。
高霊郡。本大加耶国。自始祖伊珍阿豉王。至道設智王。凡十六世。五百二十年。真興王 侵滅之。以其地大加耶郡
引用者注:上の漢文は三国史記の引用で、和訳は本稿の本文に既出

十六世五百二十年{注・実際の年数はもう少し短いかもしれない}の歴史を有する 駕洛{(ここでは大加耶を指す)}国の栄枯盛衰が、 | ただ これだけの文字とは世界無類の 惨況である。また任那の名は一切見えぬ。・・又日本との関係も大事件は | ほぼ 抹消し尽くされてゐて・・・・
(浜名溯源p.452, 詳解p.16610~13行目。{}内は引用者による注釈)














・参考:馬渕和夫氏の考え

国語学者の馬渕和夫氏(勲三等瑞宝章受賞者、2011年死去)の説くところでは、天皇家は基本今の高霊のあたりに かつて所在し、それが日本列島へ移転したとする。従って大加耶王の墳墓がある高霊エリアが重視され、 金官加耶初代王ゆかりの金海は殆ど無関係という扱いになるため自説と差が存する。
なお、大加耶王の系譜が「接ぎ木」という論は馬渕氏にはないが、 下記文献のp.440で微妙に関連する指摘がなされている(「わが高天原で神々が 活躍した時代は{大伽耶国よりも}も一つ前のことであり、 大伽耶国はそれと交替した王朝か、あるいは同じ系統の王朝であるにしても、代の改まった 王朝であったとしてよいのではないか[以下略]」)。
また、当時の高霊の人々をアルタイ・扶余系が南下したものという感じで捉えられておられるよう だが、朝鮮人の単一民族性に関しては明確な肯否を述べられていないので不十分な感を与える。
もともと日本の学者の一部の方はこの点についてあえてあいまいにされているようにも 思われるので、玉虫色の読み取り方を許してしまう結果となる。そのため 氏の文章が某所の石碑(○○○故地)などに(企画を了知した状態で[下掲書p.766参照])利用される結果を生じた。

以上に関し、『「高天原」の故地』 (馬渕和夫「古代日本語の姿」武蔵野書院 1999年 所収 p.431-p.450参照。 なお、玉虫色の読み方ができるからといって半島人の読む読み方で日本人が氏の 文章を捉えてしまい、過剰な反発をするとすれば妥当とはいえないので注意が必要である。)
※なお、高天原というのは態勢立て直しにより「天孫降臨」の神話が取り込まれたからであり、 あくまでも実質は「孝昭天皇~孝霊天皇(等)の宮廷の故地」ということになる。 しかし、「故地近隣地」もしくは「当該宮廷の継承自称者の王国の故地」となるのかもしれない。














37章の謎その4・40章の謎その3 の補足

・大汝命と少彦名命の争い

播磨国風土記(神前郡堲岡 | はにおか里)には、大汝命 | おおなんじのみこと小比古尼命 | すくなひこねのみことが争った(我慢比べごっこをした)話が ある。
同国風土記はいわば天孫降臨直前期(=崇神天皇即位より前)の記憶を わりあいと残しているようにも思え、そこには他の神と大国主的存在との争いの記録等も併せて記されている。
これらの神々は神話の形をとりながらも実際の人物の投影されたものと解される。 ただし、少彦名神は記紀にもあるように比較的早い時期に世を去ったと解されるので、
「大国主と争った他の神」と「少彦名神」とを単純に同一視するのは危険かもしれない。
(また、風土記の逸話には場合によっては地名遷移的に移動したものも含まれうることにも 留意すべきだろう。)














・少彦名神の性格

少彦名の性格として、学説上、「穀霊」「常世神」性を 認めるものは多いが、それに加え、「少」の意味としては、
①「小人」性(体躯の小ささ)を強調するもの、
② 大名に対する小名彦とする説
③国主称号の一種説 
④「(年齢的に)若い」の意味とする説 (日本古典文学体系説(岩波文庫版『日本書紀』(一)p.365参照))などがある。

以上の中で④は用例が確認しづらいという難点があるが、それなりに有力な説といえる。
人名の「スクナマロ」の用例や少彦名の「鳥」との関係などから④の「御子的性格」 を導くものとして、金井清一「スクナヒコナの名義と本質」 (『東京女子大學附属比較文化研究所紀要』31、1971年9月 所収) がある。
自説もスクナヒコナの意味としては④を中心に考えるが、①~③のニュアンスの併存程度であれば 場合によっては全く排除されるわけではないと考える。
これは少彦名が古い神格で庶民の世界ではさまざまな 形で同名異神的に使われうることと関係しそうである。
ただ本論考における「少彦名」 にあたる人物は④を基本義とする存在のように捉えて構わないと思う。













・天稚彦の反逆者としての性格が後付けである点について

三品彰英氏は、記紀で天穂日命が大国主神に媚びおもねったとするのは 古代祭祀者にとって必要な、祭神を媚び鎮めるという祭政的儀式から来たもので、 その様態がヤマト的立場から不順物語化されたものという趣旨を述べられる。 (三品彰英「出雲の国ゆずり」『(三品彰英論文集第二巻)建国神話の諸問題』平凡社 1971年所収、p.96, p.105, p.81参照)

天稚彦の場合もこれと同様に考える吉井巌氏は、天稚彦は本来聖器を所持した支配者となる 存在で、反逆へと転義せられたとする。
また、「返し矢」の部分は弓矢の名称が異なっていることから本来別の話が接合されたものと して次のように述べている。
天若日子が弓矢をたずさえた存在であったこと(中略)のような返し矢伝承に 親近な要素をもっていたがゆえに、天若日子に反逆者としての死を与える筋の展開が要求 された時、・・・返し矢の伝承が天若日子の伝承に附加利用されたものと推定されるので ある。 (吉井巌「天若日子の伝承について」(吉井巌『天皇の神話と系譜 二』 塙書房 1976年所収)p.69.またp.59, p.56参照。太字強調は引用者による)














・麻品王の項目に付された「異説」の謎

同じ族譜の三代目の麻品王の項目には、以下のように記されており、後半の異説に謎を含む。
もっとも、これは背乗り系図の一種であるので、
結局族譜に記されている具体的な年代の設定にしても、異様に首露王・居登王の在位期間を長くし、
その後の王の在位を後にずらしたりなどの調整が入った後のものであることは当然覚悟すべきであろう。
ただし、異説の提示を読み解くことで、時系列的なものをただせる可能性があるのである。


成王
諱麻品 道王太子 
蜀漢延熹癸酉九月十七日即位、
晋恵帝元康元年(新羅儒禮王八年)辛亥正月二十九日薨 在位三十九年
  
一云 母后本神女・琉冕
庚辰歳孕王 九年戊子誕王 五十二年春三月三日與父王離塵同為上昇 有史跡
晋元康庚戌薨 在位三十八年  陵無伝

(現代語訳)
成王の諱は麻品、道王(居登王)の太子、
蜀の延熹(延熙の誤り){十六年}癸酉 | みずのと とりの年(253年)の九月十七日に 即位した。{注・『三国遺事』王暦では259年に即位。}
晋の恵帝の元康元年で新羅の儒禮王の八年である辛亥の年(291年)に薨じた。在位39年であった。

一にいわく、{"麻品王の"}母后はもと神女・琉冕
庚辰の歳(200年)に王を懐胎し九年目の戊子(の歳)(208年)に王は誕生した。
五十二年の春の三月三日(259年)に
父王と共にけがれた世界をさり、同じく上昇を為した。史跡あり。
晋の元康(正しくは永熙{元年})庚戌の年(290年)に薨じた。在位三十八年。
陵については伝わっていない。

(参考 [三国遺事] 居登王の王妃は・・慕貞で、太子の麻品を生んだ。)

族譜の記載を系図化して見ると次のようになる。
○(居登王又は子)
  麻品王(成王)
208年誕生、253年即位
[三国遺事王暦]259即位
259年上昇、290年薨
母后
神女・琉冕────

ここで疑問が生じる。麻品王は253年または259年に即位してすぐの259年に離塵・上昇し、 290年まで在位しているのは妙だろう。離塵・上昇は死去を示唆するからである。

(1)この矛盾を解決する一案として、259年に離塵・上昇したのは麻品王の母とする手がある。
ただ、「五十二年の春」というのは「子を産んでから五十二年目」と解釈できるものだろうか。
何かが不自然である。それでも無理やりそのように解釈した場合、一緒に上昇した「父王」とは 「居登王」を意味するので、259年には①居登王の死去②麻品王の母の死去③王子「仙」の乗雲飛去 ④神女の乗雲飛去、が起きたことになる。

259年が相当に物騒な年ということになるが、王子「仙」の正体が麻品王とすると、麻品王はかなり
危機的な状況の中、脱出したということになる。
また、麻品王は誕生前、胎中に留まる期間が長いので、神聖化された王子であることになり、 またその母である琉冕も神聖化された存在となる。ありえない記載ではないと思うが、三代目の王とその母が 神聖化されるというのは前後の王の記載との比較上疑問な気もする。

(2)上記(1)の疑問を踏まえ、259年に52歳で離塵・上昇したのは麻品王本人であるとすると、 その後の290年までの在位が矛盾記載となる。

そこでこの点を解決するための修正案を考えてみたい。
(仮の案(2)-1)
居登王本人─
  麻品王(成王)の父
(仮にPとする)
208年誕生、259年上昇
麻品王(成王)
253年即位
[三国遺事王暦]259年即位
母后
神女・琉冕─

本稿の本文においては消極に解したが、麻品王が居登王の王太孫という説を仮に採用した場合の案である。
ただしやはり次のような疑問が生じる。
琉冕は「王」を懐胎したとある、王は(一般論としては)親王とか諸王とかの意味で 使われうるが、ここでは文脈上即位を果たす王を指すはずだ。しかしPは即位していない。
またPは胎中所在が長い。つまり実は相当に美化されたキャラクターということになる。しかしその わりに即位を果たせなかったことになる。この場合であればPの子が麻品王であることが 強調されるのが普通だろう。しかしそうなっていないのは不審である。
(仮の案(2)-2)
首露王───
  居登王本人
148(208)年誕生
259年上昇
麻品王(成王)
253年即位
[三国遺事王暦]259年即位
母后
神女・琉冕─

・これは、麻品王の記事を居登王の記事と読みかえるという一見荒技の案である。
しかし、当サイトの解釈からすると居登王の母は「首露王妃(許皇太后)」であるはずが ないので、居登王の母が「神女・琉冕」ということはありうる。
つまり居登王に関する異説(実はより真実性の濃いもの)を混入させたものではないかと 思われるのである。「琉冕─居登王」の系譜を隠蔽する必要があれば、「琉冕─麻品王」 のように記載位置を移動させてしまうことはありうる。
実は居登王の話だったということであれば、2代目として出生が美化されるのも納得できる。
259年の離塵・上昇はおそらく死去の意味であろう。また、
父とともに上昇したというのは「子とともに移動しようとした」ぐらいの意味で、 居登王の記事を麻品王の異説にしてしまったことからくる矛盾調整処理か何かであろう。
なお、子である麻品王=王子仙は「乗雲飛去」なので死亡ではない。即位は飛去先でという ことになるだろう。(王子仙が「乗雲飛去」した己卯年を199年と解するのが通常なようだが、時系列としては259年と する方が妥当と思われる。)

ただし、王が上昇した年である「52年春」を王の年齢とすれば、一般的とされる199年の居登王の即位 と矛盾し計算があわないが、この点については
もともと首露王の在位や寿命(158歳)も誇大化して記載されているので、その過程における 編集ミスによるものではないかと思われる。

仮の案(2)-1と仮の案(2)-2の二案を挙げたが、後者(仮の案(2)-2)の方が妥当性があるように思う。
結局、
首露王── 居登王 麻品王 居叱弥王
(太祖) (道王) (成王) (徳王)
神女・琉冕 后・慕貞 神女─

のように考えるべきではなかろうか。(なお、時系列的には復元できたと思われるものの、(繰り返しになるが)首露王・居登王の長寿化のしわよせが あるため、飛雲の年も含め各イベントは実際よりも遅く記されていると思われるので上記の数字を さらにスライドさせる必要性はある。)
なお、居登王妃や麻品王妃がインドのサータヴァーハナ朝から許太后の付き人として 到来した人物の係累と一般にはされる(『三国遺事(駕洛国記の首露王条)』参照)ようだが、 これも系図粉飾にすぎないであろう。

ちなみに、長期胎内滞在後出生した王子は(1)説では麻品王、仮の案(2)-2説では 居登王となる。どのような趣旨でそのような美化出生が設定されているか、金官加羅の初期王統の資料があまりに乏しいため不明であるが、 どちらの王にしても実質は狗奴系日本人といえるので、関連資料とつきあわせて考察する手がかりにはなろう。

・千寛宇説

韓国の史学者 千寛宇氏は「乗雲飛去」した王子「仙」を王子「伷」と読み、金官加羅の王子が 日本へ進出したという論調を張った(勿論読み方が論旨に影響するものではないが)
これは朝鮮起源説の一種である。
(千寛宇、金東旭編集『[比較]古代日本と韓国文化 上』学生社 1980年 p.14-p.15[千寛宇氏執筆部分]参照。)
千寛宇氏のこの主張は、実は真逆ともいえ、真相としては、本宗家が日本へ移転するありさまを、 背乗り系図を使って描写してみせただけということになる。
(千寛宇氏は、朝鮮民族の優越性を強調する論調が多くかつて上垣外氏も憤懣やるかた ないことがあったと著述している。)
ちなみに千寛宇氏が使用した族譜は『金海金氏璿源譜略』(1914年) というものであるが、他の多くの版同様活字印刷で、濃い印刷のため「仙」 と印刷している部分の裏の紙の印刷が裏写りして偶然「伷」と読めるという代物に過ぎなかった。
嗚呼。
正直、こんなことを調べるために、米国の系図系サイトにまで登録してしまった 自分であり何とも情けない思いである(完全無色のサイトとはいえないため)。 族譜を調べられたのはよかったのであるが。(ちなみに現在いくつかの族譜がアクセス禁止に なっているのは不審である。)
(類似の金海金氏の族譜は日本や韓国の大学系のサイトでも閲覧はできる。)
ただ、千寛宇氏の主張は珍しいことに、「金官加羅国の主力が日本へ渡ってしまい そのあと狗邪国(弁辰狗邪国)は急速度に勢力が衰微した」という説を立てるものである。
朝鮮の説としてはかなり珍しいものであるが、 惜しむらくは、半島から「単一民族の朝鮮人」が列島へ渡来した、のでなく 神子神孫の本宗家筋の方々、日本の基礎となる人々が列島へ移動したという視点が(当然ながら) 全くない。
以前の韓国はこのような同祖論を説くことによって韓民族の優越性を日本に誇示するという 趣味があったようだ。
(最近の韓国の傾向は変化しており、「日本と韓国は一切関係ない」 とすることで「野蛮な日本」との「血統的格差」感に酔いしれるという方に 舵を切っているらしい。 実際、千寛宇の「王子伷」説を引用した学者論文で、 日本側が血筋的に無関係なのに渡来王子の後継ぶった体制を作っただけという趣旨のものまである。
千寛宇 | チョングヮンウ氏は「首露王の逝去をきっかけに狗邪国があまりにも急激な弱化を示した背後には、 ある重大ないきさつが秘められているのではないだろうか」 とも書くが(p.14)、その答えは「ハタレ」ということになろう。













・州鮮国=卓淳国と考えた場合の同国の位置

州鮮国=卓淳国と考えた場合について検討する。(州鮮国の位置についての 定説はないが、卓淳国と発音が類似する等として、後の卓淳国の場所にあったとする説がある。)
40章の都の位置なので丁寧に見た方がよいと思われる。
この説の場合、卓淳国の場所を検討すれば良いことになる。 卓淳国(碌淳)の位置については、 「大邱」説が通説であったが、はるか南方の「昌原」に比定する説も以前からあり、 戦後この昌原説が通説化した。
ただし近時いったん大邱説が盛り返し気味であったものの 最近になって再度昌原説が強固に固定化傾向を見せ始めている。
しかし本稿の内容と適合的なのは、「大邱」説であり(大邱は後に新羅の大きな拠点となり、 現在も有数の大都市であるが、大昔は加耶諸国の一つであった)、 「昌原」では孝霊天皇の都としてふさわしくない。
(接ぎ木された王朝[大加耶]の所在地とあまりに距離が開きすぎるためである)。

大邱なのか昌原なのか。簡単にではあるが整理しておきたい。以下のA~Dが参考になる。

A『日本書紀』継体天皇23(529)年3月
新羅は{大加耶とトラブルになった時に}道すがら・・・3城を攻略し、 また(加羅の)北の境の五城を奪取した。
B『日本書紀』継体天皇24(530)年3月
{大加耶王が毛野臣(天皇からの呼び戻しに応じなかった人物)とトラブルとなり、新羅・百済が 大加耶に兵を派遣し介入する騒ぎとなったときに}{百済や新羅が}・・・城を築いて帰還した。
その名を久礼牟羅城という。帰還途中で道すがら、 騰利枳牟羅 | とりきむら布那牟羅 | ふなむら牟雌枳牟羅 | むしきむら阿夫羅 | あぶら久知波多枳 | くちはたき の五城を奪取した。
C『日本書紀』欽明天皇5(543)年3月の百済王の上表文
新羅は(530前後の)春に㖨淳を奪取し、よってわが久礼 | くれ | むれ守備兵を追い出して占領したのです。 安羅に近い所は安羅が 久礼山に近い所は新羅が耕作していました。・・・
D『日本書紀』欽明天皇5(543)年11月の任那復興会議での百済王の発言
(こうして新羅人に)田を耕作させないようにして悩ませたら、久礼 | くれ | むれ の五城は自然に武器を捨てて降参するでしょう。卓淳の国もきっと再興すると思います。
CやDに問題の「㖨淳(卓淳)」の国名が見える。この国の所在が問題となる。
①Cを見れば、㖨淳(卓淳)は久礼山に近接していると推察できる。
②Dを見ると、久礼山の五城というものがあり、これが卓淳国再興の障害になっていると 推察できる。
③Aの城攻略・奪取部分はBと同じ事件を重複記録したという意見が強い。
そうでなくともBの久礼牟羅城はC・Dでいう「久礼山」の城と同じであろう。
またA・Bの大加耶は原文においてはAで加羅、Bで任那で表されているが、 同じ名の王が登場するため同一の国であり、かつAについて『三国史記』で類似の事件が記録されて いることからも大加耶を指すことは疑いない。
★よってBの久礼牟羅城と五城は大加耶近辺に所在するはずである。

伝統的な卓淳=大邱説(岩波文庫『日本書紀』(三)p.247注7)においては、 「大加耶(高霊)」の東側に「卓淳(大邱)」が位置し、両者の中間に 久礼山の五城が所在する(もしくはもう少し南よりで洛東江よりは東側に所在) すると解するので、上記①(②)および③の★を充足するといえる。

※1 この場合久礼牟羅城の所在を旧慶尚北道達城郡西南部玄風の西部に解する (岩波文庫『日本書紀』(三)p.207注12参照)
※2 五城の位置は、慶尚北道達城郡・慶尚南道昌寧郡の両郡にわたる洛東江東岸の地 とされる(岩波文庫『日本書紀』(三)p.281注14参照)

一方、近時の有力説である卓淳=昌原説においては、 「大加耶(高霊)」近辺から南下して流れてきた洛東江が東向きに直角に進路を変える 辺り、つまりそこからは西から東へ流れていく洛東江の流路より南側(つまり海寄り) [で曲がったばかりの所の近辺である]咸安郡あたりに「久礼山」が比定され、その「久礼山」 の南東の位置、つまりさらに海岸線に近接する場所に「卓淳(昌原)」が位置することになる。
この場合①は満たすが、大加耶との距離が開き過ぎるので③の★を充足しない。

なお、久礼山城の位置は※1と同じに取りつつ卓淳国の位置を洛東江の上記 「曲がったばかりの所」に北接する場所(昌寧)に比定するという中間的な 説(仁藤敦史『加耶/任那』(中公新書)中央公論出版 2024年p.173-p.175)もあるが、少数説に留まる。もっとも、一応①(②)および③★ を充足する点は卓淳=昌原説より優れており、久礼山城の位置の通説的解釈が不自然である ことから生じた説とは思われる。

遺跡発掘結果との適合性から卓淳=昌原説が有力とされるようだが、見落としや抹消のおそれが あるのではなかろうか。

なお、仮に卓淳=昌原説が正しいとした場合でも、 州鮮≠卓淳と考えれば、 40章の州鮮を高霊近接地に求める余地があるので下に付論しておく。

・州鮮国=卓淳国以外と考えた場合の同国の位置

州鮮国=卓淳国以外と考えた場合、以下の⑴または⑵となる。

⑴州鮮国=㖨国または㖨己呑と考えた場合
㖨国や㖨己呑も加耶の一国で日本書紀に登場する国であるが、
東潮『倭と加耶』朝日新聞出版 2022年 によれば

㖨国(㖨己呑)は・・・大邱(慶尚北道)、また霊山(慶尚北道)・・・・にあてる 説などがある。(同書p.30)

とされる。
東氏は卓淳=昌原説であるが、大邱自体は加耶の領域の一部とするので上記のような 説明になっている。㖨国または㖨己呑=現在の大邱 と解した上で 州鮮国=㖨国または㖨己呑 とすれば、やはり40章の洲鮮国=現在の大邱 となろう。

⑵州鮮国=卓淳国・碌国・卓己呑以外の場所と考えた場合

田中俊明氏は次のように述べる。

「㖨」は実はあちらこちらにある地名で、何らかの地形的特徴をいう言葉ではないかと 思われる。卓淳も当然それにかかわる名称である。
(田中俊明『「日本書紀」朝鮮関係記事と百済三書』 「京都産業大学日本文化研究所第26号」2021年3月 所収、p.180)

田中氏は、神功皇后四十九年の加羅七国平定記事の中の㖨=㖨己呑として、 それを昌原と金海の間に比定するのであるが、思うに、 同名異国の㖨が高霊近接地にもさらに存在するのであれば、やはり卓淳と音が類似していると いうことからそれを40章の洲鮮国に充当することは不可能ではなかろう。

その他、「㖨」にこだわらなくても、州鮮と似た音の国が高霊近接地にあったので あれば、その国は40章の洲鮮国であった可能性が出てこよう。




























・日本書紀の編纂方針について

滝川政次郎氏は次のように指摘されている。
日本は・・・唐と講和した後も、半世紀に亙って東国の兵士を防人として壱岐・対馬に上番せしめた。 ・・・{天武}天皇の時代に編纂せられた日本書紀は、唐人の日本征服を刺戟するような記事はすべて省略せられている。 (「七世紀の東亜の変局と日本書紀」(『日本書紀研究 第6冊』塙書房 所収)p.177)
氏は、日本書紀の編集にあたり、過去の卑屈外交的なもの(倭の五王)は省略した(今後の対等外交を進めるため) と同時に、唐人が読んで不快を感じることもまた書かれていないとされる。
その結果、「日本書紀の曲筆・省筆は、渉外記事に多くみられる」(同書p.177)と指摘している。
「態勢立て直し」関係の記事もまた、そのような調整の対象となったのではあるまいか。



























37章の謎その5・40章の謎その4の補足

・天日槍(⑤)の「弟」について

⑤(日本書紀垂仁天皇三年条の「一に云はく」) において天日槍は「自分の国の統治をやめて弟に任せて、帰化した」
旨説明している。
ここで「弟」という存在が登場するが、この弟が正式に国を継いだという ことになるのかという問題がある。

思うに、①天日槍は神宝を持って渡海している
②三国遺事の延烏郎の話において、 延烏郎が渡海すると「日の光が消え」ている
ことから、天日槍は統治権ごと移動させていると考えられる。
それゆえ「弟」の話は説明の便宜のため登場した説話的なものにすぎず、せいぜい近親者(義理の者を含む)に一帯の管理を託したという程度であろうと 捉えておきたい。






















・田中卓氏のヒボコに関する解釈

田中卓氏は、ヒボコに関する記紀の記載に年代的に難解な点があるとして、それを解消するには
(一)日本紀に、ヒボコノ命の来朝年代を垂仁天皇朝といふ のは誤りであるとして、それ以後とみる か、或いは (二)ヒボコノ命の 出自を新羅国主の子といふ紀・記の所伝を作為と考へるか、もしくは (三)垂仁天皇の御世を四世紀の中頃以後に比定するか、のいづれかの途を選ばねば ならぬ。
(「日本国家の成立」(田中卓『日本国家成立の研究』 皇学館大学出版部 1974年 所収p.699)(太字強調は引用者による、以下の引用も同様))
とする。その上で、(三)を採ることは無理とし、(一)・(二)のいずれかであるが、
両者に優劣をつけることは難しいとする。
ところが教授は、ヒボコノ命はイト国滅亡後海に逃れた亡命のイト国一団の首長(p.703参照)であると 捉え、かつ「イト国の滅亡もまた、A.D.二七〇年前後とみなしてよい(p.703参照)
とし、その上で、
私見によれば、ヒボコノ命の東進し来つた垂仁天皇紀三年の絶対年代 は、前述の通り、およそA.D.二六〇年から二七〇年位といふことになり、 両者は期せずして時代を等しくする(以下略)。(同書p.703-4)
と述べているので、どうみても上記(一)も排除されることになる。
従って教授の本音は(二)と捉えるべきであろう。
氏は
紀・記・・・・には新羅国の王子といふ──既述のごとく新羅国といふのにも 難があるので、これは広く解して、朝鮮地方と考えておけばよいであらう。(同書p.702)
と述べ、
新羅国より{瀬戸内海に進入した}、といふのは、出自が帰化人といふことのために 造作された説話であらう。(同書p.703)
として、既に九州に定着していたイト国のヒボコがイト国を去って東に進んだという 立場を採られた。

・田中卓氏のヒボコに関する解釈(続き)

その上で氏は、
しかし何故、ヒボコノ命が畿内を目指して東進したのであらうか。
それを考へるためには・・・畿内の皇室──ヤマト朝廷──が、もともと 九州より東征せられたものであることを想起せねばならない。
〝ヤマト〟の名を同じくするこのふたつの政権は、恐らく、元来、 同族といふべき関係にあつたのであらう。{(卑弥呼の国が九州にあったという説を 前提とする。)}・・・・それ故、(中略)イト国の亡命者が、畿内に東進した ということは、所謂同族の友誼を願ってのことであらうと思はれる。(同書p.704)
イト国の首長の一族(中略)は、かつての同族の発展した 畿内に亡命しようとし[た](同書p.718)
と述べられる。やや慎重な言い回しではあるが、
ヒボコノ命とヤマト朝廷が同族であることを述べられていると解される。




















37章の謎その6・40章の謎その5の補足

・赤留比売命神社の別名「三十歩 | さんじゅうぶ」という呼称について


昔、雨乞いのためお経三十部を読誦したところ効果のあったことに由来するとされるが、掛け言葉等の可能性はないだろうか。




















・楯原の神社について

本文の議論とやや無関係ではあるが、磯歯津道エリアに延喜式内社「楯原神社」が鎮座している 関係で参考記事として掲載しておきたい。
住道神が河内国丹治比郡の楯原里に移転したと注されているが、a~dが移転したとする説、dが移転した と読む説、移転した後再移転してeになったと読む説など、この部分だけでも既に説が錯綜している。
ただ、楯原の地には現に「楯原神社」が存し、これが延喜式神名帳に記された楯原神社と同一であるなら 平安時代から楯原神社はそこに存したということになるため、それと上記a~eとの関係把握も さらに見解が分かれうることになる。
楯原神社の現在の祭神は、p武甕槌 | たけみかづち大神、q大国主大神、r孝元天皇、s赤留姫命である (アルファベットは整理のため付したもの)が 明治維新期の混乱の中の処理や、それ以前はどうだったのかについても説が錯綜している。
自説の予想を先に述べておくと、磯歯津道エリア系の神社の一つではありそうであり、 それゆえ時代が下るにつれて表面的に見ただけでは祭神の実態がつまらないものと見られがちに なり、不満が募るなどの事象があったかもしれない、ということになる。
そのような中では種々の辻褄合わせなどは起きがちであり、本来の祭神については大雑把に想像する しかないということになろう。
神社側の主張としては、p.qが本来的祭神であり、 sアカルヒメについては平安時代から別の場所で祀られていたものを 室町時代に旧社地の龍王社へ合祀したに過ぎない、
rも付近の天神社を室町時代に本殿へ合祀した結果であり、さらに菅原道真公を合祀して、江戸時代には 中核的祭神ではない「天神」が前面に出て「天神社」と呼ばれていた、 かわりにいつのまにかsを祀った旧社地の龍王社の方が**楯原神社の名でよばれ、明治維新の時軽くみられた、 云々。
この点について『東成郡史』等によると、**の方も(祭神不詳の)「天神社」と呼ばれていた 等、上記と一部異なる説が記されている。

これは、中核的祭神がなんであったかを明確に保持し難い状況の中で便宜的な処置を重ねざるを 得なかったことと関係するように思われる。
民間レベルの祭神説としては、 「不詳。一説に豊玉彦命・赤留比売命・豊玉姫命」とするもの、 「赤留比売命」とするもの、「少彦の尊」とするもの、など各種あるようだ。 (ウィキペディア参照。)
実際、明治初期に祭神確定の必要性に迫られた当事者が、 「天神」とは何を意味するのかであちこちに相談していたという文書が 『摂津国住吉郡喜連村文書(津田秀夫文庫)』に含まれている。
それによると、(大意の要約)
「当社は往古より天神と称してきたが何の命を祀っているかが不詳のまま だったので住吉大社関係者に見てもらったところ、式内社である以上 道真公以前から鎮座していることになるから祭神は道真公ではなく 牛頭天王の祭神である武塔天神(素盞男命)ではないかといわれ、 素盞男命を追祀し手続きを完了した。ところが神道の心得のある 方にその後相談したところ、天神というのはスサノオの命のことでは なく高皇産霊尊の子(中略)ではないかなどといわれ、不詳な状態から 脱することができないので申し訳なく思い、さらに堺県の職員や 阿麻美許曽神社の人に相談すると、あえて祭神を特定せず「楯原大神」 として祀ればよいといわれ、それに従って祭祀した・・・云々」
等と記されており興味深い。
現在の祭神は上記相談結果ともまた異なっているわけであるが、 祭神に古の経緯が絡む複雑な性格があったため、と考えると無理からぬ面があると思われる。
このようなケースは全国の神社にも多いと思われる。
本稿の記述は、ここで採りあげた神社の説明に乗せて叙述するという便宜性があってのことなので、 誤解のないようお願い申し上げる。






















37章の謎その7・40章の謎その5・6の補足

・朔旦冬至の廃止について

朔旦冬至の祝賀は明治三(1870)年廃止された。
陰陽道的で純粋神道からやや外れるというような配慮からではないかと思われる。
しかしもともと古来からの暦として日本書紀においても採用されていた概念と関係するものであり、 メトン周期として世界的な普遍性もあるので、廃止しなくてもよかったような気もしなくもない。



























・津田説における任那領域について

⑴加羅の意味に関しての争い

加羅が一諸侯国の意味で使われた場合、①金官加羅を指す場合と、②大加耶をさす場合と、③その他の任那諸国のどれか一つを指す場合、 が考えられる。
『日本書紀』継体天皇紀二十三年三月条は②を指すとするのが現在の通説である。
ただ以前は、加羅は、①金官加羅のみを指すとする解釈*があり、現在の発掘状況や日本書紀(継体紀)の文言に 不適合であるため現在は人気がないが、津田説はこちら*の立場に立つ。
この立場からはやや狭く任那領域を捉えることが可能となることになる。
だが、そうだとしても、多羅国(陜川)を任那に含めない津田説は異様なほど消極的な説といえよう。

⑵津田説で言及した地名についてのgoogleマップへのリンク(適切な地図がお手元にない場合等のため)

(下記の文のリンク部分をクリックすると、googleマップweb版の、日本語版では地図上の漢字表示が乏しいため簡体字中国語版にて表示(ただし一部環境では日本語版) (数分待っても地図部分が表示されない場合は地名タイトルの下の丸印の中の「分享」押し下げ→「分享」画面で嵌入地图という項目を押し下げ)))

本文に記したことと重複するが、津田氏は任那の最北端を現在の昌寧としている。 その東南にあたる咸安[安羅国]は含めるが、 現在の多数説が任那(加耶)の領域に含める 密陽陜川(以上慶尚南道内)や高霊(慶尚北道内)も津田氏は任那に含めない。もちろん大邱も含めない。 継体天皇紀七年十一月条に任那諸国の一つとして登場する「伴跛」を津田氏は 慶尚南道智異山脈付近(通説と異なる)に比定し、 しかもそこは任那に含まれないとする奇異な見解をも採っている。




















・「欠史八代」に関するその他の説

一部肯定説(A2):一部の代について認め、残りについては否定する説(上田正昭)
(批判)当サイトでは既に 37章の謎その3・40章の謎その2の最後の方 で検討した通り、一部の代に限定して認める必要がなく、
さらに、御歴代の表に不記載となっている方でも記載されている方に準じる方がいると指摘しているため 方向性として逆であると主張したい。

神話説(否定説の一種。A3):精霊の仲間・神々の一部の名称として認める説(岡田精司、前之園亮一)
(批判)この神話説は「十七世」(上のリンク参照)との比較考証を(当然ながら)経ていないので不十分なものであり、 かつ、「佳称であれば天皇の諱にも組み入れられうる」という観点が排除されている点で妥当でない。

























2025.03.09作成
2025.04.12追加
2025.04.14微修正・加筆
2025.05.09微修正・加筆
2025.06.11微修正・加筆
2025.06.22微調整・加筆

(c)東族古伝研究会