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契丹古伝の始祖神話と日本神話 その3
前稿では、イザナギ尊から天孫降臨に至る部分の日本神話が複数神話の混成である
可能性や本来の始祖神話が隠された可能性について指摘した。
が、本当にそのようなことがありうるのかという点の検討も必要であるし、
どういう事情でそのような神話を作成する必要があったかという疑問も当然出てくることになろう。
とすると、その具体的事情とは何なのかを早く知りたいという方も
おられよう。しかし、契丹古伝に日祖と日孫という始祖神話が載せられている以上、この神話の性格
をまず十分検討することが必要ではないだろうか。
この始祖神話は、契丹古伝が提示する辰沄氏系部族の根幹にかかわる伝承とされるのであるから、
おろそかにはできないものであり、その検討の中から、答えを探っていくのが筋であって、
それをせずに何か面白い考えを思いつけばそれを書けばよいという類のものではないと考える。
また、この神話の性格を十分把握せずに結論だけ聞いても、その持つ意味や重みがほとんど
把握されないように思う。
それゆえ、上述の疑問に対する答えの詳細目指していきなり突き進むのではなく、
まずは、契丹古伝の始祖神話に対する考察を行っていこうと思う。そして、そのタイプの始祖神話が
本当に日本と無縁なものかどうかを探っていくことになる。
契丹古伝の始祖神話については、田中勝也氏が『古代史原論──契丹古伝と太陽女神』の
中で長文の考察をされている。本稿では、田中氏の指摘に一部従いつつも独自の考察を
加えていこうと思う。
○契丹古伝の始祖神話の特徴
まず、浜名氏以来の伝統的解釈では、第2章で女神が沐浴する場所は日本であり、
日本で生まれた皇子が別の場所へ降臨するということになると考えられている。
しかし、契丹古伝は女神沐浴の場所について明記していない。
自説では、女神が皇子を産む場所は、天上界もしく
は観念的な聖地としての東方日の出の場所(例:海上など)というように考える。
実は浜名氏も少しだけ似たようなことを述べてはいる。
大陸族の看取した東大海清白波は、大海日出の処を看取してのことで、其処
を日祖修禊の霊場と
観じたのであらうから・・ (溯源p.301, 詳解p.15)
これは、大陸族からみた辰云珥素佐煩奈(日祖沐浴の地)は、大海の日の出の場所を見た上で、そこを
日祖が禊を行った霊場と見てとったのであるという理解である。
また、浜名氏は、日祖のみそぎと日本の伊邪那岐命
のみそぎを内容は異なるも関連性のある伝承として
次のように述べる。
{伊邪那岐命}のミソギの塲処も、・・・学者たちが争っているが、いづれも・・・
筑紫の一区域内に似寄の地名を捜出して争っているに過ぎないやうである・・・
我が伊邪那岐の大神は、そんな小さな者であつたのであらうか
・・・上代人が、・・看取した宇宙は、そんな小さな者であったのであらうか
・・・伊邪那岐のミソギの塲処 阿波岐原は、
青海原
でなければならぬ
(詳解p.15-p.16)
このように浜名氏も「原始神の修禊」の場所について若干の抽象化を図り、九州の狭い特定の地域と
いうよりは「青海原」と解すべきであると解している。
もっとも、浜名氏がいう青海原も日本の大海という趣旨ではあるのだろう。
ただし、よく読むと、浜名氏も、日祖沐浴の場所が日本であるという断定的記述をあまりしていないし、
また、5章の解説の部分についても浜名氏は、東表を宗家の一つに格上げしながらも、
日本がもともと最上位の本宗家であるという明確な書き方まではなされていないことに気付かされる。
そうはいっても、浜名氏の本を普通に読む限り、日本自体が始原の地と読者は受け取るだろうし、
おそらく読者がそう読むように言葉が工夫されているようでもある。
実際、いずれにしろ、後の章(28章)の解説で浜名氏は、ニニギ命が「尉越」の敬称で呼ばれ、その意味が
「上」であるとしているし、さらに19章の解説で
日孫{(スサナミコ)}は・・・皇紀三千五百二十余年前に我が東表に生れ、
(皇紀)二千六百四十余年前に我が東表に帰ったものとされる。
(溯源p.469 詳解p.183。傍点・太字強調は引用者による)
としているので、結局上記19章の浜名解釈を加味した場合には、日本こそ女神が沐浴する始原の地
「辰云珥素佐煩奈」で、かつ東表本宗家であるということに浜名説ではなると思われる。
ただ、浜名氏も、上記のように、みそぎの場所を青海原というように抽象的に捉えている
点は重要な指摘といえる。
自説では、女神が皇子を産む場所は、天上界もしく
は観念的な聖地としての東方日の出の場所(例:海上など)というように考えるのである。
浜名説に慣れ親しんだ方には意外かもしれないが、契丹古伝の構成上、日本にそこまで特別の地位が
与えられていない(これについては既に何回か指摘している)ことから、そのように解するのが
妥当であろう。
イメージ的には日本の近海などになりうるとしても、その場所を日本そのものとし、日本が当初から
本家という考えを採ると、契丹古伝の構成上矛盾が生じるのである。
ただ、そうであるとしても、契丹古伝上の諸概念と日本とに極めて重要な関係があることも
また確かである。このことを踏まえて契丹古伝の始祖神話の背景を探っていきたい。
上記女神の沐浴・出産に関して、田中勝也氏が指摘される重要な神がある。
中国古代の怪異的地理書『山海経』等に登場する女神『羲和』(ぎわまたはぎかと読む)である。
(と、羲和神の話から始めると、なぜ日本国内の信仰を先に検討しないのかと思う方も
おられるかもしれない。確かに国内に契丹古伝の始祖神話に近いものがあればそれから研究すべき
とはいえるかもしれない。ただ、自説ではそれが日本神話の天孫降臨神話などに吸収されてしまった
可能性を想定するので、まず、外国の神を含めて考察し契丹古伝の始祖神話の特徴を
見極めていきたい。)
田中勝也氏は羲和神を次のように紹介している。
『山海経』{大荒南経}には、・・・羲和・・・が{中国東南海の外域に}住んでおり、
甘泉というところで、自分が生んだ太陽を沐浴させたと記している。
また、羲和自身も太陽女神とされる。
(田中勝也『古代史原論──契丹古伝と太陽女神』批評社 p.80-p.81)
この女神・羲和は十個の太陽を産んだともされていて、十個という点は契丹古伝の始祖伝説と異なる。
しかし、殷朝で王号等に十干(甲乙丙~癸)が使われていることとの関連が注目される。
というのは十干は十個の太陽を表すとされているからである。
羲和は、契丹古伝の日祖と同一神とまではいえないとしても、
太陽を産み、沐浴させるという点で、日祖・阿乃沄翅報云戞霊明にかなり近い特徴を有すると
いえそうである。
『楚辞』という書物には、羲和神についてやや異なる描写があり、そこで羲和は太陽の御者として
扱われていると一般に説明されている。
しかし、
『楚辞』の「天問」では、「羲和の未だ揚がらざるに(羲和が東の空に昇らぬうちに)・・」
のようにほとんど太陽と同じにも扱われており、羲和自体も太陽神の性格を
帯びているという面がある。この点は注目に値しよう。
(これについては、太陽女神と太陽子神で概念が重複するのではとの指摘もあろうが、
他国にも例があることで、神話の世界ではこのあたりの微妙な変遷はつきものである。)
赤塚忠氏も「羲和は、本来、太陽の精霊であったろう」とされる。
(赤塚忠 訳『書経・易経(抄)』(中国古典文学大系 第1巻)平凡社 1972年 p.8)
羲和神の多面的な性格から、性別も問題とされることがあり、太陽を制御する男性の御者
とされてみたり、後には四人の官人とされたりして男性とされることも確かにあるのだが、
本来、女神であると考えられるのである。
(なお、山海経で羲和は帝夋の妻とされている。が、帝夋という夫の存在は後に付加
された設定と考えることができる。ここでもし夋が太陽神の中心的神格であれば、羲和が
後に太陽の御者とされることもなかったであろうと考えられるからだ。
あくまでも羲和神こそが太陽神であろう。)
この羲和神は産んだ太陽を沐浴させ、扶桑の木に掛けるとされている。
この扶桑の木は湯谷の上にあるともされる(『山海経』海外東経)が、
その湯谷は太陽が昇る場所といわれる(湯谷は『堯典』の暘谷とも同じとされる)。
実は浜名氏も『山海経』を引用しつつ次のように述べている。
山海経
に曰
ふ・・十日の浴する所、湯谷の上に扶桑あり・・・云云、・・・
問題は 日が扶桑の上枝に登る前 必ず湯谷に浴すというに在る、・・・
蓋
し 浴は沐浴の浴にて ユアミの義であらう・・・浴払は禊祓の
義に取れる・・・契丹古伝に日祖が辰云珥素佐煩奈に澡したとあるのも、日が・・澡した
ことなれば、・・日の禊といふことが、東大古族神伝の一節と思へる。
それが山海経や淮南子の文藻に章なされたので・・・
(浜名寛祐『東大古族言語史鑑』p.312 黒字振り仮名は原文のもの、茶色の振り仮名は引用者による)
浜名氏はこのように契丹古伝との類似性について言及し、湯谷における太陽の禊は東大古族の
神伝が山海経などに採りいれられたものと解している。
このように羲和神話は契丹古伝冒頭の神話と深い関係がありそうである。
ところで上記湯谷の上にあるとされる扶桑は神樹であり、日々新しく再生する太陽がそこから
昇っていくと考えられている。
この桑の木は太陽の出入りする場所にある神木といえる訳だが、これに関連して
『山海経』の「羲和」の項目で注釈者の郭璞(3~4世紀の人で、『山海経』の最も権威ある注釈者とされる)が次のように注記している。
空桑之蒼々・・乃ち夫の羲和有り
空桑が青々とし、・・かの羲和がいる。
このように、扶桑樹に関連して「空桑」という概念も存在している。
この「空桑」は、他の伝説にも登場する語であって、殷の賢者伊尹が空桑の木の空洞から生まれた
とする話もある(後述)。
このようなことからすれば、桑樹は聖なる子が生まれる「子宮」的な意味を有していると
捉えることができる。
太陽が昇る場所として上述の湯谷・暘谷などの概念もあるが、これらも本来
太陽が生まれ出でる「穴」的な役割を持つものではないかと考えられる
(類似した表象が重複することは神話では特に不思議なことではない)。
(『山海経』大荒南経の郭璞注には 「夫の羲和の子有り、暘谷より出す
(かの羲和神の子がいて、暘谷より出すのだ)」とある。)注3-1
○太陽神の神話と洞穴
というのも、しばしば神話では太陽の誕生と洞穴とが関連するからである。
『出雲国風土記』によると、佐太大神(一般に太陽神と考えられている)は出雲の加賀の神埼の窟
(加賀の潜戸と呼ばれる海蝕洞穴)の中で生まれたとされる。
また沖縄の太陽信仰につき「琉球の王権とグスク(山川出版社)」等の著書でも知られる
歴史学者の安里進氏は
古琉球人は、太陽は久高島の東方彼方にある楽土(ニライカナイ)のテダが穴(太陽の穴)
から生まれると信じていました。
・・・・無限に再生をつづける不滅不死の太陽と琉球国王を重ね合わせ、国王を太陽神の
末裔、太陽の子とすることで王権を神聖化したのです。
とされ、王墓である「浦添ようどれ」について
「墓室は断崖に掘られた大きな洞窟で、太陽が生まれる テダが穴 だと考えられます。」
(安里進「ひと仕事終えて -第3回 -」http://yuinomachi.jp/essay009.html (『ビジネス・モールうらそえ』http://yuinomachi.jp内エッセイ 2007年)
([Wayback Machine版はこちら]) )
と書かれている。
このように洞窟は、聖なる太陽が生まれる子宮的な意味あいを感じさせる。
上記の祭祀・信仰においては、
「(一旦沈んだ太陽が)水面下で新たに誕生し、洞穴から上ってくる」というコンセプトが
根底にあるのではないかと考えられる。
それゆえ、復元できるイメージとしては半ば水没した洞窟の中で太陽が生まれ、
洞穴から昇っていくというようなものを想定すると分かりやすいのではないかと思われる。
この太陽が生まれる場所こそが、佐太大神の場合は大神の生まれる洞窟であり、
沖縄の場合はテダが穴(もしくはその向こうのニライカナイ)ということになるが、
これらが契丹古伝における日祖がスサナミコを出産する場所である辰云珥素佐煩奈に相当するものでは
ないかと考えることができる。
羲和女神が産んだ太陽を沐浴させる甘泉(甘淵)もそのような水中洞窟に相当する場所なのでは
ないだろうか。
羲和神話の場合、湯谷にしても扶桑樹・空桑にしても、そのような一種の子宮・胎内的なものと
関係していると見ることができるのである。
日本本土には、佐太大神の神話以外にも、洞窟の女神的な信仰は多く存在している。
必ずしも太陽神と関連付けられていない場合も多いが、祭神は変遷しうるから、
上記信仰と無関係とはいえないだろう。
田中勝也氏は次のように書かれている。
{佐太大神の母}が洞穴を射て光を得たことは、太陽の回復を意味する。
洞穴に太陽が住むという概念は、遠くペルシャに見出すところである。
フレーザーは古代ペルシャ人はミトラ神を太陽神として崇め、
これを洞穴の中で礼拝したという風習をローマの学者の報告として伝えている。
(田中勝也『古代史原論─契丹古伝と太陽女神』批評社 2012年 p.221)
ここでいうミトラ神は洞窟の岩から生まれたとされ、母親はないとされているが、
岩とは女神の母胎の変化した概念であるとの指摘はしばしばなされているところである。
とすると「洞窟で出産する女神」
は東アジアの枠を超えた域において共通の素地をもつ可能性も出てこよう。
以上のように、契丹古伝の始祖神話も、上述の各種太陽神話の世界に近い特徴を
持っていると考えられる。
このような意味で、契丹古伝の日祖・阿乃沄翅報云戞霊明も、田中勝也氏風にいえば
「原アマテラス」神として位置付けることができると考えられる。
日本人が、正月の朝に東の空を見つめて初日の出を待ち構えるのはテレビでさえ定番と
なっているおなじみの風景であるが、東の空の地平線のすぐ下が「太陽が生まれ出る洞穴」
のようなもので、そこから現れた新生太陽を拝するのが初日の出を拝むということである。
と捉えると分かりやすいかもしれない。
(なお、契丹古伝の始祖神話は、王権の始祖神話の一種である以上、創造神話の類と区別すべきと
いう意見もありそうであるが、それらの神話の根底には共通の概念が横たわっているという
ことは一般に首肯できることであり、田中勝也氏もそのように処理されていると拝察している。)
つづく
注3-1 暘谷より出すのだ・・・
湯谷・暘谷は、契丹古伝17章の東原の羊姑岣と関係する語でもある(浜名溯源p.425, 詳解p.139参照)。
(ちなみに太陽の沈む場所とされる昧谷は契丹古伝17章の西原の馬姑岣と関係。)
契丹古伝17章の羊姑岣は、太陽の昇るスポットそのものというよりは、それを含む
「暘谷地方」の様な意味に解するのが適当と考える(馬姑岣も「昧谷地方」と捉える)。
このような単語のつながりからも、羲和神話が契丹古伝の世界と何か関連する概念を含むと
推理することができる。(『書経』堯典に、4人の役人(羲仲・羲叔・和仲・和叔)が登場するが、
これが実は羲和神の変形した伝承であることや、そこに暘谷・昧谷等の語が登場することにも注意されたい。)
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2021.11.11
(c)東族古伝研究会