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37章の謎・40章の謎 関係の説明の補足
37章の謎その2・40章の謎その1 の補足
・任那からの調は天皇が直接ご覧に・・・
『日本書紀』大化元(645)年七月十日条
{任那の使を兼ねた形で、任那の調(みつき)をも たてまつった}百済からの使いに対し
「・・・・任那のたてまつるものは{百済からの調と異なって}天皇が
直接ご覧になるものであるから、今後は{百済と任那の}どちらの国から何を貢納するのかを
具体的に記すようにせよ。・・・」参照。
・浜名氏による言及(韓の字の使用時期)
浜名詳解p3654行目「・・・その称呼に韓の字を宛てたのは後漢中葉からと考えられは
する。」参照。
(注・ただし後漢中葉の頃は、ムス氏のいい方もまだ現役ではあったと思われるが、その後廃れたものと
自説では捉える。)
・辰韓概念についての②説(浜名説)
浜名は広義(α+β+γエリア)の場合を「父国称」、狭義(γエリア)の場合を「子国称」と呼んでいる。
具体的には浜名溯源p1904行目に「此の辰韓は父国称」 「此の辰韓は子国称」の表現あり。
p19611行目には「父国称の辰」 12行目「子国称の辰」{(狭義の辰韓)}の表現
p2008行目「父国称の辰国」、p21113行目には「父国称の辰韓と子国称の辰韓」の表現。
浜名説はもっともと思える部分もあるが、もう少し緩やかに「辰」と「辰韓」の混同と
見れば足りる(①説)ように思う。時代による概念の変遷がある場合も、①説で対応可能と
なろう。
・弁那をハンナと呼ぶことについて
いわゆる匈奴は契丹古伝38章において「弁那」と記されている
(29章では弁と略されている)。
浜名氏は弁那に「ハンナ」のルビを振っている。
弁は「ベン」と読む字(古くはbonのような音もあった)。同系列の拚はベンの他にフン・ヘン、
また畚はホンと読むから、「ハン」の読みも的外れとはいえない。
ただしこれらの音読みが日本で形成された当時、ハヒフヘホは「fafifufefo」もしくは
「papipupepo」であったことに注意。仮名で「ハ」「へ」「ホ」とある場合喉音で
「ha」「he」「ho」と発音するので、一見、「匈奴」の冒頭子音である喉音と似ていると
誤解しやすいが、ハ行の喉音化は江戸時代の日本における現象であることに注意。
「ヘン」「ホン」は本来「fen」「fon」のつもりで宛てられたカナであるから、
「ハン」と読んでもそれが本来表そうとした音はfanとなる道理であることに十分注意されたい。
逆に、「匈奴」は世界史上のフン(hun)族のことであるとされるところ、これはhunの音のhuを
現代日本語のカナで適切に表せないためやむを得ずフンという仮名表記でfunと発音して
しまっている(これはwhatをファットと読んだ場合の不正確さに匹敵)点に留意されたい。
したがって「匈」は「弁」の音からは遠い。
・シウムス氏が当初はもっと西部にいた可能性
『漢書』に真番傍衆国という謎の国が登場するが、版によっては真番辰国とあるため、しばしば
辰国との関係が取りざたされる。(一般には「真番の傍の衆国」などと解されている真番傍衆国であるが)
契丹古伝解釈サイトとして気になるのは、真番傍衆と辰沄謨率は音が近似するので、関係しないかという点である(契丹古伝についての既存の説にはないよう
である)。
ただし関係あるとしてもその位置は楽浪郡
に寄った所になるであろう。また、真番辰国と記す版の方を学者は優先するが、それは分かりやす
さのために真番の辰国と書き換えたに過ぎないのではないかという疑問点を当サイトとしては
提起したい。
もっとも、ムス氏系の古い時代のありさまの詳細は不明で、類似名の部族が点在していた
可能性もあるから、これ以上の検討は控えたい。
(なお、溯源p.185にあるように、真番傍衆はシウクシフに由来するとの説(浜名説)が既に存するも、
自説はそれとは少し趣が異なる)
・「七、八十年間倭は乱れ」とする訳について[細かすぎる内容を含むので注意]
魏志倭人伝の当該部分の解釈として、第三の解釈として「七、八十年間」とするもの(C説)がある。
これは厳密には第二の解釈(B説)と少し差がある(と見る余地が存する)が、煩雑化を
回避するため第二の解釈とほぼ同じ解釈として本稿では処理しているので了解されたい
(どちらの場合も倭国大乱が相当長い期間として捉えられることには変わりがないので)。
第二の解釈で「七、八十年前」を「その記述の前後における倭国の魏代のありさま(落ち着き)
が備わったときから見て七、八十年前」とすると第三の解釈と殆ど同じことになる。
ただし第二の解釈を「魏志の編纂時より七、八十年前」と見た場合、また別の話となるので
第四の解釈(D説)として論じなくてはならないが省略とさせていただきたい。
(この場合非常にマニアックではあるが非計算説+D説とすると自説には適合させうるが、
そもそも往~年(住の読み替え)の解釈として過ぎ去りし~年間という意味にならないかなどの
問題もある。)
・計算説+Q説(解釈A+否後) の補足説明[やや細かいが理解困難ではない]
男王制が70~80年続いたあと、[桓帝・霊帝の治世かどうかとは関係なく]倭国大乱が
多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。
この説は、後漢書の編者が魏志を参考に編集作業を行ったため誤解釈による間違った記載が
あるということを前提とするので、後漢の時代が終わる220年の時点でも依然卑弥呼が未即位である
可能性をも排除しない説である。
ただ、梁書(7世紀に成立)の倭伝において次の記載があるため問題が生じる。
漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐歴年 乃立一女子卑彌呼爲王・・
漢の霊帝の光和年中(一七八 - 一八三)に、倭国に戦乱が起こり、互いに戦って何年かが過ぎた。
そこで卑弥呼という一人の女子を、皆で王に擁立した。
(井上秀雄 他 訳注『東アジア民族史1─正史東夷伝』平凡社 1975
p.317[山尾幸久氏訳出部分]参照)
この梁書倭伝には、霊帝の治世というだけでなく光和という年号の明示まで
なされているため、やはり後漢書は正しかったとなれば、計算説+Q説は成り立たなくなりそう
なので問題となるのである。
この点については、倭国において、西暦107年、倭国王帥升が後漢王朝に遣使した
とされている(後漢書)ことの関連で梁書の編者が早合点したと見ることが可能な
ことが既に指摘されている。
というのも、梁書の編者は後漢書を文字通り採用する「魏志A+後」説を採ったと
考えられる。つまり「魏志A+後」説とは
男王制が70~80年続いたあと、
桓帝(在位147-168)・霊帝(在位168-189)の治世に、倭国大乱が
多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。
であるが、これを「西暦107年の帥升の遣使の後。男王制がさらに70~80年続いてその後で大乱開始」
と読みかえてしまうと、「西暦177~187年に倭国大乱開始」ということになり、
これが光和の年号の間(178-183)にほぼ一致することになる。
つまり、梁書の編者は、後漢書編者の誤計算による誤記載「桓帝・霊帝の期間」を真に受けただけで
なく、後漢書編者とはさらに別の妙な理論構成によりその詳細な年代を特定したつもりになったと
いう可能性があるわけである。
通説的には「光和年」の記載が重視されるために、180年前後の倭国大乱開始が当然のように
説かれることがあるが、自説はこれに反対である。
もっとも、通説の側からのさらなる反論としては、『太平御覧』という書物に引用された
古い魏志の抜粋とも思える文章の存在がありうる。
『太平御覧』には、かなり長文の魏志倭人伝的文章の引用が魏志の引用として掲載されている。
この文章が、部分的には魏志のものと異なっており、魏志のプロトタイプのものでないか
とか、『魏略』という古い文献の影響を受けたものでないかとして論議の対象となっている
のである。
そして問題の箇所について『太平御覧』版『魏志』は
漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐無定
として光和年の大乱開始を述べるため、魏略の古さなどからして間違いないのではないかという
指摘がなされるわけである。
この点についても当サイトとしては反論しておきたい。
問題の箇所は「漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐」の部分が『梁書』と全く同一である。
そして、『梁書』の成立は7世紀である一方、『太平御覧』は983年の成立である。
たしかに『太平御覧』版の引用には魏志の古い形と思えるものが含まれていることは
たしかであり、一見倭人伝については信用したくなるのも人情である。
ところが、『太平御覧』自体は膨大な引用から構成されており、引用元の書名を間違えていた
り、適宜要約・修正・他文献との合成などが散見される書物なのである。
(このことにつき詳細に検討されたものとして、河野六郎『三国志に記された東アジアの言語および民族に関する基礎的研究:平成2・3・4年度科学研究補助金一般研究(B)研究成果報告書』東洋文庫,1993年 p.1-p.10
参照。特にp.10では「『太平御覧』では、「魏志曰」といって、明らかに・・・
別の本から引用していることも少なくない。従って、通行本二十四史の『三国志』の方が
信頼性が高いといえよう。」とされる。)
そして、普通の版の『魏志』では
住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年
(男王制が七、八十年持続したあと 倭国が乱れ、たがいに攻伐すること数年)
となっているところが『太平御覧』版『魏志』では
漢靈帝光和中倭國亂 相攻伐無定
(漢の靈帝の光和年間に 倭国が乱れ~)
とされており、「住七八十年」という分かりにくい表現が直されていることに気付く。
「住七八十年」についてはこれを「往七八十年」と解して「七、八十年前に」と解する
(魏志B説参照)説もあるなど、厄介さのある表現である。
それゆえこの部分を分かりやすく修正するのは『太平御覧』ならではの荒技と見る余地が
充分にある。
よって、この部分は決して魏略の反映ではなく、『梁書』の類のアレンジ挿入と見たほうが
よいだろう。
そもそも、『魏志』の著者は『魏略』という現在では失われた書を参照できており時折引用を
しているという実態がある。魏略に具体的な年代データ「漢靈帝光和中」があったとすれば、
『魏志』の著者はそれを使ったはずで、それを記さずに曖昧な「住七八十年」という表現を
『魏志』に記すのはおかしいことになるはずである。
以上より、『太平御覧』版『魏志』を根拠とした通説からの批判もあたらないと解される。
・参考:委奴国の朝貢についての浜名氏の考え
浜名氏も溯源p.50において、「委奴国王」が「印を(後漢朝から)受領した」ことを「今の外国勲章を胸に掛ける
のと同じやうな考え」と評している。(ただしこれは西暦57当時すでに日本列島(の近畿
地方)に本宗家の朝廷があったという氏の考えを前提に、北九州の委奴国王の後漢への朝貢
について評している部分である。)
・参考:新羅による加耶歴史抹消についての浜名氏の考え
浜名寛祐氏は戦前の軍人であり、日本の朝廷はもとから列島にあったという立場を
崩していない。それでも加耶の歴史の改変について次のような趣旨の言及がある。
異族の侵入を受けて変貌した新羅は神話や歴史を変造(溯源p.451(詳解p.165)11行目参照)したとする。
その際歴史を昔に「溯らせ(溯源p.452, 詳解p.166 5行目)」て大いに改変(同頁2行目)
し、同時に矛盾抵触する旧史を湮滅して後世を欺いたとする(溯源p.452, 詳解p.166 7行目参照)。
その一環として駕洛(ここでは大加耶を指す)の国史もその「惨行」の対象となったとする
(溯源p.452, 詳解p.166参照)。その結果が三国史記の地理志にわずかに次の文字をとどめるに過ぎないこと
になったとして(同じページの8・9行目)次のように述べる。
高霊郡。本大加耶国。自二始祖伊珍阿豉王一。至二道設智王一。凡十六世。五百二十年。真興王
侵二滅之一。以二其地一為二大加耶郡一。
(引用者注:上の漢文は三国史記の引用で、和訳は本稿の本文に既出)
十六世五百二十年{注・実際の年数はもう少し短いかもしれない}の歴史を有する
駕洛{(ここでは大加耶を指す)}国の栄枯盛衰が、只
これだけの文字とは世界無類の
惨況である。また任那の名は一切見えぬ。・・又日本との関係も大事件は
略
抹消し尽くされてゐて・・・・
(浜名溯源p.452, 詳解p.16610~13行目。{}内は引用者による注釈)
・参考:馬渕和夫氏の考え
国語学者の馬渕和夫氏(勲三等瑞宝章受賞者、2011年死去)の説くところでは、天皇家は基本今の高霊のあたりに
かつて所在し、それが日本列島へ移転したとする。従って大加耶王の墳墓がある高霊エリアが重視され、
金官加耶初代王ゆかりの金海は殆ど無関係という扱いになるため自説と差が存する。
なお、大加耶王の系譜が「接ぎ木」という論は馬渕氏にはないが、
下記文献のp.440で微妙に関連する指摘がなされている(「わが高天原で神々が
活躍した時代は{大伽耶国よりも}も一つ前のことであり、
大伽耶国はそれと交替した王朝か、あるいは同じ系統の王朝であるにしても、代の改まった
王朝であったとしてよいのではないか[以下略]」)。
また、当時の高霊の人々をアルタイ・扶余系が南下したものという感じで捉えられておられるよう
だが、朝鮮人の単一民族性に関しては明確な肯否を述べられていないので不十分な感を与える。
もともと日本の学者の一部の方はこの点についてあえてあいまいにされているようにも
思われるので、玉虫色の読み取り方を許してしまう結果となる。そのため
氏の文章が某所の石碑(○○○故地)などに(企画を了知した状態で[下掲書p.766参照])利用される結果を生じた。
以上に関し、『「高天原」の故地』 (馬渕和夫「古代日本語の姿」武蔵野書院 1999年 所収 p.431-p.450参照。
なお、玉虫色の読み方ができるからといって半島人の読む読み方で日本人が氏の
文章を捉えてしまい、過剰な反発をするとすれば妥当とはいえないので注意が必要である。)
2025.03.09作成
(c)東族古伝研究会