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え?朱申は○○民族が支配する全世界?
このページでは第23章の用語「朱申」などに絡む、ありがちな誤解・妄想
について触れつつ、東大古族の本宗家としての領域などについても
言及していきたい。
1、「朱申」とは?
契丹古伝第23章には、「朱申」という解釈上問題となる語がある。
嘻、朱申の宗、賄に毒せられ、兵を倒にして、東委尽く頽る。
(ああ、朱申の宗家が、賄賂に毒され、兵器を下に向け敗北する有様となり、東夷がことごとく
頽れてしまうとは。)
浜名氏は「朱申」を「粛慎氏」という特定部族と解し、ここでは本宗家格を有していたものの
東大古族を裏切った存在として解釈した。
これについては浜名氏の「粛慎氏」トリックで批判した通り、朱申とは東大古族の汎用的な
呼称であり、朱申の宗とは、単に「東大古族の本宗家」という意味であると論証した。
23章においては、殷朝の行為が描写されているのであるから、同章において
「朱申の宗」とは、殷朝を指すことは間違いないだろう。
朱申とは、浜名氏も
珠申はその本義
辰沄翅報(東大国霊)である。 (浜名 溯源p.339, 詳解p.53)
今
本頌叙
{(=契丹古伝)}の教ゆる所によれば、珠申の原義は辰沄翅報
なり (浜名 溯源p.340, 詳解p.54)
と書いているように、シウクシフの略と見てよさそうである。
ただ、6章に珠申・粛慎・朱真はともどもに同音を伝えるというように、
シュシンの語は満州近辺の部族の使用例が多い。しかし汎用的な美称であるから、
使用例が特定の系列に限定されると考えるのは妥当でないと思われる。
満州族は女真族ともいうだけあって、このシュシンという語を『満州源流考』でも強調している
ようである。浜名氏もその内容を以下のように紹介している。
我朝清朝の肇めて興る時、旧 満珠と称せり、所属を珠申と曰ひしを後に改めて満珠と称せるな
り、而かも漢字相沿りて満州と為せども、其の実は即ち古の粛慎にして、珠申の転音たるなり。
わが清朝が初めて興った時、もと満珠と称した。珠申に所属するとかつて言っていたのを後に改めて満珠と称したので
ある。しかもその呼称を受け継ぐ間に漢字が変化して満州となったのであるが、その実はすなわち古の粛慎
であって、珠申の音が転じたものである。
(浜名寛祐 溯源p.339, 詳解p.53、太字強調・茶色ルビ・現代語訳は引用者による)
ところがなぜか朝鮮半島でもチュシンという語が取り上げられ、
「チュシンは朝鮮人が世界する全世界である」などという云い方が時折なされるらしい・・・。
これは『満州源流考』の影響なのかどうかわからないが、「朝鮮」という言い方を
珠申と同視してのことであるようだ。
朝鮮については契丹古伝34章では智淮氏燕のこととも読めるような
書き方がなされているが、仮に朝鮮=「朱申」としても、
その指す領域は時代によって変化があるのみならず、その構成部族も変動している。
つまり、俗に言う檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮はそれぞれ異なるし、
はるか後、統一新羅の後の高麗王朝のあとの李氏朝鮮の朝鮮もまた差異がある。
(これについて檀君問題のページ)参照。
こう書いてくるとお気づきの方もおられようが、いわゆる「朝鮮民族単一民族・民族純血論」
から「檀君朝鮮」を民族固有の広大な領域として把握する幻想と「チュシン」幻想は
軌を一にするのである。
彼らは満州族を差別する傾向にあるが、そのくせ「チュシン」を自族固有の名称であると
誇示していることになる。
「朱申」は、実際にはより広い観点から捉えるべき用語であるように思われる。
契丹古伝については、半島において檀君文献の一種として無理やり解釈する
ホームページも存在しているように、不適切な解釈を受けやすいという弱点があり、
それゆえ日本でもかなり誤解を招いている面がないか懸念される。
それは決して「朝鮮民族単一民族・民族純血論」に奉仕する書ではないと解される。
2、契丹古伝の妄想的利用について
「チュシン」の語を使用しなくても、契丹古伝の妄想的利用は存在しうる。
例えば4章で、神祖の子孫が各地に拡散したという記載があるが、
ある解釈によれば、4章の「族 萬方に延る」を「桓族萬方に延び」と解釈しているものもある(桓族=韓族)。
そもそも一部の半島人は、極端な場合スサナミコが全世界を当然に支配できる霊力をもって
降臨してきたと信じている節もなきにしもあらずである。
その立場からは、4章の「族は万方に広がった」は、「展開」というより「当然の進駐」か何かということに
なりかねないが、契丹古伝はそういう妄想的な読み方を許さないことに注意されたい(
もちろんある程度夢のある書き方にはなっていることは当然だが[神話的記載を
含む歴史書であるため])。
18章では神祖スサナミコが中国大陸の原住民を従わせたが、これは霊力で当然従わせた
というわけではなく、気立てのよい部族が神祖の威厳を感じ取って服従したという
イメージになる。
というのも、霊力で当然従わせたのであれば、
南原の箔箘籍が不服従ということは生じないはずだからだ。
霊力信仰のような妄想として、本古伝を利用するのは不適切であろう。
もちろん20章の「伊尼」のような宗教語もあるけれども、特殊な超能力で相手を
当然コントロールできるという意味ではないし、神子神孫としてシウクシフが
その能力を当然有するというのは特殊な妄想に本古伝が悪用されていることとなるので
不適切である。(挙句の果てに、霊力の源泉を保有している誰かがどこかに存在しており、
その人間から霊力の分与を受ければ幸せになれるなどという発想も生じかねないが、同様に本古伝とは
無関係である。)
ヤマトタケルの尊が「言向けやわす」という方針で行動したという伝承も日本にはあるわけで(『古事記』参照)、
日本人であればまず間違うことはないと期待したい所ではあるが。
用語の宗教的な含蓄性の把握と妄想風利用的意味把握とは異なるのであり、両者の弁別には大人の判断力が必要である
ので、十分注意されたい。
契丹古伝上、東大古族の本宗家は一応(展開後は)広大な領域を管轄しうるが、
これは神祖や後継者の徳がそれらの領域を覆うという意味であり、日本でも八紘一宇の
語があるが同じ趣旨と解される。
もちろんそのような語には究極的には世界へ展開していくという要素はあり
軍事的な利用が問題視されたことはあるが、趣旨としては優雅なものである。
そのような究極性と、「究極の妄想性」が混同されるとすればそれはとりもなおさず
神子神孫文化の破壊ということになるので十分な警戒が必要であると思われる。
以上
2025.4.9初稿
(c)東族古伝研究会