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中国語と日本語の関係について (言語論)
契丹古伝を自分が読み始めた当時、最初に検討を要すると感じた問題の一つがこれである(もっとも皆あまり気にしていないようではあるが)。
当時はある程度見当をつけてから他の問題の検討に進んだことを記憶している。
その意味で、もっと早く掲載すべき筋合いの内容ではあったが、当初の検討内容に比べ
いくぶんは良いものになっていると思うので、むしろ今回の掲載で良かったとも感じている。
簡潔にまとめたつもりではあるので、ご一読頂ければと思う。
中国語と日本語。この両者が全く異なる言語であることは常識の一つである。
もちろん、かつて日本にも漢字到来と共に漢字の読みも到来しており、
今「音読み」とされているのがそれである(「春」なら「シュン」という読み。
より正確にいえば、日本人が発音し易いように修正した読みが音読みである)。
一方、漢字到来後、既存の和語と漢字を対応させて、
それを漢字の読みという扱いにもしてしまうという習慣も生まれた。
今「訓読み」とされているのがそれである(「春」なら「はる」という読み)。
前者、つまり音読みの言葉は、古い中国語から来ているので、もちろん今の中国語とも
どこか似ている。
しかし「訓読み」の言葉を中心とするいわゆる本来の「和語」は、「漢語」とは似ても
似つかないものであるというのが常識なのだ。(少数の例外はあるとされる。)
そもそも、言語学的な「語族」分類では、中国語は「シナ・チベット語族」に属する。
一方、日本語は、以前は「ウラル・アルタイ語族」に属すると考えられていたものの、現在では
ウラル・アルタイ語族自体の存在を否定するのが通説となっている(孤立した言語という扱いになる)。
ただ、動詞が最後にくるなどの語順はアルタイ語的であることは知られている。
このような状況で、中国語と日本語は(借用語を除いては)無関係であるというのが常識的見解となっている。
殷朝は東族の本宗家であると本文の解説等で述べたが、殷朝の言語は、発掘された金文を見ても、
甲骨文字を見ても、古い漢文であるとされている。
そうすると常識的な見方としてはやはり中国語の一種であることは間違いないということになろう。
そして、その言語は周の時代になっても、多少の変化を伴いつつ使われたといえそうだ。
とすれば、契丹古伝を読む上で次のような疑問点が生じるはずだ。
つまり、周という西族(漢民族)の王朝になっても、使われていたのが中国語とすれば、
素直に考えて中国語は西族の言語であり、それを"殷周革命"以前から使っていた殷朝もまた西族系と
いうことになってしまわないか。
このような問題が実は存在するので、本稿で若干の検討をしておきたい。
殷周交替で多少の言語変化は当然ありうるということを考慮にいれても、殷の時代の言語というのは、
語順その他を含め、基本は周以降の中国語と大して変わらないように見える。
とすれば、なぜ東族の本宗家・殷朝がそのような言語を使うのか、
おかしいのではないかという疑問が当然出てくることにはなろう。
中国語は、基本一語(一音節)について一つの漢字があり、それに意味が付いている。
いいかえると「単音節語」が原則である。
日本語(和語)は、「目(め)」など単音節語もあるが、「うさぎ」のように複数の音節からなる多音節語も多い。
そして契丹古伝を見れば、そこに登場する神子の名など、多音節の名称が非常に多い。
これを「東大古族語」と呼ぶことにすると、殷朝はそのような東大古族語系の
神聖語を使わなかったのかという疑問が出てきてしまうのである。
この疑問について、二つの論点に分けて検討していきたい。
一つは、中国語の起源論。
もう一つは、殷朝は金文に見るような中国語しか使用しなかったのか、
すなわち、他の言語(東大古族語的なもの)は一切使わなかったのか、という問題である。
1.中国語の起源論
では、最初の論点、中国語の起源論から。
中国語は一応、通説でシナ・チベット語族とされるように西方色の強い言語と考えられる。
そうすると、西族が太古、西からやってきた時にたずさえて来た言語がそのまま中国語なのだろうか。
しかし契丹古伝においては「洚火の災」の後、東族の地に徐々に西族が入りこんできた、
とされる。(そのため混血族が生まれてきたが、しかし、君主は東族の神聖号をもつ東族であった。)
西族の流入・東族との同居は相当の長期にわたったものと考えられる。
このような状況では、西からやってきた言語に東族の単語と混じりあうことによって、
混成言語ができたと考えたほうが自然である。
夏王朝のありかたについて、契丹古伝は「夏は繾なり」と簡単に
夏が東族語由来であることを述べるにとどまる。
ただ、夏王朝の時には「渾族」(混血族)が東族の君主の臣民に公式に含まれるようになるほど、
混血族の人数が増加していたことが推察される。
このように、混血族の人数がかなりの人数に達した段階においては、
混成言語を使って統治した方がより実効的な支配が可能になるという状況が想定される。
この混成言語であるが、西族の流入数も相当あったとすれば
西族寄りの言語になったであろう。
それが今の中国語(の古い形)ではないだろうか。
おそらく夏王朝の頃は、この混成言語を用いて夏の君主(辰沄繾翅報)も国を治めたのだと思う。
そして殷朝も統治の便宜のためその形態を引き継いだのではないかと思われる。
この中国語=混成語説というのは何かありえないトンデモ説
と思われる方もおられるかもしれない。
しかし、東洋史家の岡田英弘氏は
最古の時代の中国語は、夏王朝人の言語(岡田氏によるとタイ系)をベースにして、
アルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語
(マーケット・ランゲージ)としての特徴を有するピジン風言語であったとされる。
(岡田英弘 『中国文明の歴史』講談社 2004年 p.69, p.72参照)
また、言語学者の松本克己氏は、
中国語(漢語)とは、西戎系の言語と沿岸系「東夷」の言語が接触・混合した結果誕生した
「一種の『クレオール』(語)」であるとして次のように述べられている。
中国語は、本来チベット・ビルマ系の一分派が黄河中流域に進出して、
そこで話されていた土着の太平洋沿岸型の言語と接触した結果、
一種の混合語(いわば“クレオール”ないし“リングワ・フランカ”)として形成された。
(松本克己『世界言語のなかの日本語 日本語系統論の新たな地平』三省堂 2007年 p.209)
従って中国語はチベット・ビルマ系言語とは類型論的に大きく異なり、むしろ
太平洋沿岸諸語と多くの特徴を共有するとされる(同書p.295参照)。
さらに漢民族の始まりについて松本克己氏は
そこ{(=チベット高原の東部)}から一部の集団が黄河沿いに北東進して、
今から3,000年余り前に黄河中流域に定着したのが後の漢民族の始まりと見られ
ている。しかし、黄河流域にはそれ以前からチベット・ビルマ系とは違った
言語を話す民族が居住し、高度の農耕文化を発達させていた。中国伝説史上
に知られる夏王朝やさらにはまた甲骨文字を残した殷(または商)文化の担
い手までもそのような先住民族に擬する説も出されている
(同書 p.173。)
とされており、契丹古伝の解釈にあたっても注目すべき見解といえそうである。
契丹古伝でも混血族(渾族)という概念が登場しているのであり、東族語と西族語が混合して
中国語が生まれたとする解釈には大いに妥当性があるといえる。
上記「チベット・ビルマ系の一分派」とされているのが、契丹古伝においては「西族」であるという
ことになり、それは契丹古伝の解釈上においては、チベットと全く同一ではない(もちろん
場所的近接性による近縁性はある)ことになるのではないかと思われる。
また、松本説の場合、
西からきた漢民族の言語と混ざった東夷の「太平洋沿岸系の諸言語」が具体的には何かという点
が問題となる。
氏によれば、太平洋沿岸系の諸言語自体は北は日本海域[遼河流域も含む]から南は長江流域に
及ぶ太平洋沿岸地帯を中心分布域と見てよいとされている(同書p.301参照。)
ただし松本氏は、上記太平洋沿岸系諸言語の中で、混合対象としてはやや南方系のものを
想定されているようである(オーストリック大語族的なもの。)(同書p.295, p207参照)。
この点につき、自分の契丹古伝解釈に適合的な考えとしては、以下のようになる。
松本氏の指摘されるような南方的言語との混成もあったかもしれないが、
ややそれより北よりの地域で話されていた太平洋沿岸系言語で、多音節を特徴とする言葉、
東大古族語のような言葉とも西族語は混成したのではないかと考える。
その際、多音節の東族語は短く縮約された単音節(1母音)の語になったのだと考えることができる。
なぜかというと、西族系言語である中国語は外来語を受け入れる際に
何でも短く単音節化して受け入れる傾向をその後も保持しているからだ。
たとえば、「塔」という語は、実は
インドの古語であるサンスクリット語のstupa(ストゥーパ)(もしくはパーリ語thupa)
に由来する。
(サンスクリット文字で表記する代わりに便宜的にアルファベットで表記している。)
stupaはインドヨーロッパ語族の単語で、実は英語のtower(タワー)とも親類の語である。
このstupaが仏塔のような意味で中国に入ってきたとき、最初それを卒塔婆の字を当てた。
(それが今ではお墓に立てる卒塔婆になったが、あれは仏塔の代わりに立てているのである。)
この卒塔婆が長い語であるため、のちにこれを中国人がtupと略して発音し塔と表記するようになった。
(これが今の漢字の「塔」であり当然ながらその意味はtowerである。
ちなみにそのtupの音が日本にはいってトフ→トウとなった。)
それ以外でも、中国の史書では、西洋の人名などを適当に縮めて漢字を宛てた例が無数にある。
このように音を縮める傾向が西族の到来時から彼らにあったとすれば、東族語の多音節語も短く一音節
(もしくは二音節)に縮めた上で西族の語彙と混ぜ合わせられたのだと考える。(なお、
岡田英弘説では、「一字一音節化」が図られた上で言語を異にする人々の間の通信手段として
使われたのだとされる。)
上記のことに関連して思い出されるのが、語頭音の一致について指摘する次の説である。
日本語(和語)と中国語の関係について否定的な学説が一般である中で、時々「和語と中国語は
語頭音(出だしの音)が一致する例が多い」という主張が見られるのである(安本美典氏など)。
しかし、一般にはその主張は顧みられていない傾向にある。
けれども、先に見てきたように、和語の基層にあった東族語が縮約されて西族語に流入したとすれば、
両者の語頭音が一致・類似する可能性は当然高くなる。
語頭音一致はそのように説明できる可能性もあるのではなかろうか。
さらに、ごく少数説ではあるが、学者の説の中には日本語と中国語を同系と主張する説もある。
さすがにそれは行き過ぎた主張であるかもしれない。
しかし、東大古族語の語彙が形を変えて西族語に流入したということが、そのような
説を生む素地となった可能性もあろう。
以上見てきたように、中国大陸では古い段階から混成言語が成立し、
それが統治言語としても使用されたのではないだろうか。
殷朝も統治の便宜のためそのようにしていたと考える。(岡田英弘氏の説では
アルタイ系言語の中国語への流入も想定されている。)
2.殷朝は金文に見るような中国語しか使用しなかったのか
甲骨文字の卜辞などを見て気付くことは、
地名もほとんど1文字で表記されており、一音節で読まれているらしいということである。
しかし、契丹古伝においては、「克殷」直後においてさえ
葛零基などの多音節地名が頻出する。
さらに辰沄殷
では宇越勢旻訶通などの長い名称の神をまつっている。
このようなことからすると、殷朝において多音節の東族語も併せて使用されていたということが
契丹古伝の当然の前提となっているといえる。
史記等の中国の史書を読む限り、地名にしてもそのような多音節のものが余り見当たらない。
従って常識的に考えるとこのような多音節語の多用は不自然なことなのである。
なのに、なぜ古典の深い教養のありそうな契丹古伝の原資料著者が
不自然なまでに多音節固有名詞を多用したのだろうか。
これは、原資料の著者にとっては、そのような言い方があったと伝える資料をもっていた以上
そう書かざるを得なかったということと考える。
つまり、事実そうである以上、多少不審に思われてもそう書くしかなかったということでは
ないだろうか。
当時の状況は以下のようなものではなかったか。
おそらく地名にしても、当時、長めの東族語の言い方もあったが、
同時に略称として西族語風の短い言い方も存在し、
文字として記す際は短い言い方のほうで記した、という状況が想定される。
この背景事情として考えられるのは、東族語は神聖語であるため記すのに憚りがあったのでは
ないかということである。
実際問題として、統治の便宜から混成言語を使用する必要性や機会は
ますます増大していったのであろうから、
殷朝の末期ごろには東族語の使用機会はかなり減少していたのかもしれない。
それでも宗教的儀式などでは、神聖語として使用してされていたのではないかと思う。
落合淳思氏は次のように述べておられる。
古代には・・・精神世界に関わる文字表現はきわめて少ないのである。
・・・それでは、なぜ文字上で「聖なるもの」が表現されなかったのだろうか。
無いものを証明することは難しいが、宗教的なタブーなどは基本的には不文律だったことが
原因と思われる。
(落合淳思『漢字の構造──古代中国の社会と文化』中央公論新社 2020年)
あくまで、ここで落合氏が言及されているのは、聖なるものと俗なるものを区別するルール
については文字では明示されないという点についてである。
祭祀などについて文字で記述されることはもちろん存するのだが、
それでも、使われる言葉自体が「神聖語」といえる場合、
とくに「神聖語」自体が「タブー」に近いことばである場合は
その言葉自体をも不表現、すなわち記載しないという扱いをすることがあったのではないだろうか。
神子号的な美称というのも、書くのは憚られるが神聖なる呼び名として宮廷等で
使われていたことは考えられよう。殷叔の養子の名「督坑賁國密矩」もその一つではないかと思う。
さらには、このような神聖呼称が麗しい美称としてそれなりに事実上は知られていた可能性もある。
殷の権威が燦然と耀いていた頃には、その一諸侯であった周もそのような美称に憧れていたかも
しれない。
そこで一歩踏み込んだ想像をすれば、周も殷の傘下にあったころはそれらしき呼称
を用いて自分たち王族や先祖を呼び、ただそれを一見普通の西族風非神聖呼称に見えるように偽装した
(漢語に模した)表記を用いたなどということもありうるのではないか。
外見上一応漢語風に見えれば、タブー違反として非難されずに済むからである。
「古公亶父(周の武王の先祖の名)」「伯邑考(武王の長男の名)」などは、
実は東族語のもじりか何かかもしれないと私などは疑っている。
(伯邑考の名について、それが何を意味するのか諸説あい乱れて議論が紛糾しているのも、
実は「宛て字」だったから、とすれば容易に理解できる。)
殷朝の話に戻すと、辰沄殷になって以降に、突然、
味諏君徳という長い地名を使ったり、
宇越勢旻訶通という長い神名をもつ存在をまつり始めたのだとすれば、それは道理にあわない。
あくまで「克殷」以前から、そのようなことはあったのだろう。
だが、それをストレートに表記することは当時はタブーであったのだと考えられる。
もっとも、費彌國氏洲鑑の著述がなされた時期にはもはやタブーではなくなって
いたであろうし、東族の歴史を堂々と記述する際に東族語表記を多用することはむしろ
当然のことと考える。(もしくは、費弥国氏洲鑑が非公開の事実を共有できるごく一部の人
向けの特殊文書だった可能性もあろう。)
言語の問題は、なかなか論じるのが難しい問題でもあるが、契丹古伝の世界との関係では、
以上のように考えるのが、現段階では妥当であると考えている。
以上
2021.11.12
(c)東族古伝研究会