★ブラウザのキャッシュ機能のため古いページが読みこまれてしまいがちです。
再読み込み(f5など)をかけるか、それでもだめな場合は設定からキャッシュをクリアして
見てください。(特に注釈のページなど。)
✽一部誤記など(随時)訂正しています。できるだけ最新版をお読み下さい。
※本ページは「37章の謎その1」「37章の謎その2・40章の謎その1」「37章の謎その3・40章の謎その2」
「37章の謎その4・40章の謎その3」「37章の謎その5・40章の謎その4」の続きです。必ず前5稿をお読みの上でこちらをお読み下さい。
※執筆時間の制約などからページの分量のバランスが調整できていません。読み辛いかもしれないことを
おことわりしておきます。
ただし当サイトのコンテンツ内における重要度としては本来極めて高いものとなります。
それゆえ改変しての紹介その他、本稿の趣旨をゆがめるような解釈をしないようお願いします。慎重に御読みください。
(イントロダクション)
前稿では、記紀の任那伝説について、朝廷の移転と関連すると読むべきことを
論じ、その後に姫君の呼称について改めてリストアップした。
前稿で、任那伝説については、γエリア内で本来流布されたバージョンが
あることを論じ、そのために姫君や夫君が新羅系(ハタレ系)と誤解されやすい
状況にあることも論じた。
しかし天日槍については、愛国的な史観で知られた学者の中にも大和朝廷と
の親縁性を説く例もある。
また古代の外交史、外交関係処置的なものを紐解くと、姫君の存在が
日本の神として実は重んじられているのではないかという様子が窺えてくる。
γ系と片づけるわけにもいかない一部祭祀者が、むしろその祭祀に
関係している可能性も出てくる。
このような事情についての検討を通じて、相当強固なものがあると
思われる上記「誤解」について、より適切な理解をして頂き、本稿全体の
把握に繋げて頂ければ幸いである。
姫の呼称のリスト内の重要性からみた比重としては軽量となるべきとも思えるが、
上記のような観点から特に本稿を追加することとした。
✽一部誤記など訂正して
(本文)
○姫君の呼称
前稿の末で、姫君の呼称において
本稿の内容を反映させると、暫定的に次のように考えておきたい。
万幡豊秋津姫
=オグラ姫(大倉姫)=アカル姫
=栲幡千千姫万幡姫 =シタテル姫
=
万幡豊秋
津師比賣
=γ系のヒメコソ神=雲櫛命(延喜式神名帳秘釈で大倉姫の別名)
=孝霊帝皇女 倭迹迹日百襲姫もしくは倭迹迹稚屋姫
=イカガシコメ命=40章の姫君
=万幡姫(日本書紀神代巻第九段第二の一書)=アユミテルメ(『ほつまつたゑ』で、オグラ姫の別名の一)=鳥鳴海神(古事記「十七世」参照)
と書いた。
この点については本論で理由を付してきたところではある。
ただ、一見奇妙で一般的でないと思われてしまう箇所が所々にあると
感じられるかもしれない。
であるので、念のため若干補強させていただきたい。
40章の姫君はさまざまな呼称で多くの部族から慕われてきたはずである。
今 整理のためそのいくつか(ただし全部ではない)を箇条書きしてみる。
本録(神代)
A高皇産霊尊女 万幡豊秋津師比賣
(栲幡千千姫万幡姫)
B1大国主神女 下照姫(=大倉姫、雲櫛命)[『ほつまつたゑ』ではアマクニタマ(天国玉)の子]
B2大国主神子 鳥鳴海神
C天日槍の妻 アカルヒメ(=ヒメコソ神)
再録
D孝霊帝皇女 倭迹迹日百襲姫もしくは倭迹迹稚屋姫
E孝元帝皇妃・開化帝皇后 伊香色謎命
これらABCDEについてこれまでも論じてきたが、その中で
Cについては、内容的に違和感を感じた方も
多いかもしれない。
「A(天忍穂耳尊の后)」「D」「E(孝元妃、開化皇后)」については
入内を含めて)皇族的存在と理解することが容易である。
それに比べるとBは通常の理解では出雲の姫、Cは新羅系渡来人となるため
異質感がある。
しかもCについては前稿で初めて40章の姫君にあたることを論じた。
(なおEは37章の謎その2のこの部分
・Dは37章の謎その2のこの部分
・Aは37章の謎その2のこの部分
B1は37章の謎その4のこの部分
・B2は37章の謎その3(十七世)⑤で既出。)
その意味で、Cについてはまだまだ手厚い説明が必要と感じてはおり、
以下補足する。
そもそも、前項で論じたように天日槍も本宗家の主が保有できる「日孫系称号」
であるが、この点「天日槍=新羅」のイメージが災いして、納得できないという方も
まだまだおられそうだ。
一般的には「記紀のアメノヒボコ」と「筑前国風土記逸文のヒボコ」の両方を新羅系とし
「蔚山」降臨系と捉える学説が極めて多いからである。
このことは前項で反論しておいたが、若干追加しておきたい。
ヒボコを新羅系とするには難があるとする皇學館大學名誉教授の故・田中卓氏の説
は、上記通説とは異なるもので興味深い点がある。
学者らしい一見曖昧性のある表現であるが、実質的にそのような趣旨を述べられているのである。
(具体的には注参照)。
ただし、自説と異なり垂仁天皇朝に来朝したヒボコとイト県主祖のヒボコは同一人と捉える。
その上で、前者の(記紀の)アメノヒボコは「新羅では難があるので広く朝鮮と考える」
という扱いになる(注参照)。
教授のこの考えは、通説が筑前風土記のヒボコを新羅にするために高麗をむりやり広く「朝鮮」と
解して新羅が含まれるようにする手法と比べ、真逆の要素が強い処理といえる。
もっとも朝鮮の定義などについては不明確性等の点で問題がないわけではないと解される。
その上で教授は、ヤマト朝廷ももともと九州より東征したもので、イト国のヒボコは
遅れて同族を頼って移動したという趣旨を述べられる(注参照)。
慎重な言い回しではあるが、ヒボコの勢力も朝廷とほぼ同族関係にあるように
読める書き方である(詳細は上記注を参照されたい)。
当然ながら自説の方が朝廷とヒボコとの関連性の程度が高くなる点その他自説とは相当
差異が存するものの、ヒボコが異質な存在でないという点において
教授の説は貴重な示唆に富むものといえそうである。
さらに、「元来同族というべき関係にある勢力(群)」が決して日本列島内のみの発祥と
はいえないことになるはずであり、遠回しではあるが重要なことを述べられている
ように解される。
皇国史観で知られた教授の説であるだけに、印象深く感じられる
(教授は記紀と異なり、ヒボコについて「ヒボコノ命」と「命」を付した名称を
一貫して使用されていることにも留意される[播磨国風土記には見られる表現である。なお、本稿著述者としては原則記紀に準拠している。])。
○アメノヒボコとアカルヒメ──ヒメコソ系祭祀の謎
古事記における天之日矛は、アカルヒメを追って日本列島へ入ったことになっている。
前稿で見たように、古事記バージョンの同説話は若干粗野なもので、γエリアやその近辺で流布されたものが原型ではないかと思われる。
ヒボコの行為もどこか横柄な態様でなされたこととされているが、婉曲描写目的との適合性を増加させるための
意図的な脚色の可能性もあると思われる。
実際には夫婦間に御子が生まれていないということは考え難いであろう。
ただ「難波の比売碁曽の社にます阿加留比売神」と『古事記』に明記されているところから、
姫のヒメコソ系祭祀(特に大阪方面)が問題となる。
もちろん大阪に限られないが、ヒメコソ系神社は大阪に数社あり、
いずれも「新羅系・渡来系」という目で見られており、自治体の説明板もそのように
書かれていることが普通となっている。
ただこれは自説からすれば、姫が広汎な権利を保有していたために
γエリアの利害とも関わりがあり、同エリアから避難・移住してきた東大神族
はヒメコソという名を使用する傾向が強かったに過ぎないと考える。
それは祭祀形態がγ風であるだけで、祭られている姫は40章の姫であると考えたい。
ところで姫が広汎な権利を保有する中で、βエリアの狗奴系王権の権利、つまり孝安天皇
系の権利も関係してくる。もちろん夫である孝元天皇の権利と構成するとしたとしても、
姫は「(狗奴系)出雲」の姫としての側面を有することは当然である。
それゆえ記紀において出雲系の姫として登場する「下照姫」も
40章の姫として不自然なことはなく、そのことは37章の謎その4で
『ほつまつたゑ』を用いながら言及済みである(『ほつまつたゑ』の場合
シタテル姫はアメワカヒコと同じ非出雲系系統となる)。
細部についてはなお詰める必要があるかもしれないが、実は、
阿加留比売=下照姫と捉えれば神社の祭祀の理解が容易となる。
というのも、
大阪には複数の「ヒメコソ神社」があるが祭神が下照姫とされている場合があり、
通常はこれを「祭神の混同」「誤り」「和風別神への入れ替え」等と説明して済ませているという実態があるところ、
自説からはそれはむしろ、別名による祭祀の一種であるといえるため大きな問題には
ならないということになるからである。
(大阪市東成区東小橋の比売許曽神社の祭神は下照比売命であり、
大阪市中央区高津の高津宮神社摂社の比売許曽神社の祭神も下照姫命である。)
(なお、下照姫にはβ系由来の(非ヒメコソ系)祭祀というものも勿論別途存する
わけであるが、本稿の論述内に限っては付随的言及に留めておきたい。)
引き続きヒメコソ神(アカル姫)祭祀について検討してゆきたい。
神社の祭祀については既存の神社系サイトも老舗サイトを含め複数存在しており、
そちらでも深い考察がなされている場合があることと拝されるが、
本稿の目的として、40章の姫であることを検討する必要があるため、本稿内で
それらのサイトと性質上類似した記述が現出したとしてもご容赦賜りたいとは思う。
『日本書紀』によれば、
舒明天皇四(632)年、唐から来た使節を館舎に安置し、即日 神酒を給したと記録している。
一見、神酒でもてなしているようであるが、
新羅からの使節の場合でも給酒は行われたようである。
その趣旨であるが、
使節の処遇について定めた『延喜式』玄蕃寮の中に注目すべき記載がある。
『延喜式』は平安時代の律令の施行細則で時代的には下るが、そのなかで新羅使節の入朝に対し
次のように定められている点は興味深いものである。
凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、大和国 賀茂・意富・纏向・倭文四社、
河内国 恩智一社、和泉国 安那志一社、摂津国 住地・伊佐具 二社 各卅束、合二百卌束 送 住道社、
大和国 片岡 一社、摂津国 広田・生田・長田 三社 各五十束、合二百束 送 生田社、
並 令神部造、差 中臣 一人、充給酒使、
醸 生田社 酒者、於敏売崎 給之、
醸 住道社 酒者、於難波館 給之。
現代語訳:(*印は整理のため便宜上付したもの。{ }内も訳者が付加したもの。太字強調も同様。)
新羅からの使節で朝廷に参内する者には全て、神酒を給することとする。その酒を醸造するための稲は、
大和国の賀茂・意富・纏向・倭文の四つの神社、河内国の恩智神社一社、和泉国の安那志の社 一社、
摂津国の住道・伊佐具の二神社、各三十束、合計二百四十束を {(摂津の)}住道*の神社に送り、
大和国の片岡の社 一社、摂津国の広田・生田・長田の三神社、各五十束、合計二百束を 生田の神社に送り、
その上で神部造に命じ 中臣**一人を派遣させて酒を給する使いとし、
生田の神社で醸造した酒は、敏売の崎{[現・神戸市灘区内、]}で{(入国使節に)}給し、
住道の神社で醸造した酒は、難波館で{(入国使節に)}給するものとする。
この『延喜式』玄蕃寮の規定について、
日本法制史に精通し、特に律令時代の都城制や儀礼等について詳しい
明治大学の鍋田一氏は次のように述べる(唐使の入朝について論じる文章の一部)。
このような{給酒に関する}詳細な規定は後代に整えられたものであるにせよ、{七世紀前半の場合についても}参照することができよう。
給酒の記載は、それが儀礼化したことの嚆矢であることを示すものかもしれない。
神酒は、瀧川{政次郎}博士が
{「七世紀の東亜の変局と日本書紀」(『日本書紀研究 第6冊』塙書房 所収)において}
指摘されたように、「蕃国の使人の心を和げる咒力を持った酒」であり、使客がもたらした汚穢を祓除するカをもつと考えられていた。
交通上の一地点を劃して、旅人に附着した汚穢
が一定地域内に侵入することを阻止しようとする方策は古くからおこなわれていたであろうが、神酒
のもつ力に注目して、儀礼として整えられ、賓礼の一部に加えられたと考えられる。
(鍋田一 「都城と儀礼(II)」『明治大学 社会科学研究所紀要』25巻第2号 1987年3月 p.6
太字強調は引用者による。{ }内は引用者による補足)
ここで新羅からの使節は瀬戸内海を通過する際、前もって特別に醸造しておかれた神酒を今の神戸市灘区内で
飲み、さらに上陸後まもなく摂津(大阪)で神酒を飲むこととなり、それから京(平安京。奈良時代は奈良県内の京)への道を
進むことになっていたことがわかる。
その神酒の製造手続きが非常に複雑であり、特に摂津の住道社に各所から神稲が集められて醸造する
という厳格さは印象に残る(住道は昔は「すむぢ」、今「すんぢ」と読む)。
この住道社という名の神社は複数あり、上記で*印を付した神社(酒を醸造する神社)は神須牟地神社
(または中臣須牟地神社)とされる。
また上記で**を付した「中臣」の使者「一人」は中臣須牟地神社の者が担当し、難波館へ出向いて酒を給したという。
ここで住道社という名の神社が重要な役割を担っていることが察せられるが、この住道社群は磯歯津道にそって設置されたといわれる。
磯歯津道とは、大阪の住吉大社からほぼ真東に進む道で、雄略天皇の時に渡来人通行用に設置されたともされる。
渡来者はもともと住吉大社経由、住道社系の神社に連れて行かれ神酒を飲んでから
さらに東(現奈良県内の京)を目指したのだという。
鍋田一教授の述べられた趣旨を敷衍すると、磯歯津道沿いの「住道社系神社群」自体に
も「祓除」カがあると考えられていたのではなかろうか。
真弓常忠氏によると、難波館(引用者注・外国からの使節が日本到着後、しばらく滞在する館舎で、朝廷へ参内する日まではそこに留まるという
運用が当時なされていた)ができた後は(難波館が磯歯津道よりはるかに北方にあるため)
中臣須牟地神社からの使者が難波館で外客に給する際に比較的近くにある比賣語曾神社への神酒の奉納
も伴ったと考えられるという。
そして、難波館ができる前は(磯歯津道のライン上の)喜連という地で(中臣須牟地神社の者が)外客に酒を給したと
考えられ、その際、付近にある赤留比賣命神社への神酒の奉納も伴ったと考えられる旨を述べられる
(『式内社調査報告 第5巻』 p.272-p.273)。
この「住道(須牟地)社系神社群」は住吉大社とも深く関係するとされ、
『住吉大社神代記』
(「住吉大社神代記」
((江戸時代の写)『攝津徴書』所収)
国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553305/1/8)
には、(住吉大神の)「子神(=末社・分社。
住吉大社の場合、祭神が全く同一のものも含まれる。祭神の御子の祀られる場所という意味ではないと解されている
)」として、次のような記載がある
(アルファベットは整理の都合上付加したもの)。
(略)a中臣住道神 須牟地 b住道神 c須牟地曽根神 d住道神
(中略=この住道神が天平元年に河内国丹治比郡の楯原里に移り住道里住道神と
呼ばれたという注記がある。注記の解釈に争いあり。詳細はこちらの注(楯原の神社について)を参照)
eの赤留比賣命神の後にある二神は赤留比賣命神に対する「説明」に当たる注釈なので、最も率直に
解すれば赤留比賣命神と同一神となってしまう不思議さがある。それは極端にすぎるということであれば、
一緒に祀られている神の情報ということになるだろうか。
この点真弓常忠氏は、***(中臣須牟地神 草津神の)両神は赤留比賣命神の祭祀に何らかの形で関与
したものというべきであろうとされる(『式内社調査報告 第5巻』p.272)が一応の推定に留まる。
この赤留比賣命神が多少の移動はあるにせよ「磯歯津道」上に「赤留比売命神社」として存在して
いることには留意される。
この赤留比売命神社は自治体等の説明によれば「渡来人のための神社で、渡来人をまつったもの」
ということになる一方、その他の「住道(須牟地)社系神社群」は「純粋のヤマトの祭神を祀った神社」
とされており、両者のギャップが著しい。
確かに一般的に前者は新羅系の女神として、数奇の目で見られやすいという事実はある。
しかし、新羅からの使節たちを対象に、「磯歯津道」上の「住道(須牟地)社系神社群」で「祓除作業」を
行うという趣旨からすれば、その途中に新羅系女神が鎮座していると逆効果になってしまうのでは
ないだろうか。
真弓氏による上記***の説明の趣旨をさらに拡張すると、中臣須牟地神その他の「住道社系神社群」に
「赤留比売命神社(三十歩
神社)」も含まれる、もしくはそれと同視しうる扱いであると見た方が自然ではないかと
思われる(注も参照)。
これらの神社はすべて、「態勢立て直し」の国難にあたって苦労された方々を清らかにお祀りしていると
捉えることができないだろうか。
「そのような方々に対して顔向け出来ない人々」は、その神威にいやおうもなく「祓除」される、
と考えてみるとしたら・・・。
(ちなみに、その「人々」が清らかな神々を「自分たちと同族」と勘違いし「イベントに狂奔」する類
の行為に走るという事象が(べつの場所で)発生すれば悲劇といえよう。
一方、「神子神孫文化に満ちた方々」が(ご当地)イベントを開催するならば麗しいこととなると
思われる。)
上記aは、現・中臣須牟地神社にあたり、 ご祭神は
中臣須牟地神 (配祀)神須牟地神、須牟地曽根神、住吉大神
とされている。
神社名を祭神とされているためその実態に争いがあるが、神社側では
「中臣連
の祖先が相伝えて祀り来った住道神・中臣氏の祖先」と公表されているという(『式内社調査報告 第5巻』p.248)。
民間の説としては、天児屋根命もしくはその孫ではないかとする説もある。
上記bは、現・神須牟地神社にあたり、 ご祭神は
主神: 神産霊大神、
手力雄命、天児屋根命
相殿: 天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命
追祀: 少名彦命、素盞嗚命、住吉大神
とされる。
この神社は約二千年昔の鎮座であると自称されている。
ご祭神についての解釈はさまざまだが、以下若干検討する。
(主神について)
・神産霊神は古事記の天地開闢時出現神の第三として知られているが
この名称には他の神を表す時にも用いられるという汎称的側面がある。それゆえ
やや抽象的な神名表示といえよう。
・天児屋根命は中臣の関連として特に疑問視されていない。
・手力雄命は岩戸開きの神であるが、一般的解釈として、祭神とする理由は不明とされるのが通常か。
(追祀の神について)
・少名彦命は酒の神ともされるので、神酒の醸造と関係すると捉える向きもあるがその捉え方が正しいかどうか
はまた別問題である。
ちなみにaの神社からみたbの主祭神として、江戸時代になる『叢社記』は
「(現代語訳)神須牟地神社というものは、中臣{須牟地神社}の西にあたる天神山という所にあり~」
とした上で、その天神山からさらに遠く離れた、少彦名神をまつる神社との本末関係を説いている。
・素盞嗚命について。「住道首」という氏族がかつて素盞嗚命の子孫を自称していたが真偽不明として「未定雑姓」扱いで
姓氏録に記載されており、その線で説明されることがあるが、「住道首」が誇称している可能性も考慮し、理由づけは
慎重になされるべきであろう。
(相殿の神について)
・天日鷲命は、境外末社の多米神社の祭神と説明されるが、
多米神社には多米神社の御祭神があるため、慎重に判断すべきであろう。
(そちらも天日鷲命とする説もあるが、現在の公式ページでは同命の代わりに神和稚魂神が記載されている)
・ただし宇賀魂命も多米神社の御祭神に含まれてはいる。
・大己貴命は少名彦命と共に医薬祖神とされるのは確かだが、なぜ少名彦命と扱いが別なのか
などの点を含めなお慎重に判断すべき必要があると解される。
以上のようにbの神社は祭神数が多いが、本来同じ神の別側面が別名で祀られている場合も一部含まれているのかもしれない。
しかし年月の経過とともに霞のベールに包まれて漂う感じとなるのもまた日本的ではなかろうか。
上記cは、現・須牟地曽根神社にあたり、 ご祭神は
主神: 須牟地曽根命
合祀: 勝手大明神、毘沙門天
とされる。
神社名がそのまま祭神とされているために、その意味合いは不明である。
上記d(住道神)は、一般的には祭神不明とされる。aやbの元地説もあるが、eの可能性もあろう。
以上のように、住道系の神社は概して非常に古い神々をまつっており、これが
「磯歯津道」ロードを進む外国使に対する一定の「祓除」効果を有する神々ということになるのではないかとも
思え興味深い。
ちなみにこの一帯(やや南より)に (上記で採りあげた[a.b.c.eの]神社同様、延喜式内社として記録されている)「阿麻美許曽神社」があり、祭神はヤマトの神々である。
だが、社名が「ヒメコソ」と似ていることから、俗に、実は渡来系で、祭神は見せかけではないかと
疑われることがある。
そもそも、古い神社の場合祭神が不明に近くなる場合があり、その場合神社名から類推して祭神を
設定することがあるのは確かである。
しかし、だからといって、それ以外の場合にまで祭神を安易に疑うことは危険であろう。
多くの場合、多少のズレがあっても、関連する神々や同名異神をまつっている場合も多い。
そもそも、「態勢立て直し」の時は多くの方々が海を渡ったのであり、
それが日本の主力であるというのが本稿の趣旨である。
後に付与されたイメージで神社を見ると、歴史認識が歪んだものになるように思われる。
ヒメコソと似ているから、というのは、むしろ何かの良い手がかりを得る手段として利用するという
逆転の発想が必要であると考える。
もっとも、ほとんどの神社は悠久の昔の方々を御祭神として鎮まっており、多くを語らない。
「阿麻美許曽神社」の祭神も、素盞嗚尊・天児屋根命・事代主命 とされている。
しかし中臣系の御祭神が含まれており、中臣須牟地神社とも比較的近い距離に立地していることからも、
不自然でない御祭神といえる。
ただし学説上は祭神について疑う向きが多く、現地の国造系の氏族の神社では
ないかとして物部系あるいは天津彦根命系と捉えてみたり、依羅連
という古代氏族の関連の神社とした上で、その祖先の誰か(神代より後の人物)をまつったものとする(物部系であったり百済系であったり)。
ただ周辺の神社の状況をふまえると、本当にそれでよいのかと、思われてならない。祭神の矮小化ではないのかと。
同神社は東住吉区に属するが、南に隣接する(松原市)天美の地名が同神社に由来する等の関係で、
同社の南にある神社を含めて松原市が「開運松原六社祭り」を開催したりされている。
自分は未だ現地を訪れたことはないが、そのような周辺の神社を含めて選り好みせず探索したときに、
神社のありさまがより適切に看取される場合がある、ということはいえるかもしれない。
もちろん、はっきりとした答えが得られるというものでもないので、何となく雰囲気を心に留めておくような
ことになるとは思われるのだが。
(ちなみに勝手にリンクしてしまい恐縮ではあるが、
「開運松原六社祭り」はこのような感じである。[アクセスできない場合https://web.archive.org/web/20250504112146/https://www.m-syoren.org/archives/3640
をブラウザのurl欄に直接張り付けての閲覧を試みられたい]
神社についての検討において、神社によって長短が生じてしまっているが、論述の流れで
たまたまそうなってしまったものと御諒解いただきたい。
どこかヒメコソ神の検討から遠ざかってしまったように一見みえる形とはなってしまったが、
古代の状況はこのように若干拡張した検討の中からしか見えてこないように思われる。
アカル姫ノ命、そしてアメノヒボコノ命の物語が、複雑な経緯で矮小化されたかもしれないという点について、
深く検討してみる必要はあるかもしれない。
本稿では、40章の姫君の呼び方ABCDEのうち、
Cのアカルヒメに関して主に検討した。
もちろん A・D・E・Bの方々もCとは比較にならないほど世に知られている名前であり
語りつくすことはできないほどと思われる。
祭祀もAの御方については各所で麗しく行われていることと拝される。
ただ本稿では読者の皆様の疑問解消につとめるべく、Cの検討を中心としたまでである。
ご愛読頂き感謝申し上げる。
2025.05.09初稿
2025.05.15訂正・微調整
(c)東族古伝研究会