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倭、倭人の意味について(付・倭と委の話)

このページでは、日本古代史上登場する固有名詞「倭」「倭人」の語の意味について、契丹古伝の 記載を含め検討していく。




1、前提的確認事項

契丹古伝は、直接日本古代史を扱うものではないが、(意外にも)日本の成り立ちに密接に関連 しているというのが当サイトの意見である。
もっとも、契丹古伝の本文上そのことは見えにくい。 第7章には奈良時代末期の日本を訪問した渤海国使の著した文章が引用されており、日本の東大古族上 の位置を考える上で興味深いことは確かだが、直接日本古代史を扱ったものではない。

その他、解釈上争いのある論点の中で、解釈によっては日本と関係させられるものがある。
第5章と37章には「ムス氏」が登場するが、後者の37章が、解釈が複雑に分かれる問題の多い章である(37章の謎参照)ためムス氏については説が錯綜しており、日本との 関係性も論者によって異なる意見が出されている。

浜名説では、5章の牟須氏が太古からの日本列島内本宗家(天皇家)であり、高橋空山説では、牟須氏系の日馬辰沄氏(37章)が日女神で日本は この血統だとされる。
自説では、東表の牟須氏系は移動により早い時期に日本列島に入った古い有力東大古族の系統で あると捉えている(日本本宗家論参照。牟須氏系は朝廷が列島内に移る以前からの勢力となる)。それとは別に、本宗家 については牟須氏系との交渉・提携はあったと考える(契丹古伝の始祖神話と日本神話 その2契丹古伝の始祖神話と日本神話 その5参照)

佃收説では、牟須氏系のうち37章の賁弥辰沄氏と安冕辰沄氏が日本と関連し、前者は上海付近から 時間をかけて陸路で半島経由で3世紀に日本列島に入り卑弥呼と壹与を輩出し、後者は 陸路・半島経由ではあるがやや別ルートで紀元前2世紀に「天孫降臨」し、伊都国王家となり この子孫から神武天皇が出て九州から東征したとされる(関連文献欄参照)。

安部裕治氏の説では山東半島から陸路朝鮮半島へ時間をかけて移動した安冕辰沄氏(牟須氏系)が まだ半島に本拠を おいていた時期のある時点において 安冕辰沄氏による新天地の開拓として邇邇芸命が九州北部へ(弥生中期初頭に)降臨し、委奴国王(倭国王)の王家となったという。 (この後については関連文献欄参照。)


2、倭、ヤマト、日本

日本古代史において日本は中国から倭(ワ)と呼ばれていた。
卑弥呼も登場する魏志人伝(正確には三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝の倭人条) の「倭」である。そして卑弥呼の国と大和朝廷との関係の有無については、学者によって説が 分かれているが、いずれにせよ大和朝廷の国について古事記は倭と書いて「やまと」と読ませ、 それが日本全体を表す場合と今の奈良県にあたる地域を指す場合がある。
一方日本書紀においては日本と書いて「やまと」と読ませ、この表記の場合、日本全体を指すことが多い。 国史上、日本書紀系の表記が古事記より正式なものとして扱われることに留意されたい。
なお、朝廷所在地の奈良県地域については書紀で日本(やまと)と表記した例もあるが、大和の表記で「やまと」と読ませることが定着していった。
契丹古伝7章の「耶馬駘」は、渤海使が日本のことを宛て字で 表記したもので、当時日本国内では「日本」と書いて「やまと」と読ませていた時期にあたる。
記紀以外では、その後、大和という表記でも日本全体に関するものについて使用される場合も生じている (大和魂、大和撫子など。)
この大和は大倭の書き換えなので、 和風、和室というときの「和」も「倭」の書き換え表現といえる。
 ※なお、旧唐書に関する論点もあるが本稿では省略した。

3、「倭(ワ)」の契丹古伝における不使用

この「倭(ワ)」という表現が中国から見ただけの表現という解釈は少数説であり、何らかの 自称であるとする意見が通説である。
ただし、「倭(ワ)」という表現は契丹古伝においては登場していない。

4、「倭(ワ)」の意味についての定説の不存在
「倭(ワ)」が自称としても、その意味については説が分かれており定説を見ていない。 たとえば、自分を意味する言葉で、「われ」と似たような意味と解する説もある(弘仁私記序参照)。 この問題について、本サイトにおいては契丹古伝を利用して解けないか以下検討してみたい。

5.「倭(ワ)」と「委」の狭間で

「倭(ワ)」の字は、古くは人偏を取って「委」と書かれることが日本の資料上も散見される。 たとえば法華義疏の「大委国」がそうだ(ただし九州王朝系の反対説がある)。 そもそも、万葉仮名でワの音を表す際、倭の他に委という形も併用されていることから、日本には委と書いて ワと読む習慣も存したようだ。(その理屈としてこれを倭の字の省略形と見たり、倭の字の本字と見たり、説はいろいろ である。古音残存の可能性もあろう。)
従って、委とあれば即「イ(旧かな遣いではヰ)」と読むのは、資料によっては禁物といえる。藤原京跡から出土した木簡 に「伊委之」の煮物を献上する旨記したものがあるが、「伊委之」はイワシであろう。

長々と書いてしまったようだが、契丹古伝との関係ではこのぐらいの前提知識も必要になる。
上記のことからすると、日本列島において、民族の自称として「倭」や「委」が古代に用いられた 時期があるが、それは共に「ワ」と読まれたことになろう。

そして、自説では、契丹古伝に時折登場する「委」はむしろ「イ」と読むべきで、倭人のワとは 区別すべきと考える。どういうことかというと、
契丹古伝8章に、
(現代語訳) | | | | | | | | | | | | | | は、名を列し、族をつらねている。
その名称の由来を尋ねると、みな秦率旦阿祺毗 | すさなあきひにちなむものである。
 
とある。
ここでは契丹古伝でいう「阿祺毗 | あきひ」系諸部族の一覧が載せられているが、その趣旨は6章的な 類音類義性を有する部族の集合というにあろう。
そうだとすると、部族名称の2文字目の「委」や「弭」は「イ」や、せいぜい「ニ」のような 近接音になりそうで、その観点から浜名氏は伯弭を「はい」と読み、「潘耶」まで「はい」 とルビを振っている(詳解p.65~p.66、遡源p.351~p.352参照)。
そして、7章を併せ考慮すれば、阿藝は、日本列島の本州島の名称「秋津島」とも関連することになる ことから浜名は「阿藝」を日本と関連づけている。
とすると、日本列島の古い民族自称「倭(ワ)」と「阿藝」の一文字目の「阿(ア)」が対比されうる ことにならないか。「潢弭」の一文字目の「潢(ワ)」とも対比できよう。
契丹古伝上、淮委が単に淮とも表記されることをも考慮すれば、
①民族自称「倭(ワ)」は、結局、二文字目を省略した形であるところの、 「阿」「潢」「伯」などど横並びの、類似民族名表記と考えられる。
一方、②央委・陽委・淮委のそれぞれの二文字目の「委」は、「倭(ワ)」と別の、「弭」「耶」に 近い語尾成分で、省略可能なものということになる。
浜名氏も、 「我が族称はアキ又はアイまたはワイ」(遡源p.163)、「阿藝は即 | また | わいなれば」(遡源p.165)、 「ワイはアキにて。共に同一族称である。 | これを漢字に | って | あらわ せば二者共に倭でありまた 和であるが・・」(詳解p.67、遡源p.353)
と述べているので、同じような対比を考慮していると考えられる。

6、「倭」という言葉の契丹古伝的に解釈

結局、「倭」という言葉を契丹古伝的に解釈すれば、「阿祺毗」(8章・20章参照)系諸部族によく見られる「アキ」「ワニ」系の名称の 一つで、8章・20章の表現を借りれば、阿祺毗という東大古族語をもって族称としていることに なるわけである。(8章・20章には阿祺毗についての記載があるので、比較すると興味深い。)

7、付・語尾成分の「委(イ)」について

本稿の5、の①②を踏まえれば、倭人の倭(ワ)とは、阿祺毗系族名の一文字目要素で族名の中核をなす部分に相当し、
一方契丹古伝上の「委(イ)」は、族名の二文字目要素で語尾成分である。
後者は「弭」「耶」とも相通じるはずだが、その意味は何なのであろうか。
改めて今度は20章を見てみよう。阿祺毗系の種族として、8章と微かに用字は異なるが 阿靳・泱委・淮委・潢耳などの二文字名部族名が見える。
一方太祺毗系は、嶽(=伯)・姜・濮・高などの一文字名部族となっているが、姜・濮・高などが 「諸」と総称されている。これは、姜委・濮委・高委とも表記しうるということを 示唆しており、ここにも委は二文字目要素的な成分として使われていると見ることが可能である。

そして、20章の最後の箇所で、20章の各部族を総称して「夷」と称するという話が説かれている 点にも注目される。
「○委」のように、語尾が委(イ)でおわる部族名が多いことも考慮すると、 「委(イ)」=「夷」の関係が成り立つのではないかと思われるので以下検討する。

①そもそも、殷朝が周に敗れてしまう23章の場面で「東委はことごとくすたれた」と記されているが、 「東委」とは、東族(東大古族)を指すはずで、「東委」=「東夷」といえるのではないか。
②上で登場した太祺毗系部族の内、高(=高委)は、中国の歴史上の「高夷」に該当すると思われる (浜名説も同じ。)

以上から、やはり「委(イ)」=「夷」の関係が成り立つと考える。
因みに、殷朝の「殷」は、通説的には①意味としては「夷」の義で、②あくまでも周からの蔑称だとされる。
契丹古伝的には、①は採用可能である。②については採ることができず、20章末尾にあるように、「夷」という言葉は 「神の伊尼」なる意味を表す語、もしくはその概念に因むいい方ということになる。すなわち、東族側の語で何らかの神聖な美称という ことになる。

8、付録: 委を倭人と同視する説について

以上のことからすれば、契丹古伝上は委=夷=東委=東夷となるから、東族の総称となる 。これは阿祺毗系・暘霊毗系・寧祺毗系・太祺毗系の部族を含む。
一方いわゆる倭人は、阿祺毗系(の一部)を指すことになるから、より狭い概念となろう。 よって「契丹古伝中の委」=「倭人」とはいえない。
ちなみに鳥越憲三郎氏の「倭族」概念の場合、大陸の諸族をも含むため、前者の「契丹古伝中の | 」 に近い概念といえるかもしれない。文字に捉われず、論者の定義内容を良く観察して理解する必要があると思われる。
浜名遡源p.472(詳解p.186)において委と倭とを同列において解している部分 、また遡源p.281において倭と夷とは字形の差に過ぎず自称として区別がないとしている部分 が見られる。この点については本稿の内容に照らすと妥当性を欠くことになろう。

以上。


2025.2.27初稿 2025.3.1補記

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