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契丹古伝の始祖神話と日本神話 特別補論

○「太陽父神説」「巫女成り上がり論」(大和岩雄氏説等)についての疑問

おことわり 大和岩雄氏は2021年6月に93歳で逝去された。謹んでご冥福を祈ります。
本稿は、大和岩雄氏が入院されている旨、 氏の著書にしるされていたことから、せめて氏の生前に 発表できればと思い急いで執筆していたものの諸事情により残念ながら間に合わなかったものである。
(先に掲げた神話論の執筆についてもそのように急いでなされた面がある。)

太陽男神説は、もちろん大和氏以前から一部の学者によって唱えられていたものであるが、
大和岩雄氏が最も精力的にこの点を主張しておられたと思う。
だが、太陽男神説(とくに太陽父神説)は、契丹古伝的な太陽女神観と矛盾する内容を含む。そのため、 この点について当サイトで採りあげる必要性を以前から感じてはいたが、種々の事情で実行できて いなかった。
大和岩雄氏の著書は多く、一般の読者の数も多数にわたると想像されることから、あえてここでは 大和説を採りあげ、批判させていただいたものである。
大和氏の記述が批判対象として採りあげられている場合が多いが、他の方の太陽男神論にも 妥当しうる批判と思われるので、決して大和氏を狙い撃ちにする趣旨ではないことに留意されたい。

以下、本文

大和岩雄氏が感精型の母子神信仰を強調されていたことは前にも述べた通りである。
すなわち、女性が日光などに感精して聖なる子を産むという考えである。
そしてそれを「聖婚儀礼」と結び付ける考えが、氏においては徹底されている。
これに関して大和氏が再三繰り返し強調されていたのが、 「本来太陽父神の妻となる巫女に過ぎない存在であったもの」が「女神に成り上がった」とする 考えである。
本来、太陽父神の子である太陽子神を産む役割を負うに過ぎない巫女的存在が、 崇められて女神に成り上がったのだと。

一方当サイトの立場は、これとは異なり、本来女神の地位が強かったのに、 時代が進むにつれて、より低位の存在が太陽父神に「成り上がった」と捉えるものである。

これについては「契丹古伝の始祖神話と日本神話 補論1 天照大神男神説について」をまず参照 されたい。本ページでは、そこで触れられなかった部分を中心に若干の補足をするものである。


自説の場合、太陽父神が日光を照射することにより女性が受精し出産するという「日光感精型」の 信仰は、あくまでも、太陽父神への「成り上がり」が生じた後に、広範囲に分布していったものという ことになる。
この分布の広さから、一見もともとそのような信仰しかなかったように思えてしまうが、 本来は違うと考えるのである。
さらに、感精型信仰についても、より古い型としては別の形だったのではないかと 思える節がある。
すなわち、本来、地上で子を産む存在(女神)が天空の(太陽)女神の分身というような 考えが存在していて、その地上の女性が、その本体にあたる天空の女神の力を受けて力をみなぎらせる というような発想もあったと考えられる。

実は大和氏の著書にもそのような女神性を感じさせる例が紛れているのである。
{バビロンのバベルの塔として有名な}ジッグラトの最上層にいる神婦を「Nin」というが、 太陽の船に乗ってジッグラトへ天降ってくる女神もNinaという。・・・ニナは・・・ 日神の性格をもっている点では、天照大神と同じである。
(大和岩雄 『天照大神と前方後円墳の謎』 六興出版 1983年 p.96)
この例において、神婦Ninは、日の女神Ninaと同一視されていると考えることができるのである。

次に、冬至と太陽神の関係を採りあげることにする。
冬至の日は、日が最も短くなり、それ以降また長くなっていく境目である ことから、この時を神の死と再生の時と捉えて祭儀を行うことは古来世界中に見られる現象である。

そして、冬至に太陽神があらたに産み落とされると考えると、それは「子神」の再生と捉えることに なるが、世界を見渡すと「母神」がその時期に再生するという考えもまた存在しているのである。

(「太陽女神」についても死と復活の事例があり、 しかもかなり古層に属す観念であると考えられるが、詳しくは機会を改めて述べたい。)

大和岩雄氏的考えを貫くと、復活するのは太陽子神としかならないから、次のような不自然な処理も 生じる。
それは天照大神の岩戸がくれに関する考察の部分である。
大和氏はこれを「死と再生」にかかわるものとしており、そのこと自体は神話のモチーフとしては 妥当と考えられる(稚日女尊 | わかひるめのみことの死に関する日本書紀の記載も参照。)
しかし、その際、亡くなったのは「 | 」によって怪我をした女神であるヒルメ(≠太陽神)である 一方、再生したのは太陽神と捉えるという処理を氏はされているのである。
天岩窟に入る前は日妻であり、天岩窟から出た後は日神である。
・・・死んだヒルメが再生するために、天岩窟という洞窟がある。

(大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版 1983年 p.15)
大和説ではヒルメは本来神ではないはずだがら、
神にあらざる者が死に、しかし神が再生する、ということになってしまうことになる。
| 」による「死」を大和氏が採りあげる以上、亡くなったのは女性であるはずである。とすれば なぜ神でないはずのヒルメが死ぬ必要があるのか。大和説ではその点十分説明がされていないように 思う。
一方自説では、天照大神の岩戸がくれ・岩戸開きも、神の死と再生についての古い概念の反映したもの として一貫した説明が可能であるので、不自然な点が生じないのである。


大和氏は「聖婚」に関しさまざまな形で説明され、妻となる巫女は本来的には人であり、 神の聖婚の対象になるに過ぎず、後の時代に女神に成りあがったものであるとされる。
要するに氏の説は「父神」と「妻である人間」という捉え方を軸としているため、「聖婚」(という 民俗学上の概念)がやたらに重視されてしまう形となっている。

たとえば、新築祝いのためのものと一般にはされている「新室」の風習も、実は新嘗の祭りと同じで、 冬至に更新を図るための儀礼であり、しかも聖婚を重要な要素とすると大和氏は捉えておられる (大和岩雄『神と人との古代学』大和書房 2012年 p.417-p.432参照)。
新室を新嘗類似のものととらえるべきかは一つの問題だが、かりにその点は同じものであるとしよう。
しかし、そうだとしても、冬至における聖婚云々の問題については、自分は次のように考えている。
すなわち、冬至祭における祭主はいわば死した後に母胎回帰をして再生するととらえることができる。
つまりそこで行われている儀礼の核心は神婚というより母胎回帰・新生にあるのではないか。

契丹の王位継承儀式でも、「再生母后探索の室」なるものが登場することが知られている (『遼史』巻四十九)。 これも、母胎回帰にまつわるものと考えることができる。
再生母后が、新王の母などの具体的人物を仮に表すとしても、始祖女神としての役割が期待されている と捉えることが可能であると自分は考えるのである。

大和氏の観点では、母胎の神聖性への考慮が十分なされていないのではないかと思えてならない。
世界的に見ても、「母神」の再生・更新儀礼というのが存在していることに留意すべきである。 聖婚儀礼と単純に捉えられているものには、本来母神の更新・再生のための儀礼であったものも 含まれる可能性がある。
さらに、更新された強力な女神の母胎に回帰して子が再生するという発想も ありうるのではないだろうか。
新室について再言すれば、大和説では「娘子を奉る」を「一夜妻」を「神やまれびと」に対し提供する ことと捉える。すると新室のあるじが新室の客人として神婚へ招かれるという解釈になるが、 これは何かが奇妙ではないだろうか。

母神の観念が廃れた後の事象だけで考察すると、何か大切なものを見失うような気がしてならない。
新室の儀式にしても、本来は女神の更新儀礼や、更新された女神の母胎への回帰による新生という 要素がなかったか検討するべきだろう。
母胎回帰という点に関していえば、そもそもそれは本質的には聖婚ではないという こともできよう。つまりそのような行為形式は必要不可欠なものとまではいえない、ということに なるのではないだろうか。

大和氏は母子神の例についてしばしば言及される。一般に、母子神についての言及はあまり なされていないので、非常に貴重なご指摘であることは確かだ。このことは大いに強調しておきたい。
ただ、母子神信仰もすべて「母神は本来単なる巫女」論で説明されるのには疑問を持たざるをえない のである。

例えば、国史見在社(延喜式神名帳に名が載らない神社ではあるが、国で編纂した書物に授位等の記事 が見える神社のこと)

の一つに、「 | あさ | 豊明 | とよあかる媛抜 | ひめぬき | 神」及び 「朝日豊明媛抜田子神」という神がある。

これは平安時代に朝廷が編纂した『三代実録』の貞観十一年九月二十八日条で、

「大和国正六位上 朝日豊明媛抜田神、朝日豊明媛抜田子神に、並びに従五位下を授く」と授位の記事中に登場する神である。

大和氏はこの神を「媛神と子神」つまり母子神とされる(大和岩雄『神と人との 古代学──太陽信仰論』p.323)。自分も大いにその点には賛成である。
しかし、大和氏によれば、母神はあくまで本来的に太陽神の妻であって、 太陽女神ではないのだということにされる。
すなわち氏によると母神については「この神社も『朝日豊明媛』という日神ではなく、日光を 受ける媛(日女)神」とされる。しかし子神については「朝日の光を受けた日女が生んだ日の御子」 と太陽神扱いされるのである。
しかし、朝日豊明媛抜田神という名前の母神を日神と見ないのは、どうみても無理ではないだろうか。
(大和氏は明示されていないが、推察すると、ここで大和説の根拠となりそうなものは、 媛=日女=ヒルメ=日の妻という見解くらいしか見当たらない。だが、その見解が成り立たないことは 天照大神男神説について、で既に説明した) 

とすると、これは太陽女神の名称と捉えるのが自然である。
するとこの神々も日祖・日孫のような太陽母子神ではないかと考えられるのである。

朝日豊明姫抜田神というのは古事記・日本書紀等に見えない神であり、古い信仰が残った ものと考えられる。

大和氏は、天照大神が女神とされたのは、持統天皇の時に、孫の軽皇子の即位を容易化するため 行われた処置とする説を採用しておられる。その時に初めて女神の太陽神が登場したのであると。

自説では、女神の太陽神はもっと前から存在していたと考える。
仮に、持統天皇の時に神統譜に政治的配慮が加えられたとしても、無から太陽女神が登場したので はなく、当時としては仮に下火になっていたとしても、古い信仰である太陽母子神の 存在を考慮し、強調しリバイバルさせるという処置がなされたと捉えることは可能であると考える。

ところが大和氏の最晩年の著作では「成りあがらせたのは持統朝の政権」の一点のみが強調されて おり、そうだとすると朝日豊明姫も持統朝政権の作出ということになってしまうはずである。
しかし、朝日豊明姫は記紀に見えない神であるから、それはありえない。
そこで少しでも大和氏的に処理するとすれば、
「民間の神ではあるが、例外的に太陽男神につかえる巫女が成り上がったものだ」 ということになる。
朝日豊明姫抜田子神は太陽神であるが、同名の母神朝日豊明姫抜田神は成り上がったからこそ 太陽神と同じ名を持つとでも説明するしかないと思われる。
しかし、本当にそうであろうか。
自説では逆に、「古い太陽女神の姿が失われていくなかで、辛うじて残ったもの」という ことになる。
皆さまは「巫女の成り上がり」と「古い太陽女神の残存」のどちらが妥当と御考えであろうか。

朝日豊明姫抜田神という神の名が、記紀に見えない特異な神名であることに注意されたい。
詳述は控えたいが、抜田神という言い方など、かなり古雅な名称が残存しているものと
私は考えている。そうであれば、答えは明快に、「古い太陽女神の姿がかろうじて残ったもの」 といえるのではないだろうか。
この朝日豊明姫抜田神という女神の存在は、無視できないものといえる。

以上でそろそろ本稿を終えたいところだが、最後に、 大和氏がよく指摘された「ヨコ意識」と「タテ意識」について述べておきたい。

ヨコ意識とは、地平線・水平線上の日の出・日没の太陽を神聖とする意識で、
タテ意識とは、高天原的な、天上界の光を神聖とする意識を指すようである。
氏はヨコ意識が本来の太陽信仰であり、タテ意識の高天原は、官製の信仰であるとされる。
しかし、自分の考えでは、これらは実は相通じる意識であり、厳然と区別すべきものかどうか、 疑問に感じる。

契丹古伝の始祖神話と日本神話 その3で自分は、 

自説では、女神が皇子を産む場所は、天上界もしく は観念的な聖地としての東方日の出の場所(例:海上など)というように考える。

と述べた。
 契丹古伝では、順瑳檀彌固 | すさなみこが高天使鶏に乗り辰云珥素佐煩奈 | しうにすさぼなから・降下するのであるから、 これは天上からの垂直降下的なものととる(タテ意識的)のが自然である。しかし、 羲和神話的な要素からすれば東方海上の聖地としての側面もあり、これは水平線上の日の出を 神聖とするヨコ意識にも通じる。

外国神話の例でいえば、古いヨーロッパの地図で、天上にあるはずのheaven(天国)がなぜか ヨーロッパから見た東の果ての日本方面に位置付けられているものがあるのを見たことがおありの 方もおられると思う。
このようにタテ意識・ヨコ意識は、案外交代しうるものであるので、大和氏の指摘は極端に 過ぎるのではないかと思われる。

以上で本論を終わりとするが、若干細かい点についてはこの後の補注で補足してあるので 興味ある方は参照されたい。

謝辞

天照大神男神論は、当然ながら、大和氏以前からあるもので、大和氏がよく引用される学者の方々 の説でもある。
それなのに大和説ばかり取り上げて批判するような形になってしまったことは申し訳ないと考えている。

ただ、この論について大和氏が逝去される直前まで非常に熱心で、何冊もの著書を出されて
この点を強調しておられ、かなり先鋭化した議論を展開されていたという事情が実は存在している。

大和氏はもともと民間の方であられるからこそ、直截な言い方で見落とされがちな諸論点を 解き明かされるという魅力に満ちた方である。
ただ、直截な説明をされる方だけに、天照大神男神論について、本サイトの立場からはどうしても同意 できない論考が連発されていることに憂慮し、本論考の掲載となったものである。

神話学が歴史探究に重要というのは、大和氏のアプローチもまさにそれであり、大いに同意できる面も 多く存することを強調しておきたい。
神々の世界は、いわば形而学上の世界で、厳密に言葉で表現するということも困難という部分もあると 考えられるし、その性格も多面的であることも多い。したがって大和氏の捉え方に自説と異なる点が あるといっても、究極的には表現の綾の差に過ぎないといえないこともない。大和氏の採りあげられる 素材には極めて重要かつ興味深いものが多いのも、また事実なのである。 このように大和氏には多くを学ばせていただいているので、学恩に深く感謝申し上げ、謹んでご冥福を 御祈りし、本論考を閉じることにする。


補足1「橦賢木厳之御魂 | つきさか き いつのみたま天疎向津媛命 | あまさかるむかつひめのみこと 」神名分割論について

日本書紀の神功皇后紀で、重要な神々が入れ替わり立ち替わり皇后の前に現れて名乗りを挙げる 場面がある。
その最初に現れる、伊勢神宮の祭神を示すと思われる存在で、長い神名で登場するのが

橦賢木厳之御魂 | つきさかきいつのみたま天疎向津媛命 | あまさかるむかつひめのみこと

という神である。この神名は、天照大神もしくはその荒魂をさすものと一般に考えられており、 女神一柱を表したものといえる。
しかし大和氏はこの神を二分割してとらえ

橦賢木厳御魂 | つきさかきいつのみたま・・・ | しんの御柱 | みはしら(日神を表す)
天疎向津媛 | あまさかるむかつひめ・・・・・・・鏡(日女を表す)

が合体したものであるとする。
(大和岩雄『日本神話論』大和書房 2015年 p128, 同『天照大神論』大和書房 2020年 p332 参照)

これは、さかきによりつく神を心御柱の神すなわち男神ととらえ、 これが男神である日神をあらわすとするものである。

自説の観点からは、これはかなり苦し紛れの説であると思う。
なぜなら、大和氏は天疎向津媛 | あまさかるむかつひめを単なる太陽男神の妻である巫女(もしくは 巫女がなりあがった女神)と捉えるため、もし神名を分割しない場合大和説では不都合を生じる。
つまり、神功皇后紀で最初に名乗りをあげるのが「橦賢木厳之御魂 | つきさかきいつのみたま天疎向津媛命 | あまさかるむかつひめのみこと」 という「日神の妻」一柱のみとすると、日神自体は名乗りを挙げないということになって しまうのである。しかも、名乗りを上げるのは本質的には神でない巫女ということになってしまう。
このような不都合性を避けるため、大和氏は無理やりこの名前を男神の日神の名プラス日の妻の名 のように分割せざると得なかったということではないか。そして両者がセットで登場したことに してしまったのである。
おそらく、太陽父神論の立場からは、大和氏でなくとも、このような処理をしなければ不都合が生じて しまうことになろう。

自分の解釈では、この最初の名乗りは非常に尊いもので、複数神に分割することは許されないと考える。
常識的に、日本の長い神名というのは、仮に短いパーツに分解できたとしても、全体として偉大な神 一柱を表すものとして記されているのは明らかだと思うのだが、いかがであろうか。
特に本サイトは契丹古伝のサイトであり、契丹古伝の本文全46章を繰り返し読まれた時、長い神名と いうものの深い含蓄を感じとる機会が他の方より多くなることが期待されるように思われる。
そのようなものを感じられた方は、神名の複数神への分割という大和説に対して反対する自説に、 断然賛成して下さるものと信じている。ここで登場されたのは明らかに女神1柱であろう。


補足2 カムロギカムロミ論について

大和氏は、朝廷の宣命において多くの場合高天原の神が「天照大神」ではなく、 「カムロキ・カムロミの男女二神」とされている旨を指摘される。(『天照大神論』大和書房 2020年 p330-p331)
要するに、皇祖神は本来「天照大神」でなくカムロキ・カムロミであるのに持統朝に一時的に 改変を受けて女神の天照大神にされたという主張である。

確かに、「皇親 | すめらがむつ神魯岐 | かむろき神留美 | かむろみ | のみこと 」という言い方は奈良時代の宣命 | せんみょうにも多く見られる。

しかし、それが大和氏の主張される内容を裏付けると解する必然性はない。

というのは、カムロキは男神、カムロミは女神を表す一般的な呼称であるので、どのような神で あっても、カムロキまたはカムロミに該当しうるからである。
声高に申し上げるようなことではないと思うのだが、カムロミの中に天照大神が包含される可能性も 当然あるのである。ただこのようにいうと、なぜそのような一般的な呼称で皇祖神や皇親 を呼ぶのかという反論があるかもしれない。
このことも、大げさに答える必要はないと思うのだが、まず次のことを念頭におく必要がある。
皇親神魯岐 | かむろき神留美 | かむろみ命はかなり通説的な見解においては高皇産霊尊と天照大神を指すとされている。
おそらく大和説の場合、この説に関しては高皇産霊尊についてだけ肯定に解するのではないかと 思われるのだが、もしそうだとすると、なぜ高皇産霊尊が宣命ではカムロキとなるのかという疑問が 大和氏自身に跳ね返ってくることになろう。

そのことに加えて、本サイトの神話論の立場からさらに補強をすると、次の点が挙げられる。
契丹古伝の始祖神話と日本神話 その5  において、「仕切り直し」の話を述べた。人格神としての天照大神がその時に現在のような形に 位置付けられたのだが、自説ではそのさらなる先祖というのがありうることになる。すなわち、 究極的には契丹古伝でいう日祖や日孫にまで達する先祖神というのが観念され、それ以降さまざま なレベルの祖先神がありえたはずである。そのような神々をもゆるやかに包含するためには、 「カミロキカミロミ」という一般化した呼称でお呼びすることが極めて適切ということにならない だろうか。そのような配慮がありうるという観点もまた重要であると考えていくべきであろう。

以上のように解すれば、神魯岐 | かむろき神留美 | かむろみ 命の名が宣命で特に掲げられていることは、 天照大神が皇祖神であることを否定することにはならない。
従って、この点に関する大和氏の所説もまた、妥当でない。

補足3 アマテラス無名説について

大和氏は、平安時代、天照神は一般貴族にもあまりなじみのないものであったとして、 『更級日記』の著者 菅原孝標 | すがわらのたかすえの | むすめ が天照御神を知らなかったという例を挙げ、
それゆえ民衆の知らない、人工的作出による神だという趣旨の主張までされている。
(大和岩雄『日本神話論』大和書房 2015年 p.50-p.51参照)

『更級日記』の著者は、伊勢の神であり宮中の神である旨説明を受けて、納得しているようであり、 伊勢神宮の存在まで知らないということでは勿論ない。その祭神名について詳しく なかったということになるのかもしれない。

日記の当該記載からすると、日記の著者がまだ源氏物語等の小説を読みふけっていたとされる 満18歳前後のことで、祭神等の知識が十全でないのもありえないことではないと思うのだが、 かりに大和氏のように一般人には当時天照神の名があまりなじみのないものだったとして、 反論を試みる。

一つの反論としては、国家の宗廟神として、一般への周知を避けたのだという反論がありうると 思う。既に述べたように、皇祖神として、天照大神たる女神には持統朝以前に一定の古い神としての 実態があったと考えられる。ただし、男性優位等の影響で、当時は一般民衆にとっての神として は、それほど認知度が高くなく、しかも同じ名によってはその存在が認識されなかった可能性がある。
それゆえ、天照神の名になじみがなくても、奇妙なことではないといえよう。

ただ、これでも納得されない可能性がある。
そこでさらに反論を追加するとすると、次のようなことが考えられる。
このことについても、声高に申し上げることではないとは思うのであるが、奈良時代と平安時代とで、祖神に対する感覚がやや違ってくるということはありうる。それは例えば上述のように 人格神としての女性神天照大神以外にも、皇祖神的存在は色々なレベルでありうるわけで、その名称も 複数ある場合も考えうる。そのような状況下で、政策的に皇祖神の名称をあまり特定して宣伝すること を控えることもありうるだろうし、政策的にではなく、貴族社会におけるひとつの空気として、 そのように自然になっていくという状態もありうる。
そのような中で、『更級日記』の著者 菅原孝標女が、仏教に重きが置かれた当時の文化状況に おいて、天照神を知らなかったということは、決して不自然とはいえないのではなかろうか。

補足4 日の御子の子から孫への改竄説について

大和氏は、天照大神が天孫ニニギ命を降臨させるという神話は、持統天皇が軽皇子(後の文武天皇) の即位を可能とするための作出と主張される。
そのために日の御子を「孫」に改竄したのだと。
(大和岩雄 『天照大神論』大和書房 2020年 p.103以降参照)

もしそうなら、契丹古伝が日祖・阿乃沄翅報云戞霊明 | あのうしふうかるめという女神の子順瑳檀彌固 | すさなみこを「日 | 」と呼んでいるのも、 そのような作為に由来するということになりかねない。日孫という祖神などもともと存在しなかったことになってしまうからである。
仮にそうだとすると、契丹古伝は外国で成立したものではなく日本人が偽作した書、もしくは そうでないとしても日孫の部分は日本人が付加した偽りということになってしまう。


しかし、スサナミコが日祖の子でありながら日孫と呼ばれるのも、一つの神秘であり、 実は神話学的にも十分説明可能であると私は考えている。
(ただ、大和氏の著書の神話学関連記載にはこの種の内容は残念ながら あまり含まれていないようである。)
したがって契丹古伝でスサナミコが日孫と呼ばれることにはむしろ、極めてまっとうな理由があり 大いに正当性があると考えることができるのである。
とすると、日本の記紀の天孫降臨神話も、契丹古伝的な日祖・日孫の神話のような古い背景を有する ものと捉えることができる。
よって、日本の天孫降臨の神話も、利己的な目的で無から引き出されたものではないことになる。
以上より、大和氏の主張された、「孫」への改竄説は妥当でない。

このことについて本サイトでは、契丹古伝の始祖神話と日本神話 その7 (未発表)で 扱う予定となっている。ただ、その発表時期、あるいは実際に発表できるかは未確定である。

補足ここまで




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2021.11.11 (c)東族古伝研究会