漢の霊帝の光和年中(一七八 - 一八三)に、倭国に戦乱が起こり、互いに戦って何年かが過ぎた。 そこで卑弥呼という一人の女子を、皆で王に擁立した。
(井上秀雄 他 訳注『東アジア民族史1─正史東夷伝』平凡社 1975 p.317[山尾幸久氏訳出部分]参照)
高霊郡。本大加耶国。自二始祖伊珍阿豉王一。至二道設智王一。凡十六世。五百二十年。真興王 侵二滅之一。以二其地一為二大加耶郡一。
(引用者注:上の漢文は三国史記の引用で、和訳は本稿の本文に既出)
十六世五百二十年{注・実際の年数はもう少し短いかもしれない}の歴史を有する 駕洛{(ここでは大加耶を指す)}国の栄枯盛衰が、只 これだけの文字とは世界無類の 惨況である。また任那の名は一切見えぬ。・・又日本との関係も大事件は略 抹消し尽くされてゐて・・・・
(浜名溯源p.452, 詳解p.16610~13行目。{}内は引用者による注釈)
天若日子が弓矢をたずさえた存在であったこと(中略)のような返し矢伝承に 親近な要素をもっていたがゆえに、天若日子に反逆者としての死を与える筋の展開が要求 された時、・・・返し矢の伝承が天若日子の伝承に附加利用されたものと推定されるので ある。 (吉井巌「天若日子の伝承について」(吉井巌『天皇の神話と系譜 二』 塙書房 1976年所収)p.69.またp.59, p.56参照。太字強調は引用者による)
○(居登王又は子) | ┐ | |
├ | 麻品王(成王) 208年誕生、253年即位 [三国遺事王暦]259即位 259年上昇、290年薨 |
母后 | │ | 神女・琉冕──── | ┘ |
(仮の案(2)-1) | ||||
居登王本人─ | ┐ | |||
├ | 麻品王(成王)の父 (仮にPとする) 208年誕生、259年上昇 | ─ | 麻品王(成王) 253年即位 [三国遺事王暦]259年即位 |
母后 | │ | 神女・琉冕─ | ┘ |
(仮の案(2)-2) | ||||
首露王─── | ┐ | |||
├ | 居登王本人 148(208)年誕生 259年上昇 | ─ | 麻品王(成王) 253年即位 [三国遺事王暦]259年即位 |
母后 | │ | 神女・琉冕─ | ┘ |
結局、 | ||||||
首露王── | ┬ | 居登王 | ┬ | 麻品王 | ┬ | 居叱弥王 |
(太祖) | │ | (道王) | │ | (成王) | │ | (徳王) |
神女・琉冕 | ┘ | 后・慕貞 | ┘ | 神女─ | ┘ |
新羅は{大加耶とトラブルになった時に}道すがら・・・3城を攻略し、 また(加羅の)北の境の五城を奪取した。B『日本書紀』継体天皇24(530)年3月
{大加耶王が毛野臣(天皇からの呼び戻しに応じなかった人物)とトラブルとなり、新羅・百済が 大加耶に兵を派遣し介入する騒ぎとなったときに}{百済や新羅が}・・・城を築いて帰還した。C『日本書紀』欽明天皇5(543)年3月の百済王の上表文
その名を久礼牟羅城という。帰還途中で道すがら、騰利枳牟羅 ・布那牟羅 ・牟雌枳牟羅 ・阿夫羅 ・久知波多枳 の五城を奪取した。
新羅は(530前後の)春に㖨淳を奪取し、よってわがD『日本書紀』欽明天皇5(543)年11月の任那復興会議での百済王の発言久礼 山 の守備兵を追い出して占領したのです。 安羅に近い所は安羅が 久礼山に近い所は新羅が耕作していました。・・・
(こうして新羅人に)田を耕作させないようにして悩ませたら、CやDに問題の「㖨淳(卓淳)」の国名が見える。この国の所在が問題となる。久礼 山 の五城は自然に武器を捨てて降参するでしょう。卓淳の国もきっと再興すると思います。
日本は・・・唐と講和した後も、半世紀に亙って東国の兵士を防人として壱岐・対馬に上番せしめた。 ・・・{天武}天皇の時代に編纂せられた日本書紀は、唐人の日本征服を刺戟するような記事はすべて省略せられている。 (「七世紀の東亜の変局と日本書紀」(『日本書紀研究 第6冊』塙書房 所収)p.177)氏は、日本書紀の編集にあたり、過去の卑屈外交的なもの(倭の五王)は省略した(今後の対等外交を進めるため) と同時に、唐人が読んで不快を感じることもまた書かれていないとされる。
(一)日本紀に、ヒボコノ命の来朝年代を垂仁天皇朝といふ のは誤りであるとして、それ以後とみる か、或いは (二)ヒボコノ命の 出自を新羅国主の子といふ紀・記の所伝を作為と考へるか、もしくは (三)垂仁天皇の御世を四世紀の中頃以後に比定するか、のいづれかの途を選ばねば ならぬ。とする。その上で、(三)を採ることは無理とし、(一)・(二)のいずれかであるが、
(「日本国家の成立」(田中卓『日本国家成立の研究』 皇学館大学出版部 1974年 所収p.699)(太字強調は引用者による、以下の引用も同様))
私見によれば、ヒボコノ命の東進し来つた垂仁天皇紀三年の絶対年代 は、前述の通り、およそA.D.二六〇年から二七〇年位といふことになり、 両者は期せずして時代を等しくする(以下略)。(同書p.703-4)と述べているので、どうみても上記(一)も排除されることになる。
紀・記・・・・には新羅国の王子といふ──既述のごとく新羅国といふのにも 難があるので、これは広く解して、朝鮮地方と考えておけばよいであらう。(同書p.702)と述べ、
新羅国より{瀬戸内海に進入した}、といふのは、出自が帰化人といふことのために 造作された説話であらう。(同書p.703)として、既に九州に定着していたイト国のヒボコがイト国を去って東に進んだという 立場を採られた。
しかし何故、ヒボコノ命が畿内を目指して東進したのであらうか。と述べられる。やや慎重な言い回しではあるが、
それを考へるためには・・・畿内の皇室──ヤマト朝廷──が、もともと 九州より東征せられたものであることを想起せねばならない。
〝ヤマト〟の名を同じくするこのふたつの政権は、恐らく、元来、 同族といふべき関係にあつたのであらう。{(卑弥呼の国が九州にあったという説を 前提とする。)}・・・・それ故、(中略)イト国の亡命者が、畿内に東進した ということは、所謂同族の友誼を願ってのことであらうと思はれる。(同書p.704)
イト国の首長の一族(中略)は、かつての同族の発展した 畿内に亡命しようとし[た](同書p.718)