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本文説明の補足
第1章 補足
「無以能名焉(以て能く名づくる無し)」については、より正確なニュアンスを出し、無用の混乱を避けるため、記述を
一部見直すことにした。
そもそも、漢文で 「無以~」は「~する方法がない、~することができない」
の意味である(「無所以~」の略した形という)。
そして、「名」には「名づける」の他、「形容する」の意味もある。[補注1-0]
『辭典檢視 「名 : ㄇㄧㄥˊ」』(インターネット『教育部重編國語辭典修訂本』サイト内) の動詞の項目参照
https://dict.revised.moe.edu.tw/dictView.jsp?ID=1478
[Wayback Machine版はこちら]
実際、現代でも、感謝の念をどう言い表せばいいかわからない、というときに
「我内心的感激無以名之」と言う。
(無以名之については次を参照
『辭典檢視 「無以名之 : ㄨˊ ㄧˇ ㄇㄧㄥˊ ㄓ」』(インターネット『教育部重編國語辭典修訂本』サイト内)
https://dict.revised.moe.edu.tw/dictView.jsp?ID=159344
[Wayback Machine版はこちら])
この例(「無以名之」)の「之」は「内心的感激」をさすので、その感激を形容する方法がない、
形容する言葉がみつからない、といったことになる。
実は契丹古伝の「無以能名」も、「名」の直後に、「耀体である神」が省略されているのであり、
また「能」は可能の意味を添えるに過ぎないので、「無以名之」とほとんど同じことになり、
結局1章のこの部分は「(耀体である神を)形容できる方法がない、形容できる言葉がない」という意味になる。
[補注1-1][補注1-2][補注1-3]
要するに、1章の冒頭の部分は、神を言葉では適切な名義をもって描写できないが、ただ鏡という類似物で視覚的・
立体的に表せるという趣旨の文章である。
第1章補足の本文はここまで。
以下の補注1-1から補注1-3は、別にこの結論を得るのに必要不可欠なものでもないが、稀に上の説明で
納得できない人が生じることが将来的にも考えられるので、念のための資料として掲載した。
補注1-1(関連表現の紹介) 「莫名其妙」は、「其妙(=その奥深いさま)を説明できない」という意味のことば
(当該対象を賛美するニュアンスを含む)[転じて今では 「わけがわからない」という否定的な
ニュアンスで用いる]であるが、
ここでも名は「形容する(説明する)」という意味で使用されている。両者は似た表現といえそうである。
神も玄妙な存在であるので、「名」の意味を同様に解するのが素直であろう。
また、賛美のニュアンスについても、「神は耀体。以て能く名づくる無し。」の表現に同じく
含まれていると解される(「形容しようもない精妙なものである」といったニュアンス)。
補注1-0 漢語の名詞としての「名」には、「名称」の他、広い意味で、「説明」などの意味が
含まれるので、それに対応した動詞の「名」として「形容する」の意味が含まれるものと解される。
この動詞の「名」は、「形容する」の他、「名状する」と訳すこともできる。
名状とは、ありさま(=状)を言葉で表現する(=名)という意味である。
1章の例の箇所は、「神は輝く体を持ち、なんとも名状しようがない」と訳すこともできる。
ちなみに古典でいえば『淮南子』詮言訓にも「無以名之」が登場する。
聖人・・・栄而不顕、隠而不窮、異而不見怪、容而与衆同、無以名之、此之謂大通
聖人は・・・栄えても顕れず、隠れても窮せず、異なっても怪しまれず、ゆるして衆と和合し、
何とも名状しようがない。これを大通という。
(小野機太郎訳『淮南子:現代語訳』 支那哲学叢書刊行会 1925 太字強調は引用者)
聖人は自然に順応した絶妙の境地を有しており、形容しようがないとされ、その境地を
大道に通じた人という意味の大通という語で表すという意味である。
戸川芳郎・他訳『淮南子・説苑(抄)』中国古典文学大系 第6巻 平凡社 1974
p191も「何とも名状しようがないが」と訳されている。
補注1-2「無以名之」の之がなく、代わりに「焉」をつけた「無以名焉」の例が『円覚経心鏡』などに見られる。意味はほとんど同じである。
契丹古伝1章の「焉」の字は浜名に従って置き字(読まない字)として扱ったが、むしろ「之」と同趣旨と扱い「これ(に)」と訓読する方が意味が一層明確になるので良さそうと思われる。
浜名氏がそこまで気づかなかったのだとすれば、やはりこの部分は浜名氏の偽作ではないということになる。
補注1-3 なお、あくまで、無いのは名づける(形容する)「方法」なのであり、決して名づける「対象」が無いということではない。
「対象」は、もちろん「耀体である神」であり初めから不変である。
第1章補足の注はここまで。
第5章 補足
第5章で二大宗家の存在が語られている。
一つは最初の降臨地である毉巫(医巫閭山)の辰沄氏、
もう一つはその後の拠点である鞅綏の辰沄氏である。
このどちらが中国へ入った「中国大陸系本宗家」となるのか。浜名説と自説で差がある。
浜名説は前者(毉巫の辰沄氏)、自説は後者(鞅綏の辰沄氏)と考える。
これについては浜名氏は明快に次のように書いている。
思ふに遼西{(つまり医巫閭山系)}の辰沄氏は支那の本土に入って・・・{一方}韓内{(つまり半島内・鞅綏韃系)}の辰沄氏は
・・・大を成し、(以下略)
(溯源p.340, 詳解p.54。{}内は引用者による補足)
この前提として浜名氏は、「鞅綏」の場所を11章『汗美須銍』の「鞅綏韃」と同じとし、しかも
その場所を平壌にしている。(一方自説は平壌とは考えない)。
とにかく浜名説では支那の本土に入ったのは医巫閭山系辰沄氏の方だということだから、それが
16章『西征頌疏』の「神祖はまさに西へ征しようとしていた~」と対応するはずである。
ここで問題が生ずる。
そもそも、神祖は毉巫→鞅綏の順に移動しているはずである。なのに、西征に関わったのは医巫閭山系
というのなら、いったい神祖はどこから西へ移動したのか。ここで浜名氏の次の記述が問題含みである。
本{16}章は神祖が鞅綏韃を発し黄海渤海を経て支那の山東に済りたる経路を語るものにて、・・・
(溯源p.413,詳解p.127。。{}内は引用者による補足)
この記載からすると神祖スサナミコは浜名説でいうアシタつまり平壌の地から海路で中国本土に入った
ことになる。何か矛盾していないだろうか。上の二つの引用をどうしても同時に成り立たせる
ためには、神祖の軍隊は旅順・営口などの遼寧方面の陸地に拠点を築き(16章)、その後海路で山東半島に入った
が、神祖だけは最初から海路で山東半島に入ったとしなければならない。何かがおかしいように感じる。
それゆえ、この問題を検討を分かりやすくするため、
①鞅綏氏のもともといた場所を平壌にするのか遼寧にするのか、
②中国本土に入ったのが毉巫系なのか鞅綏系なのか
でもろもろの説を場合分けして見た。
理屈っぽくはなるが、悩む人もおられると思うので、あえてチャート化してみた。
こうすると自説の位置付けも分かりやすいのではないかと思われる。
A:鞅綏系のもともといた場所を平壌とした場合:
Ⅰ 毉巫系中国大陸侵入説(浜名)
神祖は毉巫の後鞅綏へいっている点と矛盾しないか。神祖はどこからどう西征したというのかが問題となる。
a)→鞅綏(平壌)から神祖だけ海路を採り海(渤海)を東北へ進み、遼寧の先あたりで
毉巫系(陸路から海路に切り替えたばかりの)と合流?(=浜名説)←不自然では?
b)→一旦鞅綏(平壌)から毉巫へ陸路で戻り、毉巫からあらためて西征。
ありえなくはないが、浜名もそこまで書いていないし、不自然ではないか。
Ⅱ 鞅綏系中国大陸侵入説→平壌から神祖も軍隊ももろともに海路で遼寧付近へ、陸地拠点整備後さらに海路でニレワタ渡り
←不自然すぎる。
(浜名氏の場合、神祖だけは平壌から海路で直行となる[Ⅱ´説]?←やはり不自然。)
Ⅰを浜名が採ったのは、鞅綏系辰沄氏をなんとしても平壌の辰王国の主にしたかったから無理をしたのでは
ないかと思われる(この点については檀君問題のページも参照)。
B:鞅綏系のもともといた場所を遼寧とした場合:
Ⅰ 毉巫系中国大陸侵入説 浜名とやや似ているが、残った鞅綏が遼寧あたりの一帯を管轄することになる。
神祖は毉巫の後鞅綏へいっている点と矛盾しないかの問題がやはり生じる。
毉巫(西征前)と鞅綏は当初は距離的にはあまり遠くないので、医巫閭山から
少し東方の遼東へでもいって
そこで鞅綏系辰沄氏を作り、そのあとで医巫閭山に
「もどっ」て西征するとすれば辻褄があうかもしれない。
だが、AⅠb説同様の不自然さがある。
Ⅱ 鞅綏系(注*)中国大陸侵入説(=自説)
毉巫系統を遼寧に留守役として残したまま神祖が民を率いて西征
し、アシアを拓いてそのまま鞅綏の辰沄氏となる。
これが中国大陸系本宗家となる。特に矛盾は生じないと思われる。
(*正確には、中国大陸侵入後鞅綏氏となった可能性もある。)
このように、自説はBⅡ説であり、浜名氏はAⅠa説(神祖個人についてはAⅡ´説)となる点に
留意して本サイトをご覧頂くと分かりやすいと思う。
第5章補足はここまで。
第7章 補足
塢須弗の『耶馬駘記』中に見られる古事記序文類似の表現について
『古事記』には編者である太安万侶
による漢文の序文がある。
実は
契丹古伝第7章『耶馬駘記』中の
「潭探上古、明覯先代、審設神理、善繩風猷」
の語句については、『古事記』の上記太安万侶の序文中に、ほぼ同じ句が、ひと繋がりの形ではないにせよ登場する
という事象がみられる(溯源p,350,詳解p.64の4~5行目参照)。
取りようによっては、偽作者が古事記を盗み見て『耶馬駘記』の文章を仕立てあげた
のではないかという非難を招きかねないようにも思えるため問題となる。
念のため、古事記の関連個所を引用しておこう。
古事記 序文第一段の末尾近く:
繩風猷於既頽
風猷を既に頽れたるに繩し
(意味:風教道徳の既に廃れた部分を是正し)
古事記 序文第二段の中程:
設神理以奨俗・・・智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代
神理を設ねて俗を奨め、・・・智海は浩汗として潭く上古を探り、
心鏡は煒煌として、明らかに先代を覩たまひき。
(意味:神の道を施して良い風俗を奨め、・・・智恵は海のように広大で、
遠い古のことを深くお探りになり、
鏡のような心はあかあかと輝いて、先の代のことを明らかにご覧になった。)
この点を説明づけるために、
浜名氏は、
初回渤海使の来日の時点では古事記完成からあまり年月が経っていないため、その時からしばらく
経過した後、いずれかの渤海使の帰国時に古事記が渤海国に
もたらされ、そのような資料に基づき塢須弗は『耶馬駘記』を著述しえたという
趣旨の説明をされている
(溯源p,350,詳解p.64の5行目・8~9行目・2~3行目参照)が、次のように考えることもできよう。
思うに、渤海使節団と日本の貴族との交流ぶり(参照:東大神族の本宗家の権利は日本の帝が保有)からすれば、
渤海使節団の誰かが日本の貴族からたまたま『古事記』を見せてもらう機会に恵まれたことはありうる。
古事記は平安時代に広まったという説もあることからすると、むしろ丁度手許にあった歴史書を
見せてもらうといった感じで自然にありそうな話ともいえる。
そして、その場合、古事記は多くの部分が便宜的な漢文(和習漢文)で書かれており純粋な漢文にはほど遠いので、
見せてもらった渤海人には読み辛いものであったと考えられる。ところが古事記の序文だけは
堂々たる漢文の仕立てになっているため、この部分は渤海人にとって非常にとっつき易く、
印象に残った部分を写して帰るということはありそうだ。(写した人物は
渤海使節団に加わり再来日を果たした塢須弗かもしれないし、他の渤海使節団員かもしれない。)
もちろん正確にこの通りのことが起こったとは限らないが、上記のような何らかの経緯があると
考えれば、
『耶馬駘記』中に古事記序文に類似した語句が登場することは異常とはいえず、日本のありさまを描写するのにうってつけの表現
として古事記から引用されることはむしろ自然の成り行きともいえる。
よって契丹古伝が古事記の語句を剽窃して作られた偽書という非難は成り立たないと考えられる。
なお渤海使「塢須弗」の名の「弗」は、「ふつ」とも読まれるが、新日本古典文学大系版「続日本紀 四」の読みに従った。
第7章補足はここまで。
第19章 補足
浜名氏は、璫兢伊尼赫琿の璫兢は「高い」の意味でこれが大陸で「唐堯」と表記され、
また伊尼は「稜威」の意味でこれが大陸で堯の姓「伊耆」となり、
また赫琿は「(神統)受領(者)」の意味で堯の名「放勲」となったとする
(詳解p.182-p183,溯源p.468-p.469参照)。
璫兢伊尼赫琿がもともと東族語である点には同意する(但しその意味については再度考察を要する)が、堯の名・姓などとの対応関係に
必然性があるとも思えないので、その点については反対である。
第19章補足はここまで。
第27章 補足
高橋空山氏は
「周が成王の時に東に戦に出でた」・・・としていわゆる三監の乱(やそれに続く東夷の反攻)
に相当する戦いについて言及し、その戦において「周が勝ったとは、言ひきりえない」とされる。その上で
「わが軍は かくて燕を降し、韓を滅し、齋にせまり、周を破ったのである。」と27章の表現を
引用されている。(高橋空山『契丹神話(全)』日本思想研究會 1941年 p.60 太字強調は引用者)
このことからすると、高橋空山氏も27章の時期を「克殷」後まもない周の成王(武王の次の王)の時期と見ていたこと
になり、その点自説と同じとなる。(一方浜名氏は成王の時の戦いと27章の破周とを結びつけていない。)最近このことに気付いたので付記しておく。
第27章補足はここまで。
第30章 補足
「脇を大辰の親に托して」の「親」の意味について。
※以下にも示すように浜名氏の解釈との差異などもあるため、念のため掲載したものである。
ここでいう「親」は、「親類・親戚」の意味。なので、[(辰沄)殷が]脇を「大辰」という
「親戚国家」にまかせて、という意味になる。(「大辰之親」の「之」は、~という… のように、同格関係を示す)
要するに、遼東の(辰沄)殷の側方には半島の辰国があり、それは婚姻関係(37章参照)もある国なので、
国の防御態勢としてそういう国の存在を頼りにする意味である。
なお、浜名氏は、右側背を馬韓(辰)との厚き親交に托し、のように解釈している。
(溯源p.574, 詳解p.288参照。)
「親交」でもよさそうではあるが、両国は姻戚関係にある(37章参照)
ので、以下に示すように「親類」の意味に解するのがよいと思われる。
ただ、これを「親」と解する必要は無いし不自然である。
確かに、親という漢字自体には当然「親」の意味もあるが、今回のように
○○(国名)之親、という言い回しの場合は、「○○という親戚国家」「○○という親戚諸侯」
のような意味で使われる。以下の例を参照されたい。
例:
(漢の呂后亡き後、代王に即位を要請する場面で)
(原文)
方今 内有朱虚・東牟之親、外畏呉・楚・淮南・琅邪・齊・代之彊。
(読み下し)
方今、内には朱虚・東牟の親あり。外には呉・楚・淮南・琅邪・齊・代の疆きを畏る。
(現代語訳)
今、内には朱虚・東牟といった皇帝の親戚の諸侯があり、一方外には
呉・楚・淮南・琅邪・齊・代といった強国を畏れねばならない。
(司馬遷 『史記』孝文本紀)
また以下は、鄭という国から見て、周の王家との縁戚関係があることを示した文である。
○之親、の○に入るのが(鄭の親戚にあたる)周王個人である点が上と異なるが、国に関する縁戚関係を記したという点では
共通なので紹介しておく。
(原文)
鄭有平惠之勳,又有厲宣之親
(読み下し)
鄭に平・恵の勲有り、又 厲・宣の親有り。
(現代語訳)
鄭(周代の諸侯国のひとつ)には周の平王や恵王を庇護した功績があり、
また周の厲王・宣王との親戚関係がある。
(『春秋左氏伝』僖公二十四年)
この「厲宣之親」(厲王・宣王という親戚)にしても、鄭の君主の家と周の厲王や宣王が
親戚関係にあることを示している(もちろん、親類に親も入るかもしれないが、必ず親とは限らない。)
鄭の君主と厲王・宣王との血縁関係をいう文であり、本家・分家関係を示すものでないのはもちろんである。
第30章補足はここまで。
第38章 補足
「殷乃為康」の浜名解釈「殷乃為に康し」の誤りについて
※なぜ誤りであるかにつき、真面目に追求すると以下のように細かく長くなってしまうので、
読んで嬉しいものではないと思うが、資料として残しておきたいと考え記載することとした。
「殷乃為康」の部分は浜名氏の読み下しでは「殷乃為に康し」とされており、小さな字で
「是れ冒頓
の殷の恩に報ずる所以(これは冒頓が殷の恩にむくいたゆえんである)」
と注釈されている。
この注釈にしてもゆえんの意味など浜名流のやや大雑把な書き方があるため分かりにくいのだが、
結局冒頓単于が殷への報恩の観点から漢朝を牽制したり、殷と匈奴の間の敵族を掃討した
りした結果「殷乃為に康し」という状態になったということだろう。
「康し」は殷朝の安康な状態にからむ何らかの表現ではあろうが、実は浜名読みについては謎がある。
まず、「為に」は「に」がついていることから「ために」と読むべきとわかるが、
「乃」を何と浜名氏は読むのだろうか?自説のように「すなはち(すなわち)」と読むなら
「乃ち」のように「ち」の送り仮名をつけているはずである(実際氏も15章後半では「乃ち」
としている)。
しかも、かりに「乃ち」と送り仮名を補ったとしても「乃ち為
に」では意味をなさない。その
ことからしても、浜名氏が乃をすなはち(すなわち)と読んでいないことは疑いなかろう。
では何と読んだのだろうか?自分も驚き怪しんだのではあるが、
「乃」を「之」のように「の」と読んだのではないかと推定せざるを得ない。
一見問題なさそうだが、之は漢文においても「~の」の意味になりうるが、乃は発音がナ行系な
だけであって意味は「~の」の意味にはならないのである。
(日本語で「~の」意味で乃の字を使うことがあるが、それは宛て字ということになる。)
それなのに浜名氏は強引に「乃・為」を「の・ために」と読もうとしたらしい。
結局それは、素直に考えれば、「殷乃為に」を「殷のために」と氏が解釈したことを意味する。
すると、浜名氏はこの部分で主語を「冒頓は」と補って「(冒頓は)殷のために康して」
と解釈していることになろう。(康は動詞では「安定化させる」「安康にする」の意味がある 例:文王康之(『詩経』より))
この解釈を読み方Aと表記することにする。
この読み方Aにおいては、乃を之と読み替えるが、読み下し上は「の」と読む線を維持した状態
である。
もちろん、それさえ維持しない状態でも良いのであれば、例えば乃を之と読み替えた
上で「これ」「この」と読んでしまう手も考えられる。そうすると
「殷乃為康」⇒(「殷之為康」≒「殷為之康」=)「殷はこのために康し」などという読みも一応理屈上可能になる
(これを読み方Bと表記しておく)が、浜名氏がそこまでいい加減なことを考えていたかどうかは疑問である。
漢文の語法としては、「~之為」の直後に動詞を置いて「~のために...する」と読む用法が
『論語』などに存在するところから、浜名氏は読み方Aを発想したのではないかと思われるのだが、
もちろん乃を之とする時点でアウトである。
そのような無理をするより、すなおに乃を「すなはち(すなわち)」と読み、「為」を「~になる」の
意味にとる解釈(殷はそこで安康となった)の方がよほど自然である。
ではなぜ浜名はなぜそうしなかったのか?
おそらく、「殷朝がすなわち安泰となった」と読んだ場合、
殷朝が衛満にその後まもなく土地を奪われてしまうことと矛盾すると考えたのかもしれない。
(自分としては、一旦安全にはなったのであるから、矛盾するとまではいえないと考える。)
ただ、浜名氏としてはそのような懸念からこの部分を、
(冒頓は)殷のために一帯を安康にし(て恩義にむくいるという実績を挙げて伯族の信任も得てい)
たが、ほどなくして賄賂漬けにより堕落するという事態になったため伯族が(離反して)
砂漠の辺境に潜んだ・・・と解釈したものと思われる。
このように氏が無理な解釈をするのは、この部分を浜名氏が偽作していないからこそそのような
ことをする必要があったことを意味すると考える。
浜名氏が仮に読み方Bを念頭に置いていたとしても、結局は原文一部否定という無理をしている
点で同じだから、結論的には同様となる。
※佐治氏の訳「すなわち、殷の恩義に報いたわけである」は間違いであろう。
※田多井四郎治氏の読み下し「殷乃ち為に康し」というのもあるが、「殷はそこで、そのために
安泰となった」という意味となり、「乃ち為に」の部分の表現の不自然感が拭えない。
浜名氏はあるいはこちらの読みを想定していた可能性もあるかもしれないが、乃の直後の「為に」は目的の意味で
使われるケースが普通のように思われ、自分としては疑問である。
よってこの読みも採ることができない。(2023.09.30追記)
第38章補足はここまで。
第40章 補足
殷朝あるいは箕子の国の子孫としては、
まず殷周革命の直後誕生した、周の諸侯国「宋」があるが、34章解説及び督抗賁國密矩論
に記したように(辰沄)殷の継承権はないと思われる。
その他に、(辰沄)殷の王家の子孫と称する一般人として、浜名氏が紹介しているように
日本では麻田連の一族等が『新撰姓氏録』に準王の子孫とされており、半島にも箕準の子孫を称する
族譜を有する家がある。
ただ一般論になるが、有力神子神孫国に関していえば、消滅した著名な王家の子孫と称する家で、本当に
その王孫である場合は案外少ないのではないかとも思える。
つまり歴史の複雑な波の中で、本当に由緒ある人達はそれなりのたたずまいをあらたに
整えてしまうために、元の姿で記録されることはかえって少なくなりうる。
一方、王家に臣従するなど、何らかのゆかりのあった人たちが若干家名をあげる目的で、
消えた王家の子孫と称してしまうことは人情的に不可思議なことではないためしばしば発生しうる。
また別のケースとしては、箕子は儒教の聖人とされているためその子孫を勝手に称してしまうことも起こりうるだろう。
このようなことは考慮されるべきであろう。
第40章補足はここまで。
2021.12.01(第1章分)
2022.01.02(第30章分)
2022.12.06(第5章分)
2023.05.19(第7章分)
2023.05.19(第38章分)
2023.09.30(第27章分・第40章分)
2025.02.26(第19章分)
(c)東族古伝研究会