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「清悠の気の凝る所」の解釈について



ここで論じる内容は、とらえようによっては、細かい意見の差に過ぎないということにも なるので、本来今掲載する予定はなかったのであるが、契丹古伝を読み始めたころから検討していた なつかしい論点ではある。
やはり重要なものが潜んでいるとは思われる論点である。
ただ、細かい話なので、読むことを強くお勧めはしない。 ただ、資料として掲載して置く必要があるとは感じている。
先日軽い気持ちで、本文解説(2章)に短く追加した後で、誤解を避けるためには、この古い論点を 書く必要があると気付いたため、やむなく執筆したものである。
他にすべきことがあったのであるが・・・。


実は、この部分の浜名氏の解釈は、大雑把にいえば、さほど 問題はないともいえるかもしれないが、実は微妙な問題があり、解釈次第では大事 | おおごと になり得る。

ここでの中心は「清悠 | せいゆう | | | ところ」解釈問題である。

○「淸悠氣所凝」(清悠 | せいゆう | | | ところ)とは何か?

問題提起だけしてみたが、この答えを出すに至る理由づけは複雑なので後回しにし、 唐突だが答えだけ先に書いてしまうことにする。

それは「『清悠の気』が凝り固まったもの(=凝結物 | ぎょうけつぶつ)」という意味になる。

とりあえず、これが正しいことを前提として考えてみよう。

すると、その「凝り固まったもの」とは具体的に何かというのが次に問題になる。

漢文として成り立ちうることを前提に考えれば、候補は2つ考えられる。
一つは「辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼな」という、女神(日祖)のいる場所自体。
つまり「辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼな」=「『清悠の気』が凝り固まったもの」という解釈である(第一解釈)。
もう一つは、日孫がやどる端緒や様子をあらわすものという解釈(後述)である(第二解釈)。

さてここで、浜名説を振り返る。
浜名氏は、辰云珥素佐煩奈をのスを「清」、サを「白」 と解したが、これは 一つの案であり、確実な根拠のあるものではないといえる。
一方、氏は、スサナミコのスサも同様に「清」+「白」と解するのであるが、
こちらの方は理由として 清悠の気の凝る所の文言を挙げ、スサナミコは | せいの清なる方だから としている。[注-1]
常識的に考えると、素佐煩奈 | すさぼなの「スサ」とスサナミコの「スサ」は当然同じ意味になると思われるのである が、 もしそれらが「清白(波)」を意味するなら、清白な波も一種の「清悠の気」に近いので、 辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼな・清悠の気の凝結物・スサナミコと清悠関係のものが3つ連続してしまうことになる。
浜名氏のように、 「「清悠の気」だから「清白波ミコ」になる」というのであれば、 素佐煩奈 | すさぼなも、清悠の気のある所、にならないのだろうか。
とすると、 「辰云珥素佐煩奈自体が清悠の気の凝り固まったもの」としてしまった方が自然で分かりやすいことに なる。
後述のように、「清悠の気の凝る所」を「辰云珥素佐煩奈」内の一定の環境と読むのが難しいことから
すると、第一解釈を採れば、清らかな場所である辰云珥素佐煩奈で清らかな御子が誕生したとなり 一応つじつまがあう。

以上のように、「「清悠の気」だから「清白波ミコ」になる」という浜名氏の説を尊重しつつ再検討し、暫定的に 第一解釈を採ったのが本文ページの説明だということになる。

ただし、他にも成り立ちうる解釈(第二解釈) があり、自分としてはこちらの方が本命と考えているのでご紹介したい。


改めて「淸悠氣所凝(清悠の気の凝る所)とは何か?

(注意・以下の部分は、初心者向きではないし、何でそのようなことを検討する必要があるのか、 分からない方も多いと思う。しかしその理由の分かりやすい説明は控えさせていただき、洞察力の ある読者に期待して掲載するものである。また、本来、理解のためには下の説明の八分の一ぐらいの 説明で十分と思うのだが、稀に納得されない方が出現することを予想し分量が多めになっていることを 了解していただければと思う。)
そこで改めてこの語法の問題を検討し、その後で契丹古伝においてそれがどう影響するかを 記すことにする。

ここで使われている、「~の…する所」というのは、漢文ではよく出てくる表現で、一見解釈し易い 表現とも思える。(漢文上の表記は「~所…」または「~之所…」)
例えば、「政府所定方法」なら「政府の定むる所の方法」と読み下せるし、意味の理解も容易である。
この「 | ところ」は、英語の関係代名詞(whichなど)的な役割を果たし、場所という意味ではない。
ところが、ルール上、例外的に「場所」と訳すことになっている場合がある。 今回この例外が絡むために細かい話になってしまうことになる。
簡単に例外ルールをいうと、「…」が自動詞の場合は、この例外の方になるとされる [注-2]
そしてその場合の意味は、「~の…する場所」という意味になる。
「所」が、場所という意味になってしまうところがポイントである。


以上のルールを単純適用すると、「清悠の気の凝る所」はどうなるか。
1.「凝る」は自動詞である⇒例外ルール適用
2.凝るの意味は? 漢和辞典によると、「ひと所にじっと停滞する」[注-3]「凝結する」[注ー4] などの意味が ある。仮に前者の「停滞する」を採用してみよう。
3.1・2より、「『清悠の気』の停滞する場所」という解釈が得られる。
一見、これでもよさそうだ。
ところが、実はそれでは済まない。

「~の凝る所」(漢文だと「~所凝」または「~之所凝」)の場合、ほとんど ~が凝結してできたもの、つまりいわば凝結物という意味になる。~が停滞する場所、という解釈とは 微妙にニュアンスが異なることがおわかりだろうか。
近いといえば近いが、何かが異なるのである。

例えば (『荘子』の注釈書の一つである)『南華真経新伝』 巻之五の
天者一気之所凝
は、天は一つの気が凝り固まってできたものである。という意味である。

また、『端溪硯史』に見られるような高級な | すずりについてこれを「清らかな水の凝り固まったもの」とする概念 があるが、これを説明するのに「水肪之所凝也」という表現を使ったりするのである。

さらにそもそも、冰(=氷)を「水之所凝」(水の凝り固まったもの)とも表現する。
もちろんこれは水が滞留している場所という意味ではありえない。 水の凝固が発生する場所、でもないのである。

なぜそうなのか、なぜ前記のルール適用の通りにならないのかということだが、
まず、①凝の意味は、白川氏も指摘されているように凝結の意味で用いられることが多い[注-4]

②以下、やや専門的な話になってしまう。(理解できる範囲でお読みいただければ大丈夫である。)
「~の…する所」(漢文表記:「~(之)所…」)の、原則ルールで「…」の部分は他動詞なのだが、 この他動詞のところには、本質的には他の品詞のものであっても無理やり他動詞扱いにして入れることができる という漢文特有の落とし穴があるのである。
例えば急(緊急の、大切な、の意味の形容詞)を転用すると  「人(之)所急」(人の急にするところ)という言い方で「人が(それに対して)大切と 思っているところのもの」という意味を表すことができる。
この関係で、「~の | る所」(漢文:「~所凝」または「~之所凝」)の「凝」もまた、特殊な[注-5] 他動詞として扱われていると見ることができると考えられる。そうなると、例外ルールを適用 する必要がないことになる。[注-6]

以上より、「清悠の気の凝る所」は、「『清悠の気』の停滞する場所」ではなく 「『清悠の気』が凝り固まってできたもの」を意味すると思われる。ここが重要な点である。

もちろん、どうしても例外ルールで解釈したいというのであれば、 限定的に認められなくもない。つまり、「氷が『水之所凝』である」というとき、 氷は水の凝り固まる場所、というと少しおかしいが、水の凝りかたまったところ、といえば 一応分からなくもない。
つまりここでの「ところ」とは、凝結物が存在する当該スポットを さすので、限りなく凝結物自体に近いのである。

要するに「~(之)所凝」というとき、それは~が凝結してできた凝結物(あるいは滞留物) を意味し、またはせいぜいその凝結物が存在するスポットをさすことになる。
凝結が起きる環境(例えば水蒸気の凝結でいえば、気温の関係で水蒸気が凝結して露になる状態が観察される場所)のように解すると誤りとなる。

第一解釈ではそのスポットを辰云珥素佐煩奈(女神の沐浴の地)自体と解した。
その場合は、凝結して生成したもの=女神の沐浴の地そのもの(全体)となる。
しかし、浜名説にこだわらなければ別解釈(第二解釈)がありうる。

○清悠の気の凝結からスサナミコが受胎した

この第二解釈では、「清悠の気の凝結」の直後に「主語」として「日孫」がある点を重視し、 両者に密接な関係があると考える。

すると具体的には、次の2種類の解釈が考えられるのである。

まず、「清悠の気の凝る所」の後に「に」「より」を補って(漢文としてありうる語法)、 「"『清悠の気』が凝り固まってできたもの"において、受胎が発生した」 等と読む解釈が考えられる。
この場合胎児の発生の前段階として何かの凝結が起き、そこから 受胎が生じた(日孫が生まれた)ということになるだろう。

この場合凝結は、胎児そのものとはいえないにしてもそれに密接した、胎児の組成に必要不可欠な 何かということになるかと思われる。

さらに別の解釈として、

「『清悠の気』が凝り固まってできたもの=日孫(胎児)そのもの」 という解釈がありうる。
「『清悠の気』が凝り固まってできたものである、日孫が、(阿乃沄翅報云戞霊明 | あのうしふうかるめ の胎内に)宿った」 と読めるのである。
(詳しくは、細かいので注-7に示す)。

いずれにしても、『清悠の気』の作用によってスサナミコの受胎が生じたという解釈になるが、 これが、いわゆる太陽男神説でいう日光感精とは微妙に違う何かを表すものとすれば、 非常に興味深い点である。
そのように思われるのだが、いかがであろうか。



なお、それ以外の解釈の可能性については注ー9を参照。

   以上

注-1
頌叙 | しょうじょ順瑳檀 | すさなは淸悠氣所凝、日孫内生とあって | せいの清なる神とされて居る、 | すなわ ちそのスサナは 清白波 | すさなであらねばならぬ
(浜名 溯源p.306, 詳解p.20)参照。
注-2 自動詞には目的語がないから、というのがその理由。
英語風にいえば、先行詞が立たないからということ(漢文では後行詞ともなる)。
同様な理由で、…が他動詞である場合でも、…の後にもともと目的語がしっかりつけられている場合は 同様に例外ルール適用とされる。

注-3
 ①ひと所にじっと停滞する②ひと所にじっと集まり止まる。かたまる
(藤堂明保 編 『学研漢和大字典』 学習研究社 1978年 p.129)
注-4
凝然として | ツエ | てて佇立 | チョリツしている形で、それを冰の凝結するさまに移して凝という。
氷雪霜露に関して用いることが多い
(白川静 新訂『字統』普及版 平凡社 2007年 p.212)

注-5 凝には「こらす」という他動詞がもともとあるが、 「清悠の気の凝る所」は「清悠の気が凝らしたところの別の何か」ではなく、 「~が凝り固まったところのもの」 の意味と思われるので、この「凝」は「凝り固まった結果~になる」のような特殊な他動詞とみなすということになる。
漢文の動詞の使用法はこんな風に融通無碍な面がある。(水凝冰、という言い方さえ有り得る)

注-6 このようなことからすれば、例外ルール(自動詞等の時は「場所の意味の『所』」になる) というのは、漢文訓読上の便宜上のルールに過ぎないようである。
このことと関係すると思われるものとして、例外ルールについて以下のような独特な説明をする本も 少し前に入手できたので参考までに掲載しておく。
■「所」の働きについて
(a)「所」の下の動詞が他動詞の場合。
◆「所」によって導かれる名詞句は、その他動詞の目的語を示す。
(中略)
(b)「所」の下の動詞が自動詞の場合。
◆「所」によって導かれる名詞句は、その自動詞の補語に相当するものを示す。
道之所存、師之所存也。
(兵庫県高等学校教育研究会国語部会編『漢文学習必携 三訂版』京都書房 2017年 p.123)
説明が独特だが、自動詞の補語に相当するというのは、他動詞の範囲を拡張的に考えた場合その目的語に あたるものといえる。~する場所、とは限らない。補語と捉えるにしてもその補語の範囲はかなり 広めにとられ得るものといえよう。


注-7

「~(之)所…」の通常ルールで、 政府所定方法は、政府の定めた方法という意味になるという原則に戻る。
これは、政府によって定められた方法とも訳せる。
そして
「~(之)所凝」も通常ルールの一種とすれば、
「清悠気所凝日孫内生」の原文を 「『清悠の気』が凝結してできた日孫」が「内生注-8した」
と読むことができ、 さらに
「『清悠の気』の凝結作用を受けて、日孫が内生した」とも読む余地も生じることになる (または"凝結作用を受けたものとして")。
(「~(之)所…、○○」の構文で、受け身の分詞構文風に読むこともあることを参照)。

注-8 内生

内生とは、体内や心の中で、ある物事が生じること、をいう。
従って、ここでは受胎の発生と解釈することが可能である。

注ー9 本文では第一解釈と第二解釈を示したが、それ以外の解釈はありうるだろうか。

『清悠の気の凝る所』は、日孫受胎の周辺環境などではなく、清悠の気の塊そのものに近い。 とすると、他の解釈は困難なのではなかろうか。第一解釈を採らないのであれば、 日孫の生成に直接かかわる何かを語っていると見るのが自然である。
これは、漢文で(また現代中国語においても)、神聖なもの(天・山・神など) の組成・生成を説明するときに 「~(之)所凝」の表現を使うことがままみられることからすれば、なおさらそうである。
第一解釈をとらず、「清悠の気の凝る所」に「日孫内生」を続けて一文のように読む解釈を 採るのであれば、「清悠の気の凝る所」は、辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼなの様子の改めての描写ということは できないし、辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼなの一部のエリアとも見難い。
なぜなら、「清悠の気の凝る所」=「受胎周辺環境」ではなく、 「清悠の気の凝る所」=「※日孫内生(受胎)部位(的なもの)」だからである。※主語が日孫である 点に注意。

(注ー9のつづき)
以上で納得された方がほとんどだと思うが、念のため資料として
別の例をあげる。資料なので、適宜お読みいただければ結構である。(『黄帝内経 | こうていだいけい素問』風論篇より)
衛気有所凝而不行、故其肉有不仁也
(読み下し)衛気 | えき 凝る所ありて | めぐらず、故に其の肉に不仁有る也
現代語訳:衛気 | えき滞るところがあって運行しなくなり、そのため肌に麻痺が生じることになる)  (注 衛気=外邪の侵入を阻む機能のある気)
この「凝る」は「停滞」に近い意味にもとれるが、
「凝る所」というのは、停滞が発生するような場所、という意味ではなく、停滞物自体、または停滞が発生しているスポット 自体を指す。場所と訳しても意味が通りそうな箇所ではあるが、極めて限定的な場所と理解しなくては ならないと思われる。
そこで この部分につき次のような翻訳も存在している。
もし衛気が凝集して運行しなくなると、肌膚の感覚が麻痺してしまいます。
(薮内清 責任編集「黄帝内経素問」『世界の名著 続1 中国の科学』所収、中央公論社 1975年 p.407(小栗英一氏訳出部分 色による強調は引用者))
「所」に場所の意味が希薄であるため、このような訳が適切ということになると思われる[注-10]
そうだとすれば、「清悠の気の凝る所、日孫内生す」も、同様に
「清悠の気が凝集し、日孫が内生した」と訳せることになるはずである。

注-10 この同じ内容を『甲乙経』では 衛気凝而有所不行(衛気が滞って、運行の阻害が生じる) と表現しているので、やはり停滞自体が問題になっているのであり、停滞の発生環境のことではない。



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2021.12.01初稿
2022.01.02微改訂
(c)東族古伝研究会