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「伊勢」「宇佐」と契丹古伝第20章の祭祀関連名詞「汶率」
~単語レベルにおける関係性について~
(要旨)
契丹古伝第20章末尾には東族語の「汶率」という名詞が記されている。
これは浜名寛祐氏も意味を未詳とする謎の語である。
ただし前後の文脈(「廟」などの語)から、祭祀・霊廟などに関連する単語であることは
推察可能である。
東大古族語としての重みもありそうである。そのことからすると、日本にも関連語が存在する
はずで、その考究の試みを本ページで行いたい。
(本文)
○ 謎の語「汶率」
契丹古伝第20章末尾には東族語の「汶率」という名詞が記されている。
20章末尾の部分はこうなっている。
(原文)廟旃爲汶率
(浜名の読み下しと注釈)旃を廟して汶率と為す 此の義亦未詳
(「浜名の読み下しと注釈」の現代語訳)これを祀って汶率と呼んでいる。汶率の意味もまた未詳である
このように浜名氏も「汶率」の意味を未詳としている。
ここで「廟する」という動詞が使われているが、廟は名詞としては祖先や神仏をまつる建物のことを指す。動詞の場合は祭祀を行う、祀るというような意味になる。
では何を祀っているのであろうか。「これを祀って汶率と~」の「これ」の意味が問題となる。
上の20章末尾の、その少し前の部分から再び引用してみる。
(原文)以上通稱諸夷因神之伊尼也。
(読み下し)以上通して諸を夷と称するは神の伊尼に因る也。
(現代語訳)
以上(の阿祺毗・暘霊毗・寧祺毗・太祺毗系諸部族を)通して諸を「夷」と称するのは神の「伊尼」に因むのである。
(原文)廟旃爲汶率。
(読み下し)旃を廟して汶率と為す。
(現代語訳)これを祀って汶率と呼んでいる。
「これ(旃)」が何を指すかであるが、前提として、上記引用の直前部分(20章内部)において、
「~イ」「~ニ」「~ギ」といった東大古族の諸部族名が紹介され、その一部は諸委とも呼ばれている。
この「~イ」「~委」の「イ」「委」等が「夷」
とも書かれるらしく、東大古族の諸部族は皆「夷」と称されうるということで
ある(倭、倭人の意味についても参照。)
その上で、夷という名称のが「神の伊尼」
に「因る」ものとされる。
「伊尼」を浜名氏は「イチ」とよんでいるが、その他「イニ」「イネ」などと読みうる
にしてもだいたい類似した音である。しかも、夷も古くは「イ」でなく「チ」「ニ」に近い音で
読まれたという事情があるため、発音上「夷」≒「(伊)尼」といえる。
(別解釈としては、イニ→イヌ→イン→イ(ン)のような変化は通常
発生しうるから、発音上、伊尼≒夷となる)
発音上「夷」と「(伊)尼」が類似する点に着目すると、20章において「夷」が「神の伊尼」
に「因る」というのは「夷」の語源が「(神の)伊尼」であるという意味と思われる。
(浜名氏も「夷」の原義が「神の伊尼」であるとしている。溯源p.468,詳解p.182の最終行参照。)
以上に照らすと、「これ」とは「(神の)伊尼」を指すと解するほかない。
つまり、廟する(=祀る)対象は「伊尼」であり、「伊尼」を祀って「汶率」と呼んでいる、
という意味の文章になるはずである。
では「伊尼」とは何であろうか。
「(神の)伊尼」と記されている以上、神に関する神聖な何かではあろう。
浜名氏は、伊尼をイチと読み、稜威の意味
としている
(溯源p.468, 詳解p.182の5行目/溯源p.471, 詳解p.185の最終行参照)
稜威というのは、・尊厳な威光 ・忌み清めたこと、神聖さ ・畏れを感じるほどの見えない力、
などと解釈される。が、そうだとすると「『伊尼』を祀って~」は尊厳性を祀って~となり、やや腑に落ちない感もある。
そもそも、日本列島は相当古くに始まった海洋系主体の倭人の時代の頃から東大古族の有力種族(倭人)が
住んでおり、さらに東大古族の本宗家である朝廷も後に(諸豪族らと共に)列島内で繁栄すること
となった経緯がある(本宗家権利論参照)。
ここで、東大古族=東委(東夷)にとって重要な概念であるとされる「伊尼」やそれを祀った
ものとされる「汶率」は日本神道上においても(名称の差こそあれ)大切なものとして存在している
はずである。
とすれば、それは神社関係の祭祀関連名詞のどれかに該当するはずではなかろうか。
神社で祀られているのは当然ながらそれぞれの神社の御祭神であり、また、御神体をお祀り
しているとの言い回しも可能ではある。
とすれば『伊尼』は、御祭神もしくは御神体と関係するだろうか?
浜名氏の指摘する「稜威」説も、
それはそれで捨てがたいものがある。
さらに、廟という字は名詞では祖先の霊や神仏を祀った施設であるという意味がある点も考慮すべきだろう。
とすると、「伊尼」は「尊厳的存在」であり、「尊厳ある霊、みたま」のような意味では
ないか。そしてそれを祀ったものが「汶率」となるはずだが、あるいはそれは神社自体のことで
あるだろうか?
そもそも、「汶率」を何と読むべきかという問題も絡むので、やや複雑な話とはなる。
(浜田秀雄氏は「モンリツ」と呼んでいる)。
ここでは「率」の読み方についてだけ検討しておこう。
「率」については、「リ」のようなラ行音ではなく、8章の秦率旦、15章の秦率母理、
37章の辰沄謨率氏、38章の率發符婁の「率」のように、サ行音(「さ」「す」「そ」など)で読むべきだろう。
(浜名説[補注1参照]では、「そ」と読んでいる。)
さて、①「伊尼」と「夷」(=「委」)が似た語であることは上で見たが、
②「倭、倭人の意味について」中の「5、『倭(ワ)』と『委(イ)』の狭間で」の「②」
にもあるように、
「委」は「耶」にも近い。
③11章の解説にあるように、「耶」は「京」または「宮」の意味と解される。
それゆえ「伊尼」と「宮」は案外近い語なのではないかと考える。
通常、宮は「み(御)」+「や(屋)」と解されているが、「や」には神聖なものが存在する場所
というニュアンスも含まれているのではなかろうか。
④神社の呼び方として、(神社の種別にもよるが)「お宮」「お社」がある。
「やしろ」の語源は一般に「や(屋)」+「しろ(代)」とされるが、その意味内容としては、
a)神を迎えるための場所の代用(仮の)家屋、という考えもあるが、
b)「しろ(代)」の部分の解釈としては神を祀るために地を清めた場所と解する説もある。
この両説の中では後者の方がより適切であろうと思われるが、「しろ」は「のりしろ」の「しろ」
と同じで、一定のものを載せる場所を指すとはいえるのではないかと思える。
⑤「やしろ」の語源は一般に「や(屋)」+「しろ(代)」とされるが、その「や(屋)」
の部分は「宮(みや)」の「や(屋)」の部分と対応するようにも思える。
とすると、「伊尼」と「宮」が近い語のはずで、それは「尊厳ある霊」とも関係する語であるとすると、
それを祀るもの、その尊厳あるものが坐す場所が「やしろ」となり、これが「汶率」に近い
概念ではないか。
※のりを載せる場所がのりしろであるから、みたまに坐して頂く場所は「みたましろ」と
解すべきかもしれない。
⑥以上からすると、「汶率」とは、「やしろ(社)」もしくは「みたましろ(御霊代)」のような
意味ではないかと推察される。
⑦ ③④⑤⑥からすると、「汶率」の「汶」は、「宮」に近い語ではないかと思われ、
③からすれば、それは「伊尼」にも近い語かもしれない。「伊(い)」が丁寧化して「み(御)」となっている
可能性もある。するとそれは本来「みや」「みぬ」等の発音だったものが単純化して、「み」「む」「も」等の
音となったこととなりそれが「汶」なのではないか。
⑧ ⑦からすると、「汶」にあたる語は「いや」「いぬ」等でもよいことになり、単純化すれば
「い」「う」の形もありうる(この場合、「汶」の音からはやや外れる)。
⑨さらに、日本の神社でも特に重要な「(伊勢)神宮」や「宇佐神宮」の所在地が
「いせ」「うさ」ということに留意される。
神聖な存在がいます場所であることからすると、それらの地名に「汶率」的ニュアンスが含まれて
いるのではなかろうか。
⑩奈良県の石上神宮は、物部氏系のお宮で昔から「いそのかみ」と呼ばれてきたが、伊勢神宮も古く「磯宮」と
呼ばれ、神宮に仕える伊勢部は磯部とも呼ばれたとされる。物部氏系の神官にもいそべ姓があること
からすると、いそのかみの「いそ」にも⑨同様のニュアンスが含まれていないだろうか。
⑪「い」「う」の部分は「いや」「いよ」などの形(⑧参照)でもよいとすれば、
「いよさ」でも「汶率」類似系と見て良いことになる。「いよさ」の「い」を省略した形は「よさ」となるから、
京丹後市の「与謝」も関係しているのではないかという推察も可能である。
⑫「い」の部分は「いね」「いに」でもよいとも思われるので、そうだとすれば
「いにそ」も「汶率」類似系と見て良いことになる。
「汶率」は「みたまの居ます場所」という意味で捉えることが可能であり、必ずしも大きな神社でなく
てよく、みたまは祖先の霊でも当然かまわないはずである。
そして、「いにそ」の「い」を省略した形は「にそ」となるところ、
民俗学上著名な祭祀場所である福井県の「ニソの杜」が想起される。
「ニソの杜」は(祭祀の伝統が失われつつあるともされるが)
二十四名の開拓先祖を祀ると伝承される聖地で、三十数か所に点在している。
民俗学者の柳田国男も注目した、学問的には有名なスポットとされる。
「ニソ」の語源として 十一月二十三日に祭礼を行うことから二十三(ニジュウソウ)と呼ばれ、ニジュウソウ
が縮まってニソとなったと解する有力説があるが、本稿では否定に解したい。
そもそも、ニソの杜は先祖を埋葬した古いサンマイ(埋葬地)であるという古老の話もあるとされる。
(注-a)
ニジュウソウという言い方自体は確かに小さな祠等の行事の名として播磨辺にも存在するようだが、
(旧暦)十一月二十三日自体は一種の冬至系の祭り日としてしばしば一般に設定されている日付であり、
そもそも、ニソの杜の場合のような、祖先の祭祀場として大切にされている場所が当該日付の名で呼ばれる
のも妙である。
先祖の墓域という側面もあることを考えたとき、サンマイとは他地方のニサンザイ等と類似した語で
あることが想起される。
それゆえ、確かにニソの杜の祭礼日も十一月二十三日なのではあるが、ニソの杜の語源自体は数字の
二十三から来ているのではないと解したい(語呂合わせ的な誤解による混乱の可能性もあるか)。
○ 結語
以上のように、「汶率」に関連する名称・事物・施設等は日本に大いに息づいていると考えられる
のである(注-b)。
したがって、日本は東大古族の祭祀文化の象徴ともいえる神社の杜が豊富に残った国であり、
神子神孫文化の正統な保持者にふさわしい文化を営んでいるといえるのである。
以上
補注1 浜名氏の『東大古族言語大鑑』における汶率の解釈について
この書はむりやり和語を漢語の熟語に対応させたりという無理の目立つ書である。
例えば、浜名氏は『管子』に載る「釜区」という言葉に注目する。釜・区は数量の単位で、
釜は六斗四升、区はその四分の一の量をいうとされるが、袋に入れて取り扱った点に着目し、
「釜区」に語尾の「落」をつけて「釜区落」とした形が和語の「ふくろ」に相当するのだという
(同書p.202~p.203)。このような考えは採ることができない。
もっとも、当サイトの言語論で述べたような観点で採れるものがあれば採りたい所ではあるが、
そう簡単にはいかないという苦しさがある本である。l
この点、浜名氏は同書p.378~p.381で「汶率」を『書経』舜典の「文祖」に対応する語である
という。中国語で祖は廟と同義に使われるため、文祖はその一種で、三皇五帝の一人である
舜が前代の堯から帝位を受けたのが国の祖廟たる「文祖」においてであったというのが『書経』舜典
に載る話である。
その「文祖」を契丹古伝の「汶率」と対応させたのが浜名氏なのであって、面白いといえば面白いが
証明に成功したとは評価できまい。
浜名氏は①「文祖」「汶率」の両方に「モソ」のルビを振った上で、両者の類似性について論じ、さらに、②「汶率」の「汶(モ)」は
契丹古伝3章の「戞勃」の「勃」に相当すると
いう臆説を展開されている。②は東大古族語の単語同士の比較論として一見①よりは検討に値しそうではあるが、体裁上そのように解すると都合がよいといった程度の根拠薄弱なものなため本稿では採用していない。
(注-a)
おおい町立郷土資料館・編『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』おおい町教育委員会 2018年
p.40-p.41参照。その他ニソの杜については同報告書の他の部分も参照。
(注-b)
これに対し、朝鮮半島にはそのような要素が希薄であると思われる。それは神子神孫文化破壊者が半島で優位に立った
からであろう。
2025.2.27初稿
(c)東族古伝研究会