※本ページは37章の謎その1の続きです。必ずそちらをお読みの上でこちらをお読み下さい。
※前稿に比べて相当な長文です。お時間のある時にゆっくりお読みください。
※厳しい執筆環境下、ページの分量のバランス調整など不十分です。読み易さへの配慮は行っていますが、
時々読み辛く感じられるかも知れません。予めおことわりしておきます。
ただし当サイトのコンテンツ内における重要度としては本来極めて高いものとなります。
それゆえ改変しての紹介その他、本稿の趣旨をゆがめるような解釈をしないようお願いします。慎重に御読みください。
(イントロダクション)
37章の「辰」は、40章の「辰」と同じ国で、辰沄氏の一分岐であり、40章の「イヨトメ」という高貴な女性に
ゆかりのある国である。
謎の多い国であり、日本との関連も研究の必要性が高い。
しかし、37章に曖昧・難解な記載があるため、この「辰」国をより広義の意味(辰沄氏)に解釈する説が
しばしば見られる、本稿の前章ではそれを否定し、「辰」国を狭義の意味にとるべきと主張をしたところである。
本稿では前稿を前提に、非本宗家であった「辰」国の所へに本家筋の勢力が入っていった
ことによる上古における勢力変動について考察していく。1800年以上前における半島の
有様が、現在と全く別物であった可能性について十分留意されたい。
※本稿、次稿はサイト開設時から存した課題・問題意識について一つの答えを出した
形となっており、大胆な処理をあえて回避していないところが一部ある。
本来さらに時間をとって執筆するべきところ、不本意ながら簡略となってしまった部分も
あるかもしれない。平に容赦を乞う次第である。
また、当サイトの問題意識について見当違いをされているかたは、この機に修正していただければ幸いである。
目 次
・□契丹古伝37章の世界
・○3世紀 魏志の描く半島南部
・○東大古族語「珂」とその関連語群 (なぜ韓の字が登場したか)
・○ムス氏から賁弥辰沄氏へ、そして賁弥氏の「魏志上不存在」の不審
・○半島南部「3エリア」と「辰王」と「本宗家」
・○37章のころの勢力名と魏志の3エリア(α・β・γ)との対応関係
・○辰王の称号と「頌」と本宗家
・○「イヨトメ」はいつの時点の女性か
・○「イヨトメ=倭人伝のトヨ(イヨ)女王」説 への反論
・○自説の一応の提示 ~「イヨトメ」よりしばらく経って後の「臺与」、そして両者間の政治の動き
・○「倭」の国号
・○倭の大乱
・○倭の大乱の始期と終期(朝廷の移動時期と関係)
・○「倭の大乱」と第10代崇神天皇、そして乱の終結
・○倭国連合・邪馬台国の官制から推測する当時の状況
・○邪馬台国に付随する問題1 卑弥呼体制時の邪馬台国の位置
・○邪馬台国に付随する問題2 伊都国の性格について
・○邪馬台国に付随する問題3 卑弥呼=公孫氏説について
・○邪馬台国に付随する問題4 卑弥呼の治世がなぜ明記されないのか
・○卑弥呼女王の次の男王体制について
・○倭国連合と狗奴国
・○景行天皇以降の歴史を視野におきつつ、少し離れたところからの概観の試み
・○「卑弥呼は誰に該当するのか」の問題について
・○「40章の姫君は誰に該当するのか」(1)
・○「40章の姫君は誰に該当するのか」(2)倭国大乱における勢力間の関係
・○「40章の姫君は誰に該当するのか」(3)第10代崇神天皇以前の状況
・○「40章の姫君は誰に該当するのか」(4)「王権の正当性」と「X帝」・「イヨトメ」との関係性
・○「40章の姫君は誰に該当するのか」(5):『ほつまつたゑ』の謎~ロマンの書+意外な側面
・○国と住民の移動について ~「渡来」という表現の不審
・○天孫降臨と日本の「神代」
・○ニニギの尊=崇神天皇 (という説について)、そしてその母君とは
・○天孫降臨周辺の神々と「人代」の方々とのつながり(1)
・○天孫降臨周辺の神々と「人代」の方々とのつながり(2)
(以下本文)
□契丹古伝37章の世界
安冕辰沄氏(ムス氏系)[辰の最有力者]、
→賁弥辰沄氏に国を譲る→※漢王朝軍の襲来と
それに対する防戦
37章で描かれているのはここまでである。
※漢寇(漢王朝軍の襲来)と明示されているのでその時期は中国史でいう前漢~後漢時代
(大雑把にいうと紀元前・紀元後にまたがる約四百年間)のいずれかに限定されるはず
である。
これが半島の内部の出来事であることは自明のことだが一応説明すると、契丹古伝34章で(辰沄)殷の王が燕瞞(衛満)なる人物の侵略により辰に奔ったとされる点に
注目して頂きたい。
これに対応する記述が魏志などに準という名の王の行動として述べられており、
その中で、準王が衛満に攻められて半島を南下した旨の描写がなされているのである。
したがって、辰沄殷の王が奔った先は当然半島内部のどこかである。
また、辰王、辰国といった言葉が魏志などにわずかながら登場し、その記載から
それは半島南部にかつて存在していたものとするのが通説である。
では魏志に登場する辰王とはいかなるものか。
○3世紀 魏志の描く半島南部
魏志(三国志魏書)によれば、3世紀前半の
半島南西部に、辰王という存在があり、月支国という場所で
治めていたという。当時の半島は無数の諸侯国(酋長国)があり、民族種別も様々であったはずで
あるが、現在の朝鮮の通説は単一民族の朝鮮人が居住していたことにされている。
この点については歴史上の誤解を生む危険な要素であるので檀君問題のページ等を参照されたい。
魏志によると、半島(南部)の無数の諸侯国は、大きく、馬韓
・辰韓
・弁辰
の3つのエリアに分けられ、全体としては韓と呼ばれている。
翻って契丹古伝37章を見ると、
韓の字も見えず、当然 馬韓・辰韓・弁辰の呼称もない。
したがって魏志の時代の数百年前においては、37章の説くように、魏志と異なる
半島のありさまが展開されていたはずで、その部分は契丹古伝にしか描写がないと
思われるほどである。
さて、魏志(三国志魏書)は、魏王朝が滅んで間もなく編纂された歴史書であり、信頼性が一応高い
とされている。実は魏の一つ前の王朝である後漢についての歴史書『後漢書』にも
半島について魏志と類似した記述があり、もしこれが正確なものであればより古い時期の
ものであるため契丹古伝との照合等に大いに役立つはずである。
ところが『後漢書』の編纂の時期はなんと魏志よりも後であるため、
魏志の記述をアレンジして作成した部分が多いとされており、史料として使いづらいと
いう憾みがある。
それゆえ3世紀前半の魏志が描く半島像を検討する方がまだしも容易という
ことになるが、そこには無数の諸侯国の名が登場するものの具体的描写に乏しく、
謎が多いということになる。
それらの諸侯国は○○韓の名前で呼ばれることもあるが、その「韓」は浜名氏(本サイトの18章
解説参照)も説くように、現代の韓国、韓国人の概念とは大きく異なる。
浜名氏は新羅の王統は「真の韓人種」でないとまで述べているのである。
3世紀前半の無数の諸侯国においても、複数の人種が入り混じって展開されていたはずで、
日本人の先祖もいたはずだが、その詳細が抹消されている点は遺憾である。
○東大古族語「珂」とその関連語群 (なぜ韓の字が登場したか)
「韓」の意味には争いもあるが、モンゴルの「チンギス汗」で有名な「汗=ハーン」
と大差ないもので、王とか君主を表す称号の一つであろう。
本サイトの別のページで、「韓侯国」について採りあげたことがあるが、
これは周王朝の王族系とされる君主国で、一説に北京付近に紀元前千年ごろ存在したとも
される。そして「韓侯国」は半島の「韓」と関係ないということも既に指摘した
ところであるが、中国(や儒教)を崇める傾向が強まったあと、半島の住民が
「韓侯国」の名前にあやかって君主の称号である「ka(n){,kam,ha(n),hamなど}」
に「韓」の字をあてたのではないかと思われる。
衛満に追われた(辰沄)殷王、中国の史書による王「準」は半島(南部に)下って
「韓王」と名乗ったと史書は記すが、当初から「韓」の字を使用していたかは
疑問と考える。ただ、王「準」の入った土地に中国趣味の教養人が一部居れば、
「韓」の字が既に使用されていたかもしれないし、その場合半島中部にできた漢の郡との
交渉のための外交文書の作成上、韓の字を使うこともありえたかもしれないとは考える。
(浜名氏にも類似の言及あり。)
上の方で、「君主の称号である『ka(n){,kam,ha(n),hamなど}』」と書いたが、
これは東大古族でも通常用いていたはずのもので、例えばむかし高句麗には大加、諸加
と呼ばれる首長層がいたが、この「加」も本来小国の王を意味する語と一般に考えられて
いる。
契丹古伝上でいえば5章において神祖スサナミコの別号として
辰沄須瑳珂
シウスサカが登場する、この「珂」にも同様な称号的意味合いがあると考えられる。
そして、「珂」の字は契丹古伝1章の戞珂旻(カカミ、日神体)という語において「神」の
意味で使われていることに注意されたい。その解説において「神」は日本でもガ・カと
読まれうることについては当サイト開設時に既に言及している。
ちなみに、日本書紀で大国主命と書かれているかたを古事記では大国主神と記すように、
~神は~命のような位置付けで使われることがあるのは御存じだろうか。
大国主神の「神」も契丹古伝のシウスサカの「珂」と同じ用法であると当サイトでは
考える。したがって、読者におかれては、中国風の趣味の宛て字である「韓」に惑わされ
ないようにお願いしたい。
浜名氏は「韓」はカラ(神族)の意味を縮めた形とする
など複数の解釈を挙げる(溯源p.186)。語尾の部分の意味の取りようによって微妙な差異が
生じうるにしても、せいぜい君主国などの類であり、上記の説と大きく異なるものでない。
実際、契丹古伝37章においては「韓」の字は一切使われていないし、
メインの王家として安冕辰沄氏
が登場しており、これがムス氏系とされる。中国の史書にはムス氏の名は登場していない。
○ムス氏から賁弥辰沄氏へ、そして賁弥氏の「魏志上不存在」の不審
では、数百年の間に何もかもが変わってしまったのだろうか?
おそらく政治的変動が続く間、支配者の構造が変わってしまったと思われる。
なぜなら、魏志には半島西部にある「月支国」に「辰王」という存在が記されるが、
「古の辰国」という表現も別途出てきており、「辰国」自体は過去の遺物になっているよ
うに描かれているのである。
このことから辰王国の支配体制に何らかの変化が生じ、魏志以前に辰王の権威の弱体化が生じたことが窺われる。
このように謎を秘めてはいるが、魏志に登場する80余りの諸侯国=諸韓国(酋長国)
の中には、ムス氏の時代から継続しているものも多かったと思われるし、日本風の文化
が際立っている国も多かったと考えられる。
ただ、二転三転するようで申し訳ないが、契丹古伝上重要とおもわれる賁弥辰沄氏
については謎も多い。
というのも、契丹古伝37章上では安冕辰沄氏が賁弥辰沄氏を受け入れ辰王位を譲っている
ように見える。賁弥辰沄氏は費弥国氏洲鑑の費弥国氏と関係する表現で、本宗家に
近い意味合いをもつと当サイトでは推定している。
とすると、賁弥辰沄氏は半島南部の「辰王位 兼 本宗家権」を有する格式の高い家だった
はずだが、魏志からはその様子が窺えないのである。
当サイトの推測としては、賁弥辰沄氏は当初半島西部「月支国」で「辰王位 兼 本宗家権」
を有していたが、おそらく辰王位を安冕辰沄氏に返して、別途本宗家直轄地を別の場所に
設定したのではないかと思う。以下その理由を述べていきたい。
○半島南部「3エリア」と「辰王」と「本宗家」
まず、魏志で、馬韓の月支国
にいたとされる辰王は、権威はありそうでは
あるが、中国との関係もはっきりしない、ある意味その当時形骸化していた存在ではある。
魏志の時代、半島南部はα
馬韓
(南西部)とβ
弁辰
・γ
辰韓
(南東部)の三つの
エリアに分かれており、実態としては小さな諸侯国の集合体であった。
[ちなみに、さらに後の時代にαエリア内に百済が、βエリア内に加耶(任那)が、
γエリア内に新羅が成立していくことになる。]
月支国(所在:αエリア)の辰王は、強い権利ではないものの、馬韓・辰韓・弁辰に影響力をもって
いたと解するのが、白鳥庫吉説(ただし月支国にいた王を辰王でなく馬韓王と呼ぶ)
・三上次男説・井上幹夫説・武田幸男説である。(ただし月支国の王の管轄から
はずれた国もあったと解されている。)
一方、魏志には、「(γエリアの)辰韓は、古の辰国である」という記載があり(注1)、かつ、
「βとγとを合わせた24か国」のうち12国は辰王に属す、とも記されているので、
辰王国の管轄は半島東南部の一部に限られ、王自体は西部の月支国にいたと
解する説が、末松保和説、栗原朋信説などである。
魏志には、「辰王には馬韓人を立てた」とあるので、後者の説で解釈した場合でもなお、αエリアが
強い権利をβエリアに対し有していたというイメージには原則なるはずだが、一部の説においては、
「(馬韓人=馬韓エリア在住者の意味だ、その他の理由により、)辰王も(γエリアの)辰韓人だ」
とする意見もある(この結論は朝鮮の学説にしばしば見られる。これは半島で新羅系の民
が優越的地位を事実上得ていることと関連しよう。[ちなみに、田中勝也説における
辰朝の理解も新羅的なものなのでこの類型に近い。なお、栗原朋信説もこの類型に属する
が、辰韓人自体を北からの到来者とするため少し性質が異なる])。
この点をどう考えるか。
思うに、魏志の時代より昔である契丹古伝37章の時代においては、
半島南部の辰国の最有力者は当初安冕辰沄氏であったのだから、
安冕辰沄氏こそもっとも一般的な意味での辰王ということになろう。
そして、賁弥辰沄氏が到来するまでは、おそらくα・β・γエリアの全諸侯国に対する
管轄権ぐらいもっていたかもしれないと思われる。よって、辰王国の管轄の東南部限定説は
採用しない。
従って、安冕辰沄氏の辰朝(ムス氏系)は強大なイメージで後の馬韓(αエリア)のあるじといった感じで捉えたい。
ただし、半島南西部(β・γエリア)は安冕辰沄氏の管轄にあったにしても、文化的な
要素からしてαエリアとは異なった様相を呈していたようだ。
『後漢書』には、秦の遺民が流入してきた際、馬韓は東の土地(γ)を裂いて与えた
という言い伝えも記録されている。
これは、安冕辰沄氏から見てγ・βエリアはやや縁遠いため、あらたな流入者は
そちらに住まわせたというような意味に解釈できよう。
そもそも、賁弥辰沄氏が(αエリアに居た)安冕辰沄氏のもとへ到来する以前の段階における、γ・βエリアには、
安冕辰沄氏よりはやや勢力が劣り安冕辰沄氏管轄下にはありつつも一定の包括力のある
権力者がいた可能性もあるから(*注2)、あらたな流入者はそれらの権力者の世話になる
という関係にもなりそうである。
*注1 辰王(の辰国)と、辰韓(=γエリア)とは紛らわしい概念である。
魏志で「辰韓は古の辰国」としたのは、両者を混同したのではないかと思われる。
辰王国管轄の非東南部限定説の立場から、魏志の記載を説明する方法として
は①上記の混同説の他、②辰韓は辰国(α+β+γ)を指す広義の場合と、γのエリアのみを指す
狭義の用法の2種があるとする説、③現在の辰王の国と消滅した古の辰国とは別々の概念なので
その連関性についてこだわらなくてもよいとする説、などがある。
(自説は①、浜名氏は②説、武田教授は③説を採る。浜名説について細かくは
補注参照)
*注2 もっとも顕れた者を安冕辰沄氏という。という契丹古伝の記載からも、
その他の辰系有力諸侯の存在は窺える。
さて、そもそも『後漢書』には、(箕子の系統とされる)準王の子孫がやがて絶え、
馬韓人が辰王位を復したという趣旨の記述がある。
これは学者たちによって、『後漢書』の「やらせ」的記述という非難が強い箇所である
(安部裕治氏も同様の非難を加えておられる)。
しかし、当サイトの解釈においては、40章のイヨトメが本宗家である辰沄氏の殷の
権利を保持していたと解釈しており、契丹がそれに便乗する解釈をしたものと捉えている。
そして、40章においてイヨトメのことを訪問者がその場所で偲んでいる、かの「跡地」は、
αエリアではなくβ・γエリア内にありそうなのである。
この点も以下検討しなくてはならないが、仮にそうだとすると、
イヨトメの辰国ないし辰沄氏の殷は、αエリアに所在した月支国辰王とは
別の存在でなくてはならない。
イヨトメは準という王の権利をも継承保有していたが、αエリアに所在した月支国辰王は
そうでないことになる。
そのため、本宗家格の賁弥辰沄氏が一旦安冕辰沄氏のもとに入り辰王位を献上された
のが37章の最後の部分であるとすれば、その後賁弥辰沄氏はβ・γの何れかに移り、
本宗家直轄地を含む国を営んだということになるのではないか。
そしてその後安冕辰沄氏は昔のようにαの地で辰王の権利を主張したのではないかと
考える。
その際、賁弥辰沄氏が安冕辰沄氏のもとを去った事情を安冕辰沄氏側が歪曲し、
「賁弥辰沄氏が絶えたので再び安冕辰沄氏の王朝になりました」というような方便的説明を
中国に対して行ったとすれば、『後漢書』の記載も理解できるのである。
以上から、今後検討していくべき内容の見通しをたてるためにも、
契丹古伝37章から魏志の時代の間に起こった王朝的変化をチャート化してみよう。
アメシウ氏の辰王(京:αエリア内p地とする)→ヒミシウ氏(殷系)受け入れ。
ヒミシウ氏に辰王位移転(京:αエリア内q地とする)[契丹古伝37章はここまで]
→その後、本宗家系に絡む何らかの変動(仕切り直し?)
→アメシウ氏がαエリア内{(p)(q)の近辺}で辰王位(非本宗家)を主張、
この時点におけるヒミシウ氏(本家筋)の核心は(p)(q)の近辺に留まってはいなかったと
思われるがその所在や在り方については要検討。
→本宗家系にさらに何らかの変動(態勢立て直し?)
→魏志の時点でαエリアに辰王(非本宗家のアメシウ氏と思われる)が所在。
場所はαエリア内の月氏国。
この時点の本宗家の所在については改めて検討を要する。魏志からは半島内にそのような
存在が存する雰囲気が感じられないからである。
→246年頃、αエリア内の辰王系勢力(非本宗家のアメシウ氏系と思われる)が魏の楽浪郡
と戦う。学者の多数説によれば、辰王勢力は魏に敗れ、辰王の制度が消滅したとされる。
○37章のころの勢力名と魏志の3エリア(α・β・γ)との対応関係
このように、アメシウ氏は(後に中国崇拝傾向が高まり「韓」の字を使い始めた
時代の)馬韓勢力に相当する存在と見るのが妥当であろう。つまり魏志の時代には
アメシウ氏は馬韓の有力者ということになる。そして、αエリアの他、他エリアの
(少なくとも)一部に対しては管轄権を主張できたのだろう。
このようにアメシウ氏が馬韓勢力となったことは、アメの「メ」が「馬」に
対応するということを意味するかもしれない。
では、βエリアの「弁辰」、γエリアの「辰韓」は37章の時代であればなんと
呼ばれたのだろうか。
そもそもβエリアの「弁辰」は、後の「加耶」諸国であり、広義の「任那」と
呼ばれることになるエリアであり、日本と密接したエリアといえる。
(半島の歴史学者も歴史教育も近時否定をしているようだが。)
日本書紀によれば任那は「内官家」と呼ばれ、特別の御料地のような
扱いなのである。αエリアに後に出来た百済、γエリアに後にできた新羅に
対しても日本は管轄権を主張し官家と呼ぶことがあるが、任那の場合事情が異なるようだ。日本書紀によれば
任那からのみつぎものは天皇が直接ご覧になるものであるから云々との
記載がある(大化元(645)年七月十日条)。
以上を考慮すると、「ヒミ辰沄」の音が縮まり簡素化されて、「弁辰」となったと
見ることができそうである。
「弁辰」については、弁は弁帽という一種の帽子から来たものという説も以前出された
ことがあるが、弁帽とは無関係ではないだろうか。
また、契丹古伝をなんとなく検討すると、匈奴のことを契丹古伝
では弁那というから、弁辰とは匈奴系辰沄氏を意味するという主張もありそうである。
しかし、匈奴は古くは葷粥と呼ばれ、多くの言語で冒頭の子音がh音またはk音で
記録されている。契丹古伝の弁は冒頭子音がfまたはb音という極めて珍しい表記であり、
ギリシャから匈奴を呼ぶ時の言い方ぐらいにしか類似例がない。
(言語学の一般論として、k音⇔b音の変換は時にありうるとしても、匈奴の場合はまずなさそうという
意味である。)
契丹古伝において(38章)は弁那(匈奴)において
縉耘伊逗氏
が居た、として、辰沄の字の使用を微妙に回避していることからすると、弁那という
特殊な呼び方をするような目線というのはありそうである。
半島の弁辰はそうではなく、魏志のころまで弁辰○○国という国が多数存在していた。
これが匈奴の自称というのも妙な話ではなかろうか。
よって、弁辰の弁は匈奴を意味しないと考える。なお、弁那をハンナと呼ぶことについてはこちら。
したがって、「ヒミ辰沄」は縮約と転訛により「弁辰」となったと考える。
αβγの中でβだけ弁辰のように「辰」の字を残しているのはそれだけ強く
辰沄氏の威光が輝く地域とされたからと解釈できよう。
こうなると、γエリアの辰韓というのは。37章の頃は何と呼ばれていたのかという
点に興味がもたれる。
そもそも、魏志の頃、βとγは生活習慣等が比較的類似するともいわれつつ、βの
人はやや背が高いなどの差異もあるとされた。
(なお、βエリアとγエリアの境界は時代により変動がありそうであり、また若干エリアが入りくん
でいる可能性があるので留意されたい。)
γエリアには、αエリアの安冕辰沄氏よりはやや勢力が劣り安冕辰沄氏管轄下にはあり
つつも一定の包括力のある権力者がいたという推測を上で既に述べたが、その権力者
も古い辰沄氏ではあろう。そして、おそらくはムス氏の中でもかなり古参の部類で
あり、半島に入った当時はもっと西部にいた可能性もあろう(注・浜名氏のいう
「仮装」韓人のことではない。それはまた別の勢力となる)。
これらを考慮すると、やや大胆な推定ではあるが、37章の初めの方にある
「伝に曰く」の内容の冒頭に登場する、辰沄謨率氏が(γエリアの本来の)辰韓勢力に該当するので
はないだろうか。(上記、「より西部に所在した可能性」については、
当サイト独自の論あり[真番辰国に関係する専門的内容を含む])
このように考えると、37章の5王家を何れも馬韓の月支国の辰王の王朝交代と見る浜名説は
間違いとなろう。
37章で、ヒミ辰沄氏到来前の段階では基本辰国はαエリアのアメ辰沄氏が押さえており、
γ(βエリアを含む)地域では事実上古参の辰沄ムス氏が押さえていたと考える。
このβ・γはやや土地に余裕があったため種々の民の移住もあったと考えられるが、
そんな中でヒミ辰沄氏はβの土地に移り、本宗家直轄地を設定したのではなかろうか。
(直轄地といっても、傘下に小首長国を配置できる形である。)
この過程でおそらく本宗家格のヒミ辰沄氏は一旦αエリアあたりで辰王位の献上を受けているが、
ヒミ氏は辰王につきもののムス氏の呼称を使用しなかった可能性があろう。
つまり、アメシウ氏はムス系なのでいわば「アメシウムス」氏であり、シウムス氏はもともと
シウムス氏であるが、
ヒミシウ氏は「ヒミシウムス」氏とは名乗らず、あくまで「ヒミシウ氏」であったであろう。
とすると、
ヒミシウ氏の当初の天下(本宗家権的支配)において、ムス氏という言い方にはいわば格下
イメージが付着してしまった可能性があるかもしれない。
また、ヒミシウ氏がβの地で本宗家直轄地を設定した際、辰王の称号もなお保持した可能性はあるし、
本宗家を慕って現地のムス氏(一部)が移動・参集した可能性もある。
こういった中、微妙な軋轢が生じることもありえなくはないから、α・γエリアではイメージの低下した
ムス氏という言い方を徐々に回避したことも考えられよう。
この言い換えをチャート化すると、次のようになるかもしれない。
(ここで、東大古族語「珂」≒「神(和語)」≒「加」≒「汗(4章の珂洛が38章では汗落)」
≒「韓(契丹古伝上、東族側用語としては不使用)」≒「夏(21章)」=「繾(21章・4章)」=「国(4章)」のような図式を
前提としている)
アメ |
辰沄 |
牟須 |
国 |
→ |
(ムスを省略して) |
→アメ |
辰沄珂 |
→ |
(辰沄を省略して) |
→ |
アメ珂 |
→ |
馬韓 |
ヒミ |
辰沄 |
|
国 |
→ |
→ |
→ヒミ |
辰沄国 |
→ |
(辰沄は省略せず短縮して) |
→ |
ヒミ辰(国) |
→ |
弁辰 |
|
辰沄 |
牟須 |
国 |
→ |
(ムスを省略して) |
→ |
辰沄珂 |
→ |
(辰沄は省略せず短縮して) |
→ |
→→→ |
→ |
辰韓 |
このような変化の背景としては、中国の影響も絡んでヒミシウ氏の傘下に甘んじることを好まない傾向が残念ながら
出てきたというような事情も想定されよう。ヒミシウ氏の「態勢立て直し」処理に対する感情もあったかもしれない。
○辰王の称号と「頌」と本宗家
さて、今までも引用してきた魏志(三国志魏書巻三十)の東夷伝は、
(馬韓の)月支国の辰王(=本稿のアメ辰沄氏)について触れた箇所の付近で「謎の称号」を載せる。
これは辰王の称号とする説(甲説)とそれ以外のなんらかの権力者の称号であるとする説(乙説)
に分かれ、多数説は乙説だが、契丹古伝研究者は例外なく甲説を採る。というのもその称号が何かに
似ているからである(甲説・乙説といってもその内容や論拠は人によりさまざまであり、甲説の中でも
浜名説と自説とで差異がある。詳細は後日に期したい)。
魏志によれば、その称号は
臣雲遣支報安邪踧支濆臣離児不例 拘邪秦支廉
と記録されている(浜名溯源p.182, 溯源p.671(詳解p.385)参照)。
これは契丹古伝において「丹鶏」が契丹王家にもたらしたとされる「古頌(神頌)」三種
(43・44・45章参照))のうち三つめのもの
「辰沄繾翅報 案斜踧岐賁申釐倪叔斿厲 珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬」
に酷似している。契丹古伝上は古い頌(詩文)として掲載されており称号とはされていないため
その相違が気になるところである。
浜名氏はこの称号について、
もともと神頌であったのだろうとし、支廉のところまでを部分選択し辰王への賞賛に用いたもの
かもしれない旨を述べる(溯源p.672(詳解p.386)2~3行目参照)。
また浜名氏は、魏志に載っているところからすると契丹王朝(遼朝)の41章の奎瓏石の故事(10世紀)より
以前から世に存したものに違いない旨を述べる(同頁3~4行目参照)。
契丹古伝の読者ならおおかた上記浜名氏のような印象を抱くはずだが、学者は魏志の文だけで判断するため
異なる意見となる。
圧倒的多数説はこの称号は当該地域の小首長のうちやや有力なものの肩書(地名+称号。例えて言えばトスカナ大公とか
アンジュー伯とかヘッセン方伯とかリアンクール公みたいなもの)
をリストアップしたもので単一人に帰属するものではないとする。
もしくはせいぜい単一人(辰王とは限らない)に4つぐらいの肩書が付くと捉える。
当サイトとして当然それらの学説は不適切であると判断することになるが、
圧倒的多数説・その他の説についての反論は煩雑なものになるので後日に期したい。
ここで一言念を押しておきたいことは、魏志の時点よりはるか前に本宗家はαより東へ向かっている
とみられるから。魏志の辰王は本宗家ではない。
それゆえ同王は①(ムス氏の)辰王国の王の格式としてその称号を使用した可能性
②本宗家のヒミシウ氏が使っていた称号を継続使用してしまっていた可能性
の両方の可能性が残るという点を指摘しておきたい。
○「イヨトメ」はいつの時点の女性か
契丹古伝37章から魏志の時代の間に起こった王朝的変化は既にチャート化したところで
あるが、再度掲載してみよう。上述の内容に反しない範囲で一部修正してみた。
1)アメシウ氏の辰王が半島の有力者(その京:αエリア内p地とする)であった
2)「中国ではBC202前漢王朝成立、
一方BC194以降?辰沄殷王を攻撃した衛満により衛氏朝鮮成立、辰沄殷王は半島を南下
3)半島のアメシウ氏の辰王はヒミシウ氏(殷系)を受け入れ。ヒミシウ氏に辰王位移転
(京:αエリア内q地とする)。[契丹古伝37章はここまで]
4)その後、本宗家系に絡む何らかの変動「(β・γエリアヘ)」(仕切り直し?)
5)アメシウ氏がαエリア内{(p)(q)の近辺}で辰王位(非本宗家)を保有、
この時点におけるヒミシウ氏(本家筋)の核心は(p)(q)の近辺に留まってはおらず
β・γエリアヘ移っていた思われるがその正確な所在や在り方については要検討。
6)その後本宗家系にさらに何らかの変動(態勢立て直し?)
7)魏志の時点でαエリアに辰王(非本宗家のアメシウ氏と思われる)が所在。
場所はαエリア内の月氏国。
この時点の本宗家の所在については改めて検討を要する。魏志からは半島内にそのような
存在が存する雰囲気が感じられないからである。
8)魏志の記事の一部:246年頃、αエリア内の辰王系勢力(非本宗家のアメシウ氏系と思われる)が
魏の帯方郡(半島内)と戦う。学者の多数説によれば、辰王勢力は魏に敗れ、辰王の制度が消滅
したとされる。
8)の戦いを主導した辰王系勢力は、魏志(宋代の紹熙本)によると「臣幘沾韓」と記されている。
魏志の馬韓諸国リストでは55ヶ国中7番目が臣濆活国、8番目が月支国で、辰王は月支国で
統治するとされている。通説では臣幘沾韓は臣濆活国と同一で細かい誤写が介在したに過ぎない
とする。そして臣幘沾韓の敗北後、馬韓の様相は(アメシウ氏系辰王の態勢を含め)変化したはず
だから、魏志の馬韓諸国リストや政治体制についての一般的記載はその戦より前の状態を
表現したものと解される。それが上記7)ということになる。
以上を踏まえつつ、契丹古伝40章で懐かしまれている逸予臺米が
洲鮮国(βまたはγエリア内。(溯源p.649(詳解p.363)12~13行目も参照))
に所在したのは上の1)~8)のどの時点なのかについて検討したい。
(注・洲鮮国も魏志の国名リストに載る表現である。何となく朝鮮に近い語の印象を受けるが
朝鮮という語にしても現在の朝鮮人とは別概念である(→檀君問題のページ参照)。)
まず、イヨトメは月支国にいたように浜名氏は記すが、40章のイヨトメ回想の地は実際には
移動後の本宗家国の近辺となるはずなのでので4)5)以降でなくてはならない。
また、イヨトメはしばしば魏志倭人伝の卑弥呼女王の後継者である臺与(壹与)と同視される
(浜名説、安部裕治説、岡﨑倫久説、鹿島曻説、他)
が、トヨ女王は日本列島内で生まれ育ったと見るのが自然であるから別人と解すべきである。
もし同一人とすれば
①卑弥呼の邪馬台国はそもそも半島にあって、卑弥呼もイヨも月支国にて統治したが
イヨのとき満洲へ移動した(浜名寛祐説。イヨトメ=イヨの主張につき、
溯源p.214 1行目および溯源p.644(詳解p.358)9~10行目参照。)
②卑弥呼もイヨも北九州にいたが、イヨはそこから半島に渡って満洲へ移動 (安部裕治説)
③卑弥呼もイヨも半島で生まれ日本列島に渡った(岡﨑倫久説参照)
などの構成を採る必要が出てくる。
○「イヨトメ=倭人伝のトヨ(イヨ)女王」説 への反論
まず、①について。
①説は常識的に誤りということで大多数の方が納得されると思うが、
魏から対馬・壱岐を経て北九州へ渡り、その後数ヶ国を経て邪馬台国に至るという魏志の記述、
および倭にはその余の旁国(その他の周囲の国々約20国)があるという魏志の記述を浜名氏は
分断して解釈し、
あ)対馬から伊都国をへて不弥国へ着く(溯源p.236参照)
い)半島の咸鏡道内にあると氏によって解釈される同名異国の不弥国から船で日本海経由で但馬(兵庫県北部)
の投馬国へ至り、陸路邪馬台国に到着(その女王とは神功皇后のこととする)(溯源p.238~p.239)
う)その他の周囲の国々約20国については、馬韓の女王卑弥呼と(神功)皇后とが
(魏志の編者によって混同され)同一とみなされた(p.246の3行目)ための不適切記載で、
それらの21国は「皆韓であって日本ではない」(辰王たる卑弥呼領の一部)とする。
例えば21国のうち郡支国は馬韓の狗素国のことだとする。
浜名氏の説はこのような史観によって成り立っているが、
A)出版当時の日本の国情からすれば、中国に朝貢した卑弥呼政権を朝廷と同一視するのに
嫌悪感もあった
B)その場合本居宣長の卑弥呼政権=熊襲偽僭説をとり邪馬台国九州説を採る手があるが、
浜名はその説をとらず、卑弥呼を半島の「韓」(ただし今の韓国人の国という意味とは異なる)
の王とし、それを「半島の倭」という扱いにした
という事情があったと推測できる。
現在の解釈者で卑弥呼=馬韓の(月支国の)辰王という説を採る人はほとんどいないという点に
留意されたい。以上が浜名説への反論である。
次に②説について。
イヨトメは九州でアメシウ氏系阿毎氏との争いに敗れた(安部裕治『辰国残映』初版p.488参照)とはいえ、
なぜ満洲という遠方にまで落ちのびなければならないのか、理由に十分性が欠けるように思われる。
次に③説について。
興味深い見解ではあるが、イヨトメが何らかの高貴な血統の生き残りであると
するならば卑弥呼が日本列島内で女王として統治している間、イヨが半島に残っていたなどの
処理が両者を同一人とするためには必要となってくる。実際岡﨑氏はそのように処理されている
ようにも見えるのだが、当サイトの見解としては次の点を指摘させて頂きたい。
魏志倭人伝によると、2世紀(解釈によっては3世紀)に倭国大乱が発生し、長年混乱が止まず、
卑弥呼が即位し弟が補佐した。
卑弥呼のとき対立する狗奴国との戦になる。戦のあと男王が立つが混乱がづづき、
卑弥呼の宗女・トヨを女王として争いが止んだ。
この状況で、岡崎氏の主張されるように
卑弥呼が辰国賁彌王朝の出身であるとし*C*D、彼女が半島南部の地から辰国の分国たる邪馬台国へ
逃亡した*Eとすると、卑弥呼以前の倭王(男王)と卑弥呼と次の男王とトヨとの関係
が問題になる。半島の賁彌氏の辰国の分国として列島の邪馬台国が卑弥呼以前から存在した
のであれば、本国たる辰国において皇族数が減少した際、邪馬台国系の王族による補充が
可能であったはずで、卑弥呼が分国・邪馬台国で困難な時を過ごしながらも魏の帯方郡と連絡をとっている
にもかかわらずその間イヨトメ(トヨ)が半島で辰国で索漠とした王朝最後の時を過ごしていると
いうのも妙である。
宗家が壱与による倭(馬韓)の賁彌王統として列島に残ったというストーリーは興味深いが、
上記の点で難がないわけではない。
また、そもそも、岡崎氏は2021年の著書p.210において、37章の解説的な内容を扱う際に、
37章の辰国を「東大神族の宗主国的存在であった辰国」と捉えているので、
あくまで辰国賁彌王朝は「『宗主国的な』辰国の権利」をもともと保有していたアメシウ氏からその権利を禅譲された、という
ことになる。その点自説とは異なる点に注意されたい。
*C 岡﨑倫久『明日を拓く日本古代史』文藝春秋企画出版部 2021 p.217
*D 岡﨑倫久『古代出雲王国の真相』文芸社 2013年 p.138 *E 同書p.139
○自説の一応の提示 ~「イヨトメ」よりしばらく経って後の「臺与」、そして前者以降かつ後者以前の時期に生じた政治の動き
そもそも、浜名氏により倭人伝の卑弥呼が契丹古伝の賁弥氏(溯源p.222の6行目参照)の辰王
であるとされ、倭人伝のトヨが契丹古伝の賁弥氏最後の女王の宗女
(イヨトメ)(溯源p.232の1行目参照)とされて以来、
40章のイヨトメ=倭人伝の壹与と解する説が一般になった。
今、卑弥呼が半島で統治したとする説の採用者は極めて少ないし、その論には疑問が大きい。
にもかかわらずイヨトメ=壹与説は以前根強いようだが、卑弥呼が列島で統治していたのであるから、
壹与を最後の王女とするのは疑問だ。
とすると、契丹古伝40章のイヨトメと、卑弥呼・その宗女イヨとは無関係としてしまう
のも一つの解釈ではある。
ただ、そもそも40章の舞台とされる場所は、α・β・γエリアの区分でいえばγの一国で
はあるが、日本書紀的な把握であれば任那の一国に含まれる微妙な場所である。
βエリア(弁辰)が基本的には(加耶)任那に対応するはずだからである。
おそらく本来βに属したが、イヨトメの後早いうちにγの文化圏内に組み入れられたのではないか
と思える。
そして、日本の朝廷と任那との関係が深いことからすると、イヨトメを日本の王系と無関係とする
ことは本宗家の在り方からして逆に不自然と考える。すると、
X:イヨトメと日本の王系は関係するが、邪馬台国(卑弥呼・臺与)はそれとは別の勢力
でイヨトメと無関係
Y:イヨトメと日本の王系は関係し、邪馬台国(卑弥呼・臺与)もまた日本の王系に属する
のいずれかになるはずである。
ここで、XかYかの選択は悩むところだが、筆者はYを選択する。
つまり、イヨトメと邪馬台国女王は何らかの繋がりはあるということにはなるのである。
そもそも、魏が卑弥呼の倭国に対して相当に厚遇の扱いをする方策を採ったことは歴史上よく知ら
れた事実だ。これは、魏を大国に見せるためとか、呉への牽制のためとか理由づけがなされているが、
それだけが理由であるとは思えない。倭国は半島内の帯方郡との往来も割合と活発であったと
認められるので、中国は卑弥呼政権についてそれなりに大きな権利を保有する存在であると
認識していたのではなかろうか。
とすると、XよりYの見解に傾くことになる。
※西域の大国・クシャーナ朝のヴァースデーヴァ王に親魏大月氏王の金印を贈り、倭の女王卑弥呼に
親魏倭王の金印を贈っている。魏の対外官制の中で国王印は最上位のもので、文献上明白なのはこの2例
だけである。さらに卑弥呼の部下の難升米と都市牛利も銀印を贈られている。
魏の当時の半島の諸君主に対する待遇よりはるかに上である点に留意されたい。
ここで、Yの見解を採ったということは、とりもなおさず、イヨトメの権利継承者(イヨトメ
本人を含む可能性を排除しない)は日本列島に入ったということになる。
また、日本列島に移らざるをえない何らかの事情があったということになる。
Yの見解を採った場合でも、その中でさらに二つの見解がありうる。
Y1:邪馬台国を中心とする倭国連合と大和朝廷とは(遠縁ではあるが)別の存在である
Y2:邪馬台国を中心とする倭国連合と大和朝廷は本来同一の存在である(ただし副都や臨時遷都などは
ありうる)
の二つである。
この2説の内、Y1説は邪馬台国九州説に親縁性があり、Y2邪馬台国近畿説=大和朝廷説と親縁性がある。
ここで、Y1とY2のいずれを選択すべきかは初期大和朝廷の天皇の在位年代論とも絡むため判断が
非常に難しい。非常に悩ましいところだが、種々の考慮の上Y2を選択することにした。
Y2説を採った上で一見不審と思える諸論点については、追って述べていくことにしたい。
※ここまで来ると、日本史ブログ・日本史サイトの側面を呈してくることになる。
当サイトは契丹古伝のサイトに留め、日本史サイトは別途開設する方がわかりやすいかとも
考えたが、①当方のページ執筆時間が極めて限られていること②本来当契丹古伝サイトは
古伝の内容を慎重に解明することにより日本文化・歴史の理解・解明を十全化する
ことを目的としているので、本宗家を頂く日本の歴史を当サイトで扱っても何ら問題はないと
考えられること③佃氏、安部氏、岡崎氏など他研究者も日本史の内容を著書で扱っていること
から、当サイト内で日本史関連事項を扱っても問題ないと判断したところである。
さて、Y説(イヨトメと日本の王系は関係し、邪馬台国(卑弥呼・臺与)もまた日本の王系に属する)
の中のY2説(=邪馬台国を中心とする倭国連合と大和朝廷は本来同一の存在である(ただし副都
や臨時遷都などはありうる))
を採ったわけだが、この場合、契丹古伝40章のイヨトメは上のチャートの1)~8)のうち
どの時代の存在なのだろうか?
チャート上、8)は246年頃で、日本列島で卑弥呼が女王として魏に遣使した239年に近い時期
である。したがって、イヨトメはそれ以前の1)~7)のいずれかの時点におけるの権利保持者
と見るべきだ。そして、イヨトメの時に何らかの権利変動が起きたと思われる(契丹古伝40章)
からすると4)か6)のあたりである。
すると、イヨトメは卑弥呼より「宗女」たる後の女王「臺与」とは別人と考えるべきである。
とすると、卑弥呼=イヨトメならあり得るのだろうか?
卑弥呼には男弟がいて列島内で国政を補佐したことも魏志に明記されている事象である。
イヨトメが最後の王女的な書かれ方をしている契丹古伝40章からすると、
卑弥呼がイヨトメとは考えにくいといえる。
そうだとするとY説中のY2説と適合的な考えかたとしては、卑弥呼や男弟は
イヨトメの問題に一応の解決がつけられたあとの時点における君主の一族として存在していたと
見ることであろう。
つまり、イヨトメは卑弥呼より前の世代と考えるべきである。
このように見てくると、イヨトメはチャートの6)の時点で半島南部に存在していた人物と解する
のが妥当である。この点などを補記して再度チャートを掲載する。
1)アメシウ氏の辰王が半島の有力者(その京:αエリア内p地とする)であった
2)「中国ではBC202前漢王朝成立、
一方BC194以降?辰沄殷王を攻撃した衛満により衛氏朝鮮成立、辰沄殷王は半島を南下」
3)半島のアメシウ氏の辰王はヒミシウ氏(殷系)を受け入れ。ヒミシウ氏に辰王位移転
(京:αエリア内q地とする)。[契丹古伝37章はここまで]
4)その後、本宗家系に絡む何らかの変動「(β・γエリアヘ)」(仕切り直し?)
5)アメシウ氏がαエリア内{(p)(q)の近辺}で辰王位(非本宗家)を保有、
この時点におけるヒミシウ氏(本家筋)の核心は(p)(q)の近辺に留まってはおらず
β・γエリアヘ移っていた思われるがその正確な所在や在り方については要検討。
6)その後本宗家系にさらに何らかの変動[このころ本宗家内(β・γエリアのどこか)でイヨトメが
このころ何らかの存在感を保有](態勢立て直し?)
7)魏志の時点でαエリアに辰王(非本宗家のアメシウ氏と思われる)が所在。
場所はαエリア内の月氏国。
この時点の本宗家の所在については改めて検討を要する。魏志からは半島内にそのような
存在が存する雰囲気が感じられないからである。[この時点で本宗家は日本列島内であろう]
8)魏志の記事の一部:246年頃、αエリア内の辰王系勢力(非本宗家のアメシウ氏系と思われる)が
魏の帯方郡(半島内)と戦う。学者の多数説によれば、辰王勢力は魏に敗れ、辰王の制度が消滅
したとされる。日本列島においては卑弥呼女王が248年ごろ没し、卑弥呼→男王→臺与と継承されて
いくことになる。
○「倭」の国号
上記7)において、この当時本宗家は日本列島内に移動済みと書いたが、
「倭」の国号の点で問題があるとの指摘も考えられるので付言しておきたい。
1~2世紀のころは、そもそも「倭」はムス氏系を中心に展開したと自説では
考えており、57年の倭奴国の後漢への遣使も彼らによってなされたものであろう。
このような中「倭」は本来もう少し多義的だった可能性もあるが日本列島内の国を指す
いい方として固定化していった。
そのような中、本宗家が移転してきた場合、対外的に倭の呼称を継続することは
ありうる。なぜなら、①本宗家はもともと半島においてもムス系との交渉があった
②倭は「倭、倭人の意味(付・倭と委の話)」で検討したことからすれば、本来東大古族語の雅称の
一つであり、より広義の用法もありえたと考えられることから使用に抵抗感はないと思われる
からである。
イベリア半島のイスラム王朝として世界史上著名な「後ウマイヤ朝」
は、本来バクダッドの正統なカリフ家であったウマイヤ朝の後継を自称した王朝である。
いわば本宗家格を(アッバース家に対抗して)主張した王朝であるが、
コルドバ首長国とかコルドバ・カリフ国のように、地名のコルドバで呼ばれることも
ある(この呼び方が世界ではむしろ主流化しつつあるともいう)。
それ以前のコルドバの領有者(一応イスラム系)とは別存在であっても、コルドバと呼ばれている
ことに注意されたい。
古代において半島と日本列島との権利関係は想像以上に複雑であった可能性があり、
中国の史書も曖昧なことについては記録できなかった可能性が高い。
それゆえ中国の史書上は後漢の光武帝に遣使したころの倭奴国も、魏に使いした卑弥呼の倭国も
一見同じ倭人の遣使のように記録されているが、後者は前者と少しく政治体制が変化していても
おかしくないのである。
(そもそも中国の歴史記録においては、一つの表現で毛色の異なる複数の勢力を混在して
してしまうことは珍しくないと考えられる。)
※倭と書いて「やまと」と読む習慣が古代のある時期に生じたはずであるが、上のような事情と
関係している可能性もあろう。というのも、「やまと」も神聖語の一種であろうと思われるから
である。
○倭の大乱
そもそも、卑弥呼の時代より前に、日本列島においてはいわゆる倭国大乱が発生し、
戦乱が続いた後に、卑弥呼が即位した
と魏志に記されている。
浜名氏により倭人伝の卑弥呼が契丹古伝の賁弥氏(溯源p.222の6行目参照)の(半島の)辰王
にあたると解釈されてからもう百年近くが経過しているが、自説の場合卑弥呼女王は日本列島内で
育ち即位しているものと考える。
卑弥呼の意味については、「日の巫女」と解する有力説などがあるが、自説としては
東大古族語の雅称の一種ではないかと考えている。そのことから、賁弥氏の賁弥と全く無関係で
あると決めつけることはできないと考える。
いずれにしても、卑弥呼以前に続いたの倭国大乱について、
史書はその詳細を記していない。
しかし、当時の状況から推察すると、そもそも上記チャートの
6)本宗家系にさらに何らかの変動[本宗家内(β・γエリアのどこか)にイヨトメ
が存在](態勢立て直し?)
にあたる事象の結果、7)8)へと事態が展開していったわけである。
とすると、その事象は本宗家の移転を伴う重大なものであるから、その事象の前後に
さまざまな出来事が半島と日本列島の双方でおきたはずである。それらの「出来事」
は列島内のものの方が時期的には後にずれる感じとなろう。
そして、その列島内の「出来事」こそ倭国大乱なのではないか。そのように考えるのが
最も自然と思えるのである。
だがそうだとすると、当サイトの日本本宗家論で述べたことと矛盾しないのかという難点が一見あるようにも
思える。というのも、そこでは
常識的には武力の使用を予想するかもしれないが、その解釈は今一つ単調で不十分である。
つまり、このときの状況というのは、もともと日本列島にはなかった本宗家が何らかの理由で
日本列島に存在するようになったという特殊な状態であり、本宗家の直轄支配地域・準直轄支配
地域についての 設定の変更が生じている場面である。
この際に働く意識というのは、帝が本宗家の権利を保持する以上、支配権はどうぞ本宗家の方が
行使なさってくださいという一種の礼譲のようなものだろう。
そして色々な小国も統合され、消滅していったこともあっただろう。
と記しているので、それなら倭国「大乱」とはならなかったはずではないかという疑問をお持ち
の方が出ることが予想されるのである。
これについては、①武力の使用がなかったとまでは当該ページで述べていないことに注意されたい。
一定の争いは止むを得なかったといえる。
②本宗家の移転問題といっても、単純な移転問題ではなく、契丹古伝40章のイヨトメという
姫君にもかかわる、いわば複雑な課題を孕んだ事案である点に注意されたい。
つまり、継承候補者が複数生じやすいような事態にあたっては、その側面にからむ争いというのは
別途生じうるわけで、この争いが場合によって大ごとになることは後の時代の南北朝の動乱から
見てもあきらかであろう。
以上の①②を考えれば、そのような疑問は解消されるのではないかと考えている。
日本列島にもムス氏を中心として弥生人が当時展開していたはずで、海洋民族の色合いも強く、
船による交易の中で種々の利害関係が半島と生じていたと思われる。
そのような中で、「礼譲」が働くにしても「誰に対して」働くかという問題で意見が分かれる
こともありうるわけで、それこそ列島を二分する争いになることもありえよう。
○倭の大乱の始期と終期(朝廷の移動時期と関係)
倭国大乱が、本宗家移転にまつわるものだとした場合、その時期が問題になる。
一般には「桓霊の間」に倭国が乱れたという史書の記述が重視される。
この部分は魏志倭人伝の原文においては
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王
となっている。
その現代語訳は、例えば次のような訳が標準的である。
その国では、もともと男子が王位についていたが、そうした状態が七、八十年も続いた
あと、倭の国々に戦乱がおこって、多年にわたり互いの戦闘が続いた。
そこで国々は共同して一人の女子を王にたてた。
(陳寿 裴松之注 今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志4』筑摩書房 1993
p.474[小南一郎氏訳出部分]参照。)
ところが、次のような訳も存在している。
国は、もと男子が王であった。ところが七、八十年前に 倭は乱れ、国々は長年の間
互いに攻撃し合っていた。そこで[国々は]相談の結果、一人の女子を立てて王とした。
(井上秀雄 他 訳注『東アジア民族史1─正史東夷伝』平凡社 1975
p.298-p.299[江畑武氏・井上秀雄氏訳出部分]参照)※「七、八十年間倭国乱れ」とする訳について
標準的な訳では、男王制が70~80年続いたあと、倭国大乱が多年(原文「歴年」)
続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。
後のほうの訳では、男王の時代(年数不明)のあと、倭国大乱が70~80年続いて、そのあと
卑弥呼女王の即位となる。
どちらが正しいか問題となるが、実は他の中国史書との関係で論点は複雑怪奇化している。
まず、後漢書東夷伝倭人条においては
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子(中略)於是共立為王
[後漢末の]桓帝・霊帝の治世(一四七 - 一八九)に、倭国はたいへん混乱し、
たがいに戦い、何年もの間[倭国の]主なき有様であった。[時に]一人の女子がいた。
(中略)そこで[攻伐していた人々は]共に立てて王としたのである。
(井上秀雄 他 訳注『東アジア民族史1─正史東夷伝』平凡社 1975
p.288[山尾幸久氏訳出部分]参照)
と記されている。
この後漢書は、魏志が扱う時代より前の時代を扱うが、書物が完成したのがはるかに遅い時代であることは
前にものべた。しかし、とりあえず後漢書に従うとすれば
後漢の桓帝(在位147-168)・霊帝(在位168-189)の治世に、日本列島では倭国大乱(期間:何年もの間(原文「歴年」)
→その後卑弥呼女王が即位
となる。魏志倭人伝の最初の訳をA、後の方をBとすれば、
通説はAと後漢書とを併せて、次のように解釈している。 (注・後漢王朝はAD220まで継続)
男王制が70~80年続いたあと、
桓帝(在位147-168)・霊帝(在位168-189)の治世に、倭国大乱が
多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。魏志A+後
仮にBと後漢書を組み合わせるとつぎのようになるだろう。
男王の時代(年数不明)のあと、桓帝(在位147-168)・霊帝(在位168-189)の治世から、
倭国大乱が70~80年続いて、そのあと卑弥呼女王の即位となる。 魏志B+後
通説的には、倭国大乱が70~80年続くというイメージではなく、
せいぜい10年程度で、例えば190年ごろには卑弥呼は(若くして)即位しており、
魏志倭人伝に記録された活躍の時点(239~248年ごろ)では相当に高齢であったということになる。
ところが、後漢書の「桓帝霊帝の治世」のくだり自体が魏志倭人伝からの
計算であるとする説がある。※(『東アジア民族史1─正史東夷伝』p.299の注11参照)
(以下「計算説」と略す。)
それは後漢書の著者が魏志倭人伝自体をBのように解釈し、卑弥呼の前に倭国大乱が70~80年続いた
としたというのだから、卑弥呼の即位を仮に230年とすれば
倭国大乱の開始は150~160年となり、後漢の桓帝の在位中となるという計算である。
この計算説をもしとった場合、その評価は2通りに分かれる。
P.まず、魏志倭人伝自体でB説を採るならば、後漢書の著者の処理も特に問題ないとなり
上記の「解釈B+後」の処理になる。
Q.しかし、魏志倭人伝で解釈Aを採るならば、後漢書の著者は間違った解釈Bに基づき
間違った計算をし不適切記載をしたことになる。
したがって、上記の「解釈A+後」を採ることはできず、次のように修正されることになる:
男王制が70~80年続いたあと、[桓帝・霊帝の治世かどうかとは関係なく]倭国大乱が
多年(原文「歴年」)続き、そのあと卑弥呼女王の即位となる。
以上の二通りであるが、後の方すなわち「計算説かつQ説」を解釈A+否後 とも略記する
ことにする。
当サイトでは、この「計算説かつQ説」(解釈A+否後)を採用している。
この場合、卑弥呼女王は魏志の時点でまだ在位期間がそれほど長期化していなくてもよいし、
超高齢化していなくてもよいことになる。また、それ卑弥呼の前の戦乱も10年ぐらいで
構わないことになるのである。
もっとも、この説は未だ少数説であるのでさらに追加説明の必要があるが
くわしくは→こちらに記した(一応分かりやすく記したつもりではある)。
○「倭の大乱」と第10代崇神天皇、そして乱の終結
繰り返しになるが、当サイトでは、前期のY説(イヨトメと日本の王系は関係し、邪馬台国
(卑弥呼・臺与)もまた日本の王系に属する)
の中のY2説(=邪馬台国を中心とする倭国連合と大和朝廷は本来同一の存在である(ただし副都
や臨時遷都などはありうる))
を採用している。
Y1説をも充分考慮した上で下した判断ではあるが、疑問を持たれる方も多いかもしれない。
今後の説明で少しでも疑問が解消されれば幸いである。
さて、Y2説からすると、大和朝廷の歴史、つまり古事記・日本書紀にのる大和朝廷の話と
卑弥呼女王のストーリーは同一線上に展開されるはずである。
また、既述のように、卑弥呼以前にイヨトメの話が位置づけられるはずである。
さらに、イヨトメの問題に伴い、列島内で倭国大乱が起きたことに自説からはなるはずである。
このことに関して想起されるのは、第10代とされる崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト
(御肇国天皇)」
と呼ばれ特別扱いされていることである(通常、初めて国を治めた天皇の意味とされる。)
しかし、崇神天皇の御代は様々な困難を伴ったようで、
「百姓が流亡し、あるいは背く者も出て、その勢いは、徳を以って治めることを困難にした」
と日本書紀にはある。(祭祀の強化で対応されたという。)
また、四道将軍を各地に派遣して平定を図られたがこのときにも武埴安彦の叛乱が起きている。
その後天下は平安になったとはされるが、出雲に関しても事件が起きるなどして非常に困難を
伴う治世との印象を受ける御代である。
次の11代垂仁天皇の御代は、叛乱も絶無ではないものの前代よりははるかに穏やかな様相を見せて
いる。
このことからすると、魏の目線でみた場合、崇神天皇の御代は「倭国大乱」の最後の方の
一時期に包含される扱いとなるのではなかろうか。
そして、大乱が一応終結して「卑弥呼女王+男弟」が統治する体制になるはずだが、
その男弟にあたるのが「11代垂仁天皇」であり、その姉にあたる人物の祭祀王的行動については
古事記や日本書紀において不記載とされたものと考えることができる。
魏志倭人伝では、のちに臺与が即位する前にも一旦男王が即位しており、臺与の即位によって
混乱が収束している。
類似の事態が卑弥呼の即位前にも生じることは充分考えられる。
ここで、11代垂仁天皇は、記紀上第10代崇神天皇の皇子とされているのではあるが、
その場合垂仁天皇の姉も崇神天皇の皇女となる。その皇女が父の代の混乱を収束させるという
ことはありうるだろうか?
もちろんありえなくはないだろうが、古代には兄弟姉妹間の王位継承も普通であったと
解されるので、崇神天皇・卑弥呼女王・男弟は兄弟姉妹の関係にあったのではなかろうか。
その長幼関係を知ることは当然無理筋の話ではあるが、一応
卑弥呼が姉で、その弟に崇神天皇と男弟たる垂仁天皇がいらしたと捉えておきたい。
○倭国連合・邪馬台国の官制から推測する当時の状況
魏志によれば邪馬台国を中心として対馬国・一大国(壱岐)・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
などの国々が存在したとされているが、それぞれの国には大官(長官)や次官が
いることになっている。
ところが、例外はあるが、多くの国でその大官の名や次官の名が
共通なのである。
対馬国の場合、大官が「卑狗」、次官が「卑奴母離」
一大国の場合、大官が「卑狗」、次官が「卑奴母離」
不弥国の場合、大官が「多模」、次官が「卑奴母離」
投馬国の場合、大官が「弥弥」、次官が「弥弥那利」
といった風である。この大官の名や次官の名は、一応役職名と捉えることで説明づけることは
できる。ただ、伊都国などのように別途「王」が居るという国はあくまでも
例外的であるため、各国のトップはどのような職名ないし地位名をもっていたのかという問題
が生じる。これは、魏の目線で、それぞれの小国の首長を大官の役職に任命し、ナンバー2を
次官の役職に命じたということではないかと考えられる。
「卑狗」は通説では「ヒコ」と読まれ、「日子」と解される。そうだとすれば首長にふさわしい
呼び名と言えるかもしれない。
ところが次官については「卑奴母離」が通説では「ヒナモリ」と読まれ、「夷守」つまり
辺境の警備者と解されている。当時は血族社会であろうから、ナンバー2もナンバー1に準じた
雅称を持つはずである。とすれば「夷守」という通説的解釈はどうもおかしい。
何かヒントになるような手がかりはないだろうか。
7世紀の書物である隋書には、7世紀の倭国の姿が描かれている。
そこには、王の妻は鶏弥といい、・・・太子を利歌弥多弗利という、との記載がある。
太子の呼び名については、現在使用されない言い方だけに興味がもたれる。
最初の利を和の誤字とし、ワカミタフリと読む説があり、源氏物語に出てくる「わかんどほり」
(=皇族、貴公子などと解釈されている)と関連づける説がある。この見解は考慮に値する。
誤字の処理はともかく、当サイトとしては、利歌弥多弗利とは契丹古伝でいう一種の神子号的な
ものではないかと考える。それゆえ、利歌弥多弗利は皇子を表す雅称の一つではないだろうかと
推測する。そして、言語学上のタナラ音転を考慮すると、卑奴母離≒弥多弗利といえる
のではないか(子音のfもmと交替し易い音なのでほぼ母≒弗の関係は成り立つ)。
要するに次官はその国の太子がなっていたと考えれば、夷守と捉えるよりも自然であると考える。
投馬国の「弥弥那利」も、「弥弥(卑)那(母)利」の縮約形と考えることができると思う。
私は、このような名称も東大古族語の一種と推定しているので丁重に扱いたいと思っている。
ちなみに九州王朝説で有名な故・古田武彦教授は、隋書の描く7世紀の倭国も
九州王朝の描写だとした。そして5世紀の倭の五王も九州王朝の王とした上で、
倭の五王が中国から「讃」「珍」などの一字名で呼ばれていることから、
それらを倭の王の実名と捉え、九州王朝の王は一文字の名を持つとした。
それゆえ利歌弥多弗利という名称はおかしいことになるらしく、教授は
この部分を「(太子の名は)利。歌弥多弗の利である。」と「解読」した。
利という御方にはカミタフの利という別名があるということらしい。
このような解釈は九州王朝説では鉄板に近いようであるが、当サイトでは決して採用できる
ものではない。
(そもそも当サイトでは古田説を採用していないことに留意されたい。)
ヴァースデーヴァ王も「波調」と略されるぐらい、中国は簡潔な名称を好む。それゆえ、
「讃」「珍」などは対中国用の簡潔な名称に過ぎないと考えるのが自然ではないのだろうか。
さて、邪馬台国の官制としては、やや複雑な呼称が魏志に記載されている。
長官には伊支馬 次官を弥馬升 つぎを弥馬獲支 つぎを奴佳鞮
今となってはこれが人名なのか役職名なのか、全く分からないのではあるが、
ある意味役職名・地位名でもあるがそのまま当該地位にある人を呼びうる名称でもあると
考える。これは後の時代に「薩摩守」の役職にある人を「薩摩殿」と呼び得るのと同じである。
そして、邪馬台国には女王卑弥呼がいるが、卑弥呼は親魏倭王の金印を受ける立場であるから
邪馬台国の長官の役職は有しないと考える。
とすると、長官にふさわしいのは男弟である垂仁天皇ではないだろうか。
ここで伊支馬は「イキマ」「イキメ」などと読むことができるので、
垂仁天皇の諱(和風謚号)「イクメイリヒコイサチ」と関係する可能性があると考える。
(長官云々というのは魏から見た場合のいい方であるので深く気にする必要はないと考える。)
残りの方々については様々な可能性があるが、
「伊支馬」の次の次の方である弥馬獲支は「ミマワキ」と読めるので
あるいは帝の地位を退いた崇神天皇(諱:ミマキイリヒコイニエ)が該当されるのかもしれない。
このような説はかなり昔の邪馬台国関連で出ていた説※ではあると思う。
「弥馬升」についても名誉的な地位であろうから、あるいは上皇としての開化天皇なども
想定されうるが、根拠がだんだん薄弱になるためこれ以上は自粛したいと考える。
※さらにさかのぼると、内藤湖南氏の説(伊支馬という役人は垂仁天皇の「領民」で
弥馬獲支という役人は崇神天皇の領民とした説)もかつて存在した。
○邪馬台国に付随する問題1 卑弥呼体制時の邪馬台国の位置
そもそも邪馬台国の位置として、九州説、畿内説など昔から論議の対象になっている。
そして、弥生開始時期などの年代を遡らせる見解の有力化ともあいまって、
奈良県の纏向遺跡が卑弥呼の都とする説も有力化している。
これに反対する九州説側は、年代溯上論の否定などで対処しており、やや劣勢ではあるものの
依然強固な主張として厳然と存在しつづけてはいる状況である。
さらに、初期大和朝廷の位置論というのも別途存在しうるかもしれないため、議論は複雑である。
当サイトでは、Y2説を採る関係で、崇神天皇の都は奈良県に所在するという見解を採用して
おきたい。(初期の京は別かもしれないが。)
ただし、魏志の上記考察でも述べたように、当時はまだ争いがありある意味「大乱」が継続して
いた。それゆえ、その収拾策として卑弥呼女王が登場したのであれば、臨時に「動座」する
ことは考え得る。その意味で、動座先としては九州も排除されないとは考えている。
なお、倭国の都の問題については文物導入における近畿・九州の差を指摘して自説に反対するという
意見がありそうだが、この問題については後ほど記載する方針で臨むこととする。
○邪馬台国に付随する問題2 伊都国の性格について
魏志によると、邪馬台国連合において「伊都国」は王も存在するなど、独自の力を発揮する存在と
して描かれている。「伊都」は通説的には糸島半島の「いと」とされ、福岡県に所在したとされる。
倭国連合としての統一性を保つのに力を発揮した伊都国であるが、これを怡土県主の一族の国と
捉えた上で、風土記の記載を利用して新羅系と捉える向きがある。これについては当サイトの
立場からは反対となるが、その詳細については稿を改めて論じることと致したい。
○邪馬台国に付随する問題3 卑弥呼=公孫氏説について
中国の史書の一部に、卑弥呼が公孫氏(遼東の豪族、帯方郡を設置)であると明記してあると
主張する向きがある。これは、卑弥呼が初めて魏に使いを送る旨の記載の直前文言が
『晋書』(644年成立) においては 「宣帝之平公孫氏也」
となっており、これが「(卑弥呼は)宣帝が平らげたところの公孫氏(出自)である」
と「かろうじて読めなくもない」ところから来ている。
しかし、同じ「直前文言」は
『梁書』(629年編纂着手)においては 「至魏景初三年公孫淵誅後」つまり
「魏の景初三年に(晋の宣帝が)公孫淵を誅した後に」となっており、実は晋書の方もほとんど似た
ような意味なのである。しかも、漢文の古い文法の言い回しのため、現代中国人がえてして誤読
しがちというオチがついている(文法の解説は省略)。
(※宣帝とは、晋から帝号を追号された司馬懿仲達のことで、卑弥呼の当時は魏の臣下。)
よって、卑弥呼=公孫氏は全くのデマである。
○邪馬台国に付随する問題4 卑弥呼の治世がなぜ明記されないのか
日本書紀・古事記には垂仁天皇が直接統治したように解され、卑弥呼の存在は明記されていない。
これは記紀編者のスタンスとして、中国との緊密な使者のやりとりの実態をあいまいにしたいなど
の政策的ニーズがあったからと思われる。付き合い上朝貢の形式を採っても、昔のことで形式的な
ことに過ぎず、気にする必要がないとも思われるのである(参考:委奴国の朝貢についての浜名氏の考え)が、魏の授与した親魏倭王の肩書が
逆にあまりに人々の記憶に残り過ぎたためにこのようになったものと推察される。
○ 卑弥呼女王の次の男王体制について
魏志によると、邪馬台国の倭女王卑弥呼は、狗奴国王の卑弥弓呼と対立しており、実際
戦端が開かれたとされ、これに関して魏からも何らかのメッセージの伝達があったように
記されている。
そしてその後、卑弥呼は亡くなったとされるが、戦乱の関係でそうなったのかは解釈が分かれる
ところである。
また、その後男王が即位したが、再び大きな争いとなり、臺与が女王として即位してようやく
争いがおさまったといういきさつについても詳細は不明である。
中国文献の解釈の基本ルールからすれば、卑弥呼の次の男王も臺与も卑弥呼の同族ということに
当然なるはずではある。
ただし、この戦は倭王の地位の争いであるから、倭王の地位の主張者はもともと何らかの
縁戚関係や正統性などを有していた状況も充分ありうる。
魏志には、敵の狗奴国が滅ぼされたという記載はないことからすると、卑弥呼の次の男王とは
狗奴国側の人物であり、それゆえに再び激しい戦となったのではないかと思われる。
ただ、その人物は倭王(卑弥呼女王)の権利を継承するという立場を採った可能性がある。
そこで想起されるのは、古代史学説上、第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇は「イリ」系
とされ、15代応神天皇は「ワケ」系とされる点である。この点第12代景行天皇はその諱から
非「イリ」系のように思えるのである。
すなわち、第10代崇神天皇の諱は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)」で、第11代
垂仁天皇は「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ)」である。また垂仁の皇子にも
「五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)」など「イリ」の語がしばしば使用される。
このことからかつて水野祐氏は「イリ」王朝(崇神系)とか「ワケ」王朝(応神系)の概念を提唱した。
この点第12代景行天皇の諱は「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」であり、
「イリ」の語が登場しない。※
※井上光貞氏も「オシロワケが応神のホムダワケとともにワケを共有する点が注意せられる。」
としている(井上光貞『日本国家の起源』岩波書店 1960年 p.175)。
水野祐氏の学説は、王朝交代論と捉えられ、左翼的思想の産物として嫌われることもあるが、
当サイトで申しあげたいことはそのような趣旨ではなく、イリ系もワケ系も上位の神子神孫系で
あって、貴い地位に就く正統性を共に有しているということであり、そのような家が複数
有ればやむを得ず争いになる場合もあるだろうということである(いわゆる南北朝の動乱参照)。
その意味で、記紀の建前上の系図を見直す指摘が今後も当サイトでなされるとは思うが、ある
意味素直な修正であり、系図を切り刻むものではないと考えており、王朝の尊厳性を侵す趣旨ではないことに留意されたい。
このように、第12代景行天皇は「ワケ」系で非「イリ」系であるため、邪馬台国と対立していた
狗奴国側の人物(おそらく狗奴国王卑弥弓呼と同一人)であると考えられる。
※ちなみに「イリ」は入り婿の意味であるとか。よその土地から入ってきた意味であるなどの
学説があるが、当サイトの意見は異なる。
そもそも「ワケ」は契丹古伝にも頻出する東大古族系の尊称である。
「イリ」については、契丹古伝に「イリ」という形そのものはないが、タナラ音転を考慮すると、
契丹古伝20章に記される神聖語「伊尼」と同じで、尊厳な威光(をもつ統治者ないし治所)の
ようなニュアンスで使われている神聖語であろうと推察される。(また、「伊尼」≒「宮」≒「京」。)
(この点につき、「契丹古伝第20章の祭祀関連名詞『汶率』」のページ参照。)
魏志において、卑弥呼の次の男王の即位ですぐ争いがあるということは、卑弥呼の家と男王の家と
では即位の妥当性についての間で人々の意見が割れやすいということを意味し、
魏志は「倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼はもとより不和であった」と記している。
このことからすると、卑弥呼以前の倭国大乱も両家の意見の
不一致から生じた可能性が高いだろう。
とすれば、次のような推察が可能である。
契丹古伝40章のイヨトメという姫君が本宗家の権利を所持していたと考えた時に、
その権利をそこで途絶えさせないためには、神子神孫の有力家系(広い意味で傍系)と婚姻することで
イヨトメの子に権利を継承させるという発想は当然生じうる。
この時、婚姻の希望者というのは当然複数生じるはずだから、希望者間で争いになることは
ありうるわけである。しかも、支持者の意見も割れる可能性が高い。
このような支持者間の争いが、倭国大乱に繋がったと捉えたい。
○倭国連合と狗奴国
今まで述べたところを含めて図解すると
40章イヨトメ問題(配偶者問題、後継者問題、本宗家の日本列島への移転の必要性の問題)
→ (移転の必要性の原因問題とは別に)実際の移転作業に伴う日本列島内での混乱
=配偶者・後継者問題の残存、支持勢力の分裂⇒倭国大乱(2世紀末または3世紀初頭)
⇒崇神天皇即位⇒混乱(大乱の継続)→卑弥呼と男弟(垂仁天皇)の治世
⇒狗奴国との争い⇒狗奴国側の景行天皇が即位⇒戦乱⇒臺与女王で戦乱収まる
となる。
自説では、崇神天皇のころは、一応狗奴国側も倭国連合に入るという扱いを倭国側ではとった
ものと考える。したがって、上記「大乱の継続」は崇神天皇側から見れば「国政妨害や叛乱の発生」
となろう。
そして、卑弥呼と男弟(垂仁天皇)の治世においては、狗奴国が倭国連合から完全離脱した形で
戦乱は一旦やんでいたものと考えられる。これを魏志倭人伝は「女王に属せず」と表現している。
○景行天皇以降の歴史を視野におきつつ、少し離れたところからの概観の試み
上記のように、第12代景行天皇を狗奴国王卑弥弓呼とした場合、第13代成務天皇(景行天皇
の皇子 稚足彦)は狗奴国の「官」である「狗古智卑狗」という名の人物(あるはその名の役職に
あった人物)に相当しそうである。
ただし日本書紀上は景行天皇は遠征などの立派な業績を残された方として記録されており、
その後の皇位継承上の問題はないこととされている。
とはいっても、第13代成務天皇は業績がほとんど記されていない謎の天皇であり、架空の天皇とまで
されがちなことは気になる点である。
そもそも、天皇御歴代の中で日本書紀上第10代崇神天皇以降は記述が手厚くなり、
崇神天皇が「ハツクニシラス スメラミコト」とも呼ばれることとあいまって、実在した天皇の
可能性が高いとかつての通説ではいわれていたが、成務天皇の項目の記述の薄さなどから、
15代応神天皇以降が実在であるとか、16代以降が実在であるというように近時の学説は
推移しつつある。
しかし、過去の歴史の経緯には複雑な事情もあり、それらの経緯への配慮から記述の薄くなって
いる天皇もあると考えれば、決してそれらは架空の人物であると決めつけることはできないと
考える。
日本書紀を熟読すれば気付くことだが、各天皇の巻の最初で父母の系譜が紹介される際に
当該天皇のお人柄的な内容についてのコメントがある場合とない場合とがある。
もちろん、どの帝も帝ではあるが、日本古代史全体を概観した場合の、日本書紀編者の
歴史観が微かに反映されている可能性はあろう。
(とはいっても、天武天皇のころから開始された歴史編纂事業の成果である以上、天武天皇
の業績を際立たせるなどの制約は帯びている。しかし全体として、新羅の任那奪取を非難する
などの姿勢は一環している。)
この「編者の歴史観の微かな反映」という観点で、「各巻冒頭のコメント比較」を
試みる(恐れ多いことではあるが)。
第10代崇神天皇──是非善悪を判断する判断をお持ちになり、聡敏で、幼少から大きなはかりごとを
好まれた。壮年になられてからは、ひろやかな心をもたれ~(以下略)
第11代垂仁天皇──お生まれつきしっかりして御立派なお姿であらせられた。壮年になってから
人とはかけはなれて優れた大きな度量をお持ちになり~(以下略)
第12代景行天皇──(なし)
※景行天皇の多数の皇子のうち「日本武尊」については「幼年の時から雄々しい性格で、壮年に
至って容貌はすぐれてご立派になられ~」とある。
第13代成務天皇──(なし)
第14代仲哀天皇──天皇は、容姿が端正で、身長が十尺あった。
神功皇后(仲哀天皇の皇后、仲哀天皇崩御後政務を執る)──幼少より聡明で叡智であらせられ、
容貌は美しかった。
第15代応神天皇──幼少より聡明であらせられ、ものごとを深く遠くまで見とおされ、御動作御進退
には、恐れ多くも聖帝のきざしがあった。
第16代仁徳天皇──幼少より聡明叡智であらせられた。容姿も美麗で、成人されてから、仁慈の
お心が深かった。
(井上光貞監訳・川副武胤・佐伯有清 訳『日本書紀(上)』中央公論新社 2020年
p.263,p.285,p.313,p.314,p.349,p.353,p.367,p.399,p419.佐伯有清氏訳出部分)
※成務天皇紀の途中には、成務天皇ご自身が父・景行天皇を讃える言葉が記載されてはいる
(同書p.350)。ただし編者自身の言葉でない点は気になる点である。
景行天皇・成務天皇紀についての編者の書きぶりからすると、日本書紀の編者は、邪馬台国側に
やや心情を傾けるというスタンスなのではなかろうか。
「~ワケ・~タラシヒコ系」という括りで捉えたとき、該当するのは
第12代景行天皇、第13代成務天皇、神功皇后、第15代応神天皇(その後も該当者あり)
であるが、後二者については血統的には関連性がありつつも日本の歴史上格別に際立つ時代に
関わられたという意味に解される。
これは女王「臺与」の問題にも影響しうる点かもしれない。
○「卑弥呼は誰に該当するのか」の問題について
上でみたように、イヨトメ・卑弥呼・トヨはそれぞれ別人と解される。
そして、卑弥呼が日本書紀上のどなたにあたられるかという点について簡単にふれておきたい。
今まで、第12代垂仁天皇の皇女・倭姫とする説や、第10代崇神天皇の大叔母・倭迹迹日百襲姫とする
説が著名であるが、どちらと解しても上記自説とは不適合である。
むしろ、垂仁天皇の姉妹のどなたか(*崇神天皇紀参照)、もしくは、垂仁天皇の妃のどなたか等、
(垂仁天皇紀参照)の中に、卑弥呼にあたる女性は(こっそり)記されていると思われるのであるが、
ここではそれ以上の検討は控えたい。(異論はあろうが、皇族の場合兄妹婚ということも形式上に
せよ当時はむしろ行われた可能性があるから、垂仁妃、崇神妃は候補に含まれうる)
○「40章の姫君は誰に該当するのか」(1)
この問題は、契丹古伝的な問題であるから、日本古代史上の論点としてはほとんど未知の領域
であるが、実は極めて重要な論点であろう。
かつて佐治芳彦氏は
「ミマナから日本に入ったと{一部の学説で}されるミマキイリヒコ(崇神天皇)
は、そのイヨ{40章のイヨトメ}の子か、孫ということになるかもしれない。
(佐治芳彦『謎の契丹古伝』徳間書店 1990年 p.162)
と述べられたことがあるが、佐治氏は40章のイヨトメ=魏志倭人伝の臺与説に立っているので、
前提のスタンスが当サイトの説と異なる点には注意が必要である。
ただし「イヨトメが崇神天皇以前の皇族(含む姻族)である可能性が高い」点には留意すべきだろう。
また、佐治氏はイヨトメが記紀上のどの人物にあたるかを明示しているわけではない点にも
注意しなければならない。
実際、卑弥呼女王についても記紀上さりげなく載せられているはずだから、イヨトメについても
一見それとわからないように記されてはいるものと思われる。
ただしイヨトメはある意味卑弥呼以上の重要人物であるから、さまざまな佳称で呼ばれていた
可能性が高く、複数の名で別人であるかのように採録されている可能性も排除できない。
イヨトメがどなたにあたるかは、ある意味繊細な問題であるが、話を先に進めるため、
非常に恐縮の極みではあるがその検討をさせて頂きたいと思う。
「40章の姫君は誰に該当するのか」(2)倭国大乱における勢力間の関係
そもそも、倭国大乱が、イヨトメの権利をめぐる「イリ系」の王族と「狗奴国」系王族との
争いに端を発しているものと思われる(渡海原因自体は別にまた存在しうる)。
両勢力の実態が把握し難いという悩みがあるが、それぞれの勢力が、どのような勢力と親密感を
有するかという点は、崇神・垂仁・景行天皇の治世についての史書の記載を見ればある程度知ること
ができるはずで、これが手がかりとなるはずである。
第10代崇神天皇の治世において、日本大国魂神を皇女に祀らせようとしたがうまくいかなかった、
であるとか、
大物主神を祀って国を平穏にしようとしたが効き目がなかったなどのトラブルが発生している。
大物主神は俗に出雲系といわれる神様で、出雲系の神様を祀るのに苦労されている雰囲気が
濃い時代である。
実際、大物主神の子(子孫)とされる大田田根子を大物主神を祀る祭主としてようやく疫病が
消滅したとされる。またこの時、神班物人カミモノアカツヒト=神に捧げるものを割り当てる人に
物部氏の伊香色雄が任命されている。
このように一般的には出雲絡みとされる勢力に対する配慮の雰囲気があるように思える時代と
なっているが、出雲絡みとはいえ大物主といえば三輪の神でもあり奈良県とも関係してくる。
それゆえ多くの歴史研究家の悩みの種ともなっているところである。
また、第11代垂仁天皇の御代についていえば、(後の)皇后である日葉酢姫皇后は
丹波道主王の女である。丹波道主王は崇神天皇の時代に帝が任命した四道将軍の一人でも
あり、丹波・丹後方面の実力者である。古事記によれば、第9代開化天皇の皇子
である日子坐王の子の一人とされる。そして日葉酢姫皇后には4人の妹がいたが皆
垂仁天皇の後宮に一旦入っており、妹のうち二人は皇子や皇女を出産している。
このように垂仁天皇は丹波系勢力との協力関係を有していたが、丹波系といえば
天火明命系の豪族である海部氏、さらに(丹波ではないが)祖先が共通とされる豪族の
尾張氏が連想される。
「第9代開化天皇の子孫」と「天照大神の孫もしくは曾孫である天火明命の子孫」は別々の概念の
はずであるが、丹後の方では両方の区別が時々なくなるような扱い方がされてきている。
さらに尾張氏といえば、第10代崇神天皇の后の一人にも尾張大海媛が入っている。
日本書紀・古事記とならんでかつては古事記以上に重んじられた『先代旧事本紀(十巻本)』
という聖徳太子撰とされる歴史書があるが、その書物においては物部氏の祖先・饒速日命と
尾張氏の祖先・天火明命が同一人物とされ、いわば同祖系図をつくった体裁で系譜情報が記されて
いる。江戸時代の学者の考究により、先代旧事本紀は日本書紀や古事記をアレンジして作った偽書
と認定されたが、古代豪族の系譜情報など他にない貴重な伝承をも含むものと学界においても
いわれている書物である。
その偽作者としては物部氏系の人物を推定するのが学界の有力見解である。
というのも、記紀の建前上、「天照大神の子孫である尾張氏」の方が「その他の天神の子孫である
物部氏」よりも系図上の格式が上だからである。これに不満な物部氏サイドが偽作したというの
はありそうな話である。
ただ物部氏にも、そのような上等な格式を主張したくなるような何らかの正統性的なものはあった
ものと当サイトでは考える。ただし、その主張方法として、
父(饒速日命)を共通にする実の兄弟同士の子孫という系図を作った点は作為的過ぎたように
思われる。
それはともかく、尾張氏と物部氏を民間の歴史研究家はしばしば同類のように扱うことがあるが
崇神朝垂仁朝の歴史に照らしても問題があると考える。
日本書紀の垂仁天皇紀には、石上神宮の神宝の管理権についての逸話が記されている。
もともとは垂仁天皇の皇子が管理していたが、高齢のため妹に管理を託すという話である。
妹君は最初辞退したがつい同意し、彼女は物部十千根に管理を任せたとされる。そのため
それ以降物部氏が同神宮を管理することになったという。
この逸話は、垂仁天皇系の国政執行に何らかの支障が生じたという文脈で捉えるべきだろう。
また、垂仁天皇紀には、天日槍の子孫である田道間守の逸話も記されている。
天皇のために不老長寿の実を得ようと遠方を往来したが間に合わなかったため殉死したという
ストーリーであるが、その祖先の天日槍は「新羅の王子」とされている。
このことをどう理解するかという点も古代史研究家の間で混乱を招いているようである。
これについては①天日槍と別の種族ではあるが「秦氏」は天日槍の祭祀と密接にかかわりがある
こと②秦氏は渡来人とされその列島に入る前の居住地はγエリアとされている(βエリアとも)が
それはαエリアの意向による土地割当ても絡んでいること③秦氏は渡来元の関係で新羅系とも
されるがあくまでも神子神孫系であること④それは秦氏が仰いだ天日槍も神子神孫系であることを
意味すること⑤新羅といっても当初は神子神孫系を含んでいたこと⑥新羅といっても、後の時代には
αもβも結局全部新羅領になったので、新羅の語はある意味あいまいな概念として
ニュアンスを曖昧化したいときにも使用されうること⑦古代の歴史には、種々の事情から
曖昧化を余儀なくされるような事柄も生じうること
を理解する必要がある。
田道間守は、戦前も忠臣の代表例としてさかんに取り上げられたキャラクターであるが、
上記のことからすると、それを否定する必要もないということになろう。
以上を考慮すると、崇神・垂仁(イリ)系と親密な部族に尾張氏系・丹後系が含まれ、
逆に狗奴国系と関係が深いのが物部氏や出雲系の一部ということになるだろう。
(出雲系の射程範囲については充分警戒しつつ探究していかねばならない。)
ちなみに、学問上、物部といえば、中臣とも深い関係があり、職務上も祭祀にも関係する存在で、
概念的・内容的に近似しているといわれている。実際、中臣氏の氏神系の神社の神官は物部系である
ことも多いという。これには意外の感を持たれる方も多いとは思う。なぜなら、中臣といえば、
天神系ではあるが天照大神の孫が天孫降臨する際に供奉した五伴緒
の一人である天児屋根命の
子孫であるし、貴族として著名な藤原氏が中臣の子孫としての系図を保有しているからである。
しかし、それはそれとして、古代の様相を考えていくためには中臣≒物部といった捉え方も
やはり必要にはなってこよう(具体的には後述)。
そのようなことをわきまえつつ、第10代崇神天皇以前のことについて少し検討してみたい。
「40章の姫君は誰に該当するのか」(3)第10代崇神天皇以前の状況
崇神天皇の父とされる第9代開化天皇(崇神・垂仁兄妹説を採る当サイトからすれば垂仁天皇の父
でもある)は、系図上、上記丹波道主王の祖父であり、古事記の開化天皇の項目には
その一族に属する多数の人物名が開化天皇の子孫として掲げられている。
さらにその中多数の人物が各種古代豪族の祖先とされており、豪族の分布は丹波に留まらず
山城・近江・美濃・吉備・播磨・但馬の各地に及んでいる。
これらの中には、それらの豪族が実際丹波系に縁がある場合、開化天皇に縁がありその子孫と称したい
場合など複数のケースが混在しているかもしれない。
これらを考慮すると、開化天皇は崇神・垂仁天皇すなわちイリ系と深く関連する存在といえよう。
第8代孝元天皇については、系譜上第9代開化天皇の父とされることは勿論であるが、
孝元天皇のその他の皇子としては、長男を大彦(オオビコ)命といい、
多くの古代豪族の祖先とされている。
日本書紀によれば阿倍臣、膳臣、阿閇臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣の祖だと
される。
また、妃腹の皇子として彦太忍信命と武埴安彦命がある。
彦太忍信命の孫が著名な武内宿禰で、戦前の紙幣にもなった人物であるが、
この人物は第13代成務天皇と同年同月同日に生まれた人物とされる点に留意される。
(また、武内宿禰自体が系譜上多くの有力豪族の祖先にあてられている。)
また、武埴安彦命は第10代崇神天皇の代に叛乱を起こして討伐されたとされる。
これらを考慮すると、第8代孝元天皇は狗奴国王系(第12代景行天皇など)に親和性のある存在と
いえそうである。
もちろん、武内宿禰なども謎の多い存在であり、その子孫にも極めて有力な氏族が出ていること
は確かなのではあるが、それにはそれなりの事情があると捉えるべきで、また別途検討する
ことにより解決できるものと考える。
このように第8代孝元天皇の子孫と、第9代開化天皇の子孫とは雰囲気がかなり異なるため、
第9代開化天皇の父が第8代孝元天皇とはされているがそれは名目的なものと見ざるをえないように
思われる。
ちなみに、第8代孝元天皇の祖父にあたるとされる第6代孝安天皇は
諱をヤマトタラシヒコクニオシヒトと申し上げ、「~タラシヒコ」系である点に留意される。
(この天皇はいわゆる欠史九代の中でも特に記載が短く、古事記の場合最少分量と
なっている方である。)
従来の説においては、「国押」などのありふれた語を多用するのは後世的であり、(他の天皇も
同様の特徴があれば)架空の存在として扱うという見解が有力視されていた(井上光貞説など)。
思うに、古代には発音のバリエーションが多彩で、「フツクル」なる人名が「懐」と記される
こともある。一見ありふれた表記であっても、内実は由緒ある古代語かもしれないという考えを
抱くべきと考える。よって、上記有力説には反対である。
以上の中で、狗奴国側と親和性のありそうな天皇としては「~タラシヒコ、~ワケ」系の
次の方々が挙げられよう。
第6代孝安天皇
第8代孝元天皇
第12代景行天皇
第13代成務天皇(以下略)
一方、卑弥呼女王側と親和性のありそうな天皇としては
次の方々が挙げられよう。
第9代開化天皇
第10代崇神天皇
第11代垂仁天皇 (以下略)
上記に挙げられていない方として第7代孝霊天皇が残る。
この方には日本書紀上は複数の皇子女がおられるが、古代氏族の祖とされているのは
稚武彦命(吉備臣の始祖とされる)ぐらいである。
ただ、古事記上はより多くの氏族の祖とはされており、例えば、
稚武彦命の兄の大吉備津日子命は吉備の上つ道臣の祖であったり、
稚武彦命にあたる若日子建吉備津日子命は吉備下道臣の祖、笠臣(吉備系)の祖とされる。
また、日子刺肩別命という日本書紀にない皇子が記され、この方は
高志(越)の利波(砺波)臣、豊国の国前臣、五百原(廬原)君、角鹿(敦賀)の海直アマノアタイの祖とされて
いる。
ただし、日本書紀の応神天皇紀では
吉備臣の祖の御友別[『新撰姓氏録』右京皇別では稚武彦命の孫とされる]
の長男が(吉備)下道臣の祖、次男が(吉備)上道臣の祖、三男が三野臣の祖
とされているため、吉備上道臣について記紀間で系譜が異なることになる。
古代吉備の性格というのも古代史研究家の論点の一つであり、岡山県にかつて
賀陽郡(賀夜郡)が存在したことからも加耶との関係が取りざたされることもある地域である。
そして、日本書紀上は崇神天皇の時の四道将軍の一人として「吉備津彦」が西に派遣された
ことにされているが、古事記上は四道将軍の制度はなく、ただ時期不明ではあるが
吉備津日子兄弟が針間(播磨)経由で吉備を鎮撫したとの記事が孝霊記に載るのみである
(こちらが古形と思われる)。
温羅伝説もあり誤解を招き易い場所であるが、古い伝説をそれなりに持った方々の一部がかつて
多量に住んだ地域であり、その伝説とは別の地域のものであったと解釈することができるの
ではなかろうか。そして、その由緒を強調するあまり、王家の血筋でなくても皇子の子孫という
系図を作出して誇示するということも(清和源氏、桓武平氏の例にもれず)生じうることとは
考えられるのである(また異なる系譜が種々作成されることもありうる)。
そして、正史上それが部分許容されることも、平安時代の氏族の例などからしてありえないこと
ではない。ただその「新伝説」形成時期が余りに古いために、現在はもはや詳細不明となってし
まったのではないか。
さらに、古事記にのみ載る日子刺肩別命系の古代氏族も、孝霊天皇皇子にあやかりたいという
思いからそのような系図をもったということも考えられよう。
第7代孝霊天皇については極端に長い記載となってしまい申し訳ないと思う。
ただ、この方が上で挙げたどちらの勢力により親和性があるかということについても
検討すべきではあろうが、日子刺肩別命系の(自称)子孫を検討することで方向性が見える
ような気もするところではある。しかしあまりにも「吉備」の名が目につきすぎるため逆の
判断ができるような感がされるかたもおられるはずで、そのことに鑑み、一旦この答えは
棚上げにして先に進みたい。
狗奴国側と親和性のありそうな天皇としては「~タラシヒコ、~ワケ」系
第6代孝安天皇・第8代孝元天皇・第12代景行天皇・第13代成務天皇(以下略)
卑弥呼女王側と親和性のありそうな天皇としては
第9代開化天皇・第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇 (以下略)
以上を前提に、第10代崇神天皇以前の人物として「イヨトメ」がどのあたりに関係するかを
考えてみたい。
「40章の姫君は誰に該当するのか」(4)「王権の正当性」と「X帝」・「イヨトメ」との関係性
ここで、一部の方が当然お持ちになりそうな疑問として、天皇家は天皇家として
以前から存続したのであれば、イヨトメは皇后ないし王妃という形で入内すれば
すむのではないかという点である。仮にそのような状況だったと仮定してみよう。
その場合天皇家の本質はイヨトメの権利とは別であり、東大古族の本宗家としての
権利は(A)イヨトメ経由でなくもともと所持していた (B)もしくはイヨトメの入内、子の出生で初めて
権利を得た、ということになるはずである。
Aは理論的にはありうるが、その権利は契丹古伝上はトレース困難な権利となる。Bの場合、
初期天皇は本宗家と関係のない天皇が存在しうる、ということになるが、次のように問題がある
と考える。
以前のチャートで示したように、弁辰(βエリア)には本宗家の直轄地が所在したとみられ、
その前提に立った場合、イヨトメ以前の本宗家の王を無視した状態で天皇家の実系の始祖を
天皇として扱うということは朝廷の格式として如何といった問題を生ぜしめかねないといった
難点があるのではないか。
上記論証にまだ細かい不備があるかもしれないが、結局は系譜の具体的検討によっておのずから
解決されるものと考える。従って上記①②はいずれも不自然であり、上記仮定は誤りと考える。
このような前提にたった場合、
①そもそもイヨトメは初期天皇のどなたかの皇女であるはずで、系譜上のどこかに
皇女として採録されているはずである。
②その皇女の父をXとした場合、X帝と(もしいらしたら)その皇子が亡くなった時点で
その皇女が残されることになり、その情景が40章で懐古されていることになる。
③X帝の次の帝(Y帝)は、当該皇女の配偶者Y1もしくはその子Y2(母は当該皇女)となる。
と予想される。
しかし、倭国大乱以降、少なくとも二つの家で本宗家の地位を主張しあっているようでもある。
ではそれはY帝以降の皇統分裂に過ぎないのだろうか。
もしそうならそれは鎌倉時代終焉後の南北朝の争いのような様相を呈するはずだ。
しかし両家の様子を見るにそこまでの近親者でもないように見える。
このことからすると、おそらくイヨトメは複数回結婚されたことにより、
後継が二流に分かれてしまったのではないかと推察される。
そうだとすると、③は修正せねばならず、
「③´」 X帝のあとに、当該皇女の配偶者Y1もしくはその子Y2(母は当該皇女)
または、当該皇女の配偶者Z1もしくはその子Z2(母は当該皇女)
が帝として続く・・・・
という系譜が作成されうることになる。
ここで④「配偶者」も由緒ある家の神子神孫であれば帝として系譜に載せることはありうる。
それは、イヨトメの事情は憚りあるものとして明記しないのであれば、(卑弥呼女王の
例と同じく)夫を天皇として記載するのは自然なことであるからである。
むろん、当該皇女を男性として記載するなどの別の便宜の方法も理論上ありうるが、当サイト
の検討としては、御歴代の表においてかかる方法による当該女性の記載はないとの判断に傾いている。
さて、③´かつ④の前提にたった場合、Y1帝とZ1帝は配偶者を共通にすることとなり、
その配偶者はX帝の皇女であることになるが、これをそのまま記載するとあまりに
さしさわりがあるので、若干ぼかす必要が出てくると思料される。
当該女性(イヨトメ)は配偶者としては皇女でない別の人物であるかの
ように記されるかもしれない。この場合、イヨトメは、皇女としての名前の他、配偶者としての
名前でも記録されるということになる。
もちろん、配偶者をさらに二分する等の方法も考え得るが、このような手法を取り過ぎると
イヨトメの痕跡が完全に消滅してしまいかねないという弊害が出てきてしまうと思われる。
つまり、飽くまでも、春秋の筆法ではないがそれなりにイヨトメのことが「分かる人には
分かる」形で記録されていないと本宗家としての格式上弊害が大きくなってしまうと考える
ところである。
さて、それではX帝はどの天皇で、Y1帝とZ1帝はどの天皇になるのだろうか。
推理の筋道としては、まず、イヨトメの配偶者問題が解決した場合、
その配偶者(Y1帝またはZ1帝)との間の子孫が順調に増えていけば、
皇位継承上のあらたな問題(=候補者確保面での苦労)は生じない道理となる。
ここで、
あ)X帝が第9代開化天皇である場合、イヨトメはその皇女となり崇神天皇の兄弟となってしまう
から世代が合わない。
(ちなみに、第9代開化天皇については捉え方に差が出がちであるためこの機会に少し補足させて
いただきたい。開化天皇には第10代崇神天皇の他に彦坐王、及び、似た名前の彦湯産隅命
がいるとされるが、彦坐王は丹波道主命の父という系譜を持つ。
丹波道主命が崇神天皇の実の甥かどうかは、垂仁天皇の妃(既述)のことからすれば疑問もわく。
こう考えた時に、第9代開化天皇には崇神(自説では垂仁・卑弥呼も)以外の子が殆どいない、という
のが実態であった可能性が考えられよう。)
い)次に、X帝が第8代孝元天皇である場合、
第9代開化天皇と第10代崇神天皇がそれぞれY1帝とZ1帝として対立的になるということも
考えにくい。上でみた通り、両者共に卑弥呼女王と親和性がありそうだからである。
う)次に、X帝が第7代孝霊天皇である場合、
第8代孝元天皇と第9代開化天皇とがそれぞれY1帝とZ1帝として対立的になるというのは
上の親和性のまとめの内容と矛盾しないので、候補としてはありそうである。
系図上第8代孝元天皇(Y1)の子が第9代開化天皇となるが、これは親和性のまとめの内容を踏まえた
場合実の親子とは解せないことになろう。
孝元天皇(Y1)の実の子である後継者(Y2)が誰かを厳密に特定するのはやや難しい面もあるが、
少なくとも第8代孝元天皇(Y1)については皇子の武埴安彦命などの他、子孫として武内宿禰の
一族もおり、基本的に子孫は多いようにも思われる。
もちろん「大彦命」系古代豪族の中には立場上系図を繋げただけ、という方もあるかも
しれないので、こちらも子孫が少ないという可能性がなくはないのかもしれないが、
候補者確保面での苦労は生じないと見てよかろう。
ただし、上述のイヨトメの痕跡がそれなりに残った形の配偶者設定となるかはなおも別途検討する
必要がある。
その点をとりあえず棚上げして検討を続けると、倭国大乱は第8代孝元天皇と第9代開化天皇を
めぐるものとなる。
そして
第9代開化天皇がZ1帝にあたるので、その後継者(Z2)は素直に第10代崇神天皇
と見てよいだろう。この場合崇神天皇は、皇女イヨトメの血をひいていることになるので、
開化天皇に比べ「ハツクニシラス天皇」と呼ぶにふさわしいことになるから、大乱末期の即位者
としてはこの点でも適合的である。
え)次に、X帝が第6代孝安天皇である場合、
第7代孝霊天皇と第8代孝元天皇とがそれぞれY1帝とZ1帝として対立的になるというのは
上の親和性のまとめの内容に第7代孝霊天皇がまだ入っていないために、決し難いことにはなるが、
一応、候補としてはありそうである。
系図上第7代孝霊天皇(Y1)の子が第8代孝元天皇となるが、これは親和性のまとめの内容を踏まえた
場合、実の親子とは解せないことになろう(第8代孝元天皇はY2にはならない)。
第7代孝霊天皇(Y1)の子にあたる後継者(Y2)が誰かということになると、
親和性を考慮すると第9代開化天皇の可能性が大ということになるだろう。
また、第8代孝元天皇がZ1帝にあたるので、
その後継者(Z2)は孝元天皇の皇子のいずれかということになる。
このケースでは、倭国大乱は第7代孝霊天皇と第8代孝元天皇をめぐるものとなるが、
大乱末期には第10代崇神天皇が即位するはずだから、第9代開化天皇がどのような方であったかの
問題が生じよう。この場合、矛盾をなくすには、倭国大乱において孝霊天皇側でのみ世代交代を
しなければならないであろう。つまり第7代孝霊天皇⇒第9代開化天皇という形である。
そうだとすると一応成り立つ余地がなくはないが、ただし、上述のイヨトメの痕跡がそれなりに
残った形の配偶者設定となるかはなおも別途検討する必要があることになる。
お)さらにX帝を遡らせると、一応世代交代の増加により対応可能であるが、説明が長くなりすぎる
ので一旦このあたりで中止させていただきたい。倭国大乱があまりにも長期間にわたるのは
自説からは考えにくいことも考慮し、やはり「イヨトメの痕跡がそれなりに残った形の配偶者設定
ができるかどうかということ」を中心に上記う)え)2案のどちらが適合的かを見るのが
穏当と解される。
○「40章の姫君は誰に該当するのか」(5):『ほつまつたゑ』の謎~ロマンの書+意外な側面
唐突の感があり申し訳ないが、一旦こちらの話題に入らせて頂きたい。
『ほつまつたゑ』は古史古伝の一種でいわゆる偽書であるが、
①神道の教義の不足を補うような独特の魅力のあること
②縄文時代をはるかにさかのぼる
悠久の歴史を謳歌できる気分になれること
の2点から一部の人々に人気を博しているが
③かなづかいが旧かなづかいの法則を逸脱しているものが多く、近世的な雰囲気を感じさせる
こと
④記紀のキャラクターが記紀の物語の枠を踏み越えてあまりに自由に使いまわされている
ようにも見えること
⑤「花押」などの後世の文化を「はなおし」のように無理やり古くからあったように見せる
手法が散見されること
⑥浄瑠璃のストーリーとも思えるものなど、江戸時代の素材と思われるものが混入しているよう
に見えること、
の4点などの理由から、低い評価も得ている書物である。
ここで②についていえば、本書はウガヤフキアエズ朝の設定などはなく、ただ
神代の冒頭の国常立尊などの神々を歴代アマキミとして天皇として扱った上で、
一人に数十万年といった在位期間を割り振る形式を採っている。
この長大在位期間は一種のロマンと割り切れば、文字どおりに受け取らずともよいと思われる。
また①については、和歌の知識など、宮廷文化についての一定の造詣が必要とも思われ、
簡単に偽作できない要素が含まれている。
その上で、⑤なども、一種のロマン的な「洒落」の要素とすれば、あえて読者を気楽にし安心させる
ための効果的演出としてそれほど不自然感のないものである。
③については、鎌倉以降の編纂とすれば、かなづかいには自由な気風も生じているので
不自然ではないことと、⑤に準じた「あえて余興的書物と思わせる」効果もあるのでおかしくはない。
⑥については、『ほつまつたゑ』の原型文書から再編纂・再編集を経るうちに混入する場合も
ありうるので、直ちに価値を否定できないと考える。
要するに、文字通り全てを受け取ることは無理であるが、それなりに味のあるところを見せている
書物といえる。
それに加え、当サイトでは別の観点を追加で指摘させて頂きたい。
どうやら、『ほつまつたゑ』の原型文書には何らかの特定の氏族の目線から見た一定の主義主張が
反映されているように思えるのである。当サイトのこのような主張はあるいは「ヌエ的主張」
と受け取られるかねないが、日本の正史から(表面上は)わかりにくくされてしまった「(政治的)
経緯」を含む主張があるように思われるのだ。
『ほつまつたゑ』の愛好者は基本、同書を文字通り受け取ることに拘るし、せいぜい年代を補正
するにとどめる場合が通例である。そのような方々には目ざわりかもしれないが、当サイトとしては
適宜上記『ほつまつたゑ』観に基づく説明をさせて頂くかもしれないので御容赦願いたい。
というのも、『ほつまつたゑ』の編纂経緯のたてまえは、非常にユニークなもの、すなわち、
第12代景行天皇の勅撰であり、かつ編纂者が「大田田根子」であることとされているからだ。
そして、歴史の記述としては、景行の子のヤマトタケル(ほつまの場合ヤマトタケ)が世を去るあたりで筆がおかれている。
一見、どなたの勅撰でも構わないように見えるが、良く読むと関連する何らかの氏族的な主張が
むしろ強く出ているように感じられるのだ。このことは神道書としての解説を重視する立場からは
指摘されにくい点である。
少しだけ指摘すれば、古事記の「天火明命」にあたる「クシタマホノアカリ」の失政がなじられて
いることや、尾張氏の系譜的なものが先代旧事本紀と異なって養系の混じった奇妙な形になって
いること、さらに、第6代孝安天皇の誕生(出生)が前後の天皇に比し美化されていることなどがある。
このような主張は、古代氏族の立場から行った場合でなければ、書物にするメリットの希薄な
ものであり、それだけにこの『ほつまつたゑ』の原型(の一部)は相当古い時期に形成された
可能性があると見たい。
上で少しだけ指摘した点等を考慮した時に、本ページで主張してきたことと妙に符節が合うように
思われる点が気がかりである。もちろん『ほつまつたゑ』には独自の世界があるから、当サイト
の主張と完全に同一ということはありえない。しかし、本当に無関係なのかという点が問題と
なるのである。
『ほつまつたゑ』の32アヤ(の一部分)を現代語訳すると、おおよそ次のような内容が記されて
いる(以下、ほつま原典主義者には申し訳ないが、人名その他の固有名詞は一般的表記に改めてある
ことをお断りしておく)。
(大意)
第9代開化天皇は、即位すると(亡父である)第8代孝元天皇の内侍(皇后ではない)であった
イキシコメを自らの内宮(皇后)として立てた。
この立后に先だって、
臣下の大御気主(大田田根子の祖先)は、開化天皇を諌めて次のように申し上げた。
「陛下は聞かれていないのですか?昔のシラヒト・コクミ事件の母犯しの汚名は今にまで伝わって
います。陛下もそれに匹敵する、母(義母)を犯すなどという行為により汚名を蒙られるのですか?」
これに対して重臣の鬱色雄が答えるには、
「陛下の実母たる皇后からみて姪にあたる媛であり、実母をめとるわけではない。」
(大御気主がそれに反論して)云うには、
「そもそも女は一度嫁いだら実の両親との関係を離れ嫁ぎ先の家の人間となるものです。
孝元天皇の皇后と内侍とが伯母と姪の関係にあったとしても、
嫁いだ以上は共に孝元天皇の妻であり、皇后の子たる開化天皇と内侍の子たる押之信
はそれに連なる枝であり、その枝からみて二人の女性は互いに母なのです」
鬱色雄が答えて、
「天の月は皇后御一人であり、他の妃は星にすぎない。星を召すのは母を召したことに
ならない。」
大御気主が嘆いて言うには
「天照大神はアメの道を築かれ、歴代天皇が天津日嗣を受け継いで統治されてきた。
重臣であるあなたが政事を諌めずにおもねって陛下を駄目にしようとする心は汚いものだ。
陛下はどのように御思いなのだろう。我が先祖の大物主神が悪政を諌めた時と同様、
私はけがれた俸禄は受け取らず、国政から離れようぞ」
と言い終って帰っていった。
しかし開化天皇はお聴きいれにならず、大御気主親子は謹慎した。
(本サイトによる解説)
そもそも、記紀で第9代開化天皇の父は第8代孝元天皇とされている。
本サイト的にはそれは建前ということになるが、『ほつまつたゑ』は基本的には記紀の
系図に沿った上でそのごく一部を改変するという記述方針を採っているため、
孝元帝と開化帝の関係が義理でなく実の父子関係であることが前提となっていることに注意すべき。
日本書紀において、第8代孝元天皇の皇后は鬱色謎命で、数人の子がある。
また妃の伊香色謎
命は、彦太忍信命を生んでいる。
第9代開化天皇は(孝元天皇崩御後)先帝の妃の伊香色謎命を娶り皇后としている。
古代史の常識として、先王の妃を後王が娶ることは日本を含むアジアでしばしば見られる風習であり、
古代では特に異常なこととはされなかった。従って実の父子関係を前提としても、ほつまつたゑ
の非難は異常といえる。ほつまつたゑの序文においても、大御気主の当該「諌め」に言及されており
(当サイトでは省略する)、異様なほどの執念を感じる。
一般的な解釈としては、神道的清潔さを推進する臣下の良い心がけと思われているようだが、
むしろ開化天皇に対する過剰な非難というべきではなかろうか。
また、伊香色謎命という方についても、どうしても気になる存在という感がある。
さて日本書紀においては伊香色謎命は、物部氏の遠い先祖の大綜麻杵の女と
されている。(崇神天皇即位前紀)。
○○の遠祖という場合、女系の先祖を含むことがあるので解読は複雑になる。
ただし、古事記では内色許男の女の伊迦賀色許売命とされている。
実は、物部氏の一般的な系図上、内色許男(鬱色雄)命・鬱色謎命・大綜杵命がきょうだいと
されており、大綜杵命の子孫が物部の嫡流になっていくように書かれている。
となると、伊香色謎命=イヨトメ=物部氏のことなのだろうか。
この系図が仮に本宗家のものとすると、物部氏は後継者には事欠かないことになるから、
40章との辻褄が合わなくなってしまう。
しかし、上記ほつまつたゑの話は第8代孝元天皇と第9代開化天皇とが後継として名乗り出たことになる
という上記う)案とは適合的である。つまりX帝は第7代孝霊天皇ということになる。
伊香色謎命=イヨトメとする場合、その父「大綜杵命」は、物部の人物でなく暗に第7代孝霊天皇
を指したものかもしれない。その場合、物部氏は自分の支族の中にさりげなく婚族を
採りこんだということになるかもしれない。物部系図の中には大綜杵命が存在しない系図もある
ようだからである。
ただし、古事記は伊迦賀色許売命の父を内色許男(鬱色雄)命とするから、これでは全く
物部的な人物のようではあるが、イヨトメをとりまく複雑な状況から来るものとも考えられる。
古事記の記載だけで「伊香色謎命=イヨトメ」を否定するのは妥当でないと考える次第である。
そもそも、第7代孝霊天皇がX帝だとすると、そこで孝霊系が断絶の危機に瀕したことになる。
ところが、第6代孝安天皇系は瀕していないことになるから、実際には両家の格式に差があった
ということが推察される。
素直な理解としては、皇女としてのイヨトメは記紀に孝霊天皇皇女として掲載されていることになる。
とすると、倭迹迹日百襲姫命もしくは倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比賣)ということになろうか。
物部系の系図でイカガシコメとして記載されていても、あるいは養女の可能性もあるかもしれない。
そうでないとしても、イカガシコメには孝霊天皇系を再建できる重要な立ち位置があったという
ことになるはずである。
配偶者の記載について春秋の筆法云々という話を上で書いたが、そもそも孝元天皇の皇后と
開化天皇の皇后が同一人という系図を作成すると、あまりにも露骨でがさつな系図ということに
なるというのは誰もが感じることであろう。
そこで、孝元天皇の皇后はウツシコメという別の人物にしておき、その姪として
一世代ずれた形のイカガシコメを設定して「妃」としておけばその点緩和されるということで
あったかもしれない。
○国と住民の移動について ~「渡来」という表現の不審
前節までで、イヨトメが、記紀上の人物に該当するという点について、論じた。
複雑な事情があったとは思われるが、イヨトメの次の世代で、日本列島において
倭国の新ページが開かれたことになる。特に崇神・垂仁天皇の存在は注目される。
さて、このように書いてくると、読者の中には江上波夫教授の
騎馬民族渡来王朝説を思い出す方もおられると思う。
江上教授は、外来民族(天神)が任那と深い関係にあり、たぶんそこから
北九州に渡来したことが天孫・ニニギノミコトの高千穂降臨に対応するとされた。
(江上波夫『騎馬民族国家』中央公論社1967年 1991年改版p.164-166参照。)
そして、崇神天皇を主役とした天神が北九州に進出したことが天孫降臨の第一回の日本建国
であるとされた(同書p.169-p.172参照)。
ここで問題となるのが、その、北九州に半島から入ったという勢力が
北東アジア系の騎馬民族と江上説ではされたことである。
江上教授は崇神天皇の在位を四世紀初頭に置いている(同書p.182参照)。
これは、自説の三世紀前半より百年ほど遅い時期にあたる。
江上教授は四世紀初頭に北九州に降臨した勢力が四世紀末に奈良に入り大和朝廷を
樹立したと捉えた(同書p.162参照)。
今日、この騎馬民族説が否定されたのは騎馬の文化が日本に入るのは
もっと後でしかないという理由による。
自説のような三世紀前半ではなおさらなりたたないのは自明となろう。
ここで、注意していただきたいのは、自説の場合騎馬民族が渡来したとは
述べていない点である。そもそも、東大古族の概念において、騎馬民族という
属性は当然の前提ではないし、その環境条件においてさまざまな形態がありうる。
ヒミシウ氏が弁辰に直轄地をおいていた2世紀には、いわゆる典型的な騎馬文化
は未だ確立していなかったであろう。
そして、帝とともに有力豪族たちも列島に移動しているのであり、
これを「渡来」と呼ぶことに当サイトは反対である。
渡来というのは、列島先住のムス氏系や縄文系からみれば「渡来」であろうが、
帝その他多くの移住者からみれば、「渡海による移住」にすぎない。
アメリカ合衆国は、イギリスの清教徒(ピューリタン)の移住を端緒として形成された
13州を基礎として建国されているが、
これを「清教徒(ピューリタン)の渡来」と表現するのは妙で、せいぜい第2陣以降
にしか使えないように思われる。
このことを深く考えてみる必要があると考える。
いずれにせよ、自説を騎馬民族説と呼ぶとそれは誤りとなるので
誤解のないようお願い申し上げる。
江上教授の説にしても、騎馬文化にこだわらなければ一種の文化複合論として
興味深い面もあるので、完全に葬り去ることには疑問が大きい(江上教授も若干の
修正説を出されたはずである)。ただし渡海時期の問題も大きいことは確かである。
江上教授は次のようにも書かれている。
要するに、辰王系の任那の王が、加羅{βエリア}を作戦基地として(中略)筑紫に侵寇したのが、
崇神の肇国事業であり、ニニギノミコトの天孫降臨で、第一回の日本建国に
ほかならないと考えられる。
(上掲書p.184。{ }内は引用者による注釈)
興味深い指摘ではあるが、侵寇の語などはあまり適切でないと思料する。
また、「倭韓連合」などの言葉も用いられているが、この韓は、古いα・β・γ
エリアの時代の趣をのこす意味で用いられているので、神子神孫文化破壊者系が
優位な現在の韓国の雰囲気とは全く異なる点に留意しないと江上教授の説は正しく
理解できないように思われる。
また江上教授は次のようにも書かれている。
{第21代雄略天皇以前の数代の}倭王は、現在でも南部朝鮮のすべてを支配する
歴史的根拠・潜在的権利を保有している、という立場をとっていたのではないか。
(同書p.178。)
ちなみに江上教授は、江上説でいう四世紀末の奈良への移動について
「第二次の建国、いわゆる神武東征」という表現を用い(同書p.173)、その実態は第15代応神天皇で
あろうとされた。
神武=応神論に自説は反対するが、かといって第1代神武天皇の奈良県での即位を否定する
のも妙であると当サイトでは考えている。
というのも、自説では40章の頃、すなわち第7代孝霊天皇朝前後における宮廷所在地が
列島上ではないことになるが、その場合神武天皇はどこからどこへ東征されたのかという
問題も生じてくるからである。
自説では狗奴国が倭国連合から離脱した後、一時的に倭国の首都は九州に所在した
可能性があり、ただし卑弥呼の後、第12代景行天皇の世になってからは首都は奈良県に
所在したものと解される。
そしてこのあとに謎の時代となるわけだが、ここで神武東征が生じるようにも思えるので
江上説は再検証の余地があろう。
○天孫降臨と日本の「神代」
江上教授は崇神天皇の肇国とニニギの命の天孫降臨を同一視された。
日本神話上、天孫であるニニギ尊が祖母の天照大神の命をうけて九州の日向の高千穂へ降臨
したとされる。これは北方系の降下型神話ともされるが、これを単なる伝説に過ぎないと
みるのか、現実の反映とみるのか、その場合降臨場所はどこになるのか、が問題となる。
天孫降臨と酷似したモチーフは契丹古伝の3章で日祖が日孫に命じて(満州へ5章参照)
降臨させたという形で語られている。それは紀元前をはるかにさかのぼる悠久の昔と
なるはずである。日本の神話もこの神子神孫文化の流れと思われるが、
スサノオ尊が日神の弟となる点が契丹古伝3章と矛盾するとされる。
これについては契丹古伝の始祖神話と日本神話 その5
で、次のように簡潔に論じておいた。
日本神話の読者が眼にしている天照大神・スサノオ尊は、実は、
仕切り直しの時より後で、かつ人格神の性格の濃い御方であり(以下略)
つまり時期的に契丹古伝3章より後で、王権神話をつくり直す必要が
あった際の産物ということになる。そしてこの場合現実の人間のモデルが
おいでになることに自説ではなってくる。そこでは自分は次のようにも書いている。
仕切り直しの時から国生みをする という形で神話を再構成した。
その後天孫降臨的な事態も生じたので、それを日の女神と皇孫という形で記述したもの
と推理できる。
この仕切り直しというのは、第7代孝霊天皇よりも少し前の段階を想定しており、
天孫降臨的な事態というのは、孝霊天皇よりも少し後の事象を想定したものであった。
要するに、天孫のニニギの命はどこか崇神天皇と重なる面があるという考えとなり、
かすかに江上説との類似性がでてくることになる。
現在、天孫降臨を現実の歴史を反映したものとみる説は(古田学派の九州王朝説
を除けば)少数であるが、それは日本人として異民族の「渡来」を忌む心情がある
からである。
しかし、その実態が「神子神孫文化保持者」の「移転、移住」であれば、それを現在の
韓国人の渡来と同視する必要はない。
実際、契丹古伝の解釈の中には神子神孫文化保持者の日本列島への移動を「天孫降臨」
と捉える説は複数存在している。
例えば佃收氏は37章の安冕辰沄氏がBC140~120に九州北部へ天孫降臨
したとされる(関連文献欄参照)。
また、安部裕治氏は安冕辰沄氏の一部が新天地の開拓を図り、ニニギ命が
九州北部へ(紀元前75年以前の弥生中期初頭に)降臨したされる(関連文献欄参照)。
両者とも、天孫降臨を紀元前の時代に設定している。
これは心情的には理解できる。というのも系図上ニニギ命は崇神天皇の9代前の
神武天皇のさらに3代前にあたる御方であるからだ。
しかし、自説では倭国大乱の末期にイヨトメの血を引く崇神天皇の即位を想定する
ため、この方を天孫とみるのは不自然ではないことになる。
もっとも、系図がそれでは滅茶苦茶になるという批判が出そうであるが、
これにも対応できるように記述して参りたいと存ずる。
天孫降臨を4世紀の出来ごとと捉えるのが江上波夫説だが、
3世紀初頭として捉える点で自説に近いのが上垣外憲一教授の説である。
(ただし氏の説は自説とは細部で異なる点がかなり多いので注意されたい。
念のため申し上げておく)
氏は次のように書かれている。
三世紀初頭の加羅からのホニニギのミコトの"降臨"は、(中略)北九州のどこか、
であった。(上垣外憲一『天孫降臨の道』福武書店 1990年 p.49)
先に推定したように、天孫族が加羅から"天降り"してきたのが三世紀初頭{AD200年頃}とすると、
すでに北九州にはかなり鉄器が普及した後のことである。
(同書p.65。{}は引用者による補足、以下同様)
氏は古代天皇の非実在論に賛成されないようで(学者としては少数派)興味深いが、
ニニギのミコトの曾孫の第1代神武天皇の東征を紀元後3世紀中葉{AD250ごろ?}とし、
第10代崇神天皇の在位を300年ごろと見る(同書p.58-P.59,p.93参照)
ため、氏の説ではニニギのミコトと崇神天皇は同一人物ではない(同じ伽耶系ではあるとされる)。
その点は自説とは差異がある。
ちなみに、加耶(加羅・任那。βエリア)は6世紀に新羅(γエリア)の侵攻によって滅亡したが、
上垣外氏は日本人と韓国人の対立概念の上限をこの時期に求めるべきとしている(同書p.308参照)。
「その時期以前」はそのような二分論ではすまないという趣旨と解され、そのことには
ある程度賛成できるが、その「それ以前」の詳細についてはかなり大雑把な処理なため
疑問もある。
氏によると{βエリアの}原 伽耶語は扶余系言語+江南系+先住ツングース族語
で、この人たちは紀元前100年頃列島に入り南島語話者と融合して原日本語を形成したという
(同書p.304参照)。
一方新羅には雑穀栽培民の伝統が維持された地域が存した関係で、新羅語の母体となった言語は
伽耶語とは別のグループに属するアルタイ言語であったとする(同書p.306-p.307参照)。
半島単一民族論とは異なるため興味深い指摘ではあるが最新の言語学に照らしてなお精査の要が
あるように思われる。
また氏は、馬韓{αエリア}は文化的には伽耶{βエリア}と共通の基盤をもつものの、
言語的には馬韓語は新羅と似たアルタイ言語であったとの説を紹介しており、新羅支配族
類似存在の南下を考えておられているようだ(p.307参照)が、これには疑問の余地があろう。
少し脱線したが話を元に戻すと、氏の説では紀元後3世紀中葉{AD250ごろ?}に
鉄器に強みのある集団(第1代神武天皇)が青銅器文化しかなかった奈良県に入ったことになる。
しかし発掘中の纏向遺跡はAD200年頃にはスタートしていたと見られ、大乱の中
崇神天皇が纏向のその初期に即位しても不自然ではないのではないか。
これは「本拠地移転の必要性の発生原因」にもよるが、長距離の移転を当初要した可能性もあ
るので、無下にできない考え方と思料する。
そして、天孫降臨の場所である日向の地を氏が北九州にとる点については他に類似の説をとる論者も
おり、当サイトとしても賛成したい。
○ニニギの尊=崇神天皇 (という説について)、そしてその母君とは
次に、上垣外説とは異なる当サイトの見解であるニニギの尊=崇神天皇説について
少し詳しく書いてみたい。
日本神話では、天孫降臨前において、天上界を高天原とし、地上を葦原中国と呼んでいた。
日本書紀(神代上第九段の第一の一書)によれば(大意)、
天照大神は、豊葦原中国はわが御子が君主たるべき国であるとして、御子の天忍穂耳尊
を葦原中国に降ろされた。天忍穂耳尊は天浮橋に立たれて、「あの国はまだ乱れている。
なんとも頑迷な国のようだ」と云われて、天上に戻られた。
そこで天照大神は武神を派遣して地上の支配者である大国主命一派を平定した。
そこで天忍穂耳尊を降ろそうとした時に、その子のニニギ尊が生まれたので、天忍穂耳尊
の奏上により、天照大神は、皇孫のニニギ尊を代わりに降ろそうと仰せられた。
そこで皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵触峯に降臨された。
ここで、次の点には特に留意される。
①本来天照大神の御子の天忍穂耳尊が降臨するはずだったところ、
尊は途中の天浮橋から戻られているという点で、第二の一書では、
途中の虚天におられたときに尊と高皇産霊尊の女万幡姫{(栲幡千千姫)}との間に
ニニギの尊が生まれたため代わりに降臨することとなり、
天忍穂耳尊は後ほど天に帰って行かれたとされる。
②地上は大国主命が支配しており、乱れていたため高天原から武神を使わして政権を返上させた。
(いわゆる大国主命の国譲り)。
③ニニギの尊を地上の君主としようとされたのが日本書紀本文では高皇産霊尊となっており、
第四の一書、第六の一書でも高皇産霊尊が邇邇杵尊を降下させたとある。
古事記では、当初天忍穂耳命に対して降下を命じるのが天照大神と高木神(タカミムスビ神)
となっている。
このタカミムスビ神は、古事記では天地が初めて開けたときに2番目に現れた神で、
その時から相当長い時間は経っているのであるが、神代のことだから長期間天におられても
問題ないともとれるし、一部の系図の説くように天照大神と同時代の神とするのが正しいともされる。
ちなみに『ほつまつたゑ』では、一種の役職名として襲名され、7代目タカミムスビが
天孫降臨時の高皇産霊尊にあたるものの、『ほつまつたゑ』で7代目タカミムスビは目立つほどの指示を
出していない。
①②③のうち③については学者の論議の的となっており、本来高天原の主宰神が
高皇産霊尊(男神)であるとする説の根拠となっている。
一見、ニニギの尊の母の父だから孫を降臨させる手続きを執っているに過ぎないとも思えるが、
古事記の記載の場合、天忍穂耳命に対してもタカミムスビ神が命令を出していることは確かである。
学者の論議はその域を出ていないのであるが、ここで天忍穂耳尊が子の降臨を奏上されている
点について、ある意味自主的に譲っておられるように見える点に着目してみる。
とすると、これは第9代開化天皇とその子である第10代崇神天皇の二代の内、
第10代崇神天皇の方がイヨトメの血を引くことになるところ、崇神天皇が記紀で
ハツクニシラス天皇と讃えられたことを想起させる、といえばこじ付けがましいだろうか?
ここで、天忍穂耳尊の妻(すなわちニニギの命[崇神天皇]の母)がどういう御方であるかについて
検討してみる必要がでてくるが、それはこのすぐ後に行うこととしたい。
次に、②の「大国主の国譲り」というのが天孫族vs出雲族のようなかたちでイメージされ続けて
きたが、ここに問題がある。
つまり、天孫族が地上を平定したあとにニニギの命が降臨するということについてみるに、
その「地上平定」にまつわる争いとは倭国大乱のことにほかならない。
となると、「大国主命」とは開化帝・崇神帝と対立する側であるから、第8代孝元天皇の側で
これが狗奴国側ということになる。ということは、「大国主命」=「孝元天皇」ということに
なりそうだ。これでは国津神(出雲族)と天孫族の区別が滅茶苦茶になる等と非難するかた
が出そうではある。しかし
i)「大国主命」は「神代」に存在した神の扱いで、「孝元天皇」は「人代」
の存在(人皇)の扱いである。記紀の表面上矛盾はない
ii)あとにも述べるように、「神代」の一部が「別観点」で「人代」として再録されていることに
なるとすれば、別観点である以上かかる編集はありうる
iii)列島にはもともと「ムス」氏系王権があったはずで、大国主とはその方ではないかとも
思えるが、孝元サイドは倭国大乱以前から、おそらく地縁その他で列島内の勢力との交渉を
持っていたのであろう。それゆえ列島内の一部の勢力からそこそこの信任を得て、「大国主」
と呼ばれる地位を得ていた可能性はあろう。
iv)「第7代孝霊天皇がX帝だとすると、そこで孝霊系が断絶の危機に瀕したことになる。
ところが、第6代孝安天皇系は瀕していないことになるから、実際には両家の格式に差があった
ということが推察される。」と上の方で書いたように、孝霊帝系の権利の相続・移転問題は
本宗家の問題として列島内においても無関係で済ませられないものであったであろう。
そして、列島内の勢力として孝元帝(狗奴系)をそこそこ信任するといっても、
本宗家として信任するかどうかは格式その他の問題としてまた別の問題ということになる。
このような事情から、神代の「地上の騒ぎ」としては狗奴系が「国津神」側として描写される
ことは十分ありうると考える。
※「大国主命」とはある意味普通名詞に近く、複数の人物の合成ともいわれるように、
モデルとなる人物が複数いわれる場合もあるので警戒しなければならない場合があることに注意。
○天孫降臨周辺の神々と「人代」の方々とのつながり(1)
さて、それでは、天忍穂耳尊の妻神(栲幡千千姫)=イヨトメとした場合に残りの人物(人格神)
相関図がどうなるかについて検討しておきたい。
この場合、神代の栲幡千千姫の父である高皇産霊尊は、イヨトメの父にあたる第7代孝霊天皇にあたる。
そして、古事記で共に命令をくだしておられる天照大神は、第7代孝霊天皇の皇后または皇妃の
どなたかにあたるのではなかろうか(記紀を見ると、皇后の別伝などの複数伝があって
混乱しやすいが、ここでは深入りをさけたい。)
(☆俗説ではあるが、孝霊天皇の皇妃「意富夜麻登玖邇阿禮比賣」の「クニアレ」は「国生れ」
の意味で、天照大神を表すともされる。)
ところで、神話の中で天照大神とスサノオの尊は、うけいという制約によって、五男神・三女神を
生んでおり、それゆえ両神はある意味夫婦とみられることもある。
そうだとすれば、孝霊天皇はある意味スサノオの尊であるが、スサノオの尊の場合乱行のとがで
追放されるという物語がある。この追放されるスサノオの尊は、孝霊天皇ではなく別の方の神話が
混成されている可能性がある(後述)。いずれにせよ、孝霊帝も皇子も神去られたという
状況があったとすれば、その状況打開として孝霊帝の皇后または皇妃がご命令を出されるという
ことは充分考えられよう。そして、開化天皇にあたる方も充分にゆかり深い方で、
「態勢立て直し」にふさわしい方として選ばれたものと信じたい。
この場合、皇后または皇妃は新規出発にふさわしい女神に比肩しうる御方といえるのではないか。
そして、崩御された方は、いわば変名として「高皇産霊」という汎称的な名前で
呼ばれたのではないか。というのも、高皇産霊尊には実は多数の子供がいることに日本神話では
なっているのだが、「高皇産霊尊の女栲幡千千姫」については、独特な以下の特徴がある
からだ。
日本書紀 神代(下)第九段の本文には次のように記されている。
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は
高皇産霊尊の女の
栲幡千千姫を娶られて、
天津彦彦火瓊瓊杵尊を生まれた。
この栲幡千千姫という方については多数の別名が記録されている(下記参照)。
(神名) |
|
(出典) |
栲幡千千姫 |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
本文 |
万幡豊秋津師比賣命 |
|
古事記 |
|
万幡豊秋津媛命(思兼神の妹) |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第一の一書 |
万幡姫 (高皇産霊尊の女) |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第二の一書 |
栲幡千千姫万幡姫命(高皇産霊尊の女) |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第六の一書 |
火之戸幡姫の児 千千姫命 |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第六の一書 亦曰 |
天万栲幡千幡姫 (高皇産霊尊の女) |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第七の一書・ 第八の一書 |
万幡姫の児 玉依姫命 |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第七の一書 一に曰く
|
丹舃姫 (※火瓊瓊杵尊の母として記載) |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第七の一書 一に曰く |
神皇産霊尊の女栲幡千幡姫 |
|
日本書紀 神代(下)第九段 |
第七の一書 一に曰く |
高皇産霊尊の子は非常に多く、古代豪族の祖先とされる人物も多いが、
栲幡千千姫のように多数の別名を持つ人物は見られない。夫の天忍穂耳尊の別名よりも多いのである。
ということは、栲幡千千姫という方はそれだけ多くの部族から様々な名称で尊崇された女性であることを意味しよう。
そして、高皇産霊尊の子で古代豪族の祖先とされる男性群は、そこまで特別扱いではないということを
考えてみた時に、同じ「高皇産霊尊」の名でもその実態はさまざまであり、複数の人格が
高皇産霊尊に託されている、いやもしくは、由緒ある神子神孫を表すために普通名詞的に
「高皇産霊尊」の名が使用されていると推定できよう
(ありていにいって辰沄繾翅報のような意味で使われている可能性もある)。
それゆえ栲幡千千姫が孝霊天皇皇女であってもおかしくはないと思われるのである。
○天孫降臨周辺の神々と「人代」の方々とのつながり(2)
さて、このように(皇統につらなる)神代の方々と人代の天皇が対応するとすると、
時代を下らせると以下の対応が考えられようか。
01)天照大神の夫君のような方=第7代孝霊天皇
02)天忍穂耳尊のような方=第9代開化天皇
03)ニニギの尊のような方=第10代崇神天皇
04)(ニニギの尊の子)ホホデミ尊のような方=第11代垂仁天皇
05)(ホホデミの尊の子)ウガヤフキアエズ尊のような方
=第11代垂仁天皇の子(第12代景行天皇を含む?◇◇)
06)(ウガヤフキアエズ尊の子)神武天皇のような方
=第11代垂仁天皇の孫(第12代景行天皇の子を含む?)
※以前に述べたように、垂仁帝と景行帝の間には実の親子関係は存しないと解されるので、
◇◇については「含まれない」と考えられそうである。
もちろん、神代の方々、例えばニニギ・ホホデミ・ウガヤの日向三代には日向三代としての
神話としての物語が存在していることは確かである。ただそれは多分に寓話的なものなので、
実在の人物としては特定の人物がイメージされていることはありうると考える。
その上で、上記の表には第8代孝安天皇が登場されないことに注意されたい。
この流れでいくならば、垂仁天皇以降の歴史としておそらく次のようになりそうである。
つまり、ニニギの尊(崇神天皇)が九州から近畿地方に入る⇒狗奴国側との争いの中、
ホホデミ尊(第11代垂仁天皇)の代に九州に戻り倭国連合を統括⇒狗奴国側が倭国連合から離脱する形で
奈良近辺を統治⇒狗奴国側の第12代景行天皇が卑弥呼・垂仁天皇側に勝利し倭国として統一、京を
奈良県内に置く⇒何らかの九州の勢力(垂仁天皇系?)が九州から東征して奈良県へ入り即位。
突飛な見解のようにも見えるが、東征のあたりはもう少し追加説明を後ほど加えたく、
その際に?を付した部分についてももう少しはっきりさせたいと思う。
次に、神代の系図では、イザナギの尊・イザナミの尊夫婦神には三貴子といわれる
天照大神・月読尊・スサノオ尊の三柱の神がいらっしゃる。
そして、月読尊・スサノオ尊は時に同一視されることがある。(大宜津ヒメの神話において
記ではスサノオ尊、紀(神代上第五段の十一の一書)ではツクヨミ尊が主人公)
今、スサノオ尊を第7代孝霊天皇にあてた場合、その父イザナギの尊はどなたに該当される
だろうか。おそらく第6代孝安天皇または第5代孝昭天皇のあたりであろうが、
ここで第6代孝安天皇は該当しないだろう。というのも、第6代孝安天皇は「~タラシヒコ」系
で景行天皇と同じ系列であるため、上記01)から06)の流れにそぐわないからである。
(ちなみに、神武天皇もどちらかといえばイリ系に属しそうである。後述)
ここで、第5代孝昭天皇の皇后である世襲足媛は、尾張氏の遠祖・瀛津世襲の妹である。
この立后の仕方は、どこか第11代垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(丹波道主王の女)と
相通ずるものを感じさせる。
それゆえ、
00)イザナギの尊のような方=第5代孝昭天皇
を上記の表に追加できると考える。
このように初期天皇家においては、尾張氏系と親和性のある系統が重要な役割を果たしている。
尾張氏の一族に海部氏もあり、俗に海人族性が濃いため、天孫族としての属性を否定する説
も出されているが、この点一考を要する。
先代旧事本紀の件でも述べたように、尾張氏系は天照大神の子孫という系図を許された天孫族である。
その他天神系の物部氏系よりも系図上は格式が上であることはすでに述べた。
海人族といえば国津神系とされる安曇氏があるが、おそらく安曇氏は契丹古伝でいう
ムス氏系であろう。
尾張氏系は、安曇氏に比しより北方の海域(遼寧南方)を押さえた関係で、ムス氏というよりは
5章の辰沄氏の二大宗家のどちらかの支流に属するのではなかろうか。
古代においては、後の時代に比べて、海運の位置付けが上位に来ていたと推察される。
それは重要な産業であり、大きな財産形成を可能とするものであったので、社会的地位の
高い海人族も存在しえたはずである。(馬による陸路輸送が優位化したのはもっと後の
時代で、そうなるにつれ海人族はステータス的には下り坂に入っていった面もあろう。)
契丹古伝31・35章の徐珂殷(淮骨令氏)も、船舶を駆使する点で海人族感がある。
しかし殷の字を名乗るほどの貴種としての面ももっていたと思われる。
淮として伯族との婚姻関係があった可能性もあるから、このような海人族は容姿的にもそれなりに
伯族と似ている場合もありえよう。35章の最後で淮骨令氏は潘耶(扶余)に合流したとされて
いることについても留意される。
このように見てくると、尾張氏系の先祖は神子神孫としてかなり上古は半島で羽振りよく
活躍していた可能性があろう。契丹古伝サイトの立場からはこれを非天孫族と見ることには
賛成しかねるということになる。
βエリアに本宗家があったころの帝も、あるいはそれ以前の帝も、この一族を重視し婚姻を
重ねた可能性もあろうから、容姿としては若干細長さが緩和された御姿でいらしたかもしれない。
37章の謎その3・40章の謎その2につづく
2025.03.09初稿
(c)東族古伝研究会